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第8代総裁:三島彌太郎(みしまやたろう)

第8代総裁 三島彌太郎の写真

就任
大正2年2月28日
退任
大正8年3月7日
出身地
鹿児島県

第8代三島彌太郎総裁は、慶応3年薩摩藩士の長男として生まれ、駒場農学校を卒業後渡米し、優秀な成績でボストン大学より農政学の学位を取得しました。通算7年半の海外生活の後帰国し、明治30年、31歳で貴族院議員に当選し、明治35年より予算委員として活躍する中で金融経済に精通しました。

横浜正金銀行取締役、頭取を経て、大正2年、日本銀行総裁に就任した直後は、日露戦争後の危機的な国際収支赤字からの脱却に努めましたが、第1次大戦勃発後は、一転して輸出増加による未曾有の好景気の中で金融政策の舵取りをすることとなりました。すなわち、政府に対し国庫余剰金や特別国債公募資金による日本銀行保有外貨の買入れを働きかけてこれを実現した他、金利高騰を防ぐため、わが国で初めての市中銀行の預金金利協定の成立にも尽力しました。

貴族院議員と日銀総裁の2つの激務を終始忠実に果たし、第1次大戦直後、急病により現職のまま亡くなりました。徳富蘆花の『不如帰』のモデルとしても知られています。

(出典:広報誌『にちぎんクオータリー(1998年夏季号)』)