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【挨拶】「日本経済の現状・先行きと金融政策」

京都府金融経済懇談会における挨拶要旨

日本銀行政策委員会審議委員 須田美矢子
2009年3月4日

目次

  1. 1.はじめに
  2. 2.わが国経済・物価情勢の現状と見通し
    1. (1)わが国経済・物価情勢の現状
    2. (2)金融資本市場の混乱に伴う経済情勢の急激な変化
    3. (3)わが国経済・物価情勢の先行き
    4. (4)当面の金融政策運営に当たって
  3. 3.金融政策とシニョレッジ
    1. (1)金融政策を巡る論点
    2. (2)シニョレッジ(通貨発行益)
    3. (3)中央銀行の財務の健全性
  4. 4.おわりに

1.はじめに

 日本銀行の須田美矢子です。日本銀行では、総裁、副総裁および政策委員会審議委員、いわゆる「政策委員」(ボードメンバー)が、できるだけ頻繁に全国各地を訪問し、日本銀行の施策の趣旨をご説明申し上げ、かつご意見を直にお聞きして、政策判断の際に参考にさせていただいております。本日は、京都府の各界を代表する皆様方に、ご多忙のなかをお集まりいただき、親しくお話しする機会を賜り、誠にありがたく、光栄に存じます。また、日頃私どもの京都支店が大変お世話になっております。この場をお借りして厚くお礼申し上げますとともに、今後ともご指導を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

 本日、私からは、日本経済の現状・先行きと金融政策についてお話しし、最後に京都経済について僭越ながら私なりの見解を少し述べさせていただいた後、皆様方から当地の実情に即したお話や、忌憚のないご意見を承りたいと存じます。

2.わが国経済・物価情勢の現状と見通し

(1)わが国経済・物価情勢の現状

 さて、わが国の景気は大幅に悪化しています。先般公表された2008年10-12月期の実質GDP成長率をみますと、前期比年率-12.7%と1974年1-3月期に次ぐ戦後2番目の落ち込みとなり、これで3期連続のマイナスとなりました。金融と実体経済の負のフィードバック・ループを背景とする世界経済の急減速が、輸出をメインエンジンとする日本経済を急速に失速させ、特に生産や設備投資といった企業活動はこれまでにないペースで落ち込んでいます。また、こうした企業活動の落ち込みは、金融危機の震源である米国と比べても、激しいものとなっています。その背景には、世界経済の成長やグローバル化によって支えられた2002年以降の景気拡大を通じて、グローバル需要の変動が日本経済に与える影響度が高まったという構造的な側面が指摘できます。具体的には、(1)先般の景気拡大を牽引した輸送機械、電気機械類、一般機械の鉱工業生産に占めるウエイトが高いこと、(2)それらの業種を中心に、近年、輸出比率が高まっていたこと、(3)部品や素材の国内調達比率が高く、輸出の変動が国内生産に与える影響が高いこと、の3点です1。さらには、為替円高や、新興国、資源国を含めた世界経済全体の減速ペースがあまりに急すぎ、企業の間に先がみえないという不安感が急速に高まる中で、過剰在庫や過剰設備を抱えたくないという意識が強く働いたという心理的な側面も大きいように思われます。この間、企業金融面では、キャッシュインフローが大幅に減少したことから、企業の運転資金需要が急速に高まりました。

 それでは、景気の現状について、項目ごとにもう少し詳しくみてみましょう。まず、実質輸出ですが、足もと大幅に減少しています。昨年の夏場頃までは、米欧向けの減少を好調な新興国や資源国向けがカバーするという構図が暫く続いていましたが、秋以降は、国際金融資本市場の混乱が新興国や資源国にも伝播するにつれ、ほぼ全ての国・地域向けに輸出の落ち込みが目立つようになりました。7-9月はプラスを維持していた実質輸出は10-12月になって急落し、前期比-15.8%と過去最大のマイナス幅となりました。1月も前月比-15.7%と、大幅な落ち込みが続いています。設備投資も大幅に減少しています。企業を取り巻く収益環境が厳しさを増す中で、企業の景況感は悪化しており、GDPベースの実質設備投資は、昨年10-12月期に前期比年率-5.3%となり、昨年1-3月期減少に転じた後、3期連続でマイナス幅を拡大させました。また、企業の収益環境の急激な悪化は、個人消費のベースとなる雇用・所得環境にも影響を与えています。まず、労働需給はこのところ緩和傾向を辿っています。有効求人倍率は2007年12月に1倍を割った後も低下を続け、この1月には0.67倍となりました。2007年7月の3.6%をボトムに上昇に転じた完全失業率も、振れはありますが、均してみれば上昇傾向を辿っています。賃金面でも下落圧力が強まっています。毎月勤労統計をみますと、所定内給与は前年並みを維持していますが、所定外給与が大きく減少しており、一人当たり名目賃金は前年割れとなっています。このように雇用・所得環境が弱まるもとで、消費者コンフィデンスもITバブル崩壊後を下回るレベルにまで悪化しており、個人消費は、耐久消費財を中心に弱まっています。具体的にみてみますと、現在もっとも弱さが目立つのは自動車販売です。新車登録台数を、軽自動車除くベースの前年比でみますと、10-12月期に-21.5%の大幅減となった後、今年に入っても3割程度の大幅な落ち込みが続いています。家電販売は、均してみれば底堅さを維持しているように見受けられますが、パソコン販売が低価格品にシフトしているとか、デジタル家電でも値引き販売で何とか売上を維持しているといった声が聞かれるなど、内容は必ずしも良くありません。百貨店やスーパーの売上高も減少しています。

 以上のような内外需要の弱さを背景に、10-12月の鉱工業生産指数は前期比-12.0%と、現在公表されている接続指数で遡れる1953年以降初めての2桁マイナスとなった後、1月も前月比2桁減となっています。出荷・在庫バランスも、出荷の大幅な落ち込みを受けて、このところ悪化しています。

 物価情勢についても簡単に確認しておきます。まず、国内企業物価指数ですが、2009年1月の前年比は-0.2%と2003年12月以来のマイナスとなりました。昨年の夏頃までは、インフレ率と賃金が相乗的に上昇する二次的効果が発生しないか懸念されていたわけですが、実際には国内企業物価は8月にピークを打ち、その後国際商品市況の下落とともに急速に上昇幅を縮小させていきました。現在、国内企業物価を指数水準でみれば、2008年初のレベルに戻っています。また、消費者物価指数(除く生鮮食品)も、石油製品価格の下落や食料品価格の落ち着きを背景に、前年比プラス幅がゼロ%まで縮小しています。

  1. 1「金融経済月報(2009年2月)」日本銀行、2009年2月20日のBOXをご覧下さい。

(2)金融資本市場の混乱に伴う経済情勢の急激な変化

 このように、日本経済は、崖から深い谷に転げ落ち、霧の濃いぬかるみの中を彷徨っている状態にあります。崖から転げ落ちる切っ掛けを作ったのは、リーマン・ブラザーズの破綻を契機とする昨年秋以降の金融資本市場の混乱です。夏頃までの日本経済は、世界経済の減速を映じた輸出の増勢鈍化や、エネルギー・原材料価格の高騰に伴う所得形成の弱まりから、停滞を余儀なくされていました。ただし、先行きについては、インフレの上振れと景気の下振れの双方のリスクを意識しつつも、企業の中長期的な成長期待や出荷・在庫バランスに大きな悪化がみられないもとで、エネルギー・原材料価格が徐々に落ち着きを取り戻していけば、個人消費や設備投資はともに底堅さを取り戻し、日本経済の成長率は徐々に高まっていくだろうと、みていました。

 しかし、昨年9月に起きたリーマン・ブラザーズの破綻を契機に、世界経済および国際金融資本市場の状況は一変しました。カウンターパーティ・リスクに対する意識が急激に高まるとともに、それまで過大に造成されていたポジションを解消する動き(デレバレッジング)がグローバルに強まりました。その結果、金融機関や投資家のバランスシートが痛み、リスクテイク余力が大きく低下したため、金融環境が一段とタイト化しました。また、多くの市場で流動性が低下し、価格発見機能が大幅に低下しました。わが国においても、昨年10月後半から11月にかけて、金融資本市場の緊張感が一気に高まり、CPや社債では市場機能が著しく低下しました。

 こうした金融のタイト化と市場機能の低下は、世界各国の実体経済にも冷や水をかぶせました。それが投資家や金融機関の資産内容をさらに劣化させることによって一段と金融をタイト化させるという、金融と経済の負のフィードバック・ループが急速に強まりました。こうした現象が、短期間のうちに世界で同時に発生したため、先ほど整理したとおり、わが国においても輸出の急落を通じてこれまでに経験したことのないほどの劇的な景気下振れを余儀なくされています。この間の金融経済情勢の変化があまりに速く、かつ大幅であったため、我々の見通し計数も大幅な修正を迫られました。例えば、政策委員会メンバーの2009年度実質GDP成長率に関する予測(中央値)をみますと、昨年10月の展望レポートの+0.6%から3か月足らずで2.6%ポイント下方修正され、1月の中間評価では-2.0%となっています。それでもなお下振れリスクの高い状態であることは、同時に公表されたリスク・バランス・チャートが示している通りです2

 こうした事態に対処するため、各国中央銀行では、様々な思い切った措置を機動的に講じてきました。まず、多くの国が政策金利を大幅に引下げました。この他、潤沢な流動性供給のための整備や工夫を行い、自国通貨での大量の資金供給はもとより、主要国では為替スワップを通じたドル資金の供給も開始しました。また、日米英では、CPをはじめとするリスク資産を直接買い入れるという異例の措置も講じています。この間の日本銀行の施策については、後ほど詳しくみることとしますが、こうした各国中央銀行による積極的な対応によって、各国の短期金融市場やクレジット市場は徐々に落ち着きを取り戻しつつあります。具体的には、銀行間取引におけるターム物レートと国債金利とのスプレッドが縮小傾向を示しているほか、機能が著しく低下していたわが国CP市場でも、発行残高が回復傾向を示すとともに、レートもリーマン・ブラザーズ破綻前の近辺まで低下しています。

  1. 2リスク・バランス・チャートとは、各政策委員が、見通しが上振れまたは下振れる可能性について想定した確率分布を集計したもので、その分布が上下どちらの方向に偏っているかをみることによって、上下どちらのリスクをより意識しているかを示しています。詳しくは、「経済・物価情勢の展望(2008年4月)」のBOXをご覧下さい。

(3)わが国経済・物価情勢の先行き

 以上のように、金融資本市場はひとまず改善の方向に向けて動き出しているように窺われます。しかしながら、足もとの経済指標をみる限り、わが国経済は、当面、悪化を続ける可能性が高いとみています。

 まず、実質輸出ですが、世界経済の減速と為替円高により、暫く減少を続けるとみられます。米国では、雇用情勢が厳しさを増すもとで、自動車販売の大幅減少が続いているほか、ユーロ圏でも金融環境のタイト化等から景気は悪化が続いています。新興国や資源国でも、後ほど述べますように一部に明るい兆しは窺われていますが、総じてみれば、米欧向け輸出の減少や資金流出による金融環境の悪化等から、当面は調整が続くとみられます。また、設備投資の先行指標である機械受注をみますと、10-12月は前期比-16.7%と大幅な減少となりました。1-3月は今のところ4%程度の増加が見込まれていますが、算定の前提となっている達成率が下振れる可能性等を勘案しますと、プラスが維持できるかどうか微妙な情勢です。むしろこのところの世界経済の急減速を背景とする先行き不透明感の高まりや、企業収益の大幅悪化を受けて、設備投資は今後厳しさを増していくと予想されます。住宅投資も1-3月期以降再び減少する可能性が高いほか、足もと出荷・在庫バランスが悪化している生産に関しましても、素材を含む幅広い業種で減産が続く結果、1-3月は10-12月にも増して厳しい数字となりそうです。この間、交易条件の改善が続くもとで、景気ウォッチャー調査や消費者態度指数が久方振りに前月比プラスになるなど、一部には明るい兆しも見受けられますが、人員削減や賃金抑制の動きが本格化する気配が窺われるなど、雇用環境が今後厳しさを増すとみられる中で、個人消費は引き続き低迷を余儀なくされそうです。物価につきましても、需給バランスの悪化が進むもとで、当面下落傾向が強まっていくとみられます。具体的には、国内企業物価指数の前年比が暫くマイナス圏で推移するほか、消費者物価指数(除く生鮮食品)の前年比も、今後マイナスになっていくとみています。

先行きに向けた前向きな動き

 このようにわが国経済は厳しい状況にありますが、より長い期間、例えば、展望レポートで見通し対象としている2010年度までを考えた場合、日本銀行では次のような姿を想定しています。すなわち、2009年度後半以降、国際金融資本市場が落ち着きを取り戻すとともに、世界経済が減速局面を脱するにつれて、わが国経済も次第に持ち直し、2010年度後半にかけて、物価安定のもとでの持続的成長経路へ復していくというものです。不確実性は高いとはいえ、ほんの少しずつですが、前向きな材料が出始めているのも事実です。

 まず、このところ成長率の鈍化が目立っていた中国ですが、足もとではPMI指数の反発や上海株価指数の上昇など、いくつか明るい材料が窺われています。財政支出や銀行貸出が年末以降大幅に増加していることとも併せて、これまで積極的に打ってきた政策効果が徐々に現れつつあることを示唆しています。バルチック・ドライ指数が足もと急反発していることも、中国向けの荷動きが回復しつつあることを裏付けています。もちろん、不動産市場や雇用環境の悪化、高級品の販売不振、対内直接投資の減少など、気掛かりな面も依然として少なくありません。したがいまして、春節による振れを均した上で、慎重に見定めていく必要はありますが、NIEsやASEANなど他のアジア諸国が依然として厳しい状況にある中で、数少ない前向きな動きとして注目しています。

 また、先月17日に成立した大型景気対策の効果が今後期待される米国ですが、先般発表された10−12月期の実質GDP成長率の2次改定値が前期比年率-6.2%となるなど、引き続き厳しい経済指標が続いています。雇用者数が大幅に減少し、消費者コンフィデンスも歴史的な水準にまで低下するなど、不透明感は強まっており、市場では先行きの成長率見通しを下方修正する動きが続いています。ただし、09年後半以降プラス成長に転じていくという市場の見通し自体が崩れているわけではありませんし、最近の経済指標の中には、1月、2月のISM製造業景況感指数、1月の小売売上高などのように、悪いながらも市場予想を上回るものもみられ始めています。これまで大幅な調整が続いてきた住宅市場でも、モーゲージ貸出基準が大幅に緩和し、ローン金利も低下するもとで、都市によっては住宅価格に下げ止まりの兆しが窺われています。この間、国債に退避していた投資家が社債市場に戻りつつあるとの声も聞かれており、実際、1月の社債発行は大幅に増加しました。このように、底入れを期待させる指標や前向きな動きが少しずつでも増えていけば、市場参加者による成長率見通しの下方修正もやがては止まり、先行きの回復パスに対する不確実性も次第に薄らいでいくと考えられます。

 国内経済につきましては、なかなか明るい材料が見当たらないのが実情です。ただ、一つ指摘できるとすれば、わが国の製造業が過去に例をみないほど思い切った減産を行なっているということです。逆説的な言い方になりますが、ここまでしっかりと減産を行っていますので、出荷が急激に落ち込んでいる割に在庫はそれほど積み上がっていませんし、在庫調整の終了までさほど長い時間を要しない可能性もあります。また、出荷が増加に転じた後の生産回復力がそれなりに強いものになることも予想されます。

リスク要因

 以上説明してきました見通しは、言うまでもなく、高い不確実性を含んでいます。以下では、現在、先行きを考える上で、私が特に留意しているリスク要因について、述べたいと思います。

  1.  第一に、米欧の金融危機の帰趨と、わが国への波及です。現在、国際金融資本市場では、各国政府・中央銀行の施策が奏効し、ひところの緊張感は緩和しつつあります。しかしながら、金融機関の業績悪化や経済指標の下振れが続くもとで、依然としてカウンターパーティ・リスクを意識した神経質な地合いが続いています。こうした中、再び市場の緊張が高まるような場合には、金融環境が再びタイト化し、金融と経済の負のフィードバック・ループが一段と強まることを通じて、米欧の景気がさらに下振れる可能性があります。そうなれば、わが国の金融資本市場や実体経済にも大きな影響を及ぼすと考えられます。特に、株価が一段下落するようなことがあれば、年度末に向けて市場の緊張感を高めることにもなりかねませんし、米欧経済の回復が遅くなれば、我々の見通しも下振れる可能性があります。

  2.  第二に、企業の中長期的な成長期待です。先ほど述べた先行きの見通しでは、世界経済が再び成長トレンドに復していくことを前提に、企業の中長期的な成長期待が大きく崩れないことを想定しています。しかし、世界経済が大幅に下振れるもとで、既に企業の中長期的な成長期待が崩れている、もしくは、今後崩れるようなことがあれば、設備投資の減少が長引いたり、予想以上に下振れてしまう可能性があります。

  3.  第三に、物価に関するリスクです。物価につきましては、上振れ、下振れ双方のリスクを意識しています。昨年の夏頃までは、エネルギー・原材料価格の高騰を背景に、インフレの上振れリスクが高い状況が続いていました。現在では、国際商品市況の落ち着きや、需給バランスの悪化を受けて、そうした上振れリスクは後退しています。むしろ、世界経済が大幅に下振れ、需給バランスが大きく崩れた場合の下振れリスクの方が、高まっている可能性があります。さらに、企業や家計の中長期的なインフレ予想が下振れるリスクにも注意が必要です。これに対し、もっと長い目でみれば、グローバルな金融環境が緩和度合いを強めるもとで、インフレ率が高まりやすい状況となっていることにも留意が必要です。国際金融資本市場が落ち着きを取り戻し、海外経済が回復軌道に乗る蓋然性が高まってもなお、過度に緩和的な状況が続くようであれば、余剰資金が再び国際商品市場へ流入するなどして、インフレ率を予想以上に高めてしまう可能性があります。

(4)当面の金融政策運営に当たって

 次に、日本銀行がこの間行なってきた施策をごく簡単に振り返ったうえで、それらを決定するに当たって検討したポイントと、それに対する私なりの考え方を述べたいと思います。

 国際金融資本市場や米欧金融システムの動揺が深刻化した昨年秋以降、日本銀行では、金融市場の安定確保に資するため、中央銀行としては異例の対応を含め、様々な措置を積極的に講じてきました3。その主なものを改めて紹介しておきますと、まず、無担保コールレート(オーバーナイト物)の誘導目標を、昨年10月と12月の2度に亘り引き下げ、0.1%としました。その結果、無担保コールレート(オーバーナイト物)の加重平均値は、現在、世界で最も低い0.1%台前半で安定的に推移しています(図表1)。また、企業金融の円滑化と金融市場の安定を図る観点から、民間企業債務の適格担保範囲の拡大、企業金融支援特別オペやCP買入れオペの導入、ドル資金供給オペの導入、長期国債の買入れ増額、買入対象国債の追加など、様々な措置を短期間のうちに実行に移してきました。2月の金融政策決定会合では、このうち企業金融支援特別オペレーションについて、資金供給期間をこれまでの年度末越えから3か月に統一し、実施頻度も月2回から、毎週に増やすことにしました。企業が実際に資金調達を行う、やや長めの金利の低下を促すとともに、企業の資金調達に関する安心感を確保することが狙いです。この結果、期間3か月のやや長めの資金を0.1%という低利で、民間企業債務の担保価額の範囲内で無制限に資金供給できる体制となりました。また、CP買入れオペ、BBB格の社債・証貸債権の適格担保化など、これまで実施してきている各種の時限措置を半年程度延長することとしたほか、残存期間1年以内の社債の買入れオペも導入しました。こうした積極的な施策が奏効し、短期金融市場やクレジット市場では、徐々に落ち着きを取り戻しつつあります。

 もっとも、企業業績の大幅な悪化を受けて株価が不安定な地合いを続けるなど、年度末を控え、わが国の金融資本市場は引き続き予断を許す状況にはありません。私どもとしましては、引き続き経済・物価の見通しとその蓋然性、およびリスク要因を丹念に点検するとともに、金融市場の安定確保と企業金融の円滑化にも配意しながら、わが国経済が物価安定のもとでの持続的成長経路に復していけるよう、中央銀行として出来得る最大限の貢献を行なっていく所存です。

  1. 3詳しくは、「金融市場レポート」日本銀行、2009年1月をご覧下さい。

不確実性の高さと政策判断の難しさ

 さて、上で紹介した一連の政策対応を決定するに当たりもっとも苦労した点は、劇的に変化する金融環境や経済情勢の見極めです。変化のスピードが予想以上に速く、しかも変化幅も大幅であったため、先行きが不透明になっただけでなく、現状評価さえ困難となりました。特に、金融危機的な状況のもとでは、市場センチメントが一方向に、かつ極端に偏る傾向がありますので、市場の声をどのように評価すればよいのか見え難くなります。CP市場の機能が著しく低下した昨年の10月後半から11月にかけてが、まさにそのような状況でした。そうした局面では、特に冷静な判断が求められます。これまで機を捉えて申し上げてきたことではありますが、先行き不確実性が高い状況では、フォワードルッキングな金融政策運営は維持しつつも、足もとの情勢を慎重に見極めながら漸進主義で臨むのが、望ましい金融政策運営だと考えています4

 企業金融に係る金融商品の買入れには、次節で詳しく述べますが、企業の信用リスクを負担する度合いが高いことなどから、日本銀行の財務の健全性を損なうリスクが相対的に高いという性格があります。そうした性格を踏まえ、買入れに踏み切る際には、市場の状況を慎重に見定め、本当にその措置が必要な状況なのか、効果がどの程度見込まれるのかなど、入口や出口の運用等も意識しながら、冷静に判断する必要があります。

  1. 4須田美矢子「日本経済の現状・先行きと金融政策—三重県金融経済懇談会における挨拶要旨—」(2007年9月27日)をご参照下さい。

企業金融に係る金融商品の買入れについて

 実際、企業金融に係る金融商品の買入れに関しましては、その導入の是非を巡って慎重な検討を行ないました。日本銀行では、1月の金融政策決定会合後、企業金融に係る金融商品の買入れに関する基本的な考え方を公表しました。詳しくはホームページでご覧頂けますので、ここではポイントだけ整理しておきます。まず、企業金融に係る金融商品の買入れは、

  1. (1)個別企業の信用リスクを負担する度合いが高く、損失発生を通じて納税者の負担を生じさせる可能性が相対的に高いこと、
  2. (2)個別企業に対するミクロ的な資源配分への関与が深まるという特徴を持つこと、
  3. (3)損失発生により日本銀行の財務の健全性を損ない、ひいては通貨や金融政策への信認を損なうおそれが相対的に高くなること、

等から、中央銀行としては異例の措置と位置付けられます。したがって、このような措置を講じる際には、次のような条件が整うことが必要となります。

  1. ア.当該金融商品の市場金利が発行企業の特性如何にかかわらず全体として高騰する、あるいは、当該金融商品の市場取引が成立しにくい状態が継続するといった市場機能の著しい低下が生じており、これが企業金融全体の逼迫につながっていること。
  2. イ.こうした状況を改善するため、異例の措置として金融商品の買入れを実施することが、日本銀行の使命に照らして必要と認められること。

 また、仮に上の条件が整った場合であっても、実際に購入する際には、以下の点に留意する必要があります。

  1. a.個別企業への恣意的な資源配分とならないよう配慮すること。
  2. b.実施期限、あるいは終了の条件を設けること。
  3. c.市場機能の回復に応じて日本銀行への売却のインセンティブが低下していくような仕組みとするなど、適切な規模での実施や円滑な終了に資する買入れ方式を採用すること。
  4. d.日本銀行への過度の依存による市場機能の一層の低下といった事態が生じないよう、適切な規模で実施すること。
  5. e.日本銀行の財務の健全性を確保すること。

 このように、日本銀行では、買入れに対する基本的な考え方や留意点を明らかにしています。ただし、購入に踏み切る・踏み切らないに関する明確な基準を設けているわけではありません。設けられないと言った方が正しいかもしれません。そのため、市場の求めに応じて購入額が膨らんでしまう危険性を孕んでいます。また、スタンフォード大学のテイラー教授が、monetary policyindustrial policyを掛け合わせて"mondustrial policy"と揶揄し5、懸念しているように、中央銀行が個別の市場に介入しすぎると、経済の資源配分を歪めてしまうことにも繋がりかねません。したがって、特に、入口と出口の運用が重要になります。

 入口については、上で指摘しました必要性の条件、すなわち、市場機能の著しい低下が発生し、企業金融全体の逼迫に繋がっていないか(上のア)、日本銀行の使命に照らし買入れが必要と認められるか(上のイ)について、慎重に検討するということです。一旦買入れに踏み切りますと、どこまでなら買入れ対象として認められるのか等、線引きが困難な中で、対象範囲が拡大していく誘引が働くことに十分留意する必要があります。これに対しては、上の(1)から(3)で指摘したリスク、すなわち、損失の発生により日本銀行の財務の健全性を損ない、通貨や金融政策の信認を損なう危険性や、ミクロ的な資源配分への影響などに鑑みれば、買入れの目的をアベイラビリティ(資金調達のしやすさ)の確保に限定するのが望ましく、買入れる金融商品の信用リスクや価格変動リスク等が高いほど購入に踏み切る際のハードルは高くなります。一方、出口につきましては、実施期限を設定するとか、市場機能が著しい低下と言えなくなった際に、市場に混乱を引き起こさずスムースに退出できる工夫などが必要です。また、それを事前にアナウンスしておくことも重要だと考えます。

 さて、日本銀行では、CP買入れと社債買入れオペを順次導入しましたが、私はCP買入れオペには賛成しましたが、社債買入れオペに関しては反対票を投じました。以下ではその理由について簡単に整理しておきたいと思います。まず、CP買入れオペにつきましては、

  1. (1)カウンターパーティ・リスクが過度に意識され、企業の運転資金の調達手段として定着していたCP市場の機能が、極端に低下していたこと、
  2. (2)同じく市場機能が低下していた社債の代替手段としての起債ニーズが高まっていたこと、

 等から買入れ実施の必要性を満たしており、導入しない場合のリスクの方が高いと判断し、賛成致しました。一方、社債買入れオペの導入に対しては、以下の理由により、反対しました。

  1. (1)社債の発行額をやや長い時系列でみると、足もとが過去と比較して特に極端に減っているわけではないこと(図表2)。
  2. (2)CPや貸出による代替もあり、社債市場の機能低下が企業金融全体を逼迫させるような状況には至っていないこと(図表3)。
  3. (3)日本銀行では、企業金融支援特別オペやCP買入れなど、既に十分な措置を講じていること。
  4. (4) 残存1年以内の社債買入れでは、企業金融の円滑化に与える効果が限定的と言わざるを得ないこと。

 すなわち、現在の社債市場につきましては、買入れ実施の必要性を満たしているとは言えないというのが、現時点での私の判断です。

  1. 5John B. Taylor,"The Need to Return to a Monetary Framework", Prepared for the National Association of Business Economics Panel,"Long-Run Economic Challenges: A Federal Reserve Perspective," San Francisco, January 3, 2009.をご参照下さい。

3.金融政策とシニョレッジ

(1)金融政策を巡る論点

 先ほど、経済・物価情勢の先行きに対する下振れリスクについて述べましたが、ある程度そうしたリスクが顕在化すれば、機動的で柔軟な対応を採ることも必要です。その際、不確実性が高いもとでは、「いざとなれば、通常の政策ルールを逸脱するほどの思い切った策を打つ」という中央銀行の強い意思を表明しておき、そのことについて市場の信頼を得ておくことが、社会的な調整コストを結果的に少なくするという観点から重要です。つまり機動的と言いながらも、ある程度リスクが顕在化するのを確認しながら、対応するときは思い切って対応するということです6。ただ、思い切った対応と言っても、政策金利に低下余地が限られる中で、どのような選択肢があり得るのでしょうか。最近、欧米の中央銀行の間では、

  1. (1)準備預金や貨幣供給量などの量的指標を政策目標にするのかしないのか、
  2. (2)資産サイドについては、機能不全に陥ったクレジット市場に介入して機能回復に働きかけるのか、あるいは長期国債など民間の資源配分に極力中立的な資産の購入に重きをおくのか、
  3. (3)異例の措置からの退出をどのように想定しておくのか、

といったことについて、積極的に議論が行われています。(1)の量的指標につきましては、適当な指標の選択が難しいことや、日本の経験等に照らして有効な政策となり得るのかという問題が指摘される一方7、量的指標によるターゲットなしでは市場との対話が円滑にできないという、コミュニケーション上の問題も意識されています。

 (2)につきましては、クレジット商品の購入に軸足が置かれるもとで、購入資産の価格変動リスクやクレジットリスクに伴う損失発生問題をどうクリアしていくのか、個別市場への介入をどの程度許容するのかなどが、論点となっています。また、英国では、中銀マネー(銀行券および準備預金)を国債の購入によって供給することが検討されているほか(英国の中央銀行であるBOEの金融政策委員会<MPC>の議事要旨<09年2月>)、米国では、1月27-28日のFOMCで、ラッカー・リッチモンド連銀総裁が、民間のクレジットフローに歪みをもたらさず、悪いインセンティブ効果を最小化できる国債購入によりマネー供給量を拡大した方が、クレジット・プログラムより望ましいとして、現在の政策に反対票を投じています。

 (3)の出口戦略に関しましては、中銀関係者をはじめ、その重要性を指摘する声が少なくありません8。出口戦略について早すぎる言及は、政策の効果を損ねる可能性もありますが、中央銀行としての考え方を明らかにしておくことは、信認の維持に繋がると思われます。上で紹介したBOEでも、2月MPCの議事録をみると、国債管理政策に言及しており、出口戦略を意識していることを示唆しています。

 いずれにせよ、クレジット商品の購入等各国中央銀行が採っている異例の措置は、民間部門の個別先の信用リスクを負担する度合いが高く、損失の発生を通じて納税者の負担を生じさせる可能性が相対的に高い政策です。そうした意味では、財政政策の領域に踏み込んだとみることもできます。他方、2月のG7の声明にもありましたように、世界景気が大幅に悪化する中で、財政政策に頼らざるを得ないという論調が次第に高まりをみせています。このように、財政政策と金融政策との係わりについてどう捉えていけばよいのか、改めて考えることが重要になっています。

 以下では、財政政策と異例の措置を含めた金融政策との係わりや、中央銀行、ひいては通貨の信認に関する考え方について、一つの切り口として、伝統的なシニョレッジの議論を通じて整理してみたいと思います。

  1. 6須田美矢子「日本経済の現状・先行きと金融政策—宮崎県金融経済懇談会における挨拶要旨—」(2008年3月27日)の2(4)をご参照下さい。
  2. 7Janet L. Yellen, "The Outlook for 2009: Economic Turmoil and Policy Responses", January 15, 2009をご参照下さい。また、12月のFOMC議事要旨からは、FRBが日本の経験を学んでいることがわかります。

 一方、クレジット市場への影響については、邦銀のリスクプレミアムは譲渡性預金市場といった短期市場ではほぼ消滅したものの、CDS市場や株式市場では必ずしも消失していないこと、また企業金融面では短期資金調達市場といえども完全に近い緩和環境は作り出せないこと、が示されています(馬場直彦「金融市場の価格機能と金融政策:ゼロ金利下における日本の経験」『金融研究』2006年12月)。また、鵜飼博史「量的緩和政策の効果:実証研究のサーベイ」(日本銀行ワーキングペーパーシリーズNo.06-J-14、2006年7月)では、当座預金残高増の結果、高格付社債のスプレッドは縮まる一方で低格付けのそれは拡大していることや、長国買い入れ増が国債金利へ与えた影響は検出されなかった、という研究などをサーベイしています。

  1. 8例えばバーナンキFRB議長は1月13日の講演で、出口政策の考え方について詳しく述べています(Ben S. Bernanke, "The Crisis and the Policy Response", January 13, 2009)。また、ホーニグ・カンザスシティ連銀総裁も1月7日の時点で、出口政策を正しく行う重要性について強調しすぎるということはないと述べています(Thomas M. Hoenig, "The U.S. Economic Outlook: The Aftermath of Leverage", January 7, 2009.)。

(2)シニョレッジ(通貨発行益)

 まず、シニョレッジを定義しておきます。概念上、通貨の発行額そのものをシニョレッジと捉える考え方と、発行した通貨から得られる収益をシニョレッジと捉える考え方の二つがあります。発行した通貨から得られる収益とは、通貨発行権に由来する収益であって、無利子の負債を負う形で通貨を発行し、その見合いに取得した金融資産から獲得する利益を意味します9。通貨の発行コストを無視すれば、ある期のシニョレッジは(通貨の発行額×取得資産の収益率)と表されます。なお、日本では、各期のシニョレッジについて、日銀の政策・業務運営にかかるコストなどを差し引いた残額が、すべて政府に移転されることになっています10

 以下では、発行した通貨の運用益としてシニョレッジを捉えて、財政政策とシニョレッジの関係について話を進めていきたいと思いますが、発行した通貨を運用することによって得られるシニョレッジは、幾つかの前提を置けば、先ほど申し上げた通貨の発行額そのものをシニョレッジと捉える場合と、結局は同じことになります。通貨発行の見合いで得た取得資産からは将来にわたって収益が期待でき、それを同じ収益率を用いて割り引きますと1となります。このように将来までを展望すると、通貨発行益は発行額と同等とみることができます。つまり、一万円券を発行すればそれがそのまま発行益となるということです。

 それでは、シニョレッジと財政の関係に話を進めます。最初に全体像を把握するために、政府と中央銀行の二部門からなる統合政府があると仮定します。それぞれの部門は独立に政策を行います。財政政策は政府が掌っており、財政赤字は国債の発行によってファイナンスされます。中央銀行の目的は物価の安定であり、そのために中銀マネー(銀行券と準備預金)を供給しますが、それは国債買入か対民間信用を通じて行なわれます。簡単化のために、さしあたり対民間信用は考えないとしますと、この二つの関係から、統合政府でみれば、財政赤字は民間保有の国債残高増加か中銀マネー残高の増加によってファイナンスされることがわかります11

 この関係式は常に成立しますので、実質化してこの関係式を将来にわたって積み上げると、

民間保有国債残高÷物価水準=財政余剰の割引現在価値(実質ベース)+中銀マネー残高の変化の割引現在価値(実質ベース)

と整理できます。すなわち、統合政府は、民間から借りたお金の返済を、財政の余剰か中銀マネーの供給という二つのルートを通じて行わなければなりません。その後者が、中銀マネーから得られる収益であるシニョレッジの割引現在価値(実質ベース)です。

 インフレは長期的にはマネタリーな現象といわれていますので、中央銀行は物価安定という政策目標達成のためには、中銀マネーの変化を将来にわたってコントロールする必要があります12。これは、中央銀行が中銀マネーの独占的な供給主体であるためです。

 その一方で、先ほど申し上げた恒等式からも明らかなように、シニョレッジは基本的に政府一般会計へ移転されますから、それが借金の返済の財源の一つになります。ただし、中銀マネーを増加させればさせるほど、実質ベースでみたシニョレッジが増加するわけではないことに注意が必要です。この点を示したのが図表4です。この図表はバイターLSE教授によって示されたものですが13、ここからは、実質ベースのシニョレッジはある一定のインフレ率で最大となることが分かります。この理由は、中銀マネーの供給を増やしインフレ率を高めていけば、マネー1単位の購買力、つまり実質ベースでみたシニョレッジが低下するからです。

 以上ご説明したように、シニョレッジには物価安定と財源に係わる役割の二面性があります。加えて、統合政府の観点からでは理解し難い、中央銀行の信認に係わる要素も含んでいます。中央銀行に損失が発生した場合、政府が補填することを当然視して、政府と中央銀行を一体となったバランスシートで理解する統合政府の考え方に対して、植田東大教授は審議委員時代に「中央銀行と政府との関係、政府の予算作成プロセス等に関するかなりナイーブな理解に基づいたものといわざるをえない」と述べています14

  1. 9シニョレッジについては、「中央銀行と通貨発行を巡る法制度についての研究会」報告書『金融研究』2004年8月を参照してください。
  2. 10日本銀行では、損益計算書上の剰余金から準備金の積立額および配当金を控除した全額を、一般会計に納付することになっています。
  3. 11(1)財政赤字=国債発行増と、(2)対政府信用増(国債買切りオペ)=中銀マネー増の2式から、(3)財政余剰+民間保有国債増+中銀マネー増=0の関係が導けます。
  4. 12ここでは、中銀マネーと、名目所得や物価に関連の深いマネーストックとの間には、長期的には安定的な関係があると考えておきます。
  5. 13詳しくは、Willem Buiter,"Can Central Banks Go Broke?", CEPR Policy Insight No.24, May 2008.を参照してください。
  6. 14植田和男「自己資本と中央銀行」、2003年度日本金融学会秋季大会における記念講演要旨(本ホームページ)を参照してください。なお、新日銀法では、政府の損失補填制度が廃止されました(須田美矢子「デフレと金融政策—大分県における特別講義—」(2003年7月)を参照)。

(3)中央銀行の財務の健全性

 財務の健全性の観点からは、主たる関心は中央銀行のバランスシートの資産サイドに向けられます。中銀マネーはトレンドにそって安定的に供給すればよいというものではなく、常に機動的な対応ができるようにしておく必要があります。したがって、保有資産の満期構造にも目を配りながら、オペレーションによって長・短期国債などの資産を購入しています。また、異例の措置としてCPや社債を購入する場合にも、これらの購入が保有資産の満期構造へ与える影響も考慮に入れる必要があります。長期の資産やクレジット資産は価格変動リスクやクレジットリスクが相対的に高く、それらによる損失の顕現化によって、運用益であるシニョレッジが減少してしまいます。中銀マネーの裏付けとなっている資産が棄損すると、納付金の減少だけでなく、自己資本比率の低下にも繋がるため、通貨の信認問題に発展するリスクがあります15。私は、中央銀行として異例の措置を続ける中では、財務の健全性の重要性を強調しすぎることはないと思っています。

 最近、財政政策の資金源としてのシニョレッジに期待する声が聞かれています。例えば、「政府紙幣」の議論はその一例とみることができます。「政府紙幣」の発行は、その仕組み如何によって、「国債の市中発行」か、あるいは「無利息永久国債の日銀引受け」の、いずれかと実質的に同じになります16。後者の場合、前節の議論でいえば、財政赤字を民間からのファイナンスに依存するのではなく、結局、日本銀行が国債を引き受けることによって、その分中銀マネーの供給を増やすことと同じになります17。こうした国債の日銀引受は、財政規律上の問題から財政プレミアムを拡大させたり、日本銀行の財務の健全性に対する疑念を通じて、通貨に対する信認を害するおそれがあります。

 時間を通じたシニョレッジの使い方に関する問題もあります。物価の安定と、長期的なシニョレッジを最大化するインフレ率が一致するとは限りません。政府が、中央銀行が望ましいと考える安定的なインフレ率から実際のインフレ率を乖離させ、シニョレッジを変化させることは可能です。しかし、図表4でみたように、長期的にはシニョレッジの増加には限界があります。したがって、財政赤字をシニョレッジによってファイナンスするということは、結局、シニョレッジを前借りするということにほかなりません。政府が先取りしてしまう分だけ、中銀マネーの供給の見返りとして得られる、将来国庫に納付されるシニョレッジが減少することになります。

 独立して金融政策運営を任されている中央銀行としては、政策の評価がそのバランスシートで示せることが、透明性と説明責任の観点から望ましいと考えています18。しかし、財政政策のファイナンスとしてシニョレッジが先取りされてしまいますと、それによって日本銀行の財務指標が振れ、財務の健全性の評価が困難となり、その責任の所在も不明瞭となりかねません。

 私はかねてより、量的緩和政策の中での資金供給チャネルの拡充策を、「質的緩和」と呼んでいましたが19、今まさに「質的緩和」に金融政策のウエイトが置かれているように思います。不確実性が高く先行きを見通し難い中にあっては、当面こうした異例の措置を講じない場合のリスクの方を意識せざるを得ません。しかし、日本銀行が、独立性が付与されたもとで、しっかりと中銀マネーをコントロールすることが、物価安定のもとでの持続的成長に資するためには重要であり、その中銀マネーから得られるシニョレッジを、政府と中央銀行でどのように国民のために活用していけば良いのか、もっと議論を深めていく必要があると感じています。

  1. 152002年9月に日本銀行が株式の購入を発表した際、資産劣化懸念で円が売られました。2003年度決算で日銀は32年振りに経常収益が赤字になりましたが、総裁記者会見では、量的緩和政策に伴う副作用という観点から質問が出ています(2004年6月15日総裁記者会見要旨を参照)。
  2. 16「総裁記者会見(2月3日)要旨」2009年2月4日(本ホームページ)を参照してください。
  3. 17タンス預金が無利息永久国債に変わった場合も、同様の議論を組み立てることができます。
  4. 18古市峰子・森毅「中央銀行の財務報告の目的・意義と会計処理をめぐる論点」『金融研究』第24巻第2号2005年7月では、中央銀行の財務報告の目的・意義として、特に市場関係者に対して「中央銀行の政策の事後的検証および将来遂行可能な範囲の予見を行ううえで有用な情報を提供すること」、そして「銀行券の発行権を裏付けにしていること」という特徴から、国民に対して、「保有資産や通貨発行益の適切な管理・運用がなされているかを評価するうえで有用な情報を提供すること」としています。
  5. 19例えば、須田美矢子「企業金融を考える—福島県金融経済懇談会における挨拶要旨—」(2002年12月2日)を参照してください。

4.おわりに

 最後に、京都府で金融経済懇談会を開催するに当たりまして、事前の勉強等を通じて、いくつか感じたことをお話したいと思います。

 まず、京都府の景気動向ですが、全国と同様、大幅に悪化しています。項目別にやや詳しくみますと、輸出が世界経済の急減速を受けて大幅に減少する中、企業では大幅な減産を余儀なくされています。また、設備投資も、内外需要の減少や収益環境の急激な悪化を受けてこのところ減額修正が目立つようになっています。こうした中、雇用・所得環境も厳しさを増しており、個人消費は一段と弱まっています。当地でも、今回の景気悪化のペースは過去に例のないほど速いものとなっていますが、その背景として、当地の経済がこれまでグローバル化を積極的に進めてきた結果、世界経済の変動による影響を受けやすい構造となっていたことが指摘できます。特に、当地で強いIT産業では、2002年以降の拡大局面において、海外における生産拠点の整備や販売網の展開を通じ、売上高や収益に占める海外のプレゼンスを一段と高めてきました。それだけに、今回のグローバル需要の減少による影響は大きく、工場閉鎖や雇用削減等に踏み切る動きもみられています。

 しかし、長い目でみれば、グローバル化の方向性自体は間違っていないと思います。確かに、世界経済は現在大きく下振れていますが、各国政府・中央銀行では積極的な対策を講じるなどして、持続的な成長経路へ復するよう努力しています。厳しい中にも、どこかにニーズは隠れているものです。先行き世界経済が徐々に回復していくことを見据えながら、グローバル需要の変化に如何に対応していくか、それが今後わが国企業がグローバル競争の中で生き残っていく鍵になると思います。当地には、伝統を継承しながらそこに新しい技術を融合させ、時代のニーズにマッチした付加価値の高い製品を生み出す風土があります。そうした風土に育まれ、世界をリードし、日本を代表する企業にまで成長した先も、少なくありません。そうした企業が中心となって、それぞれの強みを活かしながら、是非、当地が日本経済の回復をリードして頂ければと、期待しています。

 最後に、京都と日本銀行の歴史的な係わりについて、ほんの一部ですが、ご紹介したいと思います。もともと京都という土地は、昔から金融と深い係わりがあったということをご存知でしょうか。東京に遷都されるまで1,000年余の間、京都は日本の首都として殷賑を極め、同時に、先進工業都市、全国の物産集積都市としてわが国最大の都市機能を有していました。そうした中で、13世紀後半から、既に手形が流通し、京都の両替商で現金化も行われていたそうです。また、日本の近代銀行制度の基礎作りにも京都の豪商が重要な役割を果たしました。例えば、「日本地方金融史」によりますと、明治維新の際、薩長連合が勝利した理由の一つに、京都の豪商、三井、島田、小野の大商業資本による支援があった、とされています。さらに、国立銀行の第一号は東京の第一国立銀行(1873年開業)ですが、京都の三家はその大株主にも名を連ねていましたし、最初の私立銀行も京都の三井が単独で設立した三井銀行(1876年開業)でした。日本銀行の設立(1882年)に際しましても、実は、設立当初の株主580名のうち、113名が京都の株主であり、大阪の121名に次いで2番目の多さでした。京都の皆様のお陰で日本銀行は設立されたと言っても過言ではありません。

 京都にゆかりのある日銀総裁も少なくありません。例えば、井上準之助(第9、11代)、結城豊太郎(第15代)、一万田尚登は(第18代)は、京都支店長経験者です20。また、戦間期の金融政策運営で重要な役割を果たした第13代総裁の深井英五は、同志社英学校(現同志社大学)の出身です。第一次世界大戦、関東大震災、昭和金融恐慌、金解禁、金輸出再禁止、初の国債引受、二.二六事件など、金融史に残る大きな節目で、金融政策運営上の中心的な役割を果たした深井は、最期まで国債の日銀引受けを“わが最大の失敗”と後悔していたといわれています21。深井は退職の辞で次のような言葉を残しています。

「私が中央銀行の職能の執行にあたって、—中略—根本的に考えておくべきものと思っておりましたことは、通貨に対する信用の動揺によって、物価の騰貴をきたすことのないようにしなければならぬということです」

(日本銀行総裁退職の辞「人物と思想」所収)

 セントラルバンカーとして、この深井の言葉は重く響きます。物価安定のもとでの持続的な成長を促していくことこそ、われわれに与えられた使命であり、それを実現させることで初めて中央銀行としての信認、通貨の信認が確保できると考えています。

 私からはこのくらいにさせていただき、皆様方との意見交換に移らせていただきたいと存じます。ご清聴いただきまして、誠にありがとうございました。

  1. 20井上準之助、結城豊太郎の1911年6月までは、京都出張所長。
  2. 21「新島襄—近代日本の先覚者」学校法人同志社編、晃洋書房

以上