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「日本経済の現状と金融政策運営の新しいフレームワーク」

長崎県金融経済懇談会における西村清彦審議委員挨拶要旨

2006年6月22日
日本銀行

目次

  1. 1.はじめに
  2. 2.最近の経済情勢と今後の見通し
    1. (1)「展望レポート」:現状分析の基準点として
    2. (2)景気の現状:「ばらつき」と「しぶとさ」
    3. (3)将来を見据えて:慎重な業況判断、手堅い投資
    4. (4)当面のリスク要因
  3. 3.新しい金融政策運営のフレームワークと今後の政策運営
    1. (1)新たな金融政策運営の枠組みの導入
    2. (2)「物価安定の理解」
    3. (3)二つの「柱」に基づく経済・物価情勢の点検
    4. (4)潮流の行方:「資本の経済的陳腐化」と「投資の限界収益率の推移」
  4. 4.終わりに

1.はじめに

 本日は、長崎県の行政および経済界を代表される皆様方のご出席を賜り、懇談の機会を得ましたことを大変光栄に存じます。

 日頃は、深野支店長をはじめ日本銀行長崎支店が大変お世話になり、誠に有り難うございます。長崎支店が、昭和20年4月に事務所として開設して以来、60年を超える長年に亘って支店活動を継続できましたのも、本日ご臨席の皆様方をはじめとする、地元の皆様の深いご支援・ご理解の賜物と感謝しております。改めまして、厚くお礼申し上げますとともに、今後ともよろしくご指導を賜りますよう、お願い申し上げます。

 本日は、まず私から国内外の景気、経済情勢とその見通し、そして金融政策運営に関して報告させて頂いた後で、皆様方から当地の金融経済情勢や日本銀行の金融政策に対するご意見などをお聞かせ頂ければと存じます。

2.最近の経済情勢と今後の見通し

(1)「展望レポート」:現状分析の基準点として

 日本銀行では、日本経済の現状をみていく際に、先行き1年から2年の経済・物価情勢について、そうなる可能性が高いと思われる「見通し」を毎年2回(4月と10月)に作成します。これがいわゆる「展望レポート」で、正確には「経済・物価情勢の展望」と申します。いわば経済というドラマがこう展開されるだろうと思われる「シナリオ(筋書き)」といって良いでしょう。現在の「シナリオ」は、4月28日に公表した「展望レポート」です。毎月の現状判断は、このシナリオを基準点としてみていくことになります。

 今シナリオと言いましたが、経済はテレビ・ドラマのように筋書き通りには運びません。そこで「展望レポート」でのシナリオも一番そうなる可能性の高い筋書きを中心に据えますが、同時に筋書きからはずれていく可能性も「リスク要因」として考えます。よく、人生は筋書きのないドラマだ、と言いますが、その顰みに倣って経済を筋書きのないドラマだと開き直ってしまうと、とても「見通し」などできません。確かに筋書き通りには運びませんが、筋書きの「本流」からはずれるケースも予め筋書きの「分岐」として入れておいて、準備怠りなくしておこうというのがここでの考え方です。「筋書きのあるドラマ」を中心にしながら、「『筋書きのないドラマ』と言う筋書き」も考えておこうという訳です。

 それでは今年4月時点の展望レポートを基準として、まず「本流」の筋書きに従って現状をみてみましょう。

 まず全体感として、展望レポートでは「わが国経済は、着実に回復を続けている」としましたが、それは現在も大きな変化はありません。具体的には、輸出や生産は増加を続けており、企業収益が高水準で推移するもとで、設備投資も引き続き増加しています。雇用者所得も、雇用と賃金の改善を反映して、緩やかな増加を続けており、個人消費は増加基調にあります。このように内需と外需、企業部門と家計部門がともにバランスよく着実な回復を続けています。

 先行きについても、展望レポートでは2006年度から2007年度にかけて内需と外需、企業部門と家計部門のバランスがとれた形で、緩やかだが「息の長い拡大を続けると予想される」としました。そして「成長率の水準は、景気回復局面に入って既に4年以上経過する中で、今後景気は成熟段階に入っていくと考えられるため、2006年度は2%台半ば、2007年度は2%程度と、潜在成長率近傍の水準に向けて徐々に減速する可能性が高い」との見解を示しています。このように、「わが国経済は、着実にかつ安定的に回復を続けており、今後は緩やかな拡大の方向に向かう」というのがメインシナリオつまり「本流の筋書き」であり、現状は、でこぼこはつきものですが、ほぼこのメインシナリオに沿った動きをしていると考えています。

(2)景気の現状:「ばらつき」と「しぶとさ」

 こうしてみると、日本全国がしっかりと好景気の局面に入ったかのように聞こえるかもしれませんが、実はそうではありません。今回の景気回復が緩やかで息が長いのは、逆に言えば、日本全体が好景気という状況には距離があることの裏返しとも言えます。

 業界、地域での「ばらつき」が大きく、景気の良さを実感できない企業や生活者も多いし、また景気の良さを感じるところも、その景気が実に移ろい易いという実感をもっています。つまり、現状の「景気の良さ」は空間的にも(つまり地域で見ても)、時間的にも(移ろい易さからみても)、大きな「ばらつき」を持っています。

 しかし、見方を変えると、これが今回の景気回復の「しぶとさ」の源でもあります。ホームランバッターがいて、ホームランで得点を重ねて勝利しているような場合は、ホームランバッターがケガをしたら、突然チームの勢いが止まってしまいます。しかし皆が代わる代わるコツコツとヒットを打って加点している場合は、ケガ人が出たとしても、チームの勢いに変化はないはずです。日本の現状は、「ばらつき」の大きな中で、ヒットを打つ業界、地域が入れ替わりながら、全体としてみれば「しぶとい景気回復」が続いていたということになります。

 現在もこの傾向は続いています。様々な統計データをみても、一本調子の強さというよりも、くるくる主役が代わりながら、全体としてじりじりと水準を上げて来ていることが分かります。

 図表1と図表2は、消費の現状を表したものです。図表1は消費を支出側からみたもので、現状は決して強くありません。昨年の今頃はかなり強い数字が出ていたのですが、足許は低調です。これに対して、図表2は消費を生産側からみたものです。これをみると、現在は既往最高水準にあることが分かります。この二つは矛盾しているようにみえますが、どちらも調査サンプルからの推計ですから、全体を捉えている訳ではないのでこうしたことが起こります。そして、両者の差が大きいことは、「ばらつき」の大きさ、そして消費を牽引する主役が小粒でかつ頻繁に交代していることを示唆しています。しかしながら、生産側と支出側両者の「平均」を考えてみるなら、潮流はしっかりしていることはこの中からみてとれます。

(3)将来を見据えて:慎重な業況判断、手堅い投資

 日本経済の現状をみる際に、もう一つ特徴的なのは、企業経営者が業況判断に対して慎重であり、投資も手堅いという点があります。前回3月調査の日銀短観でもそうですが、今回の景気回復の過程で一貫してみられる傾向です。短観対象企業(大企業と比較的大きな中小企業)の企業業績が、特に大企業を中心として過去最高を更新し続けるという状況の下でも、なお慎重姿勢というのは特徴的です。

 このことは、実は日本企業が置かれた状況から考えれば納得できます。いわゆる「失われた10年」の時代に不良債権問題等に直面していた日本企業が情報技術革新や世界市場化といった環境変化に速やかに対処できなかったことは否めません。ネットワーク情報通信技術を駆使し、世界的な工場再配置を迅速に行える新しい経済環境では今までのやり方とは違う形で資本や労働の再編を行わなければなりませんでした。しかし、その再編が実は円滑に進まなかったために、資本設備が余り、従業員が余るという現象が起こったと考えるのは自然だと思います。そして、外部環境が改善し、ようやく後ろ向きのリストラにも平均でみれば目処がついた状況です。従って、企業は全体としてみるならば、将来予想には極めて慎重ですが、同時に必要な投資については手堅く対処していくという態度をとっていると考えられます。この「慎重な業況判断ながらも手堅い投資」という企業態度が「しぶとい」景気回復を支えていることは明らかでしょう。

 図表3は、法人企業統計季報の最新のデータでみた企業の設備投資の状況です。業績も良く設備投資でも先行した製造業大企業は、図表3(1)にあるように高水準を維持しながらもさすがに伸び率は下がってきています。これに対して、業況判断がまだらで推移してきた非製造業大企業では、図表3(3)にあるように設備投資の伸び率が回復してきています。ここでもヒットを打つ主役の交代がみられます。

 興味深いのは中小企業の動きです。図表3(2)と(4)にあるように、おしなべて今回は伸び率が回復しています。実は、法人企業統計季報は、中小企業のサンプル数は少なく、そのためサンプルの特殊要因による振れが極端に大きく出るというクセがあることが知られています。それは、特に業種のばらつきの大きい非製造業で顕著と言われています。従って、1四半期の動きだけでこの中小企業の設備投資の動きを云々するのは、ためらわれるので、現状のこの動きはまだ参考程度にとどめておくのが適当と思われます。しかし、今後をみていく際には、この中小企業サンプルにみられる動きが全般的な中小企業での動きの先駆けとなっているのかどうかが重要な判断のポイントです。

(4)当面のリスク要因

 以上、もっとも実現可能性の高いシナリオについて説明しました。しかし最初に述べたように、このシナリオから逸脱するリスクもあります。そこで、以下では今後注意しなければならない当面のリスク要因について、いくつか指摘したいと思います。

  1.  第一のポイントは、米国経済の動向です。同国経済については、特に住宅市場の見通しが一つの鍵になると思われますので、この点について私見を述べさせて頂きます。私自身はメインシナリオとしては、「住宅市場の減速はソフトランディングして、米国経済には短期的には大きな影響はない」と考えています。これは二つの見通しを背景にしています。まず、第一に「住宅市場は減速するが、さほど価格は低下しないのではないか」と考えています。第二に、「もし価格が落ちたとしても、需要への影響は小さいのではないか」と思っています。そこで、リスクがあるとしたら、この二つの見通しが間違う場合ですので、それを検討することにしましょう。

    1.  一つ目の「住宅市場は減速するが、さほど価格は低下しないのではないか」という見通しは、最近の他国における住宅市場減速の状況、足許の英国住宅市場のリバウンド等からの類推が働いています。ただ他国での現在までのところのソフトランディングは、米国住宅市場の堅調という下支えがあったからかもしれません。つまり、下支えだった米国住宅市場そのものが沈み始めるとすると、不確実性が大きく高まる可能性があります。日本の経験から類推すれば、住宅市場の減速と、株式市場の低落が同時に起きてくるような場合には、住宅価格にも相当な影響が出てくる可能性があります。実際最近の金融市場の動きは、その点で大変気になるところです。

    2.  そこで次に、二つ目の「もし価格が落ちたとしても、家計の消費行動等への影響は小さいのではないか」という見通しが尤もらしいか否かが重要になります。従来のマクロ時系列分析やミシガン大学のPanel Study of Income Dynamicsを使った分析は、「住宅価格下落からの消費の影響は比較的小さい」という結果を示しており、それが私の楽観的な見通しの背景にあります。しかしながら、Consumer Expenditure SurveySurvey of Consumer Financeの二つの大規模データをマッチさせた最近の分析では、「住宅価格の下落が消費に及ぼす影響は大きい」との結果が出ています。その推計値に従えば、「2005年水準から住宅価格が10%下落し、1年前の水準に戻ったとすると(これ自体はありそうな話であると思いますが)、GDP成長率を1%ポイント程度下げる影響が出る」ということになります。この分析は、その規模において他の分析よりも遙かに詳細なものですので、その結果は、先のソフトランディング見通しに疑問を投げかけるものであるわけです。

       いずれにせよ、鍵は「住宅市場の減速が目立った価格の下落をもたらすか否か」ということです。この点については、今後の推移に十分に注意しなければなりません。

  2.  第二のポイントは、中国経済の動向です。中国は、固定資産投資が高めの伸びを続けるなど引き続き高い成長を続けており、景気過熱に対する警戒感を指摘する声も出始めています。今後も2007年の党大会、2008年の北京五輪、2010年の上海万博、と政治的にも経済的にも大きなイベントが目白押しです。その一方で、2008年の北京五輪後の経済失速を懸念する声、深刻化する水不足や環境問題などを懸念する声などが引き続き聞かれており、予断を許さない情勢が続いています。しかしながら、大きなイベントを控えて中国政府は極めて慎重にことを運ぶと思われます。実際、去る3月に採択された「第11次5ヵ年計画要綱」では、「社会主義新農村」構築で農村支援に動き出すなど、様々な改革の動きも始まっていると聞いています。そのように考えるなら、矛盾をはらみながらも、比較的安定して推移する可能性は高いと思います。しかし、現在のところ微妙なバランスの中で安定していること、いずれの問題も抜本的な問題解決にはなお時間がかかりそうなこと、を考慮すると、政治・経済の両面から思わぬ波乱があるかもしれません。このように、米国・中国ともに引き続き景気や経済情勢の判断については、微妙な局面にあることは留意しなければならないでしょう。

  3.  第三のポイントは、新興国、特に同地域向けの輸出の動向です。地域別に輸出動向をみると、これまでとは違った新しい動きがあります。図表4は実質輸出の内訳を示した表ですが、従来から、米国、EU、そして東アジア(特に中国)が日本の輸出先として重要で、その重要性はもちろん今でも減少した訳ではありません。しかし、直近をみると、実は「その他」がその重要性を増していることがわかります。2006年第1四半期の伸び率をみると、米国は3.4%、EUは1.2%、中国は4.7%と減速あるいは横ばいなのに対して、「その他」は2005年第4四半期の4.7%から7.7%へと伸びが加速していることが分かります。「その他」は文字通り「米国、EU、東アジア以外」ということですが、このカテゴリの最近の伸びは、ブラジル、ロシア、インド等の新興国、そして産油国向けが大きく寄与しています。いわば「新顔」の台頭が「古顔」の減速の一部を埋め合わせてきたわけです。つまり、全体としてみるならば、特定の地域に偏らず、満遍なく輸出が出ていたことがわかります(こうした動きの背景にあるのは、図表5にある実質実効為替レートの動きです。我々はともすれば、米ドルとの為替レートに目が行きがちですが、図表にあるように、世界は米ドルだけの世界ではありません。そして世界規模でみる限り、円の実質実効為替レートは1985年以降で見て最安値圏にあることがわかります。これが底堅い輸出の支えになっていたことは想像に難くありません)。しかしながら、今後もこれまでのような力強さが続くかどうかは注視していく必要があります。

  4.  第四のポイントは、世界的な商品市場の動向、特に原油価格や素材価格の影響です。原油価格は、依然として高水準圏での推移が続いており、これを背景に石油・石炭製品も上昇を続け、鉄鋼・建材関連についてもスクラップや銅製品などを中心に緩やかに上昇しています。その他の素材(化学製品など)でも、プラスチック製品が上昇するなど、徐々に拡がりをみせ始めています。こうした動きの背景には、投機資金の影響、中国などいわゆるエマージング諸国におけるエネルギー需要の増加、そして中近東地域を中心とした地政学的リスクの高まりなど複合的ではありますが、同時に構造的・長期的な現象である可能性もあります。この点は先行きの景気動向、物価動向を見通す上でも今後の動きを引き続き見極める必要があります。さらに、商品市場の乱高下に加えて、最近の世界的な金融市場の乱高下にも、注意をする必要があるのは言うまでもありません。ここのところ続いてきた金融環境の微妙な変化に対する調整のプロセスであり、新しい均衡を探る動きであると考えるのが自然と思われますが、注意深く見守っていくことになります。

  5.  第五のポイントは、個人消費の増加基調の持続性です。足許は雇用環境が改善を続ける中で、雇用者所得の緩やかな増加等が引き続きみられています。「消費者コンフィデンス」などセンチメント指標をみても総じて良好に推移していますし、例えば、自動車などの耐久消費財においても、軽乗用車への需要は強く、高級車の販売が堅調さを維持するなど順調な増加基調を続けています。これは「消費の二極化」のようにみえますが、その背景には、軽自動車の質の著しい向上があり、燃費を含めて大衆車の魅力が相対的に低下してきているという商品設計上の需要と供給のミスマッチがあるように思います。企業は生産面ではリストラを進め、その成果は着実に生まれつつありますが、商品開発面ではまだまだこれから、ということのように思います。同じような「消費の二極化」は、サービス関連でもみられるようです。このように、個人消費の着実な増加傾向は、今後も持続する可能性が高いとみていますが、消費者の選好と企業の商品のミスマッチがどのような影響を消費に与えていくのか、今後引き続き注意してみていく必要があります。

     以上を踏まえますと、わが国経済の短期的な見通しにつきましては、当面は「拡大」というメインシナリオを維持することで大きな問題はないと思っていますが、上述したようなリスク要因もあり、これらが顕現化する可能性も頭に置く必要があるのではないかと考えています。

3.新しい金融政策運営のフレームワークと今後の政策運営

(1)新たな金融政策運営の枠組みの導入

 日本銀行は、3月9日に、2001年3月以来5年間に亘って続けてきた量的緩和政策の枠組みを変更し、金利政策に移行しました。これは、金融市場調節の操作目標をそれまでの日本銀行当座預金残高から無担保コールレート(オーバーナイト物)に変更し、金融市場調節方針、所謂ディレクティブを「無担保コールレート(オーバーナイト物)を、概ねゼロ%で推移するよう促す」としている点は、皆様ご存知の通りです。

 こうした変更に併せて、金融政策運営の透明性をしっかりと確保する観点から、金融政策運営の新たな枠組みを公表しました。この新たな枠組みは、以下の三つから構成されています。

 第一に、金融政策の目的である「物価の安定」についての明確化を図りました。これは、物価の安定についての日本銀行としての基本的な考え方を公表するとともに、金融政策運営に当たり、現時点において政策委員が中長期的にみて物価が安定していると理解する物価上昇率を示しています。第二に、金融政策運営に当たって、経済・物価情勢を点検するための「二つの『柱』」を明らかにしました。第三に、上記の点検を踏まえたうえで、当面の金融政策運営の考え方を整理し、基本的には展望レポートにおいて定期的に公表していくこととしました。以下では、それぞれについて簡単にご説明致します。

(2)「物価安定の理解」

 先に述べたように、金融政策の透明性をしっかりと確保するため、日本銀行の各政策委員が「中長期的にみて物価が安定していると理解する物価上昇率」について、考えを公表し、「物価の安定」を明確化することを決定しました。これが「中長期的な物価安定の理解」です。因みに、3月9日に公表された「新たな金融政策運営の枠組みの導入について」の中では、具体的には、「消費者物価指数の前年比で表現すると、0~2%程度であれば、各委員の『中長期的な物価安定の理解』の範囲と大きくは異ならないとの見方で一致した。また、委員の中心値は、大勢として、概ね1%の前後で分散していた。」という表現になっています。

 この「物価安定の理解」は、概ね肯定的に受け入れられていると考えていますが、新しいフレームワークであることもあり、「難解である」とか、「ヨーロッパ中央銀行ECBやイングランド銀行BOEとの違いが判明でない」などの意見もあり、十分な理解を得られていないところも正直あります。そこで、この新しいフレームワークの意味する所について、私なりの説明をさせて頂きたいと思います。

 まず明確にすべき点は、先般示された「0~2%程度」という数値は、各政策委員が持つ「中長期的な物価安定」の「理解」の、現在時点の分布であって、将来も定期的に再検討するということです。

 特にインフレ目標的な数値の公表を期待していた方々からは、この「物価安定の理解」が公表された当初、「この『理解』はよく理解できない」との批判も聞かれました。確かに「将来も変わらない、唯一のインフレ目標(幅)」という「メガネ」の向こうからこの「理解」をみると、これが日本銀行の統一的な「目標」でも「定義」でもなく、また将来定期的に検討し、変わっていく、というのは違和感があると思われます。しかし、「メガネ」をかけずに、日本経済の現状を踏まえ、そのままの形で「理解」を読んで頂ければ、これは自然な「理解」の姿であることが了解頂けると思います。

 まず、「物価安定」の水準を考えるためには、公表されている物価指数のバイアスの大きさについて判断する必要があります。バイアスの程度は、指数固有の問題以外にも、計測方法の変更や経済構造の変化の度合いによって大きく変化します。この点は、私が昨年12月6日付の日本経済新聞「経済教室」に寄稿した通りです。更には、物価安定の水準を考える際には、誰を基準に考えるか、という本質的な問題があります。現在の消費者物価指数は平均支出ウェイトの消費者物価指数ですが、これは「平均的な家計」の選好(好み)を反映する物価指数とは異なります。というのは「平均的な家計」の選好(好み)より、より高額の支出をする消費者の選好(好み)を反映した指数になっているからです。物価安定は、「平均的な家計」が考える物価安定の水準とするのが自然と思いますが、この水準と現在の消費者物価指数との乖離、差は支出パターンの分布に依存し、経済構造に依存します。従って、定期的に両者を再検討する必要があるのです。

 付け加えて申し上げると、日本ではコア消費者物価指数として「生鮮食品を除く総合」を使います。これに対して欧州や米国では「食料品とエネルギーを除く総合」を使っており、国際標準になっている、だから日本でも「食料品とエネルギーを除く総合」で判断するべきである、という議論があります。国際標準というと聞こえは良いのですが、データをきちんと精査すれば、この議論は根拠を失います。

 経済理論に基づくと、最終的な「物価安定」は、総てを含んだ物価指数、つまり総合指数で判断されなければなりません。しかし、総合指数には短期的な様々な変動があるので、長期的に総合指数の動きをできるだけうまくなぞっている、短期的な変動の少ない指数をコア消費者物価指数としてみていくのです。この観点からすると、米国では確かに「食料品とエネルギーを除く」指数がその任を果たしています。ところが、日本の場合は、「食料品とエネルギーを除く」指数は実はうまく総合指数の長期的な動きをなぞっていません。従来から使われている「生鮮食品を除く総合」がやはりこの点で優れているのです(この点は「日銀レビュー」2006-J-7に詳しい説明があります)。統計の先達の将来を見通す目は曇っていなかったと言えましょう。

 元に戻りましょう。「物価安定」の判断について、「デフレに戻らないためののりしろ」について考えるべきであるという主張もあります。そしてこの「のりしろ」の必要な幅には、価格、賃金等の硬直性の程度が重要な決定要因ですが、少なくとも日本ではこの硬直性が歴史的に一定ではなく、変化しています。この「のりしろ」をどの程度考慮するかは判断の分かれるところではありますが、いずれにせよこの点でも、定期的に再検討する必要があるでしょう。

 将来の日本経済の普通の姿がまだ見えないところで、それについて、一定の予想の下で「目標」を掲げ、あるいは「定義」を与えることには大きなリスクが伴います。しかしながら、透明性の観点からみれば、政策担当者が「物価安定」についてどのような「理解」を持っているのかを示すことは重要なことは言うまでもありません。そして、日本経済が、移行期にあって様々な見方が存在する本源的な不確実性の元にあることも事実です。従って、違いがあることも共有し、透明性を確保しようという判断を政策委員会が行い、このような個々の「理解」の集合として全体の「物価安定の理解」をお示しした訳です。このように「物価安定の理解」自体は、政策判断の前提となる各政策委員の「理解」を示しているわけですから、基礎的で包括的な情報をお示ししていると考えていただければと思います。

 さらに批判あるいは誤解が多いのは、「わが国の場合、もともと、海外主要国に比べて過去数十年の平均的な物価上昇率が低い(中略)。このため、物価が安定していると家計や企業が考える物価上昇率は低くなっており、(中略)金融政策運営に当たっては、そうした点にも留意する必要がある」というくだりだと思います。この点について以下で私なりの説明を加えておきたいと思います。

 欧米の学界を中心として、経済は、「経済構造を理解して将来を予想する」家計、企業からなると考えるのが主流となっています(「経済構造を理解して将来を予想する」ことをforward-lookingと言います)。この見方からは、「過去の物価上昇率は単に経済に対する様々なショックと金融政策を含めた経済政策の結果であり、それが『経済構造を理解して将来を予想する』家計や企業の『物価安定』の見方に影響を及ぼすことはない」というものです。そこで、先ほど述べたような、『「物価の安定」についての考え方』の部分は理解しがたい、という反応につながります。

 しかし、海外はともかく、日本では、総ての家計、企業が「経済構造を理解して将来を予想する」とは思えません。つまり、日本の場合は「過去の経験に強く依存して将来計画を立てている」企業、家計が多いという可能性は否定できないのです。こうした企業、家計にとっては、過去の物価上昇率の推移は当然彼らの考える「物価安定」の見方を規定することになるのです(「過去の経験に強く依存して将来計画を立てている」ことをbackward-looking と言います。日本では価格・賃金の制度的硬直性があまりみられないにもかかわらず、forward-lookingbackward-lookinghybrid Phillips curveを推計すると、後者backward-lookingの係数がずいぶん高く出るという事実があります。このことは、こうした「過去の経験に強く依存して将来計画を立てている」企業、家計が日本では無視できない可能性があることを示唆しています)。

 この点を考慮すると、日本の過去を考えれば(「失われた10年」を除いても)インフレ率は、独・スイスに比べても明確に低いので、たとえば2%を超えるインフレ率を目処とするような政策を行うと、物価安定というよりインフレ誘導ととられるおそれがあります。蓋然性が低くても影響の大きな可能性にも十分に対処できる実際的な政策を考えるときは(実はこれは後述する二つの「柱」のうちの二番目に対応します)、この可能性を当然考えなければならないことになります。

 ただし、今後「危機の経済」から「普通の経済」への転換の中で、つまり様々な構造変革(たとえば直接金融の進展)の中で、比較的早く変化するかもしれません。そこで「定期的な見直し」をする必要があるわけです。それを明確に考慮したのが、今回のフレームワークであると考えています。

(3)二つの「柱」に基づく経済・物価情勢の点検

 次に、経済・物価情勢をどう点検し、どう金融政策運営に反映させていくか、という点についてです。日本銀行は、これまでも、金融経済月報や展望レポートなどを通じて、経済・物価情勢の現状と見通しについての判断を示していますが、金融政策運営の観点から、以下に述べる二つの「柱」により経済・物価情勢を点検し、その結果を明らかにすることにしました。

 第一の「柱」では、先行き1年から2年の経済・物価情勢について、最も蓋然性が高いと判断される見通しが、物価安定のもとでの持続的な成長の経路を辿っているかどうか、という観点から点検します。

 もっとも、物価安定のもとでの持続的な成長の実現に向けて適切な金融政策運営を行っていくためには、展望レポートにおける最も蓋然性の高い見通しに着目した評価のみでは十分ではありません。見通しには常に不確実性が伴いますので、こうした点を踏まえ、展望レポートでは、最も蓋然性の高い見通しに対する上振れ要因や下振れ要因についても、詳しく記述しています。金融政策運営に当たっては、これらのリスクを出来るだけ回避するという視点が必要になります。

 また、展望レポートは、先行き1年半から2年程度の期間を対象としたものですが、こうした期間を超えるような中長期的な経済・物価動向に影響を及ぼすリスク要因も考えられます。内外の経験をみても、資産価格の大幅な変動や、金融機関の信用仲介機能の状況を含めた金融環境の変化は、かなりのタイムラグを伴って景気や物価に影響を及ぼす可能性があります。このほか、やや長い目でみた人々のインフレ予想が変化する場合には、経済と物価の関係に大きな変化をもたらすことが考えられます。

 このように、より長期的な視点を踏まえつつ、物価安定のもとでの持続的な成長を実現するという観点から、金融政策運営に当たって重視すべき様々なリスクを点検することが、第二の「柱」となります。短期的な物価の安定にとらわれて金融政策を運営すると、経済活動の大きな振れをもたらし、結果的に長い目でみた物価の安定や経済の健全な発展を損なうという考え方は、海外の中央銀行でも広く共有されているように思います。

 以上の二つの「柱」に基づく点検を踏まえたうえで、金融政策運営の基本的考え方を整理し、毎回の展望レポートを通じて定期的に公表していくことになります。

(4)潮流の行方:「資本の経済的陳腐化」と「投資の限界収益率の推移」

 さて当面の金融政策運営については、私自身は普段から申し上げていることですが、「予断を持って臨んでいない」ということに尽きます。

 まず、無担保コールレートを概ねゼロ%とする期間を経た後、経済が病人の状態から健康人の状態へと移行して行くに連れて、徐々に金利水準の調整を行う、というのが基本です。その上で、上述したような「リスク要因」が抑制され、経済がバランスのとれた持続的な成長過程を辿る中にあって、物価の上昇圧力が抑制された状況が続いていくと判断されるのであれば、極めて低い金利水準による緩和的な金融環境が当面維持される可能性が高い、と考えています。この判断の裏には、日本経済の変化の潮流に関しての私の判断があります。これからそれをご説明したいと思います。

 先行きを見通す時、私は「資本の経済的陳腐化」と「投資の限界収益率の推移」が、重要な意味合いをもつと考えています(以下の説明は若干テクニカルになりますが、前提条件を最初に明らかにしておく必要があると思います。いわゆる「フィリップス・カーブ」に代表される様々な形の名目価格・名目賃金の硬直性から生じる要因を一旦脇に置いて、純粋に生産技術という実物面から日本経済の変化をみよう、ということです。そのため需要等に対する様々なショックを捨象し、不良債権の影響による金融仲介機能の不全も捨象しています。もちろんこれらの要因が重要ではない、ということを主張しているのではありません。ただ、これからの日本経済をみる時に、これからお話する視点が最も重要と考えるからです)。

 現在の日本経済は、90年代の「危機的な下方スパイラル状況」から、「健康体」への調整のプロセスにあります。冒頭でも説明しましたように、90年代から2000年代初頭の時期は、情報技術革新や世界市場化といった環境変化に対して、日本経済を構成する組織が速やかに対処できませんでした。このことは、単に物理的な資本設備だけでなく、従業員に体化した企業固有の人的資本も含んだ広義の資本ストックが陳腐化し、経済的減耗が大きくなったこと、そのため、経済的減耗を勘案した真の「投資の限界収益率」(投資を一単位追加的に増加させることの収益率)が著しく低下したことを示唆します。

 現在は、いわゆるリストラを進めたことで、ようやく日本全体でみても経済的陳腐化の影響が次第に薄れつつあると考えられます。このことは、日銀短観において、設備判断で過剰と不足がトントンになり、雇用人員判断で「過剰」よりも「不足」が勝るようになったことからもおおよそ推測されます。このように、病気の状態から健康体への調整のプロセスにあるのが、現在の姿と考えるのが自然だと思われます。病気の状態では投資の限界収益率がほとんどゼロで、前向きの「純」投資が起こらない状況でした。つまり粗投資から減耗補填(経済的減耗を含む「真の減耗」の補填)を引いた純投資がゼロに近い、あるいはマイナスの状況でした。現在はそこから投資の限界収益率がゆっくりと回復し、前向きの「純」投資が少しずつ起こりつつある状況へと転換しつつあります。

 このように申し上げると、「新聞などでしばしば、企業の収益率は最高、その投資意欲も強い、という現状判断を聞くが、それと合わないのではないか」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。実は、以上の説明は、日本全体、東京も地方も大企業も個人企業も含めた平均の動きを説明しているものであり、平均はそうであっても中身は大変ばらついています。ここでの議論は、現在高い収益率を享受し、投資意欲も強い大企業あるいは大きめの企業だけでなく、過半を占める中小企業、特に地方中小企業を含めた日本全体の議論をしています。つまり、地方、中小企業を含む日本経済全体でみるならば、以上説明した状況が当てはまる、と考えているわけです。

 さて、話を元に戻しましょう。先ほど、陳腐化の影響は少しずつ薄れつつあると申し上げました。このことは「投資の限界収益率」も緩やかに回復していることを強く示唆しています(この点は、日銀短観の企業業況判断の慎重さと投資計画の底堅さの両方と整合的です)。この説明を受け入れるならば、そこには次のような重要な二つの含意があります。

  1.  第一の含意は、「物価の安定と整合的な実質利子率」を達成するために必要な名目利子率の水準についての含意です。

     まず、「物価の安定と整合的な実質利子率」の水準は、今まで説明した「投資の限界収益率」に等しいことに注意が必要です(理論的に正確に申し上げますと「名目硬直性のない時の投資の限界収益率」で、資本の経済的陳腐化以外にショックがない場合ですが、簡単化のため、条件が成立しているとして説明します)。とすると、「物価の安定と整合的な実質利子率」も現在は低位にあるがプラスであり、そこから緩やかに上昇していくと考えられます。

     実際の実質利子率が、長期に亘ってこの「物価の安定と整合的な実質利子率」よりもかなり低い状態が続くと、資源配分上無視できない無駄な過剰投資を呼び起こし、将来の経済の振幅を大きくしてしまう可能性があります。従って、物価上昇率が低いながらもプラスに定着してきている状況で、名目利子率を極端に低いレベルに長期に置き続けることには、長期的にみると、起こる可能性は小さいかもしれないが、起きた場合には相当な問題を生じさせてしまうリスクが伴います。と同時に、「物価の安定と整合的な実質利子率」が非常に低いレベルから緩やかに上昇していくということは、物価上昇率が目立って加速されない場合は、「物価の安定と整合的な実質利子率」を達成するために必要な名目利子率も、非常に低いレベルから出発して、緩やかに上昇させるだけで十分であり、従って急速な名目利子率の上昇は望ましくないということになります。ただし、外的なショックがあれば、それも勘案しなければなりませんので、時点時点での慎重な検討が必須となることが分かります。

  2.  次に、過去の日本経済停滞の主要要因の一つとして、「経済的陳腐化」を考えるこの説明の第二の含意を考えます。

     まず、経済的陳腐化の程度は、機械的に作成される公表された経済統計中の資本設備のデータからは分からないことに注意する必要があります。従って、陳腐化の程度とそれからの調整のスピードは、短観のような企業サーベイにからある程度定性的に類推せざるを得ません。この意味で、短観にみられる企業の態度は、すでに述べたように経済的陳腐化に対する調整の度合いを測る重要な情報です。

 この二つの含意から、名目利子率の適正な水準の判断は、現在のところ、公表される物価上昇率のデータとそこから抽出される将来の物価上昇率の情報に加えて、日銀短観やその他のビジネスサーベイデータにみられる企業態度の情報を勘案して、的確になされる必要があると考えられます。

4.終わりに

 当地におよそ30年ぶりに参りまして、長崎、佐世保を中心に幾つかの企業をご訪問させて頂く貴重な機会を得ました。最後に簡単ではありますが、こうした貴重な経験なども踏まえまして、当地の印象について、私なりに感じたことをお話させて頂ければと思います。

 そもそも当地は、江戸時代に唯一海外に門戸を開いていた先進の地であり、当地を訪れるに当り、かつて日本の近代化をリードした街に残されている様々な歴史の足跡に直に接することを、大変楽しみにして参りました。

 実際に当地を訪れてみますと、長い歴史を持った文化・産業に、新たな息吹が加わっており、長崎の先取のDNAが今なお息づいていることに強い感銘を覚えました。例えば、モノ作りの世界では、造船業が高操業を続ける中にあって、電子部品や風力発電、太陽電池など次世代エネルギー分野の製品の生産も盛んになっていることを伺いました。

 食文化でも、従来の「卓袱料理」、「カステラ」、「ちゃんぽん」に加えて、「角煮まんじゅう」のような新しいブランドが誕生していますし、ハンバーガー伝来の地・佐世保の「佐世保バーガー」は、今や全国に名を馳せています。祭り・イベントでは、今月より街のいたるところで「くんち」の準備が進められているそうですが、そうした古の資産を「長崎さるく博」という新しい枠組みで活かす、新旧のコラボレーションが実現しています。

 こうした長崎の活気の背景には、行政、民間、更には市民の力強い連携があることにも勇気付けられました。

 今春から推進本部に格上げされた県の企業振興・立地推進本部と産業振興財団が一体となって進めている産業活性化や雇用創出に向けた県と民間の連携、「長崎さるく博」における市民ボランティアの活躍などはその証拠と言えます。

 こうした本来当地が持っている「ダイナミズム」をさらなる活力に繋げるためにも、(本日は詳しいご紹介は割愛させて頂きましたが)私が以前から提唱している「社会投資ファンド」の考えに基づく「地域再生税制」を活用した「志のある投資」のスキームを最大限に活用して、地域に対する投資をお考え頂く意義は大きいのではないかと思います。

 ご清聴いただき、誠にありがとうございました。

以上