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京都府・滋賀県金融経済懇談会における中原伸之審議委員挨拶要旨

1999年5月13日(木)、午前10時から
於 京都銀行協会

2002年3月15日
日本銀行

[目次]

はじめに

 ただいまご紹介いただきました日本銀行政策委員会審議委員の中原でございます。

 本日は京都にまいりまして京都・滋賀の方々とお話させていただく機会を設けていただきまして、たいへん光栄に存じます。

 今回は、「経済・金融に関する話」と「経営者の立場からの話」をそれぞれ50%ずつさせていただき、その後、本日出席いただいております皆様方から、業界や自社の現況、先行きの見通し、問題点等についてお聞かせいただきたいと考えております。

新日銀法下の政策委員会

 最初に、せっかくの機会であるので、日本銀行が新法の下で変わった点について簡単に説明したい。

 まず、日本銀行は1998年の4月1日から新しい日本銀行法の下でスタートしているが、従前とのいちばんの違いは独立性が確保されたという点である。これは、具体的には日本銀行の政策委員会の決定した政策を政府の干渉なしに自由に行えるということであり、画期的なことである。独立性の確保に伴い、同時に、透明性やアカウンタビリティが求められており、そうした点が従前と大きく異なってきている。

 政策委員会が日本銀行の最高意思決定機関として明確に位置付けられ、執行機関とは分離したということも、大きな変化点である。アメリカでは、ボード、取締役会——メンバーのうち内部取締役は少数派で、ほとんどが社外役員から構成——で意思決定が行なわれ、その決定された内容を執行役員と呼ばれるメンバーが実行していくことが通例である。

 今回、日本銀行は、それと同様の制度をとり入れ、9名のメンバーから構成される政策委員会は、内部からは3名(総裁1名、副総裁2名)にとどまり、残りの6名は、外部から起用された審議委員(内部と外部の比率は1対2の構成)になっている。そうした意味でも、日本銀行の政策決定に客観性が保たれる体制となっているといえる。

 なお、審議委員については、日銀法の定めにより、(1)まず、内閣が各界の見識、経験のある者を選出、(2)国会(両議院)の同意を得て、(3)内閣が任命する、ことになっている。アメリカの大手企業、銀行の社外役員を務めた私自身の経験から判断しても、日本銀行は非常に思い切って先端的なシステムをとり入れたわけである。

金融政策の決定

 金融政策については、月に2回程度、政策委員会の金融政策決定会合で議論しており、その議事要旨は約1か月強後に対外公表されている。その議事要旨には、執行部からの説明、それに対する各委員の見解、金融政策運営についての検討内容が記載されている。また、政府(大蔵省、経済企画庁)からオブザーバーとして出席しているメンバーの意見も記載されているが、採決には参加できないことになっている。採決に際しては、賛成、反対およびその理由を明確にすることになっている。なお、議長が委員会での検討の流れ等を総合的に集約したものを議長案として提案している。

戦後の日本経済の流れ

 この場では、まず、戦後日本経済の歩みを総括したい。そして、1980年代のプラザ合意を経て、1990年のバブル崩壊以降何が起き、それらが現在の局面でどういう問題点を含んでいるかについて触れた後、近代日本の歴史の中で困難な局面であった昭和恐慌期との相違点、類似点について申し上げたい。さらに企業経営のあり方といった視点に立って、日米比較を通じて、日本経済の問題点についてお話ししたい。

 日本の高度成長期は、一般的に1973年の石油危機で終止符を打ったとされているが、それまでは年率7〜8%程度の高い伸びを示し、池田内閣の「所得倍増計画」に沿った推移をみていた。

 この間、1965(昭和40)年の証券恐慌の局面においては、日経ダウが1000円近くにまで下落したため、「ダウ1000円を守れ」が当時のスローガンとなり、結果的には、1000円割れはギリギリ回避された。奇しくも同時期のアメリカダウも1000ドルであり、当時の日米の株価は絶対値で同水準であった。

 その後、株価は日本列島改造論による高騰を経て、——これに前後してニクソン・ショックが発生し、アメリカの金本位制離脱に続く円のフロート制移行がみられたが——1973年10月の第一次石油危機のあと急落した。私は当時石油関連業界に在籍していたということもあって記憶しているが、石油価格が一挙に四倍以上となったことは、第一次世界大戦後の一時期に燃料価格が二倍となったことはあったものの、それまでの日本は無論、世界の歴史で初めてのことであった。その後、1978年から79年にかけて一応の回復をみた後、第二次石油危機を迎えるが影響はあまり大きくなく、1985年のプラザ合意へと至った。

 参考までに、この間の原油価格動向をみると、WTI(西テキサス中質原油、West Texas Intermediate)先物価格はピークの1981年には40ドル/バレルに達したが、最近のボトムは85年の10ドル/バレルとなっている。

プラザ合意以降の状況をみると、為替相場の推移は、1ドル=240円から120円に上昇した(その後、いったん160円にまで戻すが、再び円高となり1995年にはピークの80円をつけた)。この間、わが国においては、円高進行を恐れるあまり、財政の拡張と金融政策の緩和を進めたこともあって、その後、徐々にバブル経済へと進んだ。

 この間のG7諸国に占める輸出シェアの推移をみると、日本のシェアが漸減している一方、アメリカは漸増したため、その差は10%ポイント程度にまで拡大した。これを契機に、日本は円高を避けて東南アジアに進出しそこから輸出する動きを示した一方、アメリカはG7諸国等への輸出主導で立ち直ったといえる。

バブル期以降の経済の特徴

 日本の株価は、1989年末に3万9000円近くでピークを記録したが、1990年代以降はバブルが破裂しゼロ成長となった。その後は、いったん1993年10月頃に底打ちし、95年、96年の2年間にわたって急速に回復したものの、残念ながら短命に終わった。この時の回復のピークは1997年3月で、以降、今日に至るまで連続して低下している。

 この間、バブル景気局面の特徴をみると、最も端的にうかがわれるのが地価の高騰である。地価鑑定価格の4割を底地価格として、これを地代で割った値をみると、——株式でいう株価収益率(PER)に相当するが——1988年で222倍、90年、91年で200倍となっており、同時期のPERがバブルのピークでさえも70〜80倍程度であるのに比べると異常に高くなっている。この点を現在のアメリカでのバブルと比較すると、アメリカでは全国規模での不動産バブルは起こっておらず、1980年代後半に発生したS&Lの経営破綻問題も現在では処理が完了している。

 経営者の立場から反省すべき点としては、不動産投資に手を出してしまったことに加えて、時価発行した株式の企業間持ち合いを進めたり、安易に転換社債の大量発行を行って、発行株数の水膨れを招いてしまったことである。アメリカでは、自社株の買入消却を実施するなどして発行株式数を減らし、ROEを高める、またはPERを引き下げる努力をしている。日本企業はその調達資金を新規設備投資に回した。これが、現在の過剰設備の遠因となっており、経営者が犯した大きなミステイクであったといえる。

 日本企業における設備投資について、若干敷衍しておくと、日本の設備投資比率はアメリカに比べて非常に高く、過去の景気ピーク期——これはほぼ10年周期となっているが——に合わせて対GDP比の2割程度に達していた。これは、日本経済が景気拡大を設備投資の増加で図ってきたもので、このため、日本の資本係数(GDP1単位について投入が必要とされる資本)が上昇するなど、資本効率が悪化しており、最近のROE重視の経営に逆行する動きとなっている。

 バブル経済に至った背景を改めて整理すると、(1)1985年のプラザ合意以降、円高を恐れて財政拡大と金融緩和を進めたこと、(2)こうした中で発生した余剰資金が不動産に回り、同時に時価発行増資の増加と企業間での株式の持ち合いが進行したこと、(3)この結果、過剰設備・過剰雇用を招いたこと、となる。今日の日本経済の「三重苦」——過剰設備、過剰雇用、過剰債務——は、この時から始まったといえ、根が深い問題である。

 1990年以降のバブル崩壊後、95年、96年の2年間は景気が回復したが、これは巨額の公共投資による効果であり、この時にも経営者は判断を誤ったと考えている。すなわち、新規分野ではなく旧来からの事業分野での設備増強を図ったため、1993年頃にいったんは過剰設備の整理が終了したとみられた後、再び過剰設備を抱えることになった。

 労働コストの状況を物価と賃金の推移でみると、1993年から94年にかけて名目賃金指数の伸び率が急激に上昇し、企業向けサービス価格指数(CSPI)、および製造業投入・産出物価指数(OPI)の伸び率を上回っている。これは、当時の経営者が将来マンパワー確保のため賃金水準を引き上げた結果であるが、これが現在の日本経済の抱える「高すぎる人件費」という問題の一因となった。

 また、労働生産性上昇率も近年急低下しており、現在(1999年5月)ではゼロまたはマイナス基調となっている一方、アメリカでは5四半期連続でプラス3%の上昇をみており、足元ではアメリカに追い抜かれてしまった。

 さらに、GDPに占める労働分配率をみても、日本はアメリカをすでに上回っており、日本の賃金水準は割高となってしまったといえるほか、売上高販売管理費比率も上昇の一途を辿っている。

 企業経営の効率性をみるために、企業規模別の損益分岐点比率の推移をみると、このところ大企業のパフォーマンスが急速に悪化し、かねてから比率の高かった中堅・中小企業並みの水準にまで達している。この点、大企業のリストラ完了への道のりはまだ遠い状況にあるといえよう。

 同様に総資本当期利益率をみると、たとえば1996年では日本が0.68%と、同時期のアメリカ、ドイツに比べて低くなっている。これを総資本回転率と売上高当期利益率に分解すると、特に売上高当期利益率の低さが目立っている。また、かろうじてアメリカ、ドイツに近い水準を維持している総資本回転率も、内訳で日本が上回っているのは棚卸資産回転率のみで、その他の項目では下回っている。

 こうした論点を踏まえると、現在の日本経済の問題は次のようにまとめることができよう。

 すなわち、企業の経営者は1980年代後半以降、経営のやり方を間違えたということである。水膨れ体質が「3つの過剰」を招き、1993年にいったん解消したものの、旧来からの成長路線に復帰できるものとの甘い期待を抱いたために、元に戻ってしまったわけである。

 日本企業は、現在、売上高当期利益率が低いこと、損益分岐点が高すぎること、設備と雇用の過剰といった重荷(burden)を抱えており、この問題の解決のためには雇用の調整が不可避であり、損益分岐点比率をどこまで引き下げることができるか、といった課題に直面している。もっとも、大部分の企業では新卒者の採用抑制といった程度の雇用の調整で対応しているが、それでは済まないであろう。実際には、企業内失業者は400万人に上るといわれており、きわめて大きな問題である。こうした点について試算したところ、それら企業内失業者をすべて削減すれば企業のROEは8%向上する反面、失業率が10%程度にまで上昇するか、または賃金を1割以上押し下げるような調整圧力が発生するという結果となった。

構造改革の必要性

 こうした日本経済の状況の中で、企業に求められている構造改革は次のようなものである。

 第一は、企業の損益分岐点比率を引き下げることである。第二は、新規産業を興し、成長分野へ参入していくことである。

 現在の日本経済は、いわゆる「ニュー・ジャパン」と「オールド・ジャパン」に二分されていると考えられる。ニュー・ジャパンは現在でも成長力を維持している業界で、オールド・ジャパンは鉄鋼、化学等の伝統的な成熟産業であるが、だいたいの目測でオールド・ジャパン7割に対してニュー・ジャパン3割といったウエイトであるとみている。また、各々の成長率はオールド・ジャパン、マイナス5%、ニュー・ジャパン、プラス5%程度とみられ、全体の成長率はマイナス2%となる。このため、オールド・ジャパンとニュー・ジャパンの構成を変えていく必要があると考えている。

 ところで、今回のバブル崩壊以降の経緯は、いろいろな点で昭和恐慌の頃の状況と符合している。

 すなわち、第一次世界大戦後の1919年にバブルが発生し、20年にはこれが破裂したが、年数に70年を加えると今般のバブル発生の1989年などと一致するわけである。また、この間、関東大震災に対応する形で阪神・淡路大震災が発生したほか、より象徴的なことには、1927(昭和2)年の金融恐慌の70年後は、山一證券や北海道拓殖銀行が破綻した年に対応することである。また昭和恐慌時には銀行法が公布されたが、今回は金融再生法等が制定された。

 さらに、大正から昭和初期にかけての産業構造は、伝統的な農業と生糸を中心とする軽工業から重工業への転換期を迎えていたが、これが、今回の局面では重化学工業から、いわゆる知識集約型のハイテク・先端産業への転換に対応する。今回の不況が長引いている背景には、オールド・ジャパンの存在があると考えられ、今後オールド・ジャパンについては、アジア諸国からの追上げを受けることは必至であると思われる。

 なお、株価についてみると、昭和恐慌の局面では1920年にピークを打った後、底入れが31年と、この間実に11年間を要し、マイナス78%も下落したわけであるが、これを今回の局面に当てはめると大変なことになって、日経平均1万円割れも起こり得ることとなってしまう。

当面の金融政策

 金融政策に関しては、私は、1998年4月1日の審議委員就任時の共同記者会見以来、過剰雇用と過剰設備の存在を指摘し、再び設備投資の調整が始まる旨見通しを申し上げた上で、1998年6月以降は金利引下げを主張してきた。以降、1998年9月9日および99年2月12日の2度にわたって金利が引き下げられ今日のゼロ金利に至っているが、それでも不十分であると考えている。今後企業のリストラが本格化すると、景気に対する一層の下方圧力がかかるので、量的な金融緩和が必要であると考えている。マネタリーベース——これは日本銀行券と金融機関の準備預金の合計だが——をみても、1998年秋頃までと比べて伸びが低下しており、マネタリーベースの拡大に通ずる一段の金融緩和を進める必要がある。

アメリカ経済との比較

 私は、アメリカは気体国家であると考えている。アメリカでは、企業経営において固定費がゼロであり、経営者や資本家にとっては全く理想的な世界である。気体は異なった分子が勝手に飛び回り、どんどん膨張を繰り返すが、これが、戦前よりアメリカが維持しているオープン・ドア・ポリシーに合致しており、隙間があればどんどん入り込んでいく企業行動を現している。ありとあらゆる経営資源や生産要素が分子であり、それを集めてくる手段(重力に相当する)が資本であると考えられるが、今日では、その資本の役割を技術が果たすことも可能になっている。

 これはまた、宇宙のビッグバンにも似たところがある。すなわち、宇宙空間を漂う物質が次第に集まり、重力が発生して星になり成長していく。その途中に他の星と一緒になったり——これが企業のM&Aに相当する——、あまりに重力が大きくなってしまうと重みに耐えかねて爆発してしまうように、大企業も分社化が必要となる。

 一方、日本は液体国家である。ほぼ一定の体積を持ち、どの器にも適合することができるが、この液体を保っている器が規制や業界に相当する。これからは、液体国家と気体国家の勝負となるが、日本がどうやって勝つかはたいへん難しい。液体を気体に変換するには気化熱が必要なように、規制撤廃や労働力の流動性を思い切って行う必要がある。

 1998年、FRBのグリーンスパン議長と話をした際、アメリカ企業においては費用のすべてを変動費化する努力をしていると私見を述べた。典型的な固定費である人件費もストック・オプションの導入により変動費としている。たとえば、マイクロソフト社では、キャッシュで支払う人件費のウエイトを全体の半分前後に引き下げると同時に、パートや派遣社員を積極的に活用して変動費化しているほか、減価償却費もリースの導入等で変動費化している。日本も損益分岐点の高い液体経営から気体経営への転換が求められているが、なかなか経営者の意識改革は進んでいない。

 気体国家の欠点としては、ガバナビリティの低さが挙げられるが、この点を補うツールとしてインターネットが普及した。このインターネットは、バラバラの固体を結び付けることができるほか、世界中の個々の顧客に直接アクセスできることからマーケットを広げる利点も持っており、これはソフト産業の発展によって可能になった。なお、ビル・ゲイツによれば、ソフト産業とは、資本・設備投資に資金をあまりかけずに興すことができる一方、勝敗がハッキリするといった特徴を持ち、勝者がマーケットの100%を独占できる世界である。

 日本の金融経済のおかれている現状は問題含みであり、解決には時間を要するとみられる。経営者におかれては、国際競争力をつけて柔軟な経営体質にして、新しい分野の開拓に力を注いでいただきたい。

以上