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金融政策の役割について

平成8年11月6日・内外情勢調査会における日本銀行総裁講演

1.はじめに

内外情勢調査会にお招き頂き、各界でご活躍の皆様にお話しする機会を得られ、たいへん光栄に存ずる。

本日は、始めに、最近の日本経済の動向に関する私どもの見方や当面の金融政策運営の考え方について申し上げた後、金融政策の運営を巡る基本的な論点 を幾つかとり上げてみたい。金融政策の目標である物価の安定とはどういう意味を持っているのか、それを達成するうえで留意すべき点は何か、といった論点である。

ご承知のとおり、わが国の中央銀行制度の見直しに関しては、本年に入って、盛んに議論が行われるようになり、総理のもとに設けられた中央銀行研究会では、近々報告書が取りまとめられる予定と聞いている。私自身、これまで幾つかの機会に、この問題に関する基本的な論点をとり上げてきた。民主主義のなかで中央銀行の独立性をどう位置付けるのか、金融システムの安定を守るために中央銀行はどういう役割を果たすべきか、といったことである(注) 。ただ、これまでは、主に、中央銀行制度の基本的な枠組みに焦点を当ててきたため、金融政策運営そのものについて、まとめて、私どもの考え方をお話しする機会がなかった。

これが、本日、金融政策をテーマに選んだ理由である。また、そのほかに、もう一つ理由がある。ここ10年ほどの間、先進国の間では共通して、金融政策や財政運営、もう少し広くいえば、一国の経済政策の運営について、新たな考え方が確立してきているように窺われる。近年、各国で、金融政策や中央銀行制度に関する議論が活発に行われてきたのも、ひとつには、そうした潮流を受けてのものである。そしてこのことは、今後の日本経済の仕組みを考えるうえでも、たいへん重要なポイントであると思われる。そこで、本日は、こうした経済政策運営に関する新しい考え方も踏まえながら、金融政策の役割について考えることとしたい。

2.国内経済情勢と当面の金融政策運営

国内経済情勢

それでは、まず、国内経済情勢から話を始めたい。振返ってみると、昨年の日本経済は、何とか始まっていた回復の動きが、春先以降、足踏み状態に陥り、一時、デフレ・スパイラルさえ懸念される状況となった。このような経済の動向に対応して、金融・財政面から大規模な政策が発動された。そうした政策効果の浸透や、この間の円高修正の動きを背景に、本年に入って、景気は再び回復傾向を取戻すことができた訳である。私どもでは、現在、「景気は緩やかな回復を続けている」と判断しているが、問題は、1年近くにわたって、景気判断から「緩やかな」という形容詞がとれない状態が続いているのはなぜか、ということであろう。

一言でいえば、この背景には、回復を促す力といわゆる構造調整圧力とのせめぎ合いという構図がある。そこで、今後の経済を展望するためには、この両者の力がどのように働いているのか、整理しておくことが必要である。

前者については、まず、これまでの政策効果の浸透ということが挙げられる。例えば、住宅投資や設備投資の回復に、金利の低下が大きく寄与していることは間違いない。この間、財政支出も、総需要の下支えに効果を発揮してきた。しかし、回復を促している力は、政策的な後押しだけにとどまっている訳ではない。政策効果により景気が回復に転じるなかで、企業の収益が改善し、それに応じて設備投資態度や雇用態度が前向きになるという動きも、徐々に拡がり始めている。このため、昨年懸念されたデフレ・スパイラルの危険はほぼ払拭されている。こうした点からみれば、この1年間、国内民間需要を軸とする経済の循環的な力は、ゆっくりと、しかし着実に働いてきているといってよいと思う。

しかし、その一方で、景気の回復力を制約する力もなお根強く働いている。例えば、設備投資は、資本ストックの調整が進捗し、回復傾向を続けているが、過去の回復期にみられたような本格的な勢いは、まだついていない。ここには、企業が、収益の改善にもかかわらず、借金の返済、つまりバランスシートの建て直しを優先しているとか、あるいは、設備投資を償却の範囲内に抑えているという事情が響いている。

また、アジア諸国との競争激化という国際環境の変化も、わが国の経済に様々な影響を及ぼしている。例えば、アジアからの低価格品の流入は、競合製品を生産している企業に対し、厳しい影響を与えることになる。また、工場の海外進出の動きが進むと、進出企業の国内設備投資がその分減少するだけでなく、親企業からの受注減少に伴って、下請企業の投資も抑制されることになろう。企業経営者の方々の間で先行き不透明感が払拭できないのも、こうした状況のもとで、新しい産業構造への転換の道がなかなかみえてこないことが、その背景にあるように思われる。

構造調整圧力の評価

このように、現在の日本経済は、バランスシートの調整とアジア諸国との競争激化に伴う産業構造の再編という、2つの調整圧力に直面しており、これが景気回復の足取りを重くしている原因となっている。

ただ、一言で調整圧力といっても、この両者はだいぶ異なる性格を持っているように思われる。

まず、バランスシート調整とは、バブル期に積み上がった負債をどう縮小・整理していくか、という問題であり、その限りでは、過去のマイナスの遺産の処理という、残念ながら後ろ向きの性格が強い。

この問題を処理するうえでは、企業の自己資本を充実するために資本市場の機能を活用するとか、保有不動産を流動化するために不動産市場の活性化を促すなど、様々な工夫も必要となる。しかし、つまるところ、不動産の値下がり損を償却し、積み上がった借入金を減らすための原資は、収益の増加に求めるしかない。過去のマイナスの遺産は、毎年毎年生み出される経済活動の成果でもって、少しずつ吸収していかざるを得ない、ということである。

その意味では、逆説的に聞こえるかもしれないが、バランスシート調整を円滑に進めるうえでは、企業自身のリストラ努力と並行して、まず、経済活動を活発化させ、企業収益を回復させていくこと、つまり、景気の回復基調を維持することが大事な前提である。それゆえに、いったんバランスシート問題を抱えてしまった経済を回復させるためには、そうでない場合に比べ、より強力な政策面からの後押しが必要になる。私どもは、まさに、そうした観点も踏まえて、思い切った金融緩和を進めた訳である。

この結果、緩やかとはいえ景気は回復傾向を取戻し、企業収益は改善基調を続けている。これに伴い、バランスシートの建て直しも少しずつ進んでいる。例えば、債務の返済圧力という観点からみると、企業のキャッシュフローに対する長期債務の比率は、バブル時代に急上昇した後、一昨年以降、徐々にではあるが低下してきている。もちろん、個別の業種や企業によりばらつきはあるが、全体としては、企業のバランスシートは改善の段階に入ったということができる。

これに対して、新しい国際経済環境のもとでの産業構造の再編という課題は、そのプロセス自体に新たな経済発展の可能性を含んでいるという意味で、本来、前向きの課題である。

東アジア経済の供給力の増大と市場経済への参入は、日本経済にとって、一方で労働集約型産業に対する競争圧力の高まりをもたらすが、同時に、新たなマーケットやビジネスチャンスの拡大をも意味している。従って、新たな国際分業体制にうまく対応できれば、それは、長い目でみて、日本経済にとっても大きなメリットをもたらすはずである。

実際、少し目を凝らしてみると、そうした前向きの産業構造変革の芽はいろいろなところで育ってきているように思う。

例えば、日本の輸出入構造の変化をみてみると、10年ほど前までは、日本の輸入品目のベストファイブは燃料や原材料が占めていた。年によって異なるが、原油、木材、石油製品、石炭、天然ガス、といった顔ぶれである。ところが、昨年の輸入品目をみると、1位の原油は変わっていないが、2位以下は、事務用機器、電子部品、自動車、木材と大きく変化している。実際、日本の製品輸入比率は、この10年間で30%から60%に上昇している。もちろん、これだけであれば、まさに日本の得意としていた製造業関係で輸入品との競合が厳しくなったというだけである。しかし、注目すべきは、この間、輸出品目も大きな変化を遂げていることである。かつては、自動車のほか、船舶、テレビ・ラジオ類の家電製品などが日本の輸出の上位を占めていた。ところが、昨年の上位5品目をみると、1位の自動車は変わらないが、2位以下は、電子部品、事務用機器、自動車部品、科学・光学機器というように、耐久消費財に代わって資本財や部品が主役となっている姿がはっきりみてとれる。

このように、東アジアで労働集約的な耐久消費財産業が発達するにしたがって、日本では、そうした製品の輸出が減少する代わりに、資本財やその部品といった、より資本集約的で付加価値の高い製品の輸出が増加してきている。ここには、日本経済の高い適応能力、調整能力の一端が表われているといってよいのではないかと思う。

また、国内産業をみても、新たなリーディング産業が育つ兆しも現われ始めている。例えば、移動体通信の市場規模は3.5兆円に急成長し、その設備投資額も2兆円近くまで拡大している。ちなみに、2兆円といえば、自動車と鉄鋼の設備投資額の合計に相当する規模である。また、なかなか景気回復の足取りがしっかりしなかったこの3年間でも、電気機械、精密機械など、新たな国際分業の波をうまく捉えた産業、あるいは、素材業種でも、紙パルプ産業のように、情報化の流れに乗った産業は、80年代後半のブームの3年間に匹敵するか、それを上回る増益率を達成しているのである。

以上、産業界のご努力を応援する積りでやや明るい面を強調したが、話がそう単純でないことはいうまでもない。産業構造の転換期には、どうしても、明るい部分と暗い部分の差が際立つことになる。雇用面でのミスマッチの拡大といった問題も大きくなるし、中小企業には、相対的に調整の負担が重くのしかかっている。

しかし、振返ってみると、日本経済は、戦後何度も、こうした産業構造の転換、リーディング産業の交替という大きな変化をこなしてきた。その時々の経営者にとってみれば、将来に対する不透明感はやはり強かったであろうし、次の成長産業が何か、的確に予想できた人は決して多くなかったはずである。ただ、高度成長時代には、経済規模が急ピッチで拡大していたことが、調整のバッファーとして働いてくれた。今回の困難は、実は、産業構造の転換そのものというよりも、かつてのようにパイの増大というバッファーが期待できない、という事情に由来するように思われる。

現在、規制の緩和・撤廃などの構造政策の推進が急がれる理由はここに求められる。さきほど触れたような構造転換の芽を大きく育てていくためには、規制緩和により新しい投資機会を作り出すとともに、自由で創造的な企業活動を引出す必要がある。また、労働の移動や土地の取引をできるだけ円滑にすることも大事な課題である。

当面の展望と金融政策運営

以上、いわゆる構造調整の内容を整理してみた。

そこで、足許の国内経済情勢に立戻ると、今後、公共投資の減少が見込まれるもとで、そうした財政面からの下押し圧力をこなして、経済が自律的な回復軌道へしっかり移行していくためには、わが国経済の構造調整が進捗を続け、生産・所得・支出を巡る好循環が今一段の力強さを加えていくことが必要となる。この点、さきほど申し述べたように、構造調整圧力に対する企業の適応は、それなりに着実に進んできている。また、これまで景気回復の足を引張ってきたネット輸出は、このところ、減少テンポが鈍化している。さらに、春頃から続いてきた一部業種の在庫調整も、鉄鋼ではほぼ完了をみている。

これらを考えあわせると、今後、生産活動が一層活発なものとなり、民間需要を軸とする経済の循環メカニズムがさらに強まることは十分に期待できるとみられるが、この点はなお見極めが必要であろう。

以上のような情勢を踏まえて、私どもとしては、当面の金融政策の運営に当っては、これまで同様、景気回復の基盤をよりしっかりとすることに重点を置いて、情勢の展開を注意深く見守っていくことが適当と考えている。

また、繰返しになるが、思い切った規制の撤廃・緩和を含む構造政策を実施していくことが、重要である。新政権には、引続き、この面でも積極的なリーダーシップを期待したいと思う。

3.経済政策運営の新しい考え方と金融政策

さて、このところ、先進各国では、産業の競争力強化や市場基盤の整備など、いわゆる構造政策を重視する考え方がますます強くなっている。また、これに加えて、財政再建の推進や中央銀行制度の改革、さらにはより広く、一国の経済政策運営やその枠組みを見直そうとする動きが定着してきているように窺われる。

このような共通の傾向がみられるのは、近年における、世界経済の変化ということと無縁ではない。例えば、旧社会主義圏の崩壊により、政府管理型の経済に対する市場管理型経済の優位性、いいかえれば、集権的な経済管理に対する分権的な管理の優位性が明らかになった。また、それら諸国やアジア経済の市場経済への参入と工業化の進展は、先進国に対し、自国経済の競争力の強化を迫る背景となっている。

さらに、これまでのインフレやバブルなどの経済変動の経験や、そのもとでの財政赤字の累増といったことも、経済政策の基本的な考え方やその背後にある経済理論を改めて吟味する重要な契機となっている。ちなみに、本年は、ケインズ没後50年に当る。戦後、経済政策思想を基本的に規定したのは、様々な意味で、ケインズあるいはケインジアンの経済学と呼ばれる考え方であったが、最近では、その評価を巡って、改めて議論がなされているように窺われる。こうした点を踏まえ、現在、各国が経済政策に取組むに当って基本的なアプローチとしているものをみると、そこには、幾つか共通の考え方があることがわかる。

第1は、従来からの需要面のコントロールを重視する考え方とあわせ、経済の供給面の整備を重視する考え方が強まってきたことである。

これまでは、経済政策といえば、金融政策や財政政策により総需要を管理することに力点が置かれてきたように思う。

このこと自体は、現在でも、短期的な景気調整を考える際の中心的な考え方になっている。ただ、それと同時に、長期的に経済成長をもたらす原動力は、 やはり、企業の生産性向上の努力であるという認識が強まってきた。そのためには、技術導入の促進、あるいは、輸送や通信面でのインフラ整備など、経済の供給面を強化することが必要になる。

財政運営についても、その需要追加効果だけでなく、経済のインフラ整備に対する貢献という観点から、支出の内容がより重視されるようになっている。また、中長期的にみて、非効率的な支出を削減することによって、財政赤字を減らし、経済資源を民間でより効率的に使用するほうが望ましいとの考え方が強まっている。これも、このような問題意識の現われといってよい。

第2に、市場メカニズムの活用を重視する考え方である。第1の考え方との関係でいえば、生産性を向上させるうえで、市場メカニズムが経済の効率化や技術革新を促す力を十分利用していく方法といえる。

世界的な規制緩和、競争促進の流れが、まさに、こうした考え方に基づくものであることはいうまでもない。また、市場原理を活用できる分野は、産業の 活性化とか、金融資本市場の整備といったことだけにとどまらない。例えば、欧州では、ここしばらく高失業に悩んでいるが、この主な原因は、硬直的な労働市場にあるとの認識が強まってきた。従って、問題解決の処方箋としては、いかに労働市場を弾力化し、労働需給を効率的に調整するか、ということに力点が移っているのである。

第3は、人々の先行きに対する期待形成や、政策に対する信認という要素に配慮した政策運営を重視する考え方が強まっていることである。

例えば、財政政策の効果の出方は、財政支出の増加が、将来どのようなかたちでファイナンスされるのかという人々の見方によって、大きく異なる。欧米では、財政赤字のコントロールについて人々の信認が得られないと、好ましくない長期金利の上昇をもたらす危険がある、という認識が強くなっている。これも、財政再建が重要な課題とされている大きな理由である。

金融政策の効果についても、物価や金利に関する将来の期待形成の変化という要素が、大きな影響を与えるということが明らかになってきた。

なかには、人々がすべて合理的に将来を予想する限り、裁量的な経済政策は効果をもたない、という理論さえある。これはやや極端な例であるが、より一般的にいえば、期待形成に対する影響を無視して経済政策の有効性を議論することはできない、と考えられるようになってきた訳である。

以上3点を申し述べたが、このような最近の経済政策の考え方の変化は、当然のことながら、中央銀行制度や金融政策運営の基本的な考え方とも密接な関連を持ってくる。例えば、短期的な需要管理を行う場合も、常に物価安定という目標──これは、後程述べるように、市場メカニズムが円滑に働くための前提といえる訳だが、そうした中長期的な目標──との整合性を重視すること、また、独立性と説明責任を明確にし、金融政策に対する信認を強化することなどである。そこで、この点を念頭に置いて、本日の後半のテーマである金融政策運営を巡る基本的な問題について述べることとしたい。

4.金融政策運営の基本的考え方

物価安定と中央銀行

まず、金融政策の目的が、物価の安定にあるという点については、大方の合意が成立しているように思う。では、様々な経済政策の目標のうち、なぜ、物価の安定を金融政策に割り当てるのであろうか。

ここでいう物価の安定とは、必ずしも、個別の・・ものやサービスの値段、つまり個別品目の相対価格を安定させるということではない。むしろ、相対価格が需給に応じて変動することは、市場メカニズムのもっとも基本的な原理である。私どもが目指すのは、そうした個別の値段を総合してみた一般物価の安定ということである。一般物価が上昇すれば、つまりインフレが発生すれば、1万円で買える・・ものの量、すなわち1万円の価値が低下する。このように、一般物価とは、通貨価値の別の表現といってよい。従って、その安定が、金融システムの安定と並んで、通貨発行主体である中央銀行のもっとも根本的な使命であることはいうまでもない。

また、逆に、長い目でみると、一般物価の安定をもっともよく達成できるのは、中央銀行の金融政策である。確かに、短期的には、物価は様々な要因で動く。ある時には、原油価格などの海外市況が大きな影響を持つこともあるし、個別の・・ものの需給が一般物価を左右することもある。しかし、長期的にみれば、一般物価は、取引される・・ものやサービスの量と、お金の量との相対関係で決まってくると考えられる。しばしば、インフレーションが「貨幣的現象」であるといわれているのはこのためである。

このように、物価の安定という目標の達成に金融政策を割り当てることには、固有の根拠と必然性がある。中央銀行が物価の番人と呼ばれるのもこのためである。

なお、金融政策の目標との関係で地価や株価などの資産価格をどう位置付けるか、という問題があるが、資産価格については、通常の意味での物価として捉えることは、適当ではないと考えられる。例えば、土地は、日々の経済活動によって作り出されるものではない。また、地価の形成には、土地を使ってどのくらいの収益が上がるかという予想、つまり、将来の経済活動や物価に関する予想という要因が入ってきてしまう。このように、資産価格は、経済活動が日々生み出し国民が消費している・・ものやサービスの価格とは異なる性格を持っている。しかし、資産価格の大きな変動が、経済の大きな振幅と結び付いていることは、バブルの苦い経験からも明らかである。その意味で、中長期的に物価安定を達成するためには、資産価格の動向にも十分留意する必要がある、というのが私どもの考え方である。ここでいう「中長期的な物価安定」の内容については、後程、詳しく述べることとしたい。

物価安定の意義

次に、物価安定の持つ意義について考えてみたい。インフレやデフレが望ましくないということは、自明のように思われる。物価の大幅な変動は、通常、景気の過熱や不況を伴っているから、物価を安定させることは、景気を安定させることにもつながる。また、物価の変動は、所得や資産の分配を不公平にし、国民生活の安定を脅かすことになる。

しかし、こうしたことと並んで、是非ご理解頂きたいことは、一般物価の安定は、市場メカニズムがうまく働くための、もっとも重要な前提条件であるということである。さきほど述べたように、市場メカニズムは、相対価格の変動というシグナルを介して、生産や需要が調整されていく仕組みである。ところが、インフレやデフレが起きると、個別価格の変動から、こうしたシグナルを読み取ることは非常に難しくなり、価格メカニズムが正常に機能しなくなる。個別の値段の変化が、相対価格の変動によるものなのか、一般物価の変動によるものなのかがはっきりしなくなるからである。いわば、経済活動の物差しが伸び縮みしてしまい、物差しの役目を果たさなくなってしまう、という訳である。こうなると、企業が投資採算を見積もって将来の事業計画をつくったり、家計が貯蓄や消費の計画を立てるうえでも、大きな不確実性がもたらされ、経済の発展が阻害されることになる。

かつて、経済成長率を高めるためには、若干のインフレの方が望ましいとか、企業はインフレの方が元気になるといった論調があった。しかし、戦後の長い経験と、この間の経済理論の展開は、こうした考え方に真剣な反省を迫ることになった。マイルドインフレーションなるものは、結局、真正インフレに転ずることになる。また、インフレが定着してしまうと、企業活動の本当の成果が表面的な利益の増加に隠されてしまう。そうなれば、前向きの技術革新や生産性向上の努力が阻害される可能性が大きい。実際、やや長い目でみると、物価が安定している国の方が、成長率が高いという傾向が観察されるのもこのためである。

近年、このような観点から物価安定の意義を強調する考え方が増えているが、これは、まさしく、さきほど申し述べた供給重視や市場メカニズム重視の流れと軌を一にするものであることが、お分かり頂けると思う。

物価安定の内容と判断基準

それでは、物価が安定しているというのは、具体的にどのような状態を指すのであろうか。

この場合、まず、どの程度の物価上昇率を念頭に置くのか、という難しい問題がある。

物価が、経済活動の物差しであるという意味で、また、物価変動に伴う所得分配への悪影響を避けるという意味からも、概念的には、やはりゼロインフレ が望ましいといえる。物差しに歪みがないほうがよいことは申すまでもない。ただ、私が、「概念的には」という留保条件を付けたのには、幾つかの理由がある。例えば、実際の物価統計では、製品の品質や性能の向上分、あるいは売れ筋商品のウェイトの変化などを直ちに反映させることは難しい。この結果、統計技術上、バイアスが生じうるため、特定の物価指標でもってゼロインフレを目指すことは、望ましくないという議論がある。また、話がやや難しくなるが、物価や賃金の一部に下方硬直性、つまり、取引慣行や契約の問題から下がりにくい性格があるとすると、ゼロインフレを達成するためのコストがたいへん大きくなるという見方もある。

しかし、これまで述べたような物価安定の重要性からいえば、より実践的な判断基準としては、長い目でみて、その時々の物価安定の持続性はどうか、と いうことが大事である。物価という物差しは、現在の生産や消費だけでなく、将来に向けての経済行動、つまり設備投資や貯蓄など、経済発展の要となる経済活動の尺度でもあるからである。最近、物価安定の内容について、「企業や家計が将来の計画を立てるうえで、物価の変動を意識しないでよい状態」とする見方が増えているのも、こうした考え方に基づくものである。

たとえ、物価指数が一定期間落着いた状態を示したとしても、この間に経済が過熱し、物価の上昇圧力が高まるのであれば、中長期的な観点からみて、物価の安定は脅かされていることになる。さきほど、物価の安定が中長期的な目標と申し上げたのは、まさに、こういう物価安定の持続性を念頭においてのことである。

このように考えると、物価安定を実現するということは、景気や雇用に対する配慮と、決して矛盾するものではない。経済の過熱や後退を未然に防ぐということは、インフレもデフレも防止し、中長期的な物価安定の条件を整えることにつながるものである。また、その一方で、そうした中長期的な物価安定の実現が、持続的な成長を達成するうえでの前提条件であることは、さきほど申し述べたとおりである。

金融政策の特徴

次に、金融政策運営上留意すべき点について申し上げることとしたい。

まず、他の経済政策と異なる金融政策の特徴を2つ挙げたい。

第1は、金融政策は、市場的な手段で、市場を相手に政策効果を浸透させていく方法であり、その意味で、金融政策の効果は、中央銀行の行動に対する市場の反応に依存しているということである。この点、法律や規制などの行政的方法で目的を達成しようとする政府の政策とは、性格が大きく異なっている。具体的には、金融政策は、日々の銀行業務、つまり、債券や手形の売買を通じて、金融市場の資金の需給状態に影響を与える。その際の出発点は、現金や準備預金の卸売市場ともいうべき、短期金融市場の金利、やや専門的になるが、インターバンク市場のオーバーナイト金利である。この金利の変化は、市場の裁定メカニズムを通じて、その他の短期の金利やより長めの債券の金利に及び、さらに、銀行の預金金利や貸出金利に及んでいく訳である。そして、そうした金利体系の変化全体が、企業や家計の経済活動に影響を与えることとなる。このような市場メカニズムを通じる手法は、金利自由化が完了した現在、まさに、金融市場や経済のすみずみまで政策効果を浸透させるうえで、もっとも有効な方法である。ただ、そのためには、金融政策に対する国民や市場の信認を確保することが、決定的に重要な条件になる。中央銀行の政策意図が十分理解され、信頼されなければ、金利誘導の効果が十分浸透しないし、無用な憶測や情報により、市場金利が政策意図から離れて変動してしまう可能性があるからである。

第2の特徴は、金融政策の効果が実現するには、かなりの時間がかかる、つまり、政策効果の浸透には長いラグを伴うということである。

金利の変化が経済活動に影響を及ぼす経路は大変複雑である。例えば、これから投資を行おうとしている企業にとっては、金利の変化が比較的短期間に影響を与え得るであろう。また、理論的には、金利の変化が、資産価格を引上げたり、押下げたりする効果も、速やかに浸透すると考えられている。

一方、金利の変化が、実際の企業収益や家計の所得に及んでいくには、かなりの期間を要する。例えば、借入れでも運用でも、その期間は短いものから長いものまで、様々な種類がある。金利の変更は、こうした様々な契約が期限を迎える毎に適用されていくから、実際に、新たな金利体系が浸透するまでには、相当の時間がかかる。また、企業利益や所得水準の変化は、企業や家計の投資マインドや消費マインドに徐々に影響を及ぼし、ある程度の時間をおいて、投資や消費についての新たな意思決定が行われることになる。さらに、それが実際の支出に結びつくまでにも時間がかかる。

これまでも、物価の安定を確保するためには、早目早目の機動的な対応が必要だといわれてきた。その理由は、先ほど述べたように、物価安定という目標が、そもそも中長期的に達成されるべきであるうえに、しかも、政策効果の浸透には長いラグを伴うためである。近年、こうした認識が強まるにつれ、金融政策の運営面では、その時々の経済のもつ潜在的なリスクを評価する努力が強調されるようになってきている。これも、機動的な対応を行うための努力ということができる。

金融政策運営の留意点

このように、金融政策に求められる条件は、「市場からの信認の確保」と、「早目早目の対応」ということである。しかし、この2つの条件を同時に満たすことは、大変難しい課題である。

機動的な対応を行うためには、単純に考えれば、1年先、2年先の経済や物価の状況を先読みして行動するということになるが、経済予測の難しさからして、それだけでは、市場の信認は得られない。しかし、大方の納得が得られるまで待っていては、早目の対応は不可能である。

こうしたジレンマをいかに克服するか、ということが、金融政策運営の最大の眼目であるといっても言い過ぎではない。

このために、これまで、各国の中央銀行は様々な手法を導入し、あるいは試してきた。例えば、かつて多くの中央銀行で、マネーサプライの伸びに目標値──すなわちターゲット──を設け、それを達成するように政策を運営するという方法が採用された。いわゆるマネーサプライ・ターゲティングという方法である。これは、マネーサプライの変動が、実体経済活動にラグをもって影響を及ぼすことに着目した考え方である。しかし、この手法については、金融技術革新の進展により、マネーサプライと経済活動の関係を読みとることが難しくなっているのではないかとか、この両者の関係は長期的には安定しているとしても、短期的にはフレることもあるのではないかといった点も指摘されている。このため、現在では、目標を設定するとしても、非常に厳格にその達成を図るというよりは、政策の大きなガイドラインとして活用する、あるいは、政策判断を行ううえでのもっとも重要な指標の1つとして重視する、という考え方が主流になっている。

なお、最近、インフレ率そのものに目標値を設定し、これを達成するような方法、つまりインフレ・ターゲティングを採用する中央銀行も現われている。この方法は、具体的な目標値へのコミットメントをあらかじめ明瞭にすることで、市場からの信認を確保しようとする手法ということができるが、ただ、そうした物価目標のもとで、具体的にどのような方法で機動的な対応を行うかは、別途考えなければならない課題である。実際に高い物価上昇率に直面してきた国では、こうした手法を通じて、これまで、インフレの抑制に大きな成功を収めてきた。しかし、高いインフレ率を引下げるために有効だった方法が、既に物価が安定した状況のもとで、それを長続きさせるうえでも有効かどうかは、必ずしも明らかでないように思われる。

このほか、最近、米国の学界の一部などからは、需給ギャップや期待インフレ率などの概念を使って、物価や経済変動の潜在的なリスクを評価し、これを 具体的な金融政策運営上の指針に結び付けようとする試みも提示されている。しかし結局、的確な情勢判断に基づき、最適の政策対応を図っていくために、これだけで十分というようなルールや、便利な方法をみつけ出すことは難しい。このため、私ども日本銀行は、これまで、何らかの厳格なターゲティング手法を採用したことは一度もなく、一貫して、経済情勢の総合判断ということを重視し、そのための調査・分析手法を磨くよう努めてきた。

最近では、バブルの発生と崩壊という苦い経験を踏まえ、何よりも、できるだけ長い目でみて、物価の安定とこれを通じて経済の安定を実現すること、そのために、経済の潜在的なリスクを評価することに重点を置いている。また、そうした私どもの判断を、詳しく説明し、理解して頂くための努力も重ねてきている積りである。

ちなみに、昨年の一連の金融緩和措置も、その狙いの一つは、まさしく、過度な物価下落の潜在的なリスク、すなわちデフレ・スパイラルに陥る懸念に対処したものであった。また、政策の内容や基本的な考え方を、これまで以上に明確に説明するよう努めた。市場金利の誘導方針の発表や、政策委員会の月報・年報の充実は、その一環である。

私どもとしては、引続き、理論・実証面での研究成果や海外の事例を参考にしながら、さきほど申し述べたような2つの要請、すなわち、「早目早目の対応」と「信認の確保」とを両立させていくための方法を磨いていく積りである。また、これまでの話から中央銀行が、中長期的にみた物価安定という目標を達成するために、その独立性を制度的に確保することが重要であることも、ご理解頂けたのではないかと思う。それと同時に、政策決定の透明性を一層高め、説明責任を果たす仕組みを整えることも、当然必要となってくるものと考えている。

5.おわりに

以上、いろいろ申し述べた。今後、わが国の中央銀行制度を巡る検討は、中央銀行研究会で報告書がとりまとめられた後、いよいよ、具体的な日銀法改正の作業に入ることになるものと思う。

本日申し述べたような、経済政策の広い枠組みの見直しという観点からみると、日銀法改正問題の重要性は、日銀の、あるいは金融の分野だけにとどまるものではないように思う。産業界が、新しい時代に向けての努力を重ねている現在、わが国の経済運営のあり方全般も、時代にふさわしい変革が必要とされている。日銀法の問題は、たまたま、最初の具体的なステップ、いわば試金石となることになった訳である。

これは、決して、始めから意図されたことではなかったかもしれないが、日銀法がまさに、戦時中に制定され、この50年間の体制を象徴するような法律の1つであることを考えると、いわば象徴的な意味合いというか、歴史的必然を感じる。わが国の中央銀行制度改革に対する、国際的な関心が強いのも、このためである。

また、いうまでもなく、中央銀行が、その使命を達成するためには、制度の整備だけでなく、それ以上に、私ども自身の責任と自覚ある政策・業務への取組み姿勢が一層重要になる。私どもとしては、この点を厳しく肝に銘じ、市場化、国際化の時代を迎え、付託された責務の遂行に全力をあげて参る所存である。皆様方のご支持とご理解をお願いして、私の話を終えることとしたい。

ご清聴に感謝する。

以上

  • (注)参考資料参照
  • 「最近の金融経済情勢と金融システムを巡る諸問題について」
     (8年4月3日、経済クラブにおける講演<日本銀行月報8年5月号>)
  • 「中央銀行の役割について」
     (8年6月14日、日本記者クラブにおける講演<日本銀行月報8年7月号>)