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【発言要旨】非伝統的金融政策の波及経路 —理論と実践—

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BIS(国際決済銀行)年次総会のパネルディスカッションにおける冒頭発言の邦訳

日本銀行総裁 黒田 東彦
2015年6月28日

本日は、このBIS年次総会のパネルディスカッションに参加する機会を頂戴し、光栄に存じます。

日本銀行は、2013年4月に「量的・質的金融緩和」を導入しました。その後の2年余りの経験を経てひとまずわかったこととして、私たち中央銀行が自らの使命の達成に強く明確にコミットし、適切な非伝統的政策手段を用いれば、ゼロ金利制約は克服できるということが挙げられるかと思います。例えば日本では、「量的・質的金融緩和」導入以降に、完全失業率は0.8%ポイント低下し、消費者物価指数の前年比は1%ポイントほど上昇しています。他の中央銀行も同様に、非伝統的金融政策によって需要を刺激することに成功しています。

非伝統的金融政策の効果については、学界には引き続き懐疑的な見方も残っているようですが、少なくとも中央銀行の間では、現実に政策効果があったという共通理解が醸成されています。バーナンキ前FRB議長が「量的緩和の問題点は、現実には効果が認められるのだけれども、理論的には効果が説明できないことである」と語ったことは良く知られていますが、まさに言い得て妙だと思います。こうした状況を踏まえますと、非伝統的金融政策について残されている謎は、効果があるかどうかではなく、なぜ効果があるのか、だと言えます。そこで、以下では、この論点に対して、理論的観点と実践的観点の両面から焦点を当ててみたいと思います。

第1に、タームプレミアムについてお話しします。中央銀行による大規模な資産買入れがタームプレミアムを縮小させるかどうかは、「市場分断(preferred habitat)仮説1」が成り立つかどうかと密接に関係します2。有力な学者の中には、「中央銀行によるマーケット・オペレーションを通じた資金供給・吸収は、将来の金融政策に関する期待を変えられない限り、余り効果がない3」として、タームプレミアムを縮小させる効果を否定する方もいます。恐らく、バーナンキ前議長が「量的緩和は、理論的には効果が説明できない」と語った際には、こうした議論が念頭にあったのだろうと思います。

しかし、中央銀行の間では、長期債を大規模に買入れて需給に影響を与えることを通じて、タームプレミアムを実際に縮小させることができるという理解が、次第に広がってきています4。加えて、これまでの経験により―ジェームス・トービン教授の「資産市場の一般均衡分析」が示唆する通り―長期金利の低下がポートフォリオ・リバランスを通じて、株や民間債務といった他の金融資産の価格に影響を及ぼす、ということも分かってきています5。最近、エコノミストの間では、タームプレミアムの縮小という量的緩和の波及経路を明示的に取り込めるよう、この「市場分断」のメカニズムを自らのマクロ経済モデルの中に組み入れる動きも出てきています6

第2に、非伝統的金融政策の大事な要素の一つであるフォワード・ガイダンスについて、触れておきたいと思います。フォワード・ガイダンスが効果的であることは、理論的にも実践的にも広く支持されています。理論的には、フォワード・ガイダンスは、中央銀行の政策反応関数を明らかにすることによって、先行きの政策金利のパスに関する民間予測を収斂させ、それによって金融市場のボラティリティを小さくすることができると考えられています。実際に、フォワード・ガイダンスは、政策目標に対する強いコミットメントとともに、様々な国・地域における様々な政策の枠組みの中で用いられており、その効果が認められています。

第3に、量的緩和の「量」の側面について取り上げたいと思います。果たして、中央銀行のバランスシートの大きさ自体には、意味があるのでしょうか?また、もし意味があるのだとしたら、なぜ意味があるのでしょうか?この点、経済理論家の中には、量的緩和は「通貨創造による政府財政のファイナンス(monetary financing of the government budget)」の観点から有効なのである、と論ずる方もいます。しかし、これに関しては、先ほどご紹介したバーナンキ前議長の言葉とは正反対のこと、即ち、「理論的には効果が認められるが、実際にそうすることはできない」と言わざるを得ません。財政のファイナンスを行うということは、中央銀行の信認を崩壊させ、潜在的にリスク・プレミアムを(引き下げるのではなく)引き上げるリスクを冒す行為と考えられています。また、最近の米国および英国における経験からは、非伝統的金融政策は、本格的な財政再建に取り組んでいるもとでも効果を持つことが示されています。日本の場合、2013年1月に公表した政府との共同声明において、日本銀行が2%の物価安定の目標を追求すること、そして、政府は公的債務の長期的な持続可能性を確保することにコミットすることが明記されています。従って、「量的・質的金融緩和」に関して言えば、財政の拡大を容易にするといった意図は、もとより全くありません。

このように、財政のファイナンスは全く我々の念頭にはありませんが、それとは別の理由で、中央銀行のバランスシートの大きさは重要だと考えています。インフレは究極的には貨幣的な現象である、ということは広く認識されていますので、巨額の通貨供給を行うことは、中央銀行のデフレ克服に向けたコミットメントを表す強いシグナルとなることでしょう。こうした意味で、過去に例のない規模でのマネタリーベースの拡大は、「量的・質的金融緩和」において、重要な役割を担っています。

第4に、そして最後に、非伝統的金融政策の波及チャネルとして、私がとても重要だと考えている期待のチャネルについてお話ししたいと思います。これは、私がたった今お話しした「『量』が持つシグナル効果」と重なる部分があります7。問題となり得るのは、期待のチャネルについては、理論的な基礎が十分に確立されていないことです。標準的な理論では、単に、合理的な期待形成が自ずと成り立つことが想定されていますが、では、企業や家計の期待形成のあり方に変化をもたらすものが何なのか、という点については、多くの場合、何も語られていません。しかし、私は、(1)政策目標に対する強いコミットメント、(2)明確で一貫した情報発信、そして(3)コミットメントを実現するための断固たる行動、この三者が一体となれば、民間の各経済主体のインフレ期待、ひいてはその行動に対して、大きな影響を与えることができると確信しています。この期待のチャネルは、長期間にわたってしっかりと根付いてしまったデフレ・マインドを払拭しなければならない日本において、特に重要なのです。

さて、本日の話を終える前に、ケネディ、ジョンソン両大統領のもとで経済顧問を務めたウォルター・ヘラー氏の言葉をご紹介したいと思います。「エコノミストとは、現実に何か効果のあるものをみつけると、それが理論的にも当てはまるかどうかを考えてしまうものである。」もしもこの言葉が真実であるならば、非伝統的金融政策に残された謎についても、今後、理論的な理解が一層深まることが期待できるものと考えています。同時に、中央銀行の実務家としては、それで満足している訳にはいきません。例えば、日本銀行について言えば、原油価格下落の一時的な影響が一因とは言え、物価上昇率は依然として目標には遠く及んでいません。物価上昇率は、2016年度前半頃には2%程度に達する可能性が高いとみていますが、こうしたシナリオに対するリスクは看過できません。地政学的要因を含め、世界経済にかかる不確実性が非常に高い中にあっては、特にそうです。そのように申し上げた上で、改めて、2%の物価安定の目標の実現に向けた我々のコミットメントは、決して揺るがないということを強調しておきたいと思います。こうした断固たる姿勢を保つことにより、我々は必ず目標を達成できるものと確信しています。

ご清聴ありがとうございました。

  1. 金融資産の満期構成や種類について、経済主体が異なる選好を持つ結果として、市場間の裁定が働き難い状況が生じ得るという考え方。
  2. Franco Modigliani and Richard Sutch, "Innovations in Interest Rate Policy," American Economic Review, Vol. 56, pp. 178-197, 1966.を参照。
  3. Gauti Eggertsson and Michael Woodford, "The Zero Bound on Interest Rates and Optimal Monetary Policy," Brookings Papers on Economic Activity, No. 1, pp. 139-235, 2003.を参照。
  4. 長期国債の金利を、先行きの予想短期金利とプレミアムとに分けることを試みる実証研究は多数存在する。日本国債に関しては、Kei Imakubo and Jouchi Nakajima, "Estimating Inflation Risk Premia from Nominal and Real Yield Curves Using a Shadow-Rate Model," Bank of Japan Working Paper, No. 15-E-1, 2015.を参照。
  5. James Tobin, "A General Equilibrium Approach to Monetary Theory," Journal of Money, Credit and Banking, Vol. 1, pp. 15-29, 1969.を参照。
  6. 例えば、Han Chen, Vasco Curdia, and Andrea Ferrero, "The Macroeconomic Effects of Large-Scale Asset Purchase Programmes," The Economic Journal, Vol. 122, pp. F289-F315, 2012.を参照。
  7. 例えば、黒田東彦「インフレ予想に対する我々の理解はどこまで進んだか?」、Economic Club of Minnesotaにおける講演の邦訳、2015年4月19日を参照。