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【講演】人口動態の変化、情報通信技術の影響とグローバル化:やや長い目で危機後の世界を考える

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トルコ共和国中央銀行におけるスピーチの抄訳

日本銀行副総裁 西村 清彦
2012年8月27日

目次

はじめに:トルコと日本 —アジアの外縁における友好と協力

今回、トルコ共和国中央銀行を訪問し、トルコと日本の双方が関心を有するグローバルな経済問題についてお話しできる機会を与えられたことを、大変喜んでおります。

トルコと日本はアジアの対極にある国で、2国間の距離は約9,000キロあります。もっとも、過去においても、現在においても、距離は友好と協力の障害にはなっていません。両国は、19世紀後半に近代化を推進した際、ともに同じような課題に直面していました。そうした文脈の下で、1889年に当時のトルコ皇帝アブドゥル・ハミド2世は、600人以上が乗り組んだフリゲート艦エルトゥールル号を日本に派遣しました。周知のように、この航海は台風によって悲劇に終わりましたが、救援に当たった地元の人々の努力と事件の後の親善関係の構築は、トルコと日本両国の友好と協力関係の礎となっています。

現在、トルコと日本を含む世界の国々は、さまざまな課題に直面しており、それらのうちのいくつかは、最近の国際金融危機によって惹起されたものです。こうした課題について、私がここ数年考えてきたことについて、本日、お話しすることにいたします。足許のマクロ経済的な動向そのものに関係するものではないかもしれませんが、危機後のグローバル経済環境に対する中長期的な影響に関係する課題をお話したいと思います。

私の講演は3部構成となっています。まず、危機後の経済において鮮明になってきた3つの動向を検討します。すなわち、労働市場におけるミスマッチ、成長力の低下、および賃金の底打ちです。その上で、こうした現象の原因を分析し、人口動態、バランス・シート調整、情報通信技術の影響ならびにグローバル化および格差の拡大の4つを指摘したいと考えています。最後に、このような動向が将来の政策に与える影響を検討いたします。

1. 危機後の経済 —日本と米国における労働市場のミスマッチ、成長力の低下およびインフレの動向

それでは本題に入りますが、現在の世界経済において最も重要な動向は何でしょうか?この点についてはいろいろな見方があると思われますが、私としては以下の3つが重要だと考えています。すなわち、労働市場においてミスマッチが増大しているようにみえること、成長力が落ち込んだままになっていること、および、サービス産業で趨勢的な賃金の低下傾向に歯止めがかかってきたことです。

1.1. 労働市場におけるミスマッチの増大

第1に挙げた労働市場におけるミスマッチの増大を示すものとして、ベバリッジ曲線の外側へのシフトを挙げることができます。同曲線は、労働市場の状況を表すよく知られた方法ですが、失業率と欠員率 —欠員数と雇用者数の和に対する欠員数の比率— をグラフ化したものです。一般的に、y軸に欠員率をとり、x軸に失業率をとった場合、欠員が少ないときには失業率も高い傾向がありますから、右下方に傾く曲線となります。そして観測されるデータは、景気の動向を反映して、同曲線の上を行ったり来たりすることになります。

6枚目のスライドのグラフは、米国の労働市場の状況を示したものですが、2000年代初の景気後退が深刻化するとともに毎月のデータが曲線上を下方に動き、その後の景気拡大局面において今度は反対方向に動いたことがわかります。2006年12月には最も上方近辺に動きましたが、最近の国際金融危機が深刻化するとともに再び下方に動いたあと、2009年6月に底を打ちました。さらに2012年6月までの動きをみますと、再び上昇はしているものの、3年分ほどのデータを見る限り、従来の曲線ではなく新しい曲線の上を移動するようになったように見えます。

今しがた説明したように、曲線の外側へのシフトは、一定の欠員率のもとで実現する失業率が高まっていることを意味しており、一般的には、労働市場におけるミスマッチが増大していることを反映していると理解されています。これは、他の条件が一定であれば、景気循環の各点で、対応する失業率が高まっていることを意味しています。このような米国の状況は、次のスライドに示すように、10年前に日本で起きたことを想起させます。日本では、バブル崩壊の後、データが次第に、しかし明らかに、外側方向の新しい曲線上に移行していったことがわかります。

1.2. 成長力の落ち込み

第2の重要な動向である成長力の落ち込みについては、失業と産出量にかかる経験則であるオークンの法則の実際の推移を見ることで、その証拠を示すことができると思います。8枚目のスライドのグラフでは、x軸に米国における四半期ごとの失業率の変化幅、y軸に同じく四半期ごとの経済成長率を示しています(いずれも年率)。2000年第4四半期以前のデータについて回帰線を引くと、傾きは-1.8573となります。つまり1パーセント・ポイントだけ失業率が増加すると、大体2パーセント・ポイントの経済成長率の低下につながるというわけで、オークンが最初に指摘した経験則と概ね整合的です。この回帰線がy軸と交わる点、すなわち回帰線の切片は、失業率を変化させない成長率ということですから、潜在成長率の推計とみなすことができます。

2001年以降のデータをみると、失業と成長の関係には変化が見られます。2000年第4四半期以降、回帰線は下方にシフトするとともに、その傾きは緩やかになっています。この傾向は、いわゆるパリバ・ショックがあった2007年8月以降、より鮮明になっています。つまり、少なくとも足許の状況をみる限り、成長力は以前よりもかなり低下しているといえます。

1.3. 名目賃金低下傾向の底打ち

第3の動向に移りましょう。9枚目のスライドのグラフは、米国における失業と賃金上昇率との関係の変化を示しています。これからわかるように、サービス産業においては、失業率のそれぞれの点に対応する賃金の上昇率は、1980年代初から2000年代央にかけて着実に低下しました。言い換えれば、短期の賃金フィリップス曲線は目立って下方に移動したのです。まず、黄色の線で示した1980年代初ですが、失業率が8%であっても賃金は8%ほど上昇していました。これに対し、金融危機の直前では、失業率が5%を切っていましたが賃金の上昇率は4%にも達しませんでした。このように、最近は1980年代あるいは1990年代と比べ、かなりの賃金ディスインフレを経験したことになります。

しかしながら、こうしたいわゆる賃金フィリップス曲線の下方シフトには、近年、歯止めがかかっているようにみえます。2005年第1四半期以降のデータを見ますと、下方シフトしているというより、ずっと黒色で示した同じ回帰線の上に乗っているといって差し支えなさそうです。ちなみに、参考として統計量をみますと、この回帰線の決定係数(R2)は0.89となっています。家計の消費支出のうちサービス関連が占める割合が6割を超えることを考えると、失業率が高止まりしているとしても、景気が上向きの循環局面に入るとともに物価上昇率が徐々に高まることに不思議はありません。実際10枚目のスライドにある、米国におけるPCEインフレ率の刈り込み平均(これは一般的にはPCEインフレ率の基調的な変動を示すと理解されていますが)のグラフはこの点を如実に示しています。

日本についてみると、これまでみてきたような米国のグラフと非常に似たグラフを描くことができます。11枚目のスライドのグラフをみると、日本ではオークンの法則が明確に観測できるとはとてもいえませんが、米国と同じ期間について行った同種の回帰分析の結果をみる限りにおいて、日本においても(失業率を変化させないという意味での)潜在成長力は、年とともに低下していることは否定できないようにみえます。また、12枚目のスライドのグラフにあるように、1980年代後半にみられた不動産バブルが崩壊した後については、日本のサービス産業での賃金フィリップス曲線は安定しています。日本の物価上昇率が、米国と比べてかなり低いことは事実ですが、最近の失業率の低下に伴って、刈り込み平均値でみたCPI前年比の基調はごく最近までじわじわと上昇傾向にあります。

1.4. 一時的か永続的か

これらの動向はごく一時的なものなのでしょうか、あるいは、ある程度永続的なものなのでしょうか?

米国では、多くの識者が一時的とみているようです。14枚目のスライドの表に示した米国議会予算局による最近の推計によれば、2012年から2013年にかけて潜在成長率は低下するものの、2014年から2022年にかけては危機前の水準に戻ると見込まれています。

このような見方は、これまでみてきた3つの動向が、経済構造の変化ではなく、国際金融危機というこれまで経験したことがなかったような大きなショックによってもたらされたという考え方に基づいています。つまりこれらの識者は、ベバリッジ曲線自体がシフトしたのではなく、景気回復局面においては反時計回りにデータが動くという経験則に沿っているとみていることになります。また、ショックに直面してこれまでにないほど大規模のレイオフがあり、そうした労働者が再雇用されたことがオークンの法則からの一時的な逸脱をもたらしていると考えています。その結果、これらの識者は、総需要を刺激する政策を提唱しており、そうすれば比較的短期間のうちに経済が危機前の経路に戻るとみていることになります。

問題は、こうした見方と現実とのずれが次第に大きくなってきていることです。とくに、景気回復の速度はかなり遅く、目先に加速することも見込まれていません。過去の景気循環と比べて、回復の速度が遅くなっています。実際、1990年代以降、日本で起きたこととの類似性を否定することがますます難しくなっているといえます。

景気回復のパターンも変わってきています。たとえば、自動車産業の回復が比較的早かったのに対し、住宅市場はきわめて深い調整を経たにもかかわらず回復の兆しが見えにくい状態です。さらに付け加えれば、最近発表された、いくつかの経済史にかかる研究成果(たとえばラインハート教授とロゴフ教授の研究)をみると、金融危機からの回復は遅々として進まないのが通例のようです。米国だけでなく多くの先進国が同様の傾向に悩まされているほか、2008年当初は比較的うまく危機を乗り切った新興諸国の成長が目に見えて低下していることは、各国の低成長が不可避となるような共通の要因があるのではないかという問題意識を生じさせます。

こうした共通する要因について次に検討したいと考えていますが、ここで一言、私は運命論者ではないということは強調しておきたいと思います。もちろん、構造要因が経済に重要かつ持続的な影響を及ぼすとはいえ、全ての経済変動をそれだけで説明することはできませんし、また説明しようとすべきでもありません。実際、経済は、金融政策を含む、総需要管理政策から明確に恩恵を受けることができると考えています。こうした政策は、景気が上昇する局面と下降する局面の双方において、景気の過度の変動を防ぐことができます。このように政策は有効ですが、同時に構造変化が起きているという前提の下に立案され、実施されなければなりません。また、構造変化が起きれば政策の位置付けやその有効性に変化が生じることにも留意しなければなりません。こうしたことを考えると、特に米国の場合には、今後を語るときに、いわゆるシェール・ガス革命を背景としてエネルギーのコストに生じようとしている大きな変化について言及しないでその将来の経済動向を語ることはできないかもしれず、この点については改めて触れることとしたいと思います。

2. ミスマッチと低成長の背後にあるもの —高齢化、バランス・シート調整、ならびに情報通信技術が職場、バリュー・チェーンおよびグローバル化に及ぼした影響

ここでは、今まで説明してきた動向の根本原因を探ることにします。冒頭で示しましたように、それは人口動態、バランス・シート調整、情報通信技術の影響、そしてグローバル化です。

2.1. 人口動態がもたらす流動性と柔軟性の低下

第1に指摘したい要因は、いわば人口「ボーナス」から人口「負荷」への転換が起こったことです。18枚目のスライドに掲げた2つのグラフは、この点を日本と米国について示しています。グラフ上の黒い線は、逆従属人口比率、すなわち、15歳から64歳までの労働年齢人口をそれ以外の年齢層の人口(労働年齢の人々に依存している)で割ったものです。

逆従属人口比率は、年金や子供への支出といった形で、従属年齢の国民1人を、何人の生産年齢の国民で支えているかを示しています。グラフにみられる2つの山は第2次世界大戦後のベビー・ブームを示しています。第1の山はベビー・ブームで生まれた世代が生産年齢に達したことによって生じ、第2の山はベビー・ブーム世代が引退する前にその子供の世代が生産年齢に達したことによって生じています。これに対して、ピンクと緑の線はそれぞれ実質化された不動産価格と銀行与信残高を、ピーク時の水準を100として表しています。このグラフの特徴は、日本と米国の双方において、不動産価格と銀行与信のピークが逆従属人口比率のピークとほぼ期を一にしていることです。日本と米国ではピークの時期が15年ほどずれていますが、そのパターンは驚くほど似ています。そしてこうした状況は他の国でも観察されています。

多国間のパネル分析を用いた分析により、人口動態が、不動産価格や長期金利と言った経済変数に大きな影響を与えていることを示した研究がいくつか発表されています 。これは、人口ボーナスが観察される期間においては、若いベビー・ブーム世代が土地を購入しようとすると同時に、引退後に備えて実質貯蓄を増やそうとする(「実質貨幣」をより多く持とうとする)ことを考えますと、決して不思議な結果ではありません。土地の供給には物理的な制約があるため、需要の増加は土地の価格の上昇につながります。同様に、仮にマネーの名目残高が一定水準に固定されていますと、「実質貨幣」の価値、つまり価格水準の逆数、が上昇せざるを得ず、これはデフレにつながりかねません。中央銀行は通貨価値の安定を維持するように求められていますから、こうした環境の下では一般物価が安定するようにマネーの名目残高を増やしていくと考えられます。このため理論的には、一般物価が安定的に推移する下で、不動産価格が上昇するという結果になります。もちろん、バブルの形成と崩壊を人口動態だけで説明することはできないことも事実です。たとえば、「今度は違う」症候群ともいえる、過剰に楽観的な見方のまん延もバブルの形成と崩壊の重要な要因の1つです。

ここで人口動態の状況によって、バブルが崩壊したときの影響が異なる点に注意が必要です。高齢化が進む人口「負荷」の状況の下でバブルが崩壊する時の方が、若年層が増加する人口「ボーナス」の状況でバブルが崩壊するときよりも、その影響が概して大きくなると考えられます。その例として、経済における柔軟性あるいは流動性が減退する点と、より深刻なバランス・シート調整をもたらす点の2点を挙げて、考えてみたいと思います。

一般に、高齢層の方が若年層よりも流動性あるいは柔軟性が低いと考えられます。これは、高齢層の方が、先行き働ける年数が相対的に短いため、居住地域を変えたり、違う産業で働くための技能を習得したりといった、調整コストを負担することに後ろ向きになると考えられるからです。こうした傾向は労働者だけでなく、起業家にもある程度みられます。その結果、高齢化が進み、高年層の比率が上昇すると、経済の流動性あるいは柔軟性が低下すると考えられます。

流動性あるいは柔軟性が低下すると、経済におけるミスマッチが長い間修正されない状況が生じます。失業者が新しい仕事をみつけられるまでに時間がかかるようになるかもしれませんし、起業家が新たなビジネス・チャンスをなかなかものにできないかもしれません。こうした傾向は、生産性の上昇を鈍化させます。ここで一言付言すれば、人口「負荷」によってより深刻になるバランス・シート調整の影響も、流動性や柔軟性の低下につながります。

以上のような傾向はバブルが崩壊した後の1990年代の日本で観察されました。そして世界で最も流動性や柔軟性が高い経済の1つであると考えられている米国でさえも、2006年に住宅市場が崩壊してから、この傾向に苦しんでいます。このような流動性や柔軟性の低下を示す根拠は数多くあります。たとえば、21枚目のスライドに掲げたように、住宅の所有者が引っ越す割合は2005年から2009年にかけて、30パーセント以上の大きな低下をみせました。同時期に借家人の間では引っ越す割合が大きく変化しなかったことを考えると、こうした変化の背景に住宅価格の下落があることをうかがわせます。22枚目のスライドは、起業率を示したものです。起業率が高いほど経済の柔軟性が高いといえますが、ここでも2005年以降明らかな低下が観察され、逆従属人口比率のピークと期を一にしています。

もう1つの例は23枚目のスライドに示した米国の移民動向です。移民は米国社会で最も流動性が高い人々であり、米国経済の柔軟性に大きく貢献していると言われています。しかしこの図にあるように、米国への移民が減少傾向にあり、米国から母国への帰国者数の増加が同時に起きていることは、米国の柔軟性が低下していることを示唆しています。こうした人口動態と流動性や柔軟性との関係をさらに裏付けるため、日本についての24枚目のスライドを見ていただきたいと思います。バブルの崩壊後、企業の廃業があまり増えていないのに対し、新規開業が目に見えて減っていることが、日本での流動性と柔軟性の低下を示しています。

2.2. 深刻なバランス・シート調整

第2の要因であるバランス・シート調整の深刻化に目を転じましょう。25枚目のスライドは、実質住宅価格指数のグラフです。左側のグラフは、ピークと比べ実質住宅価格が月次でどれくらい変化したかを日本、英国及び米国について示していますが、その形状は驚くほど似ています。日本では、高齢化が進む下、住宅価格がピークのほぼ3分の1の水準で底を打つまでに10年以上の期間を要しています。米国の住宅価格については、最近のデータは市場の安定化を示していると理解されてはいるものの、日本においてみられた高齢化の影響を念頭に置くと、下落が完全に止まったといえるかどうかまだ定かではありません。

これ以上米国の住宅価格が下落しないとしても、実質価格でみてピークから4割の下落が大きな調整であることは言うまでもありません。これは産業間の回復ペースの違いをもたらしています。住宅ローンの残高が住宅の価格を上回る家計の比率は2010年に大きく高まった後も、さらに上昇しており、これを背景に米国の住宅市場は低迷を続けています。対照的に中央銀行による金融緩和を反映して支払利息が低下していることから、元利払いの対可処分所得比率は目立って低下しています。その結果、米国における自動車販売は、ほぼ正常と考えられる水準まで回復しています。

バランス・シート調整が惹起するもう1つの問題は、市場がもともと有している自然淘汰機能が阻害されることです。金融機関が多くの不良債権を抱えていると、そうした金融機関が健全な企業に資金を供給する能力が低下しがちです。というのは、自分自身がバランス・シートの問題を抱えた金融機関は、さしあたって既存の借り手をなんとか生かし続けるためにお金を回してしまい、より有望な新しい企業に対し貸出を増加させることをしなくなるかもしれないからです。このような状況は、1990年代後半の日本の金融危機時に観察されました。市場による淘汰が働かず、産業界における適者生存が貫徹されなくなり、いわばゾンビ銀行がゾンビ企業を支える形となっていました。

この点は、以前私が中島、清田両教授と行った研究で明らかにしたところです。その結論を29枚目のスライドに示しました。企業レベルの大規模パネル分析によれば、1997年金融危機の時期において、存続企業と退出企業を比較すると、存続企業の方が退出企業よりも全要素生産性が低い、つまり生産性が高い企業の方が退出しているという特異な状況が起こっていたことがわかったのです 。

2.3. 情報通信技術の影響

現在世界経済の姿を形作っている第3の要因は、情報通信技術の影響です。端的に言うと、情報通信技術は労働市場や製品市場における二極化をもたらしています。しかも、この傾向は特定の産業分野に限定されるものではなく、広く一般的に観察される動向なのです。

労働市場への影響

情報通信技術が労働市場に影響を及ぼすのは、情報通信技術がある程度の熟練度を必要とする作業に適用できるため、そうした作業で労働者が情報通信技術に置き換えられることになるからです。たとえば、銀行はかつて紙の洪水に溺れていました。支払は小切手で行われていましたし、取引は紙に記録され、紙の帳簿で管理され、市場の情報は紙テープに印刷されていました。銀行は何百あるいは何千の事務員を抱え、その業務の状況を記録するだけでも文字通り様々な紙をあちらこちらに動き回していました。事務員は、紙に書いてあるどの情報が重要であるかを判断し、どの帳簿にその情報を書き込まなければならないかということを知っていなければならず、その意味での熟練が重要でした。情報通信技術はこうした業務を一変させた訳です。今日では、ほとんどすべての銀行業務は人手を介さずに電子的に処理されています。その結果、昔風の「事務員」はほとんどあるいは完全に絶滅種となってしまっています。重要なのは、こうした変化は銀行業だけでなくすべての産業で起き、プログラムできる作業はすべて電子的に処理されるようになり、その過程で「熟練」労働者の仕事が失われたということです。

こうした変化が、31枚目のスライドに示した熟練度別にみた米国の労働統計のグラフの背景にあるのかもしれません。これをみますと、最近の国際金融危機の後、最も雇用の喪失が大きかったのは中程度の熟練度を必要とする仕事でした。

32枚目と33枚目のスライドは、何が起こったかを図式化したものです。

情報通信技術が一般的に利用されるようになる以前を考えましょう。熟練度に応じ労働者を3つの類型に分け、それぞれについて別々の労働市場があったとします。以下、3つの類型を経営・専門職層、中間管理職・中間熟練工層および一般労働者層と呼ぶことにします。これら3つの類型の労働者の供給曲線をみますと、熟練度の高い労働者ほど相対的に数が少ないことから、熟練度が上がるほど供給曲線の傾きが大きくなると予想されます。これに対し、需要曲線を考えると、労働者の限界生産性、それは雇用主が支払おうとする賃金となりますが、熟練度の高い労働者ほど限界生産性が高いので、雇用主はそうした労働者により高い賃金を支払うことになります。その結果、3つの類型の労働者ごとに32枚目のスライドに示したような均衡に落ち着きます。

ところが情報通信技術が一般的に適用されると、次のスライドに示したようなことが起きます。すなわち、まず、生産性が上昇するため、労働需要曲線は上方にシフトします。他方、中間管理職・中間熟練工層が担っていた仕事は情報通信技術によって容易に置き換えることができるため、中間管理職・中間熟練工層の労働市場は事実上消滅に近くなります。すると中間管理職・中間熟練工層の労働者は、一部は自分たちの技能を上げて経営・専門職層に入りますが、経営・専門職層に必要とされる技能を得るハードルは高いため、情報通信技術の適用によって職を失った多くの中間管理職・中間熟練工層の労働者は、職を求めて一般労働者と競争するようになります。これは、一般労働者層の労働市場の労働供給曲線を下方シフトさせる結果となります。以上のようなプロセスの結果、出現する均衡をみると、経営・専門職層においては需要曲線の上方シフトを通じた賃金の大きな上昇が観察されるのに対し、一般労働者層においては、需要曲線の上方シフトと供給曲線の下方シフトが同時に発生することから、賃金は経営・専門職層よりも上昇の程度ははるかに小さなものになります。加えて、一般労働者の市場にある程度熟練度の高い労働者が流入するため、ミスマッチも増大することになります。

仮に歴史的、文化的あるいは政治的な要請によってこうしたメカニズムが貫徹できず、雇用主が現状を維持せざるを得ない(あるいは積極的に維持する)ことになれば、中間管理職・中間熟練工層の仕事を維持するために雇用主は情報通信技術のメリットを活かすことができず、生産性の上昇は鈍化します。これが1990年代以降、日本の生産性上昇が鈍化している理由なのかもしれません。歴史を振り返ると、日本の企業は、1980年代まで中間管理職・熟練工層を中心に個々の企業に固有な技能、すなわち各企業の労働者に共有され蓄積されたノウハウから大きな生産性向上の恩恵を受けてきました。そして雇用調整を行うコストが高かったこともあり、1990年代以降企業はそうした労働者を情報通信技術で置き換えることをためらい、生産性の上昇が阻害された可能性があります。実際、16の業種について1981年から1998年までの期間のパネル分析を行って得た結論はその可能性を強く示唆しています 。

製品市場への影響

情報通信技術は、製品市場において企業組織やビジネス・モデルにも影響を及ぼしています。

19世紀の後半以降、大量生産が進展し、規模の経済が働くようになると、企業にとっては原材料・半製品のコスト以上に、必要な原材料・半製品を必要な時に投入するための段取りのコストが重要になってきました。その結果、生産過程や製品開発を組織化して最適化することが利益の源泉となるようになりました。この課題に対する初期の解の1つは、フォードがデトロイトのリバー・ルージュ工場で完成させたような、「鉱石から組み立てまで」をカバーする事業形態です。時を下って20世紀の後半に出現したのはトヨタの「カンバン方式」ですが、これは自動車の組み立て工場と多様な部品供給工場との連携を改善した仕組みです。いずれの場合においても、複雑な生産システムや製品開発がうまく機能するように調整するための知識と技能が重要な利益の源泉であり、組み立てを担う事業がプロフィット・センターになりました。こうした状況は、自動車産業ほど明確ではなかったかもしれませんが、電機産業など他の産業でも観察されました。

こうした技能の源泉を突き詰めてみれば情報の伝達と処理であることを考えますと、21世紀に入って以降、情報通信技術発達の影響がなぜこのように大きかったかを理解することができます。情報通信技術が部門間の連携コストを大幅に引き下げた結果、生産ラインに投入する財やサービスを、専門性と規模の利益によってより安価に供給できる外部の専門業者から調達する方が効率的になってきました。そして皆が似たような供給者から財やサービスを調達し、かつ情報通信技術で調達コストが低位に平準化していくと、そうした財やサービスを組み合わせて生産するような最終製品で差別化をはかることは難しくなります。その結果、組み立て型事業は価格競争という消耗戦に突入することになりました。これは35枚目のスライドをみるとよくわかります。液晶テレビにおいても、太陽光発電システムにおいても、川下の組み立て型事業の利益率が大きく圧迫されていることを見て取ることができます。

情報通信技術は、多くの産業にビジネス・モデルの変革も迫りました。たとえば、20世紀の半ばに音楽を流通させたいと考えたら、録音して原盤を作成し、原盤をメッキして型を作り、その型でビニル樹脂を成型してレコードを作り、できたレコードをジャケットに入れ、全国のレコード店に送らなければなりませんでした。そしてレコードの売り上げは、一連のプロセスにかかったコストを回収できなければならなかった訳です。このモデルは1980年代の初めにコンパクト・ディスクが登場しても基本的には変わりませんでした。ところが、今日、音楽は電子的に流通しています。録音された音楽は、これを適切なフォーマットに変換すれば、ほとんどコストなしに無限に無劣化コピーをすることができます。情報通信技術の発達は、こうした電子的な流通を多くの産業において実用化させつつあります。経済学の基本原理によれば、生産物の価格は競争が制限されていない限りその限界生産コストまで低下することになります。そして電子的に流通する生産物は複製するコストがゼロに近いのですから、そうした生産物の価格はゼロに近づくことになります。このような情報通信技術によってもたらされた変化は、従前型の流通チャネルの運命を決めるだけでなく、企業にその生産物からいかに収益を得るかについての再考を迫っています。プラットフォーム・ビジネスの登場は1つの解かもしれません。

以上のような製品市場における変化は、労働市場における変化と相互に影響し合っています。垂直統合された巨大企業が、分散化され、ときには海外にある、より小さな企業のネットワークで置き換えられるとき、巨大企業で内部調整を行っていた労働者の雇用は失われ、情報通信技術にとって代わられます。同時に、これらの小さい企業では、情報通信技術によって効率性が向上していることもあり、雇用する労働者の数は少なくなっています。結果的に製造業における雇用の創出は鈍化します。さらに、多くの雇用者を抱えていた既存の流通チャネルが電子的なチャネルに置き換えられるときにも雇用が失われます。この間、プラットフォーム・ビジネスが繁栄するとしても、その拡張性が高いことを背景に、それらの企業が仮に急成長を遂げても生み出される雇用は少ないと考えるのが自然です。このような環境では雇用の創出は強い逆風を受けることになります。

2.4. グローバル化

情報通信技術はグローバル化にも影響を及ぼし、ひいては労働市場や製品市場にも影響しています。

情報通信技術の発達は、よく知られているように、グローバル化の推進力の1つです。情報通信技術によって国境を越えて通信したり連携したりするコストは大きく下がりました。これは、旧共産圏諸国の世界貿易システムへの統合と相まって、企業がどこで活動するかの選択肢を大幅に拡大しました。今日の企業は、最小のコストで最大の生産物を得られるように国境をまたぐネットワークを構築できるだけでなく、世界各地の環境変化に応じ容易にネットワークを組み替えられるようになっています。たとえば、洋服ダンスをのぞいてみると、同じブランドの似た洋服であっても、その生産地がきわめて多様で驚くことがあります。ブランド企業は、Tシャツをデザインするかもしれませんが、その生産は世界各地の専門工場に下請けに出されています。ラベルにみられる原産国の多様さは、ダッカの工場が深センの工場よりもTシャツを安く作れると勧誘してきたときにブランド企業がその申し出をいかに容易に受け入れるかを示しています。

このような状況は、国境を越えて賃金に下落圧力をかけます。加えて利益の増大は一般労働者層ではなく経営・専門職層に配分されると考えられますので、賃金の二極化を強めることにもなります。さらに、一部の多国籍企業は、既存工場の労働者に対し、もっと賃金が安い国に工場を移転すると迫り、ある国の労働者と別の国の労働者を競わせることで賃金の切り下げを図るかもしれません。こうしたことが起きれば、一般労働者層の賃金がさらに下落することによって二極化はより先鋭化します。

ここまで人口動態、バランス・シート調整、情報通信技術の発達といった問題について分析してきました。ここで次に進む前に現状を評価しておきたいと思います。まず、成長力の低下はしばらく続き、硬直性の固定化をともなうと考えられます。両者はまた相互にその影響を強め合っています。次に、そうした状況の下、各国の経済はときとして生じる負のショックの影響を受けやすくなります。そしてこれは非効率な状態を悪化させることにつながります。最後に、二極化が先鋭化し、結果として非効率性を更に深刻にする可能性があります。

これは、間違いなく困難な状況ですが、チャンスでもあります。この点については、最後のパートで説明します。

3. 将来に何が待っているか

すでにみてきたように、先進国を中心とする世界経済は、4つの強い底流の影響を受けています。人口動態、バランス・シート調整、情報通信技術の発達およびグローバル化と二極化です。以下、突き詰めれば時間が解決する問題であるバランス・シート調整(ただし時間はかなりかかるかもしれませんが)と、他の論者が詳細に議論しているグローバル化と二極化についてはここでは扱わず、もっぱらそれ以外の2つの問題について、今後の動向を占ってみたいと思います。この2つ、人口動態と情報通信技術の発達の影響については、重大な問題なのにこれまでほとんど評価されてこなかったように思います。

3.1. 人口「ボーナス」から人口「負荷」への移行

まず、世界の人口は重要な転換点に差し掛かっていることを指摘したいと思います。世界の国々で、次々と人口「ボーナス」が人口「負荷」に取って代わられつつあります。41枚目のスライドで示したように、東アジアの多くの国では2015年ごろに転換点を通過します。42枚目のスライドに移ると、ブラジルやチリにはもう少し時間的な余裕があるとはいえ、2015年から2020年の間に転換点が来ます。言い換えれば、今後10年ほどの間に、多くの新興国では成長の重要な推進力が失われるのです。一律の変化が生じる訳ではないものの、それぞれの国において経済の柔軟性や流動性が低下し、成長力が低下することになると考えられます。

もちろん、この人口動態の変化は、生活水準の上昇を背景とした人々の選択の結果であり、そうした変化を避けることはできませんが、一方で、各国の変化が同時に起きる訳ではありません。43枚目のスライドに掲げたように、日本とトルコを比べると、転換点は40年 —1世代半— ほど、間が開いています。こうした経済の間に、たとえば資源の需要や貯蓄投資パターンといった点で補完性を見出すことができ、それを活用できれば、グローバルな視点からみれば人口動態の影響を緩和することができると思います。

いま企業は高齢化という現実に対応を始めています。先進国において一般化している大量生産、大衆を対象としたマーケティングと大量消費は、第二次世界大戦後のベビー・ブームへの企業の対応でした。労働市場に参入し始め次第に豊かになり大きな集団となった人々を念頭に企業が販売戦略を練った結果、それは若年層を念頭に置いたものとなり、若年層の嗜好を反映した財やサービスが消費者に供給されることになりました。これが最も効率的かつ有効な企業戦略であったことは言うまでもありません。しかし今日、そうした消費者の年齢が上昇するとともに、消費者は多様化しています。たとえば、若年層の大部分は学校に同じように通うのに対し、高年齢層は多様な職業についています。若年層は一般的に健康ですが高年齢層の健康状態にはばらつきがあります。80歳や90歳になっても健康を保ち、ボツリヌス菌毒素を使ったシワ取りのようなライフスタイル製剤を使う人がいる反面、さまざまな病気にかかっている人もいます。働ける期間を通じた所得ひいては富の蓄積の面での格差はきわめて大きいかもしれません。企業は、若年層が総人口に占める比率が小さくなっていることに鑑みれば、若年層に着目した過去の勝利の方程式を放棄しなければならないことに気付き始めています。企業として成功を望むなら、高年齢層の需要を満たさなければならなくなっています。日本では、高齢層がその嗜好に合った財やサービスに対しては財布の紐が緩みがちなことを背景に、小売分野を中心に成功例が次第に報告されるようになっています。

3.2. 広範化する情報通信技術への対応

情報通信技術はグローバルな平準化をもたらすことから、既存の体系を揺さぶっています。情報通信技術が一般化する以前に存在した比較優位は次第に失われてきています。しかし同時に、世界各国には様々な資源が一様には存在していない以上、比較優位の原則に鑑みれば、情報通信技術が一般化する下でも新たな製品の流れが形成され、これは世界の人々すべてに恩恵をもたらすことになるはずです。日本や他の国々の状況をみると、こうした新しい世界が経済の成長や社会の発展において新たな機会を提供するのではないかと期待できるような芽がそこここに現れてきています。

たとえば、製造業では、企業は、携帯電話であれ、液晶テレビであれ、自動車であれ、果ては飛行機であれ、ハードウェアの販売のみでは、そのハードウェアの寿命を通じてその利用者が得ることになる便益のごく一部しか収益化できないことを認識するようになってきています。すでに説明したように、製造業者がその製品につけることができる価格に対しては、強い下落圧力がかかり続けています。他方、たとえば携帯電話の利用者は、電話機の価格の何倍もの通信料金を支払っています。さらに、携帯電話の利用者は、音楽や映像をダウンロードするために多額の料金を支払うかもしれません。この結果、多くの企業は、ゆっくりではあるがビジネス・モデルを転換しつつあります。1つの選択肢はいわゆるプラットフォーム化で、物理的な製品をさまざまなサービスのプラットフォームとすることです。そうしたビジネス・モデルは、利用者が製品を利用している間に支払おうと思うお金のできる限り多くの部分を稼得しようとしています。他方、他の企業にはまねのできない、唯一無二の素材の提供者になるという選択肢もあります。私が以前まとめたように、日本や海外にはこうした戦略の多くの成功例があります 。

ここで、シェール・ガスとタイト・オイルに関するエネルギー部門のブレーク・スルーの影響について付言したいと思います。米国における影響が現時点では顕著ですが、世界にはトルコを含め、採掘可能なガスとオイルが発見されうる地形・地質が多く存在しています。こうした地形・地質が、一部の識者が指摘するような一大変革をもたらすか否かはわかりませんが、こうした資源はひとたび発見・発掘されれば、グローバル経済に以下の2つの点で影響を与えます。まず、間違いなく、資源賦存量を変化させます。しかし、見通すのが難しいのは、資源価格への影響と、過去10年間に見られたミスマッチと二極化に与える影響の方でしょう。

3.3. 高齢化する経済における課題

最後に、高齢化と情報通信技術の発達が組み合わさる場合について触れたいと思います。先ほど説明したように、情報通信技術の一般化が普通の状態となると、情報通信技術を通じて生産される生産物の限界生産コストがきわめて低いことを背景に、生産物の価格が下落圧力にさらされ、場合によってはゼロに近づく結果、企業収益は圧迫されます。同時に、中程度の熟練度の労働者が情報通信技術に置き換えられることにより、労働者の二極化が生じ、相対的に高い報酬の職が失われます。ここで、情報通信技術の影響は高齢化が進んだ経済と若年層が多い経済では影響が異なりますので、それぞれについてお話したいと思います。

高齢化が進む社会では、情報通信技術が、より多様な高齢層の需要への対応を容易にすることから、それを活用した新たなビジネス・チャンスが生まれるかもしれません。情報通信技術によって、個々の嗜好に沿った生産物をより低い価格で提供できるようになるかもしれません。しかしここで留意しなければならないのは、他の条件が一定であれば、低価格は購入しやすさにつながる一方、生産者の投資に対するリターンを低下させるという点です。つまり鍵になるのは、低価格による需要刺激効果の程度と言えます。もし、需要が十分に刺激されないのであれば、社会的に有用な生産物の供給を確保するために、市場の力だけには頼らずに生産物を供給する仕組みを考案しなければならないかもしれません。

3.4. 人口が若い経済における課題

この間、人口ボーナスを享受している経済においては、これから教育水準が高く情報通信技術にも習熟している多数の若者が労働市場に参入しますが、そのとき適当な仕事を提供することが大きな課題です。先進国が人口ボーナスを享受していた時期を振り返りますと、中程度の熟練度を必要とする仕事の口が多く存在していました。そうした仕事では、キャリアを形成することができ、仕事に打ち込み幸運に恵まれれば高給の経営職階に昇進することもできました。しかし、情報通信技術が一般化する下では、そうした中程度の熟練度を必要とする仕事は減っています。有為の人材を成長性の低い低賃金の仕事につけて無駄にすることのないよう、若年労働者を長期にわたって雇用し、教育し、キャリアを増進する機会を与えることができるように、雇用主に対し適切な社会的あるいは経済的なインセンティブを与えることが必要になってきています。

市場が提供できない財やサービス(先進国の場合)あるいは雇用機会(途上国の場合)をいかに提供していくかという問題は、容易に解決できるものではありません。この点について、日本銀行副総裁に就任する前、社会的には望ましいものの投下資本に対して十分なリターンが保証されないような事業に対し、公的部門が初期資本を投下しつつ事業自体は市場原理に沿って運営される、「社会投資ファンド」の創設を提唱したことがあります。このアイディアはまだ広く賛同を得ているとは言い難いのですが、そうした仕組みが問題解決の1つの方向ではないかとの見方が次第に広まって来ているように感じています。

3.5. 中央銀行にとっての課題

中央銀行、とくに先進国の中央銀行は、現在大きな課題に直面しています。最近の国際金融危機が発生した際には、世界の金融市場と経済における混乱の伝播を食い止めるために大胆な措置を講じましたが、先進国の中央銀行は伝統的な金融政策手段を使い尽してしまった感があります。このため、日本銀行を含め、先進国の中央銀行は、かつては想像だにしなかったような非伝統的な政策を採っています。そしてこうした方向で、一段と金融を緩和して経済を支える余地は残されていますし、経済主体が構造調整を行うことを支えることもできます。

こうした政策の例として、日本銀行が2010年6月に採用した、「成長基盤強化を支援するための資金供給」を挙げることができます。この政策は、企業などの非金融部門の借り手に直接資金を供給するものではありませんが、金融機関が日本経済が直面する構造的な制約を乗り越えようとするさまざまな民間の事業に対し融資し、ひいては中長期的にわが国の成長基盤の強化に貢献する、その方向に向けた呼び水になると考えています。私としては、このような日本銀行の政策と、最近英国財務省とイングランド銀行が発表した「貸出のための資金供給」政策は、類似の目的を持っていると考えており、英国の動向にも注目しています。ただ、両国とも、具体的な成果が得られるまでにはかなりの時間がかかると予想されます。

中央銀行は確かに大きな課題に直面しています。白川総裁をはじめ、各国の中央銀行関係者が指摘しているように、金融政策は万能薬ではありませんが、経済主体の努力を支えることはできます。本日述べたような形で経済の二極化が進むことで政治的な対立が深まり、政府が必要な経済政策を遂行できないリスクはあります。その意味で私たちは大きなテール・リスクに直面しているとも言えます。しかし、私は、紆余曲折があるにせよ、私たちが現在行っていることがよりよい将来につながることについては、慎重ながら楽観的です。いずれにせよ、各国間あるいは各地域間の協力を増進することがこの目的を達成するためには不可欠であり、本日の講演がその一助になったとすれば光栄です。