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日本経済と金融政策

日本総合研究所経済講演会における山口副総裁講演

2001年11月26日
日本銀行

[目次]

  1. はじめに
  2. 1.日本経済の現状と展望
  3. 2.物価下落の問題
  4. 3.金融緩和措置の効果と限界
  5. 4.金融政策と物価
  6. 5.なぜ、デフレから脱却できずにいるのか?
  7. 6.今後の経済政策運営

はじめに

 本日は日本総合研究所の経済講演会にお招き頂き、光栄に存じます。本席では、「日本経済と金融政策」という題でお話しをさせて頂きます。お話したいことは沢山ありますが、物価が継続的に下落するという、戦後久しく経験することのなかった事態に直面し、このところ、物価下落の問題を巡って活発な議論が行われています。そこで、本日は、金融政策運営の問題を含め、物価下落への経済政策の対応のあり方ということを中心に、私の考え方を述べてみたいと思います。

1.日本経済の現状と展望

 まず議論の出発点として、先月末に日本銀行が公表した「経済・物価の将来展望とリスク評価」、いわゆる「展望レポート」の認識から入りたいと思います。

展望レポートの認識

 この「展望レポート」は、先行きの日本経済に関する日本銀行政策委員会メンバーの見方をできるだけ総括的に明らかにして、金融政策運営の透明性を向上させるという狙いの下で、昨年から公表を開始したものです。4月と10月の年に2回公表することとしており、今回は、本年度から来年度までを展望して、日本経済の辿りうる最も蓋然性の高いコース、すなわち「標準シナリオ」と、それを巡る上振れ、下振れ双方の可能性、つまり「リスク要因」とを整理しています。

 時間の関係で、今日は結論だけご紹介するにとどめますが、「標準シナリオ」では、わが国経済が今来年度とも厳しい調整過程を辿る、しかし、来年度に海外経済の回復が始まれば、わが国の景気も来年度中には下げ止まりに向かう、と考えました。その場合でも、日本経済の明確な回復にはなお時間を要する可能性が高いとみて、物価は今来年度とも、なお緩やかな下落傾向が続くと考えました。

 こうした展望については、不確実性がなお極めて高いと思います。そこで、「標準シナリオ」からの上振れ、ないし下振れをもたらすリスク要因として、第1に、米国をはじめとする海外経済や、IT関連分野の動向、第2に、内外の金融資本市場とくに株価の動向、第3に、経済構造改革や財政再建、不良債権処理の動向、などを注視していかなければならないと強調しています。

2.物価下落の問題

 さて、消費者物価が今来年度とも小幅ながら下落するならば、2000年度以降、3年連続の下落になり、戦後初めて経験する事態です。物価と金融政策の関係を考える上でまず検討しなければならないのは、物価下落の原因です。物価の下落が続くと見通される背景としては、ふたつの要因が挙げられます。ひとつは、需要不足がもたらす物価下落圧力です。ご紹介したような「標準シナリオ」を前提とすると、需給ギャップは来年度にかけて拡大する公算が高いと考えられます。物価下落のもうひとつの要因は供給サイドからの低下圧力で、海外からの輸入品の流入、規制緩和、流通合理化等の影響が引き続き働くとみています。こうしたふたつの物価下落要因はいずれも重要ですが、経済の短期的な動きを考える上では、今後、需要の弱さに起因する物価低下圧力が徐々に強まっていく可能性に留意する必要があると考えています。

 ここで誤解のないように申し上げますと、物価下落の背景をこのように整理したからといって、日本銀行は「需要不足に伴う物価下落は心配しているが、供給サイドからの物価低下圧力は放置して良いと考えている」という訳ではありません。日本経済の状況に照らすと、日本銀行は、現在、物価が継続的に下落する事態は防止する必要があると判断しており、そのために、内外の中央銀行の歴史に例を見ない思い切った金融緩和措置を講じています。

 それでは、現在の物価の継続的な下落はどのような意味で問題をもたらすのでしょうか。インフレであれデフレであれ、物価の安定が損なわれることに伴う問題としては、第1に資源の最適配分に不可欠な価格のシグナル機能の低下、第2に将来の経済計算を行う上での不確実性の増大が挙げられます。これは、物価の変動が資源配分という市場メカニズムに期待されている最も重要な機能を阻害するという問題です。

 現在日本経済で進行している緩やかな物価下落については、こういった観点からの点検も当然必要でしょう。ただ、日本銀行が現在、特に注意深く見ていることを申し上げると、それは、物価下落が景気後退をもたらし、これがさらに物価を下落させるという悪循環、いわゆるデフレ・スパイラルをもたらす危険がないかということです。そうしたデフレ・スパイラルが発生し得る理由としては幾つか考えられますが、その共通点は、各種の契約が名目値で固定されているため、物価の下落に対して柔軟に調整されないという点に求められます。ここでは、金利、負債、賃金という3つの経済変数に焦点をあててご説明します。

 第1は、いわゆる「ゼロ金利制約」の問題です。現在、市場金利がすべてゼロという訳ではありませんが、日本銀行が政策的にコントロールできる短期金利はほぼゼロであり、これ以上は下がり得ません。このように、名目金利がゼロ制約に直面すると、金融政策は少なくとも名目金利の引下げによって実質金利を低下させるというルートを通じては、総需要や物価水準に影響を与えることが出来なくなります。

 第2は、債務の実質的な負担増加の問題です。企業や家計の抱える債務の多くは名目値で固定されており、物価の下落に応じて調整される訳ではありません。このため、物価下落の進行に伴って企業の売上や家計の収入が減少すると、債務の返済は困難になります。特に現在のわが国は、企業部門の過剰債務問題やそれと表裏の関係にある金融機関の不良債権問題が深刻であるだけに、物価下落に伴う債務返済負担の増加の問題は、日本経済の回復を阻害する大きな要因のひとつとなっています。過去の歴史をみても、デフレ・スパイラルといわれるような経済で、強度の信用収縮が伴うケースがあるのは、こうした債務返済負担と物価下落を巡る悪循環によるものと考えられます。

 第3は、名目賃金の下方硬直性です。一般には、物価下落に伴い売り上げが減少する中で名目賃金の下方硬直性が強いと、企業収益は減少します。ただし、わが国においては名目賃金はある程度伸縮的に動いており、名目賃金の下方硬直性による企業収益の圧迫というメカニズムが現実にどの程度デフレ・スパイラルを促す力として働いているかは、もう少し綿密な分析を待って判断する必要があります。

 こうした観点からは、経済がデフレ・スパイラルに陥るかどうかを判断する上で、ひとつの重要なメルクマールは企業収益や雇用者所得など、名目所得の動向であると考えられます。例えば、昨年は、物価上昇率は幾分マイナスでしたが、企業の経常利益は34%の増加、雇用者所得は1%の増加となっており、デフレ・スパイラルの懸念は後退していました。しかし、本年に入って、企業収益は減少に転じ、夏場頃からは賃金も前年比でマイナスになり始めるなど、注意を要する局面になっています。このように、ほぼ同じくらいの物価下落率でも、去年と今年では、その意味合いはかなり変わってきています。

 それでは、日本経済は今後デフレ・スパイラルに陥っていく可能性は高いのでしょうか。今回の「展望レポート」で明らかにしたように、日本銀行政策委員会メンバーは、来年度にかけて経済はマイナス成長、物価は下落という姿を想定していますが、同時に、海外経済が回復に向かうことを前提に、景気は来年度中には下げ止まるだろうと見ており、デフレ・スパイラルに陥っていくというような姿を想定している訳ではありません。ただし、これはあくまでも「標準シナリオ」であって、先行きに様々な下振れリスクがあることは事実です。先程のデフレ・スパイラルの説明に即して言えば、短期の名目金利がゼロ%にまで達した中で、企業収益の動向、金融システム問題の帰趨とその影響には、強い懸念を持たざるを得ません。そういう意味で、今後、日本経済がデフレ・スパイラルに陥る危険性が全くないとも言い切れず、現在は注意深く情勢を点検していくべき局面にあると考えています。

3.金融緩和措置の効果と限界

これまでの金融緩和措置

 以上で申し上げたような経済の先行きに対する厳しい認識を背景として、日本銀行は現在、世界の中央銀行の歴史に例をみないような思い切った金融緩和措置をとっています。その内容を整理すると、次の4つにまとめることができます。

 第1に、金融調節の主たる操作目標をコールレートから日銀当座預金の残高という量に変更したうえで、3月以前の約4兆円という残高から、3月に5兆円へ、8月に6兆円へと引き上げました。そして、9月以降は、米国でのテロ事件発生等を契機に流動性需要が急激に高まったことに対応して、「6兆円を上回る」ことを目標に、金額に上限を設けず潤沢な資金供給を行うこととしています。その結果、日銀当座預金残高は9月積み期には9.2兆円、10月積み期には8.8兆円となっています。

 第2に、以上申し上げたような金融調節の枠組みを、消費者物価の前年比上昇率が安定的にゼロ%以上となるまで続けることを約束しました。これは先行きの金融緩和の継続を明確なかたちで約束し、より長めの金利にまで緩和効果が及ぶことを目的としたもので、しばしば「コミットメント効果」とか「時間軸効果」と呼ばれています。

 第3に、円滑な資金供給のために必要と判断される場合には、日本銀行券の発行残高の範囲内という歯止めの下で長期国債の買入れを増額することにしました。そして、8月には、この考え方に基づいて、長期国債の買入れをそれまでの毎月2回、月4千億円ペースから毎月3回、月6千億円ペースに増額しました。

 第4は、いわゆるロンバート型貸出制度の創設です。これにより、金融機関は一定の条件の下で、担保さえあれば必ず日本銀行から資金を公定歩合で借り入れることができます。これは、資金繰りに対する安心感の醸成や市場金利の安定化などを通じて、金融緩和効果を強化するものです。そして、このロンバート型貸出制度の適用金利である公定歩合は2月と9月の引下げによって、現在は0.1%となっています。

金融市場に拡がる強力な緩和効果

 これまでの強力な緩和措置により、金融市場においては、極めて緩和的な状態が実現しています。まず、短期金融市場では、やや長めの資金取引も含め、短期金利がゼロ金利政策時を上回る低下をみています。コールレート・オーバーナイト物の金利は、9月初に市場取引の金利の刻み幅が1/100%から1/1000%に一段と細分化された後は、概ね0.001%~0.004%といった、文字通りミクロの世界の動きになっています。

 一方、債券市場に目を転じますと、長期国債の金利は3月との比較では低下している訳ではありませんが、引き続き歴史的に極めて低い水準で推移していますし、中期ゾーンの金利、例えば残存期間5年の国債金利は0.4%台と、3月以前の水準よりも低下しています。

 また、CPや社債市場では、中短期の金利低下や投資家のリスクテイク姿勢の強まりを反映して信用スプレッドが縮小しました。このため、相対的に信用度の高い企業についてはCPや社債の発行意欲が高まっており、発行残高は高水準を続けています。日本では、こうした資本市場を通じる信用仲介のシェアはまだ大きくはありませんが、銀行の信用仲介機能が低下している中で、金融緩和措置がその効果を挙げる上で重要なルートのひとつになっています。

 しかし、同じ金融市場でも、株価や為替といった資産価格への影響は限定的なものになっています。株価は、3月の金融緩和後には一旦上昇しましたが、5月以降は景気の悪化や企業収益の下振れを反映する形で、ほぼ一貫して下落し、8月以降の日銀当座預金残高の増加にも反応しませんでした。為替相場についても、米国の景気が予想以上に弱くなったこともあり、3月との比較では円安方向に進んだ訳ではありません。

企業や家計への浸透

 問題は、日本銀行による潤沢な資金供給を起点に、金融市場で緩和が進展し、それが更に金融市場の外側にいる企業や家計といった経済主体の行動変化に繋がるような形で緩和効果が挙がっているかということですが、残念ながら、十分に緩和効果が挙がっているとは言えません。因みに、マネタリー・ベース、すなわち、日本銀行券と日本銀行当座預金は現在、前年比14%の高い伸びで拡大しています。しかし、広義のマネーサプライは3.6%増と本年初に比べ僅かながら伸びを高めている程度で、それも郵貯の大量の満期到来に伴う資金シフトが主因です。一方、貸出は前年比−1.9%と、むしろ減少幅が拡大しています。GDPや物価の状況にも改善は見られません。金利がこれほど低下しているにもかかわらず、企業の設備投資や家計の住宅投資には動意が見られません。

4.金融政策と物価

デフレは貨幣的現象か

 強力な金融緩和にもかかわらず、経済活動が活発化しない理由については、後程まとめて私の考えを申し上げますが、物価が下落を続け景気が低迷しているのは、金融緩和の程度が足りないためでしょうか。例えば、「物価の変動は貨幣的な現象であり、通貨の発行量を増やせば物価下落は止められる」といった、素朴な貨幣数量説に基づいた考え方がしばしば聞かれますが、そのような考え方は正しいのでしょうか。

 「物価の変動が貨幣的な現象である」という点は、通貨量が大きく変動した場合の長期的な経済の関係を描写する考え方としては異論を唱えるべきものではありませんし、実際、日本銀行を含め、多くの中央銀行の金融政策の目的が「物価の安定」とされているのも、そうした考え方に立脚しています。しかし、こうした十分長い期間をとった場合に妥当する、言わば一種の定義的な関係、あるいは恒等的な関係を、そのまま実際の金融政策運営に適用しようとすることには、無理があるように思います。

 まず第1の問題点は、只今も申し上げたように、長期の議論と短期の議論が区別されていないことです。マネーと物価の間の関係を見ると、例えばマネーが極端に大きく変動した場合、—第1次世界大戦後のドイツのハイパーインフレのようなケースがこれに該当するでしょうが—、このような場合はマネーの影響がドミナントになるので、物価との間に短期的にも密接な関係が生じます。またマネーが極端という程ではないにせよ、ある程度大きな変動をした場合には、十分に長い期間をとれば、対応関係が観察されます。しかし、先程述べたような極端にマネーが変動しているような状況でない限り、1年から数年という期間でみれば、マネーと物価の関係は安定している訳ではありません。

 第2の問題点は、中央銀行による流動性(日銀当座預金、あるいはそれを含むマネタリー・ベース)の供給が、広義のマネーサプライつまり企業や家計における流動性の増加をもたらし、ひいては物価や景気を押し上げるメカニズムが、現在十分に作用しているかということです。言うまでもないことですが、金融政策は決して空からマネーをばら撒く—経済学の教科書でヘリコプター・マネーという言葉で呼ばれる—ような政策ではありません。仮にそのような政策が採られる場合には、人々が手にしたばかりの通貨をもって我勝ちに財・サービスの購入に走るでしょうから、物価は直ちに上昇するでしょう。しかし、現実の金融政策は、金融機関などから国債等の資産を購入し、その対価として中央銀行当座預金という狭義のマネーを創出し、さらに金融機関が貸出や証券投資を行うという一連の「取引」を通じて広義のマネー(マネーサプライ)を供給するものです。ところが、現在わが国で起きていることは、金融市場では資金が溢れているにもかかわらず、それが金融システムの外側にいる企業や家計にまで浸透せず、マネーサプライはあまり増えない、またそのことが経済全体として支出も増加せず、物価も上昇していかないことと因となり果となっているということです。マネーを増やすメカニズムがうまく働かない時に、マネーさえ増やせば全て解決するというような議論は、論理の無視か、現実から遊離した議論のように思います。

 只今も述べましたように、物価の変動には様々な要因が影響を与えますが、物価変動の基調を形成する最も重要な要因は、財・サービスに対する経済全体としての需要と供給のバランスです。このうち、供給能力の方はゆっくりと変化するものですから、短期的に需給バランスを変動させる主な要因は総需要の動きということになります。実際、日本の過去のデータでみても、経済成長率が高まり、需給ギャップが縮小してしばらくたつと、物価が上昇し始めるという関係があります。経済成長率と物価上昇率のタイムラグを統計的に調べてみると、経済成長率が消費者物価上昇率に対して1~2年先行するケースで最も時差相関係数が高く、逆に物価上昇率が経済成長率の動きに先行するという関係は読み取れません。

 このように考えると、物価の継続的な下落を止めるためには、まず何よりも経済全体としての需要を喚起すること、それも一時的でなく継続的な形で引き出すことが必要となります。これまでの日本銀行による金融緩和策は、流動性を潤沢に供給し金利を引下げることによって、需要を創出し、その結果として物価下落の阻止に貢献することを狙ったものです。しかし、これほどの金融緩和を行っても、なお需要を引き出すことが出来ないというところに問題があり、そうした現実を直視する必要があると思います。

インフレーション・ターゲティング

 現在、わが国ではインフレーション・ターゲティングの採用を求める議論が少なからず聞かれます。しかし、現在わが国で行われているインフレーション・ターゲティングの議論は、本来は経済活動の結果である筈の物価からスタートし、その物価を上げるためにあらゆる政策の発動を求めるという点に特色があるように思いますが、私は経済活動を活発化させるための方法をまず出発点に据えるべきであると考えています。日本銀行が、現時点におけるインフレーション・ターゲティングの採用に慎重であるのも、こうした物価情勢や金融政策を巡る環境に関する認識に基づくものです。

 また、そもそも、インフレーション・ターゲティングは、短期的な政策手段ではなく、あくまでも金融政策運営の透明性を向上させるための枠組みとして理解すべきものです。日本銀行は、そうした透明性向上の枠組みとしてのインフレーション・ターゲティングについては、検討課題のひとつであると位置付けています。しかし、現在は、短期金利が既にゼロ%に達しており、これ以上の金融政策手段が限られているうえに、不良債権問題等が金融緩和の効果を制約しています。このような状況の下で、達成が困難な目標を設定することが、金融政策運営に対する信認を高めるとは考えにくいように思います。

 このように言うと、たとえ、金融緩和の効果が限られていても、インフレーション・ターゲティングを採用すること自体が企業や家計の「期待」に直接働きかけ、インフレ期待を生み出す筈であるという反論も聞かれます。確かに金融政策の効果が浸透するひとつのチャンネルとして「期待」が重要な役割を果たすことは事実です。しかしながら、「期待」を言葉だけで操作することは極めて困難であり、実効性のある政策手段が裏付けとしてあって初めて人々の期待形成に影響を与えられるのではないでしょうか。また、「期待」という点では、前述のように、日本銀行は現在の金融緩和の枠組みを消費者物価の前年比上昇率が安定的にゼロ%を上回るまで続けることを約束し、「期待」に強力に働きかけています。実際、先程も触れましたように、残存期間5年の国債の利回りは0.4%台となっていますが、このような低金利は、市場参加者が現在の低金利が今後しばらく続くことを信じていることを端的に示しています。しかし、現在のところ、現実の物価上昇率も予想物価上昇率も変化する兆しは窺われません。

 これに対しては、日本銀行がどのような資産でも購入すれば、インフレを起こし得る筈であるという議論があることは承知していますが、この点は後で触れたいと思います。

 なお、デフレ克服のための政策手段としてのインフレーション・ターゲティングの成功例として、時折、1930年代前半のスウェーデンにおける物価水準目標政策の例が引用されることがあります。私達も当時のスウェーデンの経験について興味があり勉強もしましたが、時折主張されることとは逆に、むしろ、現在の日本銀行の政策運営の考えとの共通性の方に驚かされます。

 最も重要な共通点は、当時のスウェーデンの政策当局も日本銀行も共に物価下落の防止に向けて断固たる意思を表明している一方、数値で表されるようなターゲットを採用していないということです。スウェーデン議会が定めた物価安定策の包括的プログラムでは、「金融政策は特定の物価指数の値と機械的に結び付けられるべきではなく、公式的で単純なルールによる政策運営が実行可能とは考えられない」と明言しています。実際、スウェーデンの中央銀行も、政策運営にあたって、消費者物価指数など特定の指数のみに依存することなく、在庫、生産性などの状況も考慮しながら、様々な物価指数を幅広く検討することが重要と強調していました。そういう意味で、スウェーデンの例は、特定の物価指数による物価目標を設定することでデフレを克服しようという議論とは全く別のものと言うべきだと思います。

 また、当時のスウェーデンと今日の日本を対比する場合には、置かれた経済や金融の環境に重要な違いが存在することに着目しなければなりません。最大の違いは、当時のスウェーデンでは、名目金利の水準が高く、十分な引き下げ余地があったこと、金融システムの面で現在わが国が直面しているような問題は抱えていなかったこと、さらに、相対的に経済規模の小さな開放経済国として為替相場の減価が物価下落防止に寄与したこと等が挙げられます。要するに、1930年代のスウェーデンの物価安定策の具体的方法論を、現在のわが国に適用しようという発想には無理があるということです。

5.なぜ、デフレから脱却できずにいるのか?

 それでは、デフレから脱却するために、どのような経済政策が必要なのでしょうか。そもそも日本経済は、なぜデフレから脱却できていないのでしょうか。これまでの説明で既に多少触れましたが、特に重要なのは、名目金利のゼロ制約、不良債権問題、そしてマインドの萎縮の3点であるように思います。

名目金利のゼロ制約

 第1は、名目金利のゼロ制約です。短期金利は既に事実上ゼロ金利になっていますし、期間5年の金利ー日本の企業による資金の調達期間は多くが5年以内ですがーもゼロにかなり近くなっています。通常の金融緩和とは、金融市場に対し潤沢に資金を供給して短期金利を引下げ、それが梃子となって中長期の金利や株価、為替相場などに影響を与え、これらが全体として金融機関や企業・家計の行動の変化に繋がるのを期待するというのが標準的なメカニズムです。名目金利がこれ以上下がらないという領域にほぼ達したということは、標準的な金融緩和の効果も追加的には期待しにくい領域に入っているということを意味します。また、この状態で物価の下落が続けば、実質的な金利負担は増加することがあり得ます。

 ところで、ゼロ金利制約による金融緩和の限界という下で、いわゆる「量的緩和」、つまり金融市場に対する大量の流動性供給は、どのような意味を持っているのでしょうか。その答えを断定的に述べるのは時期尚早であると思います。日本銀行が実施している政策は、他国に例を見ないものです。その効果如何、特に金融システムに問題を抱えている状況の下での効果如何は、実証的、経験的に判断すべきものでしょうが、現在、きちんとした結論を言うだけの材料が出揃っている訳ではありません。しかし、考える材料が全くない訳でもありません。

 ひとつの例として、米国でテロ事件が起きた後、日本の金融市場で起きている流動性需要の大幅な増加の動きと、これに対応した日本銀行当座預金の増加について考察してみましょう。流動性需要の増加自体はテロ事件の発生した米国だけでなく、各国で起きたことですし、そうした事態に対応し、日本銀行を含め主要国の中央銀行は金融市場の安定を確保するために、流動性を極めて潤沢に供給しました。ただ、FRBやECBがテロ事件発生後1週間足らずで平常の流動性供給に復帰したのとは対照的に、日本ではその後も流動性需要が高水準のまま推移しています。これには、ふたつの要因が影響しているようです。

 第1の要因は、コールレートが0.001%という水準にまで低下した結果、資金の貸し手にとって市場に資金を放出するインセンティブがなくなってきたことです。このため、余剰資金を抱える金融機関はたとえ無利子であっても、当座預金という形で日本銀行に対し資金を預けることを選ぶようになります。そして一旦そのような行動が広がると、今度は資金の借り手側から見て、市場で資金を調達できるという安心感がなくなるため、自ら防衛的に当座預金を積み増そうという動きが広がります。

 第2の要因は、外国銀行が円・ドルの為替スワップによって円資金を調達する取引のコストがマイナスになったことです。外国銀行は日本の銀行にドル資金を供給するのと引き換えに、マイナスの金利で調達した円資金を日本銀行当座預金に置いておくだけで、信用リスクを心配せずに確実に利鞘が稼げます。この場合、マイナスの円資金調達金利は、外国銀行が日本の銀行に対しドル資金を供給することを促すための言わば「甘味剤」としての役割を果たしています。

 只今申し上げた出し手の資金放出意欲の減退と円転コストのマイナスというふたつの動きは、当座預金を主たる操作目標として潤沢な資金供給を行うという現在の金融調節の意味を考える上で非常に興味深いものがあります。と言うのも、出し手の資金放出意欲の減退は、日本銀行の潤沢な資金供給の結果として生じたという色彩が強いからです。また、日本銀行が、札割れに直面することなく潤沢に資金を供給できる大きな理由が外国の銀行の超過準備需要であり、それ自体としては、経済活動の活発化に繋がるようなものではないからです。勿論、そうは言っても、超過準備への需要が経済主体のポートフォリオの変化をもたらし、最終的には何らかの経済活動の刺激効果をもつ可能性も否定できません。そのような可能性を見極めるべく、我々は現在大量の流動性供給を続けながら、その効果を注意深く観察しているところです。

不良債権問題

 デフレからの脱却を難しくしている第2の理由は、不良債権問題です。不良債権は、これを処理しさえすればデフレが終息し景気が直ちに回復するというものではありません。むしろ短期的には痛みが増すかもしれないことは、今では広く理解されているように思います。また、景気が回復すれば不良債権が減少するというのも事実です。しかし、多額の不良債権が残り、信用仲介機能が十分には機能しない状況の下では、以下の理由から、経済が持続的に成長することは期待できません。

 第1に、そのような場合、金融機関は株価の下落や景気の後退に伴う不良債権の発生等、何らかの外部要因から、自己資本が毀損する危険に直面しています。自己資本は予期せざるリスクや損失に対する最後の拠り所ですから、資本ポジションに不安を感じざるを得ない状態からは、積極的にリスクをとっていこうという経営姿勢は生まれにくくなります。また、マクロ経済政策の運営という点でも、経済の持続的成長は良好な外部環境の継続という、言わば僥倖に期待する不安定な運営を強いられることになります。

 第2に、不良債権の処理が完全に終わらない状況の下では、リスクとリターンの関係からみて合理的な水準への貸出金利の調整がなかなか進みません。現在、日本の金融機関の貸出姿勢を見ますと、優良先に対しては貸出競争が起こり、信用スプレッドは非常に低下する一方、信用度に不安のある企業への新規貸出については、慎重な姿勢で臨んでいます。また、信用度の低い既存先への貸出については、十分な信用スプレッドの引上げができていません。現在の局面においては、金融機関が思い切った信用スプレッドの引上げを行えば、相手企業の倒産も予想され、またその結果は、金融機関自身にも跳ね返ってきます。しかし、長期的な観点からは、貸出金利が経済の合理性を反映する形で設定されるようにならない限り、金融機関の積極的な貸出姿勢は期待できず、結果として、持続的な経済成長の達成は難しくなります。

マインドの萎縮

 日本経済のデフレ的傾向に関して、第3に、心理的な萎縮という面をとり上げたいと思います。家計部門については、年金等の社会保障の問題や雇用等、将来への不安が支出行動の足を引っ張っているように窺われます。企業部門についても、経済の停滞自体が期待成長率の下振れを通じて設備投資の意欲を減退させている面があると思います。勿論、デフレの原因のひとつとして心理つまりマインドの萎縮を挙げるのは、やや同義反復の感を免れないことは承知しています。しかし、現在の需要の弱さは、金利のゼロ制約や不良債権問題だけでは十分には説明できない部分が残るような気がしており、その部分をマインドの萎縮という言葉で申し上げている訳です。そのようなマインドの萎縮による需要の弱さは、結局は経済が現実にはっきりとした回復傾向を辿っていかない限り、なかなか解消しないものかもしれません。ただ、ごく普通の企業や消費者を前提に考えますと、様々な制度的な「障害」が横たわっていることも、現実の経済の弱さと相俟って、前向きのチャレンジの意欲を萎縮させる要因になっていることも否定出来ないように思います。例えば、企業活動の面では、公的機関が民間の業務分野を奪っているとか、グローバル化の時代に対応した法制、税制、規制の整備が遅れていることが挙げられます。家計についても、将来の年金や医療の制度についての不透明感が消費の抑制要因となっている可能性は否定できないように思います。

6.今後の経済政策運営

 以上、物価下落という問題を中心に据えながら、色々とお話ししました。最後に、こうした議論を踏まえた上で、日本銀行として何を成し得るか、また、他の経済政策に責任を有する政府に対し何を期待するかということについて、お話ししたいと思います。

日本銀行の果たすべき役割

 まず日本銀行の果たすべき役割ですが、改めて強調しておきたいことは、物価の下落を防止し、経済をできるだけ早く持続的な成長軌道に復帰させる必要があるという目標を、政府も日本銀行も完全に共有しているということです。このことを申し上げた上で、日本銀行が果たすべき役割について、私の考え方を述べたいと思います。

 まず第1に、当たり前のことのように聞こえるかもしれませんが、現在の金融緩和を今後も粘り強く継続していくことです。現在の極めて緩和的な金融環境は、これまでのところ実体経済にまで効果が十分に及んでいません。しかしながら、不良債権処理や経済の生産性向上に向けた構造改革の努力が進展し、ひとたび前向きの動きが出てくると、それを後押しすることで強力な緩和効果を発揮することが予想されます。そうした前向きの動きが少しでも芽を出してきた時に、何時でも利用できるように、緩和的な環境を粘り強く維持し続けることは極めて重要です。

 第2の役割は、何らかの理由で金融市場に不安や懸念が発生した際に、それが市場の混乱に繋がっていかないように、機動的な流動性供給を行っていくことです。流動性供給を通じて金融市場と金融システムを安定させる機能は、中央銀行が果たすべき重要な役割であると思います。また、市場の安定性を維持していくことは、金融緩和効果を途切れなく浸透させていくうえでも、極めて重要な意味を持ちます。

 それでは、さらに経済情勢が悪化し、万が一デフレ・スパイラルの危険が高まるような場合、金融政策として何ができるでしょうか。この点では、デフレを防ぐために、日本銀行は長期国債の買い入れ増額はもとより、外貨資産、株式、不良債権等、どのような資産でも購入すべきであるという議論があることは承知しています。この点についての私自身の考えは別の機会に詳しく申し上げましたので、本席では結論だけを簡単に申し上げますと、以下の3点になります。第1に、流動性の量を増加させるだけであれば、経済を刺激する効果は限定的であることを考えますと、そうした資産を買い入れる意義は、当該資産の価格に影響を与えるという部分が大きい筈です。しかし、需給バランスの変化を通じて当該資産の価格に影響を与え、これによって金融緩和の効果を挙げるということを文字通り期待するのであれば、一般にその買いオペレーションは極めて大規模なものとならざるを得ません。第2に、そうした大規模な買入れは、最終的に国民の損失負担となって跳ね返る可能性もあり、また、ミクロの資源配分に大きな影響を与えることにもなります。そして第3に、このような政策は、中央銀行が実質的に財政政策の領域に近いことを行うことを意味します。しかしながら、民主主義国家における一般的ルールとして、国民の税金を用いた財政政策は、選挙民から選ばれた議員から構成される国会における予算承認プロセスを通すということであると思います。日本銀行はデフレが心配な時に、インフレを心配しているということではなく、民主主義社会のあり方という観点から、そうした政策の是非を考えるというのが議論の筋道であるということです。

政府の果たすべき役割

 先程も申し上げましたように、物価の下落を防止し経済をできるだけ早く持続的な成長軌道に復帰させる必要があるという目標は政府も日本銀行も共有していますが、この点では政府の果たすべき役割も非常に大きいと思います。まず、競争的で魅力的なビジネスの環境を作り、それを通じて企業の投資を引出していくことです。そのためには、思い切った規制の緩和や税制の見直し、特殊法人の改革などを着実に進めることが重要です。年金などの社会保障制度を見直すことによって、家計の将来不安を和らげることも大事な課題です。さらに、不良債権の処理を早期に円滑に進めることの重要さも、改めて強調したいと思います。

 ただ、ここで留意が必要なのは、経済・財政の構造改革や不良債権処理を進める場合、短期的には需要の減少をもたらし物価を押し下げる圧力が働きやすいということです。その一方で、経済全体の生産性向上に繋がるような構造改革の前向きの成果が出始めれば、それは経済活動の活発化を通じて物価の下落を防止する上でも大きな意味を持つ筈です。我々が経済の問題を考える時は、常に総需要の増加という観点と、生産性という観点の両方からチェックする必要があります。勿論、両者は相互に独立ではありません。成長が一時的に高まっても、それが非効率的な投資を中心にしたものならば、生産性は低下し、将来の増税負担への懸念等から消費支出が抑制される可能性すらあります。他方、成長があまりに大きく落ち込むと、将来の生産性向上に向けた設備投資や研究開発が抑制されてしまうでしょう。総需要という観点と、生産性という観点のどちらを重視するかは、経済の状況に照らして冷静に判断すべき問題です。ただ、どのような重点の置き方を選択するにせよ、その経済的帰結は客観的に認識し、国民的に共有しておくべきであろうと思います。

 仮に、構造改革を進めるプロセスで、ある程度の物価下落が続くことは避けられないとみれば、政策運営の力点は、それがデフレ・スパイラルに繋がらないようにする、ということになるでしょう。そうした努力の重要な一端を金融政策が担っていることは言うまでもありませんが、一方で、こうした金融政策面だけでの努力には限界があります。消費の大きな落ち込みを避けるという意味では、雇用対策によるセーフティ・ネットの整備も重要でしょう。金融システム面でも、不良債権の処理を進めつつも、システム全体の安定性を確保していくことは不可欠です。

 最後に、ひとつの論点となるのは財政政策の果たし得る役割です。ケインズは「流動性の罠」に陥った状況の下では、金融政策は有効性を失い、財政政策が必要であると主張しました。しかし、政府債務が高い水準に達している現在の日本のような状況の下では、財政政策を活用する余地が限られていることもおそらく事実でしょう。ただ、限られているだけに、財政支出の見直しの面で思い切った工夫に期待したいと思います。また、国際的には、不況期における財政のあり方として、いわゆる自動安定化機能(ビルト・イン・スタビライザー)を使うべきであるという発想が強い訳ですが、わが国の実情の中で、そのような余地を残しておくことは検討に値すると考えます。

 最後になりましたが、日本銀行としては、日本経済の安定的かつ持続的な成長の基盤を整備するため、今後ともわが国の中央銀行としてなし得る最大限の努力を続けていきたいということを申し上げて、私の話を終わらせて頂きます。

 ご清聴どうもありがとうございました。

以上