このページの本文へ移動

【発言要旨】失業とインフレに関する一考察

English

中央銀行に関するECB(欧州中央銀行)主催フォーラム(ポルトガル・シントラ)における発言の邦訳

日本銀行総裁 黒田 東彦
2015年5月23日

本日は、このECB主催コンファランスの場で、長年にわたる友人であるドラギECB総裁、フィッシャーFRB副議長とともにお話しする機会を頂戴し、光栄に存じます。

今回のコンファランスは「欧州におけるインフレと失業」をテーマとして開催された訳ですが、故ジェームス・トービン教授がこのテーマに関して行った有名なスピーチの中で「失業とインフレは、今なお、経済学者、政治家、ジャーナリスト、主婦をはじめとする全ての人の頭をいっぱいにし、困惑させている」と述べたのは、今から40年以上前のことです1。日本銀行の金融政策運営上の使命には、FRBと異なり「雇用」は明示的に含まれていませんが、明示的な使命である「物価の安定」を目指すうえでも、失業率が有用な指針であることに変わりはありません。また、そもそも「物価の安定」を確保する必要があるのは、それが、労働者の生活にも直接的な影響をもたらす経済の健康状態を保つために不可欠な基盤であるからだということは、広く認識されているところです。つまり、主要な中央銀行はそれぞれ、根拠法に規定されている文言上の使命こそ異なりますが、金融政策運営において失業とインフレの双方が重要な関心事項であるという意味では、実質的に異なるところは殆どないと言えます。

しかしながら、米国、ユーロ圏、日本における失業とインフレの実績には、顕著な違いが認められます。その点をご理解頂くために、とてもシンプルな1枚のグラフ——この3つの国・地域における失業とインフレの関係を示す散布図——を見てみたいと思います(図表)。横軸には失業率、縦軸には物価上昇率を取っています。このグラフは2通りの読み方が出来ると考えています。

1つは、散布図における点の塊がそれぞれどこに位置しているかに着目する読み方です。経済的厚生の度合いを測る指標として良く知られているものの1つに、「悲惨指数(Misery Index)」というものがあります。これは、単純に失業率と物価上昇率を足し上げたものです。もし悲惨指数が本当に経済的厚生の度合いを表す最も正確な指標であるならば、ある経済に関する点の塊が散布図の右上に位置すればするほど、その経済はより悲惨な状態にあることになります。この読み方に従えば、失業率と物価上昇率のいずれもが3つの経済圏の中で最も低かった日本経済は、長年にわたって一貫して素晴らしいパフォーマンスであったことになります2。しかしながら、悲惨指数は物価上昇率が高い環境下においてのみ意味を持つ指標であり、主要国・地域においては過去20年そのような環境であったことはありません。従って、実際には、悲惨指数は、主要中央銀行における金融政策を評価する上で、意味のある手がかりを与えてはくれません。

もう1つの読み方は、それぞれの点の塊を、それぞれの国・地域におけるフィリップス・カーブとして解釈することです。フィリップス・カーブは、労働市場の余剰がどのような状態にあるかによって物価の動きは説明できる、という理論を裏付けとするものです。経済学者の間では、近年の主要国・地域においてフィリップス・カーブの傾きが殆ど無くなってしまっているのではないか、という点について熱い議論が交わされ続けていることは、私も承知しています3。実際、この単純なグラフは、1990年代半ば以降の米国とユーロ圏のフィリップス・カーブは、まっ平らではないにしてもごく僅かしか傾いていないことを示唆しているように見えます。ひとつ重要なことは、米国およびユーロ圏の平坦なフィリップス・カーブはいずれも、物価上昇率2%の辺りに位置しているという点です。言い換えれば、失業率がそれなりに上がったり下がったりしても、物価上昇率は2%近傍でほぼ安定してきた、即ち、物価上昇率はそれぞれの中央銀行が意図した水準にしっかりとアンカーされていた、ということです。もちろん、ユーロ圏の物価上昇率がこのところ、2%からそれなりの幅で継続的に乖離していることは、大きな問題となり得ます。ECBが最近になって「量的緩和クラブ」に仲間入りしたのは、まさにその問題に対処するためだと承知しています。

米欧におけるフィリップス・カーブと比べて、日本におけるフィリップス・カーブは、2つの点で特徴的です。第1に、日本では、失業率と物価上昇率の逆相関がよりはっきりしていることです。第2に、そしてより重要なこととして、日本のフィリップス・カーブは物価上昇率0%の線をまたいでおり、その大部分がマイナスの領域にあることです。これは、日本における長期的な予想物価上昇率は、1990年代半ば以降の約20年間、0%近傍ないし若干のマイナスであった可能性が高いことを示唆します。日本銀行が2年余り前に「量的・質的金融緩和」の導入を決めたのは、この問題に断固として対処するためです。導入に際して私たちが意図したことは、次の2点です。第1に、様々な波及経路を通じて経済を刺激し、緩やかではあるもののまだ有意に傾きのある日本のフィリップス・カーブに沿って、このグラフで言うと左上の方向に経済を動かしていくことであり、第2に、金融政策を大胆に見直すことを通じて、人々の予想物価上昇率を高め、フィリップス・カーブ全体を上方にシフトさせることです。

「量的・質的金融緩和」は所期の効果を発揮しています。最近のデータでは原油価格の大幅な下落による一時的な影響で見え難くなっているものの、日本の基調的な物価自身は明らかに改善しているとみることができます。この点に関しては、多くの明るい動きが出てきています。第1に、様々なアンケート調査から、過去2年余りの間に、予想物価上昇率が着実に高まってきていることが確認できます。第2に、春の賃金改定交渉においても、予想物価上昇率の高まりが反映され始めたようです。昨年は、1990年代以来初めてベースアップが実現しましたが、今年は、昨年を上回るベースアップが実現する見通しです。第3に、日本銀行のエコノミストが最近公表したリサーチによれば、「量的・質的金融緩和」のもとで、基調的な物価上昇率が0%から有意にプラスの水準へと、言わば「構造的に」シフトしていることが、厳格な計量分析に基づき確認できます4。これらの動きは全て、私たちが今まさに、長年日本経済を苦しめてきたデフレを克服しつつあることを示しています。日本銀行としては、2%の物価安定の目標を出来るだけ早期に——現状、2016年度前半頃を見込んでいますが——実現すべく、現在の取り組みを続けていきます。

このグラフから読み取れるもう1つの興味深い事実は、3%台半ばという日本の最近の失業率は、概して失業率が低い日本においても特に低いということです。他の条件が一定であれば、失業率が低ければ低いほど、経済的厚生は高いことになります。

しかし、話はそう単純ではありません。過去2年間、緩やかな経済成長しかしていないにも関わらず、失業率がこのように極めて低い水準まで下がったということは、少子高齢化という人口動態の変化が、経済の供給サイドに重くのしかかってきていることを示しています。日本の生産年齢人口は1990年代の半ばに減少し始めましたが、足もと、そのペースは速まってきています。このことは、既に0%台半ば、あるいは更に低い水準まで低下している可能性すらある潜在成長力に対して、大きな脅威となります。より力強い供給力を取り戻すためには、労働生産性の引き上げに加え、女性や高齢者の労働参加率を高めることが必要です。実際、アベノミクスの第3の矢は、既にこの問題に取り組んでいます。中央銀行は、直接的に潜在成長率を引き上げることは出来ませんが、日本銀行による異次元の金融緩和は、デフレマインドを払拭することによって、構造改革を後押しすることになると考えています。

トービン教授の時代の政策課題は、一義的には、失業に伴う社会的損失とインフレに伴う社会的損失とのトレードオフに関するものでした。今や、その構図は異なります。主要国・地域の多くは、現在、より高いインフレとより多くの雇用を必要としています。そうした意味では、トレードオフは無くなっています。私たちが新たに直面している課題は、トレードオフの関係にある2つの選択肢から選ぶことよりも、むしろ、政策的領域を如何にして拡大するかに関係があります。この課題は、とりわけ人口動態に象徴される経済の構造的な弱さによって、一段と複雑なものとなっています。トービン教授は、自身の論文の結論において、ケインズの時代から35年が経ってもなお、失業とインフレに関する厚生経済学は、重要かつ難しいテーマであると述べられました。同時に教授は、こうした問題についてより良く対処できる政策が将来的に見出されることに関して、十分に楽観的であったように思われます。その考え方は、半分は正しかったと言えます。今や、先進国・地域において、何年にもわたってインフレは深刻な問題とはなっていません。それにも関わらず、成長と雇用の創出は十分ではありません。何より、1970年代には懸念すべき課題の中に含まれていなかったデフレのリスクが、今や真剣に考えるべき新たな要素となっています。その課題が如何に難しく思えたとしても、私は、断固たる姿勢で正しい政策を講じていけば、最終的には効果が発揮されると信じています。今回のコンファランスを通じて、私たちがこのテーマについてより深く理解し、正しい方向に向かっているとより強く確信できることによって、これまでよりは楽観的になれることを期待しています。

ご清聴ありがとうございました。

  1. ジェームス・トービン教授が1972年に行った同スピーチのテキスト「Inflation and Unemployment」(American Economic Review, Vol.62)を参照。
  2. 3つの経済圏の中での順番は、物価上昇率の計算にコア指数ではなく総合指数を用いたとしても変わらない。
  3. 例えば、ロバート・ゴードン教授が2013年に公表した論文「The Phillips Curve is Alive and Well: Inflation and the NAIRU during the Slow Recovery」(NBER Working Paper, No. 19390)を参照。
  4. 開発壮平および中島上智が2015年に公表した論文「トレンドインフレ率は変化したか?−レジームスイッチング・モデルを用いた実証分析−」(日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、No. 15-J-3)を参照。