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「低インフレ下での金融政策の役割:デフレショックと政策対応」

日本銀行金融研究所主催第9回国際コンファランスにおける総裁開会挨拶

2000年 7月 3日
日本銀行

 本日、金融研究所主催の第9回国際コンファランスの席で、多くの優れた学者、中央銀行の方にお目にかかる機会を得たことは私にとって大きな喜びである。ご多忙のなか、今回のコンファランスにご参加いただいた皆様に対し、日本銀行を代表して、心からなる歓迎の気持ちをお伝えしたい。

 今回のコンファランスのトピックスは、「低インフレ下の金融政策の役割」であり、日本銀行が1990年代に直面した問題であると同時に、多くの中央銀行が、今後、直面し得るものであろう。

 1990年代は、しばしば、日本経済の「失われた10年」と呼ばれている。日本はG7諸国の中で1990年代の実質GDP成長率が2番目に低く、1980年代と比較した成長率の低下幅は最も大きかった。インフレ率はゼロ付近にまで低下し、時にはデフレ・スパイラルが懸念される事態に直面した。これに対し、日本銀行は思い切った金融緩和を行ってきた。特に、1999年2月以降は、短期金融市場金利を事実上ゼロに誘導する異例のゼロ金利政策を発動し、景気を下支えしてきた。

 では、なぜ、日本経済は1990年代にこのような苦境に陥ったのであろうか。その根本的背景の1つとして、戦後の日本経済の発展を支えてきた様々な体制が時代に合わなくなってきていたことがある。また、もう1つの要因として、バブルの発生と崩壊も挙げられよう。本来必要であった様々な構造改革を先送りさせたのはバブルの発生であったし、日本経済をデフレ・スパイラルの瀬戸際まで追いつめてしまったのは、バブルの崩壊であったことも事実であろう。

 バブルの発生と崩壊について議論することは、必ずしも今回のコンファランスにおける直接的な目的ではない。しかし、日本銀行が低インフレ下の金融政策運営の経験について語る時、バブルの問題を避けて通ることはできない。

 そこで、このオープニング・スピーチでは、最近、日本銀行のリサーチ・スタッフが作成した1980年代後半の金融政策を検討した個人名論文において、個人的な見解として示されたバブル期の教訓の中で、私自身、として重要であると考える点を中心に簡単に述べておきたい。

 バブル期を特徴づける1つの要素は、新時代への熱気が社会を包み、期待が著しく強気化する、という現象である。その意味で、バブルを地価や株価といった資産価格だけで捉えるのは不十分である。先に触れた論文では、資産価格そのものの急激な上昇だけでなく、マネーサプライ・信用量の膨張、経済活動の過熱という要素を加味して、これら3つの要素が揃った時期を「バブル経済」と定義しているが、1987年から1990年にかけての日本経済はまさにそうした時代であった。

 そうした熱気の背景には幾つかの要因が複合しており、金融緩和はそうした熱気を支えた要因の1つであった。言い換えると金融政策は、当時のバブル生成の必要条件であり、金融政策には明らかに何がしか責任があったことは否めない。しかし、金融政策でバブルを食い止めるには、物価が比較的安定している段階で極めて大幅な金利引上げが必要だったはずである。この点はバブルという問題に対処する上での難しさの一端となっている。

 それでは、当時のバブル発生と拡大を巡って、金融政策はどのような点で責任があったのであろうか。この点について、私が重要であったと思うのは、景気回復が明確化した1988年夏以降も、低金利を比較的長く維持し、こうした低金利が永続するとの期待を根づかせた点にある。これが、バブル拡大の原動力の1つとなったのは否定できない事実であり、重く受け止める必要がある。

 では、こうした経験を繰り返さないために、何を考えていく必要があるのだろうか。この点については、例えば、「マネーサプライを重視すべきであった」、「資産価格の上昇にもう少し配慮すべきであった」、「為替レートを重視したのが失敗の原因であった」といった意見がよく聞かれる。しかしながら、「後知恵」での「反省」、「教訓」だけでは、リアル・タイムでの政策判断には十分に役立たない。

 ここで必要であるのは、より実践的なアプローチである。こうした観点からの最大の教訓は、経済が抱えるリスクを極力、潜在的な段階で把握し、こうしたリスクに対して、予防的に対応していくことの重要性であろう。先に述べたように、金融政策だけでバブル経済の発生を防ぐことはかなり難しかったと言えよう。しかしながら、金融政策がかなり長い先行きのリスクを展望して運営されていれば、経済の変動はもう少し小さくなっていたかもしれない。

 ただ、実際には、バブルが拡大する過程で、バブルであるかどうかの判断は実に難しい。その1つの理由は、経済構造変化の可能性を否定できないことである。例えば、当時の東京の地価急騰に際しては、国際金融センターとしての役割の高まりなど、その時点では判別困難な、もっともらしい理由が挙げられていた。

 必然的に中央銀行は常に2つの異なるリスクに直面する。この点は、統計的な過誤の問題と同様に考えることもできる。1つのリスクは、経済がまさに飛躍的な生産性向上を享受しようとしている時に誤って引締め、一国の大きな成長機会を奪ってしまうリスクである。もう1つのリスクは、幻想にしかすぎない生産性向上を事実と誤認し、バブルの進行を許してしまうリスクである。中央銀行の政策判断にあたっては、どちらのリスクの蓋然性が高いか、という点だけでなく、政策判断を誤った場合の社会経済的コストの評価が問題となる。バブル期の経験は、幻想にしかすぎない生産性向上を事実と誤認することが、長い目でみた国民経済の健全な発展にとって深刻な打撃となり得ることについて、当時の日本銀行の認識がやや不足していたことを示しているように思う。

 では、熱気に満ち溢れた社会の目を、もう少し長い目でみた経済全体のリスクへと向けさせるには、どうすればよかったのであろうか。こうした観点に立った教訓として重要なのは、何を金融政策の目標とするのか、言い換えれば、「物価の安定」をどのように具体的に理解するのか、という点について、しっかりとした考え方を持つ必要があるということである。

 バブル期の日本経済を振り返ると、消費者物価の上昇は、1987年頃まで安定していたが、1988年頃から徐々に上昇し始め、消費税導入直前の1989年3月時点の前年比上昇率は1.1%となった。消費税を調整したベースでの上昇率をみると、1989年4月以降も上昇率は徐々にではあるが高まり、1990年4月には2%台、同年11月には3%台に達し、1991年8月まで3%台の上昇が続いた。

 こうした物価の上昇は、資産価格上昇に大きく遅れ、かつそれ以前のインフレ率と比べさほど目立つものではなかったため、インフレの脅威は社会を説得し得る有効な抑止力にならなかった。しかし、バブル期の物価上昇はマイルドであったものの、1990年代にはデフレ・スパイラルの瀬戸際に追い込まれる状況に直面した。こうしたデフレは1980年代後半に発生したバブル経済の結果として生じたという側面が大きい。

 この経験は、中央銀行が目標とすべき物価安定とはある一時点での物価の安定ではなく、中長期的な経済成長を支えるための持続的な物価安定である、ということを示唆している。従って、統計上に表れる物価上昇率が落ち着いていても、将来、持続的な物価の安定が損なわれるリスクが高まっていると判断されれば、早期に金利を変更し、持続的な物価の安定を確保していく必要がある。そうした基準に従う限り、残念なことではあるが、バブル期以降、日本経済においては物価の安定が十全に確保されたとは言い難い。

 以上、主として、日本におけるバブル生成期の経験に即して、金融政策運営上の教訓を述べさせて頂いた。残念なことに、バブルの発生と崩壊は1990年代の日本における景気低迷の1つの原因となった。バブル崩壊期の金融政策については、別の総括が必要であろうが、まだ、その全貌と教訓を語るには早いであろう。何より今回の国際コンファランスの議論からわれわれは、この点について更に多くを学ぶ筈である。

 しかし、日本も含め世界的なディスインフレには、もう1つの大きな背景があると思う。新たな産業革命の可能性を思わせるような情報技術革新の進行と、それに基づく生産性向上である。生産性向上を背景とした急速なディスインフレの下での物価安定と金融政策運営の課題は何か、という問いは、難問ではあるが希望に満ちたものである。

 このスピーチの結びとして、これから行われるコンファランスでは、さまざまな背景を持つ低インフレ下の金融政策の役割について実りある議論が交され、学界と中央銀行がさらに多くを学び、その果実を共有し、明日に活かせることを期待している、という点を申し上げておきたい。

 ご清聴を感謝する。

以上