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フォワード・ルッキング・モデルによる我が国金融政策の分析

2000年 4月
鎌田康一郎
武藤一郎

日本銀行から

日本銀行調査統計局ワーキングペーパーシリーズは、調査統計局スタッフおよび外部研究者の研究成果をとりまとめたもので、内外の研究機関、研究者等の有識者から幅広くコメントを頂戴することを意図しています。ただし、論文の中で示された内容や意見は、日本銀行あるいは調査統計局の公式見解を示すものではありません。

なお、ワーキングペーパーシリーズに対するご意見・ご質問や、掲載ファイルに関するお問い合わせは、論文の執筆者までお寄せ下さい。

以下には、(はじめに)を掲載しています。

(はじめに)

 人々の期待が経済の中で果たす役割は、理論的には古くから指摘されてきた。例えば、株価は現時点における企業の業績や金利のみならず、将来の企業業績や金利の期待にも依存しているし、企業の設備投資は現在の収益のみならず、先行きの収益見通しからも影響を受けていると考えられる。しかし、こうした指摘にも拘わらず、人々の期待をどのように計量モデルに取り込むかという点については、十分なコンセンサスが形成されているとは言い難い。もちろん、適応的期待等ごく簡単なメカニズムを組み込んだ計量モデルは存在していたが、適応的期待は過去や現在の情報のみに依存しているので、将来新たに発生するイベントを取り込むことができない。しかし、将来のイベントが現在の行動に影響を与えることは十分に考えうる。例えば、政府が先行き数年間に亘る緊縮財政を公約する場合、たとえ現時点の政府支出は減少していなくとも、人々がこれを合理的に期待し、行動パターンを変えると、政策がアナウンスされた時点で長期金利等の様々な経済変数が変動する可能性がある。こうした期待形成は、一般的に合理的期待と呼ばれ、計量モデルの中では特に「モデル整合的な期待」とも呼ばれる。また、そうした期待を組み込んだモデルを「フォワード・ルッキング・モデル」と一般的に呼び、適応的期待など過去と現在の情報のみを基に予想を形成するモデルを「バックワード・ルッキング・モデル」と呼んで、両者を区別している。本稿では、バックワード・ルッキング・モデルに合理的期待を組み込むことによって、フォワード・ルッキング・モデルを構築し、その特性を考察する。

 フォワード・ルッキング・モデルには様々な利用方法が考えられる。とりわけ中央銀行にとって有用と考えられる利用方法は、金融政策のルールに関する分析である1。いま中央銀行が特定の政策ルールを採用したとしよう。中央銀行は、このルールに沿って、その時々の経済状況に応じた金融政策を発動する。一方、民間の経済主体は、こうした中央銀行による将来の金融政策を予想し、その予想に基づいて現在の行動を決定する。これに対し、中央銀行は、その政策目標を達成するために、こうした民間経済主体の期待形成とそれに基づく行動変化を考慮した上で、どのような政策ルールを採用するのが望ましいのかを検討する必要がある。フォワード・ルッキング・モデルを用いると、計量モデルの中に金融政策ルールを容易に組み込むことができるほか、民間経済主体の合理的な期待について分析することが可能になる2。実際、海外の中央銀行では、人々の合理的期待を取り込んだ金融政策ルールの分析が精力的に行われている3。これとは対照的に、我が国では、フォワード・ルッキング・モデルを用いた分析がこれまでほとんど行われてこなかったし、金融政策ルールに関する実証研究についても十分な蓄積が行われてきたとは言い難い。

 フォワード・ルッキング・モデルを用いた金融政策の分析は、ルールの違いによって景気や物価が長期均衡に至るまでの過程における動学的プロセスがどのように異なるかを検討することに主眼がある。経済の長期均衡はモデルに所与のものとして与えられており、フォワード・ルッキング・モデルをしても、それがどのように変化するかを分析することはできない。フォワード・ルッキング・モデルは、あくまで、経済が長期均衡に至るプロセスを検討するためのツールである。また、フォワード・ルッキング・モデルは未だ発展途上にあり、現段階では、特定の期待形成メカニズムや政策ルールを仮定して、計量モデルの持つ特性を定性的に分析することが中心となっている。これは、民間経済主体の期待形成はどの程度合理的なのか、中央銀行の信認は経済安定化にどの程度反映されるのかといった定量的な情報を政策当局が十分に蓄積するに至っていないからである。したがって、金融緩和・引締めの短期的な効果を定量的に見積もるとか、まして、金利ターゲットと他のターゲット政策との優劣を比較するという段階には至っていない。

 本稿の目的は、フォワード・ルッキング・モデルについて簡単な理論的解説を行い、更に、我が国経済を記述する小型のフォワード・ルッキング・モデルを構築、推計し、各種のシミュレーションを通じて、フォワード・ルッキング・モデルの特性について考察することである。具体的な章立ては以下の通りである。第2章では、フォワード・ルッキング・モデルについて理論的な解説を行う。本稿では、特に長期金利や為替レート等の資産市場において合理的に期待が形成されることを仮定する。第3章では、バックワード・ルッキング・モデルとの比較を通じて、フォワード・ルッキング・モデルの特性を明らかにする。フォワード・ルッキング・モデルでは、将来の需要の拡大やインフレの増進を見越して、現在の長期金利が上昇するので、そうしたショックが発生する以前に景気にマイナスの圧力がかかることを示す。第4章では、実際のデータを用いて、我が国のフォワード・ルッキング・モデルを推計する。第5章では、こうして推計されたモデルを用いて、シミュレーションによる政策ルール分析を行う。第6章では、外生的なショックを確率的に発生させることによって不確実性下の経済現象を分析する確率的シミュレーションによる政策ルール分析を行う。確率的シミュレーションの概要は補論Aで説明される。また、補論Bでは名目金利がマイナスになることができないという名目金利のゼロ%制約について考察する。

  1. Fuhrer and Moore [1995]、McCallum and Nelson [1999]等、小型モデルによる政策ルールの分析が多数行われているほか、米国の連邦準備制度理事会(FRB)の「FRB/US」(Brayton and Tinsley [1996])や「FRB/Global」(Levin et al.[1997])等、大型モデルの開発も続けられている。
  2. こうした変化の背景には、「政策変数を変化させた場合には、人々の行動パターン自体が変化するので、モデルのパラメーターを固定したシミュレーションは意味がない」というLucas批判の存在がある。
  3. 特に、BOE (BOE [1999]、Batini and Haldane [1999])、カナダ中銀(Donald et al.[1996]、Black and Rose [1997])、ニュージーランド中銀(Black et al.[1997])等、インフレーション・ターゲッティングを採用している国々では、合理的期待を明示的に組み込んだマクロ計量モデルの分析が盛んに行われている。また、FRBでも大型フォワード・ルッキング・モデルの開発が行われている(金融政策と計量モデルの関係については、Reifschneider et al.[1997]を参照)。

以上