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【挨拶】わが国の経済・物価情勢と金融政策長野県金融経済懇談会における挨拶要旨

日本銀行政策委員会審議委員 原田 泰
2016年10月12日

目次

1.はじめに

おはようございます。日本銀行の原田です。

本日はお忙しい中、長野県を代表する皆様にお集まり頂き、懇談の機会を賜りまして、誠にありがとうございます。皆様の前でお話しできるのを大変光栄に思います。また、皆様には、日頃から私どもの松本支店および長野事務所をはじめ、日本銀行各部署の業務運営に多大なご協力を頂いており、この場をお借りして厚くお礼申し上げます。

日本銀行が、2013年4月に量的・質的金融緩和(QQE)政策を導入してから3年半たっています。また、本年9月には、「『量的・質的金融緩和』導入以降の経済・物価動向と政策効果についての総括的な検証」を公表、同時に「金融緩和強化のための新しい枠組み」を決定しました。

本日は、「わが国の経済・物価情勢と金融政策」と題しまして、私なりに、これまでの金融政策を検証させて頂きたいと思います。まず、視野を長めにとって1980年代からの日本経済について考えてみます。それまで先進国の中で高い成長をしてきた日本経済が、1990年代以降停滞するようになりました。それはなぜなのかを考えてみたいと思います。その上で、最近の日本経済と金融政策についてお話しいたします。

最後に長野県経済について、触れさせて頂きたいと思います。その後、皆様方から、当県経済の実情に関するお話や、忌憚のないご意見などをお聞かせ頂ければと存じます。

2.1980年代からの日本経済と金融政策

1990年までの日本は、先進国の中でもっとも高い経済成長ができる国と考えられていました。ところが、その後、日本経済が長期にわたって停滞してしまったのは皆様ご存じの通りです。同時にデフレが進行しました。

図1に見るように、1990年代の初めまで順調に成長してきた日本の実質GDPは、その後低成長に陥りました。その時、同時に物価の停滞、下落も始まりました。GDPデフレータは横ばいになり、消費税増税の影響を除けば、1995年からはほぼ一貫して下落しています(図では、消費税増税の影響を除いています。その方法は図の注をご覧ください)。当然のことですが、名目GDPも停滞しています。ただし、今回の大胆な金融緩和政策、すなわち「量的・質的金融緩和」を採用した2013年からは名目GDPとGDPデフレータの回復が見られます。なお、ここでGDPデフレータは、海外要因で生ずる物価変動(原油価格などによるもの)を除外した物価指数であることに注意する必要があります。すなわち、GDPデフレータは原油価格などの変動が基本的には反映されず、経済の基調的な物価を示す物価指数です。この基調的な物価を見ると、量的・質的金融緩和政策の導入後、それ以前10年間の年率マイナス1.2%から反転し、年率0.9%で安定的に上昇しています(ただし、ここ1年の上昇率は0.6%となっています)。日本においてGDPデフレータの上昇率は消費者物価の上昇率よりも過去10年間の平均では0.8%低いので、これを単純に当てはめると、GDPデフレータが1.2%になれば、消費者物価上昇率が2%になると計算されます。

日本の停滞を他の先進国と比べてみましょう。図2は、日米英独仏の実質GDPを1990年=100として示したものです。1980年代まで、先進国の中で高い成長を示してきた日本が、1990年代以降、先進国の中で最低の成長率になってしまったことが分かります。

日本は人口が減少しているので成長率が低いのはやむを得ない、特に生産年齢人口(15-64歳人口)が減少しているのでやむを得ないという議論がありますので、人口当たり、生産年齢人口当たりの実質GDPを示したのが図3と図4です。人口当たりでも日米英独仏の中で最低ですが、生産年齢人口当たりでは、2000年以降、それほど悪くないようです。

次に、名目GDPの動きを図5で見てみます。名目GDPは、他の先進国が1990年代以降も順調に上昇してきたにもかかわらず、日本は縮小しています。図は省略しますが、一人当たり名目GDPで見ても、生産年齢人口当たり名目GDPで見ても、日本だけが停滞しているのは同じです。人口の変化に比べて名目GDPの変化の方が大きいので当然のことです。

3.デフレが実質GDP成長率を低下させたのか

今まで見てきたことは、日本がデフレになるとともに先進国の中で実質GDPの成長率が低い国になってしまったという事実です。では、実質成長率の低下は、デフレと関係があるでしょうか。すなわち、デフレが実質GDP成長率の低下を招いたのだと言えるでしょうか。

基本的には言えないというのが経済学者の答えです。なぜなら、物価も給料も変わらない時と、物価も給料も1%ずつ上昇する時とでは、いずれも実質の給料は同じです。実質の給料が同じなら、実質の消費も同じになるでしょう。また、物価上昇率ゼロで名目金利ゼロ%の世界と、物価が1%上昇で名目金利1%である世界に違いはないはずです。どちらの世界でも実質の金利が同じなのですから、企業の投資は同じになるはずです。実質消費と実質投資が変わらないなら、実質GDPも変わらないでしょう。

しかし、本当にそう言い切れるでしょうか。まず、企業の会計的利益も、株主のお金をいかに効率的に投資しているかを示すROEも、名目の概念です。会計的に計算されるROEは、実質の値ではありません。最近の日本では、ROE目標としてたとえば8%を目指そうと言われますが、その8%は名目の概念です。インフレ率が高くなれば、8%の達成は楽になります。インフレ率が1%高くなれば、その分ROEも高くなります1。一見、何も変わらないようにみえますが、多くの経営者が8%のROEが重要と考えているのですから、何らかの違いを生じることになると思います2

不良債権も名目値の問題です。過去の誤った投資によって生まれた損失も、その後のインフレによって売上と利益が増えれば、実質的に不良債権が減少しているのと同じです。1990年代の日本経済では、不良債権が大問題でした3。であるなら、デフレをもたらし、売上を縮小させたのは失敗でした。

政府財政も名目値の問題です。名目GDPが増大すれば、過去の財政赤字の実質的な意味は低下します。財政赤字を問題にする経済学者が名目値の重要性を強調しないのは不思議です。人々が政府の財政赤字から将来の増税を予想することによって、消費を増やさないという議論が正しいのなら4、その逆の債務対名目GDP比率の低下は消費を増やすはずです。名目GDPの停滞は実質消費を抑制することになります。

株価も為替も名目値です。株価には名目値の利益が影響を与え、為替が企業の利益に影響を与えます。名目値が実質値に影響を与えないことはないと思います。

さらに、成長率が低下し、自然利子率が低下して、ほとんどゼロになっているという問題があります。自然利子率とは経済を不況にも過熱にもしない、丁度良い利子率です。自然利子率がほとんどゼロなら、金利を下げて経済を刺激することが難しくなります。この時、物価上昇率がプラスなら、金利をゼロに、実質金利をマイナスにして、景気を刺激することができます。ところが、物価上昇率がマイナスであれば、実質金利を下げることが難しい。すると、景気を刺激して、経済を正常な状態に持っていくのが難しくなります。これは、多くの経済学者が、デフレが経済を停滞させる理由になると認める経路だと思います5

なお、日本では金融政策で無理やり金利を下げるより、成長戦略や構造改革で実質経済成長率を高め、自然利子率を上げるべきだという議論がさかんです。しかし、そのような論者のうち、どのような成長戦略で、どれだけ自然利子率を上げることができるのかを数量的に示した人はほとんどいません。ただし、TPPの経済効果は例外です。TPPに参加することによって、日本の実質GDPの規模を0.66%から2%分押し上げるという分析があります6。これは成長率を最大で2%高めることができるという意味ではなく、経済の規模を、例えば10年かけて2%大きくすることができるという意味です。10年かけて2%なら、毎年の成長率は0.2%高くなるにすぎません。成長戦略は難しいものなのです。

また、金融緩和と成長戦略は、矛盾するものではありません。両方すれば良いだけです。本来の成長戦略とは効率化、無駄を廃して労働生産性を上げることですから、その過程で雇用問題を引き起こすことがありえます。金融緩和で景気が良くなり、雇用状況が改善すれば、構造改革もやりやすくなります。

最後に、確かではありませんが、デフレが実体経済に影響を与える経路として、給料が名目値で上がらないより、物価が上がって給料も同じだけ上がった方が、気分が明るくなるのではないかとも私は思います。

  1. 100の投資を30の株主資本と70の債務で実行する場合を考える。インフレ率がゼロの時、投資のリターンは3%、金利は1%とする。インフレ率が1%の時、投資のリターンは4%、金利は2%となる。ゼロインフレの時のROEは(100×0.03−70×0.01)÷30=2.3÷30=7.7%。1%インフレの時のROEは(100×0.04−70×0.02)÷30=2.6÷30=8.7%となって、ROE8%が達成できる。インフレ率1%の違いだけ、ROEが高くなる。
  2. 経済産業省「持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~」プロジェクト「最終報告書(伊藤レポート)」(2014年8月6日)(40-41頁)には、ROEの目標として、8~10%、グローバル企業は15%を目指すべきとの指摘がある。
  3. 不良債権が(1)銀行の貸し渋りと投資低迷をもたらすか、(2)非効率企業への追い貸しとマクロ生産性の低下をもたらすかして、経済を停滞させるという文献は多い。宮尾龍蔵「銀行機能の低下と90年代以降のデフレ停滞」(浜田宏一・堀内昭義・内閣府経済社会総合研究所編『論争 日本の経済危機』日本経済新聞社、2004年)を参照。
  4. 日本においてその可能性を分析したものに、川出真清・伊藤新・中里透「第5章 1990年代以降の財政政策の効果とその変化」井堀利宏編『日本の財政赤字』岩波書店、2004年がある。
  5. Ben S. Bernanke (2002), "Deflation: Making Sure 'It' Doesn't Happen Here," Remarks before the National Economists Club, Washington D.C. November 21, 2002.
  6. 内閣官房「関税撤廃した場合の経済効果についての政府統一試算」およびピーター・ペトリ「PECC試算の概要」2013年3月15日。

名目の指標はどのように動いたのか

以下、名目値の指標をいくつか見てみましょう。

図6は自国通貨建ての株価と、それを各国の名目GDPで割ったものを示しています。どちらも1990年を100として指数化しています。日本の株価は1990年と比べて7割に下がっていますが、他の先進国の株価は上昇しています。1990年に比べて、アメリカとドイツは7倍、イギリスとフランスは3倍です。しかし、名目GDP対比では、ドイツは3倍、アメリカは2倍、フランスは1.3倍、イギリスはそのままに対して、日本は6割に低下となります。株価上昇の日本と他の先進国との格差はかなり縮小します。日本の株価が低調だった理由として、デフレで名目GDPが伸びなかったことも一因と考えることができると思います。

図7は、主要国の対ドルの為替レートを示したものです。日本円と米ドル(名目実効レート)には増価トレンド(図で下に行くのが通貨高)がありますが、英ポンドとユーロにはありません。量的・質的金融緩和政策導入後の円安がなければ、円の増価トレンドはもっと明らかになっていたと思います。円が上昇すれば、輸出企業と輸入競合企業は販売不振に陥り、やむを得ず価格を引き下げ、経済全般の物価を引き下げてしまいます。最終的に物価が下がって、企業は競争力を回復するかもしれませんが、それまでの調整は大変です。1ドル120円を前提に設備投資をしていた企業は、1ドル80円になれば、巨額の損失を計上することになります。これに懲りた企業は、2度と投資などしないと思うでしょう。長期的に投資を減退させてしまいます。

なお、アメリカの名目実効レートに増価トレンドがある一つの理由は、主な貿易相手の中南米諸国がひどいインフレだからです。増価トレンドがなければ、アメリカも中南米なみのインフレになってしまうかもしれません。

図8は、財政赤字の対GDP比を見たものです。日本の赤字は先進国の中でひどい状況にありますが、財政赤字が縮小したのは金融を緩和し、名目GDPが伸びた時代です。金融緩和で景気が改善し、税収が伸び、分母の名目GDPも拡大したからです。前述のように、本当に人々が、政府赤字から将来の増税を予想することによって消費を増やさないのなら、その逆の債務対名目GDP比率の低下は消費を増やしてもよいはずですが、そうはなっていません。

失業率上昇の意味

最後に、名目値と直接は関係のない失業率を国際的に見てみましょう。図9は、通常の失業率ではなく、1990年の失業率を100とした指数で見ています。図を見ると、1990年から、日本で失業率が高くなったことが分かります。他の国では失業率は景気とともに変動しながら、元にもどるような動きをしています。失業率が高ければ、生産が停滞し、税収も社会保険料収入も低かったはずです。1990年代の中ごろから、日本は多くのものを失いました。

失ったものは、単に経済的なものではありません。仕事に就けなかったということは、自分が社会に必要とされていないのではないかというストレスをもたらします。実際に、失業者の増加とともに自殺者が増えるという研究があります7。今日、失業率の低下とともに、自殺者は2003年のピークの約3.4万人から1万人以上減少しています。

2000年代の最初の10年は、ニート(NEET、Not in Education, Employment or Training、仕事にも就いていないし、教育訓練も受けていない)という言葉が日本で流行った時代でもありました。この言葉は、イギリスで造られた言葉ですが、貧困や低学歴、人種的マイノリティで様々な困難を抱えている若者をどう社会の中に組み入れていくかという問題意識の中で生まれました。しかし、日本では、豊かな社会に生まれた若者の働く気がない、もしくは働けない病理現象というイメージが付与されるようになりました。ところが、日本においてニートと定義される(この定義には幅がありますが)若者の数は、1990年代以降の経済停滞とともに増加していました。ニートは不況の結果であり、そうであれば、失業率の低下とともに減少するでしょう8。現在、日本において、もはやニートという言葉をあまり聞きません。新聞記事検索を行ったところ、「ニート」という言葉が、日本経済新聞に掲載された回数はピークの2006年で138回でしたが、直近の1年間(2015年9月—16年8月)では19回です。

一方、ここ数年、ブラック企業という言葉が流行るようになりました。ブラック企業とは、賃金が安く、とてつもなく働かされ、ご褒美があると思わせるが、実はないという会社です。すると、なぜそこで働いてしまうのかという疑問が生じます。それは正規社員と非正規社員の格差が大きい日本社会で、正規社員になることが難しくなった結果、正規社員として雇うことで、不安な若者を取り込むことができたからです。しかし、これも長い不況で雇用環境が悪化していた結果であることが大きいのです。実際、最近では、失業率が低下する中で、2013年末から非正規労働者比率の上昇傾向も頭打ちとなっており、ブラックと評判のたった企業は人を集めることができず、苦戦しています。失業率の低下とともに、自殺者もニートも減少し、ブラック企業が劣悪な雇用を続けることも困難になっています。

日本がデフレになったことと、日本の実質経済成長率が低下したことは関係があるというのが、これまでの観察に基づく主張です。それに対して、物価が下がっても、給料と金利が同じだけ下がれば何も変わらないのだから、デフレで実質経済成長率が低下したり、失業率が上昇したりするはずはないという有力な反論があります。しかし、現実の経済はもっと複雑で、デフレが実質GDPを引き下げるという経路があると私は考えています。自然利子率を巡る議論は、ほとんどすべての経済学者が認める経路です。

さらに、1990年代以降のデフレで失われた雇用は、人的資本も低下させたはずですから、労働生産性を低下させ、長期的にも成長率を低下させた可能性があると考えています。

私は、1990年代の失敗から学び、日本経済をデフレから脱却させるために金融政策を行わなければならないと考えています。

  1. 7澤田康幸・上田路子・松林哲也『自殺のない社会へ』有斐閣、2013年。
  2. 8原田泰・阿部一知「第3章 ニート、フリーター、若年失業とマクロ的な経済環境」樋口美雄『転換期の雇用・能力開発支援の経済政策』日本評論社、2006年。

4.量的・質的金融緩和政策後の日本経済と「総括的な検証」

次に、量的・質的金融緩和政策後の日本経済について考えます。私は、量的・質的金融緩和政策はこれまでに述べた過ちを正すために行っているものと考えています。では、量的・質的金融緩和政策は、過去の過ちを正すことができたでしょうか。

まず、前掲図1のGDPデフレータを見て下さい。量的・質的金融緩和政策の開始とともに、GDPデフレータが安定的に上昇を始めています(GDPデフレータは原油価格の影響を除いているものであることを思い出して下さい)。量的・質的金融緩和政策は過去のデフレ・トレンドを反転させているのです。しかし、前述のように、その上昇率は0.9%に過ぎず、日本銀行が目標としている2%のインフレ率に足りません。消費者物価指数(生鮮食品を除く)で2%を達成するためには、前述の関係を当てはめれば、GDPデフレータで1.2%の上昇が必要です。

次に、消費者物価指数を見てみましょう。図10は、消費税増税の影響を除いた消費者物価指数(除く生鮮)及び、同(除く生鮮・エネルギー)の動きを見たものです。第2次安倍政権の発足、量的・質的金融緩和政策の実施後、それまでマイナスだった物価上昇率はプラスに転じました。ここで原油価格の影響を除いた、消費者物価指数(除く生鮮・エネルギー)の動きを見ると、量的・質的金融緩和政策の開始直前マイナス0.8%まで低下していた対前年上昇率が2014年2月には0.9%まで高まります(これには消費税増税前の駆け込み需要が押し上げた分も含まれます)。ところが、消費税増税後、上昇率は低下してしまいます。そこで2014年10月に量的・質的金融緩和政策の拡大を行ったところ、消費者物価指数(除く生鮮・エネルギー)は再び上昇に向かいました。しかし、2015年の末頃から増勢が鈍化し、2016年1月にはマイナス金利付き量的・質的金融緩和政策、7月にはETFの買入額をほぼ倍増するという「金融緩和の強化」を行ったにもかかわらず、物価の増勢は鈍化したままです。デフレではない状況は作れたものの、2%の物価上昇の目標は達成できていないままです。

実質GDPを見ますと、量的・質的金融緩和開始後も、それ以前と比べての成長加速は見られません。しかし、前掲図4の生産年齢人口当たりの実質GDPは、消費税増税の影響を受けた2014年を除いてみれば、わずかですが成長の加速があるようにも思えます。雇用環境の改善はすでに述べたとおりです。雇用の改善は大都市だけのことではなく、全国に波及しています。2016年6月には、すべての県で有効求人倍率が1を超えました。もちろん、全国でも上昇し、2016年8月には1.37倍となりました。これは1991年8月以来の高さです。ちなみに、長野県の有効求人倍率は1.42倍となっています。

日本銀行の「総括的な検証」

インフレ目標を達成できていないことに関して、日本銀行は、2016年9月21日、「『量的・質的金融緩和』導入以降の経済・物価動向と政策効果についての総括的な検証」を行い、同時に新しい「金融緩和強化のための新しい枠組み」を決定しました。この2つについて、以下、説明させて頂きます。

まず「検証」の内容は、(1)量的・質的金融緩和政策が実体経済に働きかけるメカニズム、(2)2%の実現を阻害した要因、(3)予想物価上昇率の期待形成メカニズム、(4)イールドカーブの押し下げ、(5)イールドカーブ引き下げの効果と影響、の5つに分かれています。以下、それぞれについて説明します。

まず、実体経済に働きかけるメカニズムですが、後出のイールドカーブにあるように、金利はすべてのレンジにおいて低下しました。予想物価上昇率は、さまざまな指標で見てプラスになっていますので、実質金利は当然低下しています。前述の自然利子率に比べて、より低い利子率を実現できていますので、経済を刺激することができます。その結果、経済は好転し、物価の持続的な下落という意味でのデフレではなくなりました。

第2に、なぜ2%の目標が実現できなかったかです。上記のメカニズムでは、予想物価上昇率が高まることが重要です。ところが、原油価格の下落、消費税増税後の需要の弱さ、世界経済の減速と国際金融市場の不安定な動きにより、現実の消費者物価の下落が続きました。この足元の物価が適合的に予想物価上昇率に影響を与え、予想物価上昇率の低下が、現実の物価も下落させてしまったようです。

従って、第3に、予想物価上昇率の期待形成メカニズムの理解が重要になります。当面、現実の物価上昇率が低い中にあっては、適合的な期待による引き上げには不確実性があり、時間がかかると考えられます。そこで、フォーワードルッキングな期待形成の役割が重要です。マネタリーベースの拡大は、「物価安定の目標」に対するコミットメントと合わせて、金融政策レジームの変化をもたらし、予想物価上昇率の押し上げに寄与したと考えられます。また、マネタリーベースと予想物価上昇率は長期的な関係を持つものですので、長期的な増加へのコミットメントが重要だということです。

第4に、マイナス金利と国債買入れの組み合わせにより、中央銀行がイールドカーブ全般に大きな影響を与えることができることが明らかになりました。

第5に、イールドカーブ引き下げと形状の変化が、経済全般に様々な影響を与えるということです。すなわち、(1)経済への影響は、短中期ゾーンの効果が相対的に大きい。超長期の金利が下がるより、中短期の金利が低下したほうが経済への刺激効果は、少なくとも、これまでは大きかった。(2)ただし、現在、超長期社債の発行など、企業金融面の新しい動きが生じており、この関係は変化する可能性がある。(3)イールドカーブの過度なフラット化は、金融機能の持続性に対する不安感をもたらし、マインド面を通じて経済活動に悪影響を及ぼす可能性があるということです。

(1)(2)は常識的に理解できる指摘です。企業の投資採算の判断は数年のレンジでなされますから、20年物の金利が低下しても投資はあまり増えない。20年の採算を考えるのは、これまではインフラ系の企業が中心で、これらの企業は中長期の事業計画に沿って投資を行うので、足元の金利にはあまり感応しない面がありました。ただし現在、非インフラ系の企業を含めて、超長期債の発行を通じた前向きの動きがあります。

金融機関経営とイールドカーブのフラット化

金融機関経営とイールドカーブのフラット化についてさらに考えてみたいと思います。すなわち、短期の金利に比べて長期の金利は高いが、その程度が低くなりました。なぜフラット化するかといえば、預金金利をマイナスにすることは難しいので、短期の金利は下がりにくいからです。また、金利がマイナスになった結果、多くの投資家が少しでもプラスの金利を求めて長期の債券を購入した結果でもあります。

金融機関とは資金を短期で調達して長期で運用するものですから、イールドカーブが寝てしまえば、利益は減少します。したがって、マイナス金利政策の結果、金融機関の利益は、ここだけを見れば減少します。

しかし、金融機関は、貸したお金が戻ってきて初めて利益を得られるものですから、単にイールドカーブが立っていれば利益をあげることができるというものではありません。量的・質的金融緩和政策の開始以来、銀行の利益は高い水準で安定しています。これは景気好転によって貸出先企業の経営が改善し、貸し倒れのコスト、信用コストが減少しているからです。ただし、貸し倒れの減少は好ましいが、それは過去のことであって、将来の安定的な利益を保証している訳ではない。イールドカーブのフラット化によって、これまでの安定的な利益が損なわれ、将来の利益減が予想されるという点が、大きく懸念されていたのかもしれません。

しかし、長期的に考えれば、銀行は貸出先があって初めて利益を得られるものです。企業が貯蓄をため込んで投資をしないのは、デフレが長期にわたって続き、投資意欲を減退させているからでもあります。デフレが終われば、企業は投資意欲を取り戻し、銀行からの借入れ需要も増大するはずです。すなわち、銀行の貸出も増大し、銀行の利益も上がるはずです。

また、現在の低金利は、1990年のバブル崩壊以来の長期の低成長とデフレによってもたらされたもので、必ずしも現在の日本銀行の政策によって生じている訳ではありません。今や企業部門は全体としては貯蓄超過でお金を借りる必要がありません。これではトレンドとしての金利と利鞘の低下は止むを得ないことです9。しかし、マイナス金利政策の導入後、金利と利鞘の低下がこれまでのトレンドと比べても大きくなったので、銀行収益への影響を心配する声が大きかったようです。

図11は、量的緩和政策開始後のイールドカーブを示したものです。図に見るように、2001年3月の量的緩和政策の導入前と導入後を比べると、イールドカーブ全般が低下していますが、フラット化の程度はわずかです。1年物金利が0.4%ポイント低下したのに比べ、20年物の金利は0.7%ポイント低下したにすぎません(2000年12月30日と2001年3月21日との比較)。ところが、量的・質的金融緩和政策導入前と金融緩和の強化の直前10を比べると、1年物金利が0.5%ポイント低下したのに比べ、20年物の金利は1.6%ポイントも低下しました(2012年12月28日と2016年7月28日の比較)。

20年物の金利は一時0.1%程度にまで低下しました。2%の物価上昇率目標の達成は難しいと多くのエコノミストが言っていますが、そのエコノミストの予測でも、中長期の消費者物価上昇率は1%程度はあります11。自然利子率が0%だとしても、当時の20年物の金利はいかにも低すぎたと思えます。その後、20年物の金利は徐々に上昇しましたが、私は、この上昇は健全なものだと思っています。

  1. 9原田泰「なぜ日本の金利は低いのか」『景気とサイクル』62号、2016年近刊。
  2. 102016年7月29日の金融政策決定会合では、次回の決定会合において、「量的・質的金融緩和」・「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」のもとでの経済・物価動向や政策効果について総括的な検証を行うこととした。同日以降、総括的な検証によってイールドカーブが上昇するとの市場の思惑などから、超長期ゾーンの金利は上昇した。
  3. 112016年7月展望レポート図表39(2)を参照。

金融政策と金融機関経営

金融機関にとって、その経営状況が重要なのは当然ですが、金融政策運営にとって重要なのは、金融機関の経営状況が経済全体にどのような影響を与えるかです。そのためには、金融政策の波及経路全般を考える必要があります。

金融政策は、銀行の経路と銀行以外、すなわち、資産市場の経路を通して、経済に影響を与えます。金利が低下すれば、借入需要が増大し、銀行はこれに応じて貸出を拡大します。この時、銀行経営に困難があれば、貸出需要に応ずることができないということがあり得ます。これは、せっかくの金融政策の効果を阻害することになります。しかし、ある銀行が経営上の困難を抱えていても、他の銀行が貸し出せば、経済全体に対する金融政策の効果を阻害することにはなりません。また、資産市場を通じる経路については、株価や地価が上昇、あるいは円が下落することで消費や投資を刺激する効果があります。問題は、これらの経路を総合的に考えて、経済を刺激する効果がどれだけ大きいかということです12

バブルの時代の後、銀行が不良債権を抱えた時、これが銀行貸出を制約し、ひいては経済全体の回復を阻害するという議論が盛んでした。しかし、銀行の不良債権が、貸出を阻害し、経済全般にマイナスの影響を与えたと考えられるのは、1990年代では1997年と1998年の金融危機の時だけだったというのが多くの実証分析の結果です13。現在の状況で、マイナス金利政策が、銀行経営を圧迫して、経済全体をかえって悪化させるということは考えられません。

  1. 12Mishkin, Frederic, The Economics of Money, Banking, and Financial Markets, Global Edition, Tenth Edition, Chapter 26, Pearson, 2013.は、金融政策が効果をもたらす経路を、貸出を通じる経路、資産価格を通じる経路など9つに分けて説明しているが、銀行の経営が経済全般に影響を与える経路は限られる。
  2. 13前掲宮尾論文参照。

5.「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」政策について

以上ご説明した「総括的な検証」に基づき、9月21日、日本銀行は「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」政策を決定いたしました。「総括的な検証」で明確になったことは、(1)量的・質的金融緩和政策は主として実質金利低下の効果により経済・物価の好転をもたらしたということです。金利の低下で重要なのは、短中期ゾーンであること、中央銀行がイールドカーブ全般に大きな影響を与えることができると分かったことです。(2)フォーワードルッキングな期待形成が大事であるということです。また、以下には私個人の考えも含まれていますが、(3)これ以上の緩和はできないという金融政策の限界が意識されることが金融政策の効果を弱めることになるので、今後の追加的な金融手段をも明らかにすることが必要です。

そこで(1)として、長短金利を同時にコントロールするため、短期金利にこれまでと同じマイナス0.1%の金利を適用するとともに、10年物の国債金利が概ね現状のゼロ%程度で推移するように長期国債を買入れることとしました。現状通りですから、国債買入れの年間増加額は80兆円程度になると見ています。(2)として、オーバーシュート型コミットメントを行います。これは、消費者物価(除く生鮮食品)の前年上昇率の実績が安定的に2%を超えるまで、すなわち、図12に見るように、一時的に2%を超えても、マネタリーベースの拡大方針を続けるということです。これは前回、2006年3月の量的緩和の解除において、ゼロ%を少しでも上回ったなら解除すると誤解されてしまったように思われることから、是非必要なメッセージと思います。

また、図13に見るように、マネタリーベースは後1年強で500兆円を超え、対名目GDP比は100%を超えます(現在日本は約80%、米国・ユーロエリアは約20%)。これは金融政策の限界論を否定する強いコミットメントだと考えています。なお、図は対名目GDP比を示していますが、緩和の限界は、政府債務残高に占めるマネタリーベース(これは日本銀行の国債買入れの累計額とほぼ同じです)で考えるべきだと思います。これを見ますと、日本は3割ですが、米国、英国、ユーロエリアは2割程度です。日本の金融緩和政策の限界はまだまだ先にあります。(3)は、今後の追加的緩和手段として、短期金利、長期金利の引き下げ、資産買入れの質の拡大、マネタリーベースの拡大ペースの加速を手段として挙げています。これもまた、金融政策の限界論を否定する強いコミットメントです。

6.終わりに

高い経済成長を誇っていた日本経済は、1990年以降、先進国の中でもっとも経済成長率の低い国になってしまいました。この間、同時にデフレが進行しました。では、デフレが日本経済の停滞をもたらしたと言えるのか、というのがここで生まれた疑問です。

私の考えは、すべてがそうであるとは言えないにしても、デフレが経済を停滞させた面があるというものです。であるなら、現在の量的・質的金融緩和政策によって、経済が過去の停滞から反転するはずです。実質GDPを見る限り、消費税増税のマイナスのショックがあったにせよ、これまでの停滞からより高い成長への反転は見られないようです。ただし、生産年齢人口当たりの実質GDPにすると多少は反転の兆しがあるようにも思えます。また、失業率は一貫して低下しています。雇用環境が良好になるということは、働く人々が大切に扱われるようになるということでもあります。

マイナス金利政策への反発があることは承知しています。低い金利がイールドカーブを寝かせてしまい、それが銀行の収益に影響を与えるからです。しかし、金融政策運営にとって重要なのは、金融機関の経営状況が経済全体にどのような影響を与えるかです。現在のところ、金融政策の経済全体に与えるプラスの効果がより大きいと考えられます。

今回の、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」政策により、2%のインフレ目標に向けて、着実に進むことができると考えています。また、世界経済の急激な変化など、この達成が困難になる事態が生じれば、躊躇なく追加緩和をすべきと考えています。

最後に、長野県経済について触れておきたいと思います。

長野県は、最先端の製造業が集積するものづくりの県であるとともに、清涼感に溢れ、わが国を代表する山々に囲まれた観光の県でもあります。今年は、大河ドラマ「真田丸」の放映や諏訪大社の御柱祭の開催などを通じ、歴史的・文化的な魅力についても全国に発信されました。

足元の当県の経済は、製造業が中国など新興国経済の減速の影響を受けていますが、企業は設備投資を着実に進めており、また、堅調な雇用情勢や観光需要を背景に、個人消費が底堅く推移していることから、緩やかながら回復しています。

当県の製造業は、戦前の製糸業に始まり、戦後の精密機械、近年の電子部品・デバイスと、時代の変化にあわせて柔軟に事業分野を転換しつつ、常にグローバル市場に目を向けながら発展してきました。ただ、近年においては、生産拠点の海外展開が進んだ結果、かつて全国を上回っていた輸出比率は低下しています。こうした中、将来の産業の柱を育てる試みとして、「長野県航空機産業振興ビジョン」のもと、航空機システム拠点の形成に向けた官民一体となった取り組みが行われており、当県製造業のダイナミズムには注目しています。

また、観光面では、全国と同様にインバウンド客が急激に増加しており、その訪問先も、軽井沢や白馬村から木曽路などへと面的な広がりを見せています。インバウンド客の獲得に向け、交通インフラの整備から、かつてスキー客で賑わった温泉地の再生に至る、様々な対応が進められており、県内金融機関も「ALL信州観光活性化ファンド」などを通じ、こうした取り組みを積極的に支援していると伺っています。

一方で、当県は2001年をピークに人口が減少に転じており、全国より早い段階から少子高齢化に直面しています。ただ、県民の平均寿命は男女ともに全国1位、高齢者の就業率も全国1位です。ここ松本市でも「健康寿命延伸都市」をキーワードに街の健康水準を高め、経済の活力と環境の良さ、暮らしの安心を追及する街づくりが進められています。高齢者が元気で働きやすい環境づくりへの取り組みも、全国の参考となりうるものと言えるでしょう。

こうした皆様のご努力が実を結び、長野県経済が一層の発展を遂げられることを祈念しまして、挨拶の言葉とさせて頂きます。

最後に、あらためましてお礼申し上げます。ご清聴、ありがとうございました。