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「物価の安定」と金融政策

2000年3月21日・内外情勢調査会における速水日本銀行総裁講演

2000年 3月21日
日本銀行

目次

  1. 1.はじめに
  2. 2.「物価の安定」はなぜ重要か
  3. 3.調整インフレ論の問題点
  4. 4.インフレ・ターゲティングについて
  5. 5.おわりに──「デフレ懸念の払拭」について

1.はじめに

 本日は、内外情勢調査会にお招きいただき、皆様にお話しする機会を得られたことを、たいへん光栄に存じます。

 ゼロ金利政策を始めてから1年以上が経ちました。こうした思い切った金融緩和や、財政政策の効果、さらには金融システムの安定化などを背景に、日本経済の状況は1年前に比べて、かなり持ち直してきています。設備投資や個人消費といった民間需要が回復するための環境も改善を続けています。とはいえ、様々な構造問題を抱える中で、こうした環境の改善が、企業や家計の支出行動にどのように結びついていくのか、もう少し状況を見極める必要があります。また、財政赤字は主要先進国の中で最大規模に膨らみつつありますので、財政面からさらに大きな対策を講じていくことは、簡単に採りうる選択肢ではなくなってきています。

 このような状況ですと、「金融面から追加的に何かできないのか」、「多少インフレを許容した方がよいのではないか」、という考え方がどうしても出てきやすくなるものです。現に、最近は、調整インフレ論とか、インフレ・ターゲティングを巡る考え方について、いろいろな機会によくご質問をいただきます。これらの問題を巡って議論を行ううえでは、まず、「物価の安定」の重要性やその意味などについて、整理しておくことが必要だと思います。そこで、本日は、金融政策の目的である「物価の安定」をテーマに日本銀行の考え方をご説明したいと思います。なお、後程詳しく触れますが、日本銀行は、今後、「物価の安定」の考え方について、総括的な検討を進めることとしました。本日の私のお話は、そうした検討のための「序論」としてお聴きいただければ幸いです。

2.「物価の安定」はなぜ重要か

「物価の安定」の意義

 一昨年4月に施行された新日銀法では、金融政策の目的について、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」と定められています。ところが、日本銀行が「物価の安定」の重要性を強調すると、「日銀は、景気が悪いにもかかわらず、インフレばかり心配しているのではないか」というご批判を頂戴することがあります。しかし、これは事実ではありませんので、この点からお話を始めたいと思います。

 「物価の安定」が大切なのは、それが、あらゆる経済活動や国民生活の基盤になるものだからです。

 市場経済は、企業や家計が、個々の財やサービスの価格を手がかりにして、消費や投資などの意思決定を行っていく仕組みです。一国で取り引きされる様々な財・サービスの価格を、全体として捉えたものが「物価」であり、個々の価格にとっていわば「物差し」となるものです。物価が安定しているということは、この「物差し」が動かないということです。そうすれば、消費者の好みの変化や技術革新の進展が、個々の価格変動に効率的に織り込まれますので、相対価格の変化をシグナルとして、企業は進むべき方向性をつかみやすくなります。マクロ経済的な観点から見れば、不断に変化していく経済環境に応じて、労働や資本といった経済資源の円滑な再配分や、人々のニーズに応じた技術革新が行われやすくなり、中長期的にみて健全な経済成長が確保されるわけです。

 逆に、物価が大きく変動して「物差し」の役割を果たさなくなりますと、個々の価格のシグナル機能が低下しますので、成長産業への労働や資本の移転が進みにくくなるなど、資源配分に非効率が生じます。さらに、物価が不安定である経済は、景気の動きも不安定なものとなりやすいので、将来の企業収益や家計所得について見通しが立てにくくなり、この面でも健全な投資活動などが阻害されます。このように、「物価の安定」が損なわれると、中長期的な経済成長率も低下してしまいます。

 また、物価の変動には、所得分配に歪みをもたらすという重大な悪影響もあります。例えば、預金のように名目金額が固定されている金融資産を持っている人は、インフレが生じると資産の元本自体が目減りしてしまい、損失を被ります。逆に債務を負っている人は、実質的な債務の軽減という恩恵を受けることになりますので、両者の間に不公平が生じます。一方、デフレとなれば、債務の負担が増大し、逆の不公平が生じることになります。

日本銀行が目指すもの

 このように、物価の安定は、「効率性」という観点からも「公平性」という観点からも、健全な経済発展のための基盤となるものです。

 したがって、日本銀行が目指していることも、インフレでもなく、デフレでもない「物価の安定」です。日本銀行がインフレ方向のリスクにのみ過敏であるという認識があるとすれば、それは間違いです。

 このことは、最近の金融政策運営からもご理解いただけるものと思います。日本銀行は、昨年2月にゼロ金利政策というきわめて思いきった金融緩和政策を採用しました。また、この政策を「デフレ懸念の払拭が展望できるような情勢になるまで続ける」ことを明らかにしています。

 現在、日本経済がデフレの渦中にあるかといえば、そうではありません。デフレで恐ろしいのは、物価の下落が企業収益や賃金を下落させ、それが経済活動の落ち込みを通じてさらに物価を下落させるという悪循環がもたらされるからです。実際、昨年の春頃までは、日本経済がデフレ・スパイラルに陥る危険がたいへん高かったのですが、この1年でそうした懸念はかなり後退しました。現在の日本の物価は、消費者物価でみても、卸売物価でみても、ほぼ横這いで推移しています。この間、企業収益は増加していますし、経済活動も徐々に活発化しています。情報通信分野の技術革新、いわゆるIT革命や、「カテゴリー・キラー」の台頭にみられるような流通革命などの変革を背景に、多くの製品の値段が下がっていますが、これらは、必ずしも、いま述べたような「悪い物価下落」とはいえません。

 にもかかわらず、日本銀行が、ゼロ金利政策という極端な緩和政策を続けているのは、民間需要に支えられた景気回復が実現しなければ、再び「悪い物価下落」が発生しかねないからなのです。将来のデフレ・リスクを防止するために、このような政策を続けてきたわけです。

 日本銀行は、このように、インフレだけでなく、デフレにも十分配慮した政策運営を行ってきていることをご理解頂いたうえで、以下のお話をお聴きいただきたいと思います。

3.調整インフレ論の問題点

2つのインフレ・ターゲティング論

 最近、「物価の安定」を達成するうえでインフレ率に具体的な数値目標を与える方法、つまり、インフレ・ターゲティングと呼ばれる方法について、様々な議論がなされています。そこで、この問題に関する日本銀行の考え方を申し述べたいと思います。

 注意しておかなければならないことは、わが国では、インフレ・ターゲティングの名のもとに、2つの異なる議論が混在していることです。本来のインフレ・ターゲティングは、後ほど詳しく申し上げるように、金融政策の透明性を高め、「物価の安定」に対する信認を強める手段のひとつとして位置づけられるものです。しかし、現在のわが国におけるインフレ・ターゲティングを巡る議論の中には、調整インフレ論と同種の狙いが込められている主張が少なくありません。そうした現状を踏まえ、まず、調整インフレ論の問題点を明確にしておきたいと思います。

 調整インフレ論といっても、決まった定義があるわけではなく、その具体的な内容も論者によって幅があります。典型的には、有名なポール・クルーグマン教授の主張にみられるように、4~5%といった高目のインフレ率を目標とし、あらゆる手段を使ってそれを実現しようと努める政策です。クルーグマン教授は、日本経済についてのきわめて悲観的な認識に立って、こうした極端な政策を提言しているのですが、景気が持ち直している現状において、このように「物価の安定」から明らかにはずれるような政策は、日本銀行として絶対にとれません。

 一方、これに対して、そんなに高いインフレ率は問題だが、まあ2~3%程度であれば良いではないか、その方が経済活動が活発化するのではないか、という議論もあります。しかし、物価が概ね横這いで推移している現状を踏まえると、ここから2~3%のインフレ率を目指すということは、人為的に無理やりインフレを引き起こそうということにほかなりません。実際、この種の提言も、多くの場合、日銀による国債買い切りオペの増額や引き受け、さらには株式や不動産の購入といった手段を排除すべきでないとの主張を伴っています。すなわち、2~3%とは言え、あらゆる手段を使ってインフレを起こすべきと考えている点では、やはり「物価の安定」を目指すインフレ・ターゲティングではなくて、調整インフレ論だと言わざるをえないように思います。

インフレで経済問題は解決できない

 そこで、調整インフレ論がなぜいけないかですが、まず始めに明確にしたいことは、実は、インフレでもって経済問題を解決することはできない、ということです。調整インフレ論が想定している効果は、インフレ率を上げた方が、経済活動が活発化するし、企業や金融機関の債務負担や財政赤字問題が軽減される、ということだろうと思います。もちろん、こうした主張をなさる方々も、副作用には留意した上で、「現状では副作用より効果の方が大きい」と議論を展開されるようです。しかし、よく考えてみると、実は、そもそも狙った効果そのものが実現しそうにないのです。

 最大のポイントは、今や、わが国を含む先進国では、金融・資本市場が十分発達し、しかもグローバル化が進んでいる、ということです。日本の経済や物価の先行きには、世界中の投資家が注目しています。日本銀行が「インフレ率を引き上げる」と宣言し、それを内外の市場参加者が信じたとしましょう。発達した金融資本市場は、ただちにそれを織り込んで、実際にインフレになる前から、国債の利回りなど長期金利が上昇してしまうでしょう。理論的には、名目金利は、実質金利に期待インフレ率を加えたものですから、なんのことはない、インフレ期待の分だけ名目金利が下駄をはくだけです。経済活動に対して意味をもつ実質金利は、前と変わらないということになります。

 さらにいえば、通常は、インフレ率が高くなると将来の不確実性も大きくなりますから、そのリスク・プレミアム分だけ、余分に長期金利が上がってしまう可能性が高いのです。そうなると、企業の実質債務負担や財政赤字は減らないどころか、かえって増えてしまう可能性があります。こうした長期金利の上昇は、設備投資などの経済活動にもマイナスに作用します。このように、「インフレを起こす」と宣言する政策は、達成しようとしている目的に対しても逆効果である可能性が高いのです。

 インフレでもって経済問題を解決しようとする主張は、しばしば、過去の歴史的経験や海外の発展途上国の例が念頭にあるようです。しかし、現在の日本は、金融・資本市場の発達とグローバル化という点で、そうした例とはまったく異なる環境にあります。

 このような問題は、目標とするインフレ率が4~5%であろうと、2~3%であろうと、同じことです。現在の日本経済が必要としていることは、実質経済成長率の上昇であって、インフレ率の上昇ではない、ということを強調しておきたいと思います。

インフレをコントロールすることは難しい

 2番目に申し上げたいことは、インフレは一旦発生させるとコントロールが効かなくなる危険性が大きい、という問題です。人々の間にインフレ期待が定着してしまうと、それは自己増殖しやすいからです。労働者であれば高めの賃金引き上げを要求するようになるでしょうし、賃金コストが上昇すれば、企業はそれを製品価格へ転嫁しようとします。そのような経済は、インフレ圧力が高まるリスクを抱え込んでしまうことになるのです。

 これに対する一つの反論は、「日本銀行は独立性を持った中央銀行なのだから、2~3%までインフレ率を上げてみて、さらに上がりそうになったらそこで止めることができるはずではないか」というものです。しかし、インフレ率の上昇に弾みがつき始めてから、それを止めようとすると、強力な金融引き締めを行わなければなりません。その結果、景気は大幅に悪化して失業率が急上昇する可能性があります。確かに、日本銀行はインフレを止める力を持っています。しかし、いったん頭をもたげたインフレを抑え込む場合には、人々にたいへんな犠牲を求めざるをえなくなってしまうのです。

 実は、「インフレが多少高まることを許容しさえすれば、景気をもっと良くすることができる」というのは、1970年代頃までは、欧米主要国でもむしろ広く受け容れられていた考え方だったのです。しかし、そのような金融政策を続けたことも一つの原因となって、1970年代から1980年代前半にかけて世界的にインフレ率が高まり、その抑制のために失業率の上昇を余儀なくされるなど、たいへんな苦労を経験いたしました。そうした歴史的な経験などを踏まえて、現在では、「インフレ率を幾分高めて景気を良くする」という考え方は、少なくとも欧米主要国では基本的に放棄され、「インフレを未然に防ぐような政策運営を通じて、物価の安定を常に確保していく」という考え方が主流になっています。

追加的緩和策の問題点

 第3に、インフレを起こそうとする手段の問題があります。現在のわが国では、通常の金融緩和手段は使い尽くしていますから、たとえ緩やかなインフレを起こそうとする場合でも、国債買い入れの増額や引き受けなど、オーソドックスでない手段が必要になってくるかもしれません。しかし、万が一、日本銀行がそうした極端な手段に踏み込んだ場合の副作用はきわめて大きくなる危険があります。今や、わが国の財政運営の厳しさには世界が注目しています。日本銀行が国債の買い支えを始めたとなれば、かえって、国債の信用を傷つけることになるでしょう。そこで起きるのは、もっとも悪い形での長期金利の上昇です。このような「劇薬」政策を採った場合、国の財政規律や金融市場の機能を損なうことはもとより、日本という国自体に対する海外からの信認も失われてしまうリスクが大きいのです。

ゼロ金利政策の効果

 それでは金融政策面ではもう何もできないのか、というのが次に皆様がお持ちになる疑問だと思います。まず申し上げておきたいのは、ゼロ金利政策は、非常に強力な金融緩和策である、ということです。すなわち、「デフレ懸念の払拭が展望できるような情勢になるまでゼロ金利政策を続ける」という枠組みのもとでは、仮に景気の先行きに不透明感が増してくるようなことがあれば、ゼロ金利政策を解除する時期が自動的に先送りされます。したがって、長期金利も、それを織り込んで速やかに低下すると考えられます。このように、ゼロ金利政策というのは、単にオーバーナイト金利がゼロだというだけではなくて、負のショックをある程度自動的に吸収する柔軟性を兼ね備えた強力な政策なのです。

 また、現在日本の景気は持ち直しに転じており、生産や企業収益ははっきりと上向いてきています。確かに先行きにはまだ不安がありますが、情報通信分野を中心にずいぶんと新しい動きも出てきているのです。この意味で、財政金融政策で景気の下支えをしている間に、構造改革を着実に進め、企業の活力が十分に引き出されるような環境を整備していくことが大事な局面ではないか、と考えています。

4.インフレ・ターゲティングについて

本来のインフレ・ターゲティング

 以上、インフレ率を高めるような政策の問題点について述べてまいりました。次に、「物価の安定」に対する強い決意を示すとともに、金融政策の透明性を高める方策としての、本来の意味でのインフレ・ターゲティングについて、お話ししてみたいと思います。

 インフレ・ターゲティングは、イギリス、ニュージーランド、スウェーデンなどで、1990年前後から採用されています。例えば、イギリスでは、消費者物価指数に相当する指数について、2.5%というインフレ目標値が設定されています。イングランド銀行は、毎月の金融政策委員会でインフレ率の先行きについて議論し、金融政策の効果が現れるまでのタイムラグを勘案して、2年先まで展望して、インフレ率をなるべく2.5%程度に近づけるように、金利の上げ下げを決定していくのです。そして、四半期に1回、インフレーション・レポートという報告書を公表し、その中で先行き2年間の経済・物価見通しを示すことによって、金融政策運営の妥当性を説明するよう努めています。

 以上はイギリスの例であって具体的な運用は国ごとに異なりますが、要は、(1)インフレ目標値を設定し、(2)その中長期的な達成を目指して政策運営を行う、(3)判断の根拠となる経済見通しの公表など対外説明を充実させる、というのが基本的な要素です。このように、目標インフレ率は設定するが、それを短兵急に実現しようとするのではなく、中長期的な目標を数値化することによって、インフレ期待を抑え、政策のアカウンタビリティを高めようとすることに狙いがあります。

 このような意味でのインフレ・ターゲティングであれば、その考え方には理解できるものですし、実際、政策委員会でも何回も議論されてきました。しかし、現段階では、この枠組みを日本で採用しようとすると、なかなか難しい問題が多いように思います。

わが国の物価動向

 まず、日本では、物価という面に限れば、たいへん安定した状況が続いています。

 海外の一部の国で行われているインフレ・ターゲティングは、もともと、高いインフレ率に悩まされていた国が、物価の安定を達成するための枠組みとして採用したものです。例えば、イギリスでは1992年にインフレ・ターゲティングを導入しましたが、その前の10年間のインフレ率は平均5%を超えており、90~91年頃は7~8%程度に達していました。そうした国の基準でみれば、2.5%というインフレ目標を掲げることは、「インフレを抑制し、物価安定を維持する」という姿勢を明確に打ち出したことに等しいわけです。

 これに対して、日本では、1980年代の初頭に第2次オイルショックの影響が収束してからは、消費者物価の平均上昇率は1%台前半と非常に低く、経済が過熱していたバブル期のピークですら3%程度までしか上がりませんでした。言い換えれば、日本の場合には、過去20年近くもの長期にわたって物価がきわめて安定していました。このため、「とにかく何か目標値を示さないと物価の安定が確保できないので、物価安定の定義や計測上の難しい問題は横において置こう」という状況ではなかったのです。

新しい価格革命

 ただいま、物価安定の定義や計測上の難しい問題と申し上げました。これは、言い換えれば、特定の物価指標に基づいて、適切な数値目標を設定できるかどうか、ということです。

 このこと自体、なかなか難しい問題なのですが、それに加え、私は、日本を含む先進工業国が、いわば「新しい価格革命」の時代に入っている可能性があることに留意する必要があると考えています。最近は情報通信関連の経済活動が急速に拡大して、「IT革命」と呼ばれています。この分野は技術革新が非常に速く、生産性向上と新製品の開発を通じて、価格低下を促進する側面を持っています。90年代半ば頃からの米国は、こうしたIT革命を軸として景気が拡大したこともあって、失業率がきわめて低水準になっても、インフレ率が低位で安定を続けました。これは、それまでの常識を覆す現象でした。

 こうした世界的な変革に加え、日本の流通・サービス分野では、流通革命と呼ばれるような大きな変化が起きています。

 このような技術革新と流通革命の進行は、物価を考えるうえで、2つの大きな問題を投げかけています。ひとつは、新しい商品や新しい流通形態における価格動向がきちんと物価指数に反映されているかどうか、ということです。これは、ここ数年「物価指数のバイアス問題」としてしばしば議論されている問題ですが、これだけ新商品や新しい流通形態が表れてくると、これまで考えられてきた以上に大きな問題になってきている可能性があります。もうひとつは、こうした物価下落をどう評価するか、という問題です。現在インフレ率がすでに概ねゼロ%の日本で、今後IT革命や流通革命が進行していけば、それらの変化を必ずしも十分にとりこめない現在の物価統計でみても、インフレ率がむしろマイナスになりながら景気が回復していく、という可能性も否定できません。しかし、技術革新によるコストの低下が持続するような場合には、景気が順調に回復していく限り、統計上のインフレ率がマイナスだからといって、これを「デフレ」とみなすのは不適当です。

 このように物価を巡る環境が大きく変わっているかもしれないときに、インフレ率にどのようなターゲットを定めることができるのか、十分慎重な検討が必要です。

望ましいインフレ率をどう考えるか

 さらに、そもそも目指すべき最適なインフレ率は、ちょうどゼロなのか、あるいは、多少のプラス(small but positive)なのか、という議論があります。多少のプラスが望ましいとする根拠は、いくつか挙げられています。第1に、只今も申し上げたように、流通革命等による現実の価格低下を物価統計が十分に採り込めるのか、という問題です。これは、物価統計の上方バイアスの問題と呼ばれています。第2に、名目賃金は、上昇率が鈍化することはあってもなかなかマイナスにはなりにくいので、——いわゆる「名目賃金の下方硬直性」ですが——、物価上昇率がある程度プラスの方が経済調整が円滑に進むのではないか、という考え方です。第3に、金利のゼロ制約という問題です。金融政策でコントロールできる名目金利はゼロ以下にはなりませんから、いざデフレが進行してしまうと、それ以上の金融緩和の余地が制約されてしまいます。その意味で、金融政策の対応の余地を増やしておくためにも、多少プラスの「のりしろ」を持っておく方がよい、という議論です。先ほどお話ししたイギリスが2.5%であったのをはじめ、インフレ目標値を設定している国はどこでも基本的に多少プラスの目標値を設定していますが、これも今申し上げた「のりしろ論」と関係があるようです。

 しかし、そうした議論や諸外国の例を、そのまま現在の日本に当てはめてよいかどうかについては、慎重な検討が必要だと思います。最近1~2年の間に生じた大幅なボーナス削減や、パートや人材派遣を利用した人件費の節約状況などを踏まえると、日本の労働市場では名目賃金の下方硬直性はそれほど強くないようにみられます。また、金融政策の「のりしろ」のために、ある程度の物価上昇率を許容するというのも、本末転倒のような気がします。過去20年近くにわたって、平均1%台前半という安定した物価上昇率を達成してきた日本が、2~3%のインフレ率を受け入れるためには、かなり強い理由が必要です。ここは、日本経済の特質や構造を十分踏まえた上で、国民経済の健全な発展のために適切な「物価の安定」の内容を慎重に検討すべきと思います。

金融政策の透明性向上を目指して

 以上述べたとおり、海外の一部で採用されているインフレ・ターゲティングを、わが国にそのままあてはめるには、様々な難しい問題があるように思われます。実際、日本銀行だけでなく、米国の中央銀行であるFRBやヨーロッパの中央銀行であるECBも、目下のところ、この方法の採用には慎重です。しかし、同時に、何らかの方法で、金融政策の透明性をさらに高めたいということは、日本銀行も強く持っている問題意識です。

 もちろん、経済の先行きを完全に見通すことはできませんので、将来の政策変更についてその具体的な時期を予め約束したり、機械的な基準を定めておく、というようなことはできません。実は、インフレ・ターゲティングを採用している国でも、「インフレ率が何%になったら自動的に金融引き締めを行う」といったルールが存在するわけではありません。あくまでも先行きの物価を巡る中央銀行の判断で、政策を決定しているのです。そして、先行きの物価は様々な要因から影響を受けますので、例えば、内外の需要動向や賃金、原油市況や為替相場、さらには技術革新が物価に与える影響などを検討して、「総合的に判断」する必要があります。その意味では、インフレ・ターゲティングを採用してもしなくても、「総合判断」の重要性は変わりません。この点は少々誤解されているようですが、インフレ・ターゲティングを採用しても、いつ、どのくらいの幅で政策金利の変更が行われるか、機械的にわかるようになる、というものではないのです。

 「金融政策の透明性」というのは、結局のところ、(1)何を目的として金融政策を行っているのかを明確にすること、(2)金融・経済の現状および先行きに関する「総合判断」をきちんと示していくこと、の2点に尽きるように思います。このうち、最初の点については、既に述べたように、新日銀法の中で、「物価の安定」が金融政策の目的であることが明記されました。また、後者の「総合判断」については、日本銀行では、金融経済月報や、金融政策決定会合の議事要旨の中で、なるべくていねいにお示しするよう努めています。こうした情報の開示も、新日銀法施行をきっかけに確立されたものであり、少なくともそれ以前に比べれば、金融政策に関する透明性は格段に高まったものと考えています。

 しかし、同時に、インフレ・ターゲティングといった議論が盛んに行われる背景としては、やはり、金融政策の透明性をもっと高めることはできないか、という市場や人々の声があることも事実だと思います。金融政策の透明性を高めること自体は、政策効果の円滑な波及という観点から重要ですし、そもそも金融政策運営や目的とする「物価の安定」に関する私どもの考え方をわかりやすくお伝えするのは、日本銀行の重要な使命であると認識しています。

 このような問題意識を踏まえ、日本銀行は、今後、「物価の安定」の考え方について総括的に検討を深め、できれば夏頃を目処に、何らかのかたちで取りまとめを行うこととしました。具体的な検討課題としては、とりあえず、(1)「物価の安定」の基本的な考え方、(2)物価の計測、つまり物価指数を巡る諸問題、(3)最近のわが国の物価動向、(4)「物価の安定」の数値化を巡る諸問題、といったことを考えています。新日銀法の施行から2年が経過したこの段階で、「物価の安定」に関する考え方を改めて整理することは、金融政策の一段の透明性向上という観点から、大きな意義を持つものと考えています。

 なお、このような「物価の安定」に関する総括的な検討と、ゼロ金利政策の解除との関係はどうなのか、というご質問をよく頂戴しますので、この点についてご説明しておきたいと思います。

 今回の検討は、あくまで、金融政策の透明性の向上という中長期的な観点にたって、「物価の安定」に関するそもそも論を整理するために行うものであり、当面の金融政策運営とは独立した課題と位置付けています。その意味で、ゼロ金利政策をいつ解除するかとか、その基準をどうするか、といったことと直接の関係があるわけではありません。この検討が終わるまでゼロ金利を解除しないとか、逆に、検討が終わればすぐ解除するというものではありません。

 ゼロ金利を解除する条件というのは、いわば、患者が集中治療室から出られるかどうか、ということです。これに対して、「物価の安定」の基礎的検討は、普段から維持すべき健康や体力の基準をどう考えるか、という問題に相当するものです。

 ゼロ金利解除の条件については、先ほども申し上げたように、「デフレ懸念の払拭が展望できるような情勢になるまでゼロ金利政策を続ける」ということを、明確に申し述べています。当面の金融政策運営は、こうした考え方にもとづいて、金融政策決定会合で情勢を検討したうえで判断していくことになります。

5.おわりに──「デフレ懸念の払拭」について

 それでは、今申し上げた「デフレ懸念の払拭が展望できるような情勢」になったかどうかは、もう少し具体的に言えば、どのように判断していけばよいのでしょうか。本日のお話の最後に、この点をご説明したいと思います。

 まず、金融政策運営上問題とすべき「デフレ」は、「物価の下落と景気後退の悪循環」、つまり先ほども触れたデフレ・スパイラルの状況です。したがって、単に「消費者物価が何%下落すること」といったような定義は困難です。繰り返しになりますが、IT革命や流通革命が急速に進むような局面では、統計上のインフレ率がマイナスであるということだけでデフレであるとは断定できないからです。逆に、たとえ統計上のインフレ率が横這いでも、需要が低迷し始めているということであれば、ほどなく物価の下落や企業収益の減少が見込まれますから、デフレ懸念は払拭されていないと認識しておくべきでしょう。要は、物価の動きを、その背後にある要因と併せて判断することが重要です。したがって、デフレ懸念の払拭を判断する際、もっとも大事なことは、需要の低下や需給バランスの失調に起因するような「悪い物価下落圧力」がどうなっているか、という点です。

 言い換えれば、「景気の回復が持続して需給バランスの改善が続く」というシナリオにある程度展望が持てるようになれば、只今申し述べたような意味でのデフレ懸念はほぼ払拭された、と考えられますし、日本経済は、集中治療室から出られることとなります。そのためには、景気が政策要因や外部要因ではなくて、民間需要中心に自律的に回復していくという見通しがしっかりしてくることが大切です。

 民間需要という場合、基本的には個人消費と設備投資であり、どちらが欠けても好循環は続かないのですが、こうした好循環にはずみをつけるのは、設備投資が重要な役割を果たすことが多いと考えられます。このところ、企業収益が増加し、企業や消費者のマインドが上向くなど、民間需要を巡る環境も徐々に改善してきています。問題は、こうした環境の改善が、実際の支出活動に結び付いていくかどうか、ということです。日本銀行としては、このように、設備投資を中心とする民間需要の回復力という点に注目しながら、情勢を丹念に点検していきたいと考えています。

 以上、本日は、調整インフレやインフレ・ターゲティングを巡る議論を手がかりにして、「物価の安定」と金融政策運営についてお話ししてまいりました。今後とも皆様方のご理解とご協力をお願いして、私のお話を終えることとします。

 ご清聴ありがとうございました。

以上