ホーム > 日本銀行について > 講演・記者会見・談話 > 講演・記者会見(2010年以前の過去資料) > 講演・挨拶等 2007年 > 函館市における金融経済懇談会での西村清彦審議委員挨拶要旨

函館市における金融経済懇談会での西村清彦審議委員挨拶要旨

2007年5月31日
日本銀行

目次

  1. 1.函館の新しい息吹に接して
  2. 2.最近の日本銀行の金融政策運営:「新たな枠組み」の一年
  3. 3.経済・物価情勢:4月「展望レポート」に沿って
  4. 4.なぜ物価の上昇は緩やかなペースに止まっているのか
  5. 5.今後の金融政策運営の方針

1.函館の新しい息吹に接して

 本日は、函館市の行政及び経済界を代表される皆様の出席を賜り、懇談の機会を得ましたことを大変光栄に存じます。

 日頃は、服部支店長をはじめ日本銀行函館支店が大変お世話になり、誠に有り難うございます。函館支店が明治26年に開設されて以来114年という長きに亘って支店活動を継続できましたのも、本日ご臨席の皆様をはじめとする地元の方々のご支援・ご理解の賜物と感謝しております。厚くお礼申し上げると共に、今後ともよろしくご指導を賜りますよう、お願い申し上げます。

 本日は、最初に函館に参りまして肌で感じた新しい息吹について、私の感想を申し上げ、その後、最近の国内外の経済・物価情勢と先行きの見通し及び金融政策運営について、日本銀行政策委員会や私の見解を披瀝し、最後に皆様から当地の金融経済情勢や日本銀行の金融政策についてのご意見などをお聞かせ頂きたいと思います。

 日本経済は緩やかな拡大を続けていますが、北海道経済の現状は未だ厳しい面もあると認識しています。しかし、その中でも新しい息吹を函館で感じることができるのは、心強いことです。例えば、「バル街」です。2004年以降、旧市街西部地区で、春と秋に開催されていると聞いています。スペイン風の食べ歩き・飲み歩きという食文化を、歴史と伝統ある上記地区で再現するこの試みは、高齢化や人口の減少が進む上記地区を活気づけるものでしょうし、「バル街」の知名度向上と共に、函館を訪ねこのイベントに参加しようという観光客が増えてくることも大いに期待できます。

 また、湯の川温泉では、昨年10月に「オンパク(湯の川温泉泊覧会)」が開催されました。散策、料理教室、エステ、アート、音楽といった各種プログラムが2週間に亘り開催され、2000人もの参加者が得られたと聞いています。更に、今年の3-4月には、まぐろ漁で有名な青森県の大間などへの日帰り旅行を含め、プログラムが拡充された第2回目の「オンパク」が開催され、参加者は3000人に上ったと伺いました。地元の関係者の力で、これだけ数多くのプログラムを考案・実施し、しかも大好評を博したと聞き、関係者のご苦労はさぞかし大変なものだっただろうと思うと共に、函館市民の持つエネルギー、機動力の大きさに感服した次第です。

 「バル街」も「オンパク」も、まずは地元市民が函館近辺の魅力を再発見し、クチコミで仲間の輪を拡げることや、こうしたイベントを機に関係業者や市民の「おもてなしの心(ホスピタリティー)」を向上させることが主眼であると伺いました。「バル街」、「オンパク」のいずれも、関心を持つ仲間の輪が順調に拡大しつつある訳で、知名度やホスピタリティーの向上と共に、今後、ますます多くの観光客を函館や道南に引き寄せる原動力となり、地域共同体の再生にも繋がる可能性を秘めた有意義な試みであると考えています。

 もう一つの息吹は、域外の大手ホテルチェーンによる函館への進出です。この動きは、数年後に実現する新幹線の新函館駅への延伸のみが理由ではなく、函館自体が持つ観光地としての魅力、潜在性に注目しているからであると思います。一方では大手ホテルチェーンがその資本力、ネットワークを活用し、函館自体の集客力を高め、他方では地元企業が大手ホテルチェーンの経営手法を取り入れ、サービスの質を向上させ経営を高度化するシナジーが期待されます。内と外が競い合い、よりよいサービスが効率的に供給され、函館が日本に止まらずアジアの重要な観光スポットになる可能性を秘めています。このチャンスを是非、活かして頂きたいと願っております。

 先般公表された函館支店のレポートにも記載されていますが、観光業に限らず、独自の製品、技術、ノウハウによる他社との差別化、ニッチ分野におけるトップシェアの確保、景気がより好調な他地域——これには海外市場も含まれます——への販売活動強化、教育、医療など安定的な市場への注力、技術革新、合理化、市場開拓への努力といった戦略が奏効し、業績が好調である、あるいは復調した企業が函館にはあります。これも新しい息吹として大いに期待したいと思います。

2.最近の日本銀行の金融政策運営:「新たな枠組み」の一年

 本日は、最近の経済・物価情勢と今後の見通しについて、日本銀行政策委員会審議委員としての私の考えを説明しますが、前提として、現在どのように金融政策が運営されているかについて、私の理解を説明したいと思います。

 日本銀行は2006年3月、2001年3月以降継続していた量的緩和政策を解除し、金利(具体的には無担保コールレート(オーバーナイト物))を操作対象とする金融政策に復帰しました。その際、金融政策運営の透明性をしっかり確保するとの観点から、「新たな金融政策運営の枠組み」を導入し、対外的にも公表しています。現在の金融政策はこの枠組みに基づいています1

 端的に申し上げますと、私の理解では以下のようになります。まず、政策委員は「中長期的な物価安定の理解」を共有します。その下で日本銀行政策委員会として年2回「経済・物価情勢の展望(通称:展望レポート)」を発表し、当該年度及び翌年度の経済・物価情勢の予想とそれに基づく金融政策運営方針の姿勢を明らかにします。毎回の金融政策決定会合では、展望レポートの内容を念頭に置きながら、その時点その時点で、「第1の柱」として最も蓋然性が高いと判断される見通しが物価安定のもとでの持続的な成長の道筋、つまり長期・安定的な経済発展経路への道筋をたどっているかどうか点検します。更に「第2の柱」として、より長期的な視点を踏まえつつ、確率は高くなくても発生した場合に生じるコストも意識しながら、リスクを点検します。こうした点検の後、それぞれの政策委員は独自の分析の結果に基づいて、政策決定の投票を行います。決定は全員一致の場合も多いですが、個々の分析の結果が割れ、少数意見が出る場合も少なくありません。そして、最終的な決定については、日本銀行政策委員会全体がその責任を負うことになります。

 まず、「中長期的な物価安定の理解」について、説明したいと思います。日本銀行における金融政策の理念は、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」(日本銀行法第2条)ですが、「中長期的な物価安定の理解」はこの「物価の安定とは何か」について、各政策委員の理解がどのような範囲にあるかを示したものです。日本経済が中長期的に安定した発展経路にある時に物価はどのような状態にあると考えるかを示すもので、各政策委員が金融政策を考える際の基本的な視点です。具体的には、枠組みが導入された時点では、各政策委員が理解する「物価が安定している状態」は、消費者物価指数の前年比で表現すれば、0~2%程度の範囲内に分散しているほか、その中心値は大勢として概ね1%前後で分散していました(英語で表現するとrangeは0~2%、central tendencyは1%と言うことになります)。この「中長期的な物価安定の理解」は原則としてほぼ1年毎に点検を行うこととしており、本年4月に点検が行われましたが、各政策委員が理解する「物価が安定している状態」の分布及び中心値に変更はなく、それぞれ上記と同様となっています。

 この「中長期的な物価安定の理解」は、日本銀行政策委員会を構成する各政策委員が理解している「物価が安定している状態」を集約したものです。民主的な委員会方式で政策決定がなされる訳ですから、各政策委員の投票行動の基本となる「物価安定の理解」を明らかにすることは、日本銀行政策委員会がどのように政策を決定しているかを明らかにするために重要な点であると思います。同時に、日本経済は構造変化のただ中にあり、中長期的に安定した発展経路の姿にはまだ大きな不確実性があります。日本経済の様々な分野で進む構造改革は、国民の物価や景気に対する期待形成を今後変えていくことが予想されます。消費者物価指数を含む経済データの作成方法も、実体経済の変化に応じながら変わりつつあります。こうした中では、将来のあり得べき物価安定の姿を消費者物価指数で表す時に、様々な見方がある方が自然であり、且つ構造変化が進むにつれて変わっていくことが考えられます。このような状況を前提とすれば、組織として特定の数字に自らを拘束するのは必ずしも望ましいとは言えません。こうした考えから「中長期的な物価安定の理解」については、各政策委員の考え方を分布として示し、且つ定期的に再検討するというのが、現時点で最も適切な判断であると考えています。

 また、上記「新たな金融政策運営の枠組み」において、具体的な金融政策の運営方針を決定するに際し、経済・物価情勢を点検するための観点として、「2つの柱」(英語では「two perspectives」)を規定しました。第1の柱は、「先行き1年から2年の経済・物価情勢について、最も蓋然性が高いと判断される見通し(以下「標準シナリオ」)が、物価安定のもとでの持続的な成長の経路をたどっているか」についての観点です。より厳密に言えば、標準シナリオが長期・安定的な経済発展経路への道筋をたどっているかを判断するものです。第2の柱は、「より長期的な視点を踏まえつつ、物価安定のもとでの持続的な経済成長を実現するとの観点から、金融政策運営に当たって重視すべき様々なリスクを点検する」ものです。その例として、「発生の確率は必ずしも大きくないものの、発生した場合には経済・物価に大きな影響を与える可能性があるリスク要因」が挙げられています。

 日本銀行政策委員会は、先行き1年から2年の経済・物価情勢についての標準シナリオ及びこのシナリオの上振れ、下振れ要因を、毎年2回(4月と10月)分析し、「経済・物価情勢の展望(通称:展望レポート)」と題する文書により公表しています。上記標準シナリオ及び上振れ、下振れ要因も、先に述べた2つの柱の観点による経済・物価情勢の点検の結果、導き出されるものです。展望レポートには、当該年度及び翌年度の実質GDP成長率、国内企業物価指数及び消費者物価指数(生鮮食品を除く総合)の上昇率について、各政策委員の見通しの幅やその中心値等が具体的な数値で記載されているため、これらへの注目度が高いのが実情です。しかし、これらは参考として位置付けられています。展望レポートの本来の趣旨は、日本銀行政策委員会が考える標準シナリオ及びこの上振れまたは下振れ要因について、定性的な説明を行うことであり、参考として記載された実質GDP成長率等の達成をコミットするものではありませんし、また、政策金利調整のタイミングや幅等を予め示唆するものでもありません。

 金融政策の具体的な運営方針は、月1~2回開催される「金融政策決定会合」で決定されます。毎回の金融政策決定会合では、当該会合時点での経済・物価情勢が展望レポートにおける標準シナリオ通りに推移しているか、及び、そうでない場合はどの程度標準シナリオから乖離しているのかを念頭に、「2つの柱」に従って経済・物価情勢の点検が行われ、金融政策運営の方針が決定されることになります。この経済・物価情勢の点検から金融政策運営の方針決定に至る議論のプロセスについては、長野県金融経済懇談会における挨拶要旨(2006年12月)で具体的に説明していますので、これを参照頂きたいと思います。

 さて、日本銀行は、本年2月の金融政策決定会合(2月20、21日開催)において、無担保コールレート(オーバーナイト物)の誘導目標を0.25%から0.5%に引き上げました。この決定について一政策委員の立場から説明しますので、「新たな金融政策運営の枠組み」に基づく最近の金融政策運営の例としてご理解頂きたいと思います。

 本年2月の金融政策決定会合の時点では、足許については、昨年10月に公表した展望レポートでの標準シナリオの実現は後ずれしていると判断される状況でした。生産面を中心に経済が若干弱含みの状態でしたが、昨年12月から本年1月に生じた国内消費減速及び米国経済の急速な景気後退の懸念は、引き続き注意は必要であるものの、やや後退しました。消費者物価指数(生鮮食品を除く総合)の上昇率をみると、ガソリン価格及び灯油価格の下落等の影響からゼロ近傍で暫く推移しますが、1年から2年先を展望すると、底堅い景気拡大の継続を映じて設備稼働率や人手不足感の高まりから物価は緩やかながらも上昇基調に転じると予想されました。そして、大多数の政策委員は、より長い目でみるならば自らが理解する「物価が安定している状態」に帰着する可能性が高いと判断しました。すなわち、大多数の政策委員は第1の柱の観点からは、先行き1年から2年の経済・物価情勢については、標準シナリオはやや遅行するものの実現する可能性が高いとの見通しを持った次第です。

 私の見方では、景気の拡大が次第に裾野を広げ、投資の実質予想収益率の上昇は製造業、都市部、大企業から非製造業、地方、中小企業にも緩やかながら広がりつつあります。その中で、投資の実質コストが長期に亘って著しく低位に抑制されると、非効率的な投資や事業の継続から経済全体の生産性向上が大きく妨げられます。こうした非効率性が90年代の日本経済を蝕んだことは、私自身の研究2を含め様々な実証研究で裏付けられています。従って、第1の柱の観点から、「物価安定のもとでの持続的な成長の経路をたどる」ためには、投資の実質予想収益率が経済全体でみれば回復しつつあるのに合わせて、投資の実質コストを調整する観点から政策金利を調整することが適当です。

 また、第2の柱の観点に基づく経済・物価情勢の点検については、国内不動産価格は全国平均でみれば底を打ち、経済情勢の好転を反映する水準にあるとみられます。金融機関の不動産関連融資はリスク管理への適切な配慮から慎重ですが、都市部のAクラスのビル等では、世界的なオフィス不動産ブームの一環として資金の流入がみられ、高騰する物件もあるようです。また、国際金融資本市場においては、一方向に偏した取引が生じる可能性もあります。従って、第2の柱の観点からも、低金利が経済・物価情勢と乖離して長期間継続する期待が定着する場合には資金の流れに歪みが生じる可能性があり、先読み的な見地から必要な措置を採ることが適当です3

 昨年10月の展望レポートでは、そこでの標準シナリオ及び上振れ、下振れ要因についての第1、第2の柱の分析に沿う形で経済が展開していくならば、「経済・物価情勢の変化に応じて、徐々に金利水準の調整を行う」としていました。これに対し昨年12月と本年1月には、展望レポート見通しの大枠の実現そのものが危ぶまれるような可能性を示唆するいくつかの単月、単四半期の経済データが公表されました。金融政策が浸透するには時間が必要とされることを考えると、考慮しなければならないのは単月、単四半期の振れではなく、趨勢(トレンド)の動きです。1月の金融政策決定会合以降、内外で様々なデータが公表されましたが、それ以前に入手できていたデータや情報も併せて丹念に分析・検討した結果、2月の金融政策決定会合では、それまでのデータの単月、単四半期の振れは趨勢の変化ではないとの判断に至りました。そして、第1の柱、第2の柱いずれの観点からの点検においても、本年2月時点では政策変更の必要性が認識されました。日本銀行政策委員会の大勢がこの認識を共有した以上、速やかに政策変更を行うことが適当であり、政策金利を0.25%引き上げ0.5%とする旨の決定に至ったものです。

  1. より根源的には、「新たな金融政策運営の枠組み」は、日本の金融政策が民主的な委員会方式によってなされていることと密接に関連している。この点については私の2006年7月Uppsala大学での講演『The New Policy Framework of the Bank of Japan: Central Banking in an Uncertain World』を参照されたい。委員会制度については、武藤副総裁の日本金融学会での講演要旨『中央銀行の政策決定と委員会制度』(2007年5月12日)で詳細に説明されている。
  2. 西村清彦・峰滝和典『情報技術革新と日本経済』(有斐閣刊、2004年)3章、7章、及びNishimura, K. G., T. Nakajima, and K. Kiyota,"Does Natural Selection Mechanism Still Work in Severe Recessions? -Examination of the Japanese Economy in the 1990s-"Journal of Economic Behaviour and Organization, Volume 58, Issue 1, September 2005, Pages 53-78.を参照。
  3. 資本市場に情報の非対称性等の不完全性がある場合には、資産価格の持つ情報にも相応の注意を配る必要がある。例えばGilchrist, S. and M. Saito, "Expectations, Asset Prices, and Monetary Policy:The Role of Learning,"日本銀行金融研究所ディスカッションペーパー2006-E-18、及び当該論文の参照文献を参照。

3.経済・物価情勢:4月「展望レポート」に沿って

(1)現状評価と先行きについての標準シナリオ

 さて、日本銀行政策委員会は、本年4月27日に最新の展望レポートを公表しました。先程も述べましたが、ここで説明されている先行き1年から2年の経済・物価情勢についての標準シナリオ及びこのシナリオの上振れ、下振れ要因については、今後半年間の金融政策決定会合における経済・物価情勢の点検の基礎をなすものであり、重要です。従って、今次展望レポートの内容について、私の解釈を織り交ぜつつ説明したいと思います。

 まず、足許の経済情勢については、全体として緩やかに拡大しているとしています。すなわち、「好調な企業部門に比べると、家計部門の改善テンポがやや緩慢である」が、日本経済全体としてみるならば、前回(2006年10月)の展望レポートで示した標準シナリオに比べ実現が後ずれしている部分はあるものの、このシナリオに「概ね沿って推移した」とみています。先行きについて、2007年度から2008年度を展望しても、「生産・所得・支出の好循環メカニズムが維持されるもとで、息の長い拡大を続け」、「成長率の水準は、2007年度、2008年度とも、潜在成長率を幾分上回る2%程度で推移する可能性が高い」と予想しています。この息の長い経済成長を支える要因として、海外経済の拡大に伴う輸出の増加、高水準の企業収益を背景とした設備投資の増加、賃金や株式配当等のルートを経由した企業部門の好業績の家計部門への波及、及び、極めて緩和的な金融環境が挙げられています。

 また、物価情勢について、消費者物価指数(生鮮食品を除く総合)は、足許、原油価格下落などの影響もあって、前回の展望レポートで示した標準シナリオとの対比では「幾分下振れ」ているほか、目先は前年比でみて「ゼロ%近傍で推移する可能性が高い」としています。しかし、より長期的な観点では、「プラス幅が次第に拡大」する結果、「2007年度はごく小幅のプラス、2008年度は0%台半ば」の上昇率になると予想されます。その背景としては、「設備や労働といった資源の稼動状況」の高まりに伴い、マクロ的な需給ギャップが「引き続き、需要超過方向で推移していくと考えられる」こと、ユニット・レーバー・コスト(生産1単位当たりの人件費)は、賃金の緩やかな上昇のもとで、低下から若干の上昇に転じていく可能性が高いこと、及び、民間経済主体のインフレ予想も「先行きにかけて物価が緩やかに上昇していく形となっている」ことが挙げられています。

(2)上振れ、下振れ要因

 その一方で、経済がこの標準シナリオ通りに推移することを妨げる可能性(リスク要因)もあり、その中で重要と思われるものを上振れ、下振れ要因として示しています。以下では、これら上振れ、下振れ要因について、私の解釈に基づき再構成しつつ説明します。

  1.  第1に、「海外経済の動向」です。米国経済については、特に住宅価格と住宅建設の動向には、引き続き不確実性があります。この問題は、現在のところ個人消費が堅調に推移するなど、経済に広範な影響を及ぼしているとは言えません。しかし、米国では、保有する住宅価格の上昇分について、銀行から借入を増やすことができるスキーム(ホーム・エクイティ・ローン)があります。従来、住宅価格は上昇基調にあったため、このスキームを利用し銀行から融資を受け消費に回すケースが多く、個人消費が堅調であった一因と目されています。しかし、一部地域で住宅価格が下落に転じた中、逆資産効果が機能し個人消費に水を差すことがないか、注視が必要です。また、昨年末以降、返済能力が低い住宅購入者に対する住宅ローン(サブプライムローン)の利息延滞率やデフォルト率が上昇し、これを専業とするモーゲージバンクの倒産も相次いでいます。これらの住宅ローンは証券化されており、信用リスクは広く分散されていますが、それだけにいずれの投資家がこの信用リスクを最終的に負担しているのか、明確に見通せない状況です。その意味では、サブプライムローンのデフォルトがより広範化した場合の影響を注視する必要があります。

     米国の設備投資の動向及びこれが示唆するところについても、十分に見極める必要があります。直近は回復したものの、このところ設備投資関連のデータに若干陰りがみられます。その一方で、企業収益は堅調で、ニューヨーク株式市場では株価が史上最高値圏で推移するといった、一種のねじれ現象が発生しています。株価好調の理由として、企業収益以外には、自社株買いの増加が挙げられています。これを解釈するに、長期的には米国経済の潜在成長率が低下する恐れがあるため、米国企業は更なる設備投資により収益の増加を目指すよりは、自社株買いによる方が株主への利益還元に資すると判断している可能性があります。住宅投資の減退にかかわらず個人消費と設備投資は増加基調を維持し、米国経済全体としてはいずれ潜在成長率近傍での成長経路に復帰するというのが標準シナリオですが、設備投資の弱さが上記のような構造的な問題から生じている場合、米国の景気減速はより長引きかつその度合いも強くなる可能性があると思われます。

     以上は米国景気が下振れるリスクですが、その一方で、物価上昇率が高止まりするという上振れ方向でのリスクも考えられます。米国の消費者物価指数(食料及びエネルギーを除く総合)をみると、前年同月比上昇率は2006年後半以降2%を超える水準で推移しています。この上昇率をいわば「根雪」のように高止まらせている1つの要因として、帰属家賃が挙げられます。帰属家賃の前年同月比上昇率も最近は頭打ちとなっていますが、その動向は今後も注意が必要です。住宅需要の減少に伴い、持ち家用に建設された住宅が貸家に回り民営家賃が低下、これが帰属家賃へ下押し圧力として波及する可能性も指摘されていますが、現在のところ、前年同月比は一時期の4%超から3%程度まで低下したものの、依然高めの水準を維持しています。また、医療関係の物価上昇率も、振れを伴いながら依然として高い伸びを示しています。このように、帰属家賃の高止まり等から、消費者物価指数の前年同月比上昇率が落ち着くのか、予断を許しません。米国経済については、上記の下振れ、上振れいずれものリスクが存在している状況です。

     その他、株式相場が上昇基調にある中国経済の動きや原油価格をはじめとする国際商品市況も、状況如何では、世界経済の先行きに影響を与える可能性があります。こうした海外経済の動向次第では、わが国の輸出や生産は上振れ、下振れいずれの可能性もあるほか、海外需要を前提とした企業の設備投資行動にも影響を及ぼし得ると考えられます。

  2.  第2に、「IT関連財の需給動向」が挙げられています。世界全体でみたIT関連財の需要は拡大基調にあるとみられますが、その一方で、韓国や台湾を中心とするIT関連財メーカーは巨額の設備投資を行い、生産能力を拡大しています。このため、例えばDRAMの価格は昨年末以降、急落しました。最近でこそ、下げ止まりの様相を呈しつつありますが、このまま供給過多の状態となるのか、注視する必要があると考えています。ただし、万一、IT関連財の需給バランスが崩れたとしても、少なくとも足許は、2000年におけるITバブルの崩壊時とは異なり、日本経済全体に対する影響は比較的小さいと考えています。その理由として、展望レポートでは収益力や財務基盤などの面で日本企業の「体力が高まっていること」が挙げられていますが、私は、これに加え、産業、業種、財、サービス毎に生産活動が多様化し、IT関連財の需給バランスの崩れが他に波及しにくい状況となっている可能性が高いと考えています。これについては、下記「4.なぜ物価の上昇は緩やかなペースに止まっているのか」で、より詳細に説明したいと思います。

  3.  第3に、「金融環境などに関する楽観的な想定に基づく、金融・経済活動の振幅の拡大」が挙げられています。世界の金融資本市場をみると、金融商品の価格に反映されている投資家のリスク許容度は、従来にない高さを示しています。現在、様々な資金が収益機会を求めて、債券や株式といった伝統的な金融商品は無論、商品、不動産、デリバティブなどにも流入しており、この収益機会を求める行動(これを「search for yield」と言います)の結果、これらの価格は歴史的にみて極めて高い水準となっています。これにもかかわらず、これら金融商品等に対する資金流入は2006年5月に世界的にリスク回避行動が起こった時期(いわゆる「global risk reduction」)や本年2月の世界的な株価調整以降も継続しています。こうした中、例えば外国為替市場やクレジット市場における価格形成の変動幅(volatility)は、歴史的にみて低水準となっています4。この変動幅の低下が新たな投資資金の流入を招来するといった連鎖が生じているようにも、見受けられます。また、先程は、国内の不動産市場でも、世界的な投資資金の流入による一部オフィスビルの従来の常識を越える高騰といった事例も指摘しました。

 重要なことは、この投資家の積極的なリスク許容の動きの本質を見極めることです。すなわち、この動きが、新しい金融技術の発展に伴い国際金融資本市場の厚みが増したことや中国、東南アジア諸国、原油産出国といった貯蓄超過傾向にある新興国が国際金融資本市場に組み込まれたことと相乗した構造の変化によるもので長期的に持続可能な動きなのか、あるいは、構造変化が起こる際に発生することが多い非合理的な一方的な振れ(herding behaviour)に過ぎないのか、です。後者の場合は、いずれかの時点で、大きな揺り戻しを招来することになります。国内の投資や資産価格の動きについては、現在のところ大きく懸念すべき兆候はありませんが、過度に積極的なリスク許容の動きが発生する可能性には常に注意しなければなりません。

 展望レポートでは、国内の物価上昇率の先行きについても、上振れ、下振れ両方向のリスクを指摘しています。これらについては、下記「4.なぜ物価の上昇は緩やかなペースに止まっているのか」で私見を交えつつ言及したいと考えます。

  1. 4日本銀行金融市場局『金融市場レポート:2006年後半の動き』(2007年1月)を参照。

4.なぜ物価の上昇は緩やかなペースに止まっているのか

(1)緩やかな成長、上昇しにくい物価

 さて、4月の展望レポートについての説明でも述べたように、足許、景気は全体として拡大していますが、そのペースは従来の景気拡大局面と比較し緩やかです。また、先行きについても、展望レポートの標準シナリオにあるように、息の長い拡大となるものの、成長率の水準は潜在成長率を幾分上回る程度に止まると予想されます。

 この緩やかなペースは、物価情勢においてより顕著に観察可能です。すなわち、消費者物価指数(生鮮食品を除く総合)は、3月は前年同月比0.3%、4月は同0.1%の下落となったほか、目先は前年同月比ゼロ%近傍で推移する可能性が高いと考えられます。

 図1は、1976年第1四半期以降の需給ギャップ(4四半期ラグ)と消費者物価指数上昇率の関係を示した最も単純なフィリップス曲線です。基本的な姿は、需給ギャップのラグの取り方を変えても変化しません。この図をみるとフィリップス曲線は85年から2001年と比べて2002年以降平坦化しているようにみえ、景気拡大に伴いマクロ的な需給ギャップが需要超過方向で推移しても、消費者物価は上昇しにくいことが窺えます。4月の展望レポートでも、物価上昇率の下振れ要因として、需給ギャップに対する物価の感応度の低下及びその程度に係る不確実性が指摘されています。

 景気変動に伴う物価変動が、2002年以降緩やかなペースに止まっている理由は何か。これついての私の考えを、以下で説明したいと思います。

(2)緩やかな成長の背景にある「ばらつき」:需要の多極化、コストの多様化

 私は、長崎県金融経済懇談会(2006年6月)で、今次景気拡大について、業界、地域毎の「ばらつき」が大きいこと、また、これが従来の景気変動とは大きく異なる点であることを指摘しました。その時点からほぼ1年が経過しましたが、その後の日本経済の展開を観察するに、その観は強まるばかりです。この点は今後の景気を見通す際に重要な視点と考えられますので、以下で説明します。

 鉱工業生産指数統計に依拠して、最終需要財の財別付加価値額生産(全19種類)の対前年同期比を計算し、2財間の相関関係を表にすると、興味深い事実が浮かび上がります(表1)。

 ITバブルとその崩壊に対応する景気循環期(1999年第1四半期から2001年第4四半期)については、有意な正の相関を持つ組み合わせが62であったのに対し、2002年第1四半期から2004年第4四半期は55、直近の2005年第1四半期から2007年第1四半期(暫定値)をみると17まで減少しています。他方、有意な負の相関を持つ組み合わせは、上記の期間でそれぞれ「6→2→16」と大きく増加しています。同様の傾向は、在庫水準の対前年同期比、また、業種別付加価値額生産でも窺えます。

 以上は、財の生産についての分析でした。実はサービスでも、若干様相を異にしていますが、正の相関が低下する傾向はみて取ることができます。表2は、同時期の第三次産業活動指数の中で、各サービス活動指数間の相関を表にしたものです。鉱工業生産指数とは若干異なり,時間の経過で相関関係が単一的に減少していくパターンではありません。ただし,直近の2005年第1四半期以降をみると、有意な正の相関関係は少なくなっていることがわかります。

 そもそも、「景気循環」という言葉は、産業、業種、財、サービス間で「同様の動き(co-movement)」がある、すなわち時期に違いはあれ達観すれば同じ方向への変動が働くことを前提としています。実際、景気基準日付はこうした考えに基づいて、設定されています。ITバブルとその崩壊以前は、こうした古典的な景気循環に即した形で正の相関が広範にみられる、あるいは、少なくとも負の相関はそれ程みられなかったと言えます。他方、今次景気拡大においては、特に2005年以降正の相関関係が成立する範囲が狭まってきています。

 日本経済を外からマクロ的に観察していると、最近は各部門において等速で経済活動が展開されているように錯覚しがちですが、現実はこれとは異なります。各産業、各業種、各財、各サービスにおける生産活動は大きく変動していますが、これらが正の相関関係にあり共鳴して経済全体の振幅を大きくするのではなく、逆に、無相関あるいは負相関で各々の変動を相互に打ち消している傾向があると思われます5

 上記傾向が生じている理由としては、以下の二つが考えられます。第1に、需要面からみると、経済のグローバリゼーションに伴い「多極化」が進展していることです。ITバブル期のように世界経済を牽引するのが米国のみという状況とは異なり、現在は中国、中東、ロシア等の経済成長が著しく、世界経済は多極化しています。この需要源の多極化に伴い、需要される財の多様化も進んでいます。これは、最近喧伝されている「米国経済と世界経済のdecoupling」という議論と相通ずるものがあります。第2に、省資源投資の進展に伴い石油への依存度が低下し、同時に需要される財、サービスの多様化等で輸入財の幅が広がり、結果として輸入原単位が低下していることです。これは、日本経済のコスト構造が産業、業種、財、サービス毎に多様化していることを示唆しています。この二つから、現在は様々な地域から様々な需要やコストのショックが様々に日本経済の各部門に影響を及ぼしている、と考えることができます6

 この相関関係の崩れ(より平易な言葉で言えば「ばらつき」)は、景気の動きに影響を与えています。様々な経済変数が同様の動きをするという前提に立つ古典的な景気循環論から導出される従来の景気予想とは、このところ若干異なる展開となっている訳です。経済の諸部門がおしなべて等速に近いペースで成長していると仮定した場合、今次景気回復/拡大局面は歴史的にも長く続いたため、やがてピークアウトするだろうと考えるのが今までの経験からは自然でした。しかし、この一見「等速」にみえるペースが産業等毎のショックが相互に無相関あるいは負相関で発生した結果であることがわかります。いわゆる成熟化と呼ばれる現象が必ずしも実現してこなかったのは上記のような要因が背景にあると考えるのが自然である、と思います。

  1. 5この傾向は日本だけではなく、米国でも見られるようである。Stiroh, Kevin J. (2006) "Volatility Accounting: A Prodcution Perspective on Increased Economic Stability,"Staff Report no. 245, Federal Reserve Bank of New York.を参照。
  2. 6「ばらつき」は海外だけでなく、国内の地域にも存在する。長崎県金融経済懇談会で説明したように国や地方の公的部門のリストラ等もあり、日本国内地域間の財・サービス需要や労働市場逼迫度のばらつきは大きい。

(3)需要やコストのばらつきと企業の価格決定

 今次景気回復/拡大局面では経済活動に大きな「ばらつき」があることを、みてきました。同時に、今次景気回復/拡大局面では物価が変化し難くなっています。とすると、これら二つに関係があると考えるのは自然な成り行きです。では、なぜ「ばらつき」がある場合に物価が変化しにくくなるのでしょうか。一つの仮説として、以下が考えられます。国内外の企業間で激しい競合が行われている場合は、企業は自社製品の価格を変更しようとする時、競合他社がどのように対抗してくるか見極めようとします。ところが、自社製品と競合製品の需要やコスト変動の相関が低下すると、競合他社の様子が分かり難くなります。そこで、自社製品の需要やコストが変動しても価格を変えずに周囲の状況を探る傾向が高くなり、結果として物価が需給ギャップに反応し難くなる、という仮説です。

 もう少し敷衍すると、次のような説明になります。企業が製品価格変更の可否を検討する場合、同種の製品を製造する競合他社及び産業は異なるものの当該製品に代替可能な製品を製造する競合他社が当該価格変更にどのように反応するかを見極め、その反応を考慮に入れて価格を決定するのが合理的です。製品価格を引き上げたとしても、需要増加局面にあり競合他社がこれに追随すると予想されるならば、当該企業は躊躇なく製品価格を引き上げるでしょうし、逆に需要減少局面にあり競合他社が製品価格を引き下げると予想されるならば、製品価格の引き下げを余儀なくされるでしょう。コストの変動についても、同様のことが考えられます。

 企業間で需要やコストの変動が一様であるならば、当該企業は国内外の競合他社も需要、コスト面で同じ状況にあることが理解でき、これらの変動に対応し製品価格を調整しても、競合他社は追随すると考えるのが自然です。従って、製品価格調整の余地が広がることとなります。これに対し、需要、コストの変動に「ばらつき」がある場合は、自社製品の需要、コストに変動が生じても競合他社に同様の変化が生じるとは限りません。自社の事情に応じて製品価格を調整すると、競合他社が追随せず需要を奪われる可能性があります。このため、合理的に行動する企業は、自社製品の需要やコストの変動に応じた製品価格の調整を差し控えるようになるでしょう。この傾向は、製品競合の度合い、つまり企業間の競争度に比例して強くなります7

 既に説明した通り、2002年以降、産業、業種、財、サービス間の生産活動の「ばらつき」は高まっています。現代の企業は多財生産企業であり、それぞれ異なる事業展開を行っており、産業、業種、財、サービス間の生産の「ばらつき」の度合いが強まる局面では、企業間の需要やコストの「ばらつき」も高まると考えるのが自然です。これを前提とすれば、この「ばらつき」の高まりは企業が競合他社の対応を見極めにくくし、企業の製品価格調整を阻害したという説明が成立します。これに加え、最近の企業間の競合激化も、この傾向を強めたと考えられます8

  1. 7この点の理論的な分析は、Nishimura, K. G. (1986) "Rational Expectations and Price Rigidity in a Monopolistically Competitive Market," Review of Economic Studies, 53, 283-292, reprinted in Jean-Pascal Benassy, ed., Macroeconomics and Imperfect Competition, a volume in The International Library of Critical Writings in Economics (Series Editor: Marc Blaug), Edward Elgar Publishing, 1994.を参照。
  2. 8以下の二つの研究結果を比較することで、日本での企業間競争度の上昇が跡づけられる。
    • Nishimura, K. G., Y. Ohkusa, and K. Ariga (1999)"Estimating the Mark-up Over Marginal Cost: A Panel Analysis of Japanese Firms 1971-1994," International Journal of Industrial Organization, 17, 1077-1111.
    • Kiyota, K., T. Nakajima and K. G. Nishimura (2006). "Panel Data Estimation of Market Power: Evidence from Japanese Firms in the 1990s," Part 1 of the Research Report "Determinants of Potential Growth, Information Service Industries and Market Structure," Economic and Social Research Institute, Cabinet Office, Government of Japan.

(4)川下企業と川上企業の力関係の変化

 上記に加え、消費者に近いいわゆる「川下企業」と素材に近いいわゆる「川上企業」との間での取引価格決定を巡る力関係の変化も、物価が上昇しにくいという現象の一因になっていると思われます。近年、川下産業において統合が進み、川下企業における購買力の集中が進んでいます。従来は川上企業と川下企業の間の取引価格決定では川上企業の力が強く、素材価格の上昇は川下企業のコストに転嫁され易い構造がありました。このため、川下企業は自社製品に対する需要減少を懸念しつつも、コストに合わせて販売価格を引き上げるというコスト・プラス的行動がみられました。最近では、これとは逆に消費者の価格感応度の高まりを背景に、需給関係やコスト水準の如何にかかわらず、自社製品の販売価格の引き上げを行わず、川上企業に合理化によるコスト増加を吸収するよう要求する、というパターンが多くなっています。これについても、物価が需要やコストの変動に反応し難くなっている要因として挙げられます。

(5)サービス産業における価格体系の複雑化

 更に、特にサービス産業ではIT化といった技術革新に支えられて、様々な費用「合理化」の方法や複雑な価格体系が広がっており、現在の消費者物価指数の調査方法では、真の価格変化をすぐさまとらえることができにくくなっていることも、挙げられます。

 例えばコストが上昇した場合に、企業間で競争が激しく単純に価格を引き上げることを避けたいと思うサービス供給企業があったとしましょう。最近しばしばみられるのは、消費者の関心を引かない程度に、従来供給していたサービスの質を低下させる「合理化」で全体としてのコスト上昇を止めようという方法です。この場合、質の変化を正確に反映する調整を施したサービスの価格は上昇しますが、サービスの質を測定対象としていない現在の消費者物価指数の調査方法では価格は据え置かれたことになります。実際、こうしたサービスの低下は、しばしば事故や犯罪の発生によって初めて事後的にわかることが多いものです。

 また、従来一つとして供給していたサービスを分割して(「アンバンドリング(unbundling)」としばしば言われます)、それぞれに価格付けをして提供する、そして分割したサービスは従来一つとして供給していた場合よりも高めに設定する、ということがあります。こういう場合は、質の調整を施したサービスの価格は上昇しますが、銘柄を固定して調査する現在の消費者物価指数の調査方法では、すくい上げることはできません。

 IT化は、複雑な価格設定も可能にしました。消費者物価指数の考え方の基本は、「一つの財、サービスを誰が買おうと同じ価格」、つまり一物一価の原則です。しかし、実際にはIT化により、消費者の個別の需要パターンによって異なる価格を課すことが可能になってきました(これを一般には「非線形価格体系」と言います)。携帯電話サービスの極めて複雑で頻繁に変更される料金体系は、その典型です。昨年は消費者物価指数における携帯電話料金のモデル式を変更し、この問題に部分的に対処しました。しかし、そこで考えられている利用パターンは3種類のみで、しかも予算制約のもとで詳細な調査も不可能ということもあり9、瞬時に最も安価な料金体系を利用できると仮定しています。実際には様々な制約から生じる変更費用(switching cost)があるのですが、これを結果として無視することになっています。

 この影響から携帯キャリアが企業間競争を勝ち抜くために様々な料金体系を導入した際に、導入時点で大きく携帯電話通信料が下落し、それが消費者物価指数を押し下げるということを生じさせることになっています。実際には、変更費用があり人々は時間をかけて最も安価な料金体系に移って行きます。従って瞬時に平均的な通信料が低下するのではなく、時間をかけて低下するというのが正確と思われます。携帯電話通信料が家計のサービス支出に占める比率は大きいので、携帯電話通信料の頻繁な価格体系の変更は、最近の統計上のサービス物価の上昇率を実態よりおそらく低く抑える効果を生んでいると考えられます。

  1. 9制度が異なるので単純な比較はできないが、消費者物価指数作成のみに係る予算を日米で比較すると、相当な開きがあるとみられる。この予算制約の下で、モデル式の採用範囲を広げ、特にサービスの分野で大きく変わる物価体系に対処していこうとしている統計部局の努力には、頭が下がる思いである。

(6)今後の見通し

 まとめますと、今次景気回復/拡大局面で需給ギャップがマイナスからプラスに転じる中、財、サービス間における生産の相関、従ってその裏にある需要やコストの相関が低下(いわゆる「ばらつき」が発生)しました。こうした状況で競合他社との競争を恐れ(究極的には価格変動に対する消費者の反応を恐れ)、企業は需要やコスト変動に対して価格を調整せず、従って物価が需給ギャップに反応する度合いを下げたと考えられます。最近の川下企業の企業間取引における力の増大も、この傾向を強めたと考えられます。更に、サービス産業では様々な複雑な価格体系を取り入れることで表面的な価格調整を避けることが可能であったために、物価が総体として上がりにくい傾向を強めることになったと考えられます。とすると、物価の今後を見通す際に、これらの要素がどのように推移するかが一つのポイントとなります。

 表1と表2に見られる財、サービス間の大きな「ばらつき」が、すぐに解消されるとは考えにくいことは事実です。従って、今後暫くは需給ギャップがプラスであるにもかかわらず、物価が上がりにくい状況は続くと考えるのが自然でしょう。しかし、この「ばらつき」がこれからも永劫続くと考えるのも早計だと思います。

 設備や労働といった資源の稼動状況が多くの企業で高まっていけば、労働投入時間当たりの費用は次第に多くの企業で同じように増加していくことになります。現在、賃金のデータをみると1人当たりの「所定内給与」の上昇率は、雇用形態(労働時間)の多様化と団塊世代の退職を反映してマイナスですが、各産業で人手不足感は強まっており、これを反映し易いと言われているパートの時間あたりの賃金の上昇率を計算するとプラス領域にあります。とすると、コスト面では、同じように動く同期化(synchronization)がやがて顕現化してくる公算は高いと思います。

 需要のばらつき(特に海外需要のばらつき)については、今後の予測は難しいのは事実です。しかし、国内需要については、国や地方の公的部門及び民間部門の構造改革が進み、中長期的には日本経済全体に明るさが戻って来るに従い、地域の様々な経済活動に正の相関が戻って来ることが期待できます。

 とすると、やがて物価上昇率の需給ギャップに対する感応度が回復し、図1で水平に近いフィリップス曲線が、次第に上方向に回転していくことが予想されます。その時期がいつになるか、どのような形で起こるかについて不確実性が大きいことは事実ですが、現在の経済・物価情勢をみると、そのような状況になっていく蓋然性は今年度後半から来年度にかけて高くなるとみるのが自然と思われます。展望レポートの参考計数として載せられている「政策委員の見通し」の大勢見通しは、こうした見方と整合的であると私は考えています。

5.今後の金融政策運営の方針

 今まで説明した経済・物価情勢とその先行きの点検結果を踏まえ、4月27日に公表した展望レポートにおいては、今後の金融政策運営の方針10について、「経済・物価情勢の改善の度合いに応じたペースで、徐々に金利水準の調整を行うことになる」としています。

  1.  すなわち、第1の柱の観点からは、「先行き2008年度までの経済・物価情勢について最も蓋然性が高いと判断される見通しについて、政策金利に関して市場金利に織り込まれている金利観を参考」にしつつ点検すると「生産・所得・支出の好循環メカニズムが維持されるもとで、息の長い拡大が続く」可能性が高いことが確認されました。前節までの私の見方に従うと、暫くは「ばらつき」の大きい状況で、そのため回復感はさほどではないものの、緩やかな景気拡大とゼロ%近傍に抑制された物価上昇の状態が続くと考えられます。しかし、所定内時間あたり賃金の全般的な上昇そしてユニット・レーバー・コスト(生産1単位当たりの人件費)の上昇が次第に明確になり、また構造改革の進展に伴い、生産・所得・支出の好循環が次第に部門や地域に裾野を拡大し同期化するにつれ、景気拡大は息の長いものになると考えられます。これにより、遅行指標である消費者物価も今年度後半から来年度にかけて、しっかりした上昇を示すようになると思われます。

     こうした見方は市場の大方の見方と大きくは乖離していないと、私は考えています。経済活動がしっかりとしたものになるにつれ、第1の柱の観点から見て「物価安定のもとでの持続的な成長の経路をたどる」ためには、経済全体でみれば投資の実質予想収益率が回復しつつあるのに合わせて、投資の実質コストを調整する観点から政策金利を調整することが適当です。実際、市場金利には緩やかな形での将来の金利の調整が織り込まれているように思われます。

     しかし、特に日本のように長い間危機的な状況にあった経済では、投資の実質予想収益率及びその裏にある現在と将来の需給ギャップの予想には大きな不確実性が伴います11。こうした状況では、需給ギャップや潜在成長率の推計を金融政策運営に用いるには極めて慎重な態度12が必要です。いわば、再生した日本経済という新車を乗りこなすためには、まずは慎重にアクセルもブレーキも踏みながら、慣れていく必要があります。

  2.  また、第2の柱の観点からは、低金利を背景に金融資本市場参加者の投資行動や企業の事業計画で過度に積極的なリスクを許容すること、あるいは考慮すべきリスクを閑却することが発生する可能性があります。すなわち、2月の金融政策決定会合での政策変更時、経済・物価情勢から乖離した低金利が長期間継続するという期待が形成された場合、資金の流れや資源配分の歪みが生じる可能性を指摘しましたが、これに対する注意の必要性は現在も妥当します。とはいえ、現時点では差し迫った状況にあるとは言えず、必要以上にこの点を強調するのも望ましいことではありません。

 従って、繰り返しになりますが、展望レポートで謡われているように、「経済・物価情勢の改善の度合い」を丁寧に検討しながら、その「度合いに応じたペースで、徐々に金利水準の調整を行う」という慎重な態度が必要ですし、私もこの方針に従い金融政策運営に携わる所存です。

 ご清聴、どうも有り難うございました。

  1. 10上記方針は、5月16、17日に開催された金融政策決定会合でも維持されている。
  2. 11投資の実質予想収益率、つまり投資からの長期予想収益の実質割引現在価値は、平均でみると、概ね現在と将来の需給ギャップ予想に依存すると考えられる。現在の需給ギャップ、足許の潜在成長率を正確に推定することは困難であり、将来の需給ギャップ、潜在成長率については更に大きな不確実性がある。この不確実性は推定の信頼区間が計算できるという通常の不確実性よりも深刻な、そもそも推定の信頼区間が計算できないといった根源的な不確実性、いわゆるナイト流の不確実性である。
  3. 12 これは、しばしば「cautious experimentalism」と呼ばれる。

以上