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【講演】アジアの経済成長をいかに持続させるか

Amartya Sen Lectureにおける講演の邦訳

日本銀行総裁 黒田 東彦
2015年7月21日

目次

1.はじめに

本日は、アナン・パンヤーラチュン元首相やアマルティア・セン教授をはじめ、こうした素晴らしい方々の前で講演する機会をいただき、大変光栄に存じます。私は、45年ほど前のオックスフォード大学留学時代にその業績に触れてからというもの、セン教授に尊敬の念を抱き続けています。当時の私は、先生の公共選択に関する洗練された理論モデルはもとより、開発経済学に大きな影響を与えた貧困や格差に関する分析も含め、セン教授の研究に強い魅力を感じておりました。

本日は、開発経済と切り離すことのできないトピックである経済成長についてお話ししたいと思います。より具体的には、アジアの経済成長をいかに持続させるかというテーマでお話しします。ルーカス教授がいみじくも述べられたように、「いったん経済成長について考え始めると、それ以外のことは考えられなくなる」のは事実です1。したがって、しばらくの間―英語では中央銀行総裁としての帽子を脱ぐと言いますが―中央銀行総裁という立場は忘れさせていただき、今晩は、「非伝統的金融政策」や「量的・質的金融緩和」ということは一切口にしませんので、悪しからずご了承ください。

経済成長をいかに持続させるかという問題は、学術関係者、政策担当者にとって、近年ますます関心の的になっています。先進国の「長期停滞論」に関する議論は、その典型例かと思います2。個別国の経済成長率は世界の平均値に回帰する傾向があることを考えると、今は高い成長率を謳歌している新興国も、いつかは同じような課題に直面するかもしれません3。そうしたことを踏まえると、アジアがこの先数十年間にわたって本当にしっかりとした成長を続けられるのだろうかという話は、決して心躍るような明るいものにはならないかもしれませんが、一考に値する問題だと思います。

以下では、アジアにおける経済成長に関する定型化されたファクトを確認した後で、そうした経済成長をいかに持続させるかということを議論したいと思います。

  1.   1  Robert E. Lucas Jr., "On the Mechanics of Economic Development," Journal of Monetary Economics, Vol. 22, No. 1, pp. 3-42, 1988.を参照。
  2.   2  Lawrence H. Summers, "U.S. Economic Prospects: Secular Stagnation, Hysteresis, and the Zero Lower Bound," Business Economics, Vol. 49, No. 2, 2014; Coen Teulings and Richard Baldwin, Secular Stagnation: Facts, Causes and Cures, A VoxEu.org Book, CEPR Press, 2014.を参照。
  3.   3  Lant Pritchett and Lawrence H. Summers, "Asiaphoria Meets Regression to the Mean," NBER Working Paper 20573, 2014.を参照。

2.定型化された3つのファクト

定型的なファクトの1つ目は、アジアは過去数十年間にわたり、ほぼ一貫して非常に高い成長を遂げてきたということです。図表1は、1人あたりGDPの推移を地域別に表しています。1950年に最も低い所得水準にあったアジアが他の地域を凌駕する成長パフォーマンスを見せてきたことは一目瞭然です。このように長い目でみると、1997年から1998年にかけて発生したアジア危機はごく小さな振れにしか見えません。この60年間を越える期間の平均成長率を計算すると、年率4%程度となります。これが年々複利で積み重なることによって、アジアの1人あたりGDPは、1950年時点の水準と比べて12倍ほどにまで高まりました。こうしたことからすると、アジアがしばしば「激動するアジア経済(dynamic Asia)」と言い表されるのも、故あることかと思います。

2つ目の定型的なファクトは、1人あたりGDPの水準はアジア各国間で大きく異なるということです。図表2に示されているとおり、アジアNIEs各国(香港、シンガポール、台湾、韓国)と日本は、非常に高い所得水準を誇る一方、アジアのほとんどの国ないし人口は、中所得国に属しています4。また、中所得国に属する国の間でも、1人あたりGDPの水準には大きなばらつきがあります。

経済成長の研究は、GDP統計を使って分析を行うことが多いのですが、別のデータソースで確認することもあります。シンプルかつ視覚的に分かりやすい形で経済発展の度合いを測るには、その国が人工的な光でどのぐらい輝いているのか、地球の外から夜のうちに眺めてみるという方法が考えられます5。これをアジアについて行ったのが図表3です。これをみると、各国間で格差があるのみならず、実は同じ国の中でも地域別に相当なばらつきがあることも確認できます。例えば、中国の沿岸部は韓国や日本と同じくらい明るいのですが、内陸部は光がまばらになっています。インドのデリーやタイのバンコクも非常に明るいですが、これらの都市は暗い空間によって囲まれています。

3つ目の定型的なファクトは、先ほどは水準のばらつきを指摘しましたが、その変化率、すなわち1人あたりGDPの成長率もアジア各国でかなり異なるということです。先にみたとおり、アジア全体では50年以上にわたって年平均で4%程度の成長を遂げてきました(図表4の左パネル)。

しかし、個別国の成長率をグラフに描いてみると、国ごとで大きな違いがあることが直ちに分かります。また、この図表からは、アジア地域の成長の先導役が移り変わってきたことも見て取れます。日本は、1960年代に二桁の成長を実現しましたが、その後の成長は緩やかなものとなりました。その後、アジアNIEsが日本に代わって高成長国の地位に就き、より最近では中国がそれに続くかたちとなりました。

ここで、グラフの横軸を時間ではなく所得水準にしてグラフを描き直してみますと、発展段階のパターンがくっきりと表れてきます(図表4の右パネル)。一般的な傾向としては、ある国が低所得国から中所得国の段階に移ると、成長率は高まります。成長率のピークは中所得国の段階で訪れ、その後高所得国に仲間入りすると、成長率は鈍化する傾向があります。

  1.   4  高所得国、中所得国、低所得国の定義については、http://data.worldbank.org/about/country-and-lending-groupsを参照。以下では、この定義に大まかに沿った形で、1人あたりGDPについて、12,000ドルと1,000ドルを閾値として使います。
  2.   5  David N. Weil, Economic Growth, Third Edition, Pearson Education Limited, 2013. 因みに、こうした文献では、次の論文も含めて、北朝鮮の暗さがしばしば指摘されています。Charles I. Jones, "The Facts of Economic Growth," NBER Working Paper 21142, 2015.

3.経済成長の3つの罠

いったい、アジアはこの先も高い経済成長率を維持していくことができるのでしょうか。過去のパターンに従えば、アジアにはまた別の先導役が現れることを期待できるかもしれません。しかし、実際にそうなるとの保証はありませんし、仮にそうなったとしても、先導役一国に頼りきりになる訳にはいかないでしょう。アジア全体としての繁栄を維持していくためには、比較的所得水準の高いアジア諸国が、ある程度高い成長率を維持していくことが必要です。

私は、アジアが成長を持続していくためには、避けなければならない罠が3つあると常々考えています。既に指摘したとおり、アジアには各国間での様々な違いがありますが、これら3つの罠は、各国の置かれた状況によって程度の差こそあれ、多くの国に当てはまるものと思っています。

1つ目の罠は、「中所得の罠(middle-income trap)」です6。歴史を振り返ると、多くの国が中所得国から高所得国の段階に移行する過程で困難に直面しました。外国から入ってきた技術や農村部で得られた余剰労働力が提供してくれる成長機会を使い果たしたところで、いわゆる「ルイスの転換点」が訪れます。この転換点に達するまでは、各種の成長会計分析によると、速いスピードでの資本蓄積、高い全要素生産性の伸び、労働投入の持続的な増加によって高い成長率が実現するのが一般的です。しかし、転換点に達したところで、成長が鈍化する可能性が高まります。もっとも、ルイスの転換点に直面した国でも、技術革新と新市場開拓によって、若干の減速はあるものの、成長を続けていくことが可能だと思います。

アジアでは、日本とNIEsはこの罠を乗り越えて、1970年代と1990年代にそれぞれ高所得国の仲間入りを果たしました(図表4の右パネル)。中国のほか、タイを含むいくつかのASEAN加盟国は、中所得国の中でも上位に位置しており、ある程度の確度で中所得の罠を回避して、高所得国に移行することができるのではないかと思われます。アジアのそれ以外の国の多くは、中所得国の中でもなお比較的低めの所得水準です。この先も高い成長を続けていく潜在能力があるということではないでしょうか。

次に、2つ目の罠として、「人口動態の罠(demographic trap)」があります。平均余命の上昇に出生率の低下が重なるかたちで、高所得国はもとより、中所得国のうち上位に位置する国々も含め、多くのアジア諸国では高齢化が既に進展しつつあるか、近々進展することになると考えられます。「生活水準」を示す重要な指標である「1人あたり国民所得」の成長率に決定的な影響を及ぼすのは、総人口に占める生産年齢人口の割合です。高齢化の進展は、この割合の趨勢的な低下、すなわち、退職した高齢者が増える一方で、働き手である生産年齢人口が相対的に減っていくことを通じて、国民1人あたりの所得の伸びを抑制します。この場合、それぞれの働き手は、自らの稼いだ所得のより多くの部分を退職者の生活を支えるのに充てる必要が出てきます。

図表5は、既にアジアのいくつかの国は以上のメカニズムを通じて人口動態の変化が深刻な影響を及ぼすフェーズに至っていることも含めて、アジア各国で人口動態の変化にどの程度違いがあるのかをみようとしたものです。このグラフにおいて、横軸は生産年齢人口の変化率、縦軸は総人口に占める生産年齢人口の割合を表しています。後者の割合が上昇することを「人口ボーナス」、低下することを「人口オーナス」と呼ぶことが多々あります。グラフにおけるそれぞれの輪の大きさは、生産年齢人口の絶対数と比例するように描かれています。

これを見れば明らかなとおり、非常にゆっくりとした動きをする人口動態であっても、長い目でみると大きな変化をとげます。日本は、人口オーナス期に既に深く入っており、生産年齢人口の絶対数も目立ったペースで減少しています。NIEsや中国、いくつかのASEAN加盟国も、そう遠くない将来にこうした日本の動きに続く見込みです。この間、インドと他のアジア各国は、少なくとも今世紀半ばまでは、人口動態的にはより有利な条件に恵まれることが予想されます。

最後に、3つ目の罠として、「マルサスの罠(Malthusian trap)」があります。マルサスの元々の研究は、限りのある資源(マルサスの場合は土地)の存在により、成長が抑制されるというものでした。例えば原油などの天然資源をとってみても、その供給に限度がある場合は、長期的には世界経済の成長の足かせになると考えられます。我々日本人は無尽蔵と考えがちな水資源も例外ではありません。世界経済を見渡すと、水不足が工業化や農業開発の深刻な制約となっている例は多々あります。こうした観点からすると、近年における資源多消費型の新興国の成長鈍化も、自動安定化装置―あるいは、資源制約を踏まえた適切な政策対応―によって成長が実際に抑制されたことを示唆しているとも考えられます。地球温暖化を含む環境問題も、マルサスの罠の一形態として解釈できると思います。

  1.   6  中所得の罠については、次の報告書でも詳しく論じられています。Asian Development Bank, Asia 2050: Realizing the Asian Century, 2011.

4.生産性の向上

以上3つの罠を乗り越えていくうえで鍵となるのは、生産性の向上、より厳密には全要素生産性の向上であることは、広く認識されているとおりです。イエレンFRB議長も最近の講演で、「より高い生活水準を持続するうえで最も重要な要素は、生産性の向上である」と発言されました7。私も全くその通りだと思います。

例えば、「マルサスの罠」については、「土地資源の制約から成長ひいては人口の伸びも抑えられる」というマルサスの不吉な予言が結局実現しなかったのは、18世紀に農業部門の生産性の伸びが著しく高まり、膨大な人口に見合うだけの食糧供給が可能になったためです。一例をあげますと、中南米原産のジャガイモがアイルランドに伝えられると、同じ面積の畑から、従来収穫していた穀物に比べて2倍あるいは3倍の人々をまかなうに足る食糧生産が可能となりました。この場合、ジャガイモの導入により、アイルランドの農業部門の生産性が大きく高まったことになります。

現代においても、生産性が向上すると、以前より少ない生産年齢人口での経済成長が可能になり、「人口動態の罠」を克服できるようになります。外国から入ってきた技術や農村部で得られた余剰労働力のメリットを使い果たした後でも、ある程度の水準の生産性の伸びを維持できれば、「中所得の罠」から抜け出ることができます。

全要素生産性の帰趨が成長の重要な要素であることは、アジアの奇跡の幻想に関する議論を例にとってみても明らかです。1997年から1998年のアジア通貨危機のはるか以前に、クルーグマン教授は、NIEsあるいはアジアの「4匹の虎」の高成長は全要素生産性の高まりによって十分に支えられたものではないため、持続不可能であると主張しました8。結果からすると、この主張は正しかったと考えられます。アジア通貨危機には、持続的かつバランスのとれた成長にシフトしていくうえで避けられないものであったという側面もあると思われます。

全要素生産性の推計値には大きな不確実性があるという点に留意したうえで、以上の内容をデータで確認したいと思います。図表6では、縦軸に1人あたりGDPの伸び率、横軸に全要素生産性の伸び率をとっています。まず、左側パネルでアジア通貨危機以前の状況をみると、アジア各国は回帰線の上側に位置しています。このことは、当時のアジアの経済成長が、全要素生産性よりも人口ボーナスや投資ブームといった要素投入の増加によって説明される度合いが相対的に大きかったことを意味します。

次に、世界金融危機後の近年に焦点を当てた右側パネルの図表をみると、アジア各国は、1990年代と比べて回帰線に近いところに位置するようになっています。これは、バランスのとれた成長という観点からは好ましい動向です。ただし、アジア各国の位置する場所が縦軸(全要素生産性の伸びがゼロ%に相当するライン)に近づくかたちで、全要素生産性の伸びが1990年代と比べて低下しているのも事実です。経済成長はよりバランスのとれたものとなりましたが、同時に成長の力強さが失われてしまったようにもみえます。この点は、この先いくつかの国で高齢化が加速することが見込まれ、人口動態の逆風がいっそう強くなることが予想されることを踏まえると、やや気になるところです。一般に、ある国がいったん人口オーナス期に突入すると、1人あたりの経済成長ないし生活水準を維持していくためには、より高い全要素生産性の伸びによって人口動態の逆風を相殺していく必要があります。アジアのいくつかの国で全要素生産性の向上が重要なのは、まさにこのためです。

そこで次に問題になるのは、どのようにして全要素生産性の伸びを高めていくのかという点です。仮に生産性の伸びがもっぱら外生的な要因で決まるとすると、この問いに対する答えは悲観的なものになります。この場合、我々としてできることは、何らかの外生的なショックや時の運によって生産性が高まるのを期待することだけです。都市経済学の研究者であるモレッティ教授によって指摘されているとおり、都市の繁栄の歴史を紐解けば、そうした見方にも全く根拠がない訳ではありません9

例えば、ワシントン州シアトルがハイテク産業の集積地となったことには、シアトルがマイクロソフト社の創業者達が生まれ育った土地であり、彼らが馴染みのある場所に会社を移したいと考えたということが大きく影響しています。米国のそれ以外のハイテク都市についても、多少なりとも同じような話が聞かれます。生産性の向上についても同じような考え方が当てはまるのであれば、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズのような天才が我々の国に生まれるのをただ待つしかない、ということになります。

しかしながら、幸いにも、経済学はこの点についてもっと前向きな見方も示してくれています。生産性は内生的に決定されるところが大きいという見方です。

  1.   7  Janet L. Yellen, "Recent Developments and the Outlook for the Economy," Remarks at the City Club of Cleveland, July 10, 2015.を参照。
  2.   8  Paul Krugman, "The Myth of Asia' s Miracle," Foreign Affairs, Vol. 73, November/December, pp. 62-78, 1994.を参照。
  3.   9  Enrico Moretti, The New Geography of Jobs, Mariner Books, 2013.を参照。

5.いかに生産性を引き上げるか

生産性の伸びを高めるのは何か、経済学の研究では、既にその候補となる生産性の決定要因に関して長いリストが用意されています。しかし、ここではそれらを網羅的にみていくことはせず、私自身が重要と考えるポイントを3つだけ挙げたいと思います。

1つ目は人的資本です。どのように人的資本を計測するかは難しい問題ですが、よく用いられる簡便的な指標は教育年数です。図表7では、教育年数の長い国ほど緑色が濃くなるように各国を色分けしています。このうちアジアに注目すると、日本、韓国、スリランカといった国が濃い緑色になっています。実は香港とシンガポールも同じグループに属するのですが、この地図では見えづらいと思います。アジア全体としてみると、北米や欧州と比べると色が薄く、南米と同じような感じに見えるかもしれません。このことは、アジアには人的資本蓄積の余地がまだかなり残っていることを示唆しています。

一方で、米国の大学で学ぶ留学生を出身国別にみると、アジア出身の学生数が、それ以外の地域からの学生数を圧倒していることが確認できます(図表8)。米国の大学は最高水準の教育を提供し、才能ある学生を世界中から引き寄せているというのが一般的な見方です。米国で学んだ学生が出身国に戻ると、その国における人的資本に大きな影響を与えることになります。インドのIT集積地であるバンガロールが、シリコンバレーから戻ってきた技術者によって支えられたという話はよく知られているとおりです。なお、先ほど言及したモレッティ教授の研究では、革新的な高スキル労働者は、その労働者の分だけその地域の人的資本を引き上げることにとどまらず、周囲の労働者の人的資本にプラスの効果をもたらすことを通じても全体の人的資本向上に資することが明らかになってきています。すなわち、人的資本には正の外部性が存在するのです10

また、より多くのアジアの大学が、世界的に最高水準と評価されるようになってきているのも心強い材料です。最近のあるランキング調査によりますと、世界のトップ100の大学リストに、アジアの大学が10校以上も入っています11。バンガロールの成功の背景には、現地のIT企業に対し、近隣の大学から高い技能を持つ大学卒業生が豊富に供給されたことがあるのも事実です。

こうした中で、アジアは科学の発展により大きな貢献を果たすようになってきています。関連するノーベル賞のうち、アジア生まれの受賞者の割合は2000年を越えると倍増し、1割を越えるまでに至っています12。このようなトップレベルの研究者は、この場にいらっしゃるセン教授がまさに示されてきたように、様々なかたちで母国の人的資本の発展に資しています。

生産性を引き上げていくための2つ目の鍵は、マーケット・フレンドリーな(市場メカニズムに即した)ビジネス環境です。例えば、市場経済の礎となる「財産権の保護」、あるいはより一般に「法の支配」は、イノベーションが活発に生まれるためには欠かせない要素であり、生産性向上の土台となるものです。私は、多くのエコノミストと同じように、健全な競争と適切なインセンティブ付けが市場メカニズムを十分に機能させるうえで必須であり、これがあってこそ持続可能かつ頑健な成長が実現すると考えています。この点、様々な分野における規制緩和は強く奨励されます。できることはまだたくさん残っていますが、アジア経済はこの点で着実に前に進んでいると思います。

市場メカニズムの重要性はいくら強調してもし過ぎることはないのですが、だからといって所得格差の問題に目をつむってよい訳ではありません。実際、包括的な社会(inclusiveness)の実現が長い目でみて経済成長を高める方向に働くと主張する学術研究者もいます13。また、最近の実証研究の中には、所得格差の縮小が、経済成長の高まりや、経済成長の持続性の向上と関連していることを主張するものもあります14。図表9は、各国の所得格差を比較しています。ピケティ教授がその所得格差の大きさに警鐘を鳴らしている米国は、この図では濃い目の赤に塗られています15。この間、アジアでは、一部の国を除くと、米国と比べて所得格差が概して小さなものにとどまっています。

生産性を高めるうえで重要な役割を果たす3つ目の要素は、しっかりとした金融部門です。創造的破壊こそが生産性向上の源泉であるという見方に、私自身異論はまったくありません16。シュンペーターが指摘したとおり、金融仲介には、革新の精神に溢れた企業家や、より広く価値の創造者をサポートするという重要な役割があります。現代でこれに該当する例は、成長志向の企業に対して金融面のサポートだけでなく経営面でのアドバイスも行うベンチャー・キャピタルです。もちろん、金融仲介の役割は起業者をサポートすることに限定されません。イノベーション主導の経済成長を実現するうえでは、ビジネスの発展段階にあわせて広範な金融機能が切れ目なく提供されることが求められます。

アジアの文脈で考えると、この地域の豊富な貯蓄を、旺盛なインフラ需要にまわしていくという重要な課題があります。これは、アジア開発銀行総裁を務めていた時に私自身が深く関わっていた課題でもあります。地域内の貯蓄と投資をマッチングさせる取り組みにおける成功例のひとつに、債券市場の育成があげられます17。関連当局や関係団体の尽力もあって、アジアの債券市場―特に現地通貨建ての債券市場―は、2000年代半ば以降、大きく成長しました。2013年末時点の債券発行残高は3兆5000億ドルにものぼっており、2005年の水準の5倍程度の大きさにまでなっています。

リテール金融サービスに目を転じてみると、先ほど言及した「包括的な社会の実現」という概念がやはりひとつの重要な側面になってきます。アジアでは、かなりの人々が未だに銀行口座を持っていないというのが実情です18。インドでは国民の半数以下しか銀行口座を持っていません。中国ではこの数字が3分の2にまで上がりますが、ほぼ全員が銀行口座を持つ先進国と比べると、なおはるかに低い水準です。銀行サービスがより広範に利用可能になれば、アジアの金融システムの姿、ひいては今後の経済成長の見通しは明らかに違ったものとなると信じています。

  1.  10  Enrico Moretti, The New Geography of Jobs, Mariner Books, 2013.を参照。
  2.  11  例えば、Times Higher Education World University Rankingsを参照。
  3.  12  物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、経済学賞より算出。
  4.  13  Daron Acemoglu and James A. Robinson, Why Nations Fail: The Origins of Power, Prosperity and Poverty, Crown Business, 2012.を参照。
  5.  14  Jonathan D. Ostry, Andrew Berg and Charalambos G. Tsangarides, "Redistribution, Inequality, and Growth," IMF Staff Discussion Note, SDN/14/02, 2014.を参照。
  6.  15  Thomas Piketty, Capital in the Twenty-First Century, Belknap Press, 2014.を参照。
  7.  16  Joseph A. Schumpeter, The Theory of Economic Development: An Inquiry into Profits, Capital, Credit, Interest, and the Business Cycle, Harvard University Press, 1934.また、以下も参照。Philippe Aghion and Peter Howitt, "A Model of Growth Through Creative Destruction," Econometrica, Vol. 60, No. 2, pp. 323-351, 1992; Katsuhito Iwai, "Schumpeterian Dynamics: An Evolutionary Model of Innovation and Imitation," Journal of Economic Behavior and Organization, Vol. 5, pp. 159-190, 1984.
  8.  17  中曽宏、「アジア経済の過去・現在・未来」、日本証券アナリスト協会主催国際セミナーにおける講演、2015年4月24日を参照。
  9.  18  The Wall Street Journal, "Asia Seeks to Reach the 'Unbanked'," March 18, 2015.を参照。

6.おわりに

本日のお話では、アジアがしっかりとした経済成長を持続していくためには、生産性の向上が鍵となるという点を強調しました。私自身の考えでは、持続的な人的資本の蓄積、市場機能を尊重した制度設計、しっかりとした金融部門の3つが、生産性向上に重要な役割を果たします。アジアでは、これらの分野で望ましい方向での進捗がみられますが、まだ課題はたくさん残っています。

本日私がお話しした内容は、広い意味では構造改革の一部に分類されるものです。一般的にみて、既得権益の存在等の理由により、構造改革の実施はいついかなる場合でも困難を伴うものです。また、景気の循環局面によっては、改革を先延ばしにしようという誘因が強く働きます。これは、構造改革の実施によって経済が短期的に下押しされることへの懸念があるためです。しかし、こうしたマイナス面を勘案したとしても、私は必要な改革を実行するのは今しかないと考えています。構造改革には短期的に負の影響があるという点は誇張されるきらいがあります。これを改革に着手しない言い訳として使うことは避けなければなりません。構造改革がうまくデザインされたものであれば、企業の先行きの収益見通し、さらには家計の恒常所得を改善させ、現在の需要を減らすどころか、むしろこれを増やす方向に働くはずです19

私からのお話は以上です。アジアの成長についてお話しするという今回いただいた課題を終えた後は、中央銀行総裁としての帽子を頭に戻して、その立場に戻る必要があります。少しだけパラフレーズして、ルーカス教授の言葉を再び使わせていただくならば、「いったんデフレやインフレについて考え始めると、それ以外のことは考えられなくなる」のも事実かと思います。ということで、日本銀行総裁の帽子をかぶり直す前に、皆様からのコメントや質問をお受けしたいと思います。

ご清聴ありがとうございました。

  1.  19  Benoit Coeure, "Structural Reforms: Learning the Right Lessons from the Crisis," Speech at the Bank of Latvia Economic Conference, October 17, 2014.を参照。