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【挨拶】「日本経済の現状・先行きと金融政策」

山梨県金融経済懇談会における挨拶要旨

日本銀行政策委員会審議委員 須田美矢子
2009年12月2日

英訳は、英語版ホームページをご覧下さい。

目次

  1. 1.はじめに
  2. 2.わが国経済・物価情勢の現状と見通し
    1. (1)金融資本市場の動向
    2. (2)わが国経済・物価情勢の現状
    3. (3)わが国経済・物価情勢の先行き
    4. (4)リスク要因
    5. (5)当面の金融政策運営
  3. 3.中央銀行のバランスシートと金融政策
  4. 4.おわりに

1.はじめに

 日本銀行の須田美矢子です。日本銀行では、総裁、副総裁および政策委員会審議委員、いわゆる「政策委員」(ボードメンバー)が、できるだけ頻繁に全国各地を訪問し、日本銀行の施策の趣旨をご説明申し上げ、かつご意見を直にお聞きして、政策判断の際に参考にさせていただいております。本日は、山梨県の各界を代表する皆様方に、ご多忙のなかをお集まりいただき、親しくお話しする機会を賜り、誠にありがたく、光栄に存じます。また、日頃私どもの甲府支店が大変お世話になっております。この場をお借りして厚くお礼申し上げますとともに、今後ともご指導を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

 本日、私からは、日本経済の現状・先行きと金融政策についてお話しし、最後に山梨県経済について僭越ながら私なりの見解を少し述べさせていただいた後、皆様方から当地の実情に即したお話や、忌憚のないご意見を承りたいと存じます。

2.わが国経済・物価情勢の現状と見通し

(1)金融資本市場の動向

 それでは、早速、昨年秋に発生したリーマンブラザーズの破綻をきっかけに、未曾有の混乱に陥った国際金融資本市場からみていきたいと思います。国際金融資本市場は、昨年来、各国政府・中央銀行によってとられてきた大胆な施策が奏効し1、改善の動きが拡がっています。依然として金融機関の損失計上や破綻が続いており、市場の脆弱性に対する懸念が完全に払拭されたわけではありませんが、投資家のリスクアペタイトが回復する中、わが国を含む各国の各種信用スプレッドは既にリーマン破綻前の水準に戻っています。以下では、そうした国際金融資本市場のこれまでの動向や、日本銀行の対応等について、もう少し詳しく振り返った後、わが国の企業金融を取り巻く環境について簡単に整理しておきます。

 今回の世界的な金融危機では、特定の国におけるバブルが証券化商品によって各国に散布され、その破裂の影響が流動性問題を通じて一気に、そして世界中に拡がったところに大きな特徴があります。2007年8月にパリバショック2が発生する以前は、米欧における住宅価格や証券化商品の価格下落は、それまでの行き過ぎの一時的な調整—ヘルシーコレクション—であり、世界経済の拡大基調に大きな影響は出ないだろうというのが、市場参加者を含む共通の認識であったように思われます。しかし、パリバショックによって、サブプライム住宅ローン問題が単なる資産価格の調整に止まらず、金融機関の流動性問題にまで発展していることが認識されることとなりました。その後も、住宅価格や証券化商品価格の下落に伴う金融機関の損失発生や、ヘッジファンドの破綻が続きましたが、2008年3月のベアスターンズ救済によって、米当局は大きな金融機関は潰さないだろう—too big to fail—というムードが拡がりました。そうしたことも手伝って、昨年の夏頃は、サブプライム住宅ローン問題よりも、むしろ原油をはじめとする原材料価格の高騰の方に注目が集まりました。このため、欧州中央銀行(ECB)やスウェーデンのリクスバンクのように、一部には利上げ基調を維持した中央銀行もみられました。そうした中、9月にリーマンの破綻が発生しました。それを契機に、市場では米欧金融機関の信用力に対する疑心暗鬼が一気に拡がり、投資家のリスクアペタイトは急速に低下しました。リスク資産から安全な国債や現金に資金を移す動きが強まり、米欧のみならずわが国でも株価が急落したほか、CPや社債のスプレッドが急拡大しました。また、短期金融市場では、資金の出し手が資金放出姿勢を慎重化させたため、流動性リスクプレミアムが拡大することとなりました。

 こうした事態に対処するため、各国の政府・中央銀行では、大規模な財政政策、政策金利の大幅引き下げ、リスク資産の買い取りなど、迅速かつ大胆な施策を実施しました。日本銀行でも、政策金利(無担保コールレート・オーバーナイト物)の誘導目標を0.1%まで引き下げるとともに、金融市場の安定確保のために、積極的な資金供給オペレーションや長期国債の買入れ増額などを通じて、潤沢な資金供給を実施しました。また、企業金融を支援するための措置として、適格担保範囲の拡大(格付け要件の緩和)に加え、企業金融支援特別オペ、CP等買入れ、社債買入れの導入にも踏み切りました。因みに、この企業金融に係る措置は、信用リスクを負担する度合いや市場のレート形成を歪めてしまうリスクが高いことなどから、中央銀行の金融調節手段としては異例であり、あくまで時限措置という位置付けで導入しました。

 このような積極的な施策が効を奏し、わが国の金融環境は今年度上期にかけて大幅に改善しました。今では殆どの市場がリーマン破綻前の落ち着きを取り戻しています。具体的にみてみますと、短期金融市場では、無担保コールレートが0.1%近傍で安定的に推移する中、銀行間取引におけるターム物レートも低下を続けており、流動性リスクプレミアムはリーマン破綻前を下回る水準まで縮小しています。また、年末越えや年度末越えプレミアムにも、今のところ跳ね上がるような動きはみられていません。企業金融を取り巻く環境も改善の動きを続けています。輸出や生産の回復につれてキャッシュインフローが下げ止まる中、在庫調整の進展に伴う運転資金ニーズの低下や、企業コンフィデンスの改善を受けた予備的動機による資金ニーズの低下などから、企業の外部資金への需要は減少しています。一方、資金調達環境をみますと、CP市場では、格付けの低い銘柄まで発行スプレッドが大幅に縮小するなど、発行環境は大きく改善しています。社債市場でも、BBB格相当以上の対国債スプレッドが、リーマン破綻前と遜色ない水準まで縮小しているほか、今年度上期の社債発行額が既往最高となるなど、全体としてみれば良好な発行環境を取り戻しています(図表1)。中小企業の資金繰りにつきましても(図表2)、短観をはじめとする各種アンケート調査を通じて、なお厳しい水準とはいえ、少しずつ改善している姿を確認することが出来ます。

  1. 1各国中央銀行が講じた政策については、日本銀行企画局、「今次金融経済危機における主要中央銀行の政策運営について」日本銀行調査論文、2009年7月をご覧下さい。
  2. 2資金調達ツールであったABCPのロールが困難化したため、傘下のABSファンド3本が凍結されました。

(2)わが国経済・物価情勢の現状

実体経済の現状

 実体経済に目を転じますと、わが国の景気は持ち直しています。もっとも、国内民間需要の自律的な回復力は、依然弱い状況が続いています。以下では、その背景にある項目ごとの動きを、やや詳しくみていきます。

 まず、わが国経済のメインエンジンである輸出は、世界経済の持ち直しを受けて増加を続けています。背景にある世界経済をもう少し具体的にみますと、まず米国では、いわゆるジョブレスリカバリー(雇用なき景気回復)の様相を呈しています。失業率が10.2%まで上昇するもとで、労働生産性が急回復し、ユニットレーバーコストの大幅な低下を伴いながら企業収益は改善しつつあります。自動車販売促進策や住宅減税といった需要刺激策が奏効し、企業の生産活動が持ち直すとともに、設備投資にも下げ止まりの動きがみられています。しかし、こうした企業部門の持ち直しが家計部門に波及するペースは、緩やかなものに止まっています。金融機関の貸出態度が以前に比べれば緩和したとはいえ、依然としてタイトな状態が続いていることに加え、厳しい雇用環境や家計のバランスシート調整圧力が、消費の足取りを重くしています。9月に販売促進策終了に伴う反動減がみられていた自動車販売が、10月には再び1,000万台を回復したほか、自動車を除く小売売上高も3か月連続で増加するなど、株高による資産効果もあって、消費関連指標は意外と底堅さをみせています。しかし、決して力強い印象はありません。欧州につきましても、需要刺激策の効果等から持ち直しの動きを続けていますが、米国と同じように、金融セクターの脆弱性や家計のバランスシート調整を背景に、持ち直しのペースは緩やかなものに止まっています。一方で、新興国や資源国の成長は力強さが目立っています。最初に中国ですが、自動車や家電の販売促進策をはじめとする大規模な景気刺激策を背景に、高い成長を続けています。すなわち、小売売上高が前年比+15%程度の増加となっているほか、貸出が前年を3割方上回るペースで伸びるもとで、工業生産や固定資産投資も大幅な増加が続いています。中国の旺盛な内需は、NIEsやASEANといった他のアジア地域にも好影響を及ぼしています。それらの国々では、輸出や生産だけでなく、内需関連にも持ち直しの動きがみられるようになっています。

 内需に目を転じますと、公共投資は、振れを伴いながらも増加を続けています。個人消費も、エコカー減税やエコポイント制度などの対策効果から、耐久消費財を中心に持ち直しています。また、厳しい収益環境や設備過剰感を背景に大幅な減少が続いていた設備投資につきましても、機械投資の一致指標である資本財出荷が増加に転じるなど、漸く下げ止まりの動きがみられています。一方、住宅投資は減少が続いています。新設住宅着工戸数をみますと、7-9月は年率換算で70.7万戸と、統計開始以来最低の水準まで落ち込んでいます。

 以上のような内外需要を背景に、生産は増加を続けています。鉱工業生産指数の動きを四半期ごとにみてみますと、1-3月に前期比-22.1%の大幅な落ち込みとなった後、4-6月+8.3%、7-9月+7.4%とはっきりとリバウンドしています。出荷・在庫バランスについても、建設財では引き続き在庫調整圧力の強い状態が続いていますが、耐久消費財や電子部品・デバイスではほぼ在庫調整が終了したほか、資本財や生産財などでも出荷・在庫バランスは緩やかに改善しています。

物価情勢の現状

 次に、物価情勢についてみてみます。生鮮食品を除く消費者物価の前年比は、石油製品価格高騰の反動や需給バランスの悪化などから、今年度入り後マイナス幅を拡大させてきましたが、8月の-2.4%をボトムに縮小に転じています。昨年の8月が+2.4%でピークでしたので、ちょうど同じ幅で折り返したことになります。最近「デフレ」という言葉をよく耳にしますので(図表3(1))、物価がどんどん落ちているとの印象をお持ちかもしれませんが、消費者物価指数の水準自体は、現在のところ、石油製品価格が高騰をはじめる前の水準に位置しています(図表3(2))。

(3)わが国経済・物価情勢の先行き

 以上のように、足もとまでの経済指標は、わが国の景気は本年度後半以降持ち直していくという私どもが想定しているシナリオに、概ね沿った展開となっています。先行きにつきましては、来年度半ば頃まで緩やかな持ち直しが続いた後、世界経済の回復ペースが高まるにつれて、わが国においても、2011年度にかけて成長率を高めていくとみています。ただし、こうした見通しに対する不確実性は、一頃に比べ低下しているとはいえ、依然として高い状況にあります。

 それでは、その背景にある項目ごとの見通しを、やや詳しく整理してみます。最初に実質輸出ですが、先行きも増加を続けていくとみています。その前提となる世界経済については、米欧先進国が、金融セクターの脆弱性や家計のバランスシート調整の影響が残るため、来年にかけて緩やかな回復を余儀なくされる一方で、新興国・資源国が高めの成長を持続することを想定しています。しかし、その後は、米欧経済において、当局による政策的な支えのもとでバランスシート調整圧力が徐々に薄れていき、つれて民間の回復力が次第に強まっていくと考えられることから、世界経済全体の成長率も次第に高まっていくと想定しています。

 内需をみますと、まず個人消費は、各種対策の効果から引き続き耐久消費財を中心に持ち直しの動きが続くとみています。また、足もと下げ止まりつつある設備投資も、先行指標である機械受注(船舶・電力を除く民需)が10-12月に小幅ながらも7四半期振りに増加に転じると予想されるなど、企業収益が改善するもとで、徐々に持ち直していくとみています。生産も、鉱工業予測指数を前提とすると10-12月が前期比+5.0%となるなど、当面は増加を続けるとみられます。もっとも、厳しい冬季賞与が予想される中で、景気ウォッチャー調査や消費動向調査の消費者態度指数といったコンフィデンス指標は、このところ頭打ちとなっています。今後、各種政策効果が減衰していけば、今年度上期は高めの伸びを示した実質GDP成長率も、増加幅を縮小していき、場合によっては一時的にマイナスを付けることも想定されます。しかしながら、2011年度にかけては、世界経済の成長率が伸びを高めていくもとで、輸出を起点とする企業部門の回復が家計部門にも波及していくとみられることから、わが国の成長率も、徐々に高まっていくとみています。

 物価につきましても、消費者物価指数(除く生鮮食品)の前年比は、前年の石油製品価格高騰の反動の影響が薄れていくに従って比較的速いペースでマイナス幅を縮小させ、年末にかけて-1%程度になると見込まれます3。ただし、その後は、昨年後半の大幅な景気の落ち込みに伴って発生した大きなスラック(マクロ的な需給の緩み)が、引き続き物価の下押し圧力として作用すると考えられますので、マイナス幅の縮小ペースはごく緩やかなものとなるとみています。

  1. 3仮に、足もとの水準のまま横這いで推移したとすれば、前年比マイナス幅は、年末に-1%程度まで縮小する計算になります(前掲図表3(2))。

(4)リスク要因

 次に、以上の見通しに関するリスク要因について、整理しておきます。日本銀行が見通し期間としている2011年度までを通してみますと、新興国や資源国が高い成長を続けるとともに、国際金融資本市場が脆弱性を残しつつも、改善の動きを続けていることもあって、私としましては、経済・物価ともリスクはバランスする方向にあるとみています。ただし、短期的には、このところの国際金融面での動きや、為替市場の不安定化などが、企業や家計のマインドの悪化などを通じて、経済活動に悪影響を及ぼすリスクが高まっているように窺われます。10月の展望レポートには、現在意識しておくべきリスク要因が取り纏められていますので、ここでそれらを全て挙げることは致しませんが、以下では、その中でも、私が特に留意している点について述べておきたいと思います。

拡張的なマクロ経済政策に関するリスク

 最初に、拡張的なマクロ経済政策に関するリスクです。各国で講じられている拡張的なマクロ経済政策には、想定以上に各国の実体経済を押し上げる上振れリスクと、過熱をもたらした後、大きな反動が生じる下振れリスクがあります。最近では、特に新興国や資源国において、後者のリスクが高まりつつあるように思われます。もともと潜在的な成長力が高い上に、バランスシート調整の問題も抱えていないこれらの国々においても、今回の金融危機では、大胆な需要刺激策が講じられました。また、為替レートをドルにペッグしている国々では、米国の金融緩和が輸入され、緩和度合いが過大となっている可能性があります。市場では、ドルキャリー取引などを通じて、新興国・資源国や商品市況に資金が流入しているとの指摘が、引き続き聞かれています。以上のような動きが、過剰な投資行動や、市場での行き過ぎたポジションの造成と、その後の巻き戻しに繋がるようなことがないか、注意してみていく必要があります。また、財政規律への疑念による長期金利の上振れリスクにも、引き続き警戒が必要です。中央銀行による安易なマネタイゼーションは、かえって財政規律への疑念を助長することになります。

物価に関するリスク

 次に、物価に関するリスクです。物価についても上下両方向にリスクがあります。少し長い目でみれば、グローバルな金融緩和が続くもとで、再び商品市場に資金が流入し、一次産品価格の高騰を通じてインフレ率が想定以上に上振れてしまうリスクに、引き続き留意が必要です。

 一方、目先については、このところの急速な円高が実体経済に与える影響も含め、内外経済が下振れ、それに伴ってインフレ予想が下振れてしまうリスクを、意識しておく必要があります。その際、今後の賃金動向が重要な鍵を握っているように思われます。最近、わが国の失業率が他の先進国ほど悪化しない代わりに、賃金の下落幅が相対的に大きいことを捉えて、日本では人件費の圧縮を雇用の削減よりも賃金の引き下げによって行う傾向が強いと、改めて指摘されています。特に近年では、雇用調整助成金などの政策効果もありますので、そうした傾向が一層強まっている可能性があります。このような特徴は、賃金を維持する代わりに雇用を大胆にカットして、労働生産性を急回復させている米国とは対照的です。賃金を調整して雇用を維持する日本の場合、雇用不安を通じたコンフィデンスの急激な悪化を防止するという利点がある反面、サービス価格等の下押しを通じて物価に下落圧力として作用するリスクがあります。今のところ、賃金の下落は、時間給の引き下げというより、労働時間の短縮を中心に行われていることや、ウエイトの高い家賃が比較的安定して推移していることから、サービス価格は目立って下落しているわけではありませんが(図表4)、所定内の時間当り賃金にまで調整が及ぶようなことになれば、サービス価格の一段の下落に繋がることにもなりかねません。

 また、日本のサービス価格は、もともと米欧に比べ伸び率が低い傾向にあります。これには、わが国の、特にサービス業の賃金がなかなか伸びないことが影響しているように思われます。企業部門の回復が家計に波及していく好循環も、賃金が上昇しないとなれば、スムーズに働いていかない可能性があります。やはり生産性の向上に取り組むことによって、中長期的に賃金の引き上げを図っていくことが重要です。

デフレについて

 以上のような、インフレ予想の下振れは、物価のさらなる下振れに繋がるリスクを高めることになります。先ほど、「デフレ」に関する報道が最近増えていることを紹介しましたが、ここで、デフレという言葉について少し考えてみたいと思います。まず、デフレを教科書的に定義するならば、「一般物価の持続的な下落」となります。この定義に従えば、現在、デフレとみることができます。その場合、金融政策上は、物価の動きをどの統計でみるのか、デフレの原因は何なのか、という点が重要なポイントになります。

 まず、どの統計をみるのかという点についてご説明します。物価指標には、消費者物価指数、企業物価指数、GDPデフレーターと、様々な指数が存在します。日本銀行では、物価情勢を判断する際、それらを活用しながら総合的に点検しています。ただし、金融政策を説明していく際の物価指数としては、速報性にも優れ、国民の実感に即した、家計が消費する財・サービスを対象とする指標が基本となります。こうした観点から、日本銀行では、特に消費者物価を重視しています。この点、他の中央銀行とも共通しています。また、デフレの原因につきましては、(1)資源価格など輸入物価の変動、(2)経済全体の需給バランスの悪化、(3)生産性の向上、などが指摘できます。現在の持続的な物価下落は、昨年の資源価格高騰の反動による影響が主因とみられますが、先述の大きなスラックを踏まえますと、経済全体の需給バランスの悪化も影響を及ぼしていると考えられます。一般にも、今回の物価下落局面では、単に物価が持続的に下落しているという現象面だけを捉えるのではなく、供給に比べ需要が不足していることと併せて、デフレを議論していることが多いように窺われます。今後は、資源価格高騰の反動による影響が薄れていく一方、むしろ経済全体の需給バランス悪化の影響の方が相対的に大きくなっていく可能性があります。そうした中、物価下落が想定以上に長引くようなことがあれば、物価下落が起点となって消費を先送りさせたり、企業業績を悪化させることなどによって実体経済を下振れさせ、それがインフレ予想の下振れを伴いながら、相乗的にさらなる物価の下振れに繋がるという、いわゆるデフレスパイラルのリスクが高まることになります。

(5)当面の金融政策運営

 以上、国際金融資本市場の動向や内外の経済・物価情勢と、それらを見通す上で意識しておくべきリスクについてみてきました。以下では、それらを踏まえた日本銀行の金融政策運営についてご説明します。日本銀行では、わが国経済が物価安定のもとでの持続的成長経路に復していくことを、粘り強く支援していくという考え方のもと、引き続き、極めて緩和的な金融環境を維持していく方針です。そのもとで、10月末の金融政策決定会合では、昨年来採用してきた企業金融の円滑化に資するための各種時限措置について、以下のとおりの扱いとすることを決定しました。

 まず、CP等買入れと社債買入れについては、予定どおり12月末で完了することとしました。その理由は次のとおりです。最近の入札結果をみますと、CP等買入れが10月末の時点で3回連続応札ゼロとなっていたほか—現時点でも、8回連続で応札ゼロとなっています—、社債買入れにつきましても大幅な札割れが続いたことから、この2つの措置は、市場機能を改善させるという所期の目的を十分達成したと判断しました。また、市場に与える副作用が目立ってきたということも、大きな理由となりました。すなわち、CP市場では、格付けの高い銘柄の発行レートが国庫短期証券の利回りを下回る、いわゆる「官民逆転現象」が続いていたほか、社債市場でも高格付け銘柄の一部に過熱感がみられていました。また、CPが日本銀行のCP等買入れオペを前提として発行されることから、たとえCP等買入れの応札がゼロであっても、発行レートが日本銀行の定める買入下限レートに影響されてしまい、発行体である企業の信用リスクを反映せず、銘柄ごとのレートの差が乏しくなってしまうという傾向が強まっていました。こうした副作用が続けば、投資家離れを呼び、活発な取引や円滑な資金の流れをかえって阻害することにもなりかねません。

 一方、企業金融支援特別オペにつきましては、来年3月末まで延長した上で完了することとしました。企業の方の中には、引き続き相応の規模の利用がみられている同オペに対して、それが停止されることによって、特に資金需要の高まる年度末に向けて、どの程度の影響が出てくるか見極め難いとして、漠たる不安を感じている先が少なくありませんでした。こうした点にも配慮し、年度末越え資金の安定確保に万全を期すため、3月まで延長することとしました。

 なお、市場からは、なぜ決定を前倒しする必要があったのか、との声も聞かれました。それに対する私なりの理由は次のとおりです。一つは、時限措置の扱いに関して市場の見方が分かれる中で、方針が固まれば即座に公表し、金融政策に対する不確実性を出来るだけ早めに解消させることが、市場にとって望ましいと判断しました。さらに、早めに今後の方針を明らかにすることによって、市場に対応のための時間的余裕が生まれ、一定の安心感を与えることにも繋がるのでは、との判断もありました。

 ここで改めて申し上げておきたいことが2点あります。一つ目は、今後とも金融市場の安定を確保し、それを通じて企業金融の円滑化を支援していく上では、金融市場の状況変化に即応した、最も効果的な金融調節手段を採用することが必要だという点です。この意味からすると、10月末時点において、4月以降は、より広範な担保が利用でき、かつ期間設定も柔軟な共通担保オペ等を活用して、引き続き潤沢な資金供給を行うことが、金融市場の安定確保や企業金融の円滑化支援という観点から、最も望ましいと判断したということになります。

 また、昨日開催した臨時金融政策決定会合では、0.1%で固定、期間3か月の共通担保方式の新たな資金供給手段を導入することとしました。これは、このところの国際金融面での動きや、為替市場の不安定さなどが、企業や家計のマインドなどを通じて経済活動に悪影響を及ぼすリスクが高まっていることに対して、極めて低い金利でやや長めの資金を十分潤沢に供給することにより、現在の強力な金融緩和を一段と浸透させ、短期金融市場における長めの金利のさらなる低下を促すことが、現在、金融面から景気回復を支援する最も効果的な手段であると判断し、決定したものです。今後もベネフィットとコストを比較検討した上で、ベストと判断される金融調節手段を採用していく所存です。

 二つ目は、日本銀行のバランスシートの多寡が、金融緩和の度合いを表しているわけではないという点です。もともと財政や銀行券の受払いなど当座預金を変動させる要因の振れが大きいわが国では、政策金利である無担保コール・レート(オーバーナイト物)を適切に目標水準に誘導するためには、比較的大きな規模の短期資金を、資金需給に応じて機動的に調節する必要があります。加えて、今回の金融危機のように、市場機能が著しく低下し、資金需給が大幅にタイト化するような場合には、積極的な資金供給を行う必要があります。逆に、市場機能が回復し、資金の出し手が市場に戻ってくれば、短期資金の供給は減ることになります。従って、今後、仮にバランスシートが縮小していったとしても、金融調節方針が変わらないもとでは、金融緩和度合いが低下したことにはなりません。以下では、こうした日本銀行のバランスシートと金融政策との関係について、過去の経緯にも触れながら、もう少し詳しくみてみたいと思います。

3.中央銀行のバランスシートと金融政策

日本銀行のバランスシート

 さて、2007年8月のパリバショック以降、主要中央銀行では、それぞれの国の事情に応じて、非伝統的政策を含む様々な対策を講じてきました。その結果、例えば米英欧の中央銀行(FRB、BOE、ECB)のバランスシートは急速に拡大しています(図表5)。FRBでは、リーマン破綻後に貸出プログラムが導入されたことなどから、またBOEでは、2009年3月に国債買入オペが導入されたことを契機として、それぞれのバランスシートの負債側において、リザーブ(準備預金)が大きく増加しています。ECBでも、昨年10月の固定金利での無制限オペへの変更後、リザーブが増加しています。一方、日本銀行のバランスシートやリザーブは、これら3中銀に比べれば増加幅が相対的に小さく、これをもって市場では日本銀行のこれまでの政策対応は不十分なのではないか、との声が一部に聞かれました。そこで、以下では、日本銀行のバランスシートがさほど拡大しなかった背景について、3点ほど指摘してみたいと思います。

  1.  1点目は、中央銀行のバランスシートは、民間の資金需要に大きく左右されるという点です。中央銀行がどんなに積極的にオペを打っても、オペ先である金融機関の資金需要が乏しければ、なかなか応札は膨まず、資金供給は増えません。逆に、金融機関の資金需要が非常に強い場合には、中央銀行は極めて多額のオペを実施する必要があります。リーマン破綻後の米英欧中央銀行のバランスシートや準備預金の拡大には、米欧金融機関に対するカウンターパーティーリスクが高まったもとで、将来の支払いに備えて、資金・現金を手元に持っておこうという予備的動機が、各市場で急速に高まったことが、大きく影響しています。また、民間の資金需要としては、家計等による現金保有ニーズもあります。現金保有ニーズは、金融機関の経営不安等が生じると強まるものであり、実際、リーマン破綻後のECBやFRBの銀行券の発行は大きく膨らんでいます。これに対して、日本では、わが国金融機関のカウンターパーティリスクが米欧ほど高まらなかったため、予備的な流動性需要の増加が相対的に小さなものに止まりました。また、日本銀行券の発行も、90年代後半に急激に拡大した後、今次金融危機においては目立った増加がみられませんでした。

  2.  2点目は、企業の資金調達構造の違いです。これは、企業金融円滑化のための異例の措置により、バランスシートがどの程度拡大したかに関係します。日本では、企業金融におけるCPおよび社債の占める比率がもともと小さく(図表6)、CPや社債の市場が機能不全に陥った際に、また企業のキャッシュインの下振れ見込みに伴う資金需要増に対しても、銀行借入の増加によってある程度の対応が可能であったということがあります。CP、社債の対国債スプレッドの推移をみても、これらの市場の機能不全が欧米諸国に比べてマイルドなものであったことがわかります(図表7)。加えて、日本銀行では、従来からCP買い現先オペを行なってきました。こうしたことから、日本の場合、米英欧の各中央銀行に比べ、新たに自らのバランスシートを使って、CPや社債の市場に介入する規模が、相対的に小さくて済んだということがいえます。

  3.  3点目として、日本の金融機関や日本銀行では、もともと流動性リスクに対する意識が高く、それに対する備えがある程度出来ていたという点が指摘できます。日本の銀行は預金を主たる資金調達手段としており、米欧のようにもともと市場性短期資金に対する依存度が高くないことから、流動性リスクに対して頑健な負債構造にあります。また、日本銀行では、90年代の金融危機の経験から、流動性が極めて重要であるという意識を持ち続けています。それは、取引先金融機関ごとに、日々、資金繰りの状況を把握するとともに、財務担当者と緊密な情報交換を行なっていることにも現れています。こうした日本銀行のきめ細かな流動性モニタリングが4、平時から機動的で弾力的な資金供給を可能にしており、必要な流動性は日本銀行によって供給されるという安心感・信頼感に繋がっています。これが、今回の金融危機において、新たなオペの必要性を相対的に小さくさせた面もあったと思われます。これに対して、米英欧の中央銀行による流動性モニタリング体制は日本銀行とは異なっているようです。また、FRBとBOEでは、既存の貸出ファシリティが、今回の金融危機においてリピュテーションリスクを恐れる金融機関から積極的に利用されず、新たなオペ等の導入が必要になったという点もあるように思われます。

     因みに、日本銀行のバランスシートはこの金融危機の間、さほど増加していないといわれていますが、バランスシートを名目GDPに対する比率でみてみますと、もともと日本銀行のバランスシートは、経済の規模に対して相対的に大きいことがわかります(図表8)。

 以上、日本銀行のバランスシートが、なぜ米英欧の中央銀行と比較して、さほど拡大していないのかについて、簡単にみてきました。もっとも、市場には、以上のような事情を度外視してでも、デフレ脱却のためには長期国債を買って、バランスシートをもっと拡大させるべきだ、との論調がしばしば窺われます。私どもでは、金融市場の状況変化に即応した、最も効果的な金融調節手段を採用するという考え方のもと、全ての選択肢を排除せず、そのコストとベネフィットを、過去の経験や海外中銀の状況などを踏まえながら、冷静に検討しています。言い方を変えれば、コストとベネフィットは金融市場等の状況変化に応じて変わり得ますので、何がベストの政策なのかは、常にオープンだということになります。こうした観点に立ち、以下では、中央銀行による長期資産の保有に関する幾つかの論点を、指摘してみたいと思います。

  1. 4「金融機関の流動性リスク管理に関する日本銀行の取り組み」日本銀行、2009年6月26日をご覧下さい。

長期資産の保有について

 最初に、各中央銀行では、長期資金供給オペについて、それぞれ何らかの方針を設けた上で運営しています。これは、大量の短期資金供給オペによる短期金利形成の歪みや、中央銀行の業務上の負担を軽減する一方、資産の固定化が資金の過不足に応じた柔軟な金融調節を阻害してしまうためです。日本銀行では、長期国債の保有は銀行券の発行残高を上限とするという方針をとっていますが、FRBもBOEもベースにある考え方は同じです。すなわち、FRBでは、短期を含めた国債保有残高の増加額が銀行券発行残高の増加額に概ね見合うよう買入れを行うというものであり、BOEも、買入れ債券の残高を銀行券発行高の推移に応じて調整していくというものです5。もちろん、これらは円滑な資金供給を実現するための方針であって、非伝統的な政策として国債やその他の長期資産購入を行う場合には、この限りではありません。実際、FRB、BOEとも、非伝統的な政策として、国債などの長期資産の購入に踏み込みました。いずれ景気回復の足取りがしっかりしてくれば、それまで積み上がったリザーブを縮小させていく必要がありますが、その見合いの資産が長期資産となっているため、それらをどう扱っていけば、市場に混乱を来たさず、適切なタイミングで縮小させられるのかが、今後の課題と指摘されています。

 日本銀行が、長期国債残高の上限を銀行券発行残高においているもう一つの理由は、国債買入が国債価格の支持や財政ファイナンスを目的としているのではないということを明確にすることにより、金融政策の信認を確保するという点です。実際、FRBやBOEでは、この点に関する懸念が示されています。例えば、FRBでは、6月のFOMC会合において、「大幅な増額は財政マネタイズとの受け止め方を増やす可能性がある」とか、「マネタイゼーションに対する人々の懸念はインフレ期待に悪い影響を与える」等の意見が表明されています。BOEでも、6月のMonetary Policy Roundtableで、「国債買入れがあまりにも財政政策問題に近づきすぎ、独立性についての疑念を生じさせるリスクがある」との認識が示されています。

 他方、長期資産購入に伴うリザーブ積み上げの効果についても、わが国の量的緩和に関するものも含め、様々な議論があります。FRBでは、現在、1兆ドルをこえる超過準備を積み上げていますが、その効果については定かではありません。FOMCの11月会合では、殆どのメンバーが、今後数年間、失業率は非常に高い水準にとどまり、インフレ率はFRBの目的と長期的に整合的な水準を下回ると予想しています。また、BOE政策委員であるポーゼンは、「デフレ的な金融危機に対してリザーブを大きく増加させると、高インフレとなる懸念があるとの予測は疑わしく、過去の量的緩和や大量のリザーブ増の経験によると、それはインフレにほとんど関係ない」と述べています6

 以上の諸点を通じて申し上げたいことは、効果に対する評価の定まっていない非伝統的な政策を含め、中央銀行が政策運営を行なう際には、中長期的な観点など様々な角度からの検討が不可欠であるという点です。日本銀行の金融政策の枠組みは、かつてのバブルの経験を踏まえ、中長期的な視点の重要性を組み込んだものとなっていますが、そのことで、日本銀行の政策運営の機動性や柔軟性が失われているわけでは決してありません。現在の金融政策運営方針についても、市場や企業の皆様の声に真摯に耳を傾け、経済や物価の情勢やその見通し、企業金融を含む金融環境、さらには様々な政策の可能性まで、あらゆる観点から活発に議論を重ねた上で決定したものであり、そうした政策運営に対する取り組み姿勢は、今後も変わることはありません。

  1. 5「主要国の中央銀行における金融調節の枠組み」日本銀行企画局、2006年6月を参照して下さい。
  2. 6Adam S. Posen,"Getting Credit flowing: A Non-monetarist Approach to Quantitative Easing", 26 Oct. 2009(BOEのホームページ参照)。

4.おわりに

 最後に、甲府で金融経済懇談会を開催するに当たりまして、事前の勉強等を通じて、いくつか感じたことをお話したいと思います。

 まず、山梨県の経済情勢からみてみます。当地の景気は持ち直しに転じつつあります。すなわち、個人消費は、各種経済対策の効果から自動車等の耐久消費財は持ち直していますが、厳しい雇用・所得環境を反映して、全体として弱い動きが続いています。また、公共投資は増加基調を維持しているものの、住宅投資や設備投資は減少が続いています。こうした需要動向を背景に、生産は低水準ながらも緩やかに持ち直しています。業種別にみてみますと、食料品が横這い圏内の動きとなっているほか、宝飾は低調に推移しています。一方、輸送機械が政策効果を背景に増加しているほか、一般機械や電気機械、半導体・液晶製造装置などでも、海外の設備投資需要の増加等を背景に持ち直しています。

 このように、山梨県経済は全国とほぼ同様の動きを示していますが、少し気になったのは、生産の持ち直しのペースが全国に比べやや遅い点です。具体的には、全国の鉱工業生産指数が、2005年を100として、足もと80を超えてきているのに対し、山梨県は漸く70に達した程度に止まっています。しかしながら、少し長い目で生産指数を振り返ってみますと、2007年は全国が107.4であったのに対し山梨県は109.8、2008年も全国が103.8であったのに対し山梨県は104.5と、全国に比べて山梨県の生産水準が常に低いというわけではありません。むしろ相対的に振れが大きいと解釈すべきであることがわかります。その背景の一つとして、山梨県の産業が、IT関連といった特定業種のウエイトが大きい構造になっていることが指摘できます。今後、山梨県経済が安定した成長を伴いながら発展していくためには、さらなる業種の多様化を図っていく必要があるように思われます。そうした観点から、「山梨県地域産業活性化協議会」を中心とする、官民挙げた企業立地への取り組みや、山梨県の特性を活かした環境ビジネスなど新産業の創出に期待しています。現在のところ、工場立地件数については、静岡、群馬、長野といった近県の後塵を拝していますが、それでも皆様のご努力によって、「チャレンジ山梨行動計画」で掲げられた企業誘致数の目標50件の達成に目途が付くなど、着実に成果を挙げてきています。今後とも、大消費地・東京に近接しているという地の利を活かし、企業立地になお一層邁進されることを期待しています。また、今年に入り、日照時間が多いという山梨県の特性を活かして、国内内陸部としては最大規模となる太陽光発電所が甲府市の米倉山(こめくらやま)に建設されることが決定したほか、燃料電池の本格普及を目指す国家プロジェクトの中核的役割を担う「山梨大学燃料電池ナノ材料研究センター」も開設されるなど、環境ビジネスを展開していくうえでの基盤が整いつつあります。今後、山梨県の豊かな環境を活かして環境ビジネスなどの新産業が創出されていくことも、併せて期待しています。

 最後に、山梨県と日本銀行の係わりについて、ほんの一部ですが、ご紹介したいと思います。山梨と日本銀行の関連で最初に浮かぶのは、やはりお札ではないでしょうか。現在の五千円券には甲府にゆかりの深い女流作家・樋口一葉が、また千円券には本栖湖からみた富士山が描かれています。少し遡りますと、東京タワーや通天閣、歌舞伎座などを設計したことで知られる山梨出身の耐震構造学者・内藤多仲は、日本銀行本店旧館の増築工事の際、構造設計の責任者を努めました。新館建築の際にその一部の解体作業が行なわれたのですが、あまりの堅牢さに予想を上回る難工事となったことは、関係者の間では有名な話です。さらに、多感な成長期を甲府で過ごした第55代内閣総理大臣・石橋湛山は、中央銀行の職責について「一国の産業能力を十分に活動せしむるに必要にして過不足なき通貨の量を供給し、且つ其の通貨価値を内外に亙って安定せしむるにある7」との持論を展開し、昭和17年の旧日本銀行法の制定に際しては、政府による役員の解任権に対して鋭い批判を投げかけていたといいます8。また石橋は、第2次世界大戦前後の激変期において、景気悪化と高インフレに苦闘しながら、示唆に富むいくつもの言葉を残しています。そのうち、ほんの一部を紹介しますと、例えば、「生産力に剰りのない経済界は、即ち其の空気の既に一杯入っているゴム風船である。そこに更に物価騰貴を来たす如き政策を行なうことは、更に空気を吹き込むことである。結果は風船の破裂、即ちインフレーションだ9」と、現在では当たり前に議論しているマクロの需給バランスとインフレとの関係について、鋭い洞察を披露しています。一方で、第1次吉田内閣で蔵相を務めていた際には、昭和21年度改定予算案に関する財政演説において、「財政の第一要義は、遊休生産要素を動員し生産活動を再開させることにある。この目的を達成するためならば、たとえ財政に赤字が生じ、通貨の増発をきたしても差し支えない」と、景気浮揚に向けた並々ならぬ覚悟のほどを示し、いわゆる「石橋財政」を組成しました。吉田内閣は、その後「傾斜生産方式」に移行し、日本は戦後復興の歩みを進めていくことになります。

 翻って、現在のわが国はどうでしょうか。世界経済が持ち直し、主要国の株価が軒並み上昇基調を辿る中で、日本株は一人取り残されています。市場関係者や企業経営者の間では、日本の先行きに対する縮小均衡的な閉塞感、もっといえば危機感のようなものが、強まっているように窺われます。これからの日本が息の長い成長を続けていくためには何をすべきなのか、産学官が総動員で英知を絞る必要があります。金融経済懇談会で地方を訪問するたびに感じることですが、日本の成長力の源泉は、地道な基礎研究に裏付けられた世界に冠たる技術力です。当地にも世界をリードする企業がいくつもあります。そうした企業の皆様が、前向きな投資や生産活動を安心して行なっていけるような環境を整えることこそが、当局に求められている役割だと考えています。そのためには、日本銀行も金融面から出来得る最大限のサポートを行なっていくことはもとより、日本の将来のあり方についてのグローバルな視点に立った提言も含め、積極的な貢献を果たしていくことがますます重要になっていると思われます。

 私からはこのくらいにさせていただき、皆様方との意見交換に移らせていただきたいと存じます。ご清聴いただきまして、誠にありがとうございました。

  1. 7昭和12年3月6日号『東洋経済新報』「社説」(「石橋湛山全集」第10巻所収)
  2. 8「日本銀行百年史 第4巻」、昭和59年、P490-491
  3. 9昭和12年4月10日号『東洋経済新報』「社説」(「石橋湛山全集」第10巻所収)

以上