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【講演】成長基盤強化の重要性と金融政策

東京大学等における特別講義 1

日本銀行政策委員会審議委員 須田 美矢子
2010年12月1日

  • 1 本稿は、名古屋大学(2010年6月29日)、関東学園大学(7月30日)、熊本学園大学(10月7日)、東京大学(10月19日)で開催したセミナーでの講演内容をもとに、成長基盤強化と日本銀行の取り組みに関するパートを中心に加筆修正したものです。

目次

1. はじめに

日本銀行政策委員会審議委員の須田美矢子です。私は、2001年3月に量的緩和政策を開始した直後、審議委員に就任し、早いもので現在10年目になります。この間、量的緩和からのイグジット、利上げ、利下げ、リーマンショック後の異例の措置、包括的な金融緩和政策の採用など、政策決定の当事者として様々な政策判断を行って参りました。そうした経験を踏まえ改めて思うことは、政策を判断すること、そしてそれを伝えることの難しさです。もう少し具体的に述べますと、まず、判断の難しさについては、金融政策の効果が現れるまでのタイムラグがその背景にあります。つまり、経済・物価の先行きを的確に予測し、政策を実施した際のメリット、デメリットを勘案した上で、最も適切と思われる政策をフォワードルッキングに実行することが求められます。これが、幾つかの前提を置いて理論を構築し、過去のデータを用いて検証すれば良かった学者時代との大きな違いです。先行きが不確実な中で判断を迫られる上、「前提が違ったから」といった言い訳も許されません。また、日本の住宅バブルや先般米国で起きた金融危機でもわかるとおり、何年も後になって、あの頃の金融政策が失敗だったと批判されることもあります。このように、実際に政策を判断する際には、かなり先までの経済・物価の姿やリスクを見通した上で、まさに「決断」が毎回求められるのです。

このようなフォワードルッキングな政策運営は、二つ目に指摘した伝えることの難しさの背景ともなっています。経済の現状や先行きに対する見方は、その人の置かれている経済環境の違いや、どの程度先まで見通すか(タイムホライズン)などによって異なってきますし、それによって金融政策に対する評価も分かれます。また、経済の先行きに対する見方が同じであっても、理論的な考え方の違いによって、また、政策担当者の価値判断によって、採るべき金融政策が異なる場合もあります。そうしたいろいろな立場の全ての国民に対して、日本銀行は、政策を変更する・しないに係らず、なぜそう判断したのかについての説明が求められるわけですから、情報発信は決して簡単なものではありません。加えて、政策当局者の発言は、常に政策とリンクして受け取られます。それだけに発言のひと言ひと言が重い意味を持つということも、学者時代との大きな違いです。発言をする際には、市場の受け止め方、過去の言動や投票行動との整合性、政策的なインプリケーションなど、様々な要素を検討しなければなりません。このように、細かい言い回しまで慎重に吟味され、かつ中長期的な視点に立った政策委員の発言は、足もとの経済・物価情勢の変化に比べてトーンがmoderateで、ともすれば「見方が甘いのではないか」といった批判に繋がることもあります。こうしたコミュニケーション・ギャップを埋めるためには、政策意図や判断の背景にある経済・物価情勢の見通しについて、前提条件も含めた丁寧な説明を地道に続けていくしかないと思っています。

以上の点を念頭におきつつ、本日は、「成長基盤強化の重要性と金融政策」と題し、現在、わが国が置かれている経済・物価情勢にとって成長基盤の強化が如何に重要な課題であるか、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。説明にあたっては、そもそもの問題であるデフレの話から説き起こし、可能な限り、経済学の枠組みに則して、説明したいと思います。その上で、最後に、こうした問題に焦点を当てた日本銀行の取り組みとして、成長基盤強化支援のための資金供給についてお話します2

  • 2 なお、本講義録では取り上げておりませんが、日本銀行が10月5日の金融政策決定会合において打ち出した「包括的な金融緩和政策」についてご関心のある方は、「山形県金融経済懇談会における須田審議委員挨拶要旨『日本経済の現状・先行きと金融政策』」2010年12月1日をご覧下さい。

2. 成長基盤強化の重要性

(1)問題提起

わが国経済は、1990年代後半に入って、長期低迷とデフレに悩まされてきたわけですが、その大きな要因として、長期に亘って需給ギャップが負の状態が続いたことが挙げられます。需給ギャップとは、実質成長率と潜在成長率の差を意味しますので、ここでの問題は、潜在成長率の長期低迷と、それを上回る実質成長率の持続的な低下の並存と考えることができます。以下ではこの点をまず手がかりに、デフレの問題を考えてみたいと思います。

潜在成長率とデフレの関係については、物価を決めるマクロの需給バランスに、潜在成長率の持続的な低下がどのように関わっているのかを考える必要があります。わが国経済の長期停滞やデフレが、需要サイドによるものなのか、供給サイドによるものなのかという点については、これまで多くの議論がなされてきました3。しかし、消費者物価指数の前年比をみると、1990年代以降、潜在成長率と需給ギャップの双方に対して緩やかな正の相関関係を有しており(図表1)、わが国における長期停滞・デフレを、需要サイドと供給サイドのいずれか一方だけで説明するのは無理があるように思われます。両サイドの要因が連関しあって現下のデフレ状況が発生していると考えるのが自然であり、具体的には次のように捉えています。すなわち、潜在成長率の持続的な低下が、企業の中長期的な期待成長率を下振れさせるとともに、人々に恒常所得の減少を想起させ、設備投資や個人消費といった支出行動の抑制に繋がったと考えられます。その結果、マイナスの需給ギャップ(デフレ・ギャップ)が拡大し、インフレ率に下押し圧力がかかったというものです。因みに、潜在成長率の持続的な低下の背景については、近年、「負の生産性ショック」の考え方を用いた説明が主流となっています4。そこで、以下では、この「負の生産性ショック」による説明を改めて整理し5、潜在成長力や生産性を引き上げていくことが、わが国の長期停滞やデフレからの脱却にとって如何に重要なことか、みていきたいと思います。

  • 3 小宮隆太郎、日本経済研究センター編『金融政策論議の争点』(日本経済新聞社、2002年)、竹森俊平『経済論戦は蘇る』(東洋経済新報社、2002年)、岩田規久男、宮川努編『失われた10年の真因は何か』(東洋経済新報社、2003年)、小川和夫『大不況の経済分析』(日本経済新聞社、2003年)、浜田宏一、堀内昭義、内閣府経済社会総合研究所編『論争 日本の経済危機』(日本経済新聞社、2004年)など、多くの文献で議論されています。
  • 4 Hayashi, Fumio and Edward C. Prescott, "The 1990s in Japan: A Lost Decade," Review of Economic Dynamics 5, 206-235 (2002).
  • 5 須田美矢子「日本経済の現状・先行きと金融政策—和歌山県金融経済懇談会における挨拶要旨—」(2010年6月3日)をご参照下さい。また、宮尾龍蔵『マクロ金融政策の時系列分析:政策効果の理論と実証』(日本経済新聞社、2006年)は、わが国の90年代以降の長期低迷を、総需要と総供給の両面を関連付けて詳しく説明しています。

(2)潜在成長率とデフレ

イ.デフレ状況の確認

最初に図表2をご覧下さい。これは、日米欧の消費者物価(食料品とエネルギーを除くコアベース)の伸び率を比較したものです。日本だけがデフレになっているとよく言われますが、これをみると、確かにリーマンショック後、ショックの震源地でもない日本だけが足もとマイナスになっています。

もっとも、特徴点はそれだけではありません。前年比の動きは日米欧で大きな違いはありませんが、水準に着目すると、日本だけが2%ポイント程度下方に乖離したまま推移しているのが目を引きます。統計作成方法に違いがあるとか6 、マイルドなデフレは問題ないとか7 、経済成長に悪影響を及ぼすデフレとそうでないデフレとは区別すべきだとか8 、様々な議論はありますが、いずれにしても、こうしたインフレ率の長期に亘る乖離は、日本特有の構造要因がその背景にあることを示唆しているように思われます。

したがって、わが国経済の長期停滞やデフレ状況からの脱却を考える上では、足もとの動きだけに囚われるのではなく、なぜ日本のインフレ率が1980年代後半以降米欧に比べて低く抑えられてきたのかを探ることが、重要なポイントであるように思われます。

  • 6 例えば、(1)米国では、2003年にパソコンの品質調整をヘドニック法から属性費用調整法(アトリビュート法)に切り替えた一方、日本ではヘドニック法を使っている、(2)ユーロではヘドニック法の利用が相対的に限られている、(3)米国では調査店舗の選定や価格調査に確率的手法を用いており、調査店舗の継続性や調査価格の同一性が確保されていない、(4)米国の民営家賃には光熱費が含まれている、(5)日米の家賃には帰属家賃が含まれるが、ユーロには含まれない、などの違いがあります。
  • 7 デフレのコストとベネフィットについては、宮尾龍蔵、中村康治、代田豊一郎「物価変動のコスト—概念整理と計測—」(日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、2008年2月)が詳しくサーベイを行っています。
  • 8 W.R.White, “Is price stability enough? ,” BIS Working Papers, No205, April 2006.

ロ.負の生産性ショック

その鍵を握るのが「負の生産性ショック」です。わが国経済は、1990年代後半以降、グローバル化、IT化、少子高齢化といった大きな構造変化に見舞われたわけですが、このような大きな構造変化に対して、日本のコーポレートガバナンスは、過去の成功体験を引き摺っていたこともあって、適応力や柔軟性に欠けていたと指摘されています9。また、金融機関が不良債権の処理に窮し、本来果たすべき金融仲介機能が有効に働かなかった点も無視できません10。こうした要因が相俟って、労働、資本、全要素生産性のすべてに低下圧力がかかり11、 潜在成長率は低下傾向を辿りました。1990年代に入ってからの日本の労働生産性の伸びをみてみますと、確かに下方に屈折しています(図表3)。この間、金融政策面では、既に金利を引き下げる余地が限られていたため、潜在成長率の低下に見合うだけの金融緩和を行うことができませんでした。さらに、膨大な財政赤字や年金問題などを背景とする将来不安に加え、実際の成長率の持続的な低下も、それ自体潜在成長率を押し下げた可能性があります。

以上のような「負の生産性ショック」が発生すると、人々は恒常所得の減少を予想するほか、株価低迷などを通じるマインド悪化もあって、消費や投資は減少します。しかし、供給力は徐々にしか調整されないため、需給バランスが悪化し、物価に下落圧力が働くことになります。需要と供給の枠組みで考えれば(図表4)、総供給曲線ASの左方シフトと同時に、それを上回るペースでの総需要曲線ADの左方シフトが発生した結果、産出量の減少(x0→x1)と緩やかなデフレ(p0→p1)が発生したのだと解釈できます。実証研究からも「負の生産性ショック」と需給ギャップの間には正の相関関係が存在することが指摘されており12、このことは、生産性の改善(つまり、上と全く逆の動き、x1→x0、p1→p0を発生させること)がデフレ解消にとっての鍵であることを示唆しています。

しかし、ここで一つの疑問が湧いてきます。すなわち、2002年から07年にかけての景気拡大期はどうだったのかという点です。2002年以降6年に亘って年率2%程度の実質成長が続き、潜在成長率も緩やかながら回復したわけですから、それに伴って企業や家計の期待成長率が高まり、恒常所得の先行きに対する不安感も解消していけば、わが国経済はデフレ状態から脱してもおかしくはありませんでした。しかし、実際には、消費者物価指数はマイナス幅を徐々に縮小させたとはいえ、結局、国際商品市況の高騰に伴うコストプッシュによって、ごく僅かの期間だけプラスに転じたに過ぎませんでした。このようにデフレ状態が続いた背景としては、資源価格の上昇に伴う交易損失の発生や13、株主重視の姿勢もあって根強い企業の賃金抑制姿勢などを受 けて、個人消費をはじめとする内需に力強さが戻らなかった点が指摘されています。「実感なき景気拡大」と揶揄された所以もそこにあるわけですが、その底流には、長らく指摘され続けてきたにも拘らず温存されてきた、上述の構造問題があると考えられます。リーマンショック後に顕在化したように見受けられる企業や家計の期待成長率の低迷や、国民の間の閉塞感も、その根底にはそうした構造問題があるとみています。

  • 9 森本善和、平田渉、加藤涼「世界的なディスインフレ」(日本銀行調査論文、2003年4月22日)をご覧下さい。
  • 10 白川方明「日本経済とイノベーション—日本記者クラブにおける講演—」(日本銀行、2010年5月31日)をご覧下さい。
  • 11 生産性の低下については、前田栄治、肥後雅博、西崎健司「わが国の『経済構造調整』についての一考察」(日銀調査月報、2001年6月)、大谷聡、白塚重典、中久木雅之「生産要素市場の歪みと国内経済調整」(金融研究、2004年3月)をご覧下さい。
  • 12 宮尾龍蔵『マクロ金融政策の時系列分析:政策効果の理論と実証』(日本経済新聞社、2006年)、第8章をご参照ください。
  • 13 2002年から07年にかけて、実質GDPが年率2%程度で成長したのに対し、所得の海外流出をも加味した実質GDI(国内総所得)は1%強に止まりました。

ハ.賃金を中心とする人件費の調整

以上のような構造問題の影響は、人件費抑制という形で端的に現れます。2002年から07年にかけての景気拡大期において、生産・所得・支出の循環メカニズムが期待されたほど機能しなかったのも、企業の賃金抑制姿勢を背景とする雇用者報酬の伸び悩みが最大の要因と言われています。そこで以下では、わが国の長期停滞・デフレに大きな役割を果たしてきたと思われる賃金について、少し詳しく考察してみます。

わが国の不動産バブル崩壊後の名目賃金動向を振り返ってみますと、まず、1991年から1993年頃までは、景気の悪化とともに失業率ギャップが拡大し、名目賃金は、特別給与や所定外給与の削減、所定内賃金の伸び率抑制を通じて上昇率を低下させていきました。当時の賃金版フィリップス曲線をみると、失業率ギャップと名目賃金上昇率の間には、はっきりとした負の関係が観察され、その傾きは、かなり高めであったことがわかります14。1994 年から1997 年にかけては、長期低迷の持続を背景に、企業は新卒採用を抑制し、失業率ギャップが緩やかに拡大しましたが、名目賃金の上昇率は1〜2%で安定的に推移していました。このように、この頃までは名目賃金の下方硬直性が見られましたが、金融危機が顕在化した1998年頃を境に、それまでみられていた名目賃金の下方硬直性が検出されなくなったことが報告されています15

すなわち、1998年以降、金融危機が顕在化するもとで景気は大幅に悪化し、企業収益も大幅に落ち込みました。そうした中で、企業による一層の新卒採用の抑制、リストラによる雇用調整が行われたほか、企業倒産の増加によって、失業率ギャップは大幅に拡大しました。この間、現金給与総額でみた名目賃金は、所定内賃金の抑制に加え、特別給与の大幅な引き下げにより、大幅に削減されました。2001年のITバブル崩壊後は、特別給与に加えて、所定内賃金も大幅に引き下げられるようになり、現金給与総額でみた名目賃金の低下は、過去に例を見ないほど大きなものとなりました。この結果、賃金版フィリップス曲線は、それ以前と比べて大幅にスティープ化しました。2003年以降は、景気が緩やかに回復するもとで、失業率ギャップは徐々に縮小していきましたが、名目賃金はほぼゼロ近傍で抑制的に推移しました。こうした中、2009年9月にリーマンショックが発生し、労働時間と名目賃金が大きく調整する形で人件費が削減され、米国とは対照的に大幅な雇用調整は回避されました(図表5)。

このように、1990年末以降のわが国では、米国等に比べ人件費の抑制が雇用ではなく賃金の調整によって行われる傾向が強いことから、景気後退局面では大幅な賃金の下落が発生する一方、景気拡大局面においては、(i)構造問題を背景とする不確実性の高まりや世間相場の影響16、(ii)安価な労働力を求めて企業の海外進出が活発化したこと、(iii)企業ガバナンスの強まり、(iv)労働組合の弱体化などから、なかなか上昇し難い状況にあると整理できます。

  • 14 前掲、宮尾龍蔵、中村康治、代田豊一郎「物価変動のコスト—概念整理と計測—」(日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、2008年2月)の図表19を参照して下さい。
  • 15 黒田祥子、山本勲『デフレ下の賃金変動—名目賃金の下方硬直性と金融政策—』(東京大学出版会、2006年)をご覧下さい。
  • 16 川本卓司、篠崎公昭「賃金はなぜ上がらなかったのか? —2002〜07年の景気拡大期における大企業人件費の抑制要因に関する一考察—」(日本銀行ワーキングペーパーシリーズNo.09-J-5、2009年7月)では、2002年以降の景気拡大期において、個社ベースでみれば不確実性が増大していたこと、世間相場が賃金に抑制的に作用したことを指摘しています。

二.サービス価格の動向

また、以上のようなマクロ的な捉え方とは別に、わが国の消費者物価指数の伸び率低迷の主因がサービス価格にあることに着目して、なぜわが国のサービス価格が低いままなのかを解明しようとする切り口もあります。図表2でみたように、1980年代後半以降、日本の消費者物価指数は米国に比べ常に下方に乖離してきたわけですが、実はその大部分がウエイトの高いサービス価格の乖離によって説明可能です(図表6)。財の価格は米国でも日本と同様にプラスマイナスを繰り返し、日米間格差も大きく変動していますが、サービス価格は、家賃、運輸などそれを構成する殆どの分野で大きな日米間格差が常に存在しています。こうしたサービス価格の乖離には、サービス業における名目賃金の格差が大きく影響しているとみられますが、サービス業の生産性格差も内包していると考えることができます。1970年代や80年代においては、サービス業を含む非製造業の生産性に関連して、製造業に比べて低い生産性上昇率を価格上昇や規模の拡大によってカバーし、製造業と同じような利益率の動きを確保していると議論されてきました(「構造的インフレ論」)。しかしながら、1990年代に入り、グローバル化の進展など、まさに上述した「負の生産性ショック」に加え、それを受けた製造業のコスト削減姿勢の強まり(販売管理費の削減)などから非製造業の競争環境は激化の一途を辿り、「構造的インフレ論」が示していたような利益率の確保が困難となりました17。こうしてサービス価格の伸び率は、消費税率引き上げ時を除き、一貫して低下を続け、2000年代はほぼゼロ近傍で推移しています。

因みに、長期的にみれば確かにサービス産業の生産性上昇率は製造業に比べ低いものの、1995年〜2005年に限ってみれば、サービス業だけでなく製造業を含むほぼ全てのセクターの生産性パフォーマンスが米国に比べて劣っていたと指摘する先行研究もみられます18

  • 17 詳しくは、日本銀行調査統計局「90年代における非製造業の収益低迷の背景について」(1999年2月)をご覧下さい。
  • 18 森川正之「サービス産業の生産性分析〜政策的視点からのサーベイ〜」(日本銀行ワーキングペーパーシリーズNo.09-J-12、2009年12月)をご覧下さい。

ホ.上記要因の総括

以上をまとめますと、1990年代入り後、バブルの崩壊とともにマイナスの需給ギャップ(デフレギヤップ)が拡大。その後断続的に発生した「負の生産性ショック」によって、デフレギャップが長く続くことになりました。これに対処するため、製造業ではグローバル化を進め生産効率化を図るとともに、人件費抑制姿勢を強めました。一方、非製造業では「構造的インフレ論」で示されていたような低い生産性上昇率を補う形でのサービス価格の引き上げが困難となり、サービス価格の前年比はゼロ近傍まで急速に縮小しました。1990年代半ば頃には、「負の生産性ショック」に伴い、労働生産性の伸び率が低下したにもかかわらず、企業の賃金抑制姿勢が一層強まったことから、わが国のユニットレーバーコスト(賃金/労働生産性)は、米欧とは対照的に下落に転じました(前掲図表5)。こうしたユニットレーバーコストの低下や、不良債権処理の遅れに伴う金融仲介機能の低下などによって、1990年代後半以降、デフレ圧力が一層強まったと考えられます。実際、米国との消費者物価でみたインフレ格差は、ユニットレーバーコストの変化率の格差に概ね見合っています19 。このことは物価と賃金に共通して影響を与える要因、つまり、中長期的なインフレ予想がインフレ格差に大きく影響していることも示唆しています。そして、この中長期的なインフレ予想は、わが国の場合、潜在成長率の動きと相関していることが指摘されています20

つまり、日本の1990年代以降の潜在成長率の低下は、期待成長率の下振れに伴う設備投資の抑制や将来不安に伴う消費の減少を通じて、潜在成長率の低下を上回る需要の減少を生じさせ、その結果、持続的なデフレギャップが発生し、これがデフレ圧力として作用していると考えられます。また、こうした状況が持続することによって、中長期のインフレ予想も低下傾向を辿り、それがまたデフレ圧力となってフィードバックしている可能性もあります。このように考えると、潜在成長率を低下させている構造問題に思い切って手をつけていかなければ、中長期的な成長期待や予想インフレ率の上昇には繋がらず、デフレも解消していかないと整理することができます。

  • 19 消費者物価指数(CPI)前年比の日米格差:1986年以降2.4%、2000年以降2.8%
    消費者物価指数(CPI)コア前年比の日米格差:1986年以降2.4%、2000年以降2.6%
    ユニット・レーバー・コスト(ULC)前年比の日米格差:1986年以降1.8%、2000年以降2.7%
  • 20 木村武、嶋谷毅、桜健一、西田寛彬「マネーと成長期待:物価の変動メカニズムを巡って」(日本銀行ワーキングペーパーシリーズNo.10-J-14、2010年8月)をご覧下さい。

3. 成長基盤強化を支援するための資金供給

以上のような認識のもとで、日本銀行では、日本経済がデフレから脱却し、物価安定の下での持続的成長経路に復帰することが極めて重要な課題だと認識しています。そのために中央銀行としての貢献を粘り強く続けていく方針であり、その一環として、本年6月、成長基盤強化を支援するための資金供給の枠組みを新たに導入しました(図表7、8)。

この成長基盤強化を資金供給面から支援する措置は、中央銀行としては異例の取り組みですが、そのスキームの策定に当っては、(1)民間の資源配分を歪めてしまうリスク、(2)日本銀行の保有資産のデュレーションが長期化することによって金融調節の柔軟性が低下するリスク、(3)日本銀行の財務の健全性に悪影響を与えるリスクなどにも配慮しています。

同措置の狙いは、あくまで金融機関が成長基盤強化に向けた取り組みを進めるうえでの「呼び水」となることであり、日本銀行自身が個別の企業や業種へ資金を直接投入することではありません。であるからこそ逆に、市場や企業からは同措置の効果を疑問視する声も聞かれています。しかしながら、全ての経済主体が、それぞれの役割の中で、成長性の高い分野での需要掘り起こしやイノベーションへ向けた積極的な取り組みを行い、潜在成長力の引き上げや生産性の向上に繋げていかなければ、日本経済の長期停滞・長期デフレを打開する糸口はみえてこないとの危機感があります。

本措置については、金利引下げ競争の一端を担っているとの厳しい声も聞こえてきますが、幸い、金融機関サイドでは、大企業から中小企業向けまで、企業規模を問わず、成長分野への取り組み強化が貸し出しスタンスの積極化に繋がっているようです。また、企業サイドからも、本制度の利用を金融機関に打診する動きが見られ始めており、本行の取り組みが一定の成果を出しつつあるように窺われます。こうした取り組みが大きなうねりとなって、新たな需要の創出に資する事業などへの融資・投資の拡大や、生産性の向上に繋がっていくことを期待しています。

4. おわりに

本日は、「成長基盤強化の重要性と金融政策」と題して、わが国にとって成長基盤の強化が如何に重要な課題であるかを説明したうえで、日本銀行が行っている、異例ともいえる成長基盤強化促進のための資金供給策について、お話してきました。それらを通じて申し上げたかったことは、(1)すべての主体が取り組むべきは、日本経済が直面する構造問題への対応であること、(2)そのために日本銀行も危機感をもって可能な措置を講じていること、の2つです。こうした認識を広く国民や市場、マスコミと共有していくことが、金融政策の効果を上げるためにも極めて重要であると考えています。ご清聴いただきまして、誠にありがとうございました。