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【講演】最近の金融経済情勢と金融政策運営

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内外情勢調査会における講演

日本銀行総裁 白川 方明
2012年6月4日

目次

  1. 1.はじめに
  2. 2.経済・物価の現状と先行き
  3. 3.日本銀行の金融政策運営
  4. 4.金融政策に関する幾つかの論点
  5. 5.成長力強化の重要性
  6. 6.おわりに

1.はじめに

日本銀行の白川でございます。本日は、内外情勢調査会でお話しする機会を頂き、ありがとうございます。

前回、この席でお話しさせて頂いたのは、昨年の5月末でした。当時の日本経済は、東日本大震災による急激な生産の落ち込みから持ち直し始めたところでした。企業の大変な努力と工夫により、その後の日本経済の回復は予想以上のスピードで進みました。もっとも、昨年秋口以降、海外経済の減速や円高の影響、さらにはタイの洪水の影響も加わって、景気は一旦横ばいの動きとなり、その後最近は堅調な内需を中心に、持ち直しに向かう動きが明確になりつつあります。物価情勢も徐々に改善しています。一方で、最近の市場動向が示すように、欧州債務問題は再び神経質な展開となっています。

本日は、最初に経済・物価情勢についてお話ししたあと、日本銀行の金融政策運営について説明いたします。そのうえで、成長力の強化や財政健全化など、日本経済の直面する課題への取り組みの重要性について、お話ししたいと思います。

2.経済・物価の現状と先行き

経済・物価の現状

それでは、経済・物価の現状から始めます。日本経済の動向を左右する最も大きな要因は言うまでもなく海外経済です。海外経済については、なお減速した状態から脱したとは言えませんが、米国経済が大きな流れとしては緩やかな回復過程にあるなど、改善の動きもみられています。一方、内需については、公共投資などの復興関連需要は明確に増加に転じています。企業部門でも、収益見通しの好転を受けて業況感が改善しており、設備投資は緩やかな増加基調にあります。家計部門においても、マインドが改善傾向にあり、個人消費は緩やかに増加しています。このため、先ほども述べたように、景気は全体として持ち直しに向かう動きが明確になりつつあると判断しています。

このような景気動向を反映して、物価情勢にも徐々に変化がみられています(図表1)。デフレという言葉は日本経済を語る時にしばしば用いられますが、消費者物価指数(総合除く生鮮食品)の前年比を振り返りますと、2009年8月の前年比−2.4%をボトムに下落幅は着実に縮小しており、2011年度は前年比0%となりました。統計の判明している過去2か月はいずれも+0.2%となっています。品目別に見ると、パソコンやテレビなど、購入頻度が低く、また、技術革新で価格が大きく下落している品目はマイナスですが、購入頻度が月に1回程度以上の品目については前年比+1.9%となっています。このように、食料品など生活に密着した品目に限ってみれば、もう少しはっきりとした前年比プラスの領域に入っています。

2013年度までの中心的な見通し

次に、先行きの見通しについてお話しします。日本銀行は、4月末の金融政策決定会合において、2013年度までの経済・物価情勢の見通しを公表しました。言うまでもなく、経済の先行きには様々な不確実性が存在し、見通しは前提の置き方にも依存します。今回の見通しにおいて最も重要な前提は、欧州債務問題の極端な悪化が引き金となり、国際金融資本市場の動揺を通じて世界経済が大きく落ち込むといったことはないという前提です。そのことを申し上げたうえで、相対的に蓋然性が高いと判断される見通しについては、「やや長い目でみれば、日本経済は、物価安定のもとでの持続的成長経路に復していく」としています。

具体的に申し上げますと、景気については、新興国・資源国に牽引される形で海外経済の成長率が再び高まり、また、震災復興関連の需要が徐々に強まっていくにつれて、2012年度前半には緩やかな回復経路に復していくと考えています。数字で申し上げますと、2012年度の実質GDP成長率は+2.3%、2013年度は+1.7%です。物価情勢については、消費者物価の前年比は、経済活動の水準が引き続き緩やかに高まる中で、今回発表した見通し期間の後半である2013年度には0%台後半となり、その後、遠からず1%に達する可能性が高いと考えています。後ほど申し上げますが、この1%というのは、当面、日本銀行が目指している物価上昇率です。

見通しの上振れ・下振れ要因

先ほども申し上げた通り、見通しには様々な不確実性が存在します。

第1の不確実性は、国際金融資本市場を含めた海外情勢です(図表2)。とくに欧州債務問題は、最も強く意識しておくべきリスク要因です。昨年夏から年末にかけて、欧州債務問題の影響により、国際金融資本市場の緊張が高まりました。その後、欧州中央銀行の流動性供給などから市場は一旦落ち着きを取り戻しましたが、最近は再び、神経質な動きが続いています。ギリシャでは、財政緊縮政策に対する国民の反発から、5月の総選挙後は連立政権の樹立ができず、6月半ばに再選挙が行われることになりました。スペインでも、財政再建の遅れとともに、金融機関の不良債権問題に対する懸念が強まっています。こうした状況を反映して、グローバル投資家は全般にリスク回避の姿勢を強めています。ギリシャやスペインの国債利回りが上昇する一方、米国、ドイツ、英国の国債利回りは歴史上の最低水準を更新したり、それに近い水準になっています。2008年秋のリーマン・ショックが示すように、リスクが極端な形で顕在化し、経済が大きく落ち込むかどうかは、銀行間の資金調達市場が安定を維持できるかどうかに大きく依存します。この点、現在までのところ、欧州中央銀行による大量の資金供給などにより、資金調達市場は総じて安定しています。これは、昨年末頃とは大きく異なっている点です。もっとも、中央銀行による流動性の供給という対応は言わば「時間を買う」措置であり、その限られた時間を使って、各国政府や関係当局が、欧州経済の持続的な成長と安定へ向けて着実に対応を進めていくことが不可欠です。

欧州以外にも、世界経済には不確実性が存在します。米国については、設備投資や個人消費が底堅く推移していますが、住宅バブル崩壊の影響も根強く残っており、このところ雇用の増加ペースも鈍化しています。世界経済の牽引役として期待される新興国・資源国についても、インフレ率が一頃に比べて低下してきたとはいえ、インフレ再燃を招くことなく経済成長をどの程度高められるか、不透明感の強い状態が続いています。

不確実性という点では、最近の円高傾向にも注意しています。昨年夏以降の為替市場の動きは、欧州債務問題を背景とするグローバル投資家のリスク回避の姿勢の変化と密接に関連しています。すなわち、2月から3月前半にかけての円高修正は、何よりも欧州債務問題の改善に伴うリスク回避の姿勢の後退を反映したものでしたし、その後の再度の円高の動きは、逆方向への変化を反映したものです。いずれにせよ、円高が日本経済に与える影響については、企業マインドを通じる影響を含め、日本銀行としては注意深くみています。

第2の不確実性は、国内における復興関連需要です。震災復興関連の予算については、5年間で19兆円程度という事業規模のほとんどが既に手当てされています。これは、日本全体のGDPの約4%、被害の大きかった岩手県、宮城県、福島県および茨城県の4県のGDPの6割強に達する大規模なものです。これが着実に執行されていけば、大きな需要拡大効果が見込めます。しかし、予算規模が大きいだけに、建設労働者の不足など、今後の予算執行に至る各段階においてボトルネックが生じる可能性もあります。

第3の不確実性は、日本経済の中長期的な成長見通しに関して、企業や家計が抱いている予想、あるいは自信の程度です。現在、日本企業は、新興国の高成長を背景に、海外での生産を増やしています。これは合理的な経営戦略ですが、その際、国内でその代わりとなる新たなビジネスが生まれるかどうかによって、中長期的な成長期待は変わってきます。電力需給を巡る問題についても、この夏をどう乗り切るかが当面の課題ですが、同時に、安定供給への不安やコストの上昇が中長期的な成長期待の下振れを招くことがないかどうか、あるいは、「省エネ・創エネ・蓄エネ」の動きが成長力の強化に繋がるのかどうかといったことも重要なポイントです。

第4の不確実性は、わが国の財政の持続可能性を巡る様々な問題です。財政状況は悪いとはいえ、国内には潤沢な資金があり、国債購入に関する海外投資家への依存度が低いため、問題はないという議論もありますが、いかなる国であれ、政府は無限に借金を拡大することはできません。現在、わが国の国債の利回りが低位で安定しているのは、市場参加者が、最終的には財政再建への取り組みがしっかりなされていく、という信頼を保持しているためだと考えられます。あとから述べるように、財政の持続可能性への信認は物価の安定と金融システムの安定を支える最も基礎的な前提条件であるだけに、万が一、そうした信認が損なわれると、経済に悪影響を及ぼします。逆に、財政の先行きに対する不安が家計や企業の支出意欲を低下させている可能性があることを考えると、財政再建の道筋が明らかになることは、やや長い目で見ればむしろ経済成長を高める可能性もあります。

3.日本銀行の金融政策運営

中長期的な物価安定の目途

次に、以上の経済・物価情勢を踏まえて、日本銀行の金融政策運営についてお話しします。

日本銀行は、日本経済がデフレから脱却し、物価安定のもとでの持続的成長経路に復帰することが、極めて重要な課題であると認識しており、かねてより強力な金融緩和政策を実施しています。今年に入ってからの決定に限ってみても、2月には、「中長期的な物価安定の目途」を導入すると同時に、金融緩和を一段と強化し、さらに、4月末にも金融緩和の強化を決定しました。ここでは、これらの決定内容についてご説明します1

第1は、「中長期的な物価安定の目途」についてです。金融政策の目的は物価の安定です。日本銀行法の条文にしたがって正確に申し上げると、日本銀行は、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」を理念として、金融政策を運営しています。こうした理念に照らしますと、日本銀行が目指すべき物価の安定とは、中長期的に持続可能なものでなければなりません。中長期的な物価の安定が大切だという考え方は、今では、主要国の中央銀行の間で広く共有された認識となっています。例えば、インフレーション・ターゲティングを採用している国として有名な英国では、実際の物価上昇率が目標を1%以上上回る状態が2年以上続いていますが、この間、中央銀行は金融を引き締めるのではなく、緩和しています。金融政策には効果波及の時間的ラグがあり、それを考えると、重要なのは足もとの物価動向ではなく、中長期の物価動向であり、英国の政策も需給ギャップの状況からみて物価上昇率がいずれ低下するという判断があるからです。

中長期的にみて何%の物価上昇率であれば物価が安定しているといえるかについては、各国の経済構造の特質や、その中で定着してきた人々の物価観などに依存します。日本銀行は今申し上げた要素を考慮し、「中長期的な物価安定の目途」は、「消費者物価の前年比上昇率で2%以下のプラスの領域」と幅をもって示すこととしました。そのうえで、「当面は1%を目途」とすることを併せて示し、これを金融政策運営において目指していくこととしました。なぜ「1%」としたのかについては、のちほど触れます。

強力な金融緩和の推進

第2に申し上げることは、金融緩和措置の具体的な中身です。政策金利であるオーバーナイト・コールレートは実質的なゼロ金利水準になっているので、金融政策として緩和効果を生み出すためには、新たな工夫が必要です。そこで採用されたのが2010年秋に導入した包括的な金融緩和政策です。ひとつの工夫は、いわゆる時間軸政策、すなわち、先行きも金融緩和を続けるという約束です。もうひとつの工夫は、金融資産買入れなどを行う基金を設けたうえで、長期国債やリスク性資産を買入れ、長めの金利やリスク・プレミアムに働きかけることです。2月の金融政策決定会合では、先ほどの「中長期的な物価安定の目途」と関連づける形で、消費者物価の前年比上昇率1%が見通せるようになるまで、実質的なゼロ金利政策の継続と金融資産の買入れ等を通じて、強力に金融緩和を推進していくことを明確にしました。資産買入等の基金の規模については、2月の金融政策決定会合では10兆円程度増額しました。さらに、4月末の金融政策決定会合でも5兆円程度増額しました。その際、市場のニーズが低下してきた6か月物の資金供給を減額する一方で、長期国債は10兆円程度の大幅増額としたほか、長期国債や社債の買入対象も、満期までの残存期間が2年までの債券から、3年までの債券へと拡充しました。

以上の措置により、資産買入等の基金のもとで、本年末には65兆円程度まで、さらに来年6月末には70兆円程度まで、資産買入れ等を進めていくことになっています(図表3)。最近の基金の残高は51兆円程度ですので、日本銀行は今から1年強の間に、さらに20兆円近い金融資産を積み上げていくことになり、現在は、毎月金融緩和を強化している途上にあります。もっとも、そうした強力な金融緩和の推進を予めまとめて公表しているため、ともすれば、毎月金融緩和を強化しているという素朴な事実が忘れられがちです。いずれにせよ、これまでの金融緩和の累積的な効果と併せて、日本銀行の強力な金融緩和は次のような波及経路で経済や物価へ好影響を与えていくと考えられます。

第1に、資産買入れ等の措置や先ほど述べた時間軸の明確化により、長めの金利およびリスク・プレミアムの低下が促されます。例えば、長期国債は、通常は残存期間が長くなるにつれて高い利回りがつきますが、最近は、残存3年程度の国債利回りも0.1%近辺まで低下し、短期金利と変わらない低水準となっています。こうした市場金利の動向等を反映して、企業の資金調達コストは緩やかな低下を続けています。

第2に、このような低金利の景気刺激効果は、景気の改善につれてその効果が強まっていきます(図表4)。例えば、同じ実質的なゼロ金利水準にあって、収益が増えにくい環境と、資金を借りて投資をすればリターンが期待できる環境を比較すると、後者の景気刺激効果の方が大きくなります。現在、日本経済は、物価面も含めて改善の方向にありますので、金融緩和の効果は今後さらに強まっていくと考えられます。

第3に、潤沢な資金供給に対する安心感から、他国と比べても、わが国の金融市場は極めて安定した状態が続いています。欧州債務問題を中心に内外の不確実性が大きい中にあって、資金調達を巡る安心感は企業や家計のマインドを支える一因になっています。

4.金融政策に関する幾つかの論点

以上、日本銀行による強力な金融緩和政策の内容と、その効果について述べてきました。私どもの政策運営に対しては、「もっと大胆な政策が必要」という批判がある一方で、「ここまで踏み込んでは危ないのではないか」という批判があることは承知しています。私どもとしては様々なご意見を謙虚に受け止めて、そのうえで、最適と判断する金融政策運営を行っています。そこで、私どもの金融政策についてご理解を頂くための一助として、先ほどお話した日本銀行の金融政策運営上の決定に至る思考プロセスをご説明します。

「中長期的な物価安定の目途」の水準

第1は、目指すべき物価上昇率の水準です。物価に関する意識は人々の行動に深く組み込まれているだけに、何十年という過去の経験から一挙に飛び離れた状態は考えにくいように思います(図表5)。日本の消費者物価上昇率は1998年にマイナスに転じましたが、それ以前を振り返ってみても、第2次石油ショックの影響がある程度沈静化した1980年代半ば以降の平均は+0.5%程度であり、諸外国よりも低い状態が一貫して続いています。因みに、景気が過熱したバブル期の1987年から1989年にかけての平均は+1.3%でした。結局、過去30年近くの間に、消費者物価上昇率の前年比が2%に達したのは、バブルの余波が残っていた1990年代の初頭、消費税率が引き上げられた1997年、そして世界的なエネルギー・食糧価格の高騰が家計を直撃した2008年、その3回だけです。それにもかかわらず、「今後は2%の物価上昇率を目指す」といきなり宣言しても、それだけで2%の物価上昇率が実現できる訳ではありませんし、何よりも、企業や家計に対して無用の不確実性を与えることになりかねません。また、仮に宣言が文字通り信用され予想インフレ率がその分上がるとすれば、最も早く反応するのは金融市場です。その結果、実際の物価や賃金が上がる前に、長期金利のみが先行して上昇し、その場合には、金融機関が抱える多額の国債が値下がりし、貸出行動にも悪影響を与えるリスクもあります。これらの問題を踏まえれば、わが国として目指すべき消費者物価上昇率は当面1%とすることが妥当であり、この数字を目途に、努力をしていくことが大切だと判断しました。そのうえで、日本銀行としてはあとから申し上げる成長力強化の進み度合いや人々の物価観の変化などを分析しながら、原則としてほぼ1年ごとに、「中長期的な物価安定の目途」を点検していくことにしました。

「物価安定の目途」の達成時期と金融政策運営の関係

第2の論点は、物価安定の目途の達成時期と金融政策運営の関係です。4月末に展望レポートでお示しした見通しでは、見通し最終年度である2013年度について、消費者物価上昇率の見通しは政策委員の中央値で+0.7%でした。この時の金融緩和強化の決定は、2013年度の物価上昇率見通しが1%に達していないという機械的な理由によるものではありません。消費者物価上昇率は、2013年度よりもあと、遠からず1%に達する可能性が高く、やや長い目で見れば、日本経済が物価安定のもとでの持続的成長経路に復する蓋然性が高いと判断したうえで、そうした展望をより確かなものにする観点から、金融緩和を強化したものです。中央銀行が目指す物価の安定は中長期的な物価の安定であり、固定的な期限を設けて予め決めた物価上昇率を無理矢理にも達成しようとする、という機械的な運営は、現在どの国でも採られていません。

もちろん、私どもとしても、「中長期的な物価安定の目途」で示した消費者物価前年比1%という姿ができるだけ早く実現されることを願っています。しかし、わが国のデフレには根強い構造的な要因も働いていることや、金融政策の波及効果には長いラグがあることも念頭に置く必要があります。そのような状況の中で、例えば、長期国債の月間買入額は、現状でも大変に大きな金額ですが、そういう中で、最適なスピードを超えてアグレッシブな買入れを行っていくと、一時的に長期金利は下がったとしても、国債市場が中央銀行に過度に依存した市場になる結果、今度は何らかのきっかけで反転上昇することも起こり得ます(図表6)。そうなると、金融機関経営にも大きな影響を与えることになり、結果的には、金融システムの安定、ひいては経済の安定自体を損なってしまうことになります。

日本銀行としては、今後も経済や物価が着実に望ましい方向に向かっているかどうかを、金融面での不均衡の蓄積を含めたリスク要因と併せてしっかりと点検し、現在強化の途上にある金融政策の効果を冷静にじっくり見極めて、適切な政策運営を行っていく方針です。

多額の国債買入れと通貨の信認との関係

第3の論点は、日本銀行による国債の多額の買入れと通貨の信認維持との関係です。この点に関しては、「日本銀行が進めている国債の多額の買入れは中央銀行による財政ファイナンスであり、やがて通貨の信認を維持できなくなるのではないか」という批判を頂くこともあります。

日本銀行は、現在、2つの異なる目的に応じて、長期国債の買入れを行っています。1つは、経済の成長に伴う銀行券需要の趨勢的な増加に対応した長期国債の買入れです。この場合、銀行券需要の趨勢的な増加に対応している以上、短期の資産ではなく、長期国債を保有することは合理的であり、また、その趣旨に照らして、銀行券発行残高に見合う額を買入残高の上限としています。もう1つの買入れは、先ほど来お話ししている資産買入等の基金を通じて、強力な金融緩和を目的として進めている長期国債買入れです。こちらの買入れは長めの金利に働きかけるという金融政策上の判断に基づいて決定しており、買入れ規模について銀行券の範囲内という条件は設けていません。5月末時点では、この目的での長期国債買入残高は約10兆円であり、来年6月末には29兆円程度まで増やしていくことになっています。この結果、以上の2つの長期国債買入れを合計すると、日本銀行の保有残高は、4月末時点の約73兆円から本年末には92兆円程度へと増加して銀行券発行残高を上回り、さらに来年6月末には97兆円程度に達する見通しです(図表7)。今年度の特例国債の発行額が約38兆円であることを考えると、日本銀行による国債買入れは既に相当な規模に達しています。しかし、いずれの買入れも財政ファイナンスを目的としたものではありませんし、今後も行いません。その点についての日本銀行の意思は明確です。

通貨と国債の関係を考える場合、基本に立ち返ることが大事です2。そもそも、日本銀行が国債を買えるのは、究極的には、国債の見返りに発行された銀行券を国民が保有してくれるからであり、さらにそれは国民が銀行券の価値を信用してくれているからです。しかし、その銀行券の裏付けは国債です。言い換えれば、「国債には信認がないが、銀行券には信認がある」という事態は想定しにくいといえます。国債に対する信認が崩れると、銀行券に対する信認も崩れます。結局、国民が持ちたいと思っている銀行券の量の限界を超えて中央銀行が国債を購入すると、インフレが起こるか、あるいは、そうした事態を予想して長期金利が先行的に上昇し、景気にも金融システムにも悪影響が及ぶことになります。その意味で、中央銀行の国債の買入金額は「信認」によって上限を画されています。日本銀行は多額の国債を買入れていますが、その際、信認が維持されるよう、微妙なバランスをとって買入れを進めています。それと同時に、日本銀行の国債買入れが財政ファイナンスであるといった誤解を招かないようにするためには、何よりも財政健全化への取り組みが行われることが重要です。

金融緩和の果たす役割

第4の論点は、金融緩和の果たす役割と他の政策や取り組みとの関係です。この点に関しては、「根強いデフレ圧力や最近の円高再燃は、結局は金融緩和の不足が原因ではないか」というご意見を頂く一方で、「金融緩和が経済・財政の構造改革を遅らせている」という正反対のご意見も頂いています。この点に関する私どもの考え方は、金融面からの下支えと成長力強化に向けた取り組みの両方が不可欠であるというものです。そして、我々自身は、この金融面からの下支えに全力で取り組むということです。

金融緩和の効果波及メカニズムは、中央銀行の行動が金融環境に与える第1段階と、その金融環境が企業や家計の支出増加をもたらす第2段階に分けられます。前者の金融環境について言えば、現在、銀行貸出金利にしても、社債の発行金利にしても、また、名目ベースでみても、予想インフレ率を調整した実質ベースでみても、日本は米国と同等か、それよりも低い金利水準になっています(図表8)。それにもかかわらず、金融緩和が足りないという見方があるのは、中央銀行の供給する通貨の量のもつ意味に関する誤解があるのかもしれません。ゼロ金利のもとでは、銀行券や中央銀行の当座預金を保有する場合のコストがかからなくなるので、中央銀行が資金をいくら供給しても、それがそのまま中央銀行の当座預金等として積み上がる状態になっています。量に関しては、言わば、「暖簾に腕押し」の状態になっています。実際、バーナンキ議長も、量では金融緩和の度合いは測れないことを述べています。いずれにせよ、その量でみても日本は最も量が多くなっています。多分、欧米諸国がリーマン・ショック後に量を急激に増やすずっと以前から、日本は量を増やしていたので、そうした状態に人々の感覚が慣れてしまい、目立ちにくいのかもしれません。極めて緩和的な金融環境を活かして、成長力強化に向けた様々な取り組みを進めることが重要というのが私どもの強い思いです。

5.成長力強化の重要性

以上、金融政策運営の考え方について説明してきました。デフレから脱却し物価安定のもとでの持続的な成長を実現するうえで、金融面からの下支えは重要な必要条件であり、日本銀行は、引き続き経済・物価情勢とリスク要因を丹念に点検しながら、全力を挙げて取り組んでいきます。ただし、日本経済がデフレから脱却し物価安定のもとでの持続的成長を実現するには、これだけでは十分ではなく、成長力の強化に向けた取り組みが極めて重要です。そこで次に、話題を成長力の強化に転じたいと思います。

成長力とは実質GDPの潜在的な成長率です。現実の経済は短期的には潜在的な成長軌道の上下を変動しますが、10年、20年という期間をとってみると、結局、この潜在的な成長軌道に収斂します。ところで、成長率は労働力人口の伸びと、一人当たりの実質GDP成長率に分解されます。過去10年の日本の数字に則していうと、労働力人口は年率0.3%の減少、労働生産性は年率0.8%の上昇でしたので、実質GDP成長率は両者を足し合わせて0%台半ばという計算になります。労働力人口の減少は言うまでもなく、急速な高齢化の進行を反映しています。向こう10年を見通した場合、現在の男女別、年齢別の労働参加率を前提とすると、労働力人口は年率0.6%の減少となります。一方、労働生産性の伸びは現在でも他の主要国と比較すると、むしろ高い方です。いずれにせよ、成長力を高める方法は、概念的には労働力の伸びを高めるか、生産性を高めるか、どちらかしかありません。もちろん、需給ギャップが解消する、すなわち、稼働していない労働力が稼働する過程では、成長率は若干高まりますが、最近内閣府から公表された需給ギャップは約2%であり、その解消後は成長率の引き上げ要因になると考えることはできません(図表9)。

労働参加率の引き上げと生産性の引き上げ

このように考えると、今後わが国として取り組むべき方向は明確です。

第1は、労働力の伸びを高める、少なくとも低下を抑える努力です。具体的には、とくに、高齢者や女性の労働参加率の引き上げに向けた社会の取り組みです。仮に、2030年までに、女性の労働参加率が概ねスウェーデン並みの水準まで上昇するとともに、60〜64歳の方の労働参加率が55〜59歳と同じ水準まで上昇し、65歳以上についてもそれに見合って上昇すれば、2010年代の労働力人口は、先ほど申し上げた年率0.6%の減少ではなく、年率0.2%の増加となります(図表10)。

第2は、生産性引き上げの努力です。生産性というと、技術的な生産効率の向上という響きがありますが、そうではありません。労働生産性という概念は、労働投入量当たりの付加価値、すなわち、賃金と利益の総額ですが、このことは要するに、ニーズの高い財・サービスを作ること、そして、そうした分野に資源を移動させていくということと同義です。この面では、外需の取り込みと内需開拓の両面での努力が不可欠です。世界の成長センターが新興国であり、そうした地域の需要を取り込むためには、輸出だけでなく、現地での生産増加も不可避です。近年、増加している日本企業による海外直接投資やM&Aに伴う所得はGDPにはカウントされませんが、日本人の稼いだ所得、すなわち、GNIの増加には繋がっています。

内需開拓という点では、高齢化によって増加している潜在需要を顕在化させる努力も重要です。この点では、最近、明るい動きも見られます。個人消費はこのところ比較的堅調に推移していますが、その背景には、エコカー補助金などの政策効果だけでなく、拡大する高齢層を中心に多様化するニーズに対して、企業が高めの価格設定でも受け容れられる製品やサービスの提供に成功していることも挙げられます。

高齢化という点では、何といっても、医療・介護等のサービスは今後ますます重要になっていきます。現に、医療・介護関連の業種では、長期的に見て従業員数が明確な増加傾向にあるほか、近年新たに設立された中小企業のうち大企業へと成長した企業には、医療・福祉関連を手掛ける企業が多く含まれています。しかし、お金はあっても自分が望む医療や介護は受けられないという声をしばしば耳にすることなども併せて考えますと、日本では、高齢化に伴って新たに生まれる潜在需要に対して、十分なサービスがタイムリーに供給されてこなかった、あるいはそれを可能にする環境整備は十分進められてこなかったように思われます。因みに、この10年間における老齢人口の増加率は、先進主要国の中で日本が最も高いのに対し、同じ時期における医療・介護関連の支出の伸びは、日本が最も低くなっています(図表11)。潜在需要の増加という点では、医療・介護はあくまでも一例であり、このほかにも、多様化する国内消費需要、急拡大するアジアの購買力、世界規模での資源・エネルギー・環境問題など、うまく取り込めば成長力の強化に繋がるチャンスはたくさんあるように感じています。

成長力引き上げとデフレ脱却との関係

ところで、今申し上げた成長力引き上げ、あるいは実質GDP成長率引き上げの努力と、名目GDPの引き上げ、ないし、デフレからの脱却との関係はどのように考えれば良いでしょうか。私はデフレからの脱却のためにも、成長力引き上げの努力を通じて需要を作り出すことが大事であることを強調したいと思います。というのも、景気が良くなり需給ギャップが改善してから物価が上昇するというのが過去の経験則だからです。もちろん、物価が景気と関係なく上昇するケースはない訳ではありません。それは原油等の輸入コストが上昇し、そのコスト転嫁から、物価が上昇するケースがそれに当たります。しかし、我々はそうした状況を待ち望んでいる訳ではありません。その意味で、成長期待を高めることが鍵を握ります。

デフレ脱却に向けた意思

それでは、どうすれば日本の成長力強化に向けた取り組みが可能になるのでしょうか。私は、日本全体が力を合わせれば、成長力の強化という課題達成は十分可能だと思っています。この面では、私は以下の2つのことが出発点になると思っています。

第1は、日本が直面している問題を我々自身が正確に認識することです。現在はまだ高い所得水準を維持していますが、このまま対応策を講じないと、現在の水準が維持可能ではなくなるということです。日本経済の根本的な問題は成長力の低下であり、デフレはそのひとつの表れです。しかし、悲観論や運命論は不適当です。例えば、少子高齢化は日本経済にとって大きな逆風ですが、少子高齢化自体が低成長やデフレをもたらしている訳ではありません。少子高齢化という構造変化への対応が遅れたこと、さらには、同時に進行したグローバル化という大きな構造変化への対応が遅れていることが、低成長、ひいてはデフレの基本的な原因です3。そのような認識に立てば、必要な取り組みは必ず始まると思います。

第2は、成長であれ、デフレ脱却であれ、企業、金融機関、政府、中央銀行、それぞれが役割を果たすことが不可欠だという認識です。この点では、シュンペーターのイノベーション論を待つまでもなく、何といっても、企業のチャレンジ精神が決定的に重要です。具体的には、縮小する市場で価格競争を繰り広げる「レッドオーシャン戦略」から、新たな市場を創出して高い付加価値を実現していく「ブルーオーシャン戦略」へと、企業の基本戦略を移していくことが必要です。コストカットだけでなく、付加価値の創出を背景とした収益力の向上が実現すれば、従業員にもより高い賃金が払えるようになります。すると消費者は、より積極的に価値ある商品・サービスを購入する意欲を強める、という好循環が生まれます。そうした取り組みをサポートする金融機関の役割も重要です。

言うまでもなく、規制緩和をはじめ、企業のチャレンジが起きやすい環境を政府が整備することも重要です。この点に関していえば、年央に予定されている日本再生戦略の取りまとめなどを通じて、政府としての取り組みが着実に進められていくものと理解しています。ただし、そうした改革は、最終的には国民の合意なしには進みません。その意味では、新陳代謝を受け入れる社会の価値観と、それを具体的に支える規制緩和や再チャレンジを可能とするセーフティー・ネットの充実によって、成長力の強化を図ることが重要だと思います。企業、金融機関、政府の果たす役割や、国民の合意ということを申し上げましたが、日本銀行も全力を挙げて、デフレから脱却し、物価安定のもとでの持続的成長経路に復帰するという課題達成に取り組みます。

6.おわりに

現在、世界を見渡すと、欧州も米国も、そして新興国も、それぞれ大きなチャレンジに直面しています。日本も同様です。直面している課題には共通点もありますが、国や地域によって異なる点も数多くあります。振り返ってみますと、日本は過去四半世紀の間に、バブルの生成と崩壊、金融危機、根強いデフレ傾向、急速な高齢化等、様々な問題に直面してきましたが、いずれも、他の先進国に先駆けて経験した問題でした。我々は長年の習性から、ついつい海外に解答を求めるという思考様式になり勝ちですが、そこにはヒントはあっても解答が用意されている訳ではありません。我々自身が現実を直視し、必死になって解決策を考え、これを実行するしかありません。日本の輸出構造が時代とともに大きく変遷してきた事実からみても、日本人は環境の変化に適応していく力を十分持っているはずです。繰り返しになりますが、日本経済がデフレから脱却し物価安定のもとでの持続的成長を実現するために、日本銀行としても、中央銀行としてできる限りの貢献をしていきたいということを申し上げて、私の話を終えたいと思います。

本日は、ご清聴ありがとうございました。