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資産価格と金融政策 ---- 日本の経験 ----

1999年8月27日・カンサスシティ連邦準備銀行主催シンポジウムにおける日本銀行山口副総裁講演(於 米国ワイオミング州ジャクソンホール)

  • *原文(英語)は、英語版ホームページをご覧下さい。

1999年 9月28日
日本銀行

 最初に、このような機会を与えて頂いたカンサスシティ連銀に、感謝の意を表したいと思います。ただ、日本の「バブル」の時代についてお話しすることについては、私自身、ある種の痛みを覚えざるを得ません。なぜならば、バブルの時代は、日本経済にとって、まだ「過去」のことではなく、依然として「現在」の一部であり続けているからです。実際に、日本経済が90年代に経験している苦難の多くが、この15年間の資産市場の変動に源を発しているものであることは、明らかであるように思います。この間の資産市場の変動は、日本の現代史の上でも例をみない規模のものであり、金融機関や一般企業のバランスシートにも、たいへん大きな傷痕を残すことになりました。

 「80年代において、資産市場をより安定化させるような金融政策運営はできなかったのか、また、それによって、90年代の日本経済の調整を、より痛みの少ないものにはできなかったのだろうか」という問いは、今日に至るまでずっと、我々の頭から離れることはありませんでした。そこで私は、この場をお借りして、日本の「バブル」の時代をもう一度振り返ってみたいと思います。

 まず、日本銀行が、実際に金融引き締め措置を採った1989年5月よりもずっと早期に、引き締め──いわば「予防的」な引き締め──を行うことはできなかったのかという点について、考えてみたいと思います。こうした措置をとることは、その当時の状況のもとで、果たして可能だったのでしょうか。また、仮にこうした措置を採った場合、資産価格にはどのような影響が及んだのでしょうか。

 80年代後半における日本のマクロ経済環境は、他に例をみないものでした。86年から88年までの3年間、消費者物価の上昇率は、殆どゼロに近い水準にとどまっていました。その一方で、実質経済成長率は、80年代前半の年率4%以下から、この時期には年率5%程度へと高まりました。このような「インフレなき高成長」を支えた主な要因としては、次の3つが挙げられるように思います。

  1. (1)プラザ合意後、円が米ドルに対して2倍に増価したという円高の影響が、ラグを伴って表れたこと。
  2. (2)労働市場がきわめてタイトな状況となったにもかかわらず、この時期に生じた労働市場の構造変化が、賃金の上昇圧力を和らげる方向に働いたこと。このうちの主要なものとしては、1)女性の労働市場参入の増加、2)パートタイム労働力への依存の強まり、3)自営業からより近代化された企業形態への労働力のシフト、4)外国人労働者の流入、などが挙げられます。
  3. (3)資金調達が容易な金融環境や低い資本コストに支えられ、企業が活発な設備投資を行い、これが生産性の上昇とユニット・レーバー・コストの低下に繋がったこと。実証分析からも、この時期、全要素生産性の伸びが高まったことが示されています。

 しかし、後から振り返ってみると、こうした優れた経済のパフォーマンスは、やはり持続可能なものではありませんでした。この時期の高い成長が、その後のインフレ率の上昇に結びついていくまでの時間的なラグは、通常よりも長いものとはなりましたが、両者の関係自体が消滅したわけではありませんでした。しかし、高成長とゼロ・インフレの共存状態が続くにつれて、循環的な成長の高まりと、構造的な経済のシフト(トレンド自体のシフト)とを見分けることが、ますます困難となっていきました。将来のインフレ懸念に対する日本銀行の警告も、一般の注意を十分に引き付けるだけの説得力を失っていかざるを得ませんでした。

 この時期、日本銀行は国際情勢からの制約も受けていました。87年のいわゆる「ブラックマンデー」の後、G7諸国による政策協調が、「世界経済の安定を確保するため」ということで、再び強調されるようになり、日本の金融緩和継続を求める圧力も、かつてないほど高まりました。このため、日本の金利は歴史的な低水準にとどまり続けるであろうといった認識も広まりました。

 こうした認識は、88年の夏に、米国とドイツが政策金利を引き上げた一方で、日本がこれを据え置いたことにより、一層深く浸透することになりました。この時期、日本のインフレ率はゼロに近い状況でしたので、日本が金利を引き上げなかったことには、それなりの理由があったわけですが、それでも、これは日本が国際協調重視の姿勢を明らかにしたものと受け止められる結果になりました。

 さらに、「世界最大の債権国である日本は、世界経済の安定と成長の礎(いしずえ)として、低金利を維持すべきである」といった奇妙な論調が、隆盛をみるようになりました。加えて、金融緩和は、当時のいわば国家的な目標であった「内需拡大を通じた対外黒字の縮小」を達成するために必要なものともみなされました。

 こうした状況のもとで、当時の政策当局者は、引き締め政策が一般国民に支持されるためには、潜在的なインフレ圧力が高まっているという、極めてはっきりした材料が必要だと感じていました。こうした指標は、1989年になってようやく見られるようになり、政策当局者はこの期をすばやく捉えて、政策を転換させました。その後インフレ率は上昇しましたが、それでも、インフレ率のピークは、90年から91年にかけての3%台半ばにとどまりました。

 このようなインフレ率の実績を踏まえると、おそらく、持続的な物価安定を達成するための予防的な政策運営を行うことが望ましかったのだろうとは思いますが、同時に、現実にそうした政策をとることは、きわめて困難であったに違いないとも思います。つい先ほど、Bernanke教授とGertler教授は、シミュレーション分析をもとに、日本銀行は88年中に短期金利を8%に引き上げ、その後もさらに引き上げていくべきであったと指摘しておられました。しかし、88年を通して、インフレ率はゼロ%近くで推移していました。このように、物価の上昇が全く見られない時に、中央銀行が金利を8%や10%に引き上げるといったことが、はたしてできるものでしょうか。

 また、仮に、金融引き締めがより早いタイミングで、理想的な形で実施されていたとしましょう。これは、経済成長率や設備稼働率、インフレ率などに対しては、下向きの力として働いたであろうと考えられますが、資産価格にどのような影響を及ぼしたかを推し量ることは、それほど簡単ではありません。

 金融引き締めの資産価格への影響は、その時々の状況によって変わってくると考えられます。例えば、楽観的な見方が広がっていく過程で、早めの金利引き上げがこうした見方を冷やす方向に作用し、これによって、人々が先行きの潜在的なリスクに対して通常通りの注意を払うようになれば、資産市場もこれに沿った反応を示すことになるでしょう。しかし一方で、人々の自信がすでにかなり強まってしまっている状況——ブラックマンデーのショックからすばやく立ち直った88年の日本は、まさにそうした状況であったかもしれません——では、早期ではあるが穏やかな金融引き締めは、インフレなき高成長が「永遠に」続くのではないかといった人々の意識を、かえって助長することになっていたかもしれません。こうした場合には、リスクプレミアムが一段と低下し、金利引上げの効果を相殺してしまうことが考えられます。こうしたリスク・プレミアムの低下によるプラス方向の効果と、金利上昇によるマイナス方向の効果の、どちらが大きいのかは一概には言えません。むしろ、早期かつ緩やかな金融引き締めであれば、資産価格を一段と上昇させる結果になっていた可能性も考えられなくはありません。したがって、資産価格への影響について、この場で性急に結論を導き出すことには、私は慎重でありたいと思います。

 また、より後の段階になってから、資産価格自体を抑え込もうとすることには、さらに困難を伴うように思います。このことは、日本銀行の引き締め措置に対する資産市場の反応を振り返ってみても明らかです。

 89年5月以降の日本銀行の引き締め措置に対し、株価は、最初の2度の金利引き上げには反応を示さず、その後半年間さらに上昇を続けたのち、3度目の金利引き上げを受けて、ようやく下落に転じました。不動産価格が金融引き締めに反応するまでのラグは、株式市場よりもさらに長いものとなりました。この時期のインプライド・フォワード・レートは、市場が金利の上昇をあくまで一時的なものとみていたことを示しています。この背景には、おそらく私が先ほど述べたようなことが影響しているように思います。

 こうした日本の経験は、ひとたび資産市場が勢いをもつと、それを抑えるにはかなりの荒療治が必要となってくることを示唆しているようにみえます。すなわち、金融政策を相当に引き締めなければ、勢いづいた市場の期待を抑え込むことはできないということです。

 今後も低金利がずっと続いていくだろうといった期待がいったん市場に織り込まれてしまうと、それを修正するには、思い切った政策対応が必要になります。しかし、ひとたびこうした期待が変化し始めると、今度は将来のリスクへの意識が強まり、資産市場は急激に調整局面に入ることになります。そうなると、市場の調整とリスク・プレミアムの拡大とが、お互いの自己実現的なプロセスを通じて進んでいくことになりがちです。

 資産価格が、何らかの転換点を迎えると急速に下落しがちであり、これをソフトランディングさせることが難しいのは、こうした事情によるものです。実際、日本では、株価はピークから1年の間に4割もの下落を記録しましたし、日本銀行の調査でも、不動産市場では、90年の後半に潮の流れが急に変ったことが確認されています。別の言い方をすれば、仮に、10年前の日本のような状況のもとで、資産価格をターゲットとして金融政策を運営すれば、ひとたびギアの方向が変わった際には、金融引き締めと資産価格の調整とが相まって、実体経済活動をきわめて大きく下押しするリスクがあり得るのではないかと思います。

 これまで私は、なぜ資産価格自体をコントロールしようとすることが現実的ではないのか、日本経済の例に則して述べてきました。ただ、同時に、金融政策と80年代の資産バブルとの間にどのような関係があったのかを、きちんと整理することも重要だと思います。金融政策は、少なくとも資産市場の行き過ぎを助長しないといったことはできるようにも思うからです。そこで私は、資産バブルの生成に「期待」が大きな役割を果たすことを踏まえ、金利水準や量的指標の伸び率それ自体よりも、よりバブルそのものに関連の深かった問題として、次の2つの点についてお話ししたいと思います。

 まず第一に、当時の金融政策は、低金利が永久に続くといった非現実的な見方が広がっていったことを、結局のところチェックできなかったということです。

 こうした見方は、プラザ合意からブラックマンデー、さらには米独の利上げに至るまでの、日本の一連の政策対応(および政策の据え置き)を通じて、徐々に形成されていきました。為替相場の安定や対外不均衡の是正などに優先する政策目標として、持続的な物価の安定により重きを置いていれば、こうした見方をよりうまくチェックできていたのではないかと思います。また、国際協調といった外部からの制約に対しても、より効果的に立ち向かっていくことが必要だったのでしょう。

 第二に、先行きのリスクに対して、日本銀行が継続的かつ首尾一貫した警告を発していくことが、有益であっただろうと思います。

 社会が自信に満ちている時には、自らの姿に対して楽観的になり、先行きのリスクを軽視しがちになります。80年代後半の日本は、ハイ・テク生産技術を背景に、2倍の円高をも克服したことで、まさしくそうした状況に近づきつつあったように思います。こうした中で、トレンドを上回る高成長とゼロに近いインフレ率が数年間続いたことにより、リスクプレミアムは大幅に縮小していたと考えられます。したがって、資産価格の重要な決定要因である「リスクプレミアム調整後の割引率」も、著しく低下していたに違いありません。

 もちろん、日本銀行が単独で国民的な風潮に対処することは不可能です。しかし、それでもやはり、中央銀行にとって、こうした流れに立ち向かい、潜在的なリスクに対する人々の関心を維持するように努めていくことは、重要なことだと思います。

 日本の経験に関して、最後に申し上げたい点は、不動産市場において膨大なリスクが蓄積されたことです。

 80年代における金融動向の一つの特徴は、広義マネーの伸びが80年代前半の年率8%から後半の年率10%まで緩やかに高まるなかで、銀行の不動産関連貸出は年率20%もの伸びとなったことです。こうした与信の集中は、不動産価格のバブルを生み、銀行や企業のバランスシートに傷痕を残す直接の要因となりました。

 こうした銀行貸出の増加の背景には、銀行のフランチャイズ・バリューの侵食がありました。こうした中での金融自由化の展望は、銀行を新たな収益機会の模索へと駆り立てました。この時期、大口の借り手はますます資本市場へとシフトしつつありましたが、段階的かつ部分的な金融自由化により、収益性の高い証券業務や投資銀行業務への銀行の参入は、事実上妨げられていました。不動産関連貸出は、銀行にとって、確実な(ように見えた)担保を確保しつつ、中小企業向け貸出というマーケットの中で自らのシェアを伸ばしていくための、手っ取り早い方法でした。

 当初は、潤沢な流動性と低い金利が海外のプレーヤーの参入を促し、新しいオフィスへの需要も急速に高まるなかで、不動産価格の上昇は、いわば根拠ある動きとして生じてきたのではないかと思います。しかし、こうしたプロセスは、やがて、信用の拡大と不動産価格の上昇という自己増殖的な循環を引き起こしていきました。

 数年前、日本銀行の同僚たちは、常識的な仮定──80年代後半に急上昇した地価の対GDP比率は、いずれ長期的・歴史的なトレンドに回帰していくとの仮定──に基づく簡単なストレステストによって、90年代の銀行資産に生じた変化を大まかに推計できることを示しました。しかし、歴史的なパターンを無視してしまうということが、まさしくバブルの本質である以上、こうしたストレステストの結果を導き出して活用すること自体が、実は「バブルの流れに逆らう」ことを前提としているものです。さらに、たとえこうした推計結果が得られたとしても、不動産市場の動向のみに基づいて、はたしてどのような金融政策運営ができたのかという点は、議論の残る問題です。

 こうしたリスクの集中は、さまざまな領域で起こり得ますし、ひとたびこうしたことが起これば、それは、日本のケースのように、金融政策とプルーデンス(信用秩序維持)政策の両方に関わる問題となるでしょう。私は、このような金融政策とプルーデンス政策の接点という分野において、我々がさらに前進していく必要があることを、強く感じています。セントラル・バンカーは、民間のリスク管理や信用秩序維持のための諸規制を補強していく上で、建設的な役割を果たすことができると考えるものです。

(この講演の原文<英文>は、本ホームページに掲載されています。)

以上

 80年代の金融政策を再検証するに当たっては、白川方明、翁邦雄、早川英男、雨宮正佳の各氏(いずれも日本銀行)とのディスカッションから有益な示唆を得た。