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物価変動のダイナミクスと金融政策

一橋大学主催国際コンファレンスにおける福井総裁挨拶要旨

2007年6月28日
日本銀行

 内外の精鋭エコノミストの皆様を前にお話をさせて頂くことができて、大変嬉しく存じます。適切な金融政策の追求を使命とする中央銀行にとって、「物価変動のダイナミクス(inflation dynamics)」という本コンファレンスのテーマは、避けて通ることのできない問題です。私がこの場でお話をさせて頂く光栄にあずかったのも、おそらくは、中央銀行がこの重要なテーマをどう見ているかにご関心があるからではないかと考えます。そこで、本日は、この問題についての私の考えを申し述べたいと思います。

 物価変動のダイナミクスというテーマは、古くて新しい問題です。私が日本銀行に入行した1958年は、ちょうどフィリップス教授(Alban W. Phillips)の先駆的な研究が出版された年に当たります。それ以来半世紀にわたって、フィリップス曲線の背後にある基本的な発想が拡張され、期待の役割や価格硬直性の発生メカニズムなど、関連する様々な経済理論が発展してきました。

 金融政策が物価の安定という目標を達成するうえで、物価変動のダイナミクスを正確に理解することは極めて重要です。ところが、このダイナミクスは、経済構造の変化とともに変わりうるし、それを適時に認識することはしばしば困難です。この点は、現実に政策運営を行っている中央銀行にとって悩みの種です。とりわけ、近年の最大のチャレンジは、フィリップス曲線のフラット化と不確実性の増大のもとでの金融政策運営ではないかと思います。

 フィリップス曲線がフラットな状況では、物価が安定圏内にある場合には、多少の景気変動では物価は安定の範囲からはずれません。一方、一度その範囲をはずれると、修正はかなり難しくなります。フィリップス曲線がフラットであるほど、物価を上昇あるいは下降させようとする場合に必要となる、需給ギャップあるいはその変化幅が大きくなるためです。

 たとえば、米国では、連邦準備制度(FRB)のミシュキン理事が、4月の講演で、「物価の安定と整合的なインフレ率に急速に戻ろうとすると、必要以上に景気を弱めることになるかもしれない。中央銀行は、物価の安定を確保することは不可欠であるが、経済を不当に害しないようなペースで行うべきだ」と述べています。

 日本は、全く逆の方向から同種の問題を抱えています。日本経済は、このところ、潜在成長率を上回るペースで成長しています。設備や労働といった資源の稼働状況は高まっており、GDPギャップは需給のタイト化を示唆しています。一方、消費者物価の反応はとても弱く、足もとはゼロ%近傍となっています。このような状況では、短期間に消費者物価を引き上げるために必要となるGDPギャップは、極めて大きく、かつ不確実です。急速にGDPギャップを拡大させようとすると、景気変動の振幅を大きくし、景気拡大の持続性を危険にさらすことになりかねません。むしろ、できるだけ振幅の小さい、息の長い成長を確保することで、緩やかな物価上昇を期待するほうがより安全な道だと思います。ご賢察のように、日本銀行が緩やかな金利調整を行っているのは、こうした考え方に基づくものなのです。

 歴史的に見ても、物価変動のダイナミクスは、中央銀行の政策の枠組みやその実践に大きな影響を与えてきました。例えば、80年代までの高インフレの経験は、インフレーション・ターゲティングなど、物価に焦点を当てた金融政策の枠組みを発展させる方向に作用しました。その後、物価は安定傾向をたどり、フィリップス曲線はフラット化しました。中央銀行が物価の安定という目的を追求していくうえでも、このような物価変動のダイナミクスの変化に伴い、視野を広げておく必要が生じてきました。すなわち、フィリップス曲線がフラットなもとでは、物価面にはなかなか不均衡(imbalances)は現れません。むしろ一般物価に変調が生じる前に、実体経済や資産価格面で不均衡が現れる可能性があります。このため、インフレーション・ターゲティングを採用した中央銀行においても、物価以外の経済の動きにも柔軟に対応することで、長い目で見た物価の安定を図るという方向に変化してきています。日本銀行が2006年3月の量的緩和政策解除の際に導入した金融政策運営の枠組みも、こうした物価変動のダイナミクスを念頭に置いて、かつそれが今後変化しうることも考慮したうえで作った枠組みです。

 物価変動のダイナミクスは今後変化しうると申しましたが、そうした不確実性が、政策運営上のもう一つの重要なポイントです。すなわち、フィリップス曲線がフラットな状況が今後も続くかどうかは分かりません。本年4月の日本銀行の「展望レポート」でも、インフレ期待や企業の人件費抑制姿勢の変化によって、フィリップス曲線の形状は変わりうると指摘しました。そもそも、これまでにフラット化が進んだ理由についても、様々な仮説があります。フラット化の原因として、たとえば、規制緩和やグローバル化に伴う競争激化を受けた企業の価格支配力の低下を指摘する向きもあれば、ディスインフレ下での企業の価格改定頻度の低下を挙げる向きもあります。どの仮説に立脚するかで、将来の見通しは変わりえます。

 こうした点を含めて、現実の経済には不確実性がつきものです。他の経済問題もそうですが、物価変動のダイナミクスについても、いつか究極の答えが見つかるというものではないだろうと思います。それでも、我々は、その時々で持ちうる最先端の知見を吸収し、政策運営に反映させていかなければなりません。本コンファレンスのような研究活動を通じて、物価変動のダイナミクスについての理解が深まることに、中央銀行としても、大いに期待しています。

 ご清聴ありがとうございました。

以上