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JCIF国際金融セミナー講演

2001年10月17日・国際金融情報センター(JCIF)国際金融セミナーにおける日本銀行山口副総裁講演

2001年10月17日
日本銀行

[目次]

  1. はじめに
  2. 1.世界経済の動向
  3. 2.日本経済の現状
  4. 3.3月以降の金融緩和措置
  5. 4.金融緩和措置の効果
  6. 5.インフレーション・ターゲティング
  7. 6.日本銀行はどのような資産でも購入すべきか?
  8. 7.結論

はじめに

 本日は国際金融情報センターのセミナーにお招き頂き、光栄に存じます。本席では、日本経済の現状や直面している問題の性格を説明し、その上で、現在の厳しい状況から脱却するためにわが国は何をすべきか、またその中で、日本銀行はどのような貢献をなしうるのかという点について、私の考えを述べてみたいと思います。

1.世界経済の動向

 そこでまず最初に、そうした問題を考える上で前提となる世界経済、特に米国経済の問題についてお話したいと思います。現在、米国経済の先行きを展望する際、ふたつの要因が議論されています。ひとつは、昨年来のIT関連分野に端を発した調整がいつ頃終了し、どの程度のスピードで回復するかという問題であり、もうひとつは9月に米国で起きた悲劇的なテロ事件が経済活動にどのような影響を与えるかという問題です。

米国同時多発テロの影響

 まずテロ事件の影響ですが、経済的な影響に限っても現在なお不透明な要因が数多くあり、評価を下すことは時期尚早だと思います。ただ、事件直後の最大の課題、すなわち、金融資本市場における混乱を回避し、流動性や決済といった市場の機能を正常に維持するという点については、十分な成功を収めたと言って良いと思います。

 事件発生直後、日本銀行を含め各国の中央銀行や財務省、金融市場・金融機関の規制・監督当局は互いに密接に連絡をとりながら、迅速に行動しました。我々セントラル・バンカーの対応ということで申し上げますと、主要国の中央銀行は、事件発生直後、金融市場に対し流動性を迅速かつ大量に供給するとともに、金融市場と決済システムの機能を守り抜くとの断固たる決意を表明しました。こうした中央銀行の行動は、まさに危機管理の教科書に書かれた通りの対応であったと思います。この間、金融資本市場の関係者も、市場機能の維持、取引の執行に全力を尽くしました。このように、内外の金融当局と市場参加者が連携し努力した結果、金融資本市場での混乱が契機となって経済全体に悪影響が及ぶという事態は回避されました。

 現在、我々の関心は今回のテロ事件およびその後の様々な展開が、世界経済、特に米国の経済活動にどのような影響を与えるのかという点に移っています。この点については、各国の政策当局も述べていますように、今回のテロ事件によって、中長期的な経済成長の展望が揺らぐということはないと思っています。ただ同時に、短期的には先行きの不確実性が増加し、経済主体のリスク回避指向が高まっていることは否定できません。例えば、米国の金融市場をみますと、株価は漸くテロ発生前の水準に復しつつありますが、なお神経質な動きとなっていますし、社債のクレジット・スプレッドも拡大しています。こうした状況が長く続きますと、企業の資金調達面にも相応の影響が出てくることが予想されます。現実の企業行動をみても、米国では、今回のテロ事件を受けた企業業績の下方修正、リストラの動きが広がっており、設備投資などの企業活動も一段と下押しされるリスクがあります。

IT分野に端を発した調整の行方

 このように、今回のテロ事件の影響については、少なくとも短期的にはある程度ダウンサイド・リスクにウエイトを置いてみていかざるを得ないように思われます。しかし、米国経済はテロ事件の発生以前からIT関連の調整に端を発して後退色を強めていたことを考えますと、先行きの米国経済の動向を左右する、より基本的な要因は、IT関連の調整がいつ終了し、どの程度のスピードで回復するのかという点にあると思います。

 そこで改めて昨年末から現在に至るまでの米国経済に対する見方を振り返ってみますと、皆様ご記憶のように、昨年11月に開催されたFOMCでは先行きの経済のリスク判断として、景気後退よりはインフレの方に重点が置かれていました。FRBがフェデラルファンド・レートの引下げに踏み切ったのは本年1月初でしたが、春頃までは、先行きの景気回復のテンポについて、U字型かV字型かという論争はありましたが、回復時期自体については、本年下期には立ち直るという見方が多数派であったと思います。因みに、民間予測の集計値をみますと、今年の米国の経済成長率についての平均的な見通しは、1月時点では+2.6%であり、前年の+4%台に比べれば鈍化するものの、それほど大きな落ち込みにはならないとみられていました。現在、この見通しは1.1%にまで低下しており、1年前の見通しと比較すると、実に2.4%も低下しています。

 振り返ってみますと、春先頃まで支配的であった米国経済の下期回復説は、ふたつの要素から成り立っていました。ひとつはIT関連の需要は比較的早期に回復するという予想でした。もうひとつは、仮に経済全体としての需要が予想以上に落ち込んだとしても、米国の場合、金利引下げや財政支出の拡大といったマクロ経済政策による対応の余地が大きいことから、深刻な景気後退は避けられるという見方でした。また、金融システムに大きな問題を抱えていないことも、わが国のバブル崩壊期との違いとして、しばしば指摘されていました。

 このうち、IT関連の需要については、業界予測が示すように、回復の時期についても回復のテンポについても、楽観的な見通しは後退しました。金融政策の対応という点では、FRBはフェデラルファンド・レートを年初の6.5%から10月初に現在の2.5%に引き下げました。わずか9か月で4%の引下げは極めて異例です。財政政策の面でも、向こう10年にわたる総額1兆3500億ドルの減税が決まり、7月からは実施に移されていますし、テロ事件が発生した後は、追加的な財政政策の発動も検討されています。しかし、このようなかなり思い切った金融、財政両面での政策的な梃子入れをもってしても、今のところ米国経済の減速に明確な歯止めをかけるには至っていません。企業部門では生産・在庫調整に努めているものの、IT分野を中心とする需要の落ち込みになかなか追いつかない状況が続いています。設備稼働率の低下や企業収益の悪化から、設備投資の回復も展望しにくいように思われます。個人消費はこれまでのところ底固い動きを続けていますが、雇用・所得環境の悪化や株価下落による逆資産効果などもあって、不透明感が高まっている状況です。こうしたことから、まだ不確実な面が大きいとはいえ、IT関連調整がある程度長引き、テロ事件の影響も短期的にはダウンサイドに働くことなどを前提に、米国経済の先行きについて慎重な見方が広がっているように思われます。

期待の大きな変化がもたらす調整

 このような期待の大きな変化とそれが経済に及ぼす大きな調整圧力をみるにつけ、幾つかの感想を持ちます。その中からひとつだけ申し上げますと、強気の期待が大きく下方に修正された場合、金融政策は果たして経済の調整をどの程度緩和できるかというものです。IT需要の牽引役となってきた米国のテクノロジー業界や通信業界は、90年代半ば以降、インターネットへの期待を背景とした期待成長率の高まりや、通信産業に固有の性質である規模の経済性やネットワークの外部性などから、新規参入ラッシュを伴いつつ投資競争が過熱していました。また、情報通信分野の目覚しい発展は、米国経済全体の中長期的な成長期待も高めていました。しかし、景気減速が進む中で、IT化に伴う生産性の上昇についても、以前に比べ慎重な見方が広がりつつあるように窺われます。この点、最近になって米国の生産性統計が遡及改訂され、98年以降のGDP成長率、労働生産性が大幅に下方修正されました。その結果、1990年代後半に「ニューエコノミーの到来」というタイトルの下で議論されてきた生産性の上昇という事実自体、多少割り引いて考える必要が出てきています。ただ、私がここで申し上げたいのは、そうした生産性の上昇の有無や程度ではなく、何らかの理由により経済主体の期待が大幅に強気化したり、逆にそうした期待が下方修正される場合、金融政策はどの程度そうした期待の変化を調整できるのかという問題です。この点に関連して、FRBのグリーンスパン議長は7月の議会証言で「期待の大きな変動は人間の本性であり、金融・財政政策で景気循環をなくすことはできない」といった趣旨を強調して述べています。日本経済の現状とも照らし合わせて考えますと、このグリーンスパン議長の発言を、同じセントラル・バンカーとして興味深く聞いた次第です。

2.日本経済の現状

 以上、米国経済を中心に、世界経済の話をしてきましたが、このような世界経済の動きは当然、日本経済にも大きな影響を与えています。日本銀行は一昨日公表した金融経済月報で、政策委員会メンバーの基本的見解として、「生産の大幅な減少が雇用・所得面にも拡がっており、調整は厳しさを増している」という判断を明らかにしています。日本銀行は4月に「経済・物価の将来展望とリスク評価」という半年毎に作成するレポートを公表し、当時としてはかなり厳しい見通しを公表しましたが、その時の判断と比べても、現在の判断は厳しいものとなっています。

 我々が4月に描いていた標準的なシナリオは、以下のようなものでした。まず第1に、本年度上期中は海外経済の減速のもとで、輸出や生産の減少から全体として調整色の強い展開を辿る可能性が高い。第2に、本年下期には米国経済の調整進捗に伴い海外経済の減速による調整圧力が緩和される。第3に、調整圧力が緩和されるとは言っても、日本経済には様々な構造調整圧力が残っているため、景気が明確に回復するにはなお時間を要する。第4に、本年度中は需給ギャップが拡大し、物価には低下圧力がかかるというものでした。さらに、以上のような見通しを標準シナリオとして想定した上で、経済が下振れないし上振れするリスク要因として、米国をはじめとする海外経済やIT分野の動向、株価など資産価格の動向、不良債権処理など構造調整の影響、国民の将来に対する不安感という4つの要因を指摘していました。

 その後の半年間の経済の足取りを振り返ってみますと、只今触れました4つのリスク要因のうち、特に最初のふたつのリスク要因による悪影響が顕在化してきています。まず第1のリスク要因である海外経済は、先程も触れましたように、当時の予想を超えるテンポで減速しています。このため、輸出と生産は急激な減少を続けており、企業業績の悪化などから設備投資も減少傾向に転じています。こうした企業部門の調整は、失業率の上昇や賃金の減少などを通じて家計所得に波及しつつあります。これまで何とか景気を下支えしてきた個人消費も、弱めの動きを示す指標が増えてきています。第2のリスク要因として指摘した資産価格も、悪化方向で顕現化しています。特に、株価の下落は企業・家計のマインドに悪影響を与えているだけでなく、金融機関の経営体力を低下させています。

 こうした状況の下で、物価の下落傾向にもなかなか歯止めがかかっていません。かねて指摘されていますように、わが国の物価下落には、グローバルな競争圧力が強まる中で、本邦企業が生産コストの低い海外で生産した商品の輸入を拡大する動きや、流通の合理化、規制緩和など、供給サイドの要因も少なからず寄与しています。しかし、今年度に入ってからは、そうした供給サイドの要因以上に、需要の弱さに起因する物価下落の傾向が強まっているように思います。

3.3月以降の金融緩和措置

 日本銀行は、以上のような厳しい経済情勢を背景に、本年3月、物価が継続的に下落することを防止し、持続的な経済成長の基盤を整備するとの観点から、断固たる決意をもって、思い切った金融緩和措置を採用しました。また、8月には3月に採用した金融緩和措置の枠組みのもとで、もう一段の緩和措置に踏み切りました。さらに、9月のテロ事件発生後は資金決済の円滑と金融市場の安定を確保するために、金融市場調節の面でも万全の措置を講じました。現在の金融緩和措置の内容を整理しますと、次の4つにまとめることができます。

 第1に、金融調節の主たる操作目標をコールレートから日銀当座預金の残高という量に変更しました。そのうえで、日銀当座預金残高を3月にはそれ以前の約4兆円から5兆円に引き上げ、8月にはこれを6兆円に引き上げました。すぐ後で述べることに関連しますが、この「5兆円」や「6兆円」という目標は、その時点における当座預金需要の上限と判断したレベルであり、需要と無関係に供給目標を引き上げた訳ではありません。さらに9月には、米国テロ事件発生に伴って流動性需要が急激に高まりました。日本銀行はこれに臨機に対応して資金供給を増加させつつ、事件発生後に開いた金融政策決定会合において、「6兆円を上回る」ことを目標に、金額に上限を設けず潤沢な資金供給を行うこととしました。実際、当座預金残高は9月末にかけて12兆円強にまで増加しました。10月以降は中間期末を越え金融市場が落ち着いてきたこともあって、当座預金残高はピークより減少していますが、現在でもテロ事件発生前の6兆円を大幅に上回っています。このように、準備預金制度によって必要とされる水準(約4兆円)を遥かに上回る資金が供給されていることの結果として、コールレートはゼロ近辺で推移しています。

 第2に、以上申し上げたような金融調節の枠組みを、消費者物価の前年比上昇率が安定的にゼロ%以上となるまで続けることをコミットしました。これは先行きの金融緩和の継続を明確なかたちで約束し、より長めの金利にまで緩和効果が及ぶことを目的としたものであり、しばしば「コミットメント効果」とか「時間軸効果」と呼ばれています。

 第3に、円滑な資金供給のために必要と判断される場合には、長期国債の買入れを一定の歯止めのもとで増額することにしました。そして、日銀当座預金残高を6兆円に増額した8月には、この考え方に基づいて、長期国債の買入れをそれまでの毎月2回、月4千億円ペースから毎月3回、月6千億円ペースに増額しました。

 第4に、いわゆるロンバート型貸出制度を創設しました。これにより、金融機関は一定の条件のもとで、担保さえあれば必ず日銀から資金を公定歩合で借り入れることができます。資金繰りに対する安心感の醸成や市場金利の安定化などを通じて、金融緩和効果を強化するものです。そして、このロンバート型貸出制度の適用金利である公定歩合は2月と9月の引下げによって、現在は0.1%となっています。

4.金融緩和措置の効果

 日本銀行としては、以上のような金融緩和措置は、極めて思い切ったものであると思っています。実際、短期金利を事実上ゼロとすることも、また、将来にわたる金融市場調節を消費者物価を基準にコミットするということも、中央銀行の金融政策運営にとっては、「未踏の領域」に足を踏み入れるものです。それにもかかわらず、こうした政策を採用したのは、厳しい経済情勢を考えると、副作用を抑える工夫をしながらも、理論的には想定し得る何がしかの効果に期待し、「未踏の領域」に足を踏み入れることが必要であると判断したからに他なりません。踏み出した世界がどういう世界であるかについて、経済学の教科書に答えが書かれている訳でもありません。僅かに、ケインズがかつて理論上の概念として提出した「流動性の罠」という概念が今日、日本経済が直面している状態を描写するのに近いと思います。しかし、これとて「流動性の罠」から脱却するための金融政策上の処方箋を示している訳ではなく、そのような状況の下では、金融政策は有効性を失い、財政支出の拡大が必要となることを述べているに過ぎません。我々は日本銀行に与えられた金融政策という政策の手段の効果や限界について、決してドグマに陥ることなく、中央銀行としてなしうる最大限の努力を払っている積もりです。

 その結果、「未踏の領域」における金融緩和措置の効果や限界に関する我々の知識も、時間の経過とともに、豊かになってきました。以下では、現在の緩和措置を始める前に私が疑問や仮説として持っていたことと、半年の経験を経た現時点での暫定的な回答という形で、論点を整理してみようと思います。

当座預金残高

 第1の論点は、短期金利が事実上ゼロに到達してしまった後でも、中央銀行は当座預金の残高を自由に増加させることができるかどうかということでした。ゼロ金利時代の「札割れ」の経験を考えますと、日銀当座預金を本当に円滑に増加させることができるかどうかという点について、十分な自信はありませんでした。この点については、現在は、「金利の低下余地がなくなった状況の下では、当座預金は需要があれば増やせるが、需要がなければ増やせない」という、言ってみればごく当たり前の結論に到達しています。

 実際、本年5月上中旬には、日本銀行が0.01%のレートで資金を供給するオペを行っても、金融機関がそれに応じない、いわゆる「札割れ」が頻繁に発生しました。このような事態に対処するため、日本銀行はオペの取引金利の刻みをそれまでの0.01%から0.001%に引き下げ、オペ金利の低下余地を拡げました。その結果、その後は「札割れ」は発生していません。しかし、仮に将来、何らかの理由で「札割れ」が生じた場合、オペ金利の最低金利をもう一段引き下げ0.0001%にすれば、「札割れ」は回避できるのでしょうか。これは経済学的には興味あるテーマですが、私自身は懐疑的です。

 しかし、いずれにせよ、流動性需要が増大すれば、日本銀行はその限りにおいて当座預金残高を弾力的に増額できます。流動性需要が増加する理由は、決済システムの円滑な運行に対する不安感であったり、信用不安であったり、様々です。要するに、何らかのストレスの発生により予備的な需要が高まり、当座預金を多く保有するというインセンティブが高まる時には、当座預金の供給を増加させることはできます。実際、2000年問題を控えた99年末、あるいは日本銀行での決済の方法が即時グロス決済(RTGS)に移行した本年初には、そのような予備的な需要の増加に応えて当座預金の供給を大幅に増加しました。本年9月に、最大で12兆円強という当座預金残高を供給できたのも、テロ事件や大手小売企業の経営破綻、株価下落などによって金融機関の流動性需要が高まったこと、またそうした要因が9月中間期末を控えて増幅されていたことも理由として挙げられます。さらに、コール市場にオーバーナイトで資金を100億円放出しても、金利収入は1日当り僅か273円であり、手数料をはじめ取引に係る様々なコストを考えますと、市場に資金を放出するインセンティブがなくなってきていることも影響しているかもしれません。と言うのも、金利が極端に低下すると、金融機関サイドでは、たとえ無利子であっても当座預金という形で日本銀行に対し資金を預けることを選ぶようになります。そして、一旦、そのような行動が広がると、市場で資金を調達しにくくなるため、今度は自ら防衛的に当座預金を積み増そうという動きが広がるからです。

 このように考えますと、より重要な論点は、実質ゼロ金利の下でも日銀当座預金の供給を自由に増やせるかどうかというよりも、増やせた場合にそれがどのような意味を持つかということにあるように思います。テロ事件以降の金融市場の動きが示すように、実質ゼロ金利の下で流動性需要が増加すること自体は何らかの不安心理の高まりを反映しており、それ自体は決して好ましい動きではありません。また、経済活動の活発化に繋がるものではないかもしれません。しかし、流動性需要が増加した時に当座預金の供給を増加させることは、そうした不安心理を鎮める上で大変意味のあることであり、中央銀行の果たし得る大きな貢献のひとつだと思っています。

金利、為替相場、株価

 第2の論点は、日銀当座預金の量を大幅に増やすこと自体が金利、為替、株価といった資産の価格に影響を与えるかどうかということでした。というのは、これら資産の価格が有意に変化することを通じて、金融政策の効果が実体経済に及ぶからです。勿論、日銀当座預金の量を増やすと、オーバーナイト金利は低下します。しかし、オーバーナイト金利が一旦ゼロに到達すると、金利の変化によって資産の選択を変えるというルートはなくなります。従って、金融資産の価格が変化するとすれば、ノーリスク・ノーリターンの日銀当座預金から、リスクはあるが少しでもリターンの生まれる資産に運用形態を変化させるというルートであるか、あるいは、量の増加が先々のインフレ期待を変化させるというルートである筈です。これらのルートを通じる効果は、理論的、定性的には考えられます。

 そうした観点から3月以降の経験を振り返ってみますと、まず短期金利は当然のことながら、潤沢な資金供給とロンバート型貸出の金利安定化効果から、事実上ゼロ金利にまで低下しました。中期ゾーンの金利も、強力な時間軸効果から、ゼロ金利政策の頃を下回るレベルまで低下しました。しかし、長期金利はこれとは対照的な動きを示しており、3月の緩和前と比べると、むしろ若干上昇しています。また、8月に長期国債の買入れを増加させた後も低下していません。やや仔細に日々の長期金利の動きをみると、どちらかと言えば、補正予算の行方など国債の増発に繋がるようなニュースに敏感に反応するような市場地合いとなっています。他方、株価は、3月の金融緩和後には一旦上昇しましたが、5月以降は景気の悪化や企業収益の下振れを反映する形で、ほぼ一貫して下落し、8月の金融緩和にも反応しませんでした。最後に、為替相場ですが、米国の景気が予想以上に弱くなったこともあり、3月との比較では円安方向に進んでいる訳ではありません。

企業の資本市場調達

 第3の論点は、CPや社債など資本市場を通じる資金調達環境に与える影響の評価です。銀行の信用仲介機能が低下している中で、資本市場が信用仲介機能を果たすことができれば、金融緩和の効果を浸透させる重要なルートとなります。この点について言えば、3月の金融緩和措置の後、資金調達環境は好転しています。特に、CPの発行残高は既往ピークの水準を続けていますし、社債残高も前年比2~3%程度の伸び率を維持しています。CPや社債の信用スプレッドも縮小しており、投資家の信用リスクテイク姿勢が強まっていることを示しています。また、そうした信用スプレッドの低下を背景に、企業の発行意欲も強まっています。ただ、そもそもCPや社債を発行できる企業は、相対的に格付の高い企業が中心であり、資本市場調達のできない低格付企業群まであわせて、緩和効果があまねく浸透しているという訳ではありません。

銀行の貸出行動

 第4の論点は、銀行の貸出行動に与える影響です。この点については、残念ながら、3月以降の金融緩和措置によって、銀行の貸出姿勢が大きく変わったようには窺われません。景気が悪化し、資金需要が冷え込む中で、貸出はむしろ減少幅を拡大しているのが実情です。一方、マネーサプライ、すなわち個人や企業の保有する預金の伸びは前年比+3%前後であまり変わっていません。預金の伸びが変らない中で、銀行貸出が減るということはその他の資産運用が増えていることを意味しています。過去1年間の動きをみますと、増加したのは、国債と日銀当座預金という、ともに信用リスクのない資産への運用です。

 それでは、何故、貸出は増加しないのでしょうか。資金需要が相対的に弱いということを踏まえたうえで、金融機関の貸出行動に即した説明を試みますと、この点については、次のようなことが言えると思います。まず景気が悪化している時は、企業の信用度も全般的に低下します。その分、銀行は貸出に際して厚めのスプレッドを求めなければ採算が悪化します。しかし、企業は収益力が落ちていますので、高いスプレッドでお金を借りても採算が合うような事業は減っています。その場合、通常の金融情勢であれば、スプレッドが拡大しても、金融緩和により銀行の調達金利が低下することによって、企業の借入れ金利水準は低下し、やがて、貸出は増加することになります。しかし、現在は金利が実質ゼロの水準に到達し、これ以上、銀行の調達金利は低下し得ない状態になっています。加えて、銀行は過去に行った貸出においても、多額の不採算貸出や不良債権を抱えています。そうした不採算の貸出を長く抱えているということは、期間収益では不良債権の処理が十分にできない可能性が高いことを意味します。もちろん、銀行は再生が可能な企業については支援を行って企業の信用力を高め、それによって貸出採算の改善を図るよう努力しています。しかし、再生の難しい企業も少なからず存在します。また、経済や産業の構造改革を進めていくということは、全体としてみれば、銀行が不採算貸出や不良債権を減らしていくことを意味します。従って、マクロ的にみますと、経済や産業の構造改革のプロセスでは、銀行の貸出や資産規模が縮小すること自体は、ある程度止むを得ない面があります。また、銀行が信用コストを含めて採算重視の貸出運営を行っていくことは、金融システムを健全化していくための必要条件です。

 以上、3月の金融緩和の枠組みによる金融緩和の効果について議論してきました。一言で述べますと、日銀は金融市場に対し文字通り溢れんばかりの流動性を供給し、CPや社債の発行市場等一部では望ましい効果を発揮しているが、全体としてみれば、金融システムの外側にいる企業等にはその効果が浸透していないということだと思います。このため、経済活動は改善せず、物価の下落傾向にも歯止めがかかっていません。このような状況をどのようにして変えていくかということが、現在、日本経済にとっても、また日本銀行の金融政策運営にとっても大きな課題となっています。

5.インフレーション・ターゲティング

 この難しい課題に対する私自身の考えは最後に申し上げたいと思いますが、最近よく議論されるインフレーション・ターゲティングや物価水準ターゲティングは今申し上げた日本経済の問題を解決する答えになるでしょうか。

 この問題を考えるために、インフレーション・ターゲティングとは何であるかをまず説明したいと思います。私は、インフレーション・ターゲティングは、もともとは金融政策運営の透明性を向上させるための仕組みとして導入されたものであると理解しています。ただ、その場合も、インフレーション・ターゲティングが透明性を高めるための唯一の方法であるとは思いません。透明性の向上を図る上でどのような方法が望ましいかは、それぞれの国の置かれた状況に即して判断するしかないと考えています。一例を挙げますと、米国は本年に入って急速かつ大幅に金利を引き下げましたが、この間、消費者物価上昇率は3%前後で推移し、目立った変化はありませんでした。仮に米国がインフレーション・ターゲティングを採用していれば、この間の金融政策の経路、ひいては経済の動きは変っていたでしょうか。あるいは、金融政策運営の透明性が増していたでしょうか。私自身はやや懐疑的です。物価の動きは非常に重要な経済指標のひとつですし、日本銀行を含め多くの中央銀行の場合、金融政策の目標は物価の安定ですが、物価指数という単一の指標の動きだけで、金融政策運営の判断や説明をすることは難しいように思われます。

 このように言ったからといって、私はインフレーション・ターゲティングに意味がないと言っている訳ではありません。日本銀行が現在、インフレーション・ターゲティングの採用は適当でないと考える最大の理由は、現在の金融経済状況の下では、金融政策だけで物価の下落を防止することはできないからです。先程も述べましたように、日本銀行は、金利引下げというオーソドックスな政策手段を使いきった後も、日銀当座預金の量を大幅に増やす金融調節を行っていますし、時間軸も活用しています。しかし、そうした精一杯の努力にも拘わらず、経済活動は活発化せず、物価の下落は止まりません。その意味で、まずは経済を正常な状況に復帰させることが大前提になります。日本銀行が昨年秋に公表した物価レポートでも述べていますように、そのような正常な状況に復帰した時には、インフレーション・ターゲティングの採用は検討課題のひとつであると位置付けています。日本銀行は本年春以来、物価の問題について、外部の学者と日本銀行との相互理解を深めることを目的として3回にわたって「物価に関する研究会」を開催しました。日本銀行としては今後ともこのような研究の成果も活用しながら、インフレーション・ターゲティングの問題を含め、金融政策運営における物価安定の意味について勉強を続けていく考えです。

6.日本銀行はどのような資産でも購入すべきか?

 ただ、現在わが国でインフレーション・ターゲティングという名前の下に議論されていることは、海外で議論されているような透明性向上の手段としてのインフレーション・ターゲティングとは少し異なるように思います。敢えて言えば、「日本銀行はどのような資産でも購入し、目標インフレ率を達成すべきである」という主張を、インフレーション・ターゲティングという言葉で呼んでいるようにも感じられます。この点に関し、現在インフレーション・ターゲティングの採用を積極的に主張する論者は、日銀があらゆる資産を購入すれば、やがてはインフレが起こる筈であるという議論を展開しています。長期国債の買切りオペの増額や外貨資産、民間債務等の買入れの是非について、決定会合の議事要旨や同僚の政策委員会メンバーの講演、あるいはスタッフの論文でも少なからず触れられていますので、ここでは少し観点を変えて、ふたつのことを申し上げてみたいと思います。

 第1の論点は、目的は何かということです。確かに中央銀行がどのような資産であるかを問わずいくらでも買い続ければ、最後はインフレが起こる筈であるというのは、ほぼ定義により、その通りかもしれません。しかし、我々の目的はインフレを起こすことにある訳ではなく、あくまでも持続的な経済成長を実現することが目的です。過去の日本経済の動きをみると明らかですが、物価がまず上がって、それから景気が良くなったり、経済成長率が高まっている訳ではありません。過去起きたことは、まず景気が良くなり経済成長率が高まって、それから物価も上がるという順序です。従って、我々が考えるべきことは、どのようにして景気を良くするか、言い換えれば、企業が積極的に投資を行い、家計が活発に消費をするために、何をすべきかということです。

 第2の論点は、民主主義社会における中央銀行のあり方に係る論点です。中央銀行が購入する資産の範囲に明示的な制約があるかと言えば、法律的な制約以外にはありません。日銀の場合、金融調節の手段として購入し得る資産の範囲は、日銀法に規定されており、例えば、国債や手形は購入できますし、現に購入していますが、株式は購入できません。不動産は営業用としては勿論購入できますが、金融調節の手段としては購入できません。それでは、そうした法律上の制約からひとまず離れて考えたみた場合、中央銀行はどのような資産を、購入するべきなのでしょうか。

 先進国の中央銀行をみると、通常、株式や社債をオペの対象にしていません。これには、多分ふたつの理由が関連しているように思います。

 第1の理由は、株式や社債は国債や短期の複名の手形—銀行と企業の両方の信用でカバー—に比べ、信用リスクが高いからです。中央銀行が株式や社債をどんどん購入しますと、儲かることもありますが、確率的には損失も発生します。損失が発生しても、中央銀行は無利子で負債を発行できますから、痛みは直接には感じません。しかし、損失は国庫への納付金の減少という形で納税者の負担となって跳ね返ります。従って、中央銀行は安全な資産を購入することによって通貨を発行することが求められている訳です。

 第2の理由は、株式や社債を購入する場合、どの企業の株式や社債を購入するかを決定しなければなりません。中央銀行が民間の銀行に比べそうした個別企業の判断に優れている訳ではないことを考えますと、中央銀行のオペは、資源配分に対し極力中立的である方が望ましいという判断が生まれてくるように思います。

 逆に、中央銀行がアグレッシブに色々な資産を購入するというのは、金融政策という形はとりながらも、ロス負担、つまりは納税者の負担を覚悟したり、ミクロ的な資源配分に関わるという意味で、実質的には中央銀行が財政政策の領域に近いことを行うことを意味しています。しかし、中央銀行がそうしたことを行うことが許されるかどうかという問題があります。民主主義国家における一般的なルールは、流動性の供給という機能は金融政策という形で独立した中央銀行に委ね、他方、国民の税金の使途は選挙民から選ばれた議員から構成される国会における予算承認のプロセスを通して、財政政策という形で行うということであると思います。勿論、中央銀行の資産も最終的には経済の状況や金融市場の状況に規定され、絶対的な基準がある訳ではありません。現に、米国では近年の財政黒字を背景に、国債がやがてなくなることを前提に、オペで購入すべき資産についての研究を行っています。ただ、中央銀行に対し、どのような資産でも購入するということを求める場合には、そして、それが大規模なものになればなるほど、そうした資産の買入れは実質的には国会の議決を経ない財政政策に近い性格を有するということを明確に認識する必要があります。そのことを認識した上で、経済の状況に照らし、その是非を考えるというのが議論の筋道であるように思います。

 なお、この点に関連して、「中央銀行に与えられる金融政策の独立性は、手段の独立性であり、目的は政府が定めるべきである」という主張も聞かれます。そして、政府が定めるべきとされている目的としてインフレ目標のことを意味するケースが多いようです。しかし、どの国の中央銀行でも、金融政策の目的は法律ではっきり規定されており、中央銀行が勝手に目的を決めている訳ではありません。日本銀行の場合も、日銀法において「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資する」という目的が与えられています。多くの中央銀行の場合、金融政策の主たる目的は物価の安定とされていますが、この目的をインフレーション・ターゲティングという形で具体的に数値化するかどうかという点については、対応は分かれています。米国連銀(Fed)や欧州中央銀行(ECB)はインフレーション・ターゲティングを採用していません。一方、例えば、英国では政府がインフレ目標を1997年に2.5%に設定し、これをずっと維持しています。ただ、この場合も、英国では中央銀行であるイングランド銀行が機械的に金融政策を運営している訳ではなく、インフレ率が目標を上回っていても政策金利を引き下げたり、逆に目標を下回っていても政策金利を引き上げることもあるなど、柔軟な運営をしています。そして何よりも、インフレ目標を設定する英国の政府自身にも大きな責任が発生することを意味します。因みに、英国の大蔵省のマンデートを説明した公表物をみますと、財政政策については、中期的に安定した財政運営を確保しながらも、短期的には金融政策運営をサポートすることが求められています。もしわが国において、政府が日銀法の規定を超えて金融政策の目的を定めるかどうかという議論をするのであれば、その目的とは何なのか、それを実現するために必要な政策の整合性をどのように確保するのか、財政政策を含めて政府の施策は目的実現のためにいかなる協力をする用意があるのか等々を議論しなければならないと考えます。

7.結論

 以上、色々と申し上げてきました。最後に、今日の私の話の結論を兼ねて、現在のような厳しい経済状況から脱却するためには、政府や日本銀行は何をすべきかについて、簡単に申し上げたいと思います。

 まず第1に申し上げたいことは、物価の下落を防止し、経済をできるだけ早く持続的な成長軌道に復帰させる必要があるという目標を政府も日本銀行も完全に共有しているということです。日本銀行は消費者物価の前年比上昇率が安定的にゼロ%を上回るまで現在の金融市場調節方式を続けることを約束しています。

 第2に、日本銀行は経済に対し十分な流動性を供給する体制を既に組み込んでいます。3月に採用した金融緩和の枠組みの下では、ゼロ金利を達成するのに必要な量以上に当座預金を供給している訳ですから、経済全体としてみれば、流動性の制約からファイナンスできないという事態は生じません。あまり指摘されることはありませんが、現在、マネタリ−ベースの伸びは1931年に高橋財政が始まった後の時期を遥かに上回るテンポで増加しています。さらに、今後、需要が高まれば、日本銀行が採用している現在の枠組みの中で、当座預金目標を容易に引き上げることができます。日本銀行の採用しているこのような金融緩和の枠組みは、政府が進めようとしている構造改革と、それによって創出される需要に、金融面から大いに貢献するものであると思っていますし、またそうなることを強く期待しています。

 それでは、需要を創出するためには、何をすれば良いのでしょうか。この点は、既に経済財政諮問会議でまとめた改革先行プログラムや改革工程表に述べられていますが、私としては以下の4点を強調したいと思います。

 第1は、競争的で魅力的なビジネスの環境を作り、それを通じて、企業の設備投資を引き出していくことです。そのためには思い切った規制の緩和や税制の見直し、特殊法人の改革を進めることが重要です。

 第2は、年金など社会保障制度を見直すことによって、家計の将来不安を和らげ個人消費を喚起していくことです。

 第3は、企業の過剰債務問題とその裏側にある銀行の不良債権問題の解決を図っていくことです。不良債権は、これを処理すれば景気が直ちに回復するというものではありません。しかし、多額の不良債権が残り、信用仲介機能が十分には機能しない状況の下では、経済が持続的に成長することは期待できません。今回、改革先行プログラムにおいて、不良債権処理に向けて、具体的な方向性が打ち出されましたが、こうした方針に沿って処理が進むことを期待しています。

 第4は、財政政策の果たし得る役割です。ケインズは「流動性の罠」に陥った状況の下では、金融政策は有効性を失い、財政政策が必要であると主張しました。しかし、政府債務が高い水準に達している現在の日本のような状況の下で、財政政策を活用する余地は限られているということもおそらく事実でしょう。ただ、限られているだけに、思い切った工夫をこらして頂きたいものです。経済財政諮問会議の議事録をみると、メンバーの方々が民間需要の創出に繋がるような財政支出の内容の見直しが不可欠であることを主張しておられます。どのような見直しが如何にして民需刺激の効果を持ち得るのかという分析を踏まえ、大胆に実行に移して頂きたいと思います。また、国際的には、不況期における財政のあり方として、いわゆる自動安定機能(ビルト・イン・スタビライザー)が働く余地を残しておくという発想が強い訳ですが、この点はどう考えるべきでしょうか。

 日本銀行としては、日本経済の安定的かつ持続的な成長の基盤を整備するため、不良債権問題の処理に伴う問題を含め、今後ともわが国の中央銀行としてなし得る最大限の努力を続けていきたいと考えています。

 ご清聴ありがとうございました。

以上