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新法下での日本銀行について

平成10年5月26日・日本外国特派員協会における藤原副総裁講演

1998年 5月29日
日本銀行

1.講演

 本来ならここで“ladies and gentlemen”と英語で話すべきだが、本来日本銀行の副総裁は、こういう日本の席では日本語で話をして正確な英語に直してもらうということになっているので、有能な通訳に全てを委ねたいと思う。

 私はいささか緊張している。というのは2か月前まで私は本来なら皆様の席に座って、ここに立っている人をからかったり、批判したりする立場であった。日本語ではこれを「攻守所を変える」と言うけれども、まさに私は今その攻められる立場にある訳である。

 私は2か月前に突然首相官邸から電話があって、日本銀行の副総裁にならないかというお話を受けたが、その時は本当にびっくりした。これも日本語に「寝耳に水」という言葉があるが、そのとおりである。というよりも分かり易く言えば、昨日松田聖子さんが結婚したけれども、日本の女の子だったらああいうのを見て「うっそー」と言う──「incredible」という意味かどうかは知らないが──私も最初この話が来た時は本当に「うっそー」と叫んだものだった。つまり“You are kidding”という訳である。それで、しかし嘘ではなくて本当の話だと分かってからは、私も真剣に2晩と3日にかけて「No、No、No」と言い続けた。しかし、最後に私はついに「Yes」と言ってしまった。

 日本では──これは世界中そうだと思うけれども──ジャーナリストは「無冠の帝王」と言われる。それから「生涯一ジャーナリスト」という言葉もある。私は時事通信で解説委員長を務めた後は、そのまま時事通信の一解説委員として残るか、更にフリーランサーになって「生涯一ジャーナリスト」として余生を送ろうと思っていたので、まさかこういう公的機関の仕事に就くとは夢にも思っていなかった。しかし、現実はこういうことになった訳である。それでこういう例は余り少ないと思うので、まず私のジャーナリスト体験から何故セントラルバンカーになったかということをお話しようと思う。

 私の友人や知人は、私のような者が日本銀行に入ったということで、「ああ、世も末だ」と言う人が多い。「世も末」だと言われると、私も考え込んでしまった。しかし、つらつら世の中を見るに、今の日本の社会システムはもう耐用年数が切れて制度疲労を来たし、一つのエポックが終わろうとしている。正に日本は今、「世は末」の状況にある訳である。世は末だと言うけれど、それは本当だ。この「末の世」と言われる日本の社会システムを新しい「世の始まり」にするために、これから皆で一生懸命考えていかなければいけない。もしかしたら私のようなアマチュアこそ、その新しい実験に何かお役に立つことができるのではないか、そういうような気持ちを抱いて最終的には引き受けた訳である。そういう次第で、新聞記者として堕落したという批判を私にくれる友人のジャーナリストが多かったのであるが、私は甘んじて堕落したという言葉を受けて、新聞記者としては堕落したかもしれないけれども、何か世の中のために一つやれることがあったらやりたい、そして、それをやってみよう——という決意を個人的には固めた訳である。

 私のような者が日本銀行の副総裁になった訳であるから、これからジャーナリストは──体制を批判する時は批判してもよいから──体制を立て直そうという分野に立ち至って、もっと日本では活躍すべきだと思う。例えばアメリカでは、ジャーナリズムからでも財界からでもどこからでも政府部門に入るし、その仕事が終わればまた社会に出て実業の道を歩んだり、色々する。そういう広い意味での労働市場の自由化がなされれば、日本はもっと良くなるのではないか、と思う。という訳で、皆さんの中からも総理大臣を志す人がどんどん出てきてほしいし、大蔵事務次官でも何でも、今の日本のシステムのチーフのポストに、ジャーナリズムだけでなくて、野にある人が政府や政治の場にどしどし入っていくべきだと私は考える。

 私はジャーナリストとして通信社に入って、最後まで通信社の記者だったが、私自身は通信社の記者をやって非常に良かったと思う。ご承知のとおり通信社というのは、working press(現場記者)の原点のような仕事である。緊急のニュースを正確にいち早く、速報するという仕事に若い頃は明け暮れしていたが、それから、ニュースストーリーを書くこともできたし、さらには個人的なエッセイも書くことができた。さらにはノンフィクションの本も書くことができた。その後インタビュアーとしての仕事も楽しんだし、テレビニュースのコメンテーターの仕事もした。つまり通信社の仕事というのが、あらゆるジャーナリズムの原点だという意味で、私は通信社の記者になって良かったと思うのである。

 それから、取材のジャンルであるが、私は先程ご紹介にあったように、大学時代は恋愛ものが多いフランス文学を専攻した。それで経済というのは本当に不得手であって、ケインズも知らなければマルクスも知らない。大体経済の基礎になる数学もできない。そういう者が、経済記者になった訳であるが、それも私にとっては非常にラッキーなことだったと思う。

 結局、人間の生活・社会の営み、つまり人間の営為のインフラが経済であって、そういうことについて、私は文学ばっかりやっていたのだが、「いや、人間生活の基礎は経済だ」ということを経済記者を長年やって学んだ。

 最初は大蔵省の記者クラブに配属されたのであるが、予算や金融・為替、そういった取材を通じて、経済と社会、経済と農業、経済と福祉、経済と外交、経済と人々の日常生活というふうに、経済を切り口にして人間生活を垣間見ることができた。それは私にとって非常なメリットだったと思う。

 大蔵省の記者クラブに入った時に、その時の大蔵大臣は田中角栄という人であった。ご承知のとおり、田中角栄という人は戦後の日本で非常にエポック・メイキングな人物で、高度成長の日本の経済の基礎を築いた人であった。田中角栄さんの次に大蔵大臣になったのは福田赳夫さんである——皆さんもご存じのとおりであると思うが——福田さんは、どちらかと言うと安定成長の哲学を説いた人であった。田中角栄さんと福田赳夫さんというのは非常に対照的な人であった。大蔵大臣としての田中角栄さんと福田赳夫さんを続けて取材したということは単なるバルザック的な人間観察の興味だけでなく、私は、「経済は魔物である」ということや、「経済は人間生活のために非常に大事なもの。その経済の成長も大事だが安定も大事」ということも、同時に教わったのである。

 その後、海外の特派員としては、カナダのオタワとアメリカのワシントンD.C.に派遣されたが、その特派員経験も私には非常に貴重なものであった。まず、カナダに1年いたということは、非常に勉強になった。というのは、太平洋の向こうから日本を眺めることができた。高度成長を突っ走る日本というものを外から客観的に眺めることができた。同時に、隣の国のアメリカという大国を観察することができた。世界の大国で、ベトナム戦争にどっぷりとコミットしていた時期であったが、大国アメリカの経済が次第に衰えていく姿をみたことも非常に良い勉強になった。そして、そのアメリカの特派員になった時、まるで私が行くのを待ち構えていたかのように、日本経済とアメリカ経済は私の目の前で大衝突をした訳である。ワシントンD.C.における約4年間、日米繊維戦争から始まり、テレビ、自動車、鉄鋼、その他、ありとあらゆる経済摩擦が生じ、結局、1971年8月15日の「ニクソン・ショック」——通貨はフロート制に移行し、日本を無視してアメリカが中国と手を結ぶという、ポリティカルな意味でも経済の意味でも、その両面で日本にとってはショックといわれる日米関係の始まり——その目撃者、それを報道する立場にいたということは私にとっては非常に勉強になった。

 アメリカでの生活で、私が学んだことの一つは——その後いろんな人が言うようになったが——「世界の常識は日本の非常識、日本の常識は世界の非常識」ということであった。私も日本人としては、平均的な愛国者であるから、自分の国のことを考えない訳ではないが、世界の中で日本を見た場合、特に日本は高度成長で成長し過ぎ、世界のあらゆるマーケットに進出し、そこで方々で摩擦を起こしている。日本はもっと市場をオープンにしなければいけないと、私は思うようになったのであるが、どうしてもその間、世界のマーケットと日本の間では食い違いが生ずる。日本という国——社会システム——は、「世界という世間をまだ知らないのではないか」ということに思い立って、それから、私は単に祖国のことだけを考える愛国者ではなく、「世界の中での日本」という意味での愛国者になったように思う。

 もう一つは、ホワイト・ハウスの記者クラブのUPI通信のキャップでピューリッツァ賞を受賞したメリマン・スミスという記者——今のヘレン・トーマスさんの前任者であるが——その方から、「通信社の記者は単に速いニュースを書くだけではない。一つの包丁で何でも料理するような記者にならなければならない」と個人的に色々と教えられたことであった。

 それらの教訓を得て、私は日本に帰国しすぐ日本銀行の記者クラブに詰めるようになった。

 他の記者クラブにも詰めたが、日本銀行の記者クラブが一番長いお勤めであった。丁度、森永貞一郎さんという元大蔵事務次官が日本銀行の総裁で、副総裁は日本銀行の生え抜きの国際派と言われる前川春雄さんであった。この森永・前川コンビは、「開かれた日銀」ということをスローガンに掲げて、日本銀行をもっとオープンにすべきだというキャンペーンを張っていた。

 その頃、私は米国から帰って来て、米国の習慣というか私の趣味で髭を伸ばしていたが、日本銀行では髭を伸ばしていた人などいなかった。すると、記者クラブの人間であったにもかかわらず、総裁自らから「あなた、その髭を剃った方が良い」としきりに言われた。私は「NoNo」と言い続けたが、そのうち4~5か月経つと、森永さんは「君、髭が似合うようになったよ、伸ばしてもいいよ」と言われた。何も総裁の許可を得る必要はないのだが、その時私が申し上げたのは、「森永さん、あなたは『開かれた日銀』と言いましたが、私の髭を認めるようになったということは、あなた自身が開かれた証拠ですね」ということであった。その時から、私は、「金融システムも開かれなければいけない」というふうに考えるようになった。

 私は今、その頃から起算して25年振りに日本銀行にいる訳であるが、その森永さんで一つ思い出したことがある。森永さんは日銀総裁時代に国庫の予算をつなぐためのFBと言われる政府短期証券の発行に関して次のように言っていた。「自分は大蔵省主計局長時代に、これを日銀に引き受けてもらうことを決めた。マーケットに売り出して、マーケット・メカニズムで値段を付けた方が良いという考え方もあったが、このFBを日銀に引き受けてもらうのが一番良いという結論を出したのは自分だ。しかし、今、日本銀行総裁として考えてみると、あの時の自分の考えは間違っていた。マーケットを自由化しなければいけないし、そういった BondNoteBillは全てマーケットで公募して、マーケットで自由に売り買いするようにしないといけない」と言っていた。

 25年振りに私が戻ってみると、まだそれは自由化されていなかった。今ここでつくづく思うのは日本のマーケットはもっと国際化しなければいけないということである。2~3日前、松永大蔵大臣がAPECで「円の国際化」ということを主張されたが、まだまだ日本の市場は自由化・国際化されていない面が多い。このFBの問題はその一つであるが、これからもっと日本の金融システムもオープンにしなければならないということを今つくづく実感として感じている。私のジャーナリストとしての個人的な体験の話はこれ位にする。

 私が日本銀行に入ることになったのは、実は、金融制度調査会という審議会の委員として、日本銀行法の改正作業に参加したことが直接的なきっかけであると思う。審議会では日本銀行はどうあるべきかということをさんざん議論したが、おおよそその時議論したとおりの姿に法律は改正され、今年の4月1日から(新たな)日本銀行がスタートした。つまり、「物価の安定」と「金融システムの安定」という二つの目的を遂行するために、「独立性」と「透明性」という理念を掲げた新生日本銀行である。私は就任早々の記者会見で、「政治からの独立」も「官庁からの独立」も必要だと言ったが、何よりも必要なのは「過去からの独立」であると痛感したので、そう申した。これまでの古い戦前の法律に基づいた日本銀行のあり方を、新しい21世紀を展望した姿に改めていくというのがこれからの私に課せられた使命であると思う。

 「透明性」ということでは、よく「アカウンタビリティ」という言葉が使われるが、経済ばかり考えている人は「アカウンタビリティ」と言われると、「アカウント」、「カリキュレーション」の方を考えるかもしれない。しかし、私のボスである速水総裁は——クリスチャンであるが——、「神様の前で、最後の審判の時に、自分はこういうことをしてきたということをアカウント・説明する。申し開きが何でもつくことが、『アカウンタビリティ』という言葉の本当の意味だ」というふうに説いている。数字上で合っているとか、数字をディスクローズするとかしないとかいったことも必要であるが、その数字の背後に潜む人間の良心、インテグリティー、つまり風格ある正しい経済の在り方を追及することが、マネーの世界で求められる「アカウンタビリティ」ではなかろうか。抽象的な話になったが、あとは質疑応答でお答えできるところがあればお答えしたいと思う。

2.質疑応答

(問) 今、「過去からの独立」、「アカウンタビリティ」という二つの大事な言葉を使ったが、日銀関連の事柄について、ニュースメーカーではなく、ニュースレポーターとしてのご意見を聞きたい。具体的には、日本銀行の人員数について食い違った数字が出ていたり、あるいはある給与水準の人数についても異なった数字が出ているが、どのように考えているか。それから、日曜日のテレビ番組で、日銀の収益の国庫納付に関する大蔵省との関係についての報道があったが、その点についてどのように考えているか。

(答) 私が日本銀行に入ったのは2か月前であり、勿論それ以前の過去のことは個人的には知らない。しかし、入ったら、色々な不幸な事件が起こっており、日銀の予算に関する疑惑もその一つだと思う。

 「過去からの独立」ということは、私だけでなく、今の日本銀行の人達も本当にそう考えており、実は色々な内部改革の作業が以前から行われていた。行われてはいたが、何しろ日本銀行は117年前にできたシステムであり、117年のオリとも言うべき色々な慣習が溜まっている。例えば、どこの会社にもその予算システムがあるように、日本銀行にもその予算システムがあって、それで運営してきた。しかし、それは古いものになった。それを直そう、直そうという努力を行ってきた。民間の市中銀行の動きも見て、「世の中はこう動いている、それに合わせなくてはいけない」という努力も行ってきた。しかし、その努力が結果的に足りなかったということは、ある程度数字にも表れていると思う。

 その数字に表れているというのは、その数字に仕掛けがあったという意味ではない。私は実は、日本銀行の副総裁になって、その翌日に、速水総裁に「コンプライアンス委員会の委員長になってくれ」と言われた。コンプライアンス委員会というのは、法律が守られているかどうかをチェックするのが仕事である。私はその委員長として、「数字を全て出すように」と命令し、担当の者も「待ってました」とばかりに出してきた。

 それが例えば、国会に提出した資料、大蔵省に提出した資料、自民党に提出した資料、民主党に提出した資料が違うという食い違いが国会では批判され、質問も受けた。実はそこが日本銀行の人が真面目で、数字に細か過ぎる悲しさであった。その一つ一つにはちゃんと定義があった訳である。こういう時点の、こういうものをカウントした場合の数字、カウントしない場合の数字——まるで数字は4つも5つもあるように世の中には見えたのであるが、真実は一つ、数字は一つである。

 その後、色々整理して纏めてみると、──定義に応じ、入れたり出したりした数字をくっつけてみると──ぱんっと一つに合った。それは手品でも何でもない。それは真実である。その数字を纏めて先日国会にも提出し、発表した。

 「給与を水増ししたという事実はない」と、私も断言できる。ただ、古い時点で新しい給与システムに改革する機会が何回かあったが、過去に遡れば、その時のやり方が時代に合わなかったりしたということがある。しかしそれは何か一つのことを隠すとか、それを誤魔化すといった作業ではない——そのことは全てアカウンタブルである。数字は日本銀行にあるので、いつでも提供可能である。

 私は、「銀行の銀行」と言われる中央銀行が少なくともそのような疑いを持たれたということについては、信用の根幹に関わる問題であると思う。そういうことで誤解を招いたということは、過去の改定作業がもしかしたら完全ではなかったかもしれないということであり、反省している。現在および最近では、銀行内の意識も随分変わって、積極的に数字を全てディスクローズし、オープンなものにするという意欲に燃えている。そういう意味で、私は「過去からの独立」というのが、だんだんこれから本物になっていくのではないかと考えている。

(問) 前回、日銀の方——総裁——がここに来た時、「不良債権問題がいつ片付くのか」と聞いたところ、答えは「そろそろ山を越えるのではないか」ということであった。それが94年4月のことであり、以来4年1か月経っており、当時の総裁が示唆したより少し時間がかかっているようであるが、——新生日銀はもっとオープンにというか、率直になるということで改めて聞くが——いつ頃不良債権問題は解決されるのか。

(答) 「山を越したらまた山があった」ということなのかもしれない——これは半分冗談であるが、半分冗談ではない。不良債権そのものがその後増えたということも言えるが、日本の金融機関は不良債権のディスクロージャーに慣れておらず、その不良債権でも、「本当にこれは回収することができない」という債権と「もしかしたら回収できる」債権がある——アメリカのSEC基準でみると、3か月以上の延滞債権とか色々な定義があったのであるが、日本の銀行はそれに慣れていないのと、それから「自分のところは安全だ」——「安全、つまり信用を得るためには、半分危ない──グレーゾーンの数字もできるだけディスクローズしたくないなあ」という気持ちがまだあったのかもしれない。しかし、そういうビヘイビアというか態度が許されない、本当に「透明性」が必要だということがだんだん分かってきたので、今度の全国銀行協会ベースではアメリカのSEC基準と同じ定義で不良債権の数字を出している。これがおそらく真の姿であって、不良債権の額については、私はもう一つ山が向こうにあるとは思わない。

 次に、誰か日本銀行の人が来る時には、「やっぱり藤原の時が最後の山だったのだなあ」と言うのだと思う。冗談は抜きにして、しかし、そういう数字の公開も必要であるし、公開は殆ど今なされている。銀行はそれに従って償却の作業をどんどん進めている。進め過ぎるが余り、「貸し渋り」ということも起こる位であるが、——そういった問題が解決するまではこれからもう少し時間がかかるかもしれないが——、一つ一つ辛抱強く解決する努力を重ねていくべき時期であると思う。

 それで、全体の混乱というか危機の山が本当に越えるのはいつかということは、私どもがこの苦難を乗り越えて後から振り返って、山を改めて見直す時にその時期が訪れるのだと思う。

(問) 「透明性」に関してジャーナリストとして貢献できる三つの課題があるとすれば何か。よくマスコミでは日本銀行の社宅が色々と取り上げられているが、今の住まいは如何か。

(答) 一番易しい最後の質問から答えると、私の今の住まいは所謂、郊外にあるシャビーな公団住宅である——まだ住宅ローンが残っている。

 ジャーナリスト出身として何をやりたいか三つ挙げろという質問であるが、俄かに三つと言われてもちょっと困ってしまう。先程言ったコンプライアンス委員会の委員長をしているので、中央銀行としてのビヘイビアがちゃんと法律に適っているか、ルールに適っているか、世の中の常識に適っているか、そういうことをチェックしていくのが、まず私の使命だと思う。

 それから、二番目の私の使命は、——これが世間からドンキホーテと言われようが、パペットと言われようが、ピエロと言われようが——、日本銀行が世の中に開かれていることを世の中に伝え、一般、世の中の気持ちを日本銀行に伝える。それから、日本銀行は実は経済の動脈である血液の仕事をこんなにやっているのだということをもうちょっと皆様に理解してもらいたい——その双方向のコミュニケーションの架け橋になるのがもう一つの役割ではないかと思う。

 それから最後に、しかし最も重要なことだが、私も政策委員の9人のメンバーの一人であり、日本銀行の金利、公定歩合を決定する時には9分の1の投票の権利を持っている。私は日本経済のための——今、おそらくボトムにある状況からボトム・アウトするための——金融政策のために清き一票を投じていきたいと思う。

 質問するのには慣れているが、答えるのには不慣れで失礼した。

以上