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【講演】最近の金融経済情勢と金融政策運営

内外情勢調査会における講演

日本銀行総裁 白川 方明
2010年1月29日

目次

1. はじめに

日本銀行の白川でございます。本日は、このように大勢の皆様の前でお話する機会を頂き、有り難うございます。

思い起こしてみますと、昨年の今頃は、世界の経済・金融が急速かつ大幅に落ち込んでいる真最中であり、多くの企業経営者は底が見えない恐怖感に囚われていたと思います。内外の政策当局者も、政策対応を一歩誤れば1930年代の世界的な恐慌を再現しかねないという緊張感を持って事態に臨んでいました。幸い、1年経った今日、わが国を含め世界経済の動向をみると、民間企業が懸命の経営努力を行ったことや、各国の政府や中央銀行が様々な異例の措置を迅速に実施してきたこともあって、経済活動の落ち込みは止まり、現在は持ち直しの方向に転じています。勿論、改善方向にあるとは言っても、景気回復は様々な政策措置の効果に支えられている面も大きく、また、先進国の経済活動はリーマン・ショック以前の水準を下回っている状態です。企業経営の現場から見ても、「底が見えない恐怖感」は去ったとはいえ、「先が見えない不安感」は依然として大きい状況だと想像しています。本日は、若干のお時間を頂いて、内外の金融経済情勢や日本銀行の金融政策運営の考え方についてお話するとともに、日本経済の中長期的な課題についても考えを述べたいと思います。

2. 世界経済の動向

落込みと回復のメカニズム

本日の話の主要テーマは日本経済ですが、わが国の景気の展開は、この1年間もそうであったように、短期的には世界経済の動きに大きく左右されます。

ご承知の通り、世界経済は一昨年秋のリーマンブラザーズ破綻をきっかけに、流動性危機に起因する金融・経済活動のパニック的な収縮に直面しました。言うまでもなく、経済取引が正常に行われるための最も根本的な前提は取引相手に対する信認です。しかし、リーマンブラザーズ破綻後の金融市場では、取引相手に対する信認が大きく崩れ、金融機関や機関投資家などの資金の出し手は、取引相手の信用度を極度に警戒する事態に陥りました。多くの金融市場で疑心暗鬼の状態が拡がり、経済活動に必要な資金が行き渡りにくくなりました。これは言わば意図せざる金融引き締めが世界的な規模で突然起きたようなものです。そうなると、企業や消費者は金融、ファイナンスが付かなくなるため、支出を切り詰めざるを得なくなります。加えて、不安心理の高まりから、支出を控える動きが広がりました。その結果、世界の需要が瞬間的に蒸発するという表現が相応しいような事態、言わば、強烈な急性症状が起きました。その際、そうした危機の性格を反映して、需要蒸発の影響を最も受けたのは、資本財や耐久消費財でした。日本は自動車や電機、一般機械をはじめ正にそのような商品を最も得意としていましたから、大きな影響を受けた訳です。同様の事情から、今回、金融危機の震源地では全くなかったのにもかかわらず、日本だけでなく、韓国、台湾、シンガポールをはじめ、多くの東アジア諸国における危機直後の経済活動の落ち込みは世界で最も大きなものとなりました。

冒頭でも申し上げたように、世界経済は昨年春頃には下げ止まり、現在は回復の段階に入っています。ちなみに、IMFによる2010年の成長率見通しをみると、昨年4月は1.9%、10月は3.1%でしたが、今週公表された成長率見通しは3.9%となっており、時間が経過するにつれて上方に修正されています。その理由としては在庫調整の進展と各国の政府・中央銀行による様々な政策の効果が挙げられますが、この回復の過程をもう少し詳しくお話します。

今回の回復の主体は新興国ないし発展途上国であり、2010年の成長率に占めるこれらの国の寄与は7割にも上っています。一方、米欧などの先進国経済は、急激な収縮からは持ち直したものの、依然として自律回復力は弱い状態が続いています。そもそも、リーマンブラザーズ破綻をきっかけとして生じたパニックの根源には、バランスシート調整という構造的な問題がありました。2000年代半ばにかけて、欧米諸国を中心に、住宅価格などの資産価格が上昇し続けるとの楽観的な見通しのもとで、家計や企業は過大な借入を行い、積極的に消費や投資を行いました。金融機関は、こうした活動を支えるための資金を提供し、貸出を伸ばし続けました。ところが、資産価格が下落に転じると、このような動きが一気に逆回転をします。企業や家計は、資産価格バブルが発生している時期に膨らみ過ぎた負債を圧縮するため、消費や投資を切り詰めることを余儀なくされます。負債を圧縮する動きは、経済全体の需要の縮小や資産価格の下落をもたらします。金融機関も、拡大し過ぎた資産や抱え過ぎたリスクと自己資本とのバランス回復に取り組むことを余儀なくされます。その過程では、新たな融資対応など、前向きにリスクをとっていく活動はどうしても抑制されます。バランスシートを修復する作業は、世界経済が持続可能な成長経路に復帰していくために避けては通れないプロセスですが、その間は、経済に対し、下押し圧力がかかり続けることを認識する必要があります。リーマン・ショック後の急激な落ち込みという「急性症状」との対比で言えば、バランスシート調整は経済に「慢性症状」をもたらすものです。

これに対し、新興国・資源国経済は、予想を超えて急速に回復しています。新興国・資源国の急速な景気回復については、主として3つの理由が考えられます。

第一に、人口が増加する中で、生活水準向上に伴う消費活動の活発化や社会インフラ整備の必要性など、もともと内需の潜在的な力が強いことが挙げられます。中国が典型的ですが、テレビや自動車といった耐久消費財に対する需要は非常に強いものがあります。また、道路や電力施設といった社会インフラも、人口に比べて整備が遅れている状態にあります。これらの社会インフラが整備されてくれば、益々、自動車や電化製品などの需要も高まる可能性を秘めています。

第二に、新興国・資源国においても、今回の危機に対応するため、積極的な景気対策を実施したことが挙げられます。新興国・資源国の場合、先進国と異なり、バランスシート調整の問題を抱えていなかったうえ、もともと潜在的な需要が旺盛であるため、その分、財政刺激の乗数効果も大きなものとなったと考えられます。

第三に、先進国内では十分な投資機会を見出せないリスク・テイクの資金が新興国・資源国に大量に流入していることが挙げられます。このため、新興国・資源国では、国内の銀行貸出の増加や不動産価格の上昇などを通じて、経済の回復が後押されています。こうした動きは、多くの新興国・資源国で、ドルに連動した固定的な為替政策が採用されていることによっても加速されています。しかし、緩和的な金融環境が長く続き過ぎると、新興国・資源国経済の過熱や金融の混乱をもたらしたり、将来、資本流入の動きが逆方向に向かうことによって、その後の景気の落ち込みを招く可能性があります。このため、これらの国では、既に政策金利の引き上げなど金融政策の面で対応をとる動きも出始めています。

先行きの見通し

以上、リーマン破綻後の世界経済の急速な落ち込みと回復のメカニズムを駆け足で振り返りましたが、先行きを見通す上で大きな論点のひとつは、今回の回復過程で大きな役割を果たした金融政策と財政政策をどのように評価するかということです。

今回の景気回復の過程で中央銀行の様々な政策措置は大きな効果を発揮しました。主要国の政策金利は一昨年末時点で実質ゼロ金利に到達し、既に引き下げ余地を失っていましたが、各種の異例の措置の結果、危機時に跳ね上がった信用スプレッドが大幅に縮小し、資金の調達可能性(アベイラビリティ)も回復しました。言い換えると、中央銀行が金融市場に資金を供給する際の政策金利自体は下限で張り付いていても、金融市場の安定化を促すことを通じて、金融緩和が実質的に強化されました。

金融緩和政策に関してもうひとつ申し上げたいことは、先進国の金融緩和政策は、以前と比較すると、自国内というより、域外、なかでも新興国でその効果を発揮する面が大きかったということです。金融緩和政策の効果波及のメカニズムについては、教科書的には、金利低下による銀行貸出の増加、国内設備投資の増加や為替レート減価による輸出増加等が挙げられます。しかし、金融市場のグローバル化の進展とともに、金融緩和政策の効果波及のメカニズムも変化しています。今回は、先進国がバランスシート調整の問題を抱えていることもあって、新興国の景気回復とそれを通じる輸出や国内設備投資の活発化という経路が重要になっているのかもしれません。

マクロ経済政策という点では、財政政策の役割も重要でした。リーマンブラザーズの破綻以降、経済・金融の急激な収縮に対応して、各国政府は金融機関に対し公的資本を注入すると同時に、財政面から大規模な景気刺激策を講じました。政府によるこのような大規模な政策介入は、金融システムの安定を維持し、経済活動の大幅な落ち込みを防ぐために必要不可欠の措置でした。実際、これらの措置は、所期の目的を達成しつつありますが、同時に、財政赤字は拡大し、政府債務残高は著しく増大しました。比喩的に言えば、今回の危機において、政府は民間のリスクや債務を肩代わりした訳ですが、経済や金融市場が安定を取り戻すにつれ、国際金融市場の参加者は、政府の取ったリスクやそれに伴う問題、すなわち財政赤字や財政規律の問題にも大きな関心を払うようになってきています。この点で興味深いのは、FRBが昨年3月から10月まで行った国債の買入れです。FRBは、実施に当っては、この買入れが中央銀行による財政ファイナンスや長期金利の特定水準への誘導を目的としたものでないことを繰り返し強調していました。FRBによる買入れ規模は日銀の国債買入れと比較すると、経済規模との対比では日本よりもはるかに少ないものであったにもかかわらず、中央銀行として通貨コントロールへの信認確保をそれだけ重視していたように思われます。

いずれにせよ、このような難しい状況の下で、どのような金融・財政政策が望ましいかは、最終的には各国がそれぞれに経済・金融情勢に応じて自ら判断すべき性格のものです。基本的な政策運営のスタンスという点でいうと、現在、先進国は景気回復を優先し、新興国は徐々に景気過熱への配慮も行いつつあるという構図です。いずれにせよ、重要なことは世界経済が全体として持続性のある成長軌道に復帰することです。そうした問題意識をしっかりと持った上で、各国政策当局は自らの政策運営に対する信認をしっかりと維持しながら、適切な政策運営を行う必要があります。

3. わが国の景気・物価動向

以上述べた世界経済の姿を踏まえた上で、次に、わが国の景気と物価の動向についてお話します。

まず最初に景気動向ですが、わが国の景気が現在、どのような状況に位置しているのかを確認しましょう。鉱工業生産指数はこの間の景気の変動を最も端的に表しています。リーマン・ショック直前を表す時期として2008年第3四半期をとり、この時期の水準を100とすると、鉱工業生産指数は昨年2月に66まで落ち込みました。落ち込みが特に大きかったのは、自動車や電子部品等の業種でした。その後、生産は昨年3月からは増加に転じ、直近の12月は86となっています。鉱工業生産指数がカバーするのは基本的に製造業であり、製造業は経済全体の約20%をカバーするに過ぎませんので、景気全体という意味では、実質GDPの動きをみる必要があります。実質GDPは一昨年第4四半期、昨年第1四半期と年率10%という急激な落ち込みとなった後、昨年第2四半期以降は平均すると2%のプラスとなっています。民間の見通しでは、第4四半期は、同程度のプラスが見込まれています。実質GDPの水準でいうと、リーマン・ショック直前の水準を100とすると、昨年第4四半期の水準は95程度と見込まれます。

こうした景気持ち直しの動きを最終需要の項目に即して言うと、輸出は、昨年の第2四半期、第3四半期ともに前期比で10%を超える拡大となり、第4四半期も9%程度拡大しましたが、このうち半分以上は東アジア向けでした。個人消費も、ボーナスの減少など厳しい雇用・所得環境が続いていますが、各種対策の効果などから、自動車や家電といった耐久消費財を中心に持ち直しています。設備投資も一昨年の第2四半期以降連続して減少した後、下げ止まりつつあります。企業の中には、需要拡大が見込める新興国市場へ投資をシフトすることを検討している先が少なくありませんが、既に設備投資の水準が相当下がっているだけに、輸出や生産の増加が続けば、稼働率の上昇に伴い、設備投資は下げ止まりから増加に転じていくとみられます。住宅投資も、このところ、下げ止まりの動きがみられています。一方、公共投資は頭打ちとなりつつあります。このような点検を踏まえ、わが国の景気については、持ち直していると判断しています。ただし、景気持ち直しの動きは、内外における各種対策の効果を反映したものであり、国内民間需要の自律的回復力はなお弱いと判断しています。また、このところの景気持ち直しが製造業を中心としたものであるだけに、それらの企業が集積している地域とそれ以外の地域では、バラツキがみられます。また、企業規模による違いも大きく、大企業と中小企業、さらに零細企業との間でも状況は異なっています。

問題は景気の先行きですが、中心的な見通しとしては、海外経済の改善と経済対策の効果を背景に、景気は引き続き持ち直していくと判断しています。ただし、世界経済の回復ペースが緩やかなものに止まり、国内でも、雇用・賃金面の調整圧力が残ることから、2010年度半ば頃までは、わが国経済の持ち直しのペースも緩やかなものとなる可能性が高いと考えています。その後は、米欧のバランスシート調整が相応に進捗し、国内でも、輸出を起点とする企業部門の好転が家計部門に波及してくると予想されます。このため、2011年度には、わが国の成長率は明確に高まる見通しです。数字で言うと、2010年度の成長率見通しを1%程度、2011年度の成長率を2%程度と予想しています。ただし、今申し上げた中心的な見通しについても様々な不確実性があることは十分認識しているので、日本銀行としては今後とも予断を持つことなく景気の動向を点検していきたいと思っています。

次に、わが国の物価についてお話します。いわゆる「デフレ問題」については、後程、詳しく述べる予定にしているので、取り敢えず、ここでは計数に即してお話をします。一昨年以降、わが国の消費者物価は、石油製品など国際商品市況に関連した品目の価格変動を主因に、大きく上下する展開を辿りました。生鮮食品を除いた消費者物価の前年比上昇率は、一昨年夏にプラス2.4%まで上昇した後、一転して縮小傾向を辿り、昨年の8月には、前年における石油製品価格高騰の反動などから過去最大の下落幅となるマイナス2.4%を記録しました。その後、石油製品価格下落の影響が薄れてきたことから、下落幅は縮小してきており、直近の12月はマイナス1.3%となっています。

先行きですが、景気の持ち直しとともに需給バランスが徐々に改善することを主因に、消費者物価の前年比下落幅は、引き続き縮小していくと考えています。ただし、出発点としての需要不足がかつてないほど大きく、先行きの景気回復のペースも緩やかなものになると見込まれるため、物価の下落圧力は、ある程度長い期間に亘って残ると思われ、今週初に公表した我々の見通しでは、2010年度はマイナス0.5%程度、2011年度はマイナス0.2%前後となっています。

4. 金融政策運営の考え方

次に、以上の内外の経済・物価情勢を踏まえた日本銀行の金融政策運営の考え方についてお話します。

先ほど、世界経済の落ち込みの原因として、金融危機を直接の契機とする急性症状とバランスシート調整を背景とする慢性症状という2つの要因があると指摘をしました。日本も含め世界各国の政策対応も、この2つに対して行われてきたといえます。

まず、急性症状については、多くの中央銀行では、金融危機の悪化を防ぎ、民間経済活動に必要な金融の流れを確保するため、市場機能が壊れた金融市場に的を絞って特定の金融資産を買入れるなどの措置を実施し、市場機能の回復に努めました。日本銀行も、CPや社債の買入れなど中央銀行としては異例の措置を講じました。なお、この点に関連して、日銀に比べて米国FRBのバランスシートの増加率が大きいことを理由に、日銀は積極姿勢が足りないという批判が時々聞かれます。しかし、これは全くの誤解です。FRBのバランスシートの大幅な拡大は、資金調達の約7割を占める資本市場の機能が極端に低下し、中央銀行が全面的に市場を肩代わりするしかないという不幸な状況に立ち至ったことを端的に表しています。これに対し、日本の場合は、社債やCP市場の機能が低下したとはいえ、それでも欧米に比べると、金融システムは相対的に安定性を維持することが出来ました。これは1990年代後半以降の苦い経験を経て様々な努力を積み重ねたことの成果でもあります。このため、日本銀行のバランスシートはFRBほどには拡大することはありませんでした。日本銀行のバランスシートの規模は、今回というより、むしろもっと早くから、大きく拡大していました。いずれにせよ、各国中央銀行の異例の対応の結果、金融市場は安定を取り戻してきました。このため、各国の中央銀行は、金融市場の改善状況を踏まえ、各種の危機対応については、昨年夏以降、順次終了させつつあります。わが国においても、CPや社債市場の機能が回復したことから、CP・社債の買入れについては昨年末に完了しました。もっとも、いつも述べているように、今後、金融市場の安定が損なわれることが懸念される可能性が出てきた場合、日本銀行は金融市場の安定を確保するために、迅速・果断に行動する態勢を整えていることを申し上げたいと思います。

現在、政策運営の主要な課題は、金融危機への対応という段階が終わったことから、経済をどのようにして持続的成長経路に移行させていくかということに移っています。日本銀行は、一昨年末に、政策金利を0.1%という実質的にゼロ金利といってよい水準まで引き下げましたが、先ほど述べたような経済・物価見通しの下では、きわめて緩和的な金融環境を維持していくことが必要であると考えています。12月初めには、金融緩和の一段の強化を図るために、新型のオペ手段を導入しました。これは、国債や社債など幅広い担保を使える共通担保資金供給オペという従来からある仕組みを利用しつつ、政策金利と同じ0.1%という超低金利で、やや長めの資金を短期金融市場に潤沢に供給するというものです。

日本銀行としては、日本経済がデフレから脱却し、物価安定のもとでの持続的成長経路に復帰することが極めて重要な課題であると認識しています。そのために、今後とも、中央銀行としての貢献を粘り強く続けていく方針です。

5. 「デフレ問題」と持続的成長の実現

最後に、いわゆる「デフレ問題」についてお話します。最近は様々な経済現象がデフレと結び付けて議論されることが増えています。それだけにデフレの原因を正確に理解することが極めて重要です。

物価上昇率は、90年代以降、世界的に低下してきました。その背景としては、物価安定を目的とした中央銀行による金融政策が成功したことに加え、計画経済諸国が市場経済に移行し、コストが大幅に低下したことが挙げられます。ただ、現在活発に議論されていることは、そうした一般的な物価の低下傾向ではなく、日本の物価上昇率は何故、他の先進国に比べて低いのかということです。実際、日本の消費者物価上昇率は、1980年代後半のバブル期においても、他の先進国に比べて2〜3%低い状態でした。長期間に亘って物価上昇率が低い理由としては3つ挙げられます。

第一に、流通の合理化と規制緩和です。今となっては、余り聞かれなくなりましたが、80年代から90年代半ばにかけては、日本の物価高、すなわち内外価格差の是正が日本経済の問題として常に指摘されていました。これを解消する方法として、流通合理化や規制緩和が行われてきました。流通合理化は、グローバル経済の拡大とも相俟って、安値輸入品の拡大に繋がりました。また、規制緩和は、それまで規制で保護されていた業種・企業のマージンを低下させました。これらはいずれも競争圧力に晒される企業にとっては大変厳しい事態でしたが、消費者からみると実質的な購買力の増加であり、日本経済全体としては生産性の上昇を意味するものでした。

第二に、90年代後半以降、賃金が持続的に下落したことが挙げられます。バブル経済崩壊以降、日本経済は厳しい調整過程を余儀なくされましたが、労働市場の状況をマクロ的に捉えると、90年代後半以降、日本では企業経営者と労働者が雇用の確保を優先し、そのために、労働者は賃金の引き下げを受け入れたと言えます。日本の消費者物価を他の先進国と比較すると、サービスの下落が目立ちます。賃金の伸縮的な調整は失業増加を防ぐという観点からは有効でしたが、その対価として、労働集約的なサービスの価格には恒常的な下押し圧力がかかることになりました。

第三に、そしてこれが一番重要だと思いますが、将来の成長期待が低下していることが挙げられます。こうした成長期待の低下は、少子高齢化の進展や人口減少によって更に拍車がかかりました。成長期待の低下は、企業部門における投資活動を抑制したほか、家計部門では、将来所得に対する不安を高め、個人消費を抑制する要因となりました。こうした企業や家計の支出活動の萎縮は、マクロの需給環境を更に悪化させ、それが更に成長期待の低下に繋がるという悪循環を招いたと考えられます。先ほど述べた賃金の低下も、結局のところ、根本では、成長期待の低下による需要不足に原因があります。

いずれにせよ、デフレの根本原因は需要不足です。この需要不足を解消するためには、どのようにすれば良いでしょうか。この点に関しては、需給ギャップを解消するだけの需要喚起策の必要性が指摘されることがあります。しかし、需給ギャップは、あくまでも既存のニーズに基づく財・サービスの需要と、そうしたニーズを満たす財・サービスの供給能力を比較したものです。しかし、未曾有の世界的なバブルが崩壊した今日、従来と同じ財・サービスの供給能力を埋めるだけの需要が生まれてくることは期待できません。一方で、医療や介護をはじめ、潜在的なニーズは決して小さくありません。問題は潜在的なニーズを現実の需要に変換する努力です。これを実現するのが、企業家、イノベーターです。デフレ対策に関しては、かつては「中央銀行がバランスシートを拡張しさえすればデフレは止まる」という主張がなされることもありました。しかし、量的緩和政策を採用していた2000年代前半の日銀も、また、2007年以降の米国FRBもバランスシートは随分と拡張しましたが、それに見合って物価が上がることはありませんでした。このような経験から、欧米では、「中央銀行がバランスシートを拡張しさえすればデフレは止まる」という議論は、最近ではあまり聞かれなくなりました。はっきりしていることは、金融システムが不安定化の危険に晒されている時は、中央銀行のバランスシートの拡大、流動性の供給は、金融システムの安定を確保することを通じて物価のスパイラル的下落を防ぐ上で極めて効果的であるということです。現に日本銀行はそのように行動しました。しかし、一旦、金融システム不安の状況を脱した後は、流動性の増加だけでデフレが解消される訳ではありません。我々はデフレの根本的な原因を直視する必要があります。

物価は、しばしば経済の体温に例えられます。体温だけを人為的に長期間にわたって引き上げることは可能ではありません。基調的に体温が上がるためには、それ相応の体質改善や、場合によっては、適切な治療も必要です。同じことは、デフレ問題への対応についても言えます。重要なことは、緩やかではあるが趨勢的な物価の下落傾向に歯止めをかけるために、趨勢的な成長期待を高めること、言い換えると、生産性の向上に地道に取り組むことが不可欠であるという基本認識を持ち、その上で、この課題にしっかり取り組むことだと思います。

この点に関しては、決して「魔法の杖」がある訳ではありません。以下では、デフレから脱却し持続的成長を実現する上で重要と考えられる2つの基本的な方向性を指摘したいと思います。

第一に、グローバル需要、とりわけ高い成長が見込める新興国・途上国の需要を積極的に取り込んでいくことの重要性です。現在、中国の自動車普及率は4%程度ですが、これは丁度、日本のモータリゼーションが本格的に始まった1960年代前半の水準にほぼ相当します。因みに、日本の場合、自動車普及率は、その後30年かかって50%に達しました。勿論、新興国の成長の道のりは決して平坦ではないと思いますが、多くの人が意識するように、潜在的な市場拡大のチャンスは大きいように思います。いずれにせよ、グローバル化が着実に進展している下では、外需と内需を対立概念として捉えることは適当ではありません。グローバル経済の成長の果実を取り込むことと、国内需要が拡大する基盤を整えることは、ともに重要であることを強調したいと思います。

第二には、潜在的な需要に対応する供給体制を作り上げ、生産性の上昇を図っていくことです。先程述べた通り、新興国・途上国という拡大する新市場の需要を取り込んでいくためには、それぞれの市場の特性を踏まえて、供給する財や供給体制を変えていく必要があります。潜在的な需要に合った財やサービスを供給できるようになれば、売上は拡大し、結果的に生産性は向上していくことになります。「生産性」を議論する場合、既存の商品を効率よく生産することを意味することが多いのですが、潜在的な需要を発掘し、そのための供給体制を整えることも、生産性の上昇につながることになります。大事なことは、潜在的なニーズを現実の需要に繋げていくため、既存の経営資源や人を、新たな市場に適合するように変化させていく企業努力です。さらに、そうした企業レベルの取り組みを後押しするため、内外の経済環境の変化に応じて、わが国の経済構造の柔軟性を確保できるように、制度や仕組みを見直していくことが極めて重要です。ちなみに、わが国における廃業率や開業率は、米国の約半分程度の5%程度に止まっており、経済の新陳代謝が低い状況にあります。本日は時間の関係もあり詳しくはお話しませんが、こうした現状を改善し、生産資源がニーズの高い分野に円滑に移動できるような仕組みを整えるためには、金融市場の役割も重要ですし、その過程で生じる負の影響に対処するための社会的なセーフティーネットを用意することも重要です。

以上、日本経済の潜在成長率を引き上げるために重要と考えられる2つの方向性について申し上げました。過去のわが国の経済を振り返ると、困難な時期においても、人々の知恵と努力によって難題を克服し、繁栄を築き上げてきた実績があります。日本経済を真に持続的成長経路に復帰させるためには、ただ今申し上げたような主体的な取り組みが不可欠です。これを実際に実行に移す過程では痛みも伴いますが、世界的な規模で経済が大きく変化している以上、避けて通れない道です。その際、最近やや気懸かりなことは日本経済の強みを強みとして認識しない「気分としての悲観主義」とも言うべき傾向がみられることです。例えば、先ほども触れたように、今回、日本の金融システムは相対的に安定性を維持しましたが、この事実は過小評価されているように感じます。新興国経済の成長についても、これを脅威とのみ捉えるのはバランスを欠いています。仮にかつての高度成長期の入り口に差し掛かった日本と同じようなテンポで中国やインドでモータリゼーションが進行するとすれば、現在地球上に存在する自動車よりも多くの自動車が生産される計算になります。その場合、地球環境への負荷は非常に大きくなりますが、このことは、それだけ、日本の得意とする環境技術への需要も高まることも意味します。勿論、日本の環境技術についても決して安閑としてはいられないと思いますが、新興国経済の成長を前向きに捉えるチャレンジ精神を忘れないことが重要だと思います。

6. おわりに

以上、日本経済が抱える様々な課題についてお話をしてきましたが、日本銀行としても、皆様方のこうしたご努力を、中央銀行の立場から全力を挙げて支援していきたいと考えています。中央銀行は様々な仕事をしていますが、最も根源的な役割は何かと問われれば、通貨の信認を維持することを通じて経済の発展に貢献することです。私としてはこの「信認」という錨、アンカーの重要性を改めて強調したいと思います。そうした役割を果たすためには、日本銀行は的確な情勢判断を行い、その判断を国民に説明し、その上で、果断に行動する組織でなければならないと思っています。その意味で、日本銀行の果たすべき役割は大きいと自覚していることを最後に強調して、私の話しを終えたいと思います。

本日は、ご清聴有り難うございました。

以上