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【講演】先進国と新興国:異なる速度での景気回復

Bauhinia Foundation Research Centreにおける講演の邦訳

日本銀行総裁 白川 方明
2010年11月23日

目次

1. はじめに

本日は、美しく活気溢れる香港において講演する貴重な機会をいただき、大変光栄に存じます。講演の場を提供して下さったBauhinia Foundation Research Centre および会長のAnthony Wu氏に対して、心よりお礼を申し上げます。

香港と言えば最大の産業は金融ですが、皆さんは金融面での香港と日本との関係は、香港が近代史に登場して間もない時期から始まっていることをご存知でしょうか。日本は明治政府設立の3年後にあたる1871年に近代的貨幣の鋳造を開始しましたが、当時、香港銀貨と同重量・同品位の銀貨を製造するため、旧英国香港造幣局から機械を譲り受け、技術者を招きました。日本の通貨単位である「円」という名称の起源については諸説ありますが、この香港銀貨の「壱圓」という名称を採用したという説もあります(図表1)。金融機関の交流も早い時期から始まっていました。1865年に当地で設立された香港上海銀行は、翌1866年には横浜に支店を設立し、日本の貿易金融の発展に大きな役割を果たしました。その香港上海銀行をモデルに設立されたとも言われている横浜正金銀行は、1896年に香港に出張所を開設しています。

香港と日本の繋がりは只今触れた金融の面だけでなく、財・サービスの貿易面でも強固です。香港は現在、日本からみて第5位の輸出相手先です(図表 2)。それも工業製品に限られるものではありません。信じられないかもしれませんが、香港は人口1千万人にも満たないにもかかわらず、日本の農林水産物の輸出先としては第1位となっています。この中には、中国など他地域向けに再輸出されているものもあるでしょう。ただ、香港在住のグルメ家の間で、日本の高級果物の人気が非常に高いのも事実です。

日本銀行も香港とは長い関係を有しています。日本銀行は1957年、アジア地域の経済動向を的確に把握するため、香港事務所を設立しました(図表 3)。それ以来、香港事務所のスタッフは、例えば1997年に生じたアジア通貨危機の動向など、香港や東アジアの金融経済情勢に関する興味深いレポートを本店に送り続けています。香港金融管理局(Hong Kong Monetary Authority)とも良好な関係を有しており、私自身、本日の講演に当たり、親しい友人のNorman Chan長官の助言も仰ぎました。

それでは、そろそろ本論に入りたいと思いますが、本日は「先進国と新興国:異なる速度での景気回復(two-speed recovery)」と題して、主として世界経済の先行き見通しについてお話します。あまり多くの時間は割けませんが、アジア経済と日本経済の発展という観点から、幾つかの課題についてもお話したいと考えています。

2.世界経済の現状

まず、世界経済の現状から話を始めたいと思います。世界経済は、リーマン・ショック後の急速な落ち込みから脱却した後、緩やかに回復しています。現在の状況は、今や言い古された言葉ではありますが、「異なる速度での景気回復」という言葉が最も的確に表しているように思います。10月に公表された IMFの世界経済見通しによれば、世界経済の成長率は、2009年は▲0.6%の後、2010年は+4.8%、2011年は+4.2%となっています(図表4)が、このうち、新興国・資源国の寄与率は70%程度に達しています。特にアジア新興経済の成長は際立っており、正に世界の成長センターとして危機後の世界経済の回復の大きな牽引役となっていると言えます1

この間、日本経済も、アジア新興経済の成長から大きな恩恵を受けてきました。日本の輸出は、金融危機の発生を受けて、08年末から09年初にかけて大幅に落ち込みましたが、09年春以降は、中国、ASEAN、およびその他主要アジア諸国向けを中心に大きく増加に転じました(図表5)。日本経済は先進国の中では最も早いスピードで回復を遂げてきましたが、その一つの大きな理由は、アジア向け輸出の大幅な増加でした。

それでは、今後の世界経済の動向についてはどのようにみるべきでしょうか。世界経済の先行きは不確実性に満ちていますが、見通しに当たっては、私は以下の3つのポイントを特に重視しています。

第1のポイントは先進国経済、とりわけバランスシート調整の進捗度合いの評価です。2000年代半ばにかけての信用バブルは、特に米国および英国経済において、非常に大規模なものでした。それだけに、回復にはある程度の時間がかかります。それに加えて、先進国のマクロ経済政策の有効性をどのように評価するかも重要なポイントです。金融政策にしても財政政策にしても展開の余地が既に非常に限られています。そのような状況の下で、先進国経済はいつどの程度の強さをもって本格的な回復軌道に乗るのでしょうか。

第2のポイントは新興国経済の成長見通しです。新興国経済の成長ポテンシャルは非常に大きいように思えますが、政策対応を誤ると、バブルに陥る危険性も排除出来ません。また、差し迫った課題という訳ではありませんが、やや長い目で見ると、高度成長から成熟経済への円滑な移行は、新興国経済にとって、いずれ重要な政策課題になってきます。

第3のポイントは、上述の2つのポイントの交差する論点ですが、「異なる速度での景気回復」であることによって生じる資本フローや為替レートを巡る問題、分かりやすい言葉で言えば、通貨を巡る対立(currency conflict)の問題です。

  • 1 IMF “World Economic Outlook,” October 2010。なお、ここでのアジア新興経済の定義は、中国、インド、韓国、台湾、香港、シンガポール、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、ベトナムの11か国。

3.日本経済の経験から得られる視点

ところで、この3つのポイントを検討する際、日本の過去数十年間の経験は色々なヒントを提供しています。過去数か月間における経済政策論議で最大の話題はFRBの大規模な資産買い入れであったと思います。この間、エコノミストや政策当局者の論評を読むと、「『日本型デフレ』や日本の『失われた10 年』を回避する」といった表現にしばしば出くわしました。因みに、グーグルで「日本型デフレ」をキーワードに検索すると、本年7月以降11月半ばまでのヒット件数は約100万件と、年前半の約40万件から急増しています。日本の経験への関心は、デフレや「失われた10年」だけではありません。中国の友人達と話をしていると、日本の高度成長期やプラザ合意以降の経験を実に詳細に研究していることに驚かされます。

そこで、日本の経験も踏まえながら、上述の3つのポイントについて私の考えを述べてみたいと思います。

先進国のバランスシート調整と積極的な金融緩和

まず、先進国、とりわけ米国のバランスシートの調整ないし修復の問題です。このバランスシート調整は正に日本がバブル崩壊後、苦しんだ問題です。日本のバブル崩壊後の実質GDP成長率の推移をみると、1990年代は年平均+1.5%と、1980年代の+4.4%から大きく低下しました(図表6)。 2000年代に入ってからは、2007年までは平均+1.7%と幾分持ち直しましたが、リーマン・ショックによって大きく落ち込み、2000年代平均の実質GDP成長率は+0.7%となりました。物価上昇率についてみると、1998年以降、消費者物価は緩やかな下落基調にあります(図表7)。このように、近年の日本の経済パフォーマンスは芳しいものではなく、これが米国でしばしば「日本の失敗を繰り返さない」といった議論が行なわれる所以です。しかし、そうした議論を聞いていると、日本の経験やその教訓を誤って解釈(misread)しているのではないかと感じることもあります。

私の理解するところ、日本の成長率の低下は以下の3つの理由によるものです。

第1の理由は、バブル崩壊の直接的な影響です。バブル生成期には将来への楽観論が強まる下で、企業は設備と雇用を拡張し、債務を増加させましたが、バブル崩壊後に残ったのは、いわゆる「3つの過剰」、すなわち、過剰な設備、雇用、債務でした。そして、「過剰」が残存する限り、経済には下押し圧力がかかり続けます。日本が本格的な回復軌道に復帰したのは、「3つの過剰」が解消した2003年のことでした(図表8)。

第2の理由は、1980年代後半から1990年代にかけて世界規模で起こった規制緩和、グローバリゼーション、情報通信技術革命といった大きな潮流の変化に対して、日本企業がうまく適合できなかったことです。この時期、世界の市場は統合の度合いを強め、生産工程の世界的規模での分業も拡がりました。海外の企業は生産拠点や販売チャネルを最適に配置して付加価値を生み出す一方、アウトソーシングをコスト削減に効果的に活用しました。これに対し、日本の企業は、中央で集中制御を行い、チームで対応する一括生産管理方式が主流でしたので、こうした環境変化への対応は大きな挑戦となりました。日本の産業モデルは終身雇用制度の下での技術力の高い国内労働者によって支えられてきました。しかし、日本の企業は、過去の成功の記憶に囚われ、グローバル経済に生じた大きな変化への対応が遅れました。

第3の理由は、高齢化や人口減少の影響です(図表9)。人口動態の変化が経済に与える影響のルートは様々ですが、他の条件が同一であれば、人口が減少すれば、当然のことながら、国内需要は縮小します。供給面でも、労働供給の減少は成長率を引き下げます。日本は急速な高齢化の結果、生産年齢人口の伸び率は1995年にマイナスに転じ、2009年は前年比▲0.9%の減少となっています。人口減少は、現役世代の財政負担も増加させます。

「失われた10年」の議論とも関連しますが、しばしば取上げられるデフレの危険についてはどのように考えるべきでしょうか。確かに、日本は緩やかな物価下落—10年間の累計で3%程度—を経験しました。しかし、デフレを恐れる最大の理由であるデフレ・スパイラル、すなわち、物価の下落が経済活動の低下をもたらし、これがさらに物価の下落をもたらすという現象は生じませんでした。一方、2002年から2007年にかけての景気回復は決して目覚しいものではありませんでしたが、長さという点では戦後最長でした。香港も近年物価の上昇と下落を経験しましたが、デフレの問題は経済の構造、特に賃金設定から切り離して議論することは適切でありません。日本と他の先進国の消費者物価上昇率を比較すると、上昇率の違いは、専らサービス価格の動きの違いによるものです(図表10)。日本では、物価上昇率が低下するにつれ、賃金がより伸縮的に設定されるようになりました。そうした賃金の伸縮性は、賞与の削減や非正規労働者の採用というルートだけでなく、正規労働者の所定内賃金が下方に伸縮的に調整されることによっても実現されました。サービス業は財の生産に比べると労働集約的であるため、そうした名目賃金の伸縮的な調整はサービス価格の下落という形でデフレの原因ともなりました。日本は、1990年代後半以降、企業経営者と労働者が雇用の確保を優先し、そのために、労働者は賃金の引き下げを受け入れたといえます。日本の失業率は現在5.0%と、米欧諸国に比べて失業率の上昇幅ははるかに小幅でしたが、その裏側の事実は賃金の下落であり、緩やかなデフレでもありました。

以上の議論を現在の米国経済へのインプリケーションも意識しながら、要約しましょう。

第1に、大規模なバブル崩壊を経験した経済が本格的に回復するにはバランスシート調整の完了が必要であり、それ故、長い時間がかかります。この点、現在の米国経済をみると、バランスシートの修復というプロセスはもうしばらく続くように見えます。積極的な金融政策はバランスシート調整中の痛みを軽減する効果はありますが、バランスシート調整の必要性自体を帳消しにするものではありません。

第2に、バランスシート調整の進行中にあっても、経済の供給面の重要性への配慮を忘れないようにすることも重要です。需要の急激な落ち込みを防ぐ上で、緩和的な金融政策は重要ですが、低金利の持続は新陳代謝を不活発化することによって、生産性の上昇を阻害する可能性もあります。やや長い目でみれば、経済成長率の基調は供給サイドの要因、すなわち、労働力人口と生産性によって決まってきます。この点、米国は日本よりも経済構造が柔軟であること、また、人口増加率が+1%程度と日本のバブル崩壊後に比べて高いことは、強みとして指摘できるように思います。ただし、バブル崩壊後の長引く経済低迷の中では、社会の不満が高まる結果、長い目でみて効率性に悪影響を与える政策が採られがちです。潜在成長率の低下傾向に歯止めをかけることは、どの国にとっても決して容易なことではありませんが、それに成功するかどうかが「失われた10年」と呼ばれる事態を避ける大きな鍵を握っているように思います。

新興国の高度成長はどれ位長期間続きうるか?

以上、先行きの世界経済を見通す第1のポイントである先進国経済のバランスシート調整について論じましたが、第2のポイントは、新興国の経済成長の持続可能性です。近年の新興国の成長は目覚しいものがあります。過去10年間における世界経済およびBRICs経済の成長率を機械的に引き伸ばすと、 2040年には世界経済に占めるBRICs諸国のシェアが8割を超える計算になりますが、そうしたことは勿論考えられません。高度成長を続ける経済もいずれかの時点で必ず成熟期を迎えます。ここで、日本のかつての高度成長と近年の中国の成長について簡単な比較をしてみようと思います。大雑把に言えば、現在、人口では中国は日本の10倍、一人当たり名目所得では日本の1/10、その結果、両国の名目GDPはほぼ同じ大きさという計算になります。日本の高度成長期は、1950年代の中頃に始まり1970年代初頭に終わりました。この15年間の成長率は年平均で約+10%に達しました(図表11)。一方、中国の高成長は1990年代初頭に始まり、最初の15年間の成長率は日本とほぼ同じです。違いは、中国はその後も均してみると+10%を超える高い成長を続けているということです。高度成長局面では、農村からの労働供給が一つの大きな鍵を握ります。この観点から、日本と中国の都市人口比率を比較しますと、現在の中国の水準は概ね日本の高度成長期にあたる1960年代頃に相当しています2。所得水準の向上に伴う消費ブームという観点から自動車の普及率を比較すると、やはり中国は日本の1960年代に相当しています。このような単純な比較論だけからすると、中国経済は今後ともまだまだ高成長を続ける可能性が高いと思います。

ただし、高成長を続けるための一つの重要な前提条件はバブルを防ぐことです。この点は中国の政策当局者にも十分に意識されています。私は日本の1980年代後半におけるバブル発生は以下のような要因が複雑に絡み合って起きた現象だと思っています。

第1は、日本全体を覆った過剰な自信です。日本は1970年代初頭には高度成長が終わり、その後徐々に成長率は低下していきましたが、それでも 1980年代までは他の先進国に比べて圧倒的に高い成長率を維持していました。物価上昇率も低く、完全な優等生でした。冗談のように聞こえるかもしれませんが、1980年代後半には、東京都心部の土地価格でアメリカ全土が購入できるとの試算も行われました。そうした状況の下で、過剰な自信が生まれ、多くの経済主体の行動が著しく積極化しました。

第2は、金融の監督体制も十分ではなかったことです。金融機関の不動産、建設、ノンバンクへの融資は著しく増加しましたし、担保の評価も含め、審査基準は甘くなりました。その結果、金融機関のエクスポージャーは地価の変動に大きく左右されるポートフォリオとなりました。

第3は、長期にわたって継続した金融緩和です。ただし、単に金融緩和をバブルの原因として挙げるだけではあまり意味がありません。我々は、金融緩和が長期にわたって継続した社会的、経済的背景を深く掘り下げて考える必要があります。その一つの理由は、低いインフレ率が続いたことです。もう一つの理由は、日本は経常収支の黒字の圧縮に向けて強い対外的な圧力を受けていたことでした。経常収支の黒字を圧縮するためには内需の拡大が必要であり、そのために、緩和的な金融政策が必要という議論が強力に展開されました。好景気に転じた後においても、輸出企業を中心に、為替レートが円高に向かうことへの懸念がしばしば聞かれました。こうした幾つかの要因から、金融緩和の修正に対し強力な反論が展開されました。

以上の日本の経験に照らして、高成長を遂げている新興国がバブルの発生を防ぐ上で重要な教訓があるとすれば、以下の3点に集約されると思います。第1に、高度成長が続いても、自信過剰に陥らないよう、社会全体として常に自制心が必要です。第2に、金融の規制や監督が重要です。特に、バブルは毎回違った様相で生じることを踏まえると、経済全体としてのリスクの所在を的確に把握する、いわゆるマクロ・プルーデンスの観点に立った監督は極めて重要です。第3に、金融政策運営は、物価安定の下での持続的な経済成長を実現するという「国内経済の安定」を目的に運営する必要があります。為替レートや経常収支を金融政策の目的とすると、国内経済の安定が損なわれうることを、心に留めておかねばなりません。

  • 2 日本と中国の成長段階の比較については、例えば武藤・松永・上山・福本 [2010]、「最近における中国の不動産価格の上昇について」、日銀レビュー、No.10-J-3を参照。

「異なる速度での景気回復」下での金融資本市場動向

先行きの世界経済を見通す第3のポイントは、「異なる速度での景気回復」という状況の中での金融資本市場の問題です。現在、先進国は日本を含め、自国経済の回復を実現するために極めて緩和的な金融政策を行っています。他方、新興国は高い成長期待に加え、先進国と新興国の金利差の影響もあって、先進国からの資本流入が増加しています(図表12)。アジア新興国の株価をみると、多くの国で既往ピークの水準を更新しています(図表13)。不動産価格をみても、このところ上昇ペースが顕著であり、国際商品市況も上昇傾向にあります。資産価格の上昇という点では、香港もこの例外ではありません。

このような状況下、新興国サイドからは国内経済の過熱やバブル発生、さらには将来の資本流出の可能性から、先進国の金融緩和に対する懸念が表明されています。一方、先進国サイドからは新興国の為替レートが伸縮性を欠いており、これがグローバルな不均衡の拡大を通じて世界経済の持続的成長を脅かしているとして、懸念が表明されています。因みに、アジア新興国の外貨準備はリーマン・ショック後一旦小幅減少した後、大幅に増加しました(図表14)。

このような通貨を巡る問題に対して、どのように考えるべきでしょうか。教科書をみると、クリアカットな答えが用意されていますが、低金利通貨をファンデング・カレンシーとして高金利通貨の金融資産に投資するいわゆるキャリー・トレードを含め、近年我々が経験してきた様々なディレンマは教科書では十分には扱われていません。また、仮にクリアカットな答えがあったとしても、それに基づく政策を各国に強制する方法がない以上、現在直面している問題の解決には直ちには繋がりません。この問題については、教科書的な基本原則をしっかりと理解すること、教科書的な考え方だけでは十分ではないことを認識することの両方の重要性を強調したいと思います。

最初に、教科書的な基本原則を確認しますと、どの国の中央銀行も最終的に責任を有しているのは自国の物価と経済活動の安定に対してです。先進国であれ新興国であれ、中央銀行が自国の状況をみて金融緩和を強化したり、逆にその修正を図るのは当然かつ正当な行為です。為替レート変動との関連について言えば、自由な国際資本移動の下で、為替レートを固定すると、金融政策の自立性を失います。従って、もし新興国への資本流入が過熱を起こしているのであれば、為替レートの上昇を容認するか、国内の物価や経済活動に影響を与える程度に応じて、金融政策の引き締めを行えば良いというのが教科書に書かれている答えだと思います。

こうした原則は重要です。ただし、現在我々の手元にある教科書には、現在の経済における重要な現実—すなわち、ゼロ金利制約とバランスシート調整—は組み込まれていません。ゼロ金利制約に直面し、しかもバランスシート調整に晒されている経済主体が多い場合には、そうでない場合と比べて、金融緩和の効果は国内の主体を通じては発揮されにくくなり、むしろ、対外的なルート—資本流出や為替レートの下落—を通じて発揮されやすくなります。資本が流入する新興国の側では、近年、金融資本市場の成長は目覚しいものがあるとはいえ、市場の規模は先進国市場に比べるとなお小さく、流動性も低いのが実情です。このため、現地通貨建ての株式・債券市場にアンカバーの資本が大量に流入すると、為替レートの上昇と証券価格の上昇が同時に発生する傾向があり、為替差益と証券のキャピタルゲインの両方を狙った投機的資金の流入が自己実現的に加速しやすくなります。こうした過剰な資本流入によって国内の債券利回りが低下すると、国内の銀行貸出金利にも低下圧力がかかり、資産価格の上昇要因にもなります。為替レートの上昇を容認すれば資本流入を抑える効果は期待できますが、為替レート上昇によりインフレ圧力が抑えられ、物価が見かけ上安定していることを背景に低金利が長期化すると、国内景気の過熱やバブルを防げなくなることも考えられます。このことは、為替レート上昇も万能薬でないことを示唆しています。いずれにせよ、新興国がバブルとその崩壊を経験することになると、その影響は先進国にも跳ね返ってきます。

数年前、日本が量的緩和を実行していた頃、日本はアジア諸国から量的緩和がキャリー・トレードを促進しているとして、批判を受けることがありました。FRBが先般、大規模な資産買い入れプログラムを実行して以降、同じような議論がより活発に展開されています。先進国、新興国それぞれの議論に言い分はありますが、グローバル化した経済の下では、我々全員が同じボートに乗っていることを意識する必要があります。クリアカットな答えはありませんが、私は金融政策の実行に際して、各国が以下のようなアプローチの意義について了解することが大事だと思います。

第1は、先進国、新興国ともに、自国の経済、物価の安定を達成するということの意味を深く考えた上で、政策を実行することです。中央銀行にとって自国経済の安定が目標であることはいつの時代も変わりはありませんが、経済、金融のグローバル化を踏まえると、自国の緩和的な金融政策や為替レートの柔軟性の欠如が海外に及ぼす影響と、それが再び自らに跳ね返ってくる相乗作用も意識した上で、自国の経済、物価の安定を図ることが重要になっています。

第2は、プルーデンス政策の観点からの対応措置も重要となります。この点、HKMAにおいては、昨年来、不動産価格の急速な上昇に対して警鐘を鳴らし、LTV (Loan-to-Value) 比率の引き下げなど様々な政策を打ち出しています。こうしたマクロ・プルーデンス政策は、固定相場制を採用している香港にとっては、ひときわ重要だと思います。国内の経済の状況や金融市場の発展度合いに応じてマクロ・プルーデンス政策の手段を適切にデザインすることは、現在世界的に重要な検討課題となっています。

4.日本とアジア経済の発展

以上、世界経済の見通しを巡って話をして参りましたが、次に、話題を転じて、残り少なくなった時間で、アジア経済との関係を意識しながら、日本経済の動向について簡単にお話させて頂きます。

日本経済は、GDP成長率の趨勢的な低下に示されるように、多くの困難なチャレンジに直面しています。我々日本人は自らの行動を自省する傾向が強く、これ自体は美徳でもありますが、最近はそうした傾向がやや行き過ぎているようにも感じています。過度の楽観主義も悲観的主義も避ける必要があります。

そこで、まず日本経済の有している強みを強調することから、話を始めたいと思います。第1に、就業者一人当たりの実質GDP成長率、すなわち生産性上昇率をみますと、以前に比べて低下したとはいえ、現在でも米国に比べそれほど遜色はありません(図表15)。第2に、金融システムは健全です。2008 年秋のリーマン・ショックの時を振り返ってみても、金融システムは、米欧諸国に比べ、比較的安定していました(図表16)。第3に、技術水準が高いことです。例えば、日本は世界的にみても、トップレベルの環境技術を持ち合わせています。環境以外でも、日本は都市化の過程で、水道・道路・鉄道・港湾など、インフラ関連の高い技術力を有するようになっています。第4に、現在、世界で最も高成長を遂げている東アジア諸国と経済的・歴史的な繋がりが強く、地理的にも近いということです。近年の世界経済の経験は、グローバル化が叫ばれる時代であるにもかかわらず、距離の重要性を物語っています。

このような強みを強調した上で、多くのチャレンジに直面していることを申し上げなければなりません。我々日本人が最も深刻に受け止める必要があるチャレンジは、私は人口動態の変化への対応だと思っています。日本の労働力人口は、1990年代後半から減少に転じているほか、就業者数でみても、 1998年以降、減少基調に転じています。このような状況下、持続可能な財政バランスを確保すること、高齢者と女性の労働力化率を高めることが特に重要な課題であり、真剣に取り組む必要があると思います。

それと同時に、先ほど申し上げた潜在的強みを現実のものにする努力も不可欠です。この点では、アジアとの連携強化は非常に重要です。日本の東アジア向け輸出ウェイトをみると、1990年は30%、2000年は40%、そして、2009年には51%にまで上昇しています(図表17)。直接投資面でも、アジア向けのウェイトが着実に上昇してきています。このようにアジア諸国との関係は一段と深まっていますが、先般、政府が策定した「新成長戦略」においても、アジア経済戦略は重要な柱の1つとして位置付けられています。その一例として前述の環境技術を挙げてみたいと思います。日本もかつてはエネルギー効率が低く、資源価格の変動が実体経済の大きな振幅をもたらし、また、公害など深刻な環境問題を引き起こしました。こうした問題を克服するため、日本は、主として第一次石油ショック以降、政府と民間が一体となって、省エネ・環境技術の向上に努め、その結果、日本のエネルギー効率は大幅に改善し、世界的にみて最先端の水準となりました(図表18)3。これによって、資源価格の変動が国内物価や実体経済に与える影響は小さくなり、環境面でも、深刻な公害問題などは、以前と比べ、はるかに少なくなりました。アジア新興国は環境という面では改善の余地が大きいと思いますが、日本の果たせる貢献分野も大きいと思います。

アジアとの連携という点では、金融も同様に重要な分野です。日本の大手金融機関はこのところ、東アジア諸国での事業展開の強化を重点戦略の一つに掲げています。国際資金の仲介を担う金融市場の整備も重要な政策課題です。本年4月時点におけるBISの調査によると、世界全体の外国為替取引は、3年前に比べて20%も増加していますが、アジア通貨の比率は4%程度にしか過ぎません(図表19)。世界の財・サービス貿易に占めるアジア諸国の割合を考えると、今後、さらなる上昇が予想されます。それだけに金融市場の整備は重要です。例えば、外為取引に関する同時決済システムであるCLSにおいて決済できるアジア通貨はまだ限られています。クロスボーダー担保、すなわち、他国にある金融資産を担保に中央銀行が資金を供給する仕組みの構築も将来に向けての課題です。現在、アジアには、香港、シンガポール、東京など、それぞれ特徴を持つ国際金融市場が存在しますが、これらの市場の市場参加者や中央銀行が相互に競争・協力し合いながら、全体として効率的かつ安定的な金融仲介を支えていくことが期待されます。この点では、HKMAは、国際金融市場としての香港市場の振興・発展をその使命の一つとし、これまでにも様々な革新的な取り組みを行なわれていますが、そのことに心より敬意を表します。

  • 3  資源エネルギー庁によれば、日本のエネルギー消費効率は、過去30年間で37%改善し、その結果、GDP単位当りの一次エネルギー投入は、世界で最小の水準となっています。

5.おわりに

そろそろ時間がなくなってきたので、私の話を締め括りたいと思います。現在、世界経済の先行きは不確実性に満ちていますし、様々な課題に直面しています。香港と日本のいずれにとっても、経済が望ましい経路を辿るかどうかは、優れて世界経済の動向に依存します。世界経済の見通しという観点から、本日は先進国のバランスシート調整、新興国の成長ポテンシャル、通貨を巡る対立の議論、の3つの問題を取り上げました。これらの問題の具体的な性質は、各国がどのような政策対応を行うかによって、大きく変わってきます。それだけに、各国の政策当局間の十分な意思疎通と密接な協力が重要です。

過去数十年にわたり、世界経済や金融市場はグローバル化の方向に着実に向かっていることは事実ですが、同時に、完全なグローバル化にはほど遠いことも事実です。通貨を巡る対立の議論に典型的にみられるように、我々が直面している様々な問題は、そうした世界経済の複雑な現実を反映しているとも言えます。しかし、問題を解決する努力は必要です。その意味で、最近、国際通貨制度改革の必要性を指摘する声が高まりつつあるのは望ましいことだと思っています。しかし、それと同時に、国際通貨制度改革という難しい課題が一挙に解決されると考えるのも現実的ではありません。現在、何よりも重要なことは、各国が他国の経験したことを謙虚に学ぶという姿勢です。バブルの形成とその崩壊、金融危機対応等、学ぶべき材料は数多くあります。

さらに、現在直面している課題に関して率直に意見交換することも重要です。最近の通貨を巡って対立する議論を聞きながら、私はしばしば、偉大な経済学者アダム・スミスが、彼の処女作であり、その後幾度となく改訂されている著書「道徳感情論」の中で使った「共感」(sympathy)という言葉を思い出します。この重大な時期において、我々に最も本質的に必要なことは、相手の国の置かれた状況を念頭に置いたうえで、スミスの言葉の意味で言う「共感」を互いに抱くことです。現在の「異なる速度での回復」は正に、そうした「共感」の重要性を示す例であると思います。日本銀行も各国中央銀行、通貨当局と協力しながら、物価安定の下での持続的成長と金融システムの安定の実現に努力していきたいと思っています。

ご清聴有難うございました。