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最近の金融政策運営について ——家計遅行の景気回復を克服するために——

2000年12月4日・山形県商工会議所・山形県商工会議所連合会共催による金融経済講演会における篠塚審議委員講演

2000年12月4日
日本銀行

[目次]

  1. 1.はじめに
  2. 2.最近の金融経済情勢と金融政策運営
    1. 2−1.現在の金融政策運営
    2. 2−2.経済・物価情勢についての見方
    3. 2−3.経済・物価の将来展望に対するリスク
  3. 3.豊かな少子・高齢化社会を迎えるための課題
    1. 3−1.社会保障制度の構造改革
    2. 3−2.少子化対策
    3. 3−3.家計の金融資産選択
  4. 4.結語

1.はじめに

 日本銀行審議委員の篠塚英子です。本日は、山形県商工会議所連合会ならびに山形商工会議所の皆様のご協力を得て、私の考えを広くお話し申し上げる機会を設けて頂き、誠に有り難く存じます。また、日頃、日本銀行山形事務所および仙台支店がいろいろとお世話になっておりますことに改めてお礼申し上げます。

 本日は、2つのテーマを取り上げます。第1に、最近の金融政策運営の考え方です。特に、金融政策運営を検討するうえで重要な前提である、経済・物価情勢についてお話しします。第2に、21世紀の日本経済が健全に発展するために不可欠である、少子・高齢化問題への対応について、私が日頃から考えていることを申し上げます。

2.最近の金融経済情勢と金融政策運営

2−1.現在の金融政策運営

 日本銀行では、総裁、2名の副総裁、および、私を含む6名の審議委員の合わせて9名からなる金融政策決定会合を、原則として月2回開催し、金融政策運営方針を決定しています。現在、日本銀行では、短期金融市場において、無担保コール取引の翌日物金利を、公定歩合(0.5%)を下回る、0.25%前後で推移するように金融調節を行っています1。最近の変化を振り返りますと、98年9月から99年2月のいわゆるゼロ金利政策に踏み切るまでの間も、この無担保コール取引の翌日物金利を同じく0.25%前後に誘導していました。その後、ゼロ金利政策を採用した後、本年8月にこれを解除し、今日に至っています。無担保コール取引の翌日物金利の誘導目標を初めて0.25%前後まで引き下げたのは98年9月ですが、当時、日本銀行は、「経済がデフレ・スパイラルに陥ることを未然に防止し、景気悪化に歯止めをかけることをより確実にするため、(略)金融緩和措置を採ることが適当と判断した」という声明を発表し、金融経済情勢に対する強い危機感を示しています。私は、現在の金融経済情勢について、ゼロ金利政策を導入した当時のようなデフレ・スパイラルの瀬戸際といった状況に比べれば明らかに改善しているものの、なお厳しい状況が続いている、とみています。したがって、当面、無担保コール取引の翌日物金利を0.25%という極めて低い水準に維持して、景気回復を支える必要がある、と考えています。

  1. 1日本銀行は、金融調節を通じて、金融政策を運営している。金融調節の主たる舞台である短期金融市場とは、金融機関や事業法人などが必要な資金を短期間融通し合う市場の総称である。日本銀行は、民間金融機関との間で国債や手形の売買などを行うことによって、短期金融市場全体の資金量を調整し、そこで形成される短期金利を誘導している。一般に、金利は、資金の貸借の期間が短いものほどその時点における資金の需要と供給によって決まる度合いが大きくなるという性質がある。そこで、日本銀行では、期間が最も短い金利である、無担保コール市場の翌日物金利を直接の誘導対象としている。金利は、期間が長くなるほど、将来の経済・物価情勢に関する予想やその不確実性に左右されるようになるが、こうした、より長い期間の金利が市場で形成される際にも重要な基準となるのが、この「無担保コール取引の翌日物金利」である。

2−2.経済・物価情勢についての見方

 そこで、わが国の経済・金融情勢についての日本銀行の見方をご説明します。予め要約致しますと、(1)企業部門を中心に民間需要は自律的に回復する、(2)但し、構造調整圧力が残っていることから、特に家計部門を中心に、当面、回復のテンポは極めて緩やかなものとなる、(3)こうした中で、物価については、横這い圏内、あるいは、幾分弱含みで推移する、というものです。そして、これまでのところ、実際の経済・物価情勢は、この範囲内で推移しています。以下、敷衍してご説明します。

(企業部門)

 今回の景気回復局面における第1の特徴点は、企業部門における所得と支出の前向きな循環が民需の自律回復のメカニズムを支えている、ということです。

 わが国の企業が直面している最大の課題は、資本収益率の引き上げです。マクロ・ベースでの資本収益率をみますと、バブル期を含めて一貫して低下傾向にありますが、特に90年代には急低下しました。当面、この資本収益率を高めるためには、2つの対応策が考えられます。

 第1の課題は、資本分配率の引き上げ、あるいは、労働分配率の引き下げです。

 経済活動によって生み出された付加価値は、資本ないしは労働に分配されます。90年代を振り返りますと、労働分配率は大きく上昇し、逆に資本分配率は著しく低下しました2。これは、景気が長期にわたって低迷する中で、人件費の調整が相対的に緩やかであったことを意味します。その理由については、年功賃金体系の下で雇用者の高齢化が進展したことや、80年代末以降に時短が推進されたことなどが指摘できます。こうした労働分配率の上昇は、中長期的には資本ストックの蓄積を抑制しますので、技術進歩を活かすこともままならず、潜在成長率の低下に繋がります。

  1. 2労働分配率について、「法人企業統計」(大蔵省)に基づいて計算すると(=人件費÷(人件費+営業利益))、1990年代のピークは、製造業・大企業が1998年第4四半期の85.7%、製造業・中小企業が1998年第3四半期の91.9%、また、非製造業では、大企業が1998年第4四半期の79.8%、中小企業が1998年第2四半期の91.3%となっている。このピークから直近(2000年第2四半期)時点までの変化幅をみると、製造業・大企業では−12.4%ポイント、製造業・中小企業で−7.4%ポイント、非製造業・大企業で−7.8%ポイント、非製造業・中小企業で−4.0%ポイントの減少をみた。

 これに対して、現在、わが国の企業は、総人件費を抑制するスタンスを強めており、労働分配率は低下しています。実際に、雇用者数と賃金を掛け合わせた雇用者所得は、98~99年に大きく落ち込みました。また、今年入り後は、企業収益改善のプラス効果が漸く少しずつ滲み出つつあることから、雇用者所得の減少には歯止めが掛かっていますが、企業収益の大幅な増加に比べて、雇用者所得は極めて小幅な増加に止まっています。もっとも、仮に、労働分配率が長期間低下し続けるようなことになりますと、個人消費を中心に総需要が減少するため、結果として、資本の収益率は当初の狙いから外れて低下し、マクロ経済が縮小均衡に向かう可能性が高まります。

 したがって、現在、資本と労働のバランスを修正する動きがみられますが、その現象だけでは日本経済が持続的な成長軌道を辿ることは保証されません。何よりも重要なことは、資本と労働を分け合う全体のパイである付加価値そのものを増大させることです。

 そのためには、資本生産性の引き上げが求められます。これが、資本の収益性を高めるための第2の課題になります。

 資本生産性とは、一定の民間資本ストックから付加価値を生み出す効率性を意味します。資本生産性を引き上げるためには、企業部門が、既存の分野における生産性を高めること、および、生産性が高い、新しい分野に向けて積極的に取り組むことが必要です。この結果、労働者一人あたりの資本装備率が引き上げられ、労働生産性が高まれば、わが国の潜在成長率が上昇する可能性があります。こうした観点から、私自身は、情報通信関連などを中心とした新興企業の成長も然ることながら、従来から日本経済を支えてきた既存の企業における生産性や効率性の向上を大いに期待しています。すなわち、既存の企業が、生産体制の集約化などを図るとともに、新たな設備投資を通じて情報通信技術の進歩などを取り込み、資本と労働という生産要素を効率的に組み直すことによって、生産性や効率性を高めていくことが期待されています。さらに、情報通信技術の進歩が、「情報通信革命」といわれるような大きな経済効果を発揮するためには、規制の緩和、商慣行の見直し、あるいは、雇用政策や雇用慣行の見直しなどを通じて、わが国経済全体の効率化を推進していくことが不可欠であると考えています。この点については、本日の後半のテーマで、改めて触れます。

 現在、景気回復の牽引役として、特に設備投資の増加が注目されています。設備投資は、それ自体が有効需要であると同時に、生産能力を拡大する原動力です。言い換えますと、現在の設備投資の増加は、将来の潜在成長力上昇の礎を築いていることを意味します。とはいえ、現時点では、日本経済の生産性が、情報通信技術の進歩によって構造的に上昇しているという証左はまだはっきりとはみられません。しかし、個々の企業の動きを注目しますと、このような取り組みが成果に結び付いている事例を一部に見出すことができます。

 その中で、最近の流通合理化の動きに注目してみます。現在、消費者のニーズは多様化し、かつ、その変化が速いため、「作ったものを作っただけ売る」というメーカー主導の時代ではもはやありません。むしろ、消費財を提供するうえでは、消費者が求めるものを、求める量だけ、求める時に提供することが一段と強く期待されています。ところで、消費者が商品を購入するまでの間には、商品企画、資材・原材料調達、生産、物流、卸売、そして小売といった多くの段階があります。そこで、川上(商品の企画)から川下(販売)まで、各関係者が、情報通信技術の進歩を活かすかたちで設備投資を積極的に行い、消費者のニーズに関する情報を即時に共有できるようになれば、欠品による販売機会の喪失や、あるいは、過剰在庫の発生に伴う無駄なコストを省くことができます。この結果、消費者に、より安く、より速く、商品を届けることができるでしょう。ところが、こうした新しいビジネス・モデルを導入するためには、従来の商慣行や複雑な流通過程などを見直すことが不可欠です。実際に、衣料品販売などをみますと、昨年来、新興勢力が、中国などの現地に赴き製造技術を指導し、商品の品質を高めるとともに、このような新しいビジネス・モデルを構築し、高品質かつ低価格の製品の提供に成功し、売上げを急増させています。これに対して、最近では、既存の流通・小売業者の間でも、新興勢力に対抗して、新しいビジネス・モデルを導入する動きがみられるようになってきました。以上、情報通信技術の活用によって生産性や効率性が向上する、一つの象徴的な事例をご紹介しました。

 現在、今年度の企業収益は、全体として、大幅な増益が見込まれています。これは、個々の企業が資本収益率を引き上げるために取り組んできたことが実を結びつつあることを示しています。さらに、企業収益が増加する中で、企業財務の健全化、生産体制の集約化などが進むと同時に、高い生産性が見込まれる設備投資の増加を通じて、将来の成長をリードする資本ストックが蓄積していくのではないか、と期待しています。

(家計部門)

 次に、家計部門に目を転じます。個人消費は、その時々の収入とそのうちどの程度が消費に回されるか、言い換えますと、可処分所得と消費性向によって決まります。消費性向に大きな影響を及ぼす消費者心理は、97年秋以降、金融システムの動揺などを背景に落ち込んだ後、昨年入り後は持ち直し、このところ落ち着いて推移しています3

  1. 3この背景としては、金融システム面で、(1)政府が、金融機関の破綻処理の枠組みを整備し、自己資本を思い切って充実させるため、98年10月に金融再生法および早期健全化法を制定し、実際に、早期健全化法に基づいて、公的資金による資本増強を実施したこと、および、(2)日本銀行が、ゼロ金利政策を実施し、金融システムにおける流動性懸念を緩和したこと、さらに、(3)この間、政府が拡張的な財政政策に踏み切ったこと、などが指摘できる。

 他方、前述致しましたとおり、現在、企業部門では、資本収益率を引き上げるための取り組みが続いています。その裏返しになりますが、家計の雇用・所得環境では、厳しい状況が続いています。このため、名目GDPの6割をも占める個人消費の回復が極めて緩やかなものに止まっており、景気は全体としてなかなか加速しません。これが、今回の景気回復局面における第2の特徴点です。

 家計の雇用・所得を巡る環境については、悪化に歯止めが掛かっているとはいえ、企業が依然として人件費を抑制するスタンスを続けているため、当面、目立った改善をみるまでには至っていません。すなわち、賃金は辛うじて前年を上回って推移していますが、雇用者数は横這い圏内に止まっています。

 もっとも、労働需給面をみますと、失業率は、労働需給ミスマッチの影響が根強くみられますが、基調としては振れを伴いつつも極めて緩やかな低下傾向にあります。また、有効求人倍率は全体として緩やかに上昇しています4。さらに、私は、労働需給をより正確に捉えるためには、この有効求人倍率を一般労働者とパートタイム労働者に分けてみる必要があると考えています。すなわち、人々が雇用情勢の改善をある程度実感できるようになるには、一般労働者の有効求人倍率の上昇が前提になるのではないか、と思っているからです。そこで、一般労働者に関する有効求人倍率をみますと、昨年5月の0.37倍を底にして、その後、上昇に転じ、今年10月には漸く0.50倍まで回復してきました5。振り返りますと、デフレ・スパイラルの兆しがみられ始めた98年初頃の水準も0.50倍程度でした。今後、この水準を越えて上昇基調を辿るようになりますと、消費者心理にも好影響が及んでいくのではないか、と期待しています。

  1. 4有効求人倍率(季調済、労働省「職業安定業務統計」)は、1999年10~12月0.49倍、2000年1~3月0.52倍、4~6月0.57倍、7~9月0.61倍、10月0.64倍と、着実に上昇。
  2. 5今年10月のパートタイム労働者の有効求人倍率は1.52倍と逼迫している。

 以上を整理しますと、私は、日本経済が持続的な成長軌道を辿っていくためには、企業部門における収益増加の良い影響が少しずつ家計部門に及ぶような道筋が確保されていることが重要であり、これまでのところ、経済情勢はこの範囲内で推移しているとみています。また、経済の先行きをみるうえでは、引き続き、労働分配率の動き、すなわち企業収益と家計所得の微妙なバランスに目を凝らしていくべきであると考えています。

(物価動向)

 次に、物価面を取り上げます。現在、消費者物価や卸売物価は、景気回復のテンポが緩やかなものに止まっていることに加えて、流通合理化、規制緩和などの供給要因もあって、このところ、幾分弱めの動きとなっています。例えば、消費者物価(全国、除く生鮮食品)の推移をみますと、前年比では、4~6月−0.3%、7~9月−0.4%、10月−0.6%と、小幅なマイナスが続いています。

 この理由を整理します。物価上昇率は、基本的に、潜在GDPと現実のGDPの乖離を示す需給ギャップの影響を大きく受けます。現在、この需給ギャップの水準は依然としてかなり大きいものとみられます。これが第1の要因です。こうした基調のもとで、流通合理化の動きや規制緩和などによって、一部の商品・サービスの価格が押し下げられる動きがみられます。これが第2の要因です。これらの大きな2つの要因が重なり合うかたちで、現在、消費者物価全体が弱含みで推移していると理解しています。

 こうした中で、「消費者物価前年比がマイナスで推移している限り、日本経済はデフレ的な状況にある」という見方がありますが、「デフレ」をそのように定義するのであれば、その限りにおいてはご指摘のとおりでしょう。しかし、金融政策を運営するうえでは、現在の経済状況がデフレ的かどうか、という点も然ることながら、経済のメカニズムがデフレ・スパイラル的であるか否かを検討することが、より重要であると考えています。

 一般的に、デフレ・スパイラルとは、物価下落と需要減少の悪循環を意味します。製造業を例に取りますと、製品価格の低下に直面した企業が、その価格低下に対応したレベルにまで、人件費を即座に削減することができない場合には、結果として、労働分配率が上昇し、企業収益が圧迫されます。このような状況では、債務者の返済能力に対する不安の高まりなどから、金融機関の貸出態度も厳しくなりますので、信用収縮が起きる可能性もあります。こうして、企業の投資やその他の支出が一段と削減され、やがて賃金も大幅に引き下げられます。要するに、企業収益と雇用者所得はともに減少します。こうした一連の流れが加速しますと、価格低下が収益減少、さらに賃金低下と雇用減少へと繋がり、延いては需要減少と生産削減を招き、さらなる価格低下に結び付くという悪循環、すなわちデフレ・スパイラルになります。

 そこで、現在の経済・物価情勢が、こうした意味において、デフレ・スパイラル的であるか否かを検討することが必要です。以下では、4つの点を検討します。

  1.  検討する第1のポイントは、企業収益と雇用者所得です。只今ご説明したデフレ・スパイラルのメカニズムを踏まえますと、企業収益が増加していても、それが雇用者所得の削減によって実現している場合には、経済が持続的な安定成長軌道に乗っているとはいえません。したがって、経済・物価情勢を企業収益と雇用者所得の両面からみる必要があります。そこで、現在の経済・物価情勢をみますと、雇用者所得は、目立って増加している訳ではありませんが、少なくとも減少には歯止めが掛かっています。他方で、企業収益は大幅に増加しています。したがって、当面、物価が弱含みで推移するとしましても、それをもってデフレ・スパイラルが懸念される状態である、とみる必要はないと考えています。

  2.  第2の検討ポイントは、需給ギャップがどのように変化しているか、という点です。わが国の潜在成長率を規定する要因をみますと、労働投入量(=雇用者数×労働時間)については、労働力人口の頭打ちや労働市場における需給ミスマッチの拡大、さらに時短の推進などを背景に、現在、減少しています。また、経済のグローバル化や情報通信技術の進展などを背景に経済構造が急ピッチで変化する中で、90年頃までの巨額な設備投資によって積み上がった資本ストックが大量に陳腐化している可能性が高いとみられます。こうした中で、わが国の供給能力は、少なくとも短期的には伸び悩みが続くと思います。他方、国内景気は、昨年春以降、全体として緩やかながらも回復しつつあります。この結果、現在、需給ギャップは、その水準は依然としてかなり大きいものの、基調としては、縮小傾向を辿っているとみられます。したがって、現在、需要の弱さに由来する潜在的な物価低下圧力がどんどんと強まる状況であるとはいえないのではないか、と思っています。

  3.  検討すべき第3のポイントは、流通合理化や規制緩和などの進展の影響です。例として、最近、衣料品の価格が下げ幅を拡大していることを取り上げます。この背景には、先ほどご説明したように、商品企画から小売までのプロセス全体を効率化することによって、製品の在庫・物流などにかかる経費を節減し、これに基づいて価格を引き下げるといった動きが広がり始めていることが指摘できます。もっとも、一言で衣料品価格の下落と申しましても、その背景は様々です。生産性や効率性の向上に成功して収益を確保している企業がある一方、これらの動きに対抗して価格を引き下げたものの、生産性や効率性の改善が伴わず、収益を犠牲にするか、あるいは、人件費など他のコストを一段と削らざるを得ない企業もあるでしょう。こうした企業の個別事情に思いを馳せますと、たとえ流通合理化に起因する価格下落であるとしても、その全てを「良い現象」と、単純に割り切る訳には参りません。

  4.  最後のポイントは、賃金の動きです。賃金は、雇用者所得を決定する要因であると同時に、様々な財・サービスの価格を形成する基本的なコストでもあります。したがって、賃金の動きは、物価に影響を及ぼします。現在、労働分配率の引き下げという構造要因が働いているために、過去の景気回復局面とは大きく異なり、賃金が目立って上昇する兆しはみられません。逆に、景気の緩やかな回復などを背景に、賃金が更に切り下げられるのではないか、といった懸念も窺われません。このように、賃金の下落に歯止めが掛かっている点も、経済のデフレ傾向がさらに強まる方向にはないことの一つの証左と考えることができます。

 以上、現在の消費者物価弱含みの理由をご説明しました。次に、消費者物価指数の統計上の話にも簡単に触れたいと思います。現在、消費者物価指数の前年比がゼロ%近傍のところで推移しているために、0.1%程度の変化にも関心が集まり、物価指数の精度に対する期待は一段と高まっています。ところで、消費者物価指数は、「品質一定という条件の下における純粋な価格変化のみを把握する」という原則の下で、小売物価統計調査をもとに推計されているものです。しかし、新しい商品・サ−ビスが次々と登場する中で、誰もが納得する品質調整方法が確立されている訳ではありません。また、最近では、値引きの方法が複雑かつ多岐にわたっているため、実売価格をどのように捉えるのか、といった判断が難しくなっています。さらに、おびただしい数にのぼる統計の記入者負担を軽減することも必要です。したがって、消費者物価指数を含め、経済統計を利用する人々には、統計とは、本来、推計誤差が不可避であるという現実を冷静に受け止める寛容さが求められています。このように、現在の物価統計は作成上の問題を多く抱えていますが、それを承知のうえで、統計作成に携わる方々の不断の努力を引き続き期待している次第です。

2−3.経済・物価の将来展望に対するリスク

 以上を改めて整理しますと、わが国の景気は、「企業先行・家計遅行」というかたちで、なかなか加速する感じが出ない、極めて緩やかな回復を続ける可能性が大きいと思います。こうした中で、消費者物価は、横這い、ないしは、ごく小幅のマイナスという範囲で推移する可能性が高いように思います。そこで次に、景気が、こうした標準的な見通しから上振れる、あるいは、下振れるといった、潜在的なリスクは何か、という点に話を進めます。

 日本銀行では、今年10月に「経済・物価の将来展望とリスク評価」を公表しました。その中で、「物価安定のもとで緩やかな回復が続く」という標準的なシナリオを描き、それに対する下振れリスクについて、次のように整理しました。まず、海外経済動向に関連するリスク要因として、(1)世界的な情報通信関連財の需給が緩和する可能性、(2)原油価格上昇の影響、(3)国際的な金融・為替市場の変調の可能性、の3点を挙げました。また、国内経済動向に関連するリスク要因としては、(1)企業および金融機関のバランスシート調整やリストラの影響と、(2)何らかの理由で国民の将来に対する不安感が拡大する可能性、の2点を指摘しました。他方、今後、企業の中期的な期待成長率が上方修正されるリスクとして、設備投資が大きく伸び、景気が標準的な想定を上回って回復し、さらに、そうした状況のもとで原油価格が一段と上昇するような場合には、先行き物価上昇圧力が強まる可能性もある、という点を指摘しています。

 このうち、特に、バランスシート調整による下振れリスクについて補足します。現在、需給ギャップは依然として大きく、このため、企業や金融機関のバランスシート調整やリストラなどの構造調整の取り組みが続いています。すなわち、企業のバランスシート問題については、企業収益の増加、キャッシュ・フローの改善を背景に、設備投資が増加すると同時に、財務の健全化に向けた取り組みが続いています。また、労働分配率の引き下げもみられます。これらの構造調整の動きが、景気回復の足取りを重くしていることは否めません。しかし、重要なことは、構造調整に伴う景気下押しの力をギリギリのところで克服するだけの新しい力が出てきているということです。だからこそ、現在、景気は緩やかながらも回復過程にあるのだと理解しています。そのうえで、私どもとしては、バランスシート問題の調整圧力が特に強いとみられるセクターを中心に、特に金融面の動きには引き続き十分な注意を払う必要があると考えています。

 他方、現在の景気回復は、設備投資の増加とともに、情報通信関連財などを中心とした輸出によって支えられています。このため、わが国経済にとってのリスクとしては、国内要因だけではなく、米国や東アジアを始めとして、世界景気が大幅に減速することや、そうした中で、世界の金融資本市場や為替市場が変調を来たす場合なども念頭におく必要があります。このため、世界の金融経済情勢を丹念にみていく視点は欠かせません。

 以上が、最近の金融経済情勢と金融政策運営についての私の見方です。現在の緩やかな景気回復は、「企業先行・家計遅行」が顕著であるという特徴があります。そして、こうした景気回復の流れの中で、経済システム全体の効率化を通じて、わが国の潜在成長率の上昇に向けた取り組みを着実に進めることが、国内はもとより、国際的にも重要な課題です。そのような観点から、これまでにも、様々な提言が行われています。

 どのように考えましても、先行きの少子・高齢化社会では、現役世代の租税および社会保障に関する負担は増加せざるを得ません。すでに、現在、政府債務残高は名目GDPの1.2倍に達しています。これも将来の国民負担と考えることができます。こうした中で、家計が安心して21世紀の生活設計を立てることができるような環境を確保するためには、財政・社会保障制度を含め、中長期的な視点に立った構造改革が是非とも必要です。金融政策は、構造改革そのものを代替することはできません。しかし、金融政策は、家計や企業などの様々な経済主体が、物価の変動に煩わされることなく、消費や投資などにかかる意思決定を行うことができるような、持続的な物価の安定を実現するという、極めて重要な役割を担っています。言い換えますと、金融政策は、人々の意識の中に、「物価は先行きにわたって安定している」という安心感が根づくことを目指しているのです。同じように、財政運営のあり方などについても、中長期的なビジョンを国民と共有することができれば、人々は安心して将来の生活設計を立てることができます。財政運営については、当面、まだ脆弱な日本経済を下支えせざるを得ないと思いますが、同時に、中長期的な観点から、財政支出の効率化を図っていくことが求められております。また、規制緩和などを通じて、民間経済主体の自発性をより発揮できるような環境を整備し、経済システムの効率性を向上させることも、経済主体の期待成長率を高めることに繋がるものと思います。

 以下では、こうした観点から、わが国経済が、現在の家計遅行型の景気回復を克服し、潜在成長率を高めていくための課題として、特に3点を取り上げ、私の意見を申し上げたいと思います。具体的には、(1)社会保障制度について、少子・高齢化が進む中で、社会保障の給付と負担の関係はどうなるのか、また、(2)そもそも少子化に歯止めを掛ける方法はあるのか、あるいは、(3)1,300兆円という巨額な家計金融資産を将来の経済成長に繋げるための課題は何か、というテーマです。

3.豊かな少子・高齢化社会を迎えるための課題

3−1.社会保障制度の構造改革

(社会保障制度の現状)

 社会保障給付をみることで、現在の社会保障制度が概観できます。利用できる最新の統計がやや古いのですが、97年度でみますと、社会保障給付は、69兆4千億円です。この約70兆円の給付のうち、公的年金が52.4%、医療費(社会保障費用として支払われた分のみで自己負担分が含まれない)が36.5%となっており、両者で全体の約9割を占めています。残りの約1割は、今は介護保険となっている老人福祉、あるいは、児童母子福祉、障害者の方々への福祉、生活保護などに使われています。このように、わが国の社会保障給付は、他の先進国と比較して、年金、医療のウエイトが高く、逆に福祉サービスのウエイトが著しく低いことが特徴的です。

 現在、社会保障制度の構造を改革する必要性が強く認識されています。その理由について次の2点が指摘されます。第1の理由は、少子・高齢化の急速な進行です。今年の厚生白書も、日本が迎える21世紀とは「高齢者の世紀」である、と指摘しています。国立社会保障・人口問題研究所が97年に行った将来推計(中位値)によりますと、2007年頃から人口が減少する一方で、65歳以上の人口は当分の間増加し続けることから、わが国の高齢化率(65歳以上人口が全人口に占める割合)は、現在の17%(概ね6人に1人が65歳以上)から、2025年には27%(同じく4人に1人)となり、2050年には32%(同じく3人に1人)と、高齢者比率は現在の約2倍にまで上昇することが見込まれています。

 こうした中で、厚生省の推計(2000年10月)をみますと6、社会保障給付費の国民所得に対する比率は、2000年度見込みの20.5%から、2025年度には31.5%に達すると見込まれています。社会保障に係る負担も同様に上昇します。この結果、租税負担率が現在の22.5%という水準のままで推移すると仮定しても、租税負担と社会保障負担を合わせた国民負担率は、2025年度には5割強に達することになります。但し、これには、潜在的な国民負担率である、財政赤字分が含まれていないことに留意が必要です7。社会保障制度は国民の広い層の負担を必要としますので、それを支える人たちの合意を得なければ制度を存続できません。したがって、社会保障制度を将来にわたって堅持するためには、負担の裾野を広げるとともに、社会保障給付の増加をできるだけ抑制することが不可欠です。

  1. 6名目国民所得の伸び率について、2010年度まで年率+2.5%、2011年度以降は年率2.0%という前提。
  2. 7なお、2000年度について政府見込みでは、租税、社会保障に係る国民負担率が36.9%となるが、財政赤字の国民所得対比が12.3%となるので、これを含めた潜在的な国民負担率はすでに49.2%に達しているという見方もできる。

 第2の理由は、社会保障に対する需要の変化です。わが国の社会保障制度は、戦前・戦時下から一部の人々を対象に始められた年金や医療保障を土台とし、戦後の民主国家の下に、その対象が全国民に広げられ、充実が図られてきました。その中で、国民医療費をみますと、国民所得を上回る高い伸びとなっているうえ、そのうち老人医療費の割合が着実に上昇しています。こうした状況を踏まえ、健康保険法など医療保険制度改正関連法が先週末(11月30日)に成立し、来年1月から実施されることになりました。70歳以上の医療費の1割負担や、入院患者3名に対して看護婦1名(現行は、入院患者4名に看護婦1名)の体制とするなど、みるべき改正点はあるものの、赤字にあえぐ医療保険財政を立て直すための抜本的な改革は2年先延ばしになりました。他方、介護サービスに対するニーズの増加に応えるとともに、医療にかかる資源の有効活用を図るため、介護保険制度が今年4月にスタートしたのはご案内のとおりです。介護保険制度については、法律の施行後5年を目途に、全般的な見直しが予定されていますが、すでに、介護料金に関する問題などが指摘されています。

 いずれにしても、今後、高齢者の医療と介護を切り離し、それぞれのニーズに的確に応えていくことが一段と求められるようになるでしょう。今こそ、医療保険制度の抜本的な改革と、介護保険制度の見直しに向けて、国民的な議論を重ねることが非常に強く求められていると思います。

(公的年金制度の改革)

 私は、91~94年の間、社会保障制度審議会のもとに設置された「社会保障将来像委員会」のメンバーとして、21世紀における新しい社会保障制度の基本的な方向性の検討に参加したことがあり、その後も社会保障制度全般について関心を持ってきました。本日は、特に、社会保障関係給付の5割強と最もウエイトが大きい公的年金制度に絞って、お話し申し上げます。

 年金制度の財政方式には、積立方式と賦課方式があります。積立方式とは、将来の年金給付に必要な財源を、予め保険料で積み立てていく方式です。他方、賦課方式とは、その時に必要な年金の原資を、その時の現役世代の保険料でまかなう方式です。わが国の公的年金は、戦時下に積立方式でスタートしたものが土台となっていますが、戦後、保険料を低めに設定してきたことや、将来世代の負担に依存するかたちで物価スライドや賃金スライドが導入されたことなどから、現在では、賦課方式の要素が強まっています8。賦課方式の場合には、保険料率は基本的には年金受給者数と現役加入者数の比率によって決まりますので、わが国のように少子・高齢化が進行する場合には、将来世代の負担が一段と重くなります。したがって、公的年金制度を将来にわたって安定的に維持するためには、給付の増加を抑制し、かつ、保険料負担の支え手を増やすことが不可欠です。年金改革については、今日まで、多岐にわたる論点、例えば、(1)財政運営は賦課方式か、積立方式か、(2)厚生年金の民営化の是非、(3)基礎年金の財源は社会保険方式か、税方式か、などについて、様々な提言が行われてきました。

 こうした中で、平成12年度の年金制度改正では、(1)将来の厚生年金保険料を年収の2割程度(本人負担は1割)に抑制すること、(2)将来にわたって、基礎年金と厚生年金(報酬比例部分)の年金給付額は現役世代の手取り年収の概ね6割程度の水準を確保すること、などを基本的な考え方と位置付け、将来に向けて給付総額の伸びを抑制するための措置が講じられています。具体的には、(1)老齢厚生年金(報酬比例部分)の給付水準の5%削減、(2)65歳以降の賃金スライド制の停止、(3)老齢厚生年金(報酬比例部分)の支給開始年齢の65歳への引き上げ(2025年度以降、女性は5年後)、(4)60歳代後半の在職老齢年金制度9の導入などです。

  1. 8わが国において、一般国民を対象とした最初の公的年金制度は、1942年の労働者年金保険制度(現在の厚生年金保険制度)である。制度発足時には、積立方式をとっていたが、敗戦とそれに伴う経済の混乱やインフレの中で負担能力が著しく低下し、また積立金も減価したため、給付に比べて低い保険料に止めた。そうした中、1961年には、自営業者や農業者を対象とする国民年金制度が発足し、国民皆年金が達成された。その後、負担能力を勘案して、段階的に保険料を引き上げる方式が採用されてきた。また、制度発足当初には、加入期間がどうしても短くなるため、次世代の現役世代が負担することによって、給付水準を引き上げる政策が採られてきた。特に、1973年(昭和48年)には、物価スライド制や賃金スライド制が導入されるなど、給付の大幅な充実が図られ、結果として賦課方式の要素が一層強まった(『平成11年版年金白書:21世紀の年金を「構築」する』<社会保険研究所>、pp.156~157)。
  2. 9老齢厚生年金の受給資格があり、かつ、在職している場合には、支給される年金額は、賃金に応じて調整され、その一部または全部が支給停止になる。これを在職老齢年金制度という。

 さらに、(5)基礎年金の財源を見直す方向性も示されました。すなわち、国庫負担の割合について、現在は給付費の3分の1ですが、当面平成16年度までの間に、安定した財源を確保したうえ、2分の1への引上げを図るものとする、という附則が設けられました。したがって、今後、安定した財源の確保を前提として、国庫負担の割合の引き上げが具体化される見通しです。ところで、保険料の増加が抑制される場合に、それは家計支出にどのような影響を及ぼすでしょうか。それは、国庫負担分が最終的にどのように賄われるかに大きく依存すると思います。すなわち、消費者は、国庫負担の増加分が将来の増税によって賄われると予想する場合には、保険料が抑制される分を貯蓄に回し将来の税負担に備える筈です。他方、保険料負担を抑制するための財源が歳出の効率化によって生み出されると予想する場合には、保険料の抑制分が消費に回る可能性があるように思います。

(年金と物価)

 年金制度は物価と深い関係があります。と申しますのは、折角、現役世代の手取り年収の6割に相当する年金給付が保障されても、物価上昇率が例えば年率で10%も上昇しますと、その分だけ年金の実質購買力は目減りします。そこで、年金給付に物価上昇率を反映させる必要があります。この調整方法を物価スライド制といいます。

 しかし、先ほどご説明したように、この物価指数も推計によって求められるものであり、したがって、統計的な誤差から逃れることはできません。過去の研究成果によりますと、消費者物価については、現実の物価指数の変化率が、概念上の一般物価の変化率を上回る傾向があるといわれております10。これを「物価指数の上方バイアス」といいます。こうした物価指数のバイアスの推計については、米国のボスキン・レポート(96年12月、正確には、「CPIの精度に関する専門家委員会による報告書」)の公表がその端緒とされています。当時、米国政府がボスキン・レポートに取り組んだ問題意識は、物価指数のバイアスが、物価指数の変化率と連動している年金、社会保障などの財政支出を過大にし、これが財政悪化の一因になっているのではないか、というものでした。

 わが国でも、現在、すでに年金を受給している人の年金額は、一定の購買力を確保するために、物価の変動に応じて自動的に給付額を改定する「自動物価スライド制」が89(平成元)年度から採られています(すなわち、今年4月以降の年金給付額は前年の消費者物価指数の変化率に応じて自動的に改定される仕組み)11。したがって、「物価の安定」を目的とする金融政策は、年金制度に大きな影響を与えます。

 そこで、物価スライド制の運用をみますと、前年の消費者物価指数の変化率がマイナスとなったのは平成8年度と今年度ですが、両年とも、特例法によって、本来は執行される筈である、年金給付額の引き下げが見送られています。その理由として、「厳しい経済社会情勢の下における年金受給者の生活の状況等」に対する配慮が挙げられています12。しかし、このように物価の変動に対して下方硬直的な運用が続きますと、年金財政は一段と悪化します。年金制度に対する国民一般の信頼性が揺らいでいる時だけに、関係者には、できるだけ早期に、低インフレ下における物価スライド制のルールを確立し、その厳格な遵守を通じて年金制度に対する信頼を高めることが期待されます。また、私は、日本銀行が、年金給付にも深く関係する物価の安定を持続的かつ中長期的に実現することに努めていかなければならない、と改めて感じている次第です。

  1. 10物価指数の変化率に上方バイアスが生じる要因としては、(1)「割安の商品の購入を増やし、割高の商品の購入を減らす」といった動き(代替効果)を十分反映できないこと、(2)「安売り店の参入」といった動きを十分反映できないこと、(3)「商品の品質向上」の動きを十分反映できないこと、などが指摘されている。詳しくは、日本銀行「物価指数を巡る諸問題」(2000年8月)参照。
  2. 111973年度(昭和48年度)に物価スライド制が導入された。当時は、原則として、消費者物価指数前年比が5%を超える場合に適用されていたが、1989年度(平成元年度)には前年の消費者物価指数の前年比に応じて改定することに変更され、現在に至っている。
  3. 12「平成12年度における国民年金法による年金の額等の改定の特例に関する法律案について(答申)」、社会保障制度審議会、2000年2月2日。

(就業機会の多様化の必要性)

 ところで、公的年金制度改革といいますと、将来の保険料負担の増加と給付額の減少といったネガティブな側面ばかりに注目が集まり、特に若い世代が、暗いイメージを強く持つようになっているのではないか、と危惧しています。例えば、貯蓄広報中央委員会による「貯蓄と消費に関する世論調査」(2000年)をみますと、「年金だけではゆとりがない」と回答する世帯の割合は、60歳代、70歳以上が約5割であるのに対して、20~40歳代では約8割、50歳代で約7割とかなり高くなっています。また、その理由として、60歳代では、「高齢者への医療・介護費用の個人負担が増える」が圧倒的に多い一方、60歳未満では、「年金給付額が引き下げられる」、「年金支給開始年齢が引き上げられる」などといった回答が目立ちます。

 このように将来の生活設計について、慎重な、あるいは、悲観的な見方が強まっている理由はどこにあるのでしょうか。私は、その一つの原因として、従来から、社会保障制度の改革が雇用の問題と切り離されてきたことを指摘したいと思います。大半の方は、生活設計を立てる場合に、働くことによって収入を得て、将来の支出に向けて金融資産を蓄積し、逆に、必要に応じてそれを取り崩し、さらには、万が一の事故や災いによって被る損害に対して保険を掛けます。高齢期の生活設計も本来は全く同じ筈です。しかし、わが国では、高齢期の雇用の問題が置き去りにされたまま、社会保障の給付抑制ばかりが強調されてきました。これでは、高齢期における生活設計の目処が立たないのではないか、といった不安感が高まるのは当然のことです。例えば、平成12年度の年金制度改正において、老齢厚生年金の報酬比例部分の支給開始年齢は、2013年度から2025年度にかけて、60歳から65歳へ、3年に1歳ずつ段階的に引き上げられることになりました(女性は5年遅れて実施)。ところが、現在、企業では60歳定年制が定着しています。このため、「このままでは年金を受給できる年齢になるまで暮らすことができない」といった不安感が高まることになります。

 これに対して、最近、65歳定年制という方向性が示されています。こうしたアプローチにもメリットはありますが、そもそも年齢を唯一の基準にして、これまで蓄積してきた人的資本を一律に不要とすることが合理的であるとは思えません。年齢を重ねるにしたがって、健康面の個人差は大きくなりますし、それに伴って低下する能力もありますが、逆に、専門的知識、不測の事態への対応力、対人折衝・調整能力など、加齢によって上昇することが期待される能力もあります。さらに申し上げれば、私は、以前から、年齢はもとより、性別、さらには障害の有無などにかかわらず、働きたいと希望する者が多様なかたちで働くことができる柔軟な仕組みの方が、社会が活性化し、経済的にもより高い成長を見込めるのではないか、と考えて参りました。

 社会が働く意欲がある高齢者を受け入れるためには、わが国の硬直的な働き方を改めることが必要です。すなわち、働く意欲がある高齢者であっても、以前と全く同じように働くことは困難でしょうし、本人もそうしたかたちで働くことを希望しない可能性が高いでしょう。そこで、就労を希望する高齢者が、以前までの働き方に比べて、7割、5割、あるいは、3割といった労働時間や責任度合いを弾力的に選択できるように、自営業、短時間労働、期間労働、在宅就労、派遣労働など、多様な働き方を用意する必要があります。企業にとっても、雇用形態の多様化は、環境の変化に対する柔軟な対応を可能とし、また、知識、技術、経験を積んだ即戦力となる労働者を適材適所に採用できるなど、メリットは大きいように思います。こうした働き方の多様化は、高齢者だけではなく、後ほど申し上げる女性の能力を活かすためにも必要不可欠です。

 ところが、わが国では、従来から、正規雇用者こそが重要な労働力であり、非正規雇用者(特に臨時、日雇)をいかにして正規雇用に「格上げ」するかといった発想が根強くみられました。このため、年功賃金と長期雇用が特徴的なわが国の雇用制度・慣行では、フルタイム雇用を「望ましい働き方」、それ以外の全ての雇用形態を「望ましくない働き方」とする硬直的な考え方が強くみられました。また、社会保障制度においても、「正規雇用」をモデルとして構築されてきたため、それ以外の働き方は不利な条件に甘んじてきました。

 年功賃金は、労働生産性との比較において、若年時には賃金は低い一方、中高年時には賃金が高いことを意味しています。この仕組みは、少ない高齢者を多くの若年者が支えるというピラミッド型の年齢構成と、長期にわたって雇用関係が維持されることを暗黙の前提としています。しかし、少子・高齢化社会では、年功賃金と長期雇用を特徴とする雇用システムを見直さざるを得ません。そして、賃金が労働生産性に見合うかたちに調整されるに伴って、いずれは、正規社員と非正規雇用の区別なく、同じ職務に対しては、同じ賃金・労働条件などが確保される方向に向かうのではないか、また、そうあるべきではないか、と考えています13。しかし、そこに辿り着くまでには越えなければならない労働法制上のハードルが多いことも事実です。

  1. 13因みに、世界で最もパートタイム比率が高い国はオランダである(1999年、30.4%、男性11.9%、女性55.4%、OECD)。オランダでは、1990年代、労使の合意を背景に、賃金・労働時間など、パートタイムの労働条件の改善が積極的に進められた。すなわち、1993年には、労働法の改正により、最低賃金と休暇について、フルタイム労働とパートタイム労働の格差が是正され、同一職の労働者は労働時間の長さに拘らず、労働時間に応じた均等の賃金を得る権利が与えられた。また、年金制度からパートタイム労働を除外することも法的に禁止された。さらに、1996年には、フルタイム、パートタイムに拘らず均等に処遇するという原則が労働法に盛り込まれ、パートタイムの均等原則が法的にも適応されるに至っている。

 他方、私たち個人の姿勢としては、高齢期にも通用するような職業能力を磨いていくことが是非とも必要です。労働省でも、従来は雇用を維持・増加する企業に対する助成金支給を雇用政策の中心に考えてきましたが、今般、雇用保険を活用して、労働者個人に教育訓練給付金を支給する制度を新設するなど、政策的な支援に着手しています。さらに、今後は、自己啓発と職業選択の繋がり、すなわち、ある職種には具体的にどのような能力が求められるのかといった情報を広く共有できるような環境整備も求められております。

3−2.少子化対策

 次に、少子化対策を取り上げます。先ほど、21世紀における高齢化率の急上昇について言及しましたが、21世紀後半の高齢化率は、今後の出生率次第、すなわち少子化対策次第で変ります。少子化の原因については、様々な要因が指摘されていますが、直接的には晩婚化と未婚率の上昇が挙げられます。当然のことながら、子供を産むか産まないかは個人の価値観の問題であり、政府が介入すべきことではありません。しかし、わが国の雇用システムが、女性の就業と育児の両立を困難にしている面が少なくないことを考えますと、個人の問題では済まされません。特に年功賃金・長期雇用という雇用システムの下では、出産・育児による就業の中断には、再就職できる場合でも多大な金銭的な損失を伴います14。すなわち、女性が子育てによって仕事を失う機会費用はかなり大きいのが現実です。現在のような、賃金や昇進などにおける年功重視が強い雇用慣行が続く限り、女性の長期継続雇用は拡大しないか、あるいは、仮に拡大する場合には、出産・育児による機会費用の大きさが原因となって出生率がさらに低下する可能性があるのではないか、と懸念しています。

 労働力人口の減少に歯止めを掛け、また、社会保障の支え手を拡大するためには、女性が就業と育児を両立できる環境を整備することが必要です。そのためには、(1)高齢者の就労について指摘したことと同様に、パートタイム労働、派遣労働、在宅勤務、フレックス勤務制度などの多様な働き方を普及させるとともに、(2)勤労意欲を損なうような賃金・雇用条件などを是正することが必要です。例えば、パートタイム労働者についても、職務内容などを比較できる正社員との間では、賃金や労働条件などについて基本的には均等に処遇するべきであると思います。また、(3)社会全体で育児を支援する環境整備も欠かせません。特に、保育所や学童保育などの保育サービスの質を向上させること(ゼロ歳児・低年齢児の受け入れ増加、夜間保育の増加など)や育児休業制度の普及などが不可欠です。

 ところで、女性の就業継続について、就業と育児の両立が課題であると申し上げましたが、同じことが介護にも同様に当てはまります。高齢者が子どもと同居している割合をみますと、低下傾向にあるものの、98年現在で約5割と、欧米諸国に比べて非常に高いことが特徴です。このため、高齢者の在宅介護などでは家族の負担、特に女性の負担が大きくなっています。現在でも、介護をしている女性の労働力率をみると、同年代女性の労働力率に比べてかなり低くなっています15。政府では、今年4月には介護保険制度を導入し、国民全体で高齢者の介護を支え合う方向に踏み出しましたが、今後、高齢化率が急ピッチで高まることから、家族が介護に携わるケースは増加するでしょう。したがって、出産・育児だけではなく、介護と就業の両立という観点からも、男女の区別なく、就業形態の多様化を推進することは非常に重要な課題であると考えています。

  1. 14経済企画庁「国民生活白書」(平成9年版、pp.51~55)では、短大卒相当の女性を例にとって、就職後に就業を中断せずに定年退職まで勤務した場合と、結婚後27歳で第1子を出産する時に一時退職し、31歳で第2子を出産した1年後に再就職する場合について、その生涯賃金を比較し、出産・育児による賃金の損失率は約27%という試算結果を示している。
  2. 15経済企画庁「国民生活白書」(平成10年版、pp.117~118)では、「労働力調査」(総務庁)および「国民生活基礎調査」(厚生省)に基づき、40~50歳代の女性について、介護をしている人の労働力率は、40歳代47.1%、50歳代40.3%と、各年代の女性全体の労働力率(40歳代70.5%、50歳代62.3%)に比べて著しく低下している、と指摘している(1995年)。

 他方、今後、少子・高齢化社会において、高齢者や女性の労働参加が広がる中で、保育サービス、医療・介護サービス、あるいは、個人の自己啓発に関連するサービスなどに対する需要が増加し、また、こうした分野での雇用機会も増加すると見込まれます。こうした中で、利用者の需要に合致した質の高いサービスがより低いコストで提供されるようになるためには、市場メカニズムの活用、また、急速に発展する情報通信技術の活用などが重要な課題になります。

3−3.家計の金融資産選択

(家計の金融資産選択の重要性)

 最後に、やや視点を変えまして、少子・高齢化社会に向けた家計の金融資産選択の問題を取り上げます。まず、問題意識を明確にするために、極端な話を致します。仮に、国民一人一人が、金融資産選択において安全性を非常に重視し、全ての金融資産を安全資産で運用すると仮定します。その場合には、企業の積極的な投資活動には資金が十分には回らなくなります。この結果、中長期的には、資本ストックが低下し、高い生産性も望めず、潜在成長率が低下する可能性がかなり高いと思います。すなわち、一人一人にとっては将来に備えて資産を安全に運用しているつもりであっても、わが国経済が失速する可能性があるため、結果としては、各自が求める将来の安心には繋がらない、ということになります。他方、家計の巨大な金融資産が企業の投資に回り、労働者一人あたりの資本装備率が引き上げられ、労働生産性が高まれば、わが国の潜在成長率が上昇する可能性があります。こうした観点から、21世紀のわが国経済が少子・高齢化のもとでも持続的に成長していくためには、家計の金融資産がどのように運用されるか、という点で見直すことが重要です。

(家計の金融資産選択がリスク回避的である理由)

 ところが、わが国の家計の金融資産選択については、リスクを回避する傾向がかなり強いといわれています。その理由として、次の2点を指摘したいと思います。

  1.  第1に、日本では、家計のリスク資産の商品性などを理解することが必ずしも容易ではない、という点が指摘できます。すなわち、これまでは、金融資産に関する情報が家計において不足していることが、金融資産選択の幅を狭め、その結果、リスクに関する情報をあまり必要としない預貯金などでの運用を暗黙のうちに促してきた可能性があります。実際に、貯蓄広報中央委員会の「貯蓄と消費に関する世論調査」(2000年)をみますと、54%の世帯が「金融商品について殆ど知識がないと思う」と答え、また、61%が「色々な金融商品の探し方を知らない」、さらに、51%が「金融商品に関する説明パンフレットを理解するのは難しい」と回答しています。

  2.  第2に、家計において、将来の生活設計に対する不安が強いために、金融資産選択において、安全性と流動性が特に重視されている可能性があります。すなわち、先ほどの「貯蓄と消費に関する世論調査」で、「貯蓄の目的」についての回答をみますと、90年代を通じて、「老後の生活資金のため」と「特に目的はないが貯蓄していれば安心」と回答する割合が増加傾向を辿っています。

(家計の金融資産を活用するための課題)

 そこで、次に、家計の金融資産が企業の投資活動へと円滑に流れる道筋を拡充するための課題を検討します。

  1.  第1の課題は、家計部門から企業部門への資金の流れにおいて、預貯金などを通じた間接金融の経路だけではなく、株式、債券、投資信託などの保有を通じた直接金融の道筋を拡充することです。言い換えますと、個人がいかにして投資家になるか、ということです。こうした中で、投資信託は、様々なリスクとリターンの組み合わせが可能であることから、本来は、家計が取り組み易いリスク商品の一つであると思います。そこで、株式投信の元本残高をみますと、最近、株価が軟調に推移しているにもかかわらず、着実に増加しています。これが、家計の金融資産選択のスタンスが変化する兆しであるか否かを評価するには時機尚早かも知れませんが、今後とも注目していきたいと思います。また、現在、確定拠出型年金(いわゆる401K年金)が注目を集めています16。これが家計の金融資産選択に与える影響については、税制上の制約や、既存の年金資産を確定拠出年金に移管するとしても段階的に実施されるとみられることから、より中期的な視点で注目していくべきであると思います。

  2.  第2の課題は、国民一人一人が、将来の生活設計を安心して組み立てることができるような環境を整備することです。そもそも、病気、障害、高齢、失業など、いつ起きるか不確実性が高いリスクは、個人では対応しきれないか、対応できるとしても多大なコストが必要になります。こうしたリスクに対しては、個々人ではなく、社会的に共同で備える方が合理的です。そもそも、社会保障制度には、本来、「リスクが発生しなかった人からリスクが発生した人への所得の移転」という面があり、そのために社会保険の原理が活用されてきたと考えられます。こうした観点から、先ほどご説明したとおり、社会保障制度の構造改革が喫緊の課題であると思います。

  3.  第3の課題は、家計の金融資産選択の幅を広げるためには、金融資産のリスクとリターンに関する情報を低コストで入手し、自ら分析・判断できるような環境を整備することです。このため、銀行、証券会社や保険会社など、金融サービスの供給者については、各個人がリスク資産をどの程度必要としているか、また、リスク資産を保有する本来の姿である長期保有が可能か、などといった個々の事情やニーズに対応した金融商品の選択肢を提示し、適宜適切な助言や情報提供を行うといった対応が一段と求められる、と思います。また、現在、国民の間で将来の生活についての不安感が広がっていますが、その背景の一つとして、社会保障制度、金融政策運営など、生活設計を組み立てるために前提となる情報が国民一般にまだ十分には行き届いていない可能性があります。こうした意味で、金融経済に関する社会教育の重要性は、今後、少子・高齢化が進むにつれて、一段と高まっていくと思います。

 最後に、家計部門と企業部門の間の資金の流れを円滑化し、また、家計の将来不安を軽減するためには、物価が中長期的かつ持続的に安定していることが大前提になります。例えば、先ほどの「貯蓄と消費に関する世論調査」で、「老後の生活を不安に思う理由」をみますと、10年前には、「生活の見通しが立たないほど物価が上昇することがあり得ると考えられるから」と回答した世帯の割合が約4割も占めていました。10年という年数は、家計が高齢期に向けて生活設計を立てるうえでは、決して長い時間ではありません。こうした点をみますと、中長期にわたって、家計が物価の変動に煩わされることなく消費と貯蓄のバランスを考えることができる状態を持続することがいかに大切なことであるか、を改めて強く認識せざるを得ません。そして、日本銀行は、まさにこうした中長期にわたって物価安定を持続することを念頭におき、日々、金融政策を運営している次第です。

  1. 16確定拠出年金とは、将来の年金給付のために拠出された掛金が個人(加入者)ごとに明確に区分され、加入者の自己責任で運用指図(あるいは運用商品を選択)した結果に基づき、年金の給付額が決定される仕組み。米国では、内国歳入法401条(k)項に根拠規定があるため、一般に「401K年金」、「401Kプラン」と呼ばれることが多い。

4.結語

 本日は、全体を通じて、主に家計部門に焦点を当てました。すなわち、前半では、金融政策運営の前提となる金融経済情勢について、家計部門では、当面、景気回復をなかなか実感できない可能性があるという見方をご説明しました。他方、後半では、このように家計部門の景気回復が遅れる状況を克服するためには、中長期的な視点に立った構造改革が不可欠であることを指摘し、そのうえで、少子・高齢化社会を切り開いて行くための課題のうち、社会保障制度改革、少子化問題、および家計の金融資産選択の問題を取り上げました。

 家計が安心して21世紀の生活設計を立てることができるような環境を確保するためには、第1に、多様な雇用機会を整備し、社会保障制度の支え手を増やすことが求められています。第2に、家計が手にしている金融資産を有効に活かせるような環境を構築していくことが必要です。そのためには、第3に、こうした取り組みの前提となる、物価の持続的な安定を実現し、金融政策運営についての国民の信認を高めることが必要不可欠であると考えています。私自身、金融政策運営に携わる一人として、物価の持続的な安定を通じ、わが国の構造改革を支えるという責任の重さを改めて痛感している次第です。

 最後に、日本銀行の政策・業務運営に対するさらなるご理解とご協力をお願い申し上げて、本日の結びとさせて頂きます。本日はご清聴有り難うございました。

以上