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マイナスのインフレ・リスク・プレミアム

今久保圭、中島上智(日本銀行)

Research LAB No.15-J-4, 2015年7月9日

キーワード:
インフレ・リスク・プレミアム、ターム・プレミアム、期間構造

JEL分類番号:
E31、E43、E52、G12

Contact
kei.imakubo@boj.or.jp(今久保圭)

要旨

インフレ・リスク・プレミアムは、将来の物価変動にかかる不確実性を表す指標である。インフレ・リスク・プレミアムがプラスであれば物価の上振れ懸念が強く、マイナスであれば下振れ懸念が強いことを意味する。わが国のインフレ・リスク・プレミアムは、2012年末までの間、長らくマイナスの状態が続いていたが、2013年初にプラスに転じた。このことは、予想インフレ率が緩やかな上昇を続けるなか、将来の物価変動に対する市場のリスク認識が物価上昇方向に変化していることを示唆している。

はじめに

インフレ・リスク・プレミアム(IRP)は、「債券保有者が物価変動リスクを負担することの対価であり、プラスの値をとる」と説明されることが多い。しかし、実際には、IRPはプラスの値もマイナスの値もとり得る。この点は理論的にも明らかであり、IRPの符号は、投資家の予想インフレ率と異時点間の限界代替率との相関関係に規定されることが知られている(Campbell et al., 2009)。具体的には、両者の関係が逆相関であればIRPはプラスとなり、順相関であればマイナスとなる。もっとも、こうした資本資産価格モデル(CAPM)に依拠した説明によらずとも、より一般的な仮定のもとで、IRPの符号条件を説明することができる。IRPについて、より簡潔で直感的な説明をすることが、本稿の目的である。

インフレ・リスク・プレミアムとは

IRPは、名目金利を構成する要素のひとつである。名目金利(固定利付き国債の利回り)は、図1のとおり、実質金利(物価連動国債の利回り)とインフレ・スワップ金利(あるいは物価連動国債のブレイクイーブン・インフレ率)に分解することができる。さらに、名目金利、実質金利、インフレ・スワップ金利はそれぞれ、予想成分とプレミアム成分に分解することができる。具体的には、名目金利は、名目短期金利の平均予想経路を表す予想名目金利と、金利変動全般にかかる不確実性を表す名目ターム・プレミアムからなる。同様に、実質金利は予想実質金利と実質ターム・プレミアムに、インフレ・スワップ金利は予想インフレ率とIRPに細分化することができる。すなわち、名目金利は、予想実質金利、実質ターム・プレミアム、予想インフレ率、IRPの4つの要素で構成されている。

図1 名目金利の構成要素

名目金利を構成要素に分解すると、予想実質金利、実質ターム・プレミアム、予想インフレ率、インフレ・リスク・プレミアム(IRP)の4つの構成要素になることを示す概念図。詳細は本文の通り。

インフレ・スワップ金利の構成要素であるIRPは、図2のペイオフ図が示すとおり、予想インフレ率を行使価格とするインフレ・オプション(物価連動型の金利オプション)のオプション料に対応している。例として、固定金利受けのポジションをもつ債券保有者と、固定金利払いのポジションをもつ債券発行者について考えてみよう。債券保有者の側からみると、インフレ実績が予想を上回ると、実質リターンが期待値を下回ってしまう。この場合、債券保有者は、予想インフレ率を行使価格(図のK)とするインフレ・コールを債券発行者から購入することで、こうした物価の上振れリスクをヘッジすることができる。その際のオプション料(図のC)は、物価の上振れ懸念が強いほど高くなる。一方、債券発行者の側からみると、予想インフレ率を行使価格(図のK)とするインフレ・プットを債券保有者から購入することで、物価の下振れリスクをヘッジすることができる。そのオプション料(図のP)は、物価の下振れ懸念が強いほど高くなる。図のとおり、債券保有者がもつコール・ロングとプット・ショートを合成したポジションのペイオフは、インフレ・スワップのロング・ポジションのペイオフに相当し、コールとプットのオプション料の差分(C−P)はIRP(図のD)に一致する。こうしたIRPの性質は、無裁定条件のみから導かれ、CAPMのように完備市場や代表的個人の仮定を必要としない。

図2 債券保有者のペイオフ

債券保有者のペイオフの概念図。(1-1)インフレ・コールのロング。(1-2)インフレ・プットのショート。(2)合成ポジション。

  • 予想インフレ率がKであり、C>Pの場合を図示。

図2から明らかなように、オプション料の大小関係に応じて、IRPはプラスにもマイナスにもなる。すなわち、物価の上振れリスクのヘッジ・ニーズの方が強ければ(C>P)、IRPはプラスとなり、反対に、物価の下振れリスクのヘッジ・ニーズの方が強ければ(C<P)、IRPはマイナスとなる。また、それぞれのニーズが拮抗していれば(C=P)、IRPはゼロとなる。このように、IRPには物価の上振れ懸念と下振れ懸念の相対的な強さが反映される。

わが国のインフレ・リスク・プレミアム

IRPは、名目金利と実質金利のイールドカーブから、金利の期間構造モデルを用いて抽出することができる。本稿では、名目金利のゼロ制約を勘案した金利の期間構造モデル(Imakubo and Nakajima, 2015 [PDF 610KB])による計測結果を紹介する。図3は、わが国の名目金利(10年)の構成要素の推移を示している。2013年以降、予想インフレ率とIRPが名目金利の上昇要因として寄与を高めるなかにあっても、予想実質金利と実質ターム・プレミアムの低下によって、名目金利の低位安定が実現している。一般に、予想実質金利には、現在及び将来の金融政策スタンスに関する市場の見方が反映され、実質ターム・プレミアムには、実質金利にかかる不確実性のほか、中央銀行の政策対応の影響なども反映される(Bernanke, 2013)。この点を踏まえると、この間の実質金利の低下は、日本銀行の量的・質的金融緩和政策がコミットメント効果や長期国債の買入れ効果を通じて金利市場に浸透していることを映じたもの、と解釈することができる。

図3 名目金利(10年)の実質成分とインフレ成分

名目金利(10年)を、予想実質金利、実質ターム・プレミアム、予想インフレ率、インフレ・リスク・プレミアムに分解して示したグラフ。詳細は本文の通り。

  • インフレ・スワップ金利に対する消費税要因の影響は、予め調整している。

図4は、5年先5年(中長期)の予想インフレ率とIRPの推移を示している。リーマン・ショック以降のわが国金利市場のインフレ予想形成について、特徴的な動きを2点指摘することができる。第一の特徴は、長期間にわたってゼロ・インフレ予想が形成されていたことである。中長期の予想インフレ率をみると、リーマン・ショック以前は1%に近い水準にあったが、直後には0%程度まで急落し、その後しばらくの間、同水準に固定されていた。こうした状況は、2012年に中長期の予想インフレ率が緩やかな上昇を開始するまで続いた。

図4 インフレ成分(5年先5年)

日米について、5年先5年のインフレ率を、予想インフレ率とインフレ・リスク・プレミアムに分解して示したグラフ。詳細は本文の通り。

第二の特徴は、IRPのマイナス傾向が長期間にわたって続いていたことである。わが国では、中長期のIRPは、リーマン・ショック以前から2012年末まで、総じてマイナスとなっていた。2012年末までの状況からは、市場参加者が、市場の平均予想(0%の予想インフレ率)よりも低いインフレ率 ——すなわち、マイナスのインフレ率—— が実現する可能性を強く意識していたことが示唆される。わが国が経験したマイナスのIRPに対し、米国のIRPはこの間、一貫してプラスであった。また、欧州の金利を分析した先行研究(Garcia and Werner, 2010、Joyce et al., 2010)をみても、IRPは基本的にプラスとなっていた。

いわゆる「デフレ懸念」が、0%の予想インフレ率とマイナスのIRPを合わせたものならば、市場のデフレ懸念の払拭がはっきりし始めたのは、2013年入り後である。中長期の予想インフレ率が緩やかな上昇を続けるなか、長らくマイナスであった中長期のIRPがプラスに転じた。その後も、日本銀行の「物価安定の目標」——消費者物価の前年比上昇率で2%—— と量的・質的金融緩和政策を背景に、予想インフレ率は上昇傾向を辿っており、IRPは概ねプラス圏で推移している。予想インフレ率は2%の物価安定の目標にはまだ達していないが、IRPの推移からは、物価の下振れに対する市場のリスク認識が弱まり、米欧と同様、物価の上昇が意識され始めているように窺われる。

おわりに

インフレ・スワップ金利(あるいはブレイクイーブン・インフレ率)の動向をモニターする際には、その変動要因を見極めることが重要である。予想インフレ率もIRPもインフレ・スワップ金利の変動要因となり得るが、インフレ率に関する市場の平均予想を表す予想インフレ率が変化することと、その不確実性を表すIRPが変化することでは、意味合いが異なる。日本銀行が量的・質的金融緩和政策を推進するもとで、予想インフレ率が上昇傾向を辿っていても、2014年後半に原油価格が下落したときのように、IRPの変動によって、インフレ・スワップ金利が一時的に不安定化することがある。このように、市場のインフレ予想の変動可能性や安定性を評価するためには、市場の金利形成を詳細に知ることが不可欠である。

参考文献

日本銀行から

本稿の内容と意見は筆者ら個人に属するものであり、日本銀行の公式見解を示すものではありません。