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歴史に学ぶ銀行の在りかた

全国銀行協会「金融」 (2004年 1月号) への中原眞審議委員寄稿

2004年 1月 5日
日本銀行

目次

1.はじめに

銀行への不満

 「銀行は要らない」。新年早々、穏やかでない話から始まって恐縮であるが、昨年、東京下町のある工業会々長とお会いした際にお聴きした言葉である。同氏曰く、「民間銀行は担保の積み増し、理不尽な金利引上げを要求してくるだけだ。どんな事業計画を持っていっても聞く耳を持たず担保しかみていない。将来の企業の成長性に着目して融資するということができないでいる」ため、「銀行は要らない」と言われる。

 ミクロの景気の動きを知るために、企業経営者の方とお会いすることも多いが、こうした銀行への不満をよく耳にする。食品関係の設備装置を製造している墨田区の中小企業の社長さん曰く、「銀行はいいですね、ストック商売で。我々は、どんなに今期売上をあげても翌期はゼロから始めないといけない。銀行は座っていればお金が入ってくるんでしょう」。銀行の収益は貸出や有価証券等の資産から生じるのが主であるので、新しい財やサービスを供給するために努力する必要がないのではないかというご趣旨であろうか。また、海産物を販売している中央区の老舗の商店主さん曰く、「銀行は今になって金利を引き上げてくれというが、昔は我慢して高い実効金利を払ってやったではないか。まず、昔支払った分を返せ」。これは、かつては、貸し手優位の中で拘束預金や協力預金が存在していたことを指摘されておられるのだろう。

 対する銀行側は何と応えるか?曰く、「企業の経営状況のモニタリング、市場動向のウォッチやリスク管理、巨大なシステム投資など、そもそもストックを維持するために多大なコストがかかります。また、銀行も『金貸し』から総合的な『金融サービス業』に変身して来ています。手数料ビジネスの開拓も進めているし、ストックにあぐらをかいて商売しているとのお言葉は心外です」、「需資の強い時代には、量の確保が難しい中でも十分に応えてきたではありませんか。我々も貴社の業容拡大に十分貢献してきたつもりです」というような弁明が可能かもしれない。一方では、このところ、銀行の融資態度に、やや変化が伺われているのも事実である。収益の回復や不良債権処理の進展から、「銀行の貸出態度が変わってきた」と指摘する企業も増えている。全体の需資が低迷する中、中小企業向けの無担保・無審査のローンは、銀行貸出の中で伸長している数少ない分野の一つであるし、将来性のある中小企業に対する貸出競争も始まっていると聞く。日銀の12月調査短観においても、中小企業による金融機関の貸出態度判断D.I.は、1年前と比較して「緩い」とする先が増加している。

新しいビジネスモデルを求めて

 もっとも、総じてみれば、依然として銀行の評判が芳しくないのは認めざるを得ないだろう。私自身、民間銀行出身なので、上述のような銀行批判に対し、「そうは言っても・・・」と反論するものの、その途端に「すわ回し者か」と睨まれることもある。

 このような外部からの批判に応えて、顧客ニーズに的確に対応できる銀行に脱皮する前提として、金融サービス業である銀行の経営戦略や収益改善策に関する議論が重要となる。改めて申し上げるまでもなく、不良債権問題を抜本から解決し、金融システムを安定させるためには、銀行が十分な収益をあげられるようにならねばならない。銀行の新しいビジネスモデルは何かとの議論が盛んだが、民間銀行に身を置いた経験から言うと、収益力を一挙に高め、一気呵成に不良債権問題を解決できるような普遍的な単一のビジネスモデルがあるとは思えない。そもそも、足許の不良債権は、日本経済の構造問題と結び付いている根の深い問題だ。外需によってもたらされたフロー収益の国内への還元と、その再分配を前提とした株価・地価等ストックの膨張、これらを担保とした信用供与によって経済を発展させるという旧来の日本経済の構造自体が大きく変化している。他産業と同様、銀行もこのような構造変化に対応した経営を行おうと必死になっているが、新しいビジネスモデルは、思い付きで生まれたり、"お上"から与えられるものではない。グローバル化や市場化の進む中での資源の再配分、求められる企業ガバナンスの変化、ITによる金融技術の革新や市場の拡大。新しいビジネスモデルはこのような変化の下で、それぞれの銀行が特色を生かし、経験と工夫を重ね、先見性を発揮しながら地道に開発し磨きあげていくべきものと思う。さらに、銀行業には様々な点で規制が多く、歴史的にみて、収益性の高い業務分野への参入が難しかったということや、公的な金融機能が肥大化し民間市場の拡大の妨げとなっていたことも忘れてはならないだろう。リテール業務の一部の分野や公共料金の振替等、「儲からないからやめる」とは言わせてもらえない分野も多い。新しい銀行のビジネスモデルといった場合、このような銀行に求められている公共性、社会性との関係をどのように考えていくべきかも重要なポイントである。

 しかし、だからといって開き直ることもできない。取引先企業のニーズを満足させるとともに、社会経済の構造変化に対応した経営を構築し、安定した収益をあげていく、そのために銀行は今後如何にあるべきなのか?明確な将来像は未だ見えていない。現在の姿に疑問を持ち、将来が不安になった場合、人間は過去を振り返るのが常だ。それは単なる回顧主義ではなく、「未来に希望を持っている徴」でもある1。新年にあたり、銀行の将来像を考えるヒントとして、その歴史をごく簡単に紐解いてみたい。もとより学究の徒ではなく、加えて紙幅の制約もあって、表層的なレビューとなることをお許し願いたい。

  1. 渓内 謙 「現代史を学ぶ」

2.銀行の歴史

西欧における銀行業の発達

 銀行業の起源は明確ではない。メソポタミヤでは早くも紀元前3000年に、寺院や土地所有者による貸付が行われていた。神殿は規則的な供え物と所領を有し、それを貸付けて利殖を行った2。爾後、銀行業の本格的な発展は、Bankという言葉が中世イタリアの市場で使われた商人の取引台である"banco"に由来するように、中世の西欧交易商人による絹や香辛料貿易と、それに対する信用供与技術が結び付いてからであった。遠隔地との財の取引・決済を可能とする為替手形の開発は、銀行業と財の生産・交易を両輪とした中世の西欧経済を発達させることに役立った。ヨーロッパ各地の物産が交換される国際定期市は、交易商人兼銀行家が特に活躍する場であり、例えばリヨンでは、銀行の店舗は16世紀のはじめ169店にものぼったという3。こうした中、メディチ家に代表されるイタリア人は商人から銀行家へと転職していった。1550年にあるフランス人の批評家は、「イタリア人は手ぶらで身の回り品以外には何も持たずに定期市へ旅する。彼らの身に付けているものといえば、僅かばかりの信用、ペン、インクと紙、そしてどこでお金がもっとも不足しているかについての自分達の持つ情報にしたがって、ある国から他国へと為替を操り、処分し転用する熟達した技術だけであった」と記している。

 銀行業が経済社会システムの近代化に果たした役割にも注目したい。中世ヨーロッパの経済は土地所有を基礎としており、教会と国家の利害に即して運営されていた。富と収益の大部分は階層的で固定された封建機構の維持に振り向けられ、貨幣、資本および信用は、物々交換と「現物」支払いに対し副次的な役割しか果たさなかった。銀行業の発達は、富の源泉を、土地所有以外、財・サービスの供給に求めることも促した。つまり、銀行業の発達は近代市民社会を築く礎にもなったとも言える。

 西欧の歴史にみた銀行業発達の次の契機は、膨大な国家の債務管理と産業革命であった。17〜18世紀の相次ぐ戦乱によって、いずれの国も財政赤字が慢性化していた。財政赤字は、伝統的に土地の売却、没収、債務不履行の3つを取り混ぜた野蛮な方法で補填されていたが、国家の資金調達・償還計画を組織的に管理することが求められていたほか、戦費の調達・送金を迅速に行う必要もあった。また、18〜19世紀の産業革命によって力をつけた市民層に対し、増大する財・サービスの取引に見合った金融サービスが提供されねばならなかった。国家債務の管理を行い、預金の受け入れや為替手形の引き受け、銀行口座間での債権の振替を行う近代的な銀行の必要性が高まったのである。こうした状況下、個人銀行家ではなく、非個人的かつ効率的な銀行が、17世紀初頭アムステルダム振替銀行を嚆矢として各地で設立された。また、国家債務の管理によって業容を拡大したマーチャント・バンカー達は、株式会社組織形態の採用と支店制度の発展によって業容を拡大し、大規模な鉄道等インフラや公益事業向けの新資本獲得にも携わった。

 なお、国家債務の管理を「ステイト・バンク(国の銀行)」にも負担させるため、同時期に中央銀行システムも確立されることになった。中央銀行は、政府への単なる貸付機関に止まらず、業務を多様化していく。1694年に設立されたイングランド銀行は、貨幣ならびに信用制度の体系を国家的な規模で整えるため、銀行券の発行を独占し始めた。また、1720年、南海諸島と英国間の貿易権を独占していた南海泡沫会社へのバブル投機熱が消滅すると、値崩れしたその株式を買い支え金融資本市場のアンカーとしての役割も担っていった。

  1. 2アシル・ドーファン=ムーニュ 「銀行の歴史」
  2. 3「西欧商人にとって定期市が特に重要であったのは、国内外の負債を決済するうえで、その果たした役割である。それぞれの定期市はその開催期間中に生じた債務を清算して終了したが、そこで清算されない債務ないし債権があれば、次の隣接する定期市へ繰り越すことができた」(エドウィン・グリーン「図説銀行の歴史」、以下、この項における記載は同書に依る)。

我が国における銀行業の発達

 日本における銀行業は、以上のような過程を経て西欧諸国が確立した近代的な銀行および金融システムを、安政の開国時から学習したことに始まる。この学習に基づいて、明治政府は、両替商を株式会社へと組織化し、1878年には153行の国立銀行に免許を与えた。また、一国経済の根本である幣制確立のため、1885年に日本銀行兌換銀行券を発行した。爾後、銀行の乱立に伴う金融システムの脆弱性や兌換準備(正貨)不足4などの問題はあったものの、日本の金融組織と制度は、開港から四半世紀余りのうちに欧米と並ぶ水準へと変革できた。これは、明治政府による数多くの近代化(軍隊組織、学校教育制度、地方行政組織等)の中でも瞠目に値する。

 この変革を可能にした要因の一つは、江戸時代、都市部で両替商によって培われた日本の金融技術が、欧米並みに発展していたことだろう5。開国時、銀行業務を学習した際、イギリスの金融業務の翻訳において金融術語でおよそ該当する日本語のないものはなかったという6

 開国まで、日本独自に培った金融取引・慣行も枚挙に暇が無い。例えば、江戸時代の商取引は、大阪堂島の米市場において世界で初めて先物取引が行われていたほど進んでいた。こうした商取引の中心を担った株仲間7は、彼ら特有の取引ルールを持っていた。株仲間は、仲間のうち一人に対して不正を働いた取引相手に対して、仲間全員が将来に渡って取引を停止したそうだ。この取引ルールは、ゲーム理論における反復ゲームのフォーク定理(folk theorem)、または多角的懲罰戦略と呼ばれるものにほかならない8。また、金融法制に係る担保の取扱にも興味深い例がある。明和年間(1764〜71)、京都の商人が荒物を担保に借入を行った証文には、「・・・右質物ニ差入候道具我等日用品ニ付、別段御願申、慥預申処実正也、返済相滞候節者右道具夫々急度御渡可申候、・・・(右の質物として差し入れました品々は、私どもが日々商品として扱っているもので、特にお願いし<商品の占有権を移さずに>、貴所に預けた<所有権を移した>ことは間違いありません。債務の返済が遅延したときは、右商品は全て必ずお渡しします)・・・」との文言がある。現行民法では、特別法がある場合は別として、動産に対する抵当制度が設けられていない。しかし、江戸時代には、動産抵当ないし動産譲渡担保の形態が存在した。さらに、この場合、驚くべきことは、荒物という流動的集合動産(日常の商売道具として新規購入すれば増え、第三者への売却や毀損で減少する)を担保としていることである9。精緻な法的安定性はともかく、担保制度の先進国である西欧に勝るとも劣らぬ金融取引が行われていた。日本独自の優れた金融取引として、最後に、新選組局長の近藤勇の例をお話ししたい。1863年京都守護職松平容保預りとなった新選組は、近代的な軍隊設備を整え尊王派に対決するため、資金力を強化する必要に迫られていた。局長である近藤は、鴻池始め大阪の大手両替商からの資金調達ルートを強化するべく奔走した。当初、その交渉は京都守護職を笠に着た強請に近いものであったが、最終的に両替商と締結した約定書は極めて先進的な利便性に富むものとなった。一々手形を書く煩いを省き、全ての借入に共通して適用される基本約定書を最初の取引で提出させることで済ませ、しかも、借入の相手方である両替商の名前を連記することにより、借入時点で資金繰りにゆとりのある者からの調達が可能であった。このような金融の仕組みは、現在、正にいずれの銀行も成長分野と期待しているコミットメントラインやシンジケート・ローンを連想させる10

 日本の銀行の別観点からの特徴は、各金融機関が地域の産業と結び付いて発展してきたという点もあると思う。戦前の日本では、「生糸から軍艦が生まれる」というほど製糸産業は重要であった11。生糸の生産・流通は、養蚕農家からの繭の購入、選繭・煮繭・繰繭・揚返による製糸、生糸の倉庫への保管と横浜・神戸への運搬、海外への輸出というプロセスを辿るが、このそれぞれの過程でファイナンスが必要であった。これに対し、ある地方銀行は、智恵を絞り、繭・生糸・不動産を担保に、当座貸越や手形貸付の形態で製糸会社に資金を供給したそうだ12。この地域では、戦後、製糸から繊維工業、精密機械と産業が高度化していく中で、銀行が積極的な資金融通を図ってきた記録も残っている。また明治年間であるが、「・・・本行ハ県下ノ重要産業ノ発展ヲ助成センガタメニ支店ヲ設ケ此汽船ト馬背トニ依ッテ現金ヲ輸送シタ・・・」との記述もみられるが、これは、県内の主力産業である製茶の資金融通円滑化を図るため、製茶商人とともに、輸出する港まで馬に現金を積んで運んだ事実のようである。このほか、終戦直後、天災により打撃を受けた地域経済を救うため、地方銀行間の協力もあった。天災の被害者のために急遽設立されたある銀行は、当初支店が全くなかった。このため、同じ地域のライバル行が、自行の全支店を対象としてコルレスを開いたという寛容な例もみられる13

  1. 41878年、国立銀行が153行で打切りになってからも、銀行は、私立銀行や銀行類似会社として増加し、1901年には2,308行に達した。行数過多は、弱小銀行の多数と過当競争による銀行体質悪化を意味していた。また、日銀兌換券の発行は、当然その兌換準備、対外支払の備えを必要とした。しかし、軍備増強や重化学工業は、対外収支の悪化をもたらし、正貨不足が恒常的であった(玉置 紀夫「日本金融史」)。
  2. 5両替商は「仲間申定書」と呼ばれる内規を作成し、両替仲間取引(現在のインターバンク取引に相当)や顧客との取引の標準形を定めていた。安政3年(1856年)の申定書の中には、「取引通手尻貸に相成り候はば、月々日歩銀通帳え付き出し、勘定〆仕候後入銀等もこれなく候節は、前月の〆高銀に相立て候(取引残高が貸越になりますと、毎月、日数で計算した利息を通帳へ付け出して赤算を増やし、勘定を締め切った後も入金などが無かったとしますと、前月の〆切残高にプラスします)・・・」との記載があり、現在の総合口座取引が既に行われていたことが分かる(谷 啓輔「金融約定成立史の研究」)。さらに、都市部と同様、農村部においても、土地を媒介とした金融取引は盛んであった。徳川政権は、土地の売買を禁止したが、借金の元利を一定期間の土地からの収益によって返済する「年季売」や、買戻し条件付きの売買である「本物返し」という売買に近い取引が行われていたという記録もある(岡崎 哲二「江戸の市場経済」)。
  3. 6玉置 紀夫 前出
  4. 7株を有するものが相寄り集まって結成する集団、ここで株とは公権力によって認可された営業特権を意味する(岡崎 哲二 前出)。
  5. 8取引が一回限りで終らない場合、プレイヤーは行動選択の際に、次回以降のゲーム展開に与える影響をも考慮しなければならない。いま不正を働くことが莫大な利益をもたらしても、将来にわたって取引機会を喪失するならば、不正を働くインセンティブは著しく減少する。逆に、一回でも不正を働いた者は、次の不正による追加的なダメージが少ないから、複数回の不正を犯しやすくなる。こうした者は当初より取引から排除しておいた方がよい(岡崎 哲二 「経済史の教訓」)。
  6. 9谷 啓輔、前出
  7. 10新選組は、隊士管理という面においても、近代的な戦闘集団であった。例えば、隊士に対し、家柄とか長男・次男で設けていた石高制による現物給与に代え、毎月現金でサラリーを支給した。また、戦闘で傷ついた場合には、全快するまで給与の支給を続け、万一、闘死した場合、妻子に多額の弔慰金を支給し後顧の憂いを無くした(谷 啓輔、前出)。
  8. 11これは、日本の蚕糸業が、国内での猛烈な競争を通じ極めて高い生産性を有していた証でもある。最初に外国語に翻訳された日本の本(1848年)はフランス語に訳された蚕糸の本であった(川勝 平太 「富国有徳論」)。
  9. 12日本金融新聞、地方金融史研究会 「日本地方金融史」(この項の地域金融に係る例示は同書に依る)。
  10. 13コルレスを開いてもらった銀行の頭取は、後にこのように回顧している。「コルレスなんていうのは、皆からみればたいしたことないようですが、これが銀行の生命ですからね、しかも支店がないのですから。それをすぐに開いていただく、全支店。これは何とも有難いことだと思った・・・(中略)・・・(ライバル)銀行との間には取引上の喧嘩は日常やっていると思いますが、裏では、そうしたお取引やご援助を頂けたということが、われわれ、今日あることじゃないでしょうかと、私は思っています」。

3.歴史に学ぶ銀行の在りかた

 以上のレビューから学べることは何か。先ず一つは、銀行業は、経済の変貌に対し自ら変化し、それを支え、また時には先導する存在であったということであろう。換言すれば、産業と銀行業の発達は不可分であった14。産業と銀行業が不可分であったということは、銀行が旧来の経済社会システムによって蓄えられたストックをフローへまわす、産業構造の転換を促してきたということでもある。中世の西欧において銀行が収益の源泉を土地から財・サービスの供給・需要へ変えたこと、日本の銀行が地域産業を積極的に支援する中で発達してきたことがそれを示している。

 戦後、灰燼の中から始まった経済復興は、現在、1兆ドルの対外債権、1,400兆円の個人資産として結実している。銀行は、次世代の発展のため、このストックをフローに転換していく、あるいはストックからフローを生み出すための役割を主体的に果たすべきだ。成長分野をみつけ、金融サービスを通じて育成する、これによってストックがフローへと転換する。金融サービスには、当然、単に貸付を行うばかりではなく、決済・送金や財務リストラへのアドバイスといった役務も含まれる。こうした本分を果たしている銀行は、決して「ストックに安住している」とは言われないだろう。

 第二の教訓は、変革の時代の厳しい経済環境は銀行の発展の契機でもあるということだ。西欧や我が国の銀行の発展の歴史は、経済や時代の大きな変革が新しい金融サービスを生み、それが次代を支える新しい産業や富の源泉を創り出すことを示している。戦争や天災など国運が危機に瀕するとき、国家の債務管理が困難になるときこそ、金融という足腰の強さが重要だ。金融サービスへの要求がdemandingになるときこそ、それが銀行にとってのひとつのチャンスであり、銀行の経営の差がでてくることになろう。

 失われたこの10年の間の銀行を巡る環境は、歴史にみるいくつかの時代と同様、後世の歴史に語り継がれるものとなるだろう。足許の厳しい局面は、なお続く。資金需要があるのは公共部門だけで、民間の需資は極めて弱い。景気は回復過程にあるとはいえ、いまだ内需主導の自律的な前向きのモーメンタムは弱い。グローバルに活動する企業も、海外で稼得した収益を投資機会のない国内には還元しない。銀行は、国内で待っていても企業との商売機会が無い。家計はリスク回避指向が強く、金融商品への選別眼も厳しくなる一方だ。しかし、一方で、このように厳しい環境だからこそ、単なる融資業務から脱皮するチャンスだろう。情報通信技術のより一層の応用、海外進出先へのキャッシュ・マネージメントサービスの提供、個人のライフサイクルに併せたクロスセル(幅広い金融商品の提供)やアップセル(高度、複雑な金融商品の提供)等、顧客を満足させる金融サービスについて智恵の絞り甲斐もある時代になって来た。満足するサービスを提供する銀行に対し、「昔払った金利を返せ」という顧客はいない。

 さらに、今一つの歴史の再発見は、日本は金融取引の面で、部分的ではあるが、すぐれた経済社会システムを持っていたということである。先述したように、欧米から銀行制度が移植される前、日本の金融サービス取引は、既に欧米に比肩し得る制度や独自のシステムを有していた。

 「日本あるいは日本人は金融という産業に向かない」という意見がよく聞かれる。この意見は、デリバティブ取引等の新しい金融技術において、欧米の銀行に一日の長がある点、または日本の銀行が時としてウェットな取引慣行に縛られてきた点に注目したものだろう。しかし、鎖国という制約の中でも、両替商等日本の金融業者が、開国までに、欧米の銀行に比肩する顧客取引、担保の取扱や取引慣行を開発していたという歴史の事実は我々を勇気づけてくれる。膨大な海外資産や国内の金融資産、日本の技術の揺り篭とも言うべき層の厚い中小企業群、発達した情報通信技術、そして何より勤勉な国民性を持ち、発展するアジアに立地する日本で国際的にも競争力のある銀行業が発展しない理由はない。むしろ、銀行を、さらには金融サービス産業も世界に向けての日本の経済発展の戦略的な分野と位置付け、その認識を共有し高めていく努力こそ求められるのではないか。金融の分野において、日本発のグローバル・スタンダードがでてくることも決して夢物語ではない。

  1. 14エドウィン・グリーン 前出

4.おわりに

 明年春からのペイオフ完全実施、再来年の新BIS規制導入は、全銀行一丸となって乗り越えねばならない大きな課題である。今後、今まで経験したことない大きな厳しい環境が待っているかもしれない。しかし、縷々述べた歴史から学べる教訓は、決して悲観することはないということではないか。戦後蓄えた豊かな富を次世代に引き継ぐため、今ほど銀行の叡智が求められている時代はない。換言すれば、いつの時代であっても「銀行は要る」どころか、「経済社会発展の要である」ことを証明するのが、私を含め銀行業に携わる者の責務と認識している。

 全銀協関係の皆様にとって、本年が大いなる飛躍の年であることを心より祈念致し、以上をもって新年のご挨拶とさせて頂きたい。

以上