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今後の金融経済情勢—景気回復シナリオの再点検

2005年6月29日、日本経済研究センターにおける水野審議委員講演要旨

2005年6月30日
日本銀行

[目次]

  1. 1.景気回復シナリオの変化
  2. 2.景気の振幅を小さくする「経済のサービス化」と「物価の安定」
  3. 3.なぜ中国向け輸出が伸び悩んでいるか?
  4. 4.余剰感が払拭された労働市場
  5. 5.量的緩和政策は「魔法の杖」ではない

 本日は、ご多忙の中、皆様のご出席を賜り、講演の機会を得ましたことを大変ありがたく、また光栄に存じます。本日は、日本経済研究センターにおける講演でもありますし、「今後の金融経済情勢—景気回復シナリオの再点検」と題して、今回の景気回復局面の特徴点を中心にお話したいと思います。最後に、金融政策に関して、少し長めのスパンの話を中心に若干コメントさせていただきます。

1.景気回復シナリオの変化

 日本銀行は、先行きの景気について、遠からず「踊り場」を脱却できるというシナリオを想定しています。その際には、輸出が回復し、生産が持ち直し、景気全体としても回復の動きが明確になることを想定してきました。以下では、このシナリオを再点検したいと思います。

 まず、実質輸出は、世界経済の減速やIT関連財の需給緩和のほか、中国要因もあって、昨年後半から伸びが鈍化しています。季調済前期比の伸び率は、昨年4~6月期+3.2%、7~9月期+0.3%、10~12月期+0.5%、今年1~3月期+0.7%の後、4~5月は1~3月期対比+1.1%となっています。

 特に昨年夏頃に始まった中国向け輸出の伸び悩みが、それまでは増加の寄与度が大きかった資本財(一般機械・建設機械)を中心に広範な財にわたってみられ始めました。後で詳しく説明しますが、中国での景気過熱抑制策の影響が在庫圧縮や設備投資の調整を通じて及んできたためとみられます。先行きについても、中国向け輸出の回復は想定していたよりも時間を要しそうです。

 次に、生産については、(1)中国向け輸出が年後半から回復するにしても、2002年~2004年前半までのようなペースで増加する可能性は低いこと、(2)IT関連における在庫調整は着実に進捗しているが、4月は情報関連の輸出が中国要因から減少したほか、電子部品・デバイスの生産・出荷も減少となったこと、(3)IT関連の最終需要は力強さを欠くとの見方が有力な中、今年後半にIT関連の生産が大幅に増える公算は低いこと、などから、2005年度の回復は力強さに欠けるものになると見込まれます。

 一方、うれしい誤算は、足許で個人消費と設備投資が予想以上に堅調なことです。非IT分野も含めた企業部門全体をみると、企業収益が引き続き高水準であることが法人企業統計で改めて確認されます。過去数年にわたる企業収益回復を受けて、慎重な企業行動に変化がみえ始めたことです。例えば、設備投資の増加は法人企業統計や資本財出荷で確認されました。2005年度上期の設備投資計画の積み上げがみえます。過去数年にわたりキャッシュフローが潤沢にもかかわらず資本ストックの伸びを抑制してきた反動かもしれません。また、業績連動によるボーナス支給額の増加、パート比率の頭打ち感、新卒採用の積極化など、企業の雇用スタンスに変化がみえます。こうした労働市場の動向については、後程詳しく述べたいと思います。

 ここで個人消費と設備投資の動向を確認したいと思います。

 個人消費について若干コメントすると、GDPベースでは、昨年後半に弱めの動きとなった後、1~3月は、はっきりと増加に転じました。4月以降の個別の個人消費関連指標をみると、乗用車の新車登録台数(除く軽)は4月に大幅に増加した後、5月はその反動減が小幅にとどまり、4~5月の1~3月期対比は+6.1%と相当強い数字となりました。家電販売額(NEBAベース、実質)は、パソコン、デジタル家電、高付加価値の白物家電などを中心に、順調な増加が続いています。全国百貨店売上高も、1~3月期に続き、4、5月も衣料品を中心に回復しています。サービス消費関連の統計をみても、外食産業売上高、旅行取扱額ともに、今年に入ってから増加基調にあります。

 これらの財・サービスの販売統計の動きを合成した販売統計合成指数をみると、1~3月にははっきりと改善した後、4月も緩やかに増加しています。財のみについて生産者段階で包括的に捉えた消費財総供給も増加傾向をたどっています。消費者コンフィデンスも引き続き、総じて良好です。4月の第3次産業活動指数の小売業をみると、1~3月期の前期比+2.3%に続き、4月も前月比は+2.7%、1~3月期対比は0.8%と堅調な数字となりました。底堅い動きとなっているサービス消費は、個人消費全体に占めるウエイトが高まってきています。そうした「経済のサービス化」についても、後から触れたいと思います。

 設備投資についても明るい兆しがみえてきました。法人企業統計によると、製造業の設備投資は1~3月期の前期比が+2.2%と、3四半期連続の増加となりました。非製造業も1~3月期は前期比+4.9%と回復しました。日銀短観(6月調査)で設備投資動向を確認したいと思っていますが、以下の理由から、今年度の設備投資はまずまずの伸びをみせる公算が高いと思っています。

  • 機械投資の同時指標である資本財出荷(除く輸送機械)は、4月は1~3月期対比+10.5%と大幅に増加したこと。
  • 日本経済新聞の「2005年度設備投資動向調査」によると、全産業の当初計画は前年度比+10.1%(2004年度実績は同10.3%)と、バブル期後初の2年連続の二桁増となったこと。内訳は、製造業が同+13.2%、非製造業が同+5.6%。
  • 主要企業に対する日本銀行のヒアリングによれば、2005年度の国内設備投資は、多くの業種で前年比増加が見込まれていること。製造業では、素材業種(鉄鋼、化学、非鉄金属)が能力増強投資を増額し、加工業種(自動車、一般機械、電気機械)は増加基調を維持する見込みにあるほか、非製造業では電力・ガス、鉄道、通信などウエイトの大きい業種で増加する予定にあり、とりわけ電力・ガス、鉄道は安全対策投資など維持・改良投資を増額していること。

 4月の稼働率指数(基準年次は2000年)は106.2(季調済前月比+4.3%)まで上昇しています。特に設備投資を抑制してきた鉄鋼業は113.0、非鉄金属は107.2と高い数字となっています。ほぼフル稼働状態にある素材業種は漸く設備投資を増やすと見込まれます。製造業の設備投資について、一部では、「輸出の回復力が弱いため、余り増額は期待できないのではないか」という声があります。しかし、今後は個人消費関連の設備投資が増えるように思います。

 以上みてきたように、わが国の民間内需については、個人消費が予想外に好調なことに加え、最近では設備投資計画を上方修正する動きがみえます。このような動きが続けば、中国向け輸出の回復が遅れても、景気回復のメカニズムは途切れないと思われます。現時点で中国要因による輸出の伸び悩みをもって、わが国の景気見通しに過度に弱気になる必要はないと判断しています。

 私は個人消費については以前から楽観的でしたが、雇用者所得の増加にもう少し弾みがつけば、個人消費回復の持続力は高まるはずと考えています。また、雇用・所得環境の改善だけでなく、配当所得の増加、株価・地価(不動産価格)の上昇など一定の資産効果が生じるならば、家計部門の支出は一層刺激されることになると思います。一方、設備投資の動きは、私にとってポジティブ・サプライズです。

 景気が「踊り場」を脱却できるかどうかの判断には、企業部門の好調さが、労働需給の改善という形で家計の恒常所得の増加につながり、個人消費を下支えする展開が持続するか、もう少し確かめる必要性があるように思います。個人的には、6月短観だけでなく、他の経済指標をもう少しみたいと思いますが、輸出統計や生産統計など市場が注目する統計が明確に改善しなくとも、遠からず「踊り場」脱却を宣言できるのではないかと考えています。「踊り場」脱却のシナリオは従来想定していたものと異なるものの、展望レポートで想定した民需主導型の景気回復シナリオは実現する可能性が強まってきたと判断しています。民需主導型の景気回復というと、資産バブル崩壊前の景気回復局面のように「派手さのある景気回復」をイメージされる方がいるかもしれませんが、潜在成長率が1%程度まで低下している中、もはや「地味な景気回復」しか展望しにくいと思います。福井総裁が使われている「地味ながら息の長い景気回復」という表現に私も同意します。

 私は5月まで、2006年度については、(1)景気回復のメカニズムが持続し、「いざなぎ景気」を超える息の長い景気回復局面になる可能性、(2)景気回復のメカニズムが途絶える可能性、のどちらも想定しておく必要があると思っていましたが、現在は、景気回復のメカニズムが途絶える可能性はかなり低下したと判断しています。「わが国の景気回復は輸出回復がきっかけとなり、企業収益が回復し、設備投資、そして個人消費に波及するパターンが典型的ではないか」という声を聞きますが、今年度から来年度にかけての景気回復は、多少そのメカニズムとは異なるかもしれないと思っています。

2.景気の振幅を小さくする「経済のサービス化」と「物価の安定」

 世界経済は、インフレ圧力が抑制された持続的な景気拡大が続いています。原油価格が既往最高値を更新し、素材価格も上昇傾向にありますが、これまでのところ世界景気に与える影響は過去の原油価格高騰局面に比べて限定的なものにとどまっています。

 主要国では、実質GDPに占める製造業のウエイトが低下する一方、サービス業のウエイトが上昇しています。製造業のウエイトは、米国は13.8%(2004年)、ユーロ圏は22.7%(2004年)、わが国は23.9%(2003年)まで低下しています。主要国では製造業の景況感が冴えない一方、サービス業の経済活動は着実に拡大しており、景気全体をリードしています。いわゆる「経済のサービス化」の進展に伴い、主要国経済は非製造業がリード役になるでしょう。そうした下で、製造業の在庫調整や設備投資調整に起因する景気のシクリカルな振幅が小さくなっていくことが期待されます。

 サービス業は多岐にわたり、市場からの参入・退出が頻繁なため、長期間にわたってデータを収集しにくい業種が多いという問題があります。民間部門のエコノミストは、比較的充実している生産・輸出関連の経済統計をみながら景気を分析する傾向があります。一方、日本銀行は、調査統計局内にミクロ調査チームがあります。主要産業ごとに担当者がいて、定期的に企業へのヒアリングを行なわせていただいています。ミクロ・ヒアリングはマクロ経済統計に比べて速報性に優れているため景気の先行き見通しをたてる上で役立ちます。もちろん同じ産業内でも企業間格差が目立ってきている業種があり、「スピードの経済」に対応して経営戦略を弾力的に見直す企業も増えてきましたので、マクロ経済統計や産業調査と併せて、総合的に景気判断を行なうようにしています。

 政策当局の立場から言えば、「経済のサービス化」は景気実態を十分に把握しにくくすると同時に、情報の非対称性の問題から、民間エコノミストと景気認識を共有しにくくなったという厄介な問題もあります。2004年5月の経済財政諮問会議で東京大学の吉川洋教授から、「わが国の統計制度は、人材、資源配分の歪みや経済のサービス化への対応の遅れなど、時代の変化に対応できていないため、政府として統計の改革に積極的に取り組むべき」という問題提起がなされました。それを受けて、「基本方針2004(いわゆる骨太の方針2004)」の中で、既存統計の見直し、統計精度の充実等が盛り込まれました。それを引き継ぐ形で、「骨太の方針2005」の中に「統計整備の推進」が盛り込まれました。具体的には、(1)統計整備に関する「司令塔」機能の強化等のために、統計法整備を抜本的に見直す、(2)産業構造の変化等に対応した統計の整備、(3)サービス統計等の整備のための組織体制の整備の検討、という方向が打ち出されており、将来的に、サービス統計の充実が期待されます。

 サービスの価格は財の価格に比べて粘着的であり、景気に敏感には反応しにくいことから、「経済のサービス化」とともに、生計費指数や消費者物価でみた「物価の安定化」もさらに進展していくと思います。物価の先行き不透明感が低下することは、(1)企業の設備投資計画や雇用計画が立てやすくなること、(2)家計の支出計画が立てやすくなること、(3)中央銀行がインフレ予防のための利上げに動く必要性を低下させること、から、景気循環の振れを小さくする要因です。また、(4)インフレ率の低位安定は長期金利のボラティリティーを低下させることを通じて、財政再建をサポートする面があります。しかし、物価が安定し、金利が低位安定することによって、住宅価格など資産価格がファンダメンタルズから説明しにくい水準まで押し上げられるという副作用が心配になるという面もあります。

3.なぜ中国向け輸出が伸び悩んでいるか?

 次に、「なぜ中国向け輸出が伸び悩んでいるか?」についてお話したいと思います。昨年夏頃に始まった中国向け輸出の伸び悩みが、それまでは増加の寄与度が大きかった資本財・一般機械(建設機械)を中心に広範な財にわたってみられ始めました。中国の輸入は昨年後半から減速していますが、中国の実質輸出は他の国に比べて高い伸びを維持していることから、中国での景気過熱抑制策の影響が在庫圧縮や設備投資の調整を通じて輸入に及んできたと見込まれます。こうした状況下、わが国の中国向け実質輸出の季節調整済前期比の伸び率は、2月-14.7%、3月+1.7%、4月-0.4%の後、5月は+4.7%と若干持ち直しましたが、4~5月の1~3月期対比は-2.4%にとどまっています。

 最近中国の輸入が減速している具体的な背景としては、中国における、(1)在庫調整の長期化、(2)固定資産投資抑制策による過熱業種での設備投資の調整、(3)鉄鋼等の輸入代替、(4)自動車輸入税の優遇措置廃止(2005年1月)を受けた自動車関連輸入の減少、が指摘できます。中国国内のサプライチェーンが変化し、これまで輸入に頼っていた製品・部品の一部が国内で生産できるようになったという構造的要因よりも、上記の「在庫調整の長期化」と「過熱業種での設備投資の調整」が主因だと判断されます。鋼材、建設資材、白物家電、携帯電話、自動車、建設機械など幅広い業種で在庫余剰感がありますが、在庫統計によれば、過熱業種といわれる鉄鋼、非鉄金属、輸送機器(自動車等)の在庫調整はピークを超えつつあります。

 中国の在庫調整が完了する時期は予想しにくいですが、恐らく7~  9月期、遅くとも10~12月期には完了するのではないかと想定しています。中国経済の需給ギャップはほぼ均衡しています。マネーサプライも適切なコントロールが意識されています。インフレ圧力がまずます抑制されているため、機動的な政策対応が可能な状況にあります。

 中国の労働市場は一般に理解されているよりも柔軟かつ流動的なようです。例えば、(1)国営企業で働く労働者は1990年代半ばから減少していること、(2)労働需給を反映した賃金体系になっていること、(3)高学歴・熟練工の労働者の賃金上昇率が高いため、教育ブームになっていること、(4)農村部の労働者の賃金に比べて都市部の労働者の賃金上昇率が高いこと、などです。もちろん、都市部と農村部の所得格差の拡大が経済政策運営への不満となって大規模なデモが発生している面があることも事実です。したがって、中国政府は、農村地区での雇用創出という目標もあるため、固定資産投資全体が腰折れするほど景気過熱抑制策が強化される可能性は小さいと見込まれます。実際、過熱抑制策を弾力的に運用しようという動きがみえるため、投資案件の復調が期待できそうです。中国経済は秋口まで緩やかに減速した後、潜在成長率に近い成長テンポに回帰する蓋然性が高いと思います。

 新しい産業も育成されているため、中国経済の成長のエンジンの数は増えていると言えます。住宅価格上昇の背景には、可処分所得の上昇等に伴い、持ち家志向が高まっていることもあります。個人的には、いわゆる「中国経済のノー・ランディング」シナリオに与しており、中国の2005年と2006年の実質GDP成長率は8%~9%程度になるとみています。

4.余剰感が払拭された労働市場

 景気回復が続く中で、雇用面の改善傾向が続いています。全体として雇用の余剰感が払拭され、一部の業種では人手不足感を指摘する声もあります。その背景には、(1)雇用調整の一巡(鉄鋼・建設等)、(2)稼働率上昇に伴う生産現場の繁忙度の高まり(一般機械・造船等)、業容の拡大(情報通信等)、(3)困難な優秀の人材確保(自動車・自動車部品等)、があるようです。

 「慎重な企業行動」「低い企業の成長期待」という構図に大きな変化がみえるとまでは言えませんが、雇用調整や有利子負債の削減を最優先する「守りの経営姿勢」から、企業はスタンスを変化させ始めています。具体的には、(1)今年度・来年度における新卒採用計画の積極化、(2)派遣・請負労働者を中心とする非正規雇用の拡大、(3)中途採用の拡大、が指摘できます。また、賃金体系や雇用形態の多様化にも動き始めています。これについては、(1)能力給・年俸制の導入、(2)業績連動型賃金の導入、(3)「団塊の世代」の高齢化という人口動態的な要因への対応、が指摘できます。

 日本経団連が5月25日発表した夏のボーナスの妥結状況の第1回集計によると、大手企業87社の平均妥結額は前年同期比+4.49%と、やはり3年連続で過去最高を更新しました。

 企業は過去数年にわたり賃金カーブのフラット化や希望退職者制度の導入など従業員の高齢化に伴う人件費増大の抑制を進めてきましたが、ここにきて変化がみられます。製造業では退職した熟練工が東アジア企業で再雇用されることに伴う「海外への技術移転」への対応がみられます。建設業では「団塊の世代」退職の補充が難しいことへの対応を進める動きがみえます。自動車部品業では、優秀な人材確保が難しくなってきたとの話を聞きます。今後多くの業種で、(1)将来の人手不足時代を睨んだ定年後の再雇用制度の整備、(2)専門性の高い人材の中途採用の増加、など企業競争力を維持・向上するための前向きな雇用スタンスがみられると思います。

 もっとも、企業収益が二桁増益を続けていることに比べると雇用者所得の伸びは弱く、労働分配率(=雇用者報酬/名目GDP)は低下傾向が続いています。こうした企業の根強い人件費抑制姿勢の背景には、(1)経済のグローバル化、公共事業の削減などに伴う産業構造の調整圧力、(2)企業の収益力強化の動き、(3)非正規雇用の拡大などにみられる労働市場の構造変化、(4)長期間にわたる低成長が続いたことを受けた企業の中期的な期待成長率の低迷、などがありました。2003年時点で雇用者全体に占める非正規雇用の比率は3割程度まで上昇してきました。今回の景気回復局面において一人当たり賃金がなかなか増加しない理由として、正社員よりも賃金水準が低く、ボーナスが支給されないケースが多い非正規雇用が雇用者数全体に占めるウエイトが高まったことを指摘できます。

 経済のグローバル化による国際分業の進展は、主要国の国内における知的集約的な付加価値の高い生産のウエイトが高まり、労働集約的な産業の撤退あるいは海外移転を促します。東アジア諸国からの輸入増加を受けて、わが国では1990年代初めから製造業における雇用の減少傾向が続いています。輸入浸透度の高まった産業ほど、雇用の減少幅が大きかったという関係が観察できます。

 産業構造の転換が比較的うまくいった国では、「雇用の流動化(labor mobility)」、すなわち、建設業や製造業の雇用が減少する一方、サービス業の雇用者数が増加するトレンドが続いています。また、企業がコスト削減努力を強めた結果、人材派遣や業務請負などアウトソーシングの拡大によって、他の産業からサービス業の雇用に置き換えられています。最近におけるサービス業の雇用拡大は、賃金に低下圧力をかけた面があります。

 家計部門では世帯主の賃金上昇率の低下を補うために、主婦がパート・タイマーとして職を探す傾向が観察されます。雇用コスト削減を進めたい企業のニーズと家計のニーズがマッチしたため、雇用のミスマッチは徐々に低下しています。その結果、有効求人倍率の上昇、完全失業率の低下、雇用者数の底入れという現象が観察できます。なお、インフレ率の低位安定は、株式や住宅を中心に資産価格を押し上げる要因です。家計部門は、雇用不安の後退と資産効果を享受できるため、個人消費が主導する形で景気は底堅くなる蓋然性が高まると思います。

 景気回復が続けば、ある時点で物価上昇圧力が生じてきます。しかし、ここ1年~2年を振り返ると、景気回復が持続しているにもかかわらず、消費者物価の動きに目立った変化がみられませんでした。消費者物価は、他の物価統計よりも、雇用・賃金情勢とかかわりを持つ度合いが大きい統計です。消費者物価の上昇率が相対的に低い理由として、今回の景気回復局面においてユニット・レーバー・コストの低下が、過去の景気回復局面に比べて際立っていることがあります。原油・素材価格の上昇は既に2年目に入ってきているにもかかわらず、川上から川下、加工・流通・販売といったプロセスを経るにしたがって、原価に占める人件費の割合が累積的に増大している結果、石油・素原材料価格の影響は薄まっていきます。

 ここにきて雇用者所得の下げ止まりが明確化してきました。4月の雇用者所得は前年同月比+1.1%となっています。雇用コストが上昇に転じると、消費者物価も上昇しやすくなります。日本銀行は6月の金融経済月報で、「企業は人件費を抑制するよう慎重な姿勢を続けていくとみられるが、雇用過剰感が概ね払拭され、企業収益の好調も維持されるもとで雇用者所得は緩やかな増加を続ける可能性が高い。」としています。すなわち、雇用者所得が下げ止り、資産デフレが一巡した現状は、デフレ・スパイラルに陥るリスクがあった量的緩和政策の導入時とは様相が大きく異なります。

 2004年度の国内企業物価は前年比+1.5%。5月の国内企業物価は前年同月比+1.8%、3ヶ月前比+0.9%となりました。4月はそれぞれ+1.9%、+1.1%でした。雇用者所得の明確な下げ止りを受けて、川上・川中段階のインフレ圧力は川下段階及び消費者段階まで波及しやすくなったと思います。仮に日本銀行が「展望リポート」で示した景気見通しが実現するならば、全国消費者物価(除く生鮮食品)の前年同月比上昇率、いわゆるコアCPIインフレ率は、来年1月以降、小幅なプラスに転じる蓋然性が高いと思います。雇用者所得の緩やかな上昇はサービス価格の上昇を通じて緩やかに消費者物価を押し上げる効果があります。コアCPIインフレ率がプラスに転じる時期が前倒しになる可能性も否定できません。

 もっとも、コアCPIインフレ率がプラスに転じる見通しだけでは、「デフレを克服した」とは断言できません。物価見通しを議論する場合、消費者物価だけでなく様々な物価統計をみると同時に、景気の先行き見通しの議論が極めて重要だと思っています。基本的には、景気回復が持続するかどうかが重要だと思います。

5.量的緩和政策は「魔法の杖」ではない

 最後に金融政策運営について、少し長めのスパンの話を中心にお話ししたいと思います。

 まず、ここ半年の金融政策を巡る議論を振り返ると、金融政策決定会合議事要旨をご覧になればお分かりになるように、政策委員会では巨額な当座預金残高目標をこのまま維持することの是非に関する議論が展開されています。これはあくまでも、金融機関の流動性需要や金融市場の状況が変化している実情に即して、「量的緩和の枠組みを堅持して行くためにはどのような対応が適当なのか」という観点に立って行われている議論です。5月19日・20日の金融政策決定会合で、30~35兆円程度の当座預金残高目標を維持する当面の金融市場調節方針を決定した際に、「なお書き」を追加しました。その背景のひとつには、「市場機能の封殺」という副作用を少しでも軽減したいとの思いがありました。消費者物価指数に基づくコミットメントに沿って、所要準備を大きく上回る潤沢な資金供給を続ける金融緩和政策をしっかりと継続する、という基本スタンスに変化はありません。

 しかし、個人的には、金融システムが安定感を強める中、量的緩和政策の「量」の効果の必要性は徐々に薄まってきたと考えています。量的緩和政策の中間評価としては、「量的緩和政策は金融システムの安定を通じてデフレ・スパイラルに陥ることを回避する効果はあったものの、この枠組みだけでデフレを克服するには力不足である」と言えるかもしれません。量的緩和政策の枠組みは「魔法の杖」でないことは確かだと思います。

 金融市場参加者には、「市場機能の封殺」は巨額な当座預金残高目標を維持するための資金供給オペによって一年以内の金利をほぼ消滅させているところが大きい、と理解されているようです。日本銀行はかねてより、長期金利は「コミットメント」の効果によって低位安定していると説明してきましたが、最近では「量」の効果が長期金利を押し下げている面が強いのではないかと思います。そのように解釈すれば、6月に入っても市場機能の復活にはほど遠い状況が続いています。

 一般的に、中央銀行は、金融政策運営に関するコメントによって、短期金融市場や債券市場に一定の影響を与え、イールドカーブの形状を変化させる一方、長期金利水準やイールドカーブの形状から市場の景況感を読み取ります。従来は、長期金利水準の変化から情報を読み取ることができたのですが、最近では、世界的に長期金利は低下傾向を続けており、特に米国では政策金利を引き上げても長期金利が上昇することのない状況になっています。こうした世界的な長期金利の低下傾向の下では、イールドカーブの形状からも情報を読み取っていく工夫が求められています。しかし、量的緩和政策を採用し、かつ、巨額な当座預金残高目標を維持している結果、日本銀行はこうした「市場との対話」が他の中央銀行に比べて困難な状況にあります。

 効果が期待できない一方、副作用が目立っている状況に対応するため、個人的には、当座預金残高目標を引下げるべきであると考えています。また、市場機能を復活させる手法として「(手形買入れオペの)オペ期間の短縮」も検討に値すると考えています。ちなみに、日本銀行は2002年10月に手形買入れオペの期間を従来の「6ヶ月以内」から「1年以内」に延長しました。その際、理由として、(1)「最近の株価の動向や不良債権処理を巡る不透明感に伴う短期金融市場の不安定な動き」への対応、(2)「金融市場の円滑な機能の維持と安定性の確保に万全を期す」ための措置、を指摘しました。しかし、株価の安定、金融システム不安の後退に伴う資金需要の減退、という現状は、手形買入れオペの期間を「1年以内」に延長した2002年11月当時とは様変わりです。また、「オペ期間の短縮」は、(1)金融政策の機動力を高める、(2)金融市場に中立的な金融市場調節を心がける、という中期的な目標を達成するためにも適切といえます。

 財政政策との関係についても、若干触れたいと思います。「安定的なマクロ経済運営を行うための基本は金融政策である」といわれることがあります。それは財政環境が厳しいからという理由だけではありません。財政政策は、決定までにラグがあり機動的に発動できないことに加え、効率的な資源配分を歪めるリスクをもっており、安易に採用すべきではないと考えられるからです。しかし、金融システム不安を起因とするデフレ・スパイラルのリスクは払拭されました。個人的には、持続的な景気回復に向けた展望が描けるようになれば、金融政策の機動力を確保するために、「金融政策のノーマライゼーション」に向けてそろそろ動き出した方が良いと思っています。なぜなら、金利を中心とする金融政策の枠組みへの復帰までを視野に入れた「金融政策のノーマライゼーション」のプロセスは非常に時間がかかります。また、金融政策に機動力がない状況が長期化した場合、金融政策は「期待される役割」を果たせないリスクもあるからです。

 当座預金残高目標を30~35兆円程度に据え置くことは、債務者である公的セクターにとって短期的にみれば好ましいかもしれませんが、中長期的には様々なデメリットがあると思います。すなわち、当座預金残高目標をいずれ引き下げる局面がやってくると思いますが、このままの残高水準を維持したままであれば、量的緩和政策の枠組みを突然変更することにつながりかねず、中期的には、無理な資金吸収オペを行う必要が出てくるおそれがあり、長期的にも、金融政策がビハインド・ザ・カーブに陥る結果、期待インフレ率が上昇して長期金利が本来あるべき水準よりも高い水準まで上昇する可能性があります。また、想定外の金利上昇を回避し、あるべき長期金利水準への収束を速めていくためには、適切な国債管理政策が不可欠です。わが国の国債管理政策に対する信認が高まることは、中長期的にみて、日本銀行の金融政策運営のみならず、わが国の財政再建にとってもポジティブなことだと思います。

以上