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日本経済の現状と金融政策運営

中日懇話会における岩田副総裁講演要旨

2005年 9月15日
日本銀行

[目次]

  1. I. はじめに
  2. II. 日本経済の現状と見通し
  3. III. リスク要因
  4. IV. 金融政策運営
  5. V. 当地経済の今後
  6. 参照文献

I. はじめに

 日本銀行の岩田でございます。本日は、歴史と伝統ある中日懇話会において、東海地方の経済界を代表する皆様方の前でお話する機会を頂き、ありがとうございます。また、当地では、日頃から日本銀行名古屋支店に対しまして皆様のご支援、ご協力を頂いておりますことをこの場を借りて御礼申し上げます。

 本日は、内外経済の見通しについて、ベースとなるシナリオはどのようなものか、またそれに対してどのようなリスクがあるか、という点をやや詳しくお話した後、金融政策運営、そして当地経済の今後について、お話しようと思います。

II. 日本経済の現状と見通し

 日本経済は、2002年1月以来、息の長い回復を続けています。44ヶ月というと戦後でも3番目の長さであり、戦後最長のいざなぎ景気(57ヶ月)に並ぶ可能性もあります。もっともこの間に2度成長率が鈍化した時期があります。それは、2003年と2004年から2005年にかけての時期です。いずれの時期にも一時期成長率がマイナスになりました(図表1)。

 今回のいわゆる景気の「踊り場」は、2004年の春に、デジタル家電部門のミニ・バブルが崩壊したことを契機にして、IT部門を中心とした調整局面に入りました。半導体の需給は、世界的にみてもおおむね4年周期で上昇・下降のサイクルを描くとされており、これを「シリコンサイクル」と呼びますが、この「シリコンサイクル」も、ほぼ時を同じくして下降局面に入りました(図表2)。日本の場合は、半導体出荷額の落ち込み幅が、全世界ベースに比べてやや大きく、落ち込みからの立ち上がりも遅れ気味です。また、半導体市況の先行指標とされる半導体製造装置の受注・出荷比率(Book-to-Billを略してBBレシオと呼ばれています)は、日本、北米とも2004年半ば以降、おおむね1を下回って推移しています。アメリカでは、IT部門の半導体や部品生産の多くを海外での受託生産に委ねていることもあり、IT部門の在庫調整は発生しませんでしたが、アジア諸国では昨年半ばから今年前半にかけてIT部門の生産や輸出にマイナスの影響が出ました。

 日本の場合、景気循環は、在庫投資と設備投資の循環によって引き起こされることが多いのですが、今回の「踊り場」局面でも、最初は、IT部門を中心に販売の停滞から在庫が増加し、その伸びが出荷の伸びを上回ったために、在庫率の上昇が生じています(図表3)。その後、成長率が2004年第2四半期以来ほぼゼロという状態を3四半期続けている間に、中国の輸入の急速な減速もあり、鉄鋼や化学など素材部門で在庫率が高まりました。

 現在は、IT部門の在庫調整はほぼ一巡した段階にあります。非IT部門の在庫調整圧力はなお残存していますが、設備投資や個人消費を中心にして国内民間最終需要は堅調であることに加えて、実質輸出も回復傾向を示しつつあります。

 不良債権問題の処理が進み、企業部門の過剰雇用、過剰設備、過剰債務といった問題も解消するにつれて、銀行の企業や家計に対する貸出(債権の流動化、償却や為替変動など特殊要因を除くベース)も増加に転じています。労働市場においても雇用が緩やかながら増加を続け、昨年冬のボーナスに続いて、今年の夏のボーナスも伸びがプラスに転ずるなど賃金も増加しています。雇用と賃金の伸びを反映して、経済全体の雇用者報酬の伸びも2%近くになっています。こうした経済の基礎条件の改善によって、日本経済は、緩やかではあるけれども息の長い自律的な回復軌道に復しつつあります。

 日本銀行は、本年4月に公表した「経済・物価情勢の展望」において、日本経済が潜在成長率を若干上回る成長を続けることによって、デフレを脱却することが可能であるという見通しを示しました(図表4)。政策委員予測の中央値でみると、コア消費者物価指数は、2005年度にはマイナス0.1%に止まるけれども、2006年度にはプラス0.3%になるという見通しを出しました。

 現実のGDPと経済の供給能力を示す潜在的なGDPの差をGDPギャップといいます。このGDPギャップが存在する限りデフレ幅は縮小しないのではないかと見る方もいます。しかし、現実にはGDPギャップが縮小することによって、デフレ幅が縮小するという関係が観察されます。この関係は、日本がデフレに陥ってからも安定的に推移しています(図表5)。図から見て取れるように、GDPギャップが1%縮小すると、コア消費者物価指数は、0.4%程度、上昇圧力を受けることになります。2003年度、2004年度の実質GDP成長率は、それぞれ2%、1.9%でした。潜在成長率は1%程度と見られますので、GDPギャップの縮小によって過去2年間で0.8%程度コア消費者物価指数が押し上げられたことになります。2002年度にコア消費者物価指数は、前年比で0.8%下落しました。以上の大まかな計算を将来についても延長して適用すると、2005年度の成長率が潜在成長率を上回るようであれば、年度の途中からプラスに転じてもおかしくないということになります。

 現実に足元のコア消費者物価指数をみますと、本年6月、7月と、前年比で0.2%程度のマイナスが続いています。しかし、こうした動きには、一時的あるいは特殊要因とみるべきものも影響しています。石油製品のような価格上昇要因もあれば、コメ、固定電話料金、電気料金など価格引下げ要因も含まれています。これらの要因を除いた、いわば「実力でみたコア消費者物価」は、ここ数か月ほぼゼロになっています(図表6)。従って、GDPギャップが引き続き縮小し、特殊要因が剥げ落ちてゆくにつれてコア消費者物価指数の上昇率はゼロからプラスになってゆくと期待出来ます。

 9月の金融政策決定会合では、コア消費者物価指数の先行きについて、年末頃にかけてゼロ%ないし若干のプラスになるとの判断を示しました。日本経済が、緩やかではあるけれども持続性のある、自律的な成長を今後も維持できるとすれば、デフレ脱却の展望は明るいものであるといえます。

III. リスク要因

 このシナリオを実現する上で注意すべきリスクがいくつかあります。

 その第一は、高騰を続ける原油価格とアメリカのハリケーン(カトリーナ)がアメリカおよび世界経済に与える影響です。

 昨年来の原油価格上昇は、アメリカやBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)が先導する形での需要主導型であったこともあり、世界経済に与える効果は限定的でした。しかし、8月末に米国南部を襲ったハリケーン「カトリーナ」は、原油の生産・精製施設の破壊といった供給面のショックを併発させています。ハリケーン「カトリーナ」は、一時的には、アメリカの原油・天然ガス生産能力(全米の10%相当)、石油精製能力(全米の20%相当)を損ない、輸送などインフラ面でのボトルネックを創り出しました。これは、経済活動や成長率を停滞させ、インフレを加速するリスクを内在しています。

 日本の神戸の震災の例を思い起こしますと、自然災害の発生は、一時的に経済活動を停滞させるとしても、その後は復興需要により成長率は上向くものと考えられます。アメリカの実質GDP成長率は、2005年下期には0.5%~1%程度減速すると見られますが、その後は復興需要もあり、成長率は上向くものと見られます。

 他方、インフレに与える影響については、アメリカの労働生産性の伸びがどの程度であるかによってかなり異なったものになります。労働生産性が高い伸びを示していれば、経済成長のスピードが速くとも、インフレ圧力は抑制されます。アメリカの労働生産性の伸びは本年第2四半期には前年比2.2%と、過去の目安である2%台半ばから鈍化しているほか、一単位の付加価値を生み出すために必要な労働コストを示す「単位労働費用」は、前期の前年比3.4%から第2四半期には4.2%へと上昇しています。これらは、先行きのインフレ・リスクを示唆する指標と言えましょう。その一方で、自営業や金融部門を除いた場合の労働生産性の伸びは前年比6.3%に達しているというデータもあります。

 かりに後者の数字に注目し、アメリカの労働生産性はまだまだ高い伸びを続けていると考えれば、インフレ・リスクは少ないということになります。前者の数字を重視しインフレを抑制しようとすれば、アメリカの中央銀行には、昨年6月以来の短期金利引上げを継続することが求められることになります。他方で、一時的であるにせよ、経済活動の停滞を招くリスクがある大規模な自然災害に際しては、金利引上げを停止すべきだという考え方もあろうかと思います。

 アメリカ政府は、復興のために大規模な財政支出を計画していますが、金融政策運営について、退任を控えたグリーンスパン議長に最後の難題が突きつけられていると言ってよいでしょう。

 第二のリスクは、アメリカの経常収支赤字の拡大です。経常収支・名目GDP比率は約6%にも達しています(図表7)。アメリカの対外純債務・名目GDP比率は、およそ20%に達しています(図表8)。この比率を、例えば30%以上にしないためには、維持可能な経常赤字・名目GDP比率はおよそ3%と推計され、経常赤字は、名目GDP比率で3%程度縮小する必要があるということになります1

 経常収支の赤字は、財やサービスの輸出と輸入との差や海外からの所得の受け取りと支払いの差の合計として定義されます。これを、国民経済全体のマクロ・バランスの面から見ますと、国内投資が国内貯蓄を上回る大きさが経常収支赤字に等しくなります。アメリカは、2002年以降の財政赤字拡大によって政府貯蓄がマイナスとなっているほか、家計部門も7月には貯蓄率がマイナス0.6%まで低下しました。財政赤字幅は、税収の増加もあって、2004年に入ってから改善方向を示していますが、家計貯蓄率は、1980年代初頭をピークとする低下傾向を脱していません(図表9)。

 家計貯蓄率が低下している1つの要因としては、高騰する住宅価格を挙げることが出来ます。住宅価格は、1990年代前半をボトムとして上昇し始め、2004年以降加速傾向を強めています(前掲図表9)。住宅価格の上昇は、地域的に太平洋岸、大西洋岸に近い部分に偏っていることや、所得の伸びと安定した長期金利を考慮すると、それ程には大幅ではない、との評価も可能です。グリーンスパン議長は、これを資産価格「バブル」とは呼ばず「フロス」(小さな泡)であると呼んでいます。

 アメリカでは、住宅融資に様々な形態が工夫されており、住宅資産価格が債務を上回るとその分安い金利の消費者ローンが利用可能になる「ホーム・エクィティ・ローン」をはじめ、「金利支払いのみローン」など、これまで富裕層のみに利用可能であった形態の融資が中流層にも広まっています2

 住宅資産の増加は、株価の上昇ともあいまって家計の保有資産を増加させることを通じて消費を押し上げ、貯蓄率を押し下げる効果をもっています。最近は売買回転率の低下など住宅価格上昇が先行き沈静化する兆しも現れています。かりに住宅価格の上昇が沈静化に向かうことになれば、個人消費の伸びも減速し、家計貯蓄率も上昇に転ずることが期待出来ます。これは、先ほどの国民経済のマクロ・バランスという観点からみれば、国内貯蓄の増加を通じて、経常収支赤字の縮小をもたらすと考えられます。ただし、この過程でアメリカの成長率が減速することによるマイナスの影響が他国に及ぶということになります。

 もう1つの経常収支赤字改善の方法は、米ドルの減価です。中国の人民元は、7月下旬に米ドルに対して2.1%切り上げられ、通貨バスケットを参考にする新たな「管理フロート制度」に移行しました。今回の改革で重要な点は、人民元為替制度の変更に引き続いて、為替先物市場の整備などが進められていることです。こうした動きにより、市場参加者の裁定活動が容易になることは、将来の弾力的な制度運用にとって望ましいことと考えられます。アメリカ議会は、中国が人民元の大幅な切り上げを行なわなければ、27.5%の輸入課徴金を課すという法案を準備しています。

 私は、保護貿易主義によって経常収支赤字の是正を図ることは、最悪の選択であると考えています。また、為替レートの大幅かつ急激な変化によってアメリカの経常収支赤字を解決しようとすると、多くの副次的効果をもたらすので望ましくないと考えています。私は、他の先進国と比べてアメリカの労働生産性の伸びが高く、かつ資本収益率が高い状態が維持されるのであれば、ドル・レートは安定的に推移してもおかしくないと考えています。

 アメリカの経常収支赤字を縮小させる代替的な方法として、財・サービスの生産・供給面に着目すると、非貿易財部門から貿易財部門へと資源をシフトさせることが考えられます3。アメリカの製造業は、国際貿易で比較優位を失いつつありますが、比較優位のあるサービス部門の貿易自由化を推進し、サービス輸出を拡大することは可能です。自由貿易の拡大は、競争力のない部門における痛みを伴いますが、基本的にはプラス・サムの成果をもたらします。この意味でWTOの貿易交渉が行き詰まりになっていることは、アメリカのみならず世界経済にとって残念な事態であると思います。

  1. 1かりに名目GDPの成長率と名目長期金利がそれぞれ5%であるとすると、利子率で割り引いた対外純債務・名目GDP比率が将来も一定であるためには、対外純債務の伸びは10%に止めることが必要になります。そこで、対外純債務/名目GDP比率が30%のときに、同比率がそれ以上にならないための経常収支・名目GDP比率は、対外純債務の伸び(=10%)×対外純債務・名目GDP比率(30%)に等しいので、3%ということになります。対外純債務・名目GDP比率がもっと大きな値になってもよいと考えるのであれば、経常収支・名目GDP比率は3%よりも大きくてもよいということになります。
  2. 2アメリカの監督当局は、金融機関の行過ぎた住宅融資が不健全な経営につながらないよう指導をしているとも言われています。
  3. 3この一般均衡に基礎をおく考え方は、Obstfeld = Rogoff (2005) に見られます。

IV. 金融政策運営

 さてこのような2つのリスクに直面する下で、デフレ脱却を目指している日本の金融政策にはどのような政策運営を行なうことが求められているのでしょうか。

 日本銀行は、2001年3月以来、「量的緩和政策」を4年半にわたって続けています。ここで「量的緩和政策」というのは、1999年2月から2000年8月にかけて採用された、翌日物コールレートをゼロに維持する「ゼロ金利政策」とは異なり、日本銀行の取引先である市中の金融機関が日本銀行に預けている当座預金残高を操作目標とする政策です。日本銀行に預けている金融機関の当座預金残高は、金利が付されていないこともあって、通常の場合には準備預金制度の下で積み上げることが必要とされている額(現在、月中平均で約6兆円となっています)にほぼ等しくなっています。

 「量的緩和政策」が採用されてから、金融不安に対処するために市場への流動性供給を増加したり、或いは、景気の下支えをするために、当座預金残高目標は何度も引き上げられてきました。現在は、目標とされる残高は、30~35兆円程度になっています(図表10)。

 この当座預金残高目標の引き上げが行なわれる過程で、ゼロ金利がカバーする範囲は当初の翌日物金利から1年物程度まで拡張されてきました。この「カバーする」という表現は、少し分かり難いかもしれません。翌日物金利は、準備預金を上回る資金を供給することで、ゼロになります。さらに、現在、日本銀行が採用している量的緩和政策には、「コア消費者物価指数が前年比で安定的にゼロを上回るまでその枠組みを堅持する」という約束が付されています。このように、量的緩和政策をいつまで継続するか、換言するとどのような条件が整った場合に政策を転換するかを予め約束することによって、市場参加者は、翌日物金利の「ゼロ」が、一定期間継続することを予測します。現実の市場金利をみると、少なくとも1年程度くらいまでは、こうした予測にカバーされているようです。この結果、やや長めの金利にも、下押し圧力がかかっています。このように、経済の状況が一定の条件を満たすまで政策を継続する約束をする(この約束を「条件付きコミットメント」といいます)ことで、将来の利子率に関する市場の期待に働きかけることを「政策持続効果」と呼んでいます。

 量的緩和政策継続に関する条件は、2003年10月に3条件として明確化されました。具体的には、コア消費者物価指数の前年比が数か月均してみてゼロ%以上であること、先行きについても再びマイナスとなると見込まれないこと、などがその内容となっています。これらの条件が、満たされるのは大分先のことであると市場参加者が考える場合には、ゼロ金利の継続期間が長期化するとの期待から、「政策持続効果」が強まり、短期金利のみならずやや長めの金利に下押し圧力が加わることになります。逆に、条件が満たされる時期が接近したと市場参加者が考える場合には、「政策持続効果」は弱まり、金利が正常な姿に戻ろうとする力が働くことになります。

 2004年末から本年8月にかけて、日本銀行の資金供給オペレーションに対する応札額が資金供給予定額に満たない「札割れ」がしばしば発生しました(図表11)。これは、本年4月のペイオフ全面解禁が円滑に実施されるなど、金融不安が解消する中で、金融機関が日本銀行に当座預金を積み上げておく必要が薄れてきたことに基本的な原因があります。しかも、デフレ脱却はまだ先のことであると市場参加者が考えていたために、「政策持続効果」が強まり、金利に下押し圧力がかかりました。当座預金を積み上げる必要が減少している上に、期間が半年以上の金利もゼロに近づいたため、日本銀行の短期のみならず長めの資金供給オファーに対しても、オペの参加者は応札する意欲をなくしました。こうしたことを背景に、札割れが生じたといえます4。日本銀行は、5月に当座預金目標の一時的な下限割れを容認することにしました。これは、一部の報道にみられるような量的緩和政策の枠組みを転換するための第一歩ではなく、むしろ量的緩和政策の枠組みを長持ちさせ、当座預金残高目標を維持するための措置でした。

 7月頃から、市場参加者の日本経済の将来の動向についての見方が、日本銀行が想定しているシナリオに近づき、デフレ脱却、すなわち量的緩和政策の出口を意識するようになったこともあり、金利に上昇圧力が生じてくるようになりました。この結果、札割れは生じにくい状況になっています。市場がいつ量的緩和政策の転換が行なわれると予測しているかは、金利の先物市場の動向から推測することが可能です(図表12)。換言すると、量的緩和政策からの出口がいつになるかということについて、市場がもつ情報を日本銀行に与えてくれるというのが「条件付きコミットメント」の仕組みなのです。

 振り返ってみますと、日本銀行は、これまで4年半にわたる量的緩和政策を通じて、マイナス1%程度のデフレを0%に近いところまでもってくるという成果を収めています。こうした成果を収めることが出来たのは、量的緩和政策継続の条件という形で、コア消費者物価指数を前年比で「安定的にゼロ%以上にすることが望ましい」というシグナルを市場に送り、しかもそのシグナル効果を当座預金残高引き上げという形で強化することによってデフレスパイラルを防止したことが大きいと思います。すなわち、予め「安定的にゼロを上回る物価上昇率を目指す」ことを市場に伝えることで、人々のデフレ期待を弱める効果が生まれたといえます。この意味で量的緩和政策の「条件付きコミットメント」は、「物価安定の錨」の役割を果たしてきたといえます。

 世界の中でも日本ほど、中央銀行による「物価安定の錨」の提供を必要としている国はないといってよいでしょう。といいますのも、金利をゼロに保つ政策を維持する場合には、貨幣供給量と価格水準の関係が希薄になるために、価格水準の決定がうまく行なわれない可能性があるからです5

 コア消費者物価指数が安定的にゼロを上回るようになり、3条件を満たす状況になった場合には、量的な枠組みから金利を中心とした枠組みに移行することが考えられます。私は、金利を中心とした枠組みへの転換を行なう場合にも、「再びデフレに戻ることがない」という歯止めをしっかりとおき、期待の不安定化から長期金利に過度の変動が生じないようにする上で「条件付きコミットメント」を通じた「物価安定の錨」の役割を活用することが望ましいと考えています。

  1. 4日本銀行の資金供給オペレーションが困難になったもう1つの原因としては、大幅な財政資金の振れがあります。税収の増加のほか、借換え債の前倒し発行増加もあり、本年7月末には、日本銀行における政府預金等の残高は35兆円にも達しました。財政資金が税収増加や国債の発行によって市場から資金を吸収する場合には、日本銀行はより大量の資金供給オペレーションを行なう必要が生じます。8月下旬に公表された国庫金の効率的管理に向けた措置は、財政資金の振れを縮小するものと期待されます。
  2. 5プラスの物価上昇率を目指すことを明示することによって、「価格水準目標政策」がもつ「政策措置を採る以前の人々の期待形成の役割を重視する」という考え方(歴史依存性)を部分的に取り入れることになったといえます。この考え方によれば、デフレ状態が長く続いた場合には、デフレ期待を払拭するために通常よりも長い期間金融緩和政策を採ることが必要であり、とりわけデフレからの「出口」付近において緩和政策持続の果たす役割が大きいということになります。なお、デフレ脱却において「物価安定の錨」が果たす役割、および日本銀行が行なっている政策運営と「価格水準目標政策」との違いについては、岩田一政 (2005a、b)を参照して下さい。

V. 当地経済の今後

 さて、目を転じて愛知、岐阜、三重東海3県の経済動向を振り返ってみますと、全国の経済活動の約10%に当たる大きな規模を占めており、日本の3大経済圏の1つとなっています。最近は、当地主力の自動車産業の好調に加え、中部国際空港(セントレア)、愛知万博といった2大プロジェクト、さらには名古屋駅地区の再開発など地域活性化に向けた動きの成功もあって、日本経済の「踊り場」脱却を先導する役割を演じています。日本銀行の支店長会議でも、ここ数年は「最も元気のよい」報告が当地の支店長からなされており、私も随分元気付けられています。

 当地の製造業は、国内のみならず国際的にも競争力が抜群に強く、自動車以外にも電子部品・デバイス、工作機械、ニューセラミクス、宇宙航空産業など高い競争力をもった優れた産業が群雄割拠しています。

 金融面につきましても、金融機関の貸出規模は全国の7%と経済活動よりもやや小さいのですが、有力な金融機関が互いに鎬を削っており、貸出金利が全国平均よりも低いなど「金融激戦区」になっています。

 さらに、産業活性化のみならず農業、生活福祉、教育など広範な分野で経済特区が多数認定され、様々な分野で経済構造改革が推進されています。名古屋証券取引所におきましても、「成長企業市場」(セントレックス)を中心として新規事業の掘り起こしや外国企業の上場を誘致する取組みがなされています。

 「ポスト万博」につきましても、IT産業の集積・育成や環境関連ビジネスを始めとする次世代技術の研究開発などを通じて、当地が日本経済再生のトップバッターとしての役割を果たして行かれるものと確信致しております。日本を先導する地域の将来に対して大きな期待を表明することで、私の講演を終わらせて頂きます。御清聴有難うございました。

参照文献

  • [1]岩田一政(2005a)(カンザスシティ連邦準備銀行主催シンポジウムにおける講演要旨)
  • [2]岩田一政(2005b)「25年後の「金融政策と銀行行動」」(日本金融学会2005年度春季大会における講演要旨)
  • [3]Obstfeld, Maurice and Kenneth Rogoff (2005), "Global Current Account Imbalances and Exchange Rate Adjustments", Brookings Papers on Economic Activity 1: 2005