ホーム > 日本銀行について > 講演・記者会見・談話 > 講演・記者会見(2010年以前の過去資料) > 講演・挨拶等 2005年 > 同友クラブにおける水野審議委員講演(2005年9月15日)要旨「景気回復の持続性と金融政策運営」

景気回復の持続性と金融政策運営

同友クラブにおける水野審議委員講演(2005年9月15日)要旨

2005年9月20日
日本銀行

[目次]

  1. 1.景気の現状評価と先行き見通し
    1. (1)景気の現状評価
    2. (2)先行き見通し
  2. 2.労働市場の変化
  3. 3.物価の見方
    1. (1)物価指数の分析上の留意点
    2. (2)物価の安定
  4. 4.今後の金融政策運営
  5. 5.終わりに

 本日は、ご多忙の中、皆様のご出席を賜り、講演の機会を得ましたことを大変ありがたく、また光栄に存じます。本日は、「景気回復の持続性と金融政策運営」と題して、景気の現状評価と先行き見通しを中心にお話し致します。また、金融市場を中心に消費者物価指数の動向に再び関心が強まっているようですが、こうした物価指数を分析するうえでの留意事項のようなものを述べたいと思います。そして、最後に、来年度にかけての金融政策運営について若干コメントさせて頂きます。

1.景気の現状評価と先行き見通し

(1)景気の現状評価

 景気の現状については、設備投資、個人消費が主として牽引しており、派手さはないが持続力があると同時に、内外需のバランスが比較的良くとれた形で回復が続いていると評価しています。4月末に展望レポートを公表した時点の想定に比べると、設備投資や個人消費が予想外に好調である一方、輸出が伸び悩んでいるといえます。この上振れ、下振れが相殺された結果、景気全体の判断は上方修正されていると個人的には考えています。

 こうした景気の現状評価は、7月から8月中旬にかけて、金融市場参加者の間でも浸透し、金融市場とは景気・物価情勢の判断を概ね共有できている状況にあるように思います。8月下旬に公表された経済統計には冴えないものが散見されましたが、株高トレンドが続いていることからも窺われるように、金融市場の景気認識は弱気化していないと判断されるのではないかと思います。堅調なわが国の株式相場は、日本経済の外的ショックに対する耐久性が高まっていることを示唆しているのではないでしょうか。

 また、内閣府が9月12日に公表した4~6月期の実質GDP第二次速報値によれば、季節調整済前期比年率で+3.3%と、第一次速報値の同+1.1%から大幅に上方修正されました。その結果、今年度の残り3四半期の実質GDPの前期比伸び率がゼロであったとしても、今年度全体の実質GDPは前年度比+2.0%になります。わが国経済は、2003年度の同+2.0%、2004年度の同+1.9%に続いて、3年連続で潜在成長率を上回る成長を遂げる可能性が高まってきたといえます。こうした状況を踏まえて、民間エコノミストは、2005年度の実質GDP成長率の見通しを上方修正し始めており、いずれそのコンセンサスは+2.0%台になる勢いです。

 設備投資と個人消費については、いずれも非IT分野を含めた企業部門全体が好調であることが背景にあると思います。企業収益は、これまでも好調でしたが、法人企業統計で改めて確認されたように、引き続き高水準で推移しています。設備投資の増加基調も、法人企業統計や日銀短観で確認されており、2005年度上期の設備投資計画では、投資額が積み上げられている姿がみてとれます。こうした設備投資の力強さの背景には、過去数年にわたってキャッシュフローが潤沢にもかかわらず資本ストックの伸びを抑制してきた反動があるうえに、金融システム安定化に伴い、銀行の貸出姿勢が積極化してきたこと、企業の過剰設備・過剰債務など構造的な調整圧力がほぼ払拭されたこと、もあると推察されます。また、企業の雇用スタンスについても、業績連動ボーナスの支給額増加、パート比率の頭打ち感、新卒採用の積極化など前向きな変化がみえます。

(2)先行き見通し

 景気の先行きについても、基本的に民間内需が主導する景気回復が続き、輸出および生産の増加がその回復モメンタムを後押しするシナリオを想定しています。これまで、企業行動は慎重であることを前提として景気見通しを描いてきましたが、新卒・中途の採用計画の積極化、鉄鋼・化学・自動車など非IT関連の製造業など幅広い業種における設備投資の増加、など、その構図に変化の兆しがみられています。調査統計局のミクロ調査などを踏まえると、2005年度の設備投資に関しては、景気循環的な要素で盛り上がっている面も大きく、先行き持続するかどうかは、今後ウォッチしていく必要がまだあります。ただし、化学など素材メーカーは海外メーカーとの競争激化を受けて、「生き残り」を賭けた新規の設備投資を先行き数年間は続けるとも言われており、こうした動きが広がっていけば、持続性にも期待が持てそうです。企業が「縮小均衡モード」から「選択と集中」を徹底させた上で新規投資や雇用拡大に踏み切る動きは、「慎重な企業行動」の変化の兆しと捉えられると思います。

 この景気回復シナリオについては、以下のポイントを点検していく必要があると考えていますが、現時点での私の所感を述べたいと思います。

 まず、「企業部門の好調さが、労働需給の改善を通じて家計の恒常所得の増加につながり、個人消費を下支えする展開が持続するか(夏場に一旦弱含んだ個人消費が回復するか)」という点が挙げられます。個人消費については以前から楽観的でしたが、私は雇用者所得の増加にもう少し弾みがつけば、個人消費回復の持続力は一段と高まると考えています。また、雇用・所得環境の改善だけでなく、配当所得の増加、株価・地価(不動産価格)の上昇など一定の資産効果が生じるならば、家計部門の支出は一層刺激されることになると思います。

 次に、「輸出・生産の増加テンポが速まるか」が問題になります。実質輸出は、昨年7~9月期が前期比+0.3%、10~12月期が同+0.5%、今年1~3月期が+0.7%と伸び、4~6月期は同+1.5%、7月は4~6月期対比+0.9%と、緩やかな増加を続けています。この間、昨年以降伸びが鈍化してきた中国向けは、景気過熱抑制策の影響が一巡し、7月単月でみれば前月比+7.5%と高い伸びとなっていますが、振れの大きい半導体製造装置に押し上げられた面もあるため、基調的な回復につながる動きかどうか不透明です。そして、生産については、中国向け輸出が年後半から回復するにしても、2002~2004年前半までのようなペースで増加する可能性は低いことや、最終需要が力強さを欠く中、IT関連の在庫調整は概ね一巡したが、今年後半にIT関連の生産が大幅に増える公算は低いこと、などから、2005年度の回復は力強さに欠けるものになると見込まれます。

 また「売上高経常利益率の上昇傾向が続くか」も確認すべき点です。売上高経常利益率はバブル期に匹敵する水準まで改善しています。リストラ余地がかなり小さくなってきた業界もあります。そのため、販売価格の引上げ、労働生産性の上昇、輸出の回復のいずれかがなければ、企業の増益ペースに歯止めがかかるはずです。10月3日に公表される日銀短観(9月調査)では、売上高経常利益率がさらに改善するかどうかが注目されます。

 これに加えて、最近話題となっているように、「ハリケーンと原油高が経済に大幅なマイナスの影響を与えることがないか」も重要なポイントです。

 個人的には、ハリケーン「カトリーナ」の影響が甚大であったとしても、米国経済は懐が深いため、失速する可能性は低いのではないかと思います。米国経済は、長期金利が急騰するか、原油の供給制約がさらに強まらない限り、ほぼ潜在成長率に沿った経済成長を続けると考えています。ただし、米国では、好調な企業収益、堅調な雇用・所得環境などから経済の「弛み」は徐々になくなっています。金融市場は、ハリケーン「カトリーナ」の発生後、短期的な米国景気への下振れ圧力、原油精製施設の破壊に伴う石油供給能力の低下など景気悪化要因に注目していますが、ガソリン・ガス価格の高騰や復興需要によるインフレ圧力も軽視できません。この点は慎重に判断したいと思います。

 また、最近の原油高の影響については、わが国は世界で最も石油消費効率が良い国であるため、直接的な景気抑制効果は限定的である一方、原油の純輸入国が多い東アジア諸国にとっては景気の下振れ要因になると考えられます。このため、わが国経済に影響を与えるとすれば、東アジア諸国の経済と金融市場の混乱を通じたものになる公算が高いと思われます。主要国の長期金利低下や日米の株式相場の安定など主要国では金融市場に特に動揺はみられません。原油高が米国・中国経済の過熱を回避するエンジン・ブレーキの役割を果たしている面もあります。昨年からの原油価格高騰は、1970年代のような原油の供給制約ではなく、原油需要の強さが主因であると分析しています。また、原油価格の上昇自体は、原油消費国から産油国への所得移転を意味、産油国の購買力の増加が世界経済を押上げる面も考慮する必要があります。したがって、現時点で原油高が景気に与える悪影響を過大に評価しない方が良いと思います。

 2006年度の経済見通しについては、まだ幅を持ってみる必要がありますが、金融システムの安定化、堅調な米国・中国経済、安定した金融市場という環境が持続することを前提にすると、潜在成長率に沿った実質GDP成長率を達成できるのではないでしょうか。民需主導型の景気回復というと、資産バブル崩壊前の景気回復局面のように「派手さのある景気回復」をイメージされる方がいるかもしれませんが、潜在成長率は1%程度、今後の生産性上昇を見込んでも1.5%程度と見込まれる中、「地味な景気回復」を展望しておくことが自然ではないかと思います。現在の順調な世界経済の拡大が続くことを前提にすれば、「派手ではないが着実な回復」の軌道に向かいつつあると考えています。

2.労働市場の変化

 労働市場では、企業の雇用面での調整は一巡し、足許では人手不足感も出てきています。そのため、企業は、新卒採用計画の積極化や中途採用の拡大など雇用を増やす方向に進んでいるほか、これまでの非正規雇用へのシフトを緩和すると同時に、派遣・請負労働者など非正規雇用を単純な事務だけではなく、より戦略的に活用しようとする試みもみられています。また、製造業では、これまで、技術集約的な製品の企画・開発・生産部門について「海外への技術移転」が進められ、退職した熟練工が東アジア企業で再雇用される等の現象がみられていましたが、こうした傾向に歯止めがかかり、むしろ国内回帰といった動きがみえます。建設業からは、「団塊の世代」退職の補充が難しい、自動車部品業からは、優秀な人材確保が難しくなってきたとの話が聞かれています。こうした状況を反映して、今後多くの業種で、将来の人手不足時代を睨んだ定年後の再雇用制度の整備、専門性の高い人材の中途採用の増加、など企業競争力を維持・向上するための前向きな雇用スタンスがみられることになると思います。

 過去数年の労働市場を振り返ってみると、経済のグローバル化による国際分業の進展は、主要国の国内における知的集約的な付加価値の高い生産のウエイトを高め、労働集約的な産業の撤退あるいは海外移転を促してきました。東アジア諸国からの輸入増加を受けて、わが国では1990年代初めから製造業における雇用の減少傾向が続いており、輸入浸透度の高まった産業ほど、雇用の減少幅が大きかったという関係が観察できます。

 しかし、産業構造の転換が比較的うまくいった国では、「雇用の流動化」、すなわち、建設業や製造業の雇用が減少する一方、サービス業の雇用者数が増加するトレンドが続いています。また、企業がコスト削減努力を強めた結果、人材派遣や業務請負などへのアウトソーシング拡大によって、他の産業からサービス業の雇用に置き換えられています。こうした雇用の流動化が日本でもうまく進めば、雇用の喪失はかなりの程度回避できるのではないかと思います。

 以上の動向を雇用統計で確認すると、7月の有効求人倍率は0.97倍(6月は0.96倍)、まで改善しています。ただし、完全失業率(季調済み)は4.4%(6月は4.2%)になっています。この完全失業率の上昇、完全失業者数の増加は、景気回復を受けて女性を中心に労働市場への参入者が増えたためと見込まれ、完全失業率の低下トレンドに変化はなさそうです。「企業部門の好調さが家計部門に波及し始めた」という望ましい図式になっています。

 また、労働力調査の雇用者数、毎月勤労統計の常用雇用者数ともに緩やかな雇用増加を示しています。7月の毎月勤労統計によれば、現金給与総額(事業所規模5人以上)は一人当たり平均で前年同月比+1.3%と、4か月連続で増加しています。注目していたボーナスなど特別に支払われた給与は同+3.6%(6、7月平均では同+3.3%)と良い数字となりました。そして、雇用者所得は、1~3月期が前年同月比+0.6%、4~6月期が同+1.6%、7月が同+1.8%と着実に伸びてきました。

3.物価の見方

 景気回復が続けば、ある時点で物価上昇圧力が生じてきます。しかし、ここ1~2年を振り返ると、景気回復が持続しているにもかかわらず、消費者物価の動きに目立った変化がみられませんでした。消費者物価は、他の物価統計よりも、雇用・賃金情勢とかかわりを持つ度合いが大きい統計です。消費者物価の上昇率が相対的に低い理由として、今回の景気回復局面においてユニット・レーバー・コストの低下が、過去の景気回復局面に比べて際立っていることがあります。原油・素材価格の上昇は既に2年目に入ってきているにもかかわらず、川上から川下、加工・流通・販売といったプロセスを経るにしたがって、原価に占める人件費の割合が累積的に増大している結果、石油・素原材料価格の影響は薄まっていきます。

 しかしながら、さすがに景気回復局面が長期間にわたり、需給ギャップが縮小してきたことから、10月以降、コア・インフレ率がプラスに転じる蓋然性が高まったと思います。今後、消費者物価指数の動向に再び市場の注目が集まることになると予想されますが、個人的には、消費者物価(除く生鮮食品)の個別品目の前年比上昇率を説明することに終始することなく、雇用者所得の増加や原油価格高騰の持続など「物価を取り巻く環境そのもの」、また、インフレ率のトレンドは、需給ギャップの大きさによって決定される面が大きいため、インフレ率がプラスに転じた後、安定的にプラスで推移するかどうかという観点から、「潜在成長率と比較した景気回復の展望」、を強調したいと思います。

(1)物価指数の分析上の留意点

 まず、そもそも物価をどのように測定するかという観点から、「物価指数を巡る諸問題」について議論したいと思います。

 ミクロ経済学的な理論的概念として物価指数は、「商品やサービスへの支出から得られる人々の効用(満足度)」をベースにして定義されます。つまり、代表的な消費者がある年に100万円の消費支出をしたが、翌年は同じ満足度を得るのに90万円しか要しなかったと想定すると、このケースでは、人々にとって貨幣の価値が10%上昇していますので、「物価が10%下落した」状況であると定義することができます。このように、「物価の下落」を「同額の支出から得られる満足度の増大」ととらえた場合、「物価の下落」には、概念上、(1)表面価格の低下、(2)品質の向上、(3)相対価格の変化に伴う代替効果、(4)支出選択肢の増加、という現象が全て含まれていることになります。

 身近な具体例として、携帯電話の価格指数を考えると、携帯電話の価格低下に伴う経済効果を理論的に正確に物価指数に反映させるためには、「表面価格の低下」だけ捉えればよいという訳ではありません。例えば、「品質の向上」を勘案する必要があります。カメラ機能の追加によって満足度が高まった消費者にとっては、表面価格の低下以上に物価は下落することになります。また、従来よりも低価格の新規商品が投入されれば、その商品の売れ行きがよくなり、旧来の商品を追い続けると、携帯電話という商品の価格を実質的に高く見積もることになってしまいます。これを「相対価格の変化に伴う代替効果」といいます。そして、「支出選択肢の増加」、すなわち、多種多様な機種が市場に投入され、消費者の満足度が高まることも考えられます。こうした影響を全て定量化しなければ、真の物価指数は作成できないことになります。しかし、そうしたことは実務上著しく困難であるのが実情です。

 また、どこの国でも物価指数統計は、収集可能なデータを基に一定の約束事にしたがって作成されています。物価指数の対象となるすべての商品・サービスの価格と取引量を悉皆的に調査することは非現実的であるため、どこの国の物価指数統計はサンプル調査の形式をとっています。したがって、サンプリングの巧拙が物価指数の精度を大きく左右することにまず留意する必要があります。

 わが国の消費者物価指数や国内企業物価指数など代表的な物価指数は、5年毎の基準年における代表性があると考えられる商品やサービスを選び、それらの価格を継続的にフォローして調査し、基準年のウエイトで合成するという手法によって作成されています。すなわち、継続性のあるサンプル調査によっています。

 この手法で作成される現実の物価指数には、(1)「サンプル調査の代表性」をいかに確保するか、(2)個々の商品やサービスの品質向上分をいかに捕捉するか(物価指数の品質調整)、という避けることができない問題があります。

 前者の「サンプル調査の代表性」については、新製品やディスカウント価格が急速に普及する場合には、サンプルの入れ替えに限界が生じることになります。技術進歩や流通革命が加速している今日のような局面では特にそのような状況に直面します。

 後者の「物価指数の品質調整」の代表的な手法には、(1)コスト評価法(旧製品と新製品のコスト分析に基づいて品質変化分を求める方法)、(2)オーバーラップ法(新旧商品が同時に出回っている期間に観察される価格差を、品質の差とみなす方法)、(3)ヘドニック法(商品間の品質の差は両者を構成する諸特性の数量差に現れるとの考え方。例えばパソコンの価格を、ハードディスクの容量、CPU周波数、ディスプレイの種類など各種の特性で説明する価格関数で表わし、各種特性の変化から「品質変化に見合う価格変化分」を割り出す方法)、があります。

 このうち「ヘドニック法」は最も客観的な手法と考えられていますが、大量の価格データや十分な特性情報が必要となるため、適用できる財はごく一部に過ぎません。例えば、国内企業物価(CGPI)では、IT関連の5品目(汎用コンピュータ・サーバ、パーソナルコンピュータ、印刷装置、デジタルカメラ、ビデオカメラ)についてのみ適用しているのが実情です。また、「ヘドニック法」は商品のマイナー・チェンジに適した方法です。パソコンの例でいえば、CD-ROMがパソコンに初めて搭載されたケース、デスクトップ型に加えてノート型パソコンが登場したケースなどパソコンを構成する特性が大きく変化してしまうような仕様変化に対して、「ヘドニック法」を適用することには限界があります。さらに言えば、ある製品の機能が劇的に向上したとしても、全ての人が新機能を使いこなせるわけではないため、これに伴う「品質向上」を物価指数に反映させて良いのかという疑問も提出されています。

 品質把握の難しいサービス取引の拡大、品質の異なるオーダーメイド型商品のサービスなどの品質調整には極めて困難な問題が伴います。わが国の商慣行にある「事後的な値引き」は、自社の市場シェアの維持・拡大を目的としている場合が多く、バック・リベートは多くの企業で高度の企業秘密であるため、その動きを把握することは難しい。多様化するポイント還元方式を用いた値引きの品質調整も容易ではありません。

 以上のほかにも、物価指数を巡る有名な問題に、「物価指数のバイアス」があります。すなわち、米国で1996年に公表されたボスキン・レポート以来、主要国では「消費者物価のバイアス問題」への関心が高まりましたが、消費者の効用を正確に反映した理論的概念としての物価指数に比べると、現実の物価指数の上昇率は上方バイアスを持つことが良く知られています。ただし、バイアスの具体的な幅を正確に推計することは難しく、また局面によって変化する可能性も高いとも言われています。

 バイアスの問題以外でも、(1)具体的にどの物価指数を重視するか、(2)基調的な物価変動であるコア・インフレをどのように捉えるか、(3)物価指数へ加工する前の表面価格の動きにも有益な情報が含まれている可能性をどう考えるか、といった論点が存在します。

 統計としての物価指数は、(1)採用すべき指数算式の選択、(2)品質調整の精度向上、(3)ディスカウントの反映方法、など長年抱えてきた課題の検討が続けられている現在もなお発展途上の統計です。日本銀行も物価統計のメーカーとして統計の改善に引続き取り組んでいます。したがって、指数作成当事者が指数の精度の維持・向上に向けて努力を重ねるべきことは当然ですが、物価指数のユーザーの方にも、現在の指数の特徴点や限界を十分把握していただく必要があります。

(2)物価の安定

 日本銀行法第2条には、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」を金融政策の理念とすると定められています。問題は、「物価の安定」の具体的な意味です。「物価の安定」が金融政策の理念である以上、その内容が曖昧であると、金融政策の透明性を確保することが難しくなります。しかし同時に、目標インフレ率など何らかの数値を示せば直ちに透明性が高まるわけでもないという悩みがあります。

 前に述べたように、(1)物価の計測に様々な難しさがあること、(2)金融政策の理念としての「物価の安定」が統計上の物価の安定と必ずしも一致しないこと、を踏まえると、物価の動きはなるべく多面的に捉えることが望ましいことは明らかです。物価を多面的に捉えるうえで有益と考えられる視点としては、多くの物価統計(消費者物価指数、GDPデフレーター、企業物価指数、企業向けサービス価格指数)の活用、コア・インフレ概念の有用性、表面的な価格情報の利用可能性、が指摘できます。

 また、資産バブルは物価が比較的安定している中で発生するという内外の経験を踏まえると、中央銀行にとって「物価の安定」を目指すうえで資産価格を金融政策上どう位置付けるかも重要な論点になってきています。もっとも、(1)資産価格は、価格上昇期待やリスク・プレミアムなど様々な要因で変動するため、資産価格そのものや資産価格を物価指数と合成した指標を安定させることを金融政策の目標におくことは適当でない、(2)資産価格は、それが実体経済や金融システムに与える潜在的な影響を考慮しつつ、金融政策上の参考指標と位置付けるべきである、(3)資産価格に過度に注目した金融政策運営は、経済をかえって不安定化させる可能性がある、との見方はコンセンサスになりつつあります。

 日本銀行は9月の金融経済月報の基本的見解で、物価の先行きについて、「消費者物価の前年比は、需給環境の緩やかな改善が続く中、米価格のマイナス寄与が剥落していくことや、電気・電話料金引き下げの影響が弱まることなどから、年末頃にかけてゼロ%ないし若干のプラスに転じていくと予想される。」としました。

 しかし、コアCPIインフレ率が若干のプラスに転じる見通しだけでは、「デフレを克服した」とは言えません。物価見通しを議論する場合、消費者物価だけでなく様々な物価統計をみると同時に、景気の先行き見通しの議論が極めて重要だと思っています。「インフレ圧力は基本的に需給ギャップによって決定される」と考えると、デフレ克服を宣言できる大前提として、景気回復が持続することが極めて重要だと思います。

 金融市場では、(1)コアCPIインフレ率がプラスに転じる時期、(3)量的緩和政策の解除の時期、(3)「(事実上の)ゼロ金利政策」からプラスの政策金利にシフトする時期、のいずれについても予想を前倒ししてきました。「ポスト量的緩和政策」をにらむと、安定した政策運営を行うためには金融市場やマスコミに物価が安定した状況下において、景気の持続的回復に見合った金利水準がどの程度であるかを理解してもらうことが必要不可欠であり、それをサポートする観点から「物価の安定とは何か」という理論面の説明にも力点を置くことが大事ではないかと考えています。

4.今後の金融政策運営

 今年に入ってからの金融政策運営を巡る議論を若干振り返ってみると、量的緩和解除のいわゆる3条件が満たされていない中で、金融機関の資金需要減退という環境変化に対していかに対応すべきか、という点に議論の焦点が当てられてきました。それが、現時点に至っては、金融市場参加者は、量的緩和解除の「後」を具体的な材料として扱い始めています。今後は、持続的な景気回復に対する自信が深まれば、量的緩和政策の「出口戦略」、「ポスト量的緩和政策」などが議論の中心になっていくと思います。

 現時点で量的緩和政策の枠組み変更やその後の金融政策運営について明確なことは何も決まっていませんが、量的緩和解除の3条件には「経済・物価情勢の総合判断」が含まれており、消費者物価指数のみで機械的に判断する訳ではありません。また、今年4月の展望レポートの基本的見解の最後の部分で述べているように、量的緩和政策の枠組み変更やその後の金融政策運営について、景気回復に物価が反応しにくい状況が続くならば、「余裕をもって対応を進められる」可能性は高いと思います。

 ただ量的緩和政策は非伝統的な金融政策であり、金融市場参加者は量的緩和政策の解除をこれまで経験していないため、金融政策運営の自由度を束縛しない範囲で、「量的緩和政策の出口戦略」を含めた将来の金融政策運営の予見性を与えることができれば、金融市場を安定させることに資するのではないかと私自身は考えています。

 個人的には、量的緩和政策の「出口」については、「あるひとつの時点」ではなく、「数か月という期間」にわたるものになると思っています。「金利を中心とする枠組み」への移行、すなわち、金融市場調節の誘導目標(ターゲット)を「量(当座預金残高)」から「金利(無担保コール翌日物金利)」へ移行する場合、(1)当座預金残高目標を引き下げるプロセス、(2)無担保コール翌日物金利をゼロ近傍に維持して短期金融市場の機能回復を待つプロセス、(3)無担保コール翌日物金利をゼロ近傍から中立的な水準に近づけるプロセス、という3つのプロセスを念頭においています。

 もちろん、当座預金残高目標を引き下げるプロセスをスタートさせる前に、日本銀行が「量的緩和政策の枠組み」から「金利を中心とする枠組み」へのシフトを宣言する可能性はあります。しかし、現行の「量的緩和政策の枠組み」は、通常の「金利を中心とする枠組み」と異なり、当座預金残高目標の引き下げ、そして短期金融市場の機能回復というプロセスを経るため、「金融政策のノーマライゼーション」は達成するまで時間を要すると思います。

 また、市場では、長期にわたって、「ゼロ金利政策」及び「量的緩和政策」における「時間軸効果」(「コミットメントの効果」)に依存して金利観が形成されてきました。そのため、量的緩和解除「後」の金利政策に関する基本的な考え方を徐々に浸透させ、実務担当者に市場規律を伴った感覚を取り戻してもらう必要があります。

 金融市場の一部に、「ポスト量的緩和政策」の枠組みの中で、「新たな時間軸」を設定した方が良い、また、当座預金残高を引下げる期間はなるべく長くした方がよい、という議論があるようです。しかし、量的緩和の解除は、デフレ克服や景気の持続的回復が展望できていることが前提だと思います。当座預金残高を減らすために一定の期間は必要であっても、過度に長い期間をかけることや、ひとつの物価統計にコミットした「新たな時間軸」を安易に設定することは、市場機能を回復させるのに逆効果になるため、慎重に考えるべきではないかと考えています。

5.終わりに

 日本銀行の責務は、物価の安定と持続的な景気回復を実現するために金融政策を行うことです。財政政策の面からも、わが国が財政再建を実現するには、持続的な景気回復が不可欠ではないかと思われます。適切なマクロ経済政策運営は、それぞれの当局者が適切な判断に基づき、早すぎず、かつ、遅すぎないタイミングで政策対応を行うことにつきると考えています。

 個人的には、経済・金融の正常化、政局の安定という環境は、中長期的に持続的な景気回復を達成するために、マクロ経済政策の正常化に向けて取組む好機だと考えています。資産バブル崩壊後、わが国の経済・金融システムを健全化するまで非常に長い時間がかかりました。その間、マクロ経済政策は財政政策、税制、金融政策のいずれも、経済・金融システムを健全化するためとはいえ、長期間続けると様々な弊害が出るような不健全な状況になっています。

 マクロ経済政策運営に共通する課題のキーワードは、「正常化(ノーマライゼーション)」だと思います。量的緩和政策の枠組みの変更により「金融政策の正常化」が進められ、財政再建や年金改革により「財政政策の正常化」が進められることになると思います。先述のとおり、量的緩和政策の枠組み変更やその後の金融政策運営について、余裕をもって対応を進められる可能性が高いと考えていますが、家計、企業、金融機関ともに、金融政策が中長期的にみれば「正常化」に向かうことを念頭に置いて、ビジネスモデルの見直しや生活設計の見直し、また資金調達・運用上の工夫等をスピードアップして頂く必要があると思います。皆様の取組みによって、日本経済が一段と活性化していくことを期待しております。

 本日は、ご清聴ありがとうございました。

以上