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最近の金融政策運営について

埼玉県金融経済懇談会における須田審議委員挨拶要旨

2001年11月 5日
日本銀行

[目次]

はじめに

 日本銀行審議委員の須田美矢子です。本日は、お忙しい中、日本銀行の金融経済懇談会にご出席頂きまして誠にありがとうございます。最初に、私から、最近の金融政策運営の考え方を説明させて頂きます。

1.現在の金融政策運営

1−1.現在の金融政策運営の特徴点

 日本銀行は、経済のデフレ的な傾向を阻止したいという思いを一段と強め、本年3月に金融緩和政策を大幅に強化しました。その特徴点は次の2つです。

 第1に、短期金融市場に対して資金を非常に豊富に供給していることです。この結果、短期金利はゼロ%近くまで低下しています。

 第2に、非常に豊富な資金の供給によって短期金利がほぼゼロ%となるという状況を、消費者物価の前年比上昇率が安定的にゼロ%以上となるまで続けると約束していることです。

1−2.豊富な資金供給

 第1の特徴点は「豊富な資金供給」ですが、まず、日本銀行が資金を供給するということが皆様の経済活動とどのような関係があるのか、という点からお話しします。

 私たちは毎日様々な取引をしています。何か取引を行うと債権・債務関係が生まれます。その解消が「決済」です。決済とは、文字通り、「支払を済ませて決まりをつける」ことです。「決まりをつける」ためには、誰もが「それが手に入るならば交換に応じても良い」、「それによって期待通りの金額を確実に手に入れることができる」と考える手段をやり取りする必要があります。

 その一つは銀行券であり1、もう一つが、金融機関が中央銀行に預ける当座預金です2。日銀当座預金は、いつでも、額面で、銀行券に交換できます。皆様にとっての銀行券と同様に、日銀当座預金は、金融機関の間の決済において、「それが手に入るならば交換に応じても良い」と考えられている決済手段です。

 日銀当座預金には主に3つの役割があります。第1に、決済手段としての役割です。これは、個人や企業が金融機関に保有している要求払預金が決済手段としての役割を果たしていることと同様です。第2に、金融機関が個人や企業に支払う銀行券の支払準備としての役割です。これも、個人や企業がそのお金が必要になるまで銀行に預けておくことと同じです。第3の役割は、前の2つとは異なり、日銀当座預金に特有のものです。「金融機関はお客様から預かった預金の一定割合を日本銀行に預けなければならない」と法律で決められています。こうして預けられた日銀当座預金が準備預金です。これが第3の役割です。

 日銀当座預金はどのような要因で増えたり減ったりするでしょうか。一つは、個人や企業との間で銀行券を受け払いすることです。皆様が銀行券を引き出す舞台裏では、金融機関が日銀当座預金を取り崩して銀行券に交換しています。もう一つは、国庫金の受け払いです。税金の納付を例にとります。皆様がご自身の預金口座から引き落として支払った税金は、最終的に、日本銀行の中にある金融機関の当座預金から政府の当座預金に振り替えられ、国に納められます。このように、金融機関全体の日銀当座預金残高は、銀行券や財政資金の受け払いによって増減します。

 ところで、日銀当座預金は、いつでも、額面で、銀行券に交換できる決済手段ですから、当然のことながら無利息です。それでも、金融機関は、様々な支払に充てるために、あるいは、準備預金を保有するために、日銀当座預金に残高を保有します。通常であれば、金融機関は、無利息である日銀当座預金の残高を必要最小限に止めるように調整するとみられます。実際の残高がこうした目処を下回っている場合には、短期的な対応として、他の金融機関が持っている余裕資金を借り受けることになります。金融機関同士が資金を貸したり借りたりする場所が短期金融市場です。

 金融機関が必要とするだけの当座預金残高を保有できない状態が放置されますと、短期金融市場から資金を借り入れる需要が増えるため、金利上昇圧力が強まります。逆に、金融機関が必要とするよりも多くの当座預金を保有すると、余った資金が運用されるようになりますので、金利低下圧力が強まります。そこで、日本銀行では、金融機関との間で、手形や国債を売買することなどによって、金融機関が保有する当座預金の残高を、金融機関全体でみて日々数千億円から数兆円の規模で調節しています。これが「金融調節」です。日本銀行は、日銀当座預金という資金の量を調節することを通じて、短期金利に影響を与えています。短期金利の動きは、金融機関が企業や個人に貸し出す場合の金利などにも波及し、ひいては実体経済活動に影響を及ぼすことになります。

 実際に、日本銀行は、本年3月以降、極めて豊富に資金を供給しています。では、どの程度「豊富」なのでしょうか。それを分かって頂くために、まず、日銀当座預金残高の動きをお話しします。現在、銀行と信用金庫は、企業や個人などから約600兆円強の預金を預かっていますが、このうち4兆円強を準備預金として日銀当座預金に預けなければなりません。こうした中で、日本銀行は、本年3月に、当座預金残高を5兆円程度とすることを目標にして金融調節を行うことを決めました。その後、8月には、目標額を6兆円に引き上げました。

 さらに、9月以降は、目標額を「6兆円を上回る」と変更しました。これは、米国テロ事件の金融資本市場や実体経済への影響を見守る必要があるほか、中間決算期末などを控え、支払準備を増やす姿勢が強まる可能性がある、という状況に対応した措置です。この結果、金融機関は必要とするだけ当座預金残高を保有することができるようになっています。実際に、10月中の日銀当座預金残高は、7.5兆円から10.9兆円の間を日々変動し、平均では9兆円弱程度で推移しました。

 この結果、金利の動きをみると、9月以降は、期日が翌日となるオーバーナイト物取引の金利は、0.001~0.003%と、史上最低水準で推移しています。因みに、99年2月から昨年8月まで、所謂ゼロ金利政策が実施された期間でも、その最低値は0.02%でした。現在の金利水準はその十分の1程度です。現在は、「超ゼロ金利」とでも呼べるような状況です。

  1. 正式には、銀行券と貨幣(コイン)を合わせて「現金通貨」と称しますが、以下では単に銀行券とします。なお、日本銀行法第46条第2項に、「日本銀行が発行する銀行券は、法貨として無制限に通用する」と規定されていることから、日本銀行券には強制通用力があります。
  2. これらの決済手段は、「ファイナリティ(finality)のある決済」と呼ばれることがあります。「ファイナリティのある決済手段」とは、人々の間の債権・債務関係を決済する際に、何ら条件が付されることなく、そのやり取りによって最終的に決済が完了したと信じられるような決済手段のことです。
     なお、日常生活では、民間金融機関の普通預金や当座預金も決済手段として使われています。例えば、何か品物を買って、その代金を銀行振込で支払う場合に、皆様は自分が取引している金融機関で振込みの手続きをとった時点で「支払いを済ませて決まりをつけた」と思われるかも知れません。しかし、実際には、相手先の預金口座が異なる金融機関にある場合には、民間金融機関の間の債権・債務関係を決済する必要があります。この決済は日本銀行の当座預金の移動というかたちをとることになります。

1−3.将来に向けた約束

 次に、現在の金融政策運営のもう一つの特徴点である、「消費者物価の前年比上昇率が安定的にゼロ%以上となるまで続ける」という約束について、その意義をお話しします。

 企業や個人は、現在の経済状況だけではなく、将来の経済状況やそれに影響を与え得る経済政策にも配慮しながら、現時点の投資や消費を決定します。貯蓄と投資を結び付ける金融資本市場は、現在と将来の間で資源を配分する機能を果たします。こうした企業や個人の行動を踏まえますと、経済政策は、現在だけではなく、将来の経済行動に対しても働き掛けることができる筈です。

 例えば、短期金融市場には、3か月物や6か月物といった、少し期間が長めの、ターム物といわれる資金の取引があります。これらの金利は、基本的には、現在から3か月後や6か月後までの間に、(期日が翌日の)オーバーナイト物の金利がどのように推移するか、という予想に基づいて決まると考えられます。

 日本銀行は、現在、「消費者物価の前年比上昇率が安定的にゼロ%以上となるまで現在の金融調節を継続する」と約束している一方、年2回(4月、10月)、経済や物価の先行きに関するやや長めの評価を取り纏め、公表しています。本日、お手許に先週10月29日に公表した最新のレポートをお配りしています。このレポートの中で、参考として、先行きの物価上昇率や成長率についての政策委員の見通しを示しています。最新分では、消費者物価は、今年度、来年度とも、前年比1%程度のマイナスが続くという見通しになっています。金融市場では、これをみて、「現行の量的緩和が長期化する」という見方を強めています。このような短期金利の見通しが浸透するほど、それを反映して決まるより長い期間の金利は極めて低い水準に止まることになります。私は、この約束が金融緩和効果を非常に強めていると考えています。

1−4.金融緩和の効果

 これまで、最近の金融政策運営の基本的な考え方をお話ししました。しかし、現時点では、こうした金融緩和の効果が、金融システムの外側にいる企業や家計にまで十分に浸透し、前向きな投資や消費活動に結びついて行くことを展望することは難しい状況です。

 では、日本経済が低迷を続けている理由は何でしょうか。一部の市場関係者は、「日本銀行が資金の供給量を増やせば実体経済活動が活発になり一般物価が上昇する」と主張しています。こうした議論が暗黙のうちに前提としている世界は、(1)貸出の潜在的な需要は大きい、(2)しかし、金融機関は、金融市場全体の資金量が足りないために、貸し出したいと思っていても十分な量を貸し出すことができない、というものです。したがって、中央銀行が準備預金を大きく上回るほど大量の資金を金融機関に供給すれば、貸出が増加し、ひいては、実体経済活動が活発になるのではないか、と期待する訳です。

 では、現在、こうした伝統的な金融緩和のメカニズムがどの程度働くのでしょうか。私は、今日、日本経済が直面している金融面の問題は、金融市場に資金が足りないことではなく、むしろ、短期金融市場の中で、あるいは、短期金融市場と他の市場、例えば株式市場や貸出市場などとの間で、資金が必ずしもうまく配分されていないことではないか、と考えています。すなわち、現在、家計や、そして、家計の資金を預かり、代わりに投資する機関投資家や金融機関などの資金は、「安全地帯」を目指しています。そうなると、株式市場では株式の買い手が減るために株価が低迷することになります。また、このように安全志向の資金が集まる短期金融市場や債券市場でも、全体としては豊富な資金があるにもかかわらず、流動性リスク、信用リスク、あるいは、価格変動リスクをできるだけ回避しようという選別が強まることになります。この結果、例えば、社債市場では、格付けが高い銘柄と低い銘柄の間で流通利回りの乖離が大きくなります。

 リスクを避ける姿勢が強まっている理由は、資金の調達、運用の両面にあります。まず、調達側(例えば企業)の問題としては、投資家が望むような期待収益率を実現できないことが指摘されています。「釈迦に説法」のようで恐縮ですが、株式が多くの人々から買い求められるためには、各企業が収益の持続的な増加を実現するビジネスモデルを提示し、それが多くの人々の信認を得る必要があります。現在、政府は規制緩和にも懸命に取り組んでおられますが、これは、企業が一段と革新的なやり方で製品やサービスを提供し、新しい事業を創り出すことを容易にすることを狙ったものであると理解しています。

 他方、資金を運用する側(例えば金融機関)では、現在、株価の下落などを背景に、リスクを取る余裕が乏しくなっていることが指摘されています。また、現在、不良債権問題をはじめとして、様々な構造調整圧力が残っていることや、米国を始めとする海外経済やIT関連分野の調整がどうなるのかなど、先行きの不透明感が高まっています。先行きの不確実性の増大は、家計を含む投資家の安全志向を一段と強めています。信用リスクや価格変動リスクをより固めに見込むようになるため、これらを織り込んだ後の期待収益率(リスクを取る見返りに得られると思われる報酬)は一段と低くなります。

 万が一、こうした状況が続けば、たとえ日本銀行が豊富な資金を供給しても、その資金が短期金融市場から流れ出て、経済活動が活発化し、物価の下落に歯止めをかけることは難しくなります。このため、日本銀行では、投資家がリスクを取る姿勢の変化を注目してきました。現在、豊富な資金を供給している結果、リスクが低い資産の金利は著しく低下しています3。そして、最近では、機関投資家や金融機関の間で、安全だがリターンが非常に低い資産の一部を、多少のリスクはあるが期待収益率がもう少し高い資産へと振り向ける動きがみられるようになってきました。例えば、このところ、機関投資家などが、為替リスクをヘッジしたうえですが、米国債などの外債を積極的に購入しています。今後とも、金融経済情勢の変化に目を凝らしながら、大幅な金融緩和の効果を注意深くみて参りたいと思います。

  1. 3特に、短期金融市場のオーバーナイト物金利は、9月以降、0.001%~0.003%まで低下しています。この金利水準で100億円程度を運用しても、最低限のオペレーショナル・コスト(人件費などの固定費は含まれない)さえ賄えません。昨年8月まで続いたゼロ金利政策当時には僅かながらプラスのリターンを得ることができましたが、現在のように千分の1%で資金を運用すると、儲けるどころか、逆に損することになります。

2.インフレ・ターゲティング

 このように、金融市場では、極めて緩和的な環境が続いています。しかし、現在、日本経済は厳しい調整過程を辿り続けており、物価は下落し続けています。こうした状況の下で、今後とも、「徹底的に金融を緩和すれば、景気が良くなり、物価の下落にも歯止めが掛かるのではないか」という考え方はなくならないように思います。

 例えば、一段と強い金融緩和を求める議論として、「現時点で2年後に消費者物価の前年比上昇率を1~3%の範囲にすることを目標にして金融政策を運営するべきである」という主張がみられます4。これは、「インフレ・ターゲティング」と呼ばれる政策運営です。

 そこで、以下では、現在の日本銀行の金融緩和政策をインフレ・ターゲティングと比較したいと思います。

  1. 4なお、最近、インフレ率ではなく、ある物価水準を「目標値」とする政策運営のスタイルを推す意見が聞かれるようになりました。これは、「物価水準ターゲッティング」と呼ばれていますが、現在、海外で採用されている事例はありません。物価水準ターゲティングは、インフレ・ターゲティングと異なり、「インフレ」という言葉が含まれていません。ところが、目標とする物価水準を国民が広く理解できるように決めようとしますと、結局のところ、まず望ましいインフレ率を念頭に置いて、「それが実現すれば物価水準はこのようになる」といったことを考えざるを得ないのではないか、と思います。また、例えば、現在の物価水準を目標値として設定する場合に、来年度も物価水準が下落すれば、その分だけ目標値というハードルは高くなります。先行きのいずれかの時点で、その分を取り戻さなければなりませんので、経済の変動を過度に大きくするリスクがあります。

2−1.インフレ・ターゲティングとの共通点

 始めに、インフレ・ターゲティングとは何か、という点を簡単に説明します。

 一般に、実体経済が回復した後で、インフレ率が上昇を始めます。例えば、わが国の過去20年間を振り返りますと、「実質経済成長率の伸びが高まってから1~2年ほど経った後、インフレ率が前年よりも高くなる」という関係がみられます。そこで、実体経済が回復し始めますと、「先行きにインフレ率が上昇する可能性が高い」という予想が生まれることになります。また、金融政策の効果が実体経済活動に及ぶまでには時間がかかります。したがって、金融政策が経済に影響を及ぼし、最終的に物価に影響するまでには、長い時間がかかります。このため、先進国の中央銀行は、「先行きの金融経済情勢を見通しながら金融政策を運営することが重要である」という考え方を共有しています。

 中でも、英国、カナダ、ニュージーランドなどのように、インフレ・ターゲティングを採用している国の中央銀行では、(1)インフレ率が高いのか低いのかを判断する基準、すなわち「『物価の安定』とは具体的にインフレ率でいうと何%なのか」という点を明らかにしたうえで、その達成を金融政策の目標に位置付けています。さらに、(2)中央銀行は、先行きのインフレ率の「見通し」を公表し、これと「目標値」との関係に対応して、金融政策を運営し、政策運営の透明性を高めています。

 ご注意頂きたいことは、インフレ・ターゲティングの下では、インフレ率の実績値ではなく、中央銀行による「見通し」と「目標値」を比較しながら、金融政策が運営されているという点です。したがって、たとえ現実のインフレ率が目標値を下回っている場合であっても、中央銀行が「先行きインフレ率が上昇する可能性が高い」と予想すれば、現時点で金融引締めに転じることがあり得る訳です。

 次に、こうしたインフレ・ターゲティングの考え方と、現在の日本銀行の金融政策を比較したいと思います。

 日本銀行も、海外の中央銀行と同じく、「金融政策は先を見て運営することが重要である」ということは十分に承知しています。それを承知のうえで、「デフレは許容しない」という強い決意を明らかにするために、敢えて、『予想』ではなく、『実際に』インフレ率が安定的にゼロ%をこえるまで、非常に豊富な資金の供給によって短期金利がほぼゼロ%となるという状況を続けると約束しています。

 この約束が持つ意義をより明らかにするために、インフレ・ターゲティングに当てはめて考えます。先ほど、「実体経済が回復した後で、インフレ率が上昇を始める」とお話ししましたが、こうした時間のズレを踏まえますと、インフレ率が安定的にゼロ%をこえるような経済状況においては、将来のインフレ率の予想値はプラスになっていると考えられます。言い換えると、日本銀行は、インフレ率の「予想」が、ゼロ%ではなく、ある程度のプラスになるまで、現在の超緩和的な金融調節を続けると宣言していることになります。

 このような理由から、私は、現在の金融政策が、「デフレを許容しない」という強い決意を具体的な数値で示したものであり、インフレ・ターゲティングと同様の緩和効果を金融資本市場にもたらしている、と考えています。

2−2.インフレ・ターゲティングとの違い

 インフレ・ターゲティングを採用している国では、消費者物価指数(ないしはその類似の指数)の前年比についての目標値を公表し、その目標値の達成を目指す時期を明らかにしています。これに対して、日本銀行は、インフレ率が安定的にゼロ%以上となるまで現在の政策運営を継続すると宣言していますが、それを達成する時期を現時点で示すことは非常に難しい、と考えています。このため、インフレ・ターゲティングに比べて不十分であると受け取られるかも知れません。

 しかし、それは、現在、金融政策だけで物価の下落を食い止めることが難しいという厳しい経済状況を反映しているものであり、日本銀行が為すべきこと、独自の判断でできることを怠っている訳ではありません。そこで、次に、政策手段を巡る論点についてお話しします。

2−3.政策手段を巡る論点

 インフレ・ターゲティングが人々のインフレ予想を通じて有効に機能するためには、中央銀行が目標値を達成するための十分な手段を持っていることが不可欠です。海外では、90年代にインフレ・ターゲティングを採用する国が増加しましたが、その目的はインフレの抑制です。それは、決して偶然ではなく、中央銀行がインフレを抑制するための手段を十分に持っていると考えられているためです5

 ところが、仮に、わが国が、現時点でインフレ・ターゲティングを採用することになれば、海外のケースとは正反対に、インフレ期待やインフレ率の引上げが目標になります。インフレ・ターゲティングを採用している国について、実際にインフレ率の推移を振り返ると、必ずしも目標値・範囲に収まっている訳ではなく、上にも、下にも離れていることも多いのも事実です。しかし、仮に、現時点で、わが国がインフレ・ターゲティングを採用すると、現在、金融政策だけで物価の下落を押し止めることが困難であることから、目標値を達成できない状況が続く可能性が高まります。いずれかの時点で、「約束を守れ」という声が強まり、それを達成するためにリスクや副作用の大きい政策手段をとらざるを得ないという事態に至る可能性が大きいように思います。

  1. 5なお、80年代から90年代にかけて、インフレ率は、インフレ・ターゲティングを採用しているか否かにかかわらず、世界的に低下しています。インフレ・ターゲティングの多くは、こうした中で、現実にインフレ率が低下してきた段階で採用されています。インフレ・ターゲティングの採用そのものがインフレ期待の抑制にどの程度寄与したのかは、必ずしも明らかではありません。

(1)ヘリコプター・マネー

 そこで、一つの究極の姿として、「日本銀行が銀行券を直接人々に配る」という政策について考えることにします。これは、日本銀行が、何の資産も購入せずに、あたかもヘリコプターから銀行券を撒き散らすようにして貨幣を供給するという政策で、ヘリコプター・マネーと呼ばれています。

 確かに、日本銀行法の改正によって、銀行券発行高に見合う優良資産を保有しなければならないという義務(発行保証制度)はなくなりました。しかし、この背景には、他の先進国と同様に、「通貨の価値は日本銀行の金融政策の適切な遂行によって確保されるべきものである」と考えられているためです6。銀行券に対する人々の信認を確保するためには、日本銀行の財務の健全性を維持することが重要です。

 日本銀行の経理では、皆様の企業のものとは異なり、当期剰余金から法定準備金と出資者に対する配当金を差し引いた残りの全額を国庫に納付する仕組みになっています。日本銀行のバランスシートが損なわれれば、通貨の価値が脅かされるだけではなく、政府は国庫納付金という収入を失います7。言い換えれば、現在の財政状況の下では、日本銀行の財務の健全性が損なわれることは財政赤字の増加と裏腹の関係にあるといっても過言ではありません。

 このように考えると、ヘリコプター・マネーという政策は、表向きには日本銀行の姿しかみえませんが、その中身は、所得分配という財政政策の機能を通じて経済に影響を与えることに他なりません。ヘリコプター・マネーを実施すれば、物価の下落には歯止めが掛かるのかも知れませんが、その一方で、「銀行券は誰にでも喜んで受け取ってもらえる」という共通の信念が崩れる可能性が高まります。そうなれば、人々が外国の通貨で決済するようになったり、極端な場合には物々交換するような状態になることすらあり得ない訳ではありません。

 現在、日本銀行の独立性は強化されていますが、これは「日本銀行は金融政策を行う主体である」ことを当然の前提としたものです。日本銀行が独自の判断で財政政策の機能を果たすという強大な権限が与えられている訳ではない、と私は考えています。皆様には、日本銀行の国庫納付金は国民一般の財産であるという点を理解して頂きたいと思います。

  1. 6日本銀行法改正に関する金融制度調査会の答申(「日本銀行法の改正に関する答申」、平成9年2月6日)には、発行保証制度について、「管理通貨制度の下、日本銀行券の価値はその保有する財産から直接導かれるものではなく、日本銀行券の価値の安定のためには、発行保証制度より、むしろ日本銀行の金融政策の適切な遂行が求められているところである。その意味では、今回の日本銀行改革で、強化された政策委員会が金融政策を適切に遂行することを前提にすれば、発行保証制度の保有を義務づけることの意義は小さくなり、発行保証制度を廃止することが適当であると考える」と書かれています。
  2. 7因みに、日本銀行は、昭和46年8月のニクソン・ショック後の変動相場制移行に伴い、多額の為替差損を被りました。当時、わが国では、外貨は外為会計に集中させる建前でした。しかし、外国為替資金特別会計(外為会計)は、外国為替資金証券の発行限度が予算上限定されていたため、円資金を調達するために、保有外貨を日本銀行に売却していました。特に、昭和43年度以降は、外貨の流入が増える中で、外為証券発行限度の引き上げが追いつかず、日銀の保有外貨は、公的部門の保有外貨の半ばを超えていました。日本銀行は、こうして保有した外貨について、ニクソン・ショック後の円切り上げにより、多額の為替差損を被ることになりました。日本銀行は、昭和46年度下期(昭和46年10月1日~昭和47年3月31日)には、為替差損(4,508億円)の償却が嵩んだため、諸準備金を利益に戻入したうえで、損失金(1,376億円)を計上し、国庫納付金を納めることができませんでした。なお、政府は、昭和46年度の補正予算において、特別会計の一時借入金の限度額を2,000億円引き上げましたが、その理由について、「ニクソン・ショック後特に顕在化した外貨日銀買取りについて、際限なくこうした方法に依存することは、国際国内両面における金融政策の円滑な遂行を確保するうえで必ずしも好ましいことといえない」と説明されました(『昭和財政史—昭和27~48年度、第12巻国際金融・対外関係事項(2)』、大蔵省財政史室、pp.431-434)。

(2)銀行券との代替性が低い資産の大量購入

 では、ヘリコプター・マネーのように何も買わずに銀行券を配るのではなく、「長期国債、上場株式、不動産などの資産を積極的に購入し、資金の供給を思い切って拡大するべきである」という提案についてはいかがでしょうか。

 まず、株式や社債を購入する場合には、どの企業の株式や社債を購入するかを決定しなければなりません。そして、これらの資産を大量に保有すれば、それだけ大きな信用リスクや価格変動リスクなどを抱えます。皆様が買っても、日本銀行が買っても同じことです。仮に、こうしたリスクが現実のものとなれば、日本銀行が購入した資産の価値が著しく下落し、荒唐無稽にさえ思えるヘリコプター・マネー政策と同様に、日本銀行の財務の健全性は損なわれます。結局のところ、国民に帰属される筈の国庫納付金が、特定の企業に対する補助金となる可能性があります。こうしたことを避けるために、先進国では、中央銀行の金融調節は売買の対象となる資産やその相手先について中立的であることが望ましい、という理解が共有されています。さらに、仮に中央銀行が株式や社債を大量に購入すれば、各々の市場機能が損なわれる可能性も高まります。

 日本銀行が、こうした問題点を承知のうえで、財政政策の機能を通じて銀行券の増発や当座預金残高の引き上げを続ければ、いずれかの時点ではデフレが止まり、インフレ期待が生まれるかも知れません。しかし、同時に、銀行券に対する信認が損なわれる可能性があることを十分に考慮する必要があります。

 今後とも、「金融緩和を徹底するべきである」といった紋切り型の主張を耳にするかも知れませんが、その際には、その提案がヘリコプター・マネー政策と比べてどの程度違うものなのか、という観点から、皆様ご自身の問題として受け止め、慎重に評価して頂きたいと思います。

 ところで、インフレ・ターゲティングの採用を強く支持する人たちは、「将来、物価が上昇し始めた時点では、日本銀行は、過剰な資金を積極的に吸収し、インフレの行き過ぎを回避することができる」と主張しています。確かに、理論的には十分に理解できます。しかし、長い間に亘って超金融緩和を続けた後に急に引締めに転換せざるを得ないという政策運営について、国民一般の理解・支持を得ることはかなり難しいと思います。これは、理論というよりも、私なりの現実的な判断です8

  1. 8現在、米国では、インフレーション・ターゲティングは採用されていません。しかし、95年には、米国の議会で、物価の安定を金融政策の唯一の目標とし、物価目標の設定を求める法案を提出する動きがありました。当時のFederal Open Market Committee(FOMC、金融調節方針を決定する委員会)の議事録(95年1月31日~2月1日開催分)をみますと、グリーンスパン議長は、インフレーション・ターゲティングに反対する立場から、「たとえ議会が我々に明確な目標を設定する権限を与えたとしても、私は、我々がその目標に実際に固執し、例えば、『失業率が毎月2%ポイント上昇する状況であっても物価目標を達成するためにはこの時点で金利を引き上げる必要がある』と説明することさえも認められるとは考えていない。もし、議会の80%が物価目標の設定に賛成したとしても、状況が変われば、95%が意見を変えるだろう」という見解を示しています。
    また、グリーンスパン議長は、最近の講演でも、「『物価の安定』という状態を特定の指数の具体的な数値で示すことは非常に困難である」と述べ、改めて、インフレ・ターゲッティングの導入に否定的な見解を明らかにしています("Transparency in monetary policy", at the Federal Reserve Bank of St. Louis, Economic Policy Conference, St. Louis, Missouri, on October 11, 2001)。

(3)長期金利に対する影響

 現在のインフレ・ターゲティング導入論の中で、「日本銀行が長期国債を積極的に買い入れて貨幣供給量を増大させ、インフレ期待が高まっても、長期金利は顕著には上昇しない」という意見もみられます。

 ところが、標準的な経済理論を踏まえれば、期待インフレ率が上昇するときに、長期金利が何も影響を受けないことはあり得ません。長期金利は、やや長い目で見れば、実体経済やインフレ期待、そして財政規律に対する信認を反映して決まります。やや専門的な言い方をすれば、「名目長期金利は、(1)将来の名目短期金利の現時点における予想値の平均、および、(2)資金を長期間運用することに伴うリスクの補償(リスク・プレミアム)によって決まる」という考え方が支配的です。期待インフレ率が上昇すれば、将来の名目短期金利の現時点における予想値も当然にして上昇します。

 また、国際的な資本移動を踏まえると、インフレ・ターゲティングが採用され、その目標値が達成されるという期待が定着した時点で、為替円安の期待が生まれると考えられます。短期的な為替レート決定に関する最近の理解は、「内外金融資産の収益率(資産を外貨建てで運用することに伴うリスク・プレミアムを加味したもの)が等しくなるように、金利と為替レートが同時にかつ内生的に決定される」というものです。例えば、外国の金利やリスク・プレミアムが一定であると仮定しますと、将来、円が安くなるという期待が生まれれば、外貨建て資産が選好される一方、円建て資産は敬遠されるようになると考えられます。この結果、予想どおり円安が進み、かつ、円長期金利が上昇するというのが標準的なシナリオです。

 現時点でインフレ・ターゲティングの採用を支持する人たちが主張するように、「目標インフレ率を達成するために、国債を大量に買い入れる」としますと、金融市場では、「長期金利の上昇圧力を抑え、それを通じて財政のファイナンスを楽にすることが目的ではないか」、「(先ほどお話ししたように)日本銀行は、財政政策の機能を通じて経済に影響を与えようとし始めたのではないか」という見方が強まる可能性があります。その場合には、市場参加者は、財政規律の確保についての不安感を強め、「将来、国債価格が下がるのではないか、すると、今のうちに売る方が良いのではないか」と考えるようになるかも知れません。すると、長期金利は、インフレ期待に変化が生じなくても、上昇することになります。

 こうした事態を回避するためには、市場参加者の間で、「財政規律が確保され続ける」という信認を維持することが不可欠です。私は、財政政策について、「景気対策か、財政再建か」という対立軸でとらえるのではなく、中長期的に財政規律を確保する仕組みを確立したうえで、経済状況に応じて弾力的に財政政策を活用することもあり得るという方向で議論を深める必要がある、と思います9

  1. 9英国は92年にインフレーション・ターゲティングを導入しました。英国では、政府による金融政策の最終目標の決定と金融政策運営に関する中央銀行(BOE)の独立性という一種の分業体制が幅広い信認を得ています。こうした中で、英国の財政政策が、金融政策に劣らず、整備されたフレームワークを有していることはあまり知られていません。すなわち、英国政府は、「財政安定化のための規律(Code for Fiscal Stability)」(97年)の中で、健全財政を確保する方針を明示すると同時に、(1)短期的には景気対策としての財政政策の発動を許容している一方、(2)その目標を金融政策のサポート(すなわちインフレ率の目標値を達成すること)に置くと明示していることが特徴的です。すなわち、景気対策としての財政政策は、インフレーション・ターゲティングのフレームワークの中の一部であると言っても過言ではなく、その評価基準は金融政策の目標の達成に寄与するかどうかという点に集約されています。

2−4.グローバルな視点

 このようにインフレ・ターゲティングを巡る論点を考えて参りますと、改めて、今日のわが国における物価の動きがいかに複雑なものであるか、という点を認識せざるを得ません。

 今日、わが国では、生産性を反映した相対価格の変化と、一般物価の下落が同時に起こっているために、物価を巡る議論が複雑になります。近年の物価下落は、これまでもグローバリゼーションを背景に低下傾向にあった「物」(正確には貿易財)の価格下落が一段と加速したというよりも、これまで規制などによって守られてきた「サービス」(正確には非貿易財)において効率化・合理化が進み、その価格上昇率が低下していること(「サービス」の「物」に対する相対価格の下落)によってもたらされている面が大きいように思います。

 確かに、構造調整は、主にサービス部門の生産性の向上を通じて、経済全体の生産性を高めるというメリットがあると期待できます。また、こうした調整が進展しない限り内外価格差は縮小しませんので、製造業は、グローバルな競争に打ち勝つために、一段と海外に生産拠点をシフトせざるを得なくなるでしょう。また、私は、日本経済が立ち直るためには海外からの直接投資が増加し雇用機会が拡大することが必要である、と思っていますが、「世界一の高物価」という状態が続く限り、対内直接投資の増加に期待できる筈もありません。しかし一方、サービス部門の効率化は、短期的には、価格下落が需要増加に繋がり難いため、デフレ的な現象を引き起こしやすい面があります。

 そこで、構造調整を進め、わが国経済の生産性を引き上げる中で、デフレ圧力が強まらないという状況があり得るとすれば、それは自然なかたちで円安が進む状況である、と思います。私は、仮に構造調整が進む過程で自然な円安の流れができるようであれば、これを受け入れるべきであると考えています。なお、世の中では、「積極的に円安に誘導するべきである」という意見もみられます。しかし、私は、今日のように世界的に貿易の動きが鈍る中で、わが国が意図的に円安を求めれば、それは近隣窮乏化政策とみなされ、近隣諸国との友好関係にも大きな悪影響を及ぼす、と思います。

3.おわりに

 本日は、金融政策運営の考え方をお話しして参りました。私どもは、政府とともに、経済のデフレ的な傾向を阻止したいと考え、そのように努力しています。

 また、日本銀行では、インフレ・ターゲティングについても、それが中央銀行の責任意識や透明性を高めるといった議論には十分に敬意と関心を払っており、引き続き色々と勉強したいと考えています。さらに、インフレ・ターゲティングのメリットを精一杯取り込み、「デフレを許容しない」という強い決意をできるだけ明らかにするために、現在の金融緩和の枠組みを、「消費者物価上昇率が安定的にゼロ%以上となるまで続ける」と宣言しています。

 もっとも、同時に、現時点での採用はどうか、と考えますと、色々とお話ししたような問題点があることにも注意は怠れません。繰り返しになりますが、現在の金融経済情勢の下で、銀行券に対する信認を守りながら、金融政策だけで物価の下落を食い止めるような手段があるのか、という点は非常に難しい課題です。

 ところで、本日、最初に、決済についてお話ししました。日本銀行に限らず、中央銀行に固有の仕事とは、「人々が安心してお金を使うことができるようにすることである」と言っても過言ではありません。そのためには、物価が安定していることが必要です。また、お金は金融システムを通じて日本経済のすみずみにまで流通する訳ですから、金融システムの安定性が維持されていなければなりません。こうした条件を満たすためには、常に長い眼でみて国民経済の健全な発展につながるのかどうか、という視点が非常に重要です。中央銀行は、そうした長い眼でみていくことが常に可能となるように「独立性」を与えられている訳です。また、「一国経済の良心」として国民から強い期待が寄せられる理由も、正にこの点にある、と思います。私も、微力ではありますが、日本銀行の一員として、その責任を果たすべく、努力を積み重ねていかなければならない、と肝に銘じている次第です。

 ご清聴ありがとうございました。

以上