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世界経済の構造変化と日本経済の課題

2003年6月17日・国際金融情報センターにおける武藤副総裁講演要旨

2003年 6月17日
日本銀行

目次

  1. はじめに
  2. 1.世界経済の構造変化
  3. 2.日本経済の抱える課題
  4. 3.金融政策運営の考え方
  5. 4.日本経済の再生のために

はじめに

 日本銀行の武藤でございます。

 本日はまず、世界経済の構造変化といった、グローバルかつやや長期の視点も踏まえながら、日本経済の抱える課題についてお話ししたいと思います。そのうえで、日本銀行の政策運営の考え方などにつきまして、申し述べさせて頂きます。

1.世界経済の構造変化

経済のグローバル化と情報関連の技術革新

 21世紀に入った現時点で、20世紀後半がどういう時代であったのかを改めて振り返りますと、大きな括りで言えば、やはり、第二次大戦後の「東西冷戦」が長らく続いた時代として位置付けられるように思います。しかし、こうした冷戦体制は、89年11月の「ベルリンの壁崩壊」に象徴されるように、20世紀の終わりを前に、劇的な終結を迎えることになりました。

 このように冷戦構造を変化させた原動力の一つは、言うまでもなく、旧ソ連邦や東欧諸国の市場経済化にみられるような、しばしば国境をも超える市場経済の大きな流れであったように思います。

 そして、冷戦の終結は、市場経済のグローバル化をさらに加速することになりました。例えば欧州では、90年代入り後、東欧諸国が新たに世界貿易の環に加わり、ドイツなどユーロエリアの供給基地としての役割を強めつつあります。アジアでも、冷戦終結以前から市場経済の導入を始めていた中国が、日本をはじめ先進各国の供給基地としてのプレゼンスを拡大しています。中国が世界輸出に占めるシェアは、購買力平価で調整したベースでは、90年頃の5%前後から、最近では15%前後まで上昇しているとみられます。米国でも、輸入に占める中南米諸国のシェアは、90年頃の11%程度から、最近では16%程度に増加しています。このように、政治と市場の相互作用を通じて、経済のグローバル化の波は、90年代に入り、急速に世界に広がっていきました。

エマージング諸国の工業化とIT産業の発達

 このようなグローバル化の流れの中で、アジアや東欧などのエマージング諸国の工業化が急速に進み、これらの国々が世界経済の中に占める重要性は、近年、飛躍的に増大しています。

 また、90年代には、情報通信関連の技術革新が急速に進展し、IT産業という、世界経済の動向を大きく左右する一大産業セクターを作り出しながら、経済のグローバル化の流れを大きく後押しすることになりました。IT産業は、只今申し上げたように急速な工業化の進んだエマージング諸国をも取り込んだ、国際的な分業体制を大きな特徴としています。このため、IT産業の成長は、それ自体が、世界経済の連関を不可避的に強める方向に働くことになりました。

 こうした構造変化は、長期的にみれば新しい経済秩序をもたらすものと思いますが、その一方でさまざまな問題を引き起こすこともあります。その一例が、2000年末に始まったIT関連分野の世界的な在庫調整の動きです。この中で、米国だけでなく、欧州や日本、さらには東アジア諸国も、IT関連分野の輸出や生産、投資などの減少を主因とする世界同時的な景気の停滞を経験したことは、まだ記憶に新しいところです。

金融市場のグローバル化

 この間、金融面では、市場化の流れと情報関連の技術革新は、エマージング諸国も含めた各国で金融市場の発達を促すとともに、インフラ面から、デリバティブ取引など新しい金融技術の発展を可能とし、また各国市場の国際的な結び付きを強めることとなりました。

 このような金融市場のグローバル化は、資本流入の促進などを通じて、エマージング諸国の急速な工業化を資金面から支える役割を果たしてきました。その反面、97年のアジア通貨危機や98年のロシア金融危機、米国のLTCMの破綻のように、特定国・特定地域に生じた金融問題が他国に伝播しやすいという問題も生じています。日本銀行を含む各国の中央銀行は、近年、さまざまな国際的なフォーラムなどを通じて、この問題についての議論や研究を重ねています。

世界的なディスインフレ傾向と各国の政策対応

 また、世界経済の構造変化は、物価を巡る環境にも影響を及ぼしています。すなわち、90年代には、エマージング諸国の工業化に伴う世界的な供給力の増加や、情報通信関連の技術革新、さらには、多くの国でインフレ抑制的な政策運営が行われたことなどを反映し、各国でインフレ率が低下するという、世界的な「ディスインフレ」の傾向が顕著になっています。

 G7諸国のインフレ率をみますと、70年代は平均して10%前後、80年代は5%前後のインフレ率となっていました。しかしながら、90年代入り後のインフレ率は単純平均でみて2%台に低下し、90年代後半以降に限ってみれば、米国、英国およびイタリアで2%台、その他の国では2%を割る水準に低下しています。わが国では、消費者物価前年比は98年半ばからマイナスとなった後、0%からマイナス1%の間で推移しており、緩やかなデフレ状態が続いています。

 欧米におけるディスインフレの流れは、安定的な経済活動基盤の確保といった果実をもたらしてきました。

 例えば米国は90年代、長期にわたり物価安定を伴う景気拡大を享受することになりました。その背景として、IT関連の技術革新を反映した生産性の向上が指摘され、こうした見方がしばしば、所謂「ニュー・エコノミー論」にも結びついてきたことは、皆様ご承知の通りかと思います。また、欧州通貨統合が実現した大きな背景としても、欧州各国のインフレ率が、統一通貨の実現を可能とする程度まで低下したことが挙げられるように思います。

 その反面、現在、各国の金融政策当局は、大恐慌以来過去数十年間に亘り殆ど意識することのなかった「物価の下落」というリスクを念頭に置きながら、政策を運営する傾向が強まっているように思います。

 こうした背景としては、先ほど申し述べたような世界的なディスインフレ傾向の中で、特に先進各国の基調的なインフレ率が低下し、ゼロに近づいてきていることが挙げられます。すなわち、基調的なインフレ率の低下は、経済活動などに様々な果実をもたらした反面、仮に需要面やコスト面からの物価下押し圧力が強まれば、これがインフレ率のマイナス転化という事態に結びつきやすい、ということにもなるからです。

 最近の主要中銀の政策運営をみますと、まず、米国の中央銀行であるFRBは、米国経済の情勢などに対応し、2001年以降、徐々に政策金利であるFFレートの引き下げを行ってきました。この結果、2001年初に6.5%であった政策金利は、現在では1.25%まで低下しています。同様に、欧州中央銀行の政策金利である主要オペ・レートも、2001年初の4.75%から徐々に引き下げられ、先々週の5日には、2.5%から2%への引き下げが行われています。

 こうした政策措置と並行して、最近、海外の中央銀行が公表文書の中で物価下落の問題に言及したり、当局者が講演の中で物価下落の下での金融政策運営の可能性について述べるケースが増えています。例えば、米国FRBは、先月6日のFOMC後の公表文において、「既に低水準にあるインフレ率が一段と低下するリスク」に言及しています。

 金融緩和のオーソドックスな手段は、政策金利である短期金利の引き下げです。しかし、いったん物価の下落が生じ、短期金利がほぼゼロとなり、金利引き下げという政策手段を使い切った後、金融政策の面からさらに経済を刺激し得る余地があるのかどうかという問題は、理論的にも実証的にも、明確な回答が得られているわけではありません。

 このため、現実にデフレという事態に直面し、2001年3月より「量的緩和政策」という歴史上前例のない政策に踏み込んでいる日本銀行の政策運営に対し、海外中銀の関心はますます強まっています。日本銀行の金融政策運営につきましては、また後ほど申し上げたいと思います。

2.日本経済の抱える課題

エマージング諸国のキャッチアップ

 次に、このような世界経済の構造変化を踏まえながら、日本経済が抱える課題について、申し述べたいと思います。

 日本経済は、戦後、先ほど申し上げたような東西冷戦の状況の中で、「世界の工場」とも呼ばれたように、製造業セクターの競争力の向上を原動力として高い成長を実現してきました。しかし、現在、このような日本の戦後の成長を支えた多くの産業分野において、エマージング諸国が急速にキャッチアップしてきています。

 日本の貿易相手国をみると、過去、輸出面では米国が圧倒的なシェアを占め、また、輸入面では産油国が比較的大きなシェアを占める時代が続きました。しかし、例えば、わが国の輸入に占める中近東諸国のシェアは、70年代半ばには3割近くにのぼっていましたが、これが足許では1割程度まで低下しています。その一方で、80年代半ばには25%前後であった、輸出・輸入に占める東アジアのシェアは、現在では4割を超える水準に達しています。とりわけ、わが国の輸入に占める中国のシェアは、90年の5%から、2002年には18%まで拡大し、それまでの米国に代わり、現在では中国がわが国の最大の輸入相手国となっています。

 輸入品の内訳をみても、戦後の日本の貿易を特徴付けていた「加工貿易」、すなわち原材料を輸入し製品を輸出するという構造は、今や様変わりとなっています。例えば、アジア諸国からの輸入に占める素原材料のシェアは、90年頃の35%程度から最近では15%程度にまで低下し、その一方で、機械および繊維製品のシェアは、90年頃の25%前後から、足許では5割を超える水準まで増加しています。また、国内市場への輸入品の浸透度をみると、90年代には衣料品など繊維製品の浸透度の高まりが目立っていましたが、2000年以降、この上昇は30%前後のところで一服しています。代わって、電気機械や一般機械の輸入浸透度が、2000年頃の17~18%といった水準から、ごく最近では30%近くまで上昇するなど、輸入品の高付加価値化が進んでいます。

 こうした変化は、90年代入り後のアジア諸国における工業化の進展や技術の蓄積を反映するとともに、日本の企業が海外に生産基地を求め、国際分業を推し進めてきた結果という面もあります。同時に、わが国が今後、どのようなリーディング・インダストリーを育て、いかなる付加価値の創造を成長の源泉としていけばよいのか、という問題を投げかけるものでもあります。

経済の成熟化

 また、わが国では、80年代後半から急速に少子高齢化が進み、2006年以降は人口が減少に転じていくと想定されるなど、成長経済から成熟経済への移行が、歴史的にも前例のないスピードで進んでいます。このため、わが国は、雇用制度や社会保障制度、地方財政制度や税制など、さまざまな経済・社会システムを、これまでの成長経済を前提とするものから、経済の成熟化に対応する新しいシステムに、大きく作り直す必要に迫られています。

 こうした一国の経済・社会システムを形作っている制度の変革は、利害の対立という問題を不可避的に伴うものです。加えて、こうした利害の対立を、経済成長という「パイの拡大」によって緩和することは、ますます難しくなっています。経済・社会システムの抜本的な変革を、どのように国民の合意を取り付けながら、現実の経済社会の変化に適合するよう進めていけばよいのか、このことは、わが国にとってたいへん重い課題となっているように思います。

バブルの生成と崩壊

 以上みてきたように、わが国は80年代後半から90年代にかけて、21世紀の経済をリードし得る高付加価値産業を育成するとともに、経済・社会システムの抜本的な変革も行わなければならない時期にさしかかっていたといえます。そうした時期に同時並行的に生じたバブルの生成と崩壊が、日本経済の構造転換を様々な面で遅らせる方向に働いたことは事実だと思います。

 バブル発生に伴う国内需要の過熱や資産価格の上昇は、結果として、非効率分野の存続や不採算投資の拡大などを招くことになりました。金融面でも、間接金融から直接金融、あるいは市場型間接金融への移行が進むべき局面で、むしろ、地価の高騰が銀行貸出の膨張を招くことになりました。

 さらに、バブルの崩壊は、間接金融のウエイトが高い日本独特の金融構造とも相まって、不良債権問題や企業の過剰債務問題など、その後長期にわたり経済活動を制約し続ける、深刻な問題を生むことになりました。

 経済の構造調整を通じた効率的な資源の再配分は、本来、様々な経済主体が新しい分野を切り開こうとする前向きなリスクテイク活動の結果として、実現されるべきものです。しかし、バブルの生成と崩壊により、金融機関や企業がそうした前向きのリスクテイクを行っていく体力は、大きく損なわれてしまいました。

 こうしたもとで、90年代のマクロ政策運営は、バブル崩壊に伴う経済の下押し圧力への対処に追われ続けたと言ってもよいように思います。

最近の経済情勢

 次に、今後のマクロ政策運営について申し上げたいと思いますが、その前にまず、足許の景気動向につきまして、簡単にお話ししておきたいと思います。

 日本経済は、昨年前半は、グローバルなIT関連在庫の復元などを反映した輸出の大幅増加に支えられ、高めの成長率となりました。しかし、その後の景気は概ね横這い圏内の動きを続けています。

 この背景をやや細かくみますと、只今申し上げたような輸出や生産の増加を反映し、企業の収益は回復をみているにもかかわらず、企業は先行き不透明感から積極的な投資に踏み切るには至っていません。また、企業が人件費削減などのリストラの取り組みを進める中で、家計の所得環境は厳しい状況が続いています。こうした中で、総需要の過半を占める家計支出も、所得との対比ではまずまず健闘しているとはいえ、全体として横這い圏内の動きとなっています。

 海外経済が先行き緩やかな回復に転じていくことを前提とすれば、わが国の輸出も緩やかな増加に転じていくと予想されます。もっとも、当面、欧米経済の回復テンポはごく緩やかなものに止まると予想されるほか、これまで比較的高い成長を続けてきた東アジア経済についても、新型肺炎の影響などから、足許の成長は少なくとも一時的に鈍化している可能性が高いように思います。こうした点も含め、わが国の景気動向については、海外経済や金融システム情勢の影響なども含め、引き続き注意深くみていく必要があると考えています。

3.金融政策運営の考え方

持続的成長軌道への復帰とデフレ克服に向けた政策運営

 次に、日本銀行の金融政策運営の考え方について申し述べたいと思います。

 日本銀行は、日本経済をできるだけ早く持続的な成長軌道に復帰させ、デフレを克服するため、伝統的な金融政策の範疇を超えた、思い切った金融緩和を進めています。

 すなわち、日本銀行は2001年3月、短期金利がほぼゼロまで低下した中で、金融市場への資金供給を大幅に拡大する、いわゆる「量的緩和政策」に踏み切りました。この政策のもとで、日本銀行当座預金の残高は、量的緩和開始時の4兆円程度から、現在では30兆円近くまで拡大しています。

 さらに日本銀行は、この政策の枠組みを「消費者物価の前年比が安定的にゼロ%以上になるまで」続けると宣言しました。長期国債の買入れも徐々に増やしており、現在では、新規財源債の半分近くに相当する、年間15兆円弱のペースでの買入れを行っています。

 加えて、金融機関が、担保さえあればいつでも日本銀行の窓口から0.1%の公定歩合での借り入れができる「ロンバート型貸出」も導入しています。また、日本銀行はこの担保の範囲も大きく拡大しており、この結果、資産担保証券など多くの新しい金融商品が、適格担保に取り込まれるに至っています。

 先ほど申し上げたように、最近、海外中央銀行の当局者が、金利がゼロに達した後の金融緩和手段の可能性について言及しています。その内容をみると、資金供給の拡大や、いわゆる「時間軸効果」と呼ばれる金融緩和継続の宣言、国債買入れの増加、さらには中央銀行による民間金融機関への低利融資や適格担保の拡大などが挙げられています。日本銀行が現在行っている量的緩和政策は、このように、各国の中央銀行がなお「可能性」として捉えている非伝統的な緩和手段の多くを、既に実行に移しているとも言えます。

 このような量的緩和政策の効果は、金融市場では、明瞭に観察されているように思います。

 まず流動性の面では、わが国の金融システムを巡る問題や、米国のテロ事件、さらには対イラク武力行使など、さまざまなショックが加わるもとでも、金融市場では流動性逼迫の問題が生じることはなく、短期金利は、ターム物などやや長めの金利も含め、概ねゼロでの推移を続けています。こうした状況は、97年や98年頃の状況、すなわち、大手金融機関の経営破綻などを契機に、わが国銀行の流動性調達を巡る不安が台頭し、所謂「ジャパン・プレミアム」の大幅な拡大や企業金融の急激な引き締まりがみられた状況とは、大きく異なっています。

 さらに、日本銀行は「消費者物価前年比が安定的にゼロ%以上になるまで現在の金融緩和の枠組みを続ける」と宣言しているため、市場参加者は「現実のインフレ率がプラスになるまでは短期金利はゼロを続ける」と殆ど確信を持って予想できることになります。この結果、先行きの金利変動のリスク・プレミアムは大きく低下し、金利の低下効果は、より長めの金利にまで及んでいます。例えば、現在、国債金利は5年物で0.1%台、10年物も0.5%割れ、30年物すら1%前後と大きく低下しており、政府部門はほぼゼロ、ないしきわめて低いコストで資金調達を行うことが可能となっています。CPの発行金利など、民間の資金調達コストも大きく低下しています。

 しかし、このような思い切った金融緩和にもかかわらず、これまでのところ、実体経済活動や物価が明確に高まるには至っていません。この背景には、さまざまな要因が考えられます。

 一つには、バブル崩壊後、大規模な金融緩和を行ってきた結果、95年の段階で既にコールレートは0.5%割れ、長期金利も量的緩和政策の開始時点で1.5%前後と、長短金利の低下幅がきわめて限られていたことです。そうした下での様々な取り組みを通じた金融緩和の限界的な効果も、日本経済が大きな調整圧力を抱えている中ではかき消されがちでした。最近、各国の中央銀行が物価下落の問題に強い関心を寄せているのは、短期金利がゼロに達した後の金融緩和手段の効果について、その不確実性や定量的な限界が意識されていることによるものと言えます。

 もう一つは、先ほど申し述べたように、わが国において、金融機関や企業といった民間経済主体のリスクテイク能力が大きく毀損されているという問題です。

 金融緩和の効果が経済活動に波及するメカニズムは、民間経済主体のリスクテイク活動に大きく左右されます。例えば、中央銀行が金融機関に流動性を供給すれば、通常であれば、金融機関の流動性制約が緩む結果、貸出を増やしやすくなるといった効果が期待されます。しかし、現在、金融機関は流動性制約ではなく、不良債権問題などに由来する資本制約の問題から、貸出を伸ばしにくい状況になっています。このことが、これまでマネタリーベースが高い伸びを続けているにもかかわらず、銀行貸出は減少を続け、マネーサプライの伸びもなかなか高まらない大きな原因となっています。

 同様に、量的緩和政策の効果として期待される「ポートフォリオ・リバランス」、すなわち、短期金利がほぼゼロに低下したもとで、流動性の供給を通じて金融機関のリスク資産への投資を促すというメカニズムも、結局、金融機関がどの程度積極的にリスクを取れるかに大きく依存しています。少なくともこれまでのところ、金融機関は、供給された流動性の殆どを現金や日本銀行当座預金、国債など、相対的にリスクの小さい資産の保有に充てており、積極的にリスク資産への投資を増やす行動はとっていません。

 このように、日本銀行の金融政策は、金利のゼロ制約という、金融緩和を実施するに当たっての本質的な問題に加え、わが国経済が抱える民間のリスクテイク能力の低下や金融緩和の波及メカニズムの機能不全といった問題の下で、いわば二重三重の制約の中での戦いを強いられている状況といえます。

 この問題は、金融政策だけでなく、近年のわが国のマクロ政策に広く共通する悩みであるように思います。

 私は90年代を通じて、財政政策を実施する立場に身を置いてきました。この間、わが国は金融・財政の両面で、大変な規模の政策対応を余儀なくされてきました。しかしながら、財政政策は様々な政治的状況の中で決定されるものであることに加え、成長期待が低下し民間のリスクテイク能力も毀損されている状況の下で、公共投資や減税といった政策の効果も制約を受け続けてきたように思います。すなわち、金融緩和の波及メカニズムが十分働かないという金融政策当局者の悩みと同様、財政当局も、財政出動が民間支出の増加になかなかつながっていかないという、同じような悩みを抱え続けてきたといえます。

更なる政策対応を巡る留意点

 こうした中で、景気回復とデフレ克服のため、さらにいかなる政策手段があり得るのかを巡っては、外部の方々からさまざまなご提言を頂くことがあります。日本銀行は、これらのご提言にも十分耳を傾けながら、幅広い政策の選択肢について真摯に検討を重ねています。本日は、今後の政策の選択肢を考えるにあたり重要と思われる論点について、簡単に申し上げておきたいと思います。

 まず、デフレの克服は、経済の健全な発展を実現することによって、達成されなければならないということです。

 これまで申し述べてきたような経済の市場化の波やグローバル化の進展を踏まえれば、今後、わが国が経済の繁栄を続けるためには、海外諸国との良好な関係を維持しつつ、民間の力や市場の機能を最大限に活かしていく必要があります。

 仮に、自由な市場を中長期的に歪め、経済の非効率化をもたらしたり、あるいは海外諸国との関係を大きく損なうような政策を採れば、21世紀の日本経済の繁栄の可能性自体を閉ざしてしまうことになりかねません。さまざまな政策の選択肢が、日本経済が今後目指すべき方向と果たして整合的かどうかという点は、重要なポイントであると思います。

 また、経済政策を行う上では、人間の予測を超えるさまざまな不確実性に機動的に対応し、経済の安定化を実現できる政策対応能力を確保していけるよう、留意する必要があります。仮に、この点について国民や市場の信認が失われることがあれば、先行きの経済や市場を著しく不安定化させてしまうことになります。また、これまでの歴史の経験は、政策当局がいったん信認を失った場合、これを後で短期間のうちに取り戻すことは極めて難しいことを示しています。

 さらに、独立性を与えられた中央銀行として、国民に対するアカウンタビリティという点についても、十分に配慮する必要があります。

 先行きの政策の選択肢として、しばしば、中央銀行が通常は買わないようなリスク資産の購入などが、外部からご提案されることがあります。

 しかし、中央銀行はあくまで「国民の持ち物」であり、中央銀行が何らかの資産を買うということは、実質的には、国民のお金で買うということになります。

 金利がゼロに達し、オーソドックスな金融緩和手段を使い果たしたもとで、中央銀行として、時に財政政策との境界に近い領域での政策対応を模索せざるを得なくなっている面があることは否定できません。しかし同時に、様々な政策の選択肢について、それが国民に対してアカウンタブルなものかどうかという観点も十分に踏まえながら、バランスの取れた判断を行っていく必要があります。とりわけ、そうした手段が、所得やリスクの分配に影響を及ぼす度合いが強いものであるほど、より慎重な配慮が求められると思います。

インフレ・ターゲティングを巡る論点

 次に、インフレ・ターゲティングを巡る問題について、簡単に申し述べたいと思います。

 金融政策が実現を目指す「物価の安定」という状態を望ましいインフレ率の数値として示す「インフレ・ターゲティング」は、現実にいくつかの国で採用されている枠組みです。しかし、わが国におけるインフレ・ターゲティング採用論の背景には、「名目金利の低下余地が限られている中、人々のインフレ予想を高めることで、両者の引き算として計算される実質金利を下げられないか」という考え方があるように思います。その意味で、わが国におけるインフレ・ターゲティングは、各国とはやや異なる状況のもとで議論されているように感じられます。

 結局、インフレ・ターゲティングが、本来の狙いである金融政策の透明性の向上や、人々の期待の安定化に寄与するかどうかは、インフレ目標がどの程度クレディブルなものか、すなわち、インフレ目標を実現するための手段やメカニズムの裏付けがどの程度確保されているのかに、大きく依存するように思います。

 先ほど申し上げたような、現在の金融政策運営を取り巻く二重、三重の制約といったことを踏まえれば、少なくとも現段階において、そうした裏付けはやはり十分とは言い難いように思います。

 もちろん、中央銀行として、金融政策の透明性を高めるためにどのような方策があり得るのか、真摯に検討を重ねていく必要があることは言うまでもありません。日本銀行としても、インフレ・ターゲティングは、金融政策の対応余地やその波及メカニズムが確保された段階では、そうした重要な道具立ての一つとなり得るものとの認識は十分有しており、今後とも検討を続けるべき問題と考えています。しかし、その前に、まずは金融緩和が経済活動や物価に影響を及ぼすメカニズムを強化する取り組みが重要ではないか、また、それこそが本質的な問題ではないかと感じています。

 また、仮に、日本銀行が現段階でインフレ・ターゲティングを採用していないことをもって「日本銀行がデフレ脱却に消極的である」とみる見方があるとすれば、それは全くの誤解です。

 日本銀行は、できるだけ早く、インフレ率をゼロを上回る水準、すなわち若干プラスの水準に戻し、これを持続的・安定的に確保したいと考え、そのために全力を挙げています。この点は、是非ともご理解頂きたいと思います。

金融緩和の波及メカニズムの強化

 日本銀行の金融政策運営に当たっては、先ほど申し上げたように金融政策が様々な制約の下に置かれている状況の下で、現在十分に働いているとは言えない金融緩和の波及メカニズムをいかに強化していくかという課題が、きわめて重要であると思います。

 銀行部門の信用仲介機能が万全でない中にあって、金融緩和の波及メカニズムを強化する方策としては、銀行貸出を補完・代替し、中堅・中小企業などの資金調達の円滑化に資する、いわゆる市場型間接金融市場や直接金融市場の育成のため、中央銀行として可能な貢献を行っていくことが考えられます。

 日本の金融構造の特徴である間接金融のウエイトの高さは、景気悪化などのショックがある程度の範囲内に止まる場合には、これを銀行資産のプールの中で吸収し、経済への影響を平準化する役割を果たしてきました。しかし、そうしたショックが、資産価格の下落などを伴いながら大規模に起こる場合には、むしろ、銀行部門への損失の集中が銀行のリスクテイク能力の著しい低下をもたらし、これが企業金融環境の引き締まりを招くといった形で、ショックを増幅する面があると考えられます。

 この点、銀行貸出を代替し得る資金仲介市場が十分に発達すれば、こうした問題はある程度緩和されることが期待できます。

 すなわち、企業にとっては資金調達の円滑化につながることは勿論、そうした市場が発展することが、リスクを反映した貸出金利の形成を促すなど、銀行の融資行動の様々な動機付けにもつながります。さらに、企業向け与信に伴う信用リスクを引き受ける主体が広がれば、その分、銀行のリスクテイクの余地も増えます。一方で、投資家にとっても、リスクとリターンの組合せの選択肢が広がることになります。このような資金仲介の仕組みは、経済の成熟化が進展するもとでの企業の金融ニーズに対応していくためにも不可欠であると思います。

 このような問題意識に立って、日本銀行は本年4月に、売掛債権や貸付債権といった中堅・中小企業関連資産などを裏付けとする資産担保証券を、時限的に買い入れるための検討を進めることとしました。その後、市場参加者の意見も聴取した上で、先週11日の金融政策決定会合において、具体的な買入れの方法などを決定したところです。

 言うまでもなく、中央銀行が民間の信用リスクを直接負担することは異例の措置です。しかしながら日本銀行は、今後の金融システムに求められる機能や、わが国金融機関の信用仲介機能が万全とはいえない現状を踏まえ、資産担保証券市場の育成を通じて企業金融の円滑化を図り、金融緩和の効果を強めることが是非とも必要だと考え、敢えてこうした措置に踏み切りました。

 同時に日本銀行としては、この措置を実施するに当たり、市場機能を歪めることはないか、また、日本銀行の財務の健全性をどのように維持するかといった点にも、細心の注意を払っていく方針です。

4.日本経済の再生のために

幅広い主体の取り組みの必要性

 次に、日本経済の再生を実現するために必要な取り組みについて、私の考えを簡単に申し述べたいと思います。

 冒頭に申し上げたように、世界経済の構造変化やエマージング諸国の工業化が進む中で、わが国は、先進国として相応しい付加価値を創造し、21世紀の経済を支える産業セクターを国内に育てていかなければなりません。先行き、成長の源泉を人口の増加に求めることが最早難しく、経済の「パイの拡大」は生産性の向上によってしか見込み難い中にあって、この面での取り組みは、わが国の経済的繁栄を確保するために必要不可欠といえます。

 同時に、これまでの成長経済を前提とする経済・社会システムを、成熟経済に対応するものに抜本的に作り直していくことも求められていることは、先ほど申し上げた通りです。こうしたシステムの変革は、それ自体、国民的な合意を得ることがなかなか難しいものですが、仮にシステムの変革が現実の経済社会の変化に立ち遅れることがあれば、人々のインセンティブへの影響などを通じて、経済の活性化をも損なうことになります。

 その一方で、バブル崩壊後、成長期待が低迷し、金融機関や企業のリスクテイク能力が損なわれているという、民間経済主体の側が抱える問題もあります。この問題は、個々の政策のレベルにおいて、政策効果を妨げる大きな壁として立ちはだかっているように思います。

 このように複雑に入り組んだ日本経済の課題を克服するためには、政府、民間および中央銀行があらゆる努力を結集する必要があります。

 そのためには、わが国が先行き、社会保障制度や地方制度のあり方なども含め、どのような経済社会の実現を目指しているのかというビジョンをしっかりと示した上で、そうしたビジョンと整合的な政策を積み重ねていく必要があります。

 21世紀の日本の繁栄は、投資や資金仲介など経済活動全般にわたり、民間の活力と市場の機能を最大限に活かすものでなければならないと、私は思います。

 もちろん、今の時点で民間にその役割を全て担うだけの十分な体力がなく、公的当局による何らかの政策的な支援が必要とされるケースもあるように思います。先月発足した産業再生機構は、このような政策的な支援が具体化されたものであり、今後の活用とその成果が期待されるところです。

 同時に、そうした政策やサポートは、全体として、市場機能を活かした民間主導の経済という、わが国の目指すべき方向との整合性が確保されていることが必要です。このような政策努力を積み重ねていくことが、民間の成長期待を高め、需要を引き出すことにもつながると考えます。

金融システムの再生に向けて

 最後に、金融システムの問題についても、一言だけ申し上げたいと思います。

 日本経済の再生のためには、わが国の金融システムが十分な信用仲介機能を果たし得る状況を実現することが、必要不可欠です。

 金融システムの健全化というと、とかく不良債権処理の問題に注目が集まりがちです。しかし、この問題は、金融システムの再生という大きな課題の、あくまで「重要な必要条件の一つ」であると思います。中長期的な観点から大切なことは、21世紀の日本経済を力強く支えることのできる新しい金融の仕組みを構築することであると思います。

 わが国の金融機関は、戦後、高い成長と民間の高い貯蓄率が共存する状況の下で、一定の資産規模を確保することを通じて収益を挙げてきました。また、金融機関の本質的な役割であるリスク・マネジメントの面においても、地価の「右肩上がり」が続く中、個々のプロジェクトの収益性やリスクを評価する手間の相当部分を、担保不動産価格のモニタリングで代替してきたように思います。

 このような、戦後の金融機関の収益基盤を支えた外部環境が大きく変化した中にあって、今、市場が注目していることは、わが国の金融機関が、先行き、従来のビジネスモデルに代わる新しいモデルを示し、十分な収益力を確立していけるのか、ということだと思います。

 金融機関の付加価値や収益の源泉は、結局、貸出や証券投資に伴う信用リスクや金利リスク、流動性リスクなど、様々なリスクを「コントロールしながらテイクする」ということに求められます。わが国の金融機関が、21世紀の日本経済を支えるとともに、自らの収益基盤を確保し得る新しいビジネスモデルを、市場に対し説得的な形で提示できるかどうかが、金融システムの再生や、ひいては日本経済の再生にとって、きわめて重要であると思います。この面についての金融機関のさらなる積極的な取り組みに、期待したいと思います。

 日本銀行は今後とも、金融市場の安定確保と緩和効果の浸透に努めるとともに、金融緩和の波及メカニズムの強化など、中央銀行としてなし得る最大限の政策努力を行っていく決意です。

 先ほど申し上げたように、日本銀行の金融政策運営に対する他国の関心が高まっている中、私は、何としても物価の安定を伴う持続的な成長を実現することを通じて、他国に対し、「反面教師」としてではなく、「デフレとの戦いに勝利した記録」としての手本を示せるよう、全力を尽くしたいと考えています。

 このような日本銀行の政策運営に対するご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げて、私の話を終わらせて頂きます。

 ありがとうございました。

以上