「物価の安定」についての考え方(注)
(注) 本文書は、3月8、9日開催の政策委員会・金融政策決定会合で決定された「新たな金融政策運営の枠組みの導入について」で示された「『物価の安定』についての考え方」に関する背景説明である。
2006年 3月10日
日本銀行
【背景説明】
「物価の安定」を概念的に定義すると、「家計や企業等の様々な経済主体が物価水準の変動に煩わされることなく、消費や投資などの経済活動にかかる意思決定を行うことができる状況」となる。物価指数に即して物価安定が確保されているかどうかを判断する際にも、この定義に立ち返って考えることが有益である。 物価とは、個々の財・サービスの価格を全体として捉えた一般物価水準のことを言う。一般物価を直接観察することはできないため、一定の約束に従って作成される物価指数を用いて、一般物価の変化を捉えることになる。一般物価が安定していても、個々の財・サービスの価格は、需要や供給を反映して変動する。その結果、個々の財・サービスの価格の相対関係も変化するが、これを相対価格の変動と言う。 物価水準が大きく変動すると、家計や企業にとっては、個々の財・サービス価格の変化が物価水準全般の変化を反映したものなのか、当該財・サービスの相対価格の変化を反映したものなのかを、的確に識別することが困難となる。その結果、価格の変化がシグナルとなって最適な資源配分が実現するという、市場メカニズムの機能を発揮することが難しくなる。一般論として言うと、物価上昇率が高いほど、個別の財・サービス価格の変動も大きくなる(図表1)。また、物価水準が大きく変動すると、経済・物価の先行きに関する不確実性が高まることから、企業は長期的な見通しに基づいて計画を立てることが難しくなる。さらに、金融市場で先行きの物価変動に関する不確実性が増大すると、プレミアムが発生し、長期金利はその分上昇する。このため、物価上昇率が高まると、設備投資など長期的な視野にたった経済活動が抑制されやすくなる。このような理由から、物価の安定は持続的な経済成長にとって不可欠の前提条件である。さらに、物価が大きく変動すると、所得分配にも歪みがもたらされる可能性がある。 こうした点を踏まえ、日本銀行法第2条は、金融政策の運営理念について、「日本銀行は、通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とする」と定めている。日本銀行はこの理念に基づいて適切な金融政策運営に努めている。
金融政策の効果が経済活動に波及し、これがさらに物価に波及するまでには、かなり長く、かつ可変的なラグが存在する(図表2)。このため、中央銀行は十分長い先行きの経済・物価の動向を予測しながら、金融政策を運営する必要がある。日本銀行は、半期毎に公表している展望レポートで、先行き1年半から2年の経済・物価見通しを公表している。これは金融政策の運営に当たり、先行きの経済・物価の経路についての見通しを示すことが有益という考え方によるものである。 中央銀行の目指す物価安定は、短期的・一時的な安定ではなく、中長期的に持続可能な物価安定である。その意味で、物価変動の要因を分析し、物価の上昇や下落が中長期的に続きうるものかどうか、また、物価指数が安定していても、中長期的に持続可能な物価の安定であるかどうかを点検し、的確に判断していくことが極めて重要である。 例えば、1980年代後半のわが国では、物価は極めて安定しており、バブル拡大期の1988年度でも消費者物価指数(CPI<全国、除く生鮮食品>)の前年比は平均で0.6%の上昇にとどまっていた(図表3)。他方、景気は1987年以降拡大に転じ、特に1988年以降は著しく過熱した。景気拡大にもかかわらず物価が安定的に推移した背景としては、金融緩和政策の効果波及のラグに加えて、原油価格の下落や円高による輸入コストの低下という供給面の要因が作用していたことも挙げられる。その後、CPI前年比は、徐々に上昇ペースを速めたものの、前年比で3%程度にまで上昇したのは、事後的にみると、4年にわたる景気拡大の最終局面に当たる1990年から1991年にかけてであった。この間、地価をはじめとする資産価格は大幅に上昇した後、下落に転じ、その後の実体経済の長期低迷につながった。また、物価が緩やかな下落基調を辿ることになったのは、さらに長い期間を経過した1998年ごろからであった。 各国中央銀行も十分長い先行きの経済・物価の動向を予測しながら、中長期的にみて「物価の安定」を実現するように努めている。このため、インフレーション・ターゲティングを採用している中央銀行の金融政策をみても、機械的な運営は行われておらず、柔軟に運営されている。例えば、足許の物価上昇率が目標値を下回っていても(上回っていても)、政策金利は引き上げ(引き下げ)られているケースも少なからずみられる(図表4)。インフレーション・ターゲティングの目標値や物価安定の数値的定義で示されている物価上昇率は、あくまでも中長期的に実現していくものとして位置付けられている(図表5)。
物価指数には、消費者物価指数(CPI)、企業物価指数(CGPI)、企業向けサービス価格指数(CSPI)、GDPデフレーター等、対象とする財・サービスの範囲、指数算式などの違いを反映して様々な指数が存在する。 日本銀行では、様々な物価指数を使って物価情勢を点検している。これらの物価指数はそれぞれ作成方法が異なるため、その特性を十分踏まえつつ活用している。国民に対し金融政策を説明していく際の物価指数としては、家計が消費する財・サービスを対象とした指標が国民にとって最も身近であり、基本となると考えている。中でも、統計の速報性の点などからみて、CPIが最も重要である。なお、海外主要国の中央銀行でも、金融政策の説明に当たっては、わが国と同様、家計が消費する財・サービスを対象とした物価指数、特に、CPIが中心的指標として用いられている(図表6)。 CPI以外の物価指数も含め、最近の物価上昇率の動きをみると(図表7)、最近では、CPIは、需給バランスの改善、賃金の上昇、物価見通しの改善等を反映して、プラス基調が定着しつつある。CGPIも国際商品市況高の影響などから、2%台で推移しており、消費税導入の影響から上昇率が高まった1989〜90年を除くと、1981年以来の高い上昇率を記録している。これに対し、GDPデフレーターは、輸入が控除項目となっているため、原油価格の上昇等によって、前年比マイナスが続いている(図表8)。GDPデフレーターは、CPIと長期的には同じ方向に動く傾向にあるが、短期的には異なる動きを示すこともある。また、GDPデフレーターについては、統計の事後改訂の頻度が高いほか、その改訂幅もかなり大きい点に留意する必要がある(図表9)。
「物価の安定」を現実の物価指数の数値で表現する場合、概念的には、物価指数に計測誤差(バイアス)がないとすれば、変化率がゼロ%の状態である。 CPIは、すべての家計が基準時点の財・サービスの消費バスケットを購入し続けると仮定して物価変動を捉えようとするものである。このため、情報関連機器など価格下落の著しい新製品の登場や、小売業におけるディスカウント店のシェア拡大などに伴う消費者行動の変化を的確に反映させることが難しく、指数の上昇率が幾分高めとなる傾向があると指摘されてきた(図表10)。しかし、近年、わが国の統計作成当局は物価指数の改善に向けて、品質調整手法の拡充や採用品目見直し頻度の短縮化をはじめ、様々な課題に取組んでいる(図表11)。この結果、わが国のCPIの「バイアス」は縮小しており、現状では大きくないとみられる。
わが国のCPI(全国、除く生鮮食品)は1998年以降緩やかな下落基調に転じ、2001年には前年比は一時、−1.0%までマイナス幅を拡大した後、2003年以降マイナス幅が徐々に縮小し、足許(2006年1月分)では+0.5%となっている。1997年から2005年までの8年間の下落率は累積すると−2.7%(2005年平均の1997年平均に対する下落率<消費税要因調整済み>)となっている(図表12)。 物価が継続的に変動する場合は、上昇・下落いずれの方向でも、資源配分や所得分配に悪影響を与える。下落の場合は、そうした一般的な影響に加えて、物価下落に固有のコストも指摘されることが多い。そうした固有のコストが発生する第1の理由は、名目賃金の下方硬直性である。名目賃金が下方硬直的であれば、物価下落により実質賃金が上昇し、その結果、労働需要が減少し、失業が増加する。失業の増加は、所得減少による支出減少を通じて経済活動を悪化させ、一層の物価下落をもたらす可能性がある。第2の理由は、金融政策のゼロ金利制約である。金融政策の操作変数である名目短期金利をゼロ以下に引き下げることはできないため、名目短期金利がほぼゼロまで低下すると、物価の下落や経済活動の悪化が生じても、金融政策により名目短期金利を引き下げることで、実質短期金利を低下させ、経済活動を刺激することが難しくなる。この結果、物価の下落や経済活動の悪化が一層深刻になる可能性がある。第3の理由は、金融取引が一般に名目ベースの債権債務契約で行われていることである。この場合、物価の下落は実質債務価値の増加をもたらすが、債務者は債権者に比べ支出性向が高いことが多いため、支出が減退し、物価下落と景気悪化の悪循環をもたらす可能性がある。 以上のような可能性を考慮する場合には、予めある程度の物価上昇を容認して、物価下落のリスクに備えるという対応が考えられる。これが物価下落のリスクに備えた「のりしろ」という考え方である。どの程度の「のりしろ」が必要となるかは、上述のようなメカニズムが現実のわが国経済においてどう作用するかに依存する。より具体的には、以下のような点に関する評価が重要である。
物価が一時的に下落すること自体は主要先進国でも1980年代以降、少なからず観察された。わが国でも、バブル期の直前にはCPI前年比はマイナスを記録したほか(前出図表12)、ドイツ、スイス、カナダ、オランダ、スウェーデンでも一時的にマイナスを経験した(図表13)。問題となるのは、物価の継続的な下落が出発点となって、物価下落と景気悪化の悪循環をもたらすかどうかという点である。わが国経済は、世界的なIT景気の影響を受けて回復した後、2001年以降は世界的なITバブル崩壊によって、景気悪化を経験し、ごく最近まで小幅の物価下落が継続した。もっとも、物価下落と景気悪化の悪循環に陥るには至らなかった(図表14)。 わが国経済が物価下落と景気悪化の悪循環に陥らなかった理由としては、幾つかの仮説が考えられる。第1に、潤沢な資金供給等によって金融システムの安定性が維持されたことが挙げられる。第2に、1990年代後半以降、わが国の名目賃金は比較的伸縮的に調整され、実質賃金の高止まりが回避されたことが挙げられる(図表15)。因みに、マクロ・ベースの名目賃金の変化率を海外主要国と比較すると、日本の場合、下方にもかなり伸縮的である(図表16)。第3に、CPIに基づく量的緩和継続の「約束」によりゼロ金利継続予想が生まれ、追加的な金融緩和効果をある程度まで引き出してきたことが挙げられる。いずれにせよ、どの程度の「のりしろ」が必要とされるかは、上述の諸要因の重要性に関する評価に依存する。
「物価の安定」を考えるに当たって、家計や企業が経済活動にかかる意思決定を行う上で前提としている物価上昇率の水準を考慮する必要がある。この点、わが国の場合、過去数十年間という期間で捉えてみると、もともと、海外主要国に比べ物価上昇率は低い。例えば、1985年以降2005年までの平均的な物価上昇率は0.6%と、米国(3.2%)や英国(2.9%)はもとより、相対的にインフレ率の低かったドイツ(1.8%)やスイス(1.9%)よりも低かった(図表17)。このような物価の傾向は、わが国で物価が緩やかな下落に転じた1998年よりも前の期間に限定し、1985年から1997年の平均でみても変わらない。このような状況を踏まえると、物価が安定していると家計や企業が考える物価上昇率は低くなっており、経済活動にかかる意思決定はそうした低い物価上昇率を前提として行われている可能性がある。このことは、わが国の長期金利が海外主要国と比べ総じて低い水準で推移してきたことにも示されている(図表18)。
物価変動に伴う経済への悪影響は、その国の経済構造、過去の物価上昇率等の違いによって、国ごとに異なり得る。また、物価指数の作成方法は国によって異なるため、バイアスの大きさも国によって異なる。金融政策運営に当たり、中長期的にみて物価が安定していると各政策委員が理解する物価上昇率(「中長期的な物価安定の理解」)は、現時点では、海外主要国よりも低めという理解となった。 わが国の今回の景気回復局面を過去と比較すると、今回は経済成長率の上昇に対する物価上昇率の反応は極めて小さくなっている(図表19)。このような現象は、海外諸国にも共通しており、その背景としては、経済のグローバル化の進展や情報通信技術の発達が影響している可能性も指摘されている。こうした要因に加え、わが国経済については、長期にわたる景気の低迷を経て、現在、持続的な成長に至る途上にあり、物価の形成メカニズムが変化している可能性もある。現時点では、こうした変化が一時的なものかどうか、見極めることは難しいが、こうした点を踏まえると、経済構造の変化に応じて徐々に物価形成のメカニズムが変化していく可能性も考慮しておく必要がある。このような理由から、「中長期的な物価安定の理解」についても、定期的に点検していくことが適当であると判断した。 |
以 上
