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わが国のマクロ的な賃金決定の特徴は何か?:賃金版ニューケインジアン・フィリップス曲線の日米比較

新谷 幸平、武藤 一郎(日本銀行)

Research LAB No.14-J-2, 2014年12月1日

キーワード:
賃金、失業率、ニューケインジアン理論、フィリップス曲線

JEL分類番号:
E24、E31、E32

Contact
kouhei.shintani@boj.or.jp(新谷幸平)

要旨

当論文では、わが国におけるマクロ的な賃金決定の特徴を把握するため、Gali(2011)が導出した「賃金版ニューケインジアン・フィリップス曲線(NKWPC)」を日米のデータを用いて推計した。NKWPCの枠組みでは、観察された賃金上昇率と失業率の関係を経済学的な概念に関連付けて解釈できる。分析を通じて、日本におけるNKWPCの実証的パフォーマンスは米国より総じて良好であるほか、日本ではその傾きは近年フラット化しているが、なお米国より急であることが判明した。その理論的背景として、日本では賃金の粘着性が米国よりも小さい点が影響している可能性がある。賃金の物価スライドを考慮した場合、日本では米国と異なりインフレ率が賃金に与える影響がさほど明確でないが、近年では日米共にその影響は以前に比べ大きくないことが確認された。この結果には、近年両国のインフレ率が低位安定してきたことが影響している可能性がある。

1. 推計手法:先行研究との比較における特徴

フィリップス曲線とは元来、賃金上昇率と失業率の間に負の相関があることを示したものであった(Phillips(1958))。図1で、日本と米国における賃金上昇率と失業率の長期的な関係を散布図でみてみると、米国でははっきりとした関係は観察できないのに対して、日本では明確な右下がりの関係が観察でき、この点で両国は対照的であることが分かる。

図1. 賃金上昇率と失業率

70年代以降の日本と米国について、賃金上昇率と失業率の関係を示した散布図。詳細は本文の通り。

(資料)厚生労働省「毎月勤労統計」、総務省「労働力調査」
米国労働統計局(BLS)

しかし、こうしたデータから観察される事実について、その関係性がなぜ生み出されるのかという点に関する理論的背景(ミクロ的基礎付け)が十分に提供されてきたとは言い難い。このため、失業率が賃金上昇率に及ぼす影響の度合いを、経済学的な概念と関連付けつつ数量的に把握することができていなかった。これは、物価に関するフィリップス曲線が、ニューケインジアン理論の発展によって、「ニューケインジアン・フィリップス曲線(New Keynesian Phillips Curve、NKPC)」として定式化され、多くの実証分析を通じてインフレ率の決定要因に関する理論的解釈が行われてきたのとは対照的である。

この点、比較的最近になって、Gali(2011)は、既存の粘着賃金モデルに労働供給に関する追加的仮定を設けることで、賃金上昇率と失業率の関係を「賃金版ニューケインジアン・フィリップス曲線(New Keynesian Wage Phillips Curve、以下NKWPC)」として理論的に導くことができることを明らかにした。NKWPCの枠組みでは、賃金上昇率と失業率の関係は、賃金の粘着性や労働供給の賃金弾力性など、経済学的に重要な意味を持つパラメータによって規定されるため、賃金上昇率の決定に関する理論的洞察を行うことができる。しかしながら、NKWPCに関する実証研究は、筆者の知る限り米国を分析対象としたGali(2011)以外に見当たらないのが現状である。このため、米国以外のデータも用いて推計するなど、分析を積み重ねる必要があると考えられる。そこで当論文では、Gali(2011)により導出されたNKWPCに関して、日米比較という形で実証分析を行った。これは、日米の結果を比較することにより、両国における賃金決定メカニズムの特徴をより深く理解するためである。

なお、先行研究の中には、ニューケインジアン理論に基づく賃金・物価の決定モデルに関する実証分析を行ったものが存在する(Sbordone(2006)、古賀・西崎(2006))。これらの研究は、ニューケインジアン理論に賃金の粘着性を導入した代表的な研究であるErceg, Henderson, and Levin(2000)に基づき、「賃金マークアップ」(あるいは「実質賃金ギャップ」)と呼ばれる変数を、賃金上昇率の主たる決定要因として用いている。もっとも、賃金マークアップは、データとして直接観察することが困難であり、上述した先行研究においても、推計に用いられた賃金マークアップの代理変数のデータが、理論的にみてどの程度適切なのかという点に議論の余地がある。これらの先行研究とは異なり、Gali(2011)および当論文は、労働供給に関する家計の意思決定等を考慮した場合、賃金マークアップと失業率の間に線形の関係が導かれるという理論的帰結に基づき、直接的に観察可能で、労働需給を表すため直感的にも理解しやすい、失業率のデータを用いてNKWPCを推計している。このように、理論的枠組みと実証分析に用いるデータの間に概念的な乖離が存在しないことが、Gali(2011)および当論文の実証分析における大きな利点である。

NKWPCの基本モデルでは、現在の賃金上昇率は、(1)先行きの賃金上昇率に対するフォワード・ルッキングな期待と(2)現在の失業率(労働需給を表す)で決定されるが、Gali(2011)はこれを拡張し、(3)賃金の物価スライド(インデクゼーション)も加えている。ここでいう物価スライドとは、賃金契約上に明記されるものだけでなく、労使の賃金交渉におけるインフレ率の考慮など、マクロのインフレ率が賃金上昇率に及ぼす影響を広く捉えたものである。もっとも、上記(1)の期待項は直接推計できないため、実際に推計するNKWPCには、一定の仮定(失業率を自己回帰モデルで定式化)のもとで導出した誘導形を用いる。誘導形のNKWPCは、現在の賃金上昇率が、(1)1期前のインフレ率と(2)現在の失業率で決定される、きわめてシンプルな関係式となる。この式は古典的な賃金フィリップス曲線と類似しているものの、背後に理論的基礎を持つため、推計結果を経済学的な概念に関連付けて解釈することが可能である。

2. 推計結果

当論文では1980年以降における日本と米国のデータを用いて、NKWPCを推計した(表参照)。比較参照のため、インデクゼーションのない基本モデルの誘導形も推計している。なお、ここでは日本の賃金データの振れに配慮し、前年比関数を示しているが、当論文では前期比関数も推計している(推計結果は新谷・武藤(2014) [PDF 2,370KB]を参照)。

表. NKWPC(誘導形)の推計結果

表. NKWPC(誘導形)の推計結果
基本形 インデクゼーションを考慮
日本 米国 日本 米国
失業率 -2.041 0.005 -1.560 -0.191
(-20.96) (0.07) (-11.46) (-4.49)
1期前
インフレ率
0.396 0.529
(4.72) (17.56)
定数項 0.089 0.034 0.069 0.028
(24.88) (6.78) (12.48) (10.04)
Adj-R2 0.767 -0.008 0.800 0.697
  • 推計期間は1980年Q1〜2013年Q2。カッコ内はt値。賃金上昇率には時間当たり賃金の前年比を使用。インフレ率として日本はCPI総合除く生鮮食品、米国はCPI総合除く食料・エネルギーの前年比を使用。

上記の推計結果から判明した点は、以下のとおり。

  1. (1)日本では、インデクゼーションを考慮するか否かに関わらず、失業率が、賃金上昇率に対して統計的に有意な説明力を持つ。一方、米国では、インデクゼーションを考慮した場合のみ失業率が説明力を持つが、それでも失業率にかかる係数の絶対値は日本に比べかなり小さい。つまり、日本では米国対比、フィリップス曲線の傾きが急である。
  2. (2)日米ともに、1期前のインフレ率は、賃金上昇率に対して統計的に有意な説明力を持つ。ただし、インデクゼーションを考慮することによるフィット(関数の当てはまり)の改善度は米国の方で特に大きく、米国の方が物価スライドの役割がより明確である。

以上の推計結果は、1980年以降という長期のデータに基づくものであった。次に、1972年から2013年のデータについてサンプルを20年間分に固定したうえで、推計期間をずらしていくローリング推計を行うことで、上記でみた賃金上昇率と失業率、インフレ率との関係が過去の局面を通じてどのように変化してきたか、についても確認した(図2参照)。

図2. NKWPC(誘導形)の係数の時系列的変化

日本と米国について、NKWPC(誘導形)の失業率とインフレ率にかかる係数の時系列的変化を示したグラフ。詳細は本文の通り。

  • 20年間のウィンドウのローリング推計。シャドーは2標準誤差の範囲を表わす。

上記のローリング推計結果から判明した点は、以下のとおり。

  1. (1)失業率にかかる係数の絶対値は、日本では近年低下している一方、米国では近年になって幾分有意性が認められる。もっとも、日本の方が米国より係数の絶対値が大きいことは、期間を通じて変わりがない。
  2. (2)インフレ率にかかる係数は、日米ともに近年低下しており、とりわけ最近は統計的にも有意ではなくなっている。

3. 推計結果の解釈と含意

以上の結果を改めてまとめるとともに、多少の含意についても触れると、第一に、日本におけるNKWPCの傾きは、近年フラット化しているとはいえ、推計期間を通じて米国よりは急である。その背景を元の理論モデルから探ると、日本の賃金の粘着性が米国よりも小さいことが影響している可能性がある。このことは、ワークシェアリングの慣行や柔軟な賃金制度の存在もあって、労働市場の調整が、日本では雇用よりも賃金で行われやすいという事実とも関係があるかもしれない。ただし、そうした考察は、当論文でのモデル分析から直接扱える範囲を超えている。いずれにしても、日本では米国対比、労働需給のタイト感が賃金上昇率の押し上げにつながりやすい、ということである。

第二に、賃金の物価スライド(インデクゼーション)が賃金決定に果たす役割は、日本よりも米国において顕著であるとの結果が示された。もっとも、以前に比べれば、近年インデクゼーションの影響が小さくなっている点は、日本だけでなく米国も同様である。この点に関しては、日米両国において、近年のインフレ率水準が、それ以前と比べ低位安定してきたため、賃金交渉や賃金契約において、インフレ率の変動を明示的に考慮する必要性が小さかったことと関係している可能性がある。日本でも、1970年代などインフレ率が高めに推移した時期においては、インフレ率の動向が賃金上昇率に影響を与えていたことも、分析からは確認される。このため、今後、インフレ率の動向次第で、インデクゼーションの影響が時間を通じて変化し得る点には留意が必要である。

参考文献

日本銀行から

本稿の内容と意見は筆者ら個人に属するものであり、日本銀行の公式見解を示すものではありません。