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金融システム面の課題と当面の金融政策運営

平成10年 7月29日・読売国際経済懇話会における日本銀行総裁講演

1998年 7月29日
日本銀行

1.はじめに

 本日は、読売国際経済懇話会にお招きいただき、皆様方とお話しする機会を得られたことを、たいへんうれしく思います。私が4か月前に日本銀行総裁に就任して以来、初めての講演となりますので、本日は、日本銀行が直面している諸問題について、幅広くお話ししたいと思います。

 日本経済は、昨年後半以来、きわめて厳しい局面に直面してきました。昨年末には、11月における北海道拓殖銀行や山一證券等の経営破綻をきっかけに、預金者や投資家の間に心理的な動揺が生じました。これは、日本銀行による潤沢な資金の供給や、政府の様々なご努力もあって、比較的早期に落ち着きを取り戻しました。しかし、株価や市場金利が神経質な展開を示すなど、今なお、金融機関や企業の信用リスクに対する市場の警戒感には根強いものがあります。こうした状況のもとで、金融機関の融資姿勢は一段と慎重なものとなりました。この間、消費者マインドは急速な冷えこみをみせ、企業の設備投資も、中小企業を中心に、はっきりと減少に転じました。

 昨年春以来の景気の停滞は、消費税率引き上げなどの財政面からの影響やアジア通貨・経済情勢の混乱をきっかけとするものでしたが、こうした金融システムの動揺は、景気の落ち込みをさらに決定づける要因となったように思われます。

 このようなことを踏まえると、改めて、景気と金融システムの密接な連関を強く感じざるを得ません。それだけに、日本経済にとって、「金融システムの建て直し」と「景気の回復」の二つは、同時に達成していかなければならない、当面の最大の課題といえます。

 こうした実体経済と金融面との関り合いの深さを念頭に置きながら、以下では、わが国金融システム面の課題と当面の金融政策運営について、私どもの見方や考え方について申し述べたいと思います。

2.金融システム面での問題

不良債権問題と日本経済

 まず、金融システム面の課題についてお話しします。

 日本経済の動向を改めて振返ってみると、確かに、昨年直面した各種のショックは、それぞれに大きなものがありました。しかし、それ以前において、景気の回復がかなり明確になってきていたこと——すなわち95、96年度の成長率はそれぞれ2.8%、3.2%に達し、とくに96暦年の成長率は3.9%とG7諸国の中で最も高かったこと—— を踏まえると、97年度に入ってからの景気の崩れ方は、あまりにも、もろいものであったとの印象が拭えません。

 昨年度からのこうした景気展開は、それまでの回復が強い追い風に助けられたものにすぎず、自律的な回復力はなお脆弱なものにとどまっていたことを、改めて明確にしたものであるように思われます。96年初め頃からの景気の回復は、アジア地域を含めて世界経済全体が順調な拡大を続けたことや、為替相場が円安傾向を辿ったこと、さらには国内において情報関連需要が急増したことなど、いくつかの恵まれた条件に支えられていました。当時、日本銀行自身、この景気回復がどこまで自律性、持続性を有するものかについて確信を得ることができず、むしろこれらの条件が剥落した場合のダウンサイド・リスクを強く意識して、95年9月以来の思い切った金融緩和基調を継続しておりました。

 このように、表面上は景気が回復を続けつつも、民間経済の真の力が強まらなかった基本的な背景には、やはり日本経済の直面する構造調整圧力の大きさがあります。そして、その中心に位置していたのが、金融機関や企業のバランスシート調整圧力でありました。

 バブル期に、国内企業の一部は、銀行借入や社債発行を増やして、巨額の不動産投資などを行ないました。その後、バブルの崩壊とともに不動産価格が下落し、資産の大きな目減りが生じました。しかし、銀行借入や社債はそのまま残っていますので、バランスシート上は、資産と負債の間に大きなギャップが生まれました。金融機関も、これと同じように、企業に対する貸出の一部が不良債権化した結果、バランスシート上のギャップが生じました。これがバランスシートの調整圧力と呼ばれるものであり、企業や金融機関の実質的な自己資本は、その分大きく目減りしたことになります。

 こうした問題を抱えてしまった企業や金融機関では、自己資本が減ったために、リスクへの耐久力が低下し、新たな事業展開や融資活動を行ないにくくなります。通常であれば、企業は収益が拡大すると、それを梃子に設備投資などを行ない、それが再び収益率を押し上げるといった好循環を期待できます。しかしバランスシート問題を抱えた企業では、収益があがっても、まず借入金を返済し、不良資産の償却に充てることになります。金融機関においても、積極的な融資活動は難しくなります。このため、バランスシート問題を抱えた経済は、不良資産の処理が完了するまでの期間、自律的な活力がなかなか生まれてこないことになります。

 経済の健全な発展のためには、民間部門による一定のリスクテイクが欠かせません。そうした健全なリスクテイクが行われるためには、まず、不良債権問題を克服し、バランスシートの健全性を回復させていくことが、どうしても必要ということです。

 そして、そうしたリスクテイクの場という観点からみて、金融・資本市場の機能を向上させることが、きわめて重要な意味をもっています。金融・資本市場の本来の機能は、貯蓄・投資活動を仲介することによって、経済のなかに潜在するリスクを、投資家や企業、家計の間で円滑に分担させることにあります。もし、そうした機能がうまく発揮されなければ、折角、有望なビジネス・チャンスがあっても、資金や資本の調達がうまくいかず、事業を興せないということになります。したがって、経済全体として必要なリスクテイクが行われるためには、直接金融市場の拡大といった点も含めて、わが国の金融・資本市場が、多様な商品やサービスを投資家や資金調達者に提供するという機能を、十分に備えていくことが必要です。金融ビッグバンは、そうした市場を育てていくために不可欠な、競争的な枠組みを用意するものですが、その狙いどおりに市場機能が発揮されるためにも、まずもって、市場の担い手である金融機関の不良債権問題を早期に解決しておくことが不可欠となるわけです。

不良債権早期処理のためのポイント

 そこで、次に、わが国金融機関の不良債権処理を巡る現況を申し述べます。

 今月初めに政府・与党において「金融再生トータルプラン」がとりまとめられるなど、処理のための枠組みづくりへの動きは、一段と本格化してきています。私としては、新政権が早期に固まり、一刻も早く、金融システムの建て直しに向けてリーダーシップを発揮され、「金融再生トータルプラン」に盛り込まれた諸施策の実現を図っていただけるよう願っております。また、今後はそうした仕組みを最大限に活用しながら、実際の処理を早急に進めていくことが課題となります。その際、私がとくに重要と考えているポイントを、3点ほど述べたいと思います。

 まず第1に、不良債権処理を進めていくための重要な前提条件として、情報開示を徹底することです。

 確かに、ここ数年で、金融機関の不良債権に関する情報開示はかなり拡充されてきました。98年3月期決算からは、米国SEC基準並みの情報開示も開始されました。しかし、残念ながら、内外の市場では、開示の対象となっていない資産の中にも、不良債権に近い資産が少なくないのではないか、といった厳しい見方をする向きが少なからずあることも事実です。この点、金融監督庁が先々週公表した、本年3月時点における不良債権関連の計数を実際にみてみると、「リスク管理債権」、すなわち米国SEC並みの統一基準による公表不良債権額は、全国銀行ベースで29.8兆円となっております。これに対して、各金融機関が適正な償却・引当てを行うための自己査定額をみると、やはり全国銀行ベースで、「第3分類:回収に重大な懸念のある債権」は6.1兆円、「第2分類:個別にリスク管理を要する債権」は65.8兆円となっております。もちろん、第2分類の中には、各金融機関がしっかり管理していけば損失が発生しない債権が多数含まれており、これを、ひとくくりに不良債権として捉えるのは適当ではありません。例えば、これらの中には、景気循環のある局面の中で、たまたまリスク管理に注意を要すると見ざるを得ない企業に対する貸付も入っています。こうした貸付は、一旦景気が回復すればその企業の業績が立ち直り、振り返ってみれば金融機関にとって収益の源泉となるような場合も多いものです。

 ただ、いずれにしても、多額にのぼる自己査定額の実像がはっきりみえていないことが、市場が不安感を抱く一因でもあるように思われます。市場からの信認が得られないというのは、信用を旨とする金融機関にとっては基本的な欠陥であり、そういう状態がバブル崩壊から7年経ってもなかなか改まらないという点に、私としては非常に歯がゆい思いを禁じ得ません。個々の金融機関が、市場の信認を回復するための努力を、できることから速やかに行っていくことが不可欠です。

 そこで、私は、先般、自己査定の内容を自主的に開示することをひとつの選択肢としつつ、情報開示を拡充することが望ましいということを申し述べました。この問題については、基準が曖昧な第2分類の一律的な開示はかえって市場の誤解を招くといった理由等から、消極的な反応があります。ただ、私が申し上げた趣旨は、何が何でも第2分類を開示せよという形式論ではなく、要は、市場の判断に役立つ有益な情報を、各行の創意工夫によって、市場の信認が得られる形で開示していくのが大切だということであります。個々の金融機関が認識しているリスクの大きさと、それに対する処理が適切に行われているということを、積極的に市場に示し、説得的な説明を行っていくことが、個々の金融機関にとってはもとより、わが国金融システム全体に対する顧客や市場の信認を早期に回復していくうえで、きわめて重要と考えます。今や内外の市場が金融機関や企業の経営を判定する時代に入っています。そして、正しい情報が多く与えられれば与えられるほど、市場は安心して判断を下せるようになるということを決して忘れてはならないように思います。

 不良債権処理に関する第2のポイントは、可能な限り早期に、不良債権なり、担保不動産なりを売却し、バランスシートから切り離すことです。

 これは第1に申し上げた、情報開示の問題とも関連します。不良債権の評価は、いくら合理的な手法をとっても、ある程度の不確実性を前提としたものとならざるを得ません。担保不動産を実際に売却してみると、引当てを積んだ時点ではかなり固めに見積もっていても、その後の客観情勢の変化等により、なおそうした見積もりを下回る価格でしか売却できないということもありえます。したがって、金融機関のバランスシート情報をより信頼できるものとするためには、潜在的な損失はなるべく早期に顕在化させ、確定することが望ましいわけです。

 制度面でも、土地や債権の流動化を進めやすい環境づくりが、着実に進められています。金融再生トータルプランには、臨時不動産関係権利調整委員会の創設、不動産の適正評価手続き(デュー・デリジェンス)の確立、サービサー制度の創設など、土地や債権の流動化に資するための重要な施策が多数盛り込まれています。こうした新しい枠組みを利用しながら、不良債権がバランスシートから切り離されていくと、その金融機関の実力や適正な市場価値について、より確からしい判断がおのずと可能になり、次のステップである新たな経営戦略が、描きやすくなるものと考えられます。

 第3のポイントは、そうした不良債権の処理の過程を、混乱や副作用を引き起こさずに円滑に進めていくために、公的資金をうまく活用することです。

 まず大切なことは、破綻金融機関の預金者を保護することです。本年2月に成立したいわゆる金融2法によって、最大30兆円の公的資金が用意されましたが、このうち預金保険機構の特例業務勘定に対して投入可能な17兆円が、預金者保護の徹底のために用いられます。

 一方、残りの13兆円は、預金保険機構の金融危機管理勘定に対して投入可能な資金であり、金融機関の自己資本充実のために用いられます。このうち、すでに3月末において、金融機関21行に対して合計1.8兆円が、金融危機管理審査委員会の審査を経て投入されました。また、金融再生トータルプランでは、破綻金融機関の健全な借り手に対する融資を継続するための仕組みとして、公的ブリッジバンクの設立が想定されています。そして、その持ち株会社に当る平成金融再生機構を設立するための原資として、只今述べた13兆円の一部が活用されることになっております。このほかにも、たとえば、不良債権の抜本処理を進めた結果として過少資本に陥った場合や、そうした先が他の金融機関と合併するような場合に、極端な融資能力の低下から借り手に対して悪影響が及ぶのを防ぐ観点などから、この資金を活用していけるのではないかと思います。もちろん、公的資金を投入する際には、モラルハザードを避けることが必要であり、当該金融機関には、責任のある説明や対応が求められます。そうした議論を深めながら、不良債権処理のプロセスがさらに加速し、金融仲介機能の回復が逸早く図られるよう、強く期待する次第です。

日本銀行の役割

 さて、以上述べた不良債権処理の過程では、日本銀行としても、中央銀行の立場から、最大限の貢献を果たしていく考えです。

 私ども日本銀行の第1の役割は、金融市場における決済に支障が生じることのないよう、適切な資金の供給に努めるなどして、金融システムの安定を確保することです。

 たとえば、これまでの金融機関の破綻にあっては、万一にも預金払い出し等に支障の生じることのないよう、必要に応じて、新日銀法第38条——旧日銀法では第25条——に基づく、無担保の貸出、いわゆる「特融」を実行してきました。現在、第38条に基づく貸出は、約2兆7千億円に達しております。

 また、金融機関の信用リスクに対して市場の不安心理が高まり、金利に対する上昇圧力が高まるような場合には、市場に対して思い切った資金供給を行なってきました。昨年末や本年6月のように、市場の緊張がとくに高まった場面では、日本銀行による資金の供給額は、準備預金制度上必要とする一日当り平均金額を3~4兆円も上回る規模に達しました。

 このように、円滑な預金の払い出しや資金取引の決済が確保されることによって、はじめて、預金者や市場の不安心理が取り除かれ、金融システムは安定に向かうことになります。日本銀行は、決済システムの円滑な運行に責任を負う立場から、まさしく、こうした役割を担ってきたところであり、今後ともそうした面から不測の事態が生じることのないよう、最大限の努力を払っていく考えです。

 また、さきほど述べた最大30兆円の公的資金の導入に関連して、日本銀行は、政府の信用保証のもとで、民間金融機関による貸付や預金保険機構の債券発行と合わせて、最大20兆円まで預金保険機構に対して流動性を供与しうることとなっており、既に貸出を実施しております。日本銀行の資金は、金融機関の損失の穴埋めに充てられることがあってはならず、あくまで一時的な流動性の供給に限定されるべきものですが、そうした枠組みのもとで、金融システムの安定に努力を払ってきている次第です。

 日本銀行の第2の役割は、金融機関に対する考査の実施です。日本銀行による考査は、金融機関との個別契約に基づき実施されるものですが、新しい日銀法のもとでは、これが法制度上も明定されました。

 さきほど述べたように、現在、金融機関は、不良債権問題に対処するため、適切な自己査定に基づく償却・引当てと自主的な情報開示を求められています。その際、そうした情報の客観性を高め、市場からの信認がより得やすくなるようにしていくことも重要です。こうした観点から、主要19行に対して、金融監督庁と日本銀行が連携し、集中的な検査・考査を実施していく考えです。

 第3は、やや異なる視点に立つものですが、金融機関の融資姿勢の慎重化といった事態に対応して、企業金融の円滑化のために、可能な貢献を果たしていくことです。すでに述べたように、金融機関の融資姿勢が慎重化している背景は、不良債権の発生により実質自己資本が大きく目減りしたことにあります。そうした意味では、融資姿勢を緩和するための基本的な筋道は、経営の効率化を促しつつ、金融機関の自己資本を強化するということになります。この点は、公的資金の活用がひとつの選択肢となっており、日本銀行もそのための流動性供与について側面から支援していることは、只今申し述べたとおりです。

 ただ、それにとどまらず、私どもでは、金融調節面から、企業の資金調達の円滑化に資する措置も採ってまいりました。昨年秋には、一部金融機関の破綻をきっかけに、市場の不安感が強まり、CP市場も一時機能を停止するといった事態が生じました。これに対して、日本銀行は、CP買いオペを大幅に拡充し、市場の機能回復を図ることによって、企業のCP発行による資金調達を側面から支えてきました。

 CPは確かに大企業の発行のものが多いわけですが、日本銀行がCP買いオペを増額すれば、CP市場の活性化を通じて大企業の借入がCP発行にシフトし、金融機関の融資枠にも余裕がでてくると考えられます。その結果、中小企業向け融資にも間接的に好影響が及ぶものと考えている次第です。

 このように、日本銀行の金融調節には、金融市場の活性化に影響を与えるという側面もあります。私どもとしては、今後、企業金融が期末に向けた季節的な繁忙期に入ってくることを念頭に置きながら、CPオペの弾力的な活用を含め、きめ細かい金融調節を心がけていきたいと考えております。

 このほか、金融調節の手法という面で、金融技術革新の進展等に対応して、オペやその担保のあり方に関し不断の見直しを行っていくことも大事な課題です。例えば、昨年は、レポ市場を対象としたオペレーションを開始いたしました。この秋には、ABS(アセットバック・セキュリティーズ)、ABCP(アセットバックCP)の発行促進に向けた環境整備として、SPC(特定目的会社)関連法の施行が予定されています。こうした金融取引の変化・多様化に対応して、金融調節手法の見直しを行っていくことは、金融調節自体の高度化に不可欠であると同時に、金融市場の整備・育成、ひいては企業金融の円滑化にも資するものであります。

 企業金融に関する日本銀行の対応としては、以上申し述べましたように、短期的な対応と、中長期的な検討を要するものとがありますが、日本銀行としては、こうした両面の取り組みを通じて、金融市場の機能向上に貢献してまいりたいと考えております。

3.当面の金融政策運営について

日本経済の現状

 以上、金融システムの信認回復に向けて、不良債権の早期処理のためのポイントや日本銀行の役割を述べてきました。これと同時に、不良債権処理を円滑に進めていくための環境としては、やはり経済そのものの安定も不可欠な要素となります。景気がさらに悪化すれば、企業のキャッシュフローがますます減少することや、不動産価格がさらに下落することなどを通じて、新規の不良債権が発生する可能性が高まります。冒頭に、景気と金融システムは密接に連関していると述べましたが、金融システムの脆弱さが景気の足を引っ張っるだけでなく、景気の悪化が不良債権処理を遅らせる面も見逃せない点です。

 そこで最近の日本経済ですが、現在は、個人消費や設備投資などの最終需要の弱まりが、生産、企業収益、さらには雇用・所得へと明確に波及している段階にあります。鉱工業生産は、在庫調整が続いており、この4~6月まで3四半期連続で減少となりました。7~9月についても、産業界からのヒアリング等から得られている感触では、引き続き減少する可能性が高い情勢にあります。こうした生産活動の減退は、物価が軟調に推移していることとも相俟って、企業収益を厳しいものとしています。雇用面での調整圧力も、中小企業を中心に急速に強まってきており、完全失業率は、1953年の統計開始以来、最悪の水準まで上昇してきています。

 このように、生産、所得、支出を巡る循環は、現在マイナスに働いています。こうした情勢を踏まえると、仮に何の政策対応も打たれていなければ、日本経済は、需給ギャップのさらなる拡大が、物価の下落を伴いながら企業収益をさらに減少させるという悪循環——すなわちデフレ・スパイラル——に陥る可能性も小さくなかったように思います。

 しかし、4月に、政府から、総事業規模16兆円を上回る総合経済対策が打ち出され、それを実現するための98年度補正予算がすでに執行の段階に入っています。また、金融システム面でも、さきほど述べたように、本年2月には、最大30兆円規模の公的資金投入を伴う金融システム安定化策が策定されたほか、今月初めには、政府・与党により金融再生トータルプランがとりまとめられました。総合経済対策に含まれている特別減税や公共投資の効果は、今後、本年後半にかけて顕在化してくると考えられますので、経済がデフレ・スパイラルに向かっていくリスクは、少なくとも当面は回避できるものと見込まれます。しかし、経済活動の水準が既に相当程度低下していることを踏まえると、民間需要への波及は限定されたものとならざるを得ず、速やかに自律的な回復につながっていくとは考えにくいように思います。その意味で、現在は、デフレ・スパイラルはとりあえず回避しうるものの、総合経済対策の効果が一巡したあとの経済の姿については、なおかなりの不確実性が残るといった段階にあると判断しております。

当面の金融政策運営

 以上のような経済情勢のもとで、昨日開催した日本銀行政策委員会・金融政策決定会合では、当面の金融政策運営方針について、引続き現状維持とすることを決定しました。会合における討議の詳しい内容は、議事要旨に譲ることとして、会合での大勢意見を要約すると、(1)先行き政府の総合経済対策の効果によって、経済がデフレ・スパイラルに陥るリスクは差し当たり回避されるという経済情勢の判断のもとで、(2)既にきわめて低い水準にある金利をさらに引き下げるよりは、現在の金融緩和基調を維持しながら、(3)総合経済対策の効果がどのように現れてくるか、また、金融システム建て直しに関する諸施策や税制改革を巡る論議の進展等が、企業や家計のコンフィデンスにどのように影響していくかなどを注意深く見極めていく、ということになるかと思います。

 ところで、日本銀行は、95年9月以来、公定歩合を史上最低の0.5%に据え置き、オーバーナイトの無担保コールレートを、これをやや下回る水準で推移するよう促すという金融調節を、すでに3年近くも続けてきております。こうした「超低金利政策」のもとでは、金利をさらに引き下げる余地はきわめて限られたものとなっています。そうした制約条件のもとで、私どもとしても、政策運営上、どうしても次の二つのことを念頭に置かざるを得ない状況にあります。

 一つは、追加的な金利の引き下げにどの程度の景気刺激効果を期待するかということです。現在は企業や家計のコンフィデンスがたいへん弱い状況にあります。そうしたもとでは、金利が多少低下して、その分、資本コストが安くなったり企業の金融収支が改善したとしても、それが設備投資などの前向きの経済活動につながっていく度合いには、おのずから限界があります。金融緩和の効果を確実なものにしようと思えば、ある程度まとまった幅で金利を引き下げなければならないわけですが、すでに金利が超低水準にあるだけに、現在はそれがまさにできないというジレンマ状況にあります。

 もちろん、たとえ小さくとも、なにがしかの効果がある限り、経済情勢が悪化しているならば直ちに追加的な緩和を行うべきであるという議論もありえます。そこで二つめに考えなければならないのは、追加的な金利の引き下げに全くマイナス面はないのか、ということです。この点については、たとえば、家計の金利収入が減ることによって、ただでさえ弱い消費者マインドがますます弱まる可能性はないのかどうかということが問題になりえます。

 また、一段の金利低下によって、円安がさらに進む可能性をどう見通し、どう受け止めるかという問題があります。この点、通常であれば、円安は金融緩和の効果が波及していく一つの経路として、経済にプラスに働くはずです。しかし、市場のセンチメントの有り様によっては、円安がアジア通貨の下落をもたらしたり、株価の下落がこれに連動することなどにより、人々の不安心理が強まるといったような場合があることも否定できません。

 このように、現在の「超低金利政策」のもとでの追加的な金利引き下げは、その効果が十分に大きくない可能性が残る一方で、副作用を全く無視するわけにもいかないのではないかという点が、ここ数か月、私どもが金融政策運営に関する議論を進めてきた過程で、常にある程度意識しなければならない論点でありました。これらの点は、過去に経験のない領域でありますし、局面によって効果、副作用の出方も異なりうるため、一概に判断を決め付けることは適当でないように思います。ただ、景気情勢が月を逐って厳しさを増してきた状況の中で、金融政策面では現状維持のスタンスを一貫して採ってきたのは、基本的には、財政面からの対策などの好影響がこれから出てくるという判断によるものですが、それと同時に、現局面における金利引き下げの効果と副作用の綱引きをどう考えるかという問題も、無視できない要素であったということであります。

いわゆる「調整インフレ論」について

 このような、ある種特別な金融政策環境のもとで、最近一部で主張されている議論に、いわゆる「調整インフレ論」があります。その具体的な内容は、——そもそも「調整インフレ」という言葉を使うのが適当かどうかという点も含め、——論者によって様々です。ここでは、「量的緩和」や「インフレ・ターゲティング」の議論も含めて、私なりにこの議論の要点として受け止めている点を整理すると、概ね次のようなものではないかと思います。すなわち、(1)現在の情勢においては、名目金利の引き下げには限界がある、(2)しかし、人々の投資行動などに本当に影響を及ぼすのは、名目金利そのものではなく、名目金利から予想インフレ率を差し引いた実質金利である、(3)したがって、日本銀行は、多少のインフレを容認する姿勢を鮮明にすることによって、人々の予想インフレ率を上昇させ、実質金利を低下させればよい、(4)インフレを容認する姿勢の示し方として、マネーサプライやマネタリーベースなど量的な金融指標の拡大を約束するとか、場合によってはインフレ率自体に目標値を設定するのもよい、といった議論であります。ただし、インフレを容認するという点については、積極的に物価上昇を狙うべきという「調整インフレ論」と、物価下落の回避を強調する「量的緩和論」や「インフレ・ターゲティング」の間には、かなりのニュアンスの違いがあります。

 こうした議論については、学者、実務家を問わず、各方面で様々な見方があります。私ども日本銀行でも、議論は行ってきておりますが、現時点で、すべての点について、統一見解といったものがあるわけでは必ずしもありません。その点をお断りしたうえで、私が重要と考えている論点として、次の三つの点をお話したいと思います。

 第1に、新日本銀行法が、金融政策運営の理念として、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」を、明確に謳っていることとの関係です。この「物価の安定」というのは、「インフレでもデフレでもない状態」のことです。インフレやデフレが、一旦人々の心理に根づくと容易には払拭できない性格のものであることを踏まえると、中央銀行として、ある時は「インフレにしない」と言っておきながら、別の時には「インフレにする」ことをコミットするという考え方は、受け容れ難いものがあります。やはり、中央銀行としては、「インフレもデフレも望まない」ということを、どんな時にも首尾一貫して政策目標にしていくのが、政策に対する国民の信認を得るためにも、重要であるように思います。「調整インフレ論」が、局面によっては、「ある程度のインフレにすることを目標にする」といった内容を意味するのであれば、それは採り得ない選択だということです。

 ただ、あわせて、私どもは、「デフレを望むものではない」ということも、この際、はっきりと述べておきたいと思います。デフレ・スパイラルを防止するため、3年近くにわたり超低金利を続けてきているのが日本銀行であることを、是非、思い起こしていただきたいと思います。

 第2に、人々の予想インフレ率を引き上げるためのひとつの手段として、「量的な金融緩和」の有効性がしばしば主張されていますが、これが、「金利引き下げ」とどういう関係にあるのかという点についてです。もともと、「金利の引き下げ」は、その効果が実体経済に浸透する過程で、企業の資金需要が増えることなどを通じて、銀行貸出やマネーサプライ等の量的な金融指標も増加することを想定しています。実際、日本銀行が「超低金利政策」を続けてきたもとで、マネタリーベース —— 現金と準備預金の合計 —— は、銀行券の高い伸びもあって、最近では前年比10%近くも伸びています。逆に、短期市場金利に上昇圧力がかかるような場合には、現在でも、潤沢な資金の供給を行なうこと、すなわち「量」を出すことで、金利の上昇圧力を抑えています。

 このように、「金利の引き下げ」と、「量的な緩和」とは、基本的には同じコインの両面という関係にあります。ですから、今後仮に「量的な緩和」を目指す場合にも、その前提として、少なくとも一時的には、現在の短期金利水準が一段と低下する —— 例えば、オーバーナイト物のコールレートは、場合によってはゼロ%近くまで低下する —— ことを覚悟しなければなりません。一部には、「様々な弊害がありうる金利の引き下げは行わないで、代わりに量的な緩和をしてはどうか」といった主張もみられますが、それは出来ない相談であるということです。したがって、「金利の低下」が消費者マインドや円相場の観点から問題だということであれば、「量的な緩和」にも全く同じ問題が伴うと考えなければなりません。

 第3のポイントは、人々の中期的な期待への働きかけという要素を踏まえれば、「量的な緩和」や「インフレ・ターゲティング」は、「金利の引き下げ」以上の効果を持つという主張についてです。クルーグマン教授に代表されるアカデミックなサークルの一部では、たとえ名目金利がゼロとなり、それ以上の引き下げが不可能な場合でも、中央銀行が量的な金融緩和を中期的に継続することを宣言したり、先行きのインフレ率そのものについて目標値を設定したりすれば、人々の予想インフレ率が上昇するとの見解があります。この立場に立てば、予想インフレ率が上昇すれば、実質金利が低下するため、景気に対する刺激効果が生まれることになります。

 しかし、中央銀行が、マネーサプライの増加や、インフレ率の上昇等を、目標として掲げたとしても、金利を引き下げる余地が乏しい状況のもとでは、いかなる手段でその目標を実現するのかという問題が残ります。確かに、国債等の債券を大量に購入することによって、マネタリーベースを増加させることは可能かもしれません。しかし、その場合でも、貸出金利の追加的な低下余地が乏しいもとで、どの程度企業の借入需要が増えるのか、また、金融仲介機能が弱いときに、どの程度金融機関が積極的に貸出を増やすのか、といった点などについて、不確実性が大きいように思われます。

 もちろん、「量的緩和」や「インフレ・ターゲティング」の議論は、中央銀行の目標と人々の中期的な期待形成という点でたいへん重要な論点を含んでいるため、私どもとしても引続き研究を続けていく考えです。ただ、現時点では、採りうる手段と、マネーサプライあるいは物価上昇率との関係がかなり不確定であることは否めず、結局、これらの議論を突き詰めていくと、金利の引き下げ余地が乏しいという最初の問題に帰ってしまう面があるように思われます。

マクロ経済政策運営について

 以上、私なりに議論のポイントをいくつか整理して述べましたが、これらを踏まえたうえで、「調整インフレ策」を、あえて「総需要を喚起するための景気対策」と読み替えるとすれば、それ自体は現在の日本経済が必要としている政策です。ただ、これまで申し上げてきたような金融政策環境を踏まえますと、その中心的な役割を担うのは、やはり、財政政策を中心とする直接的な需要創出策と、金融システム安定化策・構造政策をはじめとするコンフィデンスの強化策になるものと考えます。

 この点、総合経済対策や金融再生トータルプラン、さらには恒久的な税制改革を巡る論議等は、いずれもたいへん時宜を得たものであり、それらが着実に前進していくことが、強く期待されます。ただ、現在の財政構造改革法の枠組みを前提とすると、99年度の当初予算は、大型の補正予算が組まれた今年度に比べて、抑制色の強いものになる可能性が高いように思われます。それまでに民間経済に自律回復力が備わっていればよいわけですが、もしそうならないとすると、折角総合経済対策の効果によって、今年度下期に景気の悪化に歯止めがかかったとしても、来年度には再び景気の悪化を懸念しなければならなくなるおそれがあります。

 もちろん、中長期的な観点から、財政運営の効率化を図っていくことは、わが国にとって最も重要な課題のひとつであり、財政構造改革法の、そうした基本的な精神は尊重されなければなりません。しかし、来年度に向けて不確実性が強く残る経済であることを踏まえると、中期的な財政の健全性を確保するという点は常に念頭に置きながらも、以上申し上げた点について、新政権、さらには国会で十分に議論を尽くしていただきたいと願う次第です。

4.おわりに

 以上鏤々述べてきたように、金融システム面でも、また金融政策運営面でも、日本銀行が直面する課題はますます重いものになっております。

 ご存知のとおり、新しい日銀法が4月に施行され、4か月が過ぎようとしています。日本銀行の役割は、「物価の安定」と「金融システムの安定」の実現を通じて、国民経済の発展に貢献することにあります。このような二つの使命を中央銀行が与えられているのは、やはり実体経済と金融が密接不可分の関係にあるからにほかならないように思います。そして、そのことを今ほど痛感させられることもなかったように思います。

 私どもも、「金融システムの建て直し」と「景気の回復」が、同時にかつ早期に達成されるよう、中央銀行の立場から最大限の努力を払っていく覚悟です。皆様方のご支援、ご協力をお願いして、私からの話を終えることといたします。

 ご清聴ありがとうございました。

以上