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「物価の安定」と中央銀行の責務

経済倶楽部における武藤日本銀行副総裁講演要旨

2005年12月 2日
日本銀行

[目次]

はじめに

 日本銀行の武藤です。本日は、経済倶楽部にお招きいただき、各界で活躍される皆様方にお話する機会を得られましたことを、大変光栄に存じます。

 わが国経済は、昨年夏以降続いていた「踊り場」局面を脱し、回復を続けています。内閣府の景気基準日付上は、2002年初から景気拡大局面にあり、既に4年近くにわたって回復が続いていることになります。先行きについても、緩やかな、そして、その分息の長い経済成長が続くとみられます。物価面では、消費者物価指数(全国、除く生鮮)の前年比は、マイナス幅が一時1%程度まで拡大していましたが、先週公表された10月の計数では、前年比横ばいとなりました。先行きは、年末にかけて若干のプラスとなり、その後、景気回復が続くもとで、前年比のプラス基調が定着していくと考えられます。このような経済・物価情勢を踏まえて、本日は、多少原点に戻って、中央銀行はなぜ「物価の安定」を追求するのか、そして、どのように「物価の安定」を実現しようとしているのか、といった点を中心に、お話したいと思います。

1.「物価の安定」はなぜ必要か?

中央銀行と「物価の安定」

 「物価の安定」は、先進各国の中央銀行が行う金融政策にとって最大の目標です。欧州中央銀行の金融政策の目標は、EU設立条約(マーストリヒト条約)により、「物価の安定」と明記されています。米国の連邦準備制度理事会の金融政策の目標は、連邦準備法上は、「最大の雇用、安定した物価、落ち着いた長期金利」の3つと定められていますが、実際の政策運営に当たっては、「安定した物価」を実現することによって残る2つの目標も実現できるという考え方が、広く共有されているように思います。わが国では、1998年4月に施行された現在の日本銀行法は、金融政策の理念を「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」と定めており、やはり金融政策の目的は「物価の安定」であることが明確となっています。

「相対価格」が持つシグナル機能

 それでは、中央銀行はなぜ「物価の安定」を追求するのでしょうか。まず、「物価」とは何かという点から、お話したいと思います。私たち消費者は、様々な商品を購入し、各種のサービスを利用しています。企業の間でも、多種多様な商品、サービスが取引されています。これら商品・サービスの価格を集計したものを、個々の価格と区別して、「物価」または「一般物価」と呼んでいます。「一般物価」が安定していると言っても、当然のことながら、一つ一つの商品・サービスの値段が変動しないということではありません。市場経済メカニズムのもとで、個々の商品やサービスの価格は、需要や供給を反映して変動しています。その結果、個々の商品・サービスの価格の相対関係も変化することになり、これを「一般物価」の変動と区別して、通常「相対価格」の変動と呼んでいます。

 「一般物価」は、商品・サービスの価格が平均してどの程度上がったかを測る「物差し」のようなものと言われます。「一般物価」が安定している場合には、個々の商品・サービスの価格の変化がそのまま「相対価格」の変化を意味します。そのような相対価格の変化をみながら、消費者や企業は、どの商品・サービスを買うべきか、どの商品・サービスが売れ筋でありどこにビジネスチャンスがあるのか、などを判断することが可能となり、そうした判断に立っての消費者や企業の意思決定を通じて、資源の配分が効率的に行われることになります。これが「相対価格」の持つシグナル機能と呼ばれるものですが、「一般物価」の安定が崩れると、その機能も大きく損なわれます。個々の商品・サービスの価格の動きが、それぞれの需給を反映した「相対価格」の変動なのか、それとも「一般物価」という物差しが歪んだ結果なのか、見分けられなくなるからです。消費者や企業が合理的な意思決定をタイミング良く行うことを通じて、効率的な資源配分が行われ、ひいては経済の潜在的な力が最大限に引き出されるためには、「相対価格」の持つシグナル機能が十分に発揮されることが必要であり、そのための前提として「一般物価」の安定、要するに「物価の安定」が不可欠であると考えられます。

所得分配への影響

 第1次オイルショック後、高い物価上昇率が続く中で、人々が大幅な賃上げを要求し、企業がコスト増を見越して早めに商品・サービスの値上げをした結果、さらに物価上昇が加速してしまうということが起こりました。このように大幅な物価上昇が持続すると、将来の物価の不確実性も大きくなり、人々や企業が将来に向けて合理的な意思決定を行うことが難しくなる訳ですが、それだけでなく、所得分配にも影響が生じます。例えば、資金の貸借等通常の金融取引に伴う債権債務の金額は、名目値で固定されています。契約額が名目値で固定されているということは、物価が上昇した場合に、債権者は、資産の元本や受取り金利の実質価値が目減りするため、損失を被り、債務者は、債務の実質価値などが軽減され、利益を享受するということを意味します。賃金など支払給付の契約が名目値で結ばれている場合にも、同様のことが発生します。もちろん、将来の物価上昇を予め織り込んだ契約——物価変動に連動して返済額や支払額が変化する契約など——であれば、こうした問題は起きません。もっとも、実際には、全ての金融取引などをそうしたかたちで契約することは難しく、したがって、物価の変動に伴い、債権債務などの実質価値が変化し、それを通じて所得分配に影響が及ぶことは避けられません。物価変動によってこのような影響が強まってしまうと、金融取引をはじめとして円滑な市場取引が阻害されかねないほか、社会的公正に対する人々の信認まで動揺し、結果として資源配分の効率性、ひいては中長期的な経済成長の姿にも悪い影響が生ずることが懸念されます。

物価下落固有の問題

 物価が上昇する場合にも、物価が下落する場合にも、その変動が大きくなると、今述べたような資源配分や所得分配面への影響を通じて、経済に悪影響が及ぶことが避けられません。加えて、物価が下落する場合の問題として、3点ほど考えておかねばならない点があります。第1は、債務の負担が増大することによる問題です。物価が下落して、企業の売上や家計の収入が減少すると、債務の返済は困難になり、場合によっては、企業や家計の倒産・破産という事態に至ります。物価下落は、金融機関など債権者にとって資産の元本や受取り金利の実質価値を高める面もありますが、結局、債務者が返済できないということになれば、その分だけ不良債権が増えてしまうことになります。不良債権の積み上がりにより金融機関のリスクテイク能力が低下すると、経済全体に悪影響が及ぶ可能性が出てきます。第2は、人件費負担の増加による問題です。物価下落に伴い売上が減少しても、賃金はそれほど下がらないかも知れません。その場合、人件費は高止まり、企業収益は大きく圧迫されることになります。これは、名目賃金に下方硬直性があることから生ずる問題です。確かに、賃金を下げるにはいろいろと難しい面があります。その結果、企業収益が圧迫されることになれば、雇用調整が必要となったり、成長のために必要な設備投資などの支出が抑制されたりすることになります。第3は、実質金利が上昇することによる問題です。足もとの物価が下落し、先行きへの物価下落予想も強まれば、それだけ実質ベースでみた金利は上がります。経済・物価情勢との関係で実質金利の水準を調整するため、名目金利の引き下げが必要となっても、仮に名目金利がゼロ%に達していた場合には、それより低くはできませんので、実質金利が経済にとって適切な水準より高くなり、経済活動を萎縮させるという事態が起こり得ます。

 わが国では、2000年末頃からの海外経済の急激な減速の影響を受けて、需要の弱さを反映した物価低下圧力が強まりました。そうしたもとで、今お話したようなメカニズムを通じて、物価下落が経済活動を抑制し、それがさらなる物価下落をもたらす悪循環——いわゆるデフレ・スパイラル——に陥るリスクがかなり懸念されるに至りました。「デフレ」という言葉は様々な意味で用いられており、したがって、どのような経済・物価の状況を「デフレ」と呼ぶかも、論ずる人によって異なり得るものですが、わが国の場合、少なくともデフレ・スパイラルには陥りませんでした。ただ、金融政策面では、当時、既に短期金利がほぼゼロ%の水準にあり、それ以上下げられない状況にあったことから、経済の更なる落ち込みを防ぎ、物価下落が継続する状況から抜け出すにはどう対応すべきか、この点が日本銀行としての大きな課題になりました。

2.「物価の安定」と「国民経済の健全な発展」

 以上、(1)相対価格のシグナル機能、(2)所得分配への影響、(3)物価下落固有のコスト、という3つの角度から、「物価の安定」の重要性について説明してきました。この重要性の意味するところは、単に足もとの表面的な物価が安定していれば良いということではありません。金融政策の効果が実体経済や物価の面に表れるまでには、かなり長いタイムラグを伴うこともあるだけに、「物価の安定」が将来に向けて持続的に確保されることが重要であると考えられます。言い換えれば、インフレ予想もデフレ予想もなく、先行きの物価安定への信認が維持されていることが大切です。

 1990年代の日本経済に大きな影響を与えた1980年代後半のバブル期を振り返りますと、景気拡大局面は1986年に始まり、実質経済成長率は1987年から1988年にかけて年率5%を上回る高成長を記録しました。ところが、輸入物価の下落や電力料金の引き下げといった供給サイドの要因が強く働いたことから、当時の消費者物価指数の上昇率は前年比ゼロ%台と、極めて落ち着いた状況が続きました。その後、消費者物価指数の前年比は、徐々に上昇ペースを速めましたが、前年比で3%台といった上昇ペースを示すに至ったのは1990年から1991年にかけてであり、景気拡大局面に入ってから既に4年を経過してのことでした。事後的にみると1991年に終焉を迎えた景気拡大局面の最終局面ということです。この間に、地価をはじめとする資産価格の大きな変動が生じて、その後の実体経済の長期低迷につながったことは、ご承知の通りです。

 こうした苦い経験は、物価が足もとで安定していても、それがいつまでも続くとは限らないこと、つまりバブル期の経験で言えば、輸入物価の下落や電力料金の引き下げなど供給サイドから物価を押し下げる力が働いているケースでは、景気拡大に伴う物価上昇圧力を過小評価し、その後の物価の上昇テンポが予想以上に加速してしまうことがあり得ることを示していると考えられます。また、物価が表面的には安定している場合でも、資産価格の大幅な変動等のかたちで経済に歪みを内包し、むしろ先行き経済の健全な発展を阻害するリスクを蓄積している可能性もあります。その時々において「物価の安定」が実現しているかどうかを適切に判断することは容易ではありません。ただ、「物価の安定」に責任を有する中央銀行としては、「物価の安定」は、あくまでも足もとだけでなく将来にわたって持続し得るものであるかどうか、経済の健全な発展と整合的なものであるかどうか、という観点に立って、物価情勢を常に点検していくことが重要であると考えています。

3.「物価の安定」をどのような指標で測定するのか?

消費者物価指数の位置付け

 ここまで「物価の安定」がなぜ重要であるかについてお話してきました。そうした「物価の安定」とは、つまるところ、家計や企業等の様々な経済主体が、「一般物価」の変動に煩わされることなく、消費や投資などの経済活動にかかる意思決定を行うことができる状況と言い表すことができます。しかし、その意味するところを明確化するとなると、そもそも物価をどのように測定すれば良いのか、どの程度の物価上昇率を望ましいと考えるのか、等々、解答を示すのが容易でない問題が少なくありません。まず、物価の測定方法からお話したいと思います。

 一般に最も馴染みのある物価指数は、消費者物価指数だと思います。実際、本日お話を進めるに当たって私が念頭に置いてきた指数も、消費者物価指数です。少し話は脱線しますが、消費者物価指数は、数ある経済統計の中でも最も歴史の古い統計の一つであり、世界的には、英国で1675年に作成されたものが最初と言われています。19世紀になると、個々の商品・サービスの価格指数に家計の支出額に応じたウエイトを付けて加重平均することにより指数を作成するという現在に近い方式が採られるようになりました。わが国では、1926年に全国規模の家計調査が初めて実施されたことを受けて、「生計費指数」が作成されるようになりました。現在の消費者物価指数は、こうした指数をベースとして戦後作成され始めたものです。いずれにしても、物価と言えば、家計や消費者の実感に即したものでなければならないという考え方が、洋の東西を問わず、広く受け入れられてきたように思います。

 冒頭にご紹介したように、日本銀行法における金融政策の理念は、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」ですが、そうした理念からすると、その「物価の安定」も国民に理解されやすいものでなければならないと思います。また、「国民経済の健全な発展」も、結局は国民ひとりひとりの経済的な厚生の向上を意味しているとすれば、いろいろな物価指数の中でもやはり、消費者が消費する商品・サービスを対象とした物価指数を一つの基準として位置付けるべきではないかと考えています。実際、後で述べるインフレーション・ターゲティングを採用している中央銀行を含め、多くの中央銀行は、消費者物価指数等消費支出に直接関連した物価指数を念頭に置いて金融政策を行っています。

消費者物価指数以外の物価指標

 ところで、わが国で公表されている物価指数としては、消費者物価指数のほかにも、企業物価指数、企業向けサービス価格指数などがあります。これら物価指数について簡単に説明しますと、企業物価指数は、鉄鋼などの素材や機械・設備等、企業間で取引される商品の価格を対象とした物価指数で、景気の動きを比較的敏感に反映することが特徴です。企業向けサービス価格指数は、広告や運輸、通信など、企業間で取引されるサービスの価格を集約的に捉える物価指数であり、こうした統計が珍しいこともあって、海外からは強い関心を集めています。

 これらの物価指数とは別に、四半期ごとに公表される付加価値ベースの物価指標として、GDPデフレーターが利用可能です。GDPデフレーターは、GDPのように、国内の最終財・サービス価格と輸出価格を合わせたものから輸入価格を控除した概念となっているため、短期的に、GDPデフレーターの変化の方向が、消費者物価指数の変化の方向から乖離することがあります。例えば、現在のように原油価格高騰から輸入価格が上昇している局面では、消費者物価指数でみた物価は押し上げられる一方、GDPデフレーターでみた物価は押し下げられます。GDPデフレーターの前年比は、昨年10〜12月の−0.4%から本年7〜9月には−1.1%とかなりマイナス幅が拡大していますが、輸入デフレーターの上昇による下押し寄与は−0.5%ポイントから−0.9%ポイントに拡大しており、マイナス幅拡大のかなりの部分を占めています。この点、GDPデフレーターの内訳である内需デフレーターや家計最終消費デフレーターの方が、輸出入価格の変動の影響を直接受けないという意味では、GDPデフレーターよりも分かりやすい面があります。また、GDPデフレーターは、企業や政府が最終支出する商品・サービスも対象としており、消費者が消費する商品・サービスのウエイト構成とは、大きく異なっています。特に、価格下落テンポが急激なIT関連製品の価格を多く含んでいるため、その分だけ消費者物価指数よりも下がりやすい性質を持っています。なぜIT関連製品の価格下落テンポが急激であるかについては、後ほど詳しく述べたいと思います。

 また、消費者物価指数についても、総合指数のほか、総合指数から生鮮食品を除いた指数である「消費者物価指数(除く生鮮食品)」などがあり、現在、物価動向の判断に当たっては、消費者物価指数(除く生鮮食品)が重視されています。これは、天候要因など一時的なショックによって価格が不規則に変動しやすい生鮮食品を除去することにより、基調的な物価の動きが見易くなるという考え方に基づくものです。このように一時的な変動などを取り除いた物価指数を「コア」指数と呼びます。もとより、長い目でみれば、物価全体の変化率である「ヘッドライン・インフレ率」と、コア指数の変化率である「コア・インフレ率」は、同じ動きとなります。

 資産価格も、一般の商品やサービスの価格とは性質が異なりますが、経済の先行きなどについての重要な情報を含み、また、その動向は経済活動などに大きな影響を及ぼし得ることから、しっかりみていく必要があると考えられます。その際、上昇・下落という動きだけでなく、その時々の資産価格の動きが人々のどのような期待を反映しているかを見極めていくことなどが重要であると考えています。

 このように多様な指標が存在していることを前提としますと、物価情勢の判断に当たっては、消費者物価指数を点検するのと同時に、消費者物価指数以外の指標についても、個々の指標の持つ特性などを十分に考慮した上で、適切に評価していく姿勢が大事であると思います。同時に、物価の変動のメカニズムを明らかにしていくことが肝要であると考えられます。

4.量的緩和政策と消費者物価指数へのコミットメント

 先ほど、金融政策運営上、消費者物価指数のように消費者が消費する商品・サービスを対象とした物価指数を一つの基準として考えていくことは重要であると述べました。次に、このことと現在の金融政策との関係についてみていきたいと思います。

 日本銀行が2001年3月に量的緩和政策を採用してから、4年半以上の年月が経過しました。この政策は、ご承知の通り、金融機関が準備預金制度等により預け入れを求められている額を大幅に上回る日本銀行当座預金を供給することと、そうした潤沢な資金供給を消費者物価指数(全国、除く生鮮食品)の前年比上昇率が安定的にゼロ%以上となるまで継続することを「約束」すること、の2つの柱から成り立っています。

 このような政策は、わが国では未経験でしたし、海外にも例をみない異例のものです。量的緩和政策が導入された2001年春の時点の日本経済は、既に述べました通り、景気悪化と物価の下落に見舞われ、さらに金融システム不安が強まっているという状況でした。金融政策面では、短期金利はゼロ%の水準にあってこれ以上、下げられなくなっていました。このように、「物価の安定」が損なわれつつある中で、通常の金融政策の発動余地をほぼ使い尽くしたもとにあって、金融緩和の効果を最大限引き出すための施策として実施したのが、量的緩和政策です。

 量的緩和政策を消費者物価指数が安定的にゼロ%以上となるまで継続すると「約束」したことで、日本銀行は、消費者物価指数がゼロ%になることを目標としているのではないかと誤解されることがあります。日本銀行としては、現在の金融緩和が将来にわたって続くことをコミットし、その結果、より長めの金利を含めて金利が低位で安定するようになる——いわゆる「時間軸効果」を発揮させたいと考えていました。この効果を十分に発揮させるには、できるだけ明確なコミットメントを行うことが必要であり、特定の経済指標の実績値と金融政策を直接結び付けることが有効であると考えました。その際、金融政策の柔軟性を犠牲にできるギリギリの線として「消費者物価指数でみてゼロ%以上」という数値を基準にすることにした次第です。消費者物価指数に基づく「約束」は、あくまで、日本銀行当座預金残高を操作目標とする異例の緩和政策を続けるための基準として示したものであり、金融政策が目指すべき物価上昇率を意味しているものではありません。そうした意味で、「消費者物価指数でみてゼロ%以上」という基準は、物価安定のもとでの持続的成長という、より望ましい状態に向けての一つの通過点に過ぎないと考えられます。

 日本銀行では、4月と10月の年2回、「経済・物価情勢の展望」というレポート──私どもでは「展望レポート」と呼んでいます──を決定し、公表しています。この展望レポートは、金融政策運営を行う前提となる経済・物価の先行き見通しを詳細に記述するとともに、当面の金融政策運営に当たっての基本的な考え方を示すものです。10月末に公表した「展望レポート」では、冒頭にも述べました通り、消費者物価指数(全国、除く生鮮食品)の前年比は、今後年末にかけて若干のプラスとなり、その後、プラス基調が定着していくとみています。足もとで原油価格が幾分軟化しているほか、先行き、電力料金の引き下げや消費者物価指数の基準改定など、消費者物価指数に対してマイナス・インパクトを与えると考えられる動きも存在しますが、現時点ではなお不確定な部分があり、基調として消費者物価指数の前年比上昇率は高まっていく方向にあるとの基本的な判断を変更する必要はないとみています。緩やかながら息の長い景気回復が続くということと合わせ、こうした物価見通しが実現することを前提にすると、現在の政策の枠組みを変更する可能性は、2006年度にかけて高まっていくと考えられます。ただ、いずれにしても、当面は、消費者物価指数に基づく明確な「約束」に沿って、量的緩和政策を継続していく方針です。また、この先、「約束」の条件が満たされ、短期金利を操作目標とする枠組みに移行したとしても、今回の展望レポートの経済・物価の先行き見通しを前提とする限り、全体として、余裕をもって対応できる可能性が高いと考えています。

5.望ましい消費者物価上昇率

物価指数のバイアス

 これまで述べてきたように、消費者が消費する商品・サービスを対象とした物価指数を基準として考えていくことが大切であるとして、それでは、中長期的な観点から目指すべき物価上昇率は、いったい何%と考えるべきなのでしょうか。このことと関連してポイントとなるのは、多少耳慣れないかも知れませんが、物価指数の計測誤差と物価上昇率の「糊代」、という概念です。これらについて、多少詳しくお話したいと思います。

 消費者物価指数は、個々の商品・サービスの価格指数に家計の支出額に応じたウエイトを付けて加重平均することにより作成されています。現在のように、技術革新のスピードが速く、経済構造が大きく変化している状況では、個々の価格指数、ウエイトともに、そうした動きを的確に反映していることが求められます。一例として、新製品が登場してそれまでの製品に入れ替わるというケースを考えてみましょう。価格指数を作成する場合にも、それまで対象としてきた製品の価格を新製品の価格に入れ替えることになりますが、その際、新旧製品の品質に差があれば、両者の価格差から品質変化に伴う価格変化分を取り除かないと、実勢を正確に反映した価格指数を作成したことにはなりません。ここで、パソコンの価格指数の作り方について説明したいと思います。先ほど、パソコンなどIT関連製品の価格下落テンポは急激であることを述べました。これは、指数の作成上、価格下落に品質向上分を含めていることによるものです。仮にパソコンの新製品が旧製品と同じ20万円で売り出されたとしても、機能が2倍になったと評価できる場合には、価格が半分の10万円になったとみなして、価格指数を計算することになります。このように機能などの品質向上分を実質的な値下げとみなして価格指数を低下させるという調整は、パソコン以外にも多くの商品・サービスについて行われています。ただ、商品・サービスの品質をどのように捉えるかは非常に難しく、また、コスト・ベネフィットの観点からあらゆる商品・サービスについて厳密に調整を行っていくことが可能になる訳でもありません。加えて、新製品が登場すれば、家計の支出行動が変化して、個々の価格指数を集計する際の支出額のウエイトも実際には変化するかも知れません。そうした変化をリアルタイムで捉えることもまた難しい問題です。

 こうしたことなどにより、物価指数には計測誤差——いわゆる物価指数のバイアスが生じてきます。バイアスの大きさは、技術革新のスピードや経済構造の変化のほか、統計作成法の改善などによっても変動するため、一定ではないと考えられます。現在の消費者物価指数は、5年おきに個々の価格指数を集計する際のウエイトの見直しを行っていますが、その際、指数精度の改善も適宜図られており、2000年の見直しでは、パソコンが、ヘドニック法と呼ばれる品質調整方法を適用した上で、ようやく指数対象となりました。また、採用品目の中間年見直し制度が導入されたことを受けて、2003年にプリンタ、インターネット接続料等が新たな品目として採用されるなど、統計作成当局による指数精度向上への取り組みが続けられてきた結果、バイアスは相当程度縮小してきています。現時点においては、かつてと違って、バイアスの存在が物価情勢の判断に影響を与える度合いはかなり小さくなっていると判断しています。

物価上昇率の「糊代」

 次に、物価上昇率の「糊代」の問題ですが、「糊代」とは、経済がいったんデフレに陥ると、デフレ・スパイラルに陥るリスクが存在することから、金融政策はある程度の余裕、すなわち、ゼロ%より若干高めの物価上昇率を目指して政策を運営する必要があるという考え方に根差すものです。現在のわが国においては、今ほど述べたように、物価指数のバイアスが物価情勢の判断に大きな影響を与えるものではなくなっていますので、金融政策運営上、若干のプラスの物価上昇率が必要であるとすれば、「糊代」の確保がその主たる根拠になってくると考えています。

 ここで重要なことは、適切な「糊代」の水準は、その時々の金融政策を巡る制約の程度、すなわち、名目賃金の伸縮性や潜在成長率の水準、金融システムの状況、財政政策の余力など、様々な要因によって異なるということです。名目賃金が下方に硬直的であると、物価が下落した場合に、企業収益は大きく圧迫され、デフレ・スパイラルに陥りやすいと考えられます。ただ、わが国では、ボーナスや時間外賃金などを通じて名目賃金の調整が比較的弾力的に行われており、名目賃金の伸縮性は諸外国に比べて高いことが指摘されています。少なくともこの観点からは、大きな「糊代」は必要ないという議論になってくると思います。一方、潜在成長率が低い場合には、金融政策の経済・物価への刺激効果は大きくは見込めず、物価下落方向へのショックに対する脆弱性が強いため、その分大きな「糊代」が必要になると考えられます。

 適切な「糊代」や、それを前提とした金融政策が目指すべき物価上昇率の水準については、その時々の金融政策を巡る制約の程度に影響されるということ以外にも、幾つか重要な論点があると考えられます。その一つは、仮にある程度の割り切りを行って、目指すべき物価上昇率を決めたとしても、すぐにその水準を目指すべきかどうか、議論の余地があるということです。欧州中央銀行では物価安定の定義として中期的に「+2%弱」、英蘭銀行では中長期的に目指すべき物価上昇率として「+2%」という数値を示しています。これらの数値は、ユーロエリアと英国の過去10年間の消費者物価指数の上昇率の平均——それぞれ+1.9%、+1.6%——に近いものとなっています。これに対し、わが国の消費者物価指数の上昇率の過去10年間の平均は−0.2%と、かなり低い水準にあります。80年代以降の消費者物価指数の上昇率の平均を比べても、米国が+3.9%、ドイツが+2.5%、英国が+4.7%(小売物価指数ベース)に対し、わが国は+1.2%です。物価の下落が目立った2001年以降の計数を除いて計算しても、わが国の上昇率は+1.6%の水準にとどまります。このように、わが国の物価上昇率が欧米諸国に比べて低いという状況がかなり長期にわたって続いてきたことを考えると、わが国経済主体の意思決定もある程度低い物価上昇率を前提に形成されている可能性が高いと考えられます。こうした状況のもとで、これまでの物価上昇率と大きく異なるような上昇率を設定した場合の人々の受け止め方や、設定された物価上昇率を比較的短期間に実現しようとすれば、それが持続的成長に向けた途上にあるわが国経済にどのような影響をもたらしていくか、といった点については、十分に考慮していく必要があると思います。

 以上まとめますと、望ましい物価上昇率が何%かということについては、バイアスの存在が物価情勢の判断に大きな影響を与えるものではなくなっている一方で、適切な「糊代」の水準がその時々の金融政策を巡る制約の程度に影響されること、物価上昇率にはある種の慣性が存在すること、わが国経済が持続的な成長に向けた途上にあることなど、現状なお検討すべき課題が少なくないように思います。

6.「物価の安定」と金融政策の透明性向上

 最後に、金融政策が目指すべき物価上昇率を具体的な数値として設定し、その中期的な達成を目的として金融政策を運営するという政策の枠組み、いわゆるインフレーション・ターゲティングについても、触れておきたいと思います。インフレーション・ターゲティングは、足もとまたはごく目先の物価上昇率をターゲットに収めることが必要な厳格な枠組みを指していることもあったように思います。しかし、実際には、ターゲットの達成までの期間が十分にとられ、金融政策が目指すべき物価上昇率はあくまで中期的なターゲットであることが明確にされるなど、政策運営の柔軟性を十分に確保する枠組みとしている国がほとんどです。例えば、インフレーション・ターゲティングを採用している英蘭銀行では、インフレーション・レポートという四半期報を公刊し、その中で、経済・物価情勢の現状判断とともに、金融政策委員会メンバーの先行き3年間の物価上昇率や経済成長率の見通しパスを示しています。この物価上昇率の見通しパスは、「+2%」という目標を常に満たすことが求められている訳ではありません。英蘭銀行では、物価上昇率がターゲットから外れた場合にも、経済が不安定化しないようにするため、目標への復帰に十分な時間をかけるという金融政策の運営方針も明確にしています。2004年に、英蘭銀行では、消費者物価指数の実績が前年比+1%台前半と、目標から下方にかなり乖離する状況で利上げを行いましたが、その際の説明では、住宅価格が高騰しているという状況が個人消費ひいては物価上昇率の見通しに影響する可能性があることを強調しました。この点、短期的な「物価の安定」にとらわれて金融政策を運営すると、経済活動の大きな振れをもたらし、結果的に、長い目でみた「物価の安定」や、「経済の健全な発展」を損なうという考え方は、海外の中央銀行でも共有されているように思います。

 このような点からみて、インフレーション・ターゲティングの枠組みは、金融政策の透明性確保の手段の一つと考えておいた方が有用です。英蘭銀行をはじめ、実際にインフレーション・ターゲティングを採用している中央銀行では、経済・物価情勢や見通しをレポート等のかたちで公表するなど、全体として透明性を確保する仕組みを整える中で、金融政策が目指すべき物価上昇率の公表を行っています。欧州中央銀行や米国連邦準備制度理事会など、厳密な意味ではインフレーション・ターゲティングを採用していない中央銀行でも、金融政策の透明性を高めるため、様々な取り組みを続けてきています。その際、重要なことは、物価情勢はもとより、その背後にある経済の動向などについての判断をしっかり示すとともに、そのもとで金融政策がどのように運営されるかについての基本的な考え方を適切に示していくことです。こうしたことを分かりやすく説明すれば、市場参加者は、経済情勢に応じて中央銀行がどのような政策を採るかをより的確に予想できるようになります。その結果、将来の金融政策に関する不確実性が小さくなり、金融市場の価格形成や経済主体の予想形成が、経済・物価等に応じて、円滑に行われるようになると考えられます。

 そうした認識のもとで、日本銀行では、展望レポート以外にも、金融政策決定会合の議事要旨や金融経済月報、記者会見、講演、ホームページの充実などを通じて、世界の中央銀行の中でも多くの情報発信を行い、丁寧な説明に心がけています。金融政策が目指すべき物価上昇率を示すことについては、金融政策を取り巻く様々な環境を考慮した上で、日本銀行の政策運営を分かりやすく伝えていくには全体としてどのような枠組みを構築していくべきかという大きな視点から検討していくことが大切であると考えています。いずれにしても、十分に長い期間を念頭に置いた上で、持続的な「物価の安定」という観点から、わが国の経済・物価情勢を適切に評価し、これを示していくことを通じて、金融政策運営の透明性向上に努めていきたいと考えています。

おわりに

 以上、「物価の安定」について日頃私が考えているところを述べました。日本経済は、バブル崩壊以降、10年以上に及ぶ調整の過程を経て、新たな発展を展望できるようになってきています。こうした状況を物価安定のもとでの持続的成長につなげていくことは、わが国経済にとっての最大の課題であり、この点については、政府と日本銀行で広く認識を共有しています。日本銀行としては、物価安定のもとでの持続的な成長を実現するという観点から、適切な金融政策運営に努め、日本経済の新たな発展をサポートしてまいりたいと考えています。

 ご清聴ありがとうございました。

以上