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【講演】中央銀行の役割、使命、挑戦

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日本記者クラブにおける講演

日本銀行総裁 白川 方明
2013年1月25日

目次

1.はじめに

本日は伝統ある日本記者クラブにお招きいただき、ありがとうございます。私が日本銀行総裁として初めて行った講演はこのクラブでの講演であり、総裁就任の翌月のことでした。その後の約5年間、内外で様々な出来事がありましたが、日本銀行を含め、世界中のどの中央銀行も、正に「激動の時代」を走ってきているように感じます。

2008年の春を振り返ってみると、総裁就任翌日にワシントンで開かれたG7の財務大臣・中央銀行総裁と民間金融機関の会合で、「最悪期は去ったかもしれない」という発言を聞き、違和感を覚えたことを記憶しています。実際、その年の9月には米国の大手証券会社リーマン・ブラザーズが破綻し、これを契機として国際金融市場の緊張は極度に高まるとともに、世界の経済活動は急速に落ち込んでいきました。また、2009年暮れ頃には、その後波状的に深刻化することになる欧州債務危機がギリシャで勃発しました。そうしたグローバルな金融危機は投資家のリスク回避姿勢を強めました。その結果、安全資産としての円に対する需要が高まり、為替市場では2007年にかけての円安傾向から一転、急激な円高が進行することになりました。さらに、2011年3月には、東日本大震災という、あの悲惨な大災害が発生しました。これらがすべて日本経済に大きな影響を与えたことは言うまでもありません。さらに、上述の3つの出来事とはやや性格が異なりますが、この間、わが国では急速な高齢化が進行し、この動きへの適合の遅れが日本の成長率の低下や財政悪化をはじめ、様々な難しい課題をもたらしています。

こうした一連の出来事に対し、日本銀行を含め、各国の中央銀行は、文字通り総力を挙げて対応してきました。金融市場が不安定化する惧れがある場合は、「最後の貸し手」として行動するというのが確立した大原則です。中央銀行はこの原則に従って対処し、金融市場、金融システムの安定に努めました。こうした努力の結果、1930年代のような大恐慌の再来を回避することに成功しました。しかし、金融危機に先立つグローバルな信用バブルのもとでの債務の積み上がりがあまりにも大規模であったことを反映し、リーマン・ブラザーズ破綻後4年以上を経過した今日でも、世界の景気回復は緩やかなものに止まっています。比喩的に言えば、危機時の急性症状は癒えても、過剰債務の調整に伴う慢性症状から抜け切れていないと言えます。

金融政策の面では、わが国を含む多くの先進国で、短期金利は事実上のゼロ金利となっています。中央銀行の資金供給、バランス・シートの規模も空前の水準にまで拡大しています。資産買入れの対象も拡大しています。例えば、日本銀行は国債だけでなく、CP、社債、ETF、REITといったリスク資産も購入しています。日本銀行を含め、先進国の中央銀行は様々な非伝統的政策を駆使していますが、先ほど述べたように、経済の回復は満足できる状況にありません。問題は国によって異なります。欧米諸国では高い失業率です。ユーロ圏では11.8%、米国もピークからは低下したとはいえ7.8%という高水準です。わが国では失業率は4.1%と欧米比かなり低い水準ですし、上昇も相対的に小幅でしたが、物価上昇率は前年比でほぼゼロ%と低位であり、デフレから脱してはいません。この間、先進国ではどこも、財政改革や競争力強化に向けた構造改革について、その必要性や長期的な効果自体は理解されているものの、改革の痛みが先行するため、その実行は遅れがちとなっています。このような状況下、世界的に、中央銀行の政策に対する要求や期待がかつてないほど高まっています。

ご承知のように、わが国では、過去数か月、金融政策に対する議論がかつてなかったほど活発化しました。また、日本銀行は、今週初の金融政策決定会合で、「物価安定の目標」や「期限を定めない資産買入れ方式」を導入し、金融緩和の思い切った前進を図りました。さらには政府との政策連携の強化を謳った共同声明を発表しました。これらについては、本席の皆さんの関心も高いと思いますが、既に、決定会合後の記者会見などの場においてかなり詳しい説明を行いました。そこで、今回の決定をより大きな流れの中で理解して頂くことも願いながら、本日は、「中央銀行の役割、使命、挑戦」と題してお話しします。およそ全体の2/3位で中央銀行自体についてお話をし、残り1/3位で今般の措置についてご説明します。私としては、中央銀行の本質を語ることを通じて、金融政策や日本銀行を巡る議論について、多くの方々が考えを深められる上で何がしかお役に立てることが出来れば、大変幸いです。

2.4つの出来事:中央銀行の役割を考える事例

中央銀行とは一体何をする組織でしょうか?この点から話を始めようと思います。ここで、中央銀行について語られる際にしばしば引用される3つの言葉をご紹介します。第1は、1920年代から30年代にかけて米国で絶大な人気のあったコメディアンであるウィル・ロジャーズという人が述べた言葉ですが、中央銀行を、火と車輪に並ぶ人類の三大発明に挙げています。三大発明は少し大袈裟かもしれませんが、中央銀行が人々の暮らしにとっていかに重要かを語っています。第2は、1950年代から60年代にかけ、ほぼ20年にわたってFRBの議長を務めたウィリアム・マーティンの有名な言葉ですが、中央銀行の役割について、「パーティーの場が乱れる前にお酒を片づけること」であると述べています。第3は、ドイツの首相として統一を成し遂げたヘルムート・コールの言葉ですが、「政治家としてブンデスバンクの金融政策決定を好ましく思ったことはあまりないが、一市民としての自分はブンデスバンクの存在を喜ばしく思う」と述べています。あとの二つの言葉は、中央銀行の役割を独立性と関連付けて述べています。

こうした比喩ではなく、中央銀行の機能を体系的に説明しようとすれば、中央銀行は「物価の安定」と「金融システムの安定」を目的としているということになります。各国の中央銀行法は立法時点での歴史的経緯等を反映し、時期を遡るほど、多くの目的が掲げられており、目的規定としてはやや曖昧になっていますが、日本銀行を含め、過去20年位に立法されたケースでは、「物価の安定」と「金融システムの安定」という2つの目的が掲げられるケースが圧倒的に多くなっています。私も中央銀行の本質的役割はこの2点にあると思っています。ただ、そうした概念的な整理だけでは、中央銀行の役割について具体的なイメージは掴みにくいと思います。

そこで、次に、過去5年間に直面した具体的な出来事を取り上げながら、中央銀行の役割や使命を語ってみようと思います。出来るだけ、中央銀行が担っている多くの仕事を取り上げます。取り上げる事例は冒頭言及したリーマン・ショック、欧州の債務危機、東日本大震災、そして、日本経済の急速な高齢化の進行の4つです。

リーマン・ショック

最初は、2008年9月のリーマン・ブラザーズの破綻です。同社の破綻は国際金融市場に極めて大きなショックを与え、金融システムが機能不全に陥ると、経済活動に極めて大きな影響を与えるということを示しました。金融システムの安定は空気のような存在であり、その重要性は日頃はあまり意識されませんが、この出来事ほど、安定的な金融システムが経済活動を支える重要な基盤であることを示す出来事はなかったように思います。

この出来事は中央銀行の果たしていく多くの役割の幾つかを浮き彫りにしています。第1に、最も明瞭となった役割は、「最後の貸し手」としての役割です。日本銀行も「最後の貸し手」として、迅速に行動しました。わが国の場合、問題が最も先鋭に表れたのはドル資金市場であり、金融機関も企業も急速にドル資金が不足する事態となりました。このような状況に対応し、日本銀行はFRBから為替スワップ取引でドル資金を調達した上で、自国市場でドル資金を供給しました。円の金融市場のうち、銀行間資金市場は相対的に安定していましたが、CPや社債の市場については、信用リスクに対する懸念から急速に機能不全状態に陥ったため、日本銀行はCPや社債を買い入れることにしました。これは個別企業の信用リスクを中央銀行が負担するという点で、異例の措置でした。

第2の役割は地味ではあるものの私としては強調したいものですが、決済システムの改善に向けた触媒役としての役割です。リーマン・ショックの6年前(2002年9月)に、外国為替の取引の決済、例えば、円とドルの取引の決済について、円とドルを紐付けて同時に決済するという仕組みが導入されました。仮に、そうした仕組みの構築が間に合っていなければ、リーマン・ショックが起きた時の金融市場の混乱は想像を絶するものになっていたと思います。日本銀行を含む各国中央銀行は、6年以上の議論を経て、この仕組みを導入することについて主導的な役割を果たしました。

第3の役割はバブルを防止し、経済や金融の安定を図る役割です。リーマン・ショック後の低成長を経験するにつけ、改めてグローバル金融危機の根本的な原因である2000年代半ばにかけての未曾有の信用バブルがなぜ起きたのか、という問いに向き合わざるを得ません。しばしばバブル崩壊後の政策対応について、FRBは日本銀行に比べて積極的であったと言われます。しかし、バブル崩壊後これまでの6年以上の期間でみる限り、米国の実質GDPの回復ペースは1990年代の日本と比べても鈍いというのが実態です。厳密にどちらのパフォーマンスが良いかはさておき、重要なことは両国の経験が示すように、企業や家計の債務が膨張し、信用バブルが発生すると、その経済的コストは極めて大きいということです。バブルが崩壊すると、企業や家計は債務の返済を優先せざるを得ず、投資や消費に回るお金が減り、経済活動が全体として圧迫され、低成長が続くことになります。今では信じられないことですが、今回の信用バブルが崩壊する前までは、バブルとの関係について言えば、金融政策はバブルが崩壊した後に積極的な緩和政策で対応すればよいというのが、海外、特に米国の学界や政策当局者の間で圧倒的に支配的な考え方でした。つまり大事なのは「事後処理」だというのが当時の理解でした。バブル期に金融緩和が長く続いたひとつの理由は、わが国もそうでしたが、物価が安定していたことでした。1987年、88年はいずれもゼロ%台の物価上昇率でした。もちろん、信用は膨張し、資産価格も急上昇していましたが、そのような形で、経済に不均衡が蓄積して長い目でみた経済の安定が害される惧れは意識されていませんでした。バブルの発生原因は複雑であり人々の熱気としか言いようがない面もあります。金融緩和だけから生まれるものではなく、規制・監督だけで防げるものでもありません。しかし、バブルや過剰な債務の積み上がりを防ぐ上で、適切な金融政策や規制・監督の果たす役割が大きいことは言うまでもありません。今回の世界的な信用バブルに関連してもうひとつ私が感じることは、バブルや金融政策運営についても、僅か5、6年でこのように考え方が大きく変わったという事実です。さらに言えば、バブルと金融危機は繰り返し発生しているという事実自体を我々は忘れ勝ちだという事実です。その意味で、政策当局者にとっては謙虚さを常に忘れてはならないということも感じます。

欧州の債務危機

2番目に取り上げる出来事は欧州債務危機です。ご承知のように、欧州債務危機は2009年の暮れに、ギリシャ政府が財政赤字の計数を過去に遡って大幅に修正したことをきっかけとして発生しました。先ほどのリーマン・ショックに関しては、中央銀行の役割を3つ述べましたが、欧州債務危機については、市場や政府、社会と中央銀行との関係や相互作用という点で、考えさせられる材料や教訓を幾つか申し上げます。

第1は、財政規律の重要性です。通貨の安定を図る上での財政バランス維持の重要性は昔から認識はされていましたが、欧州債務危機はその重要性を正に現在進行形で示す出来事でした。財政バランスが悪化した場合、これを回復する方法は、論理的には、財政再建に取り組むか、国債のデフォルトか、インフレで債務を帳消しにするしかありません。国債のデフォルト、つまり国債を返さないということが生じると、国債を保有する金融機関の自己資本は毀損され、最悪の場合、金融機関の債務である預金に対する信認が低下します。そこまで行かない場合でも、民間に対する貸出が抑制され、実体経済にも悪影響が及びます。そうした事態を避けようとして、中央銀行が国債を買い入れると、通貨の過剰発行からインフレになりかねません。いずれの場合でも、通貨の価値が毀損されることは言うまでもありません。通貨の信認を維持するためには、中長期的にみて財政規律がしっかりと維持されることが不可欠な前提条件です。

第2は、中央銀行と金融市場との「付き合い方」です。ユーロ発足後の国債金利ほど、この問題を考えさせる出来事はないような気がします。ユーロ圏では、ユーロの導入を契機に域内各国経済のファンダメンタルズが収斂するという期待のもと、域内各国の国債の発行条件が急速にドイツ国債の発行条件に近づきました。そして、10年近くにわたって、ギリシャ、アイルランド、ポルトガル等、欧州周縁国の国債金利はドイツの国債金利と同じという状況が続きました。一方、国債金利が上昇する時には、大幅に上昇しました。ギリシャはやや極端なケースかもしれないので、スペインの国債金利のドイツ国債に対する上乗せ幅をみると、3年前は0.7%、最悪期の2012年7月下旬には6.4%、そして現在は3.5%となっています。正常な上乗せ幅が幾ら位であるかは正確には分かりませんが、こうした価格形成の背後にある信認という要素の脆さを感じます。

第3は、中央銀行の行動と社会の相互作用です。欧州債務危機が表面化して以来、市場は何度となく悲観と楽観を交互に繰り返してきました。市場の緊張に対し、ECBは市場の安定化を図るために資金を供給しました。これによって市場の緊張が少し和らぐと、緊張が高まった局面で議論されていた改革のモメンタムが低下しました。その結果、市場は再び緊張を高め、ECBはより大規模な資金供給を行いました。過去3年間は正にその繰り返しでした。ECBの流動性供給は「時間を買う政策」です。時間を買っている間に、経済・財政の構造改革を推進する必要があります。当面の経済や金融システムの安定を図りながら、社会として改革に向けて必要なモメンタムを維持していくことは、難しい課題です。

ただ今申し上げた欧州債務危機の経験から得られる教訓や観察は、わが国にとっても、中央銀行の役割を考える上で、様々な材料を提供しているように感じます。

東日本大震災

中央銀行の役割を考える上で3番目に取り上げる出来事は東日本大震災です。東日本大震災は、一国の金融システムというインフラを物理的に維持する上で、中央銀行が根幹的な役割を果たしており、その重要性を示すものであったと思っています。中央銀行が中央銀行として鼎の軽重が真に問われるのは、どのような危機時においても、一国の金融システムや金融市場というインフラを物理的にもしっかりと維持することではないかと思っています。東日本大震災が発生したのはご記憶にあるように、金曜日の午後3時少し前という、金融機関にとっては営業時間が終わる間際でした。大方の金融取引は終わっている時間帯でしたが、日本銀行としてはその日の円資金の様々な決済が円滑に終了するよう万全を期しました。また、週明けの月曜日には金融政策決定会合を短縮して開催し、企業マインドの悪化や金融市場におけるリスク回避姿勢の高まりが実体経済に悪影響を及ぼすことを回避するために、リスク資産を中心に金融資産の買入れを増額することを決定するとともに、市場の混乱を防ぐため、大量の資金を供給しました。当日だけで21.8兆円の資金供給をオファーしました。この間、わが国における資金決済システムの根幹をなす日銀ネットは支障なく正常に運行しました。さらに、津波で流されて水をかぶるなどして損傷した銀行券や硬貨の引き換えについても、臨時の引き換え窓口を開設したり、被災地へ応援の職員を派遣したりして、これが円滑に進むようにしました。

物理的な意味でのインフラ維持の重要性は、わが国のような地震国にあっては特に重要です。東日本大震災においては、日本銀行は中央銀行としての責任を果たすことができたと考えています。この課題を達成するために、かなりの経営資源を投入していますが、今後も南海トラフや首都直下などでの巨大地震の発生に対する備えを含め、業務継続体制の確保に向けて、努力を続けていく方針です。

急速な高齢化の進行

中央銀行の役割を考える上で最後に取り上げるテーマは、わが国で急速に進んでいる高齢化です。中央銀行の役割との関連で、何故高齢化の問題を取り上げるかと言うと、中央銀行の行う金融政策にとって短期的には所与の環境である潜在成長率の持つ意味について考えるためです。供給サイドや実物要因で決まってくる経済の動きは、中央銀行にとって基本的には与件となります。もちろん、中央銀行としても安定的な金融・経済環境を作ることによって、供給サイドにも好影響が及ぶことを期待していますが、基本的には、金融政策は様々な経済主体の支出、需要面に影響を及ぼすことによって、物価や経済活動に働きかける政策です。需要が経済の潜在的能力を下回っていればマイナスの需給ギャップ、上回っていればプラスの需給ギャップということになります。現在、日本のマイナスの需給ギャップは2%程度であり、これが解消する過程では成長率が高まりますが、ひとたび需給キャップが解消すれば、成長率は潜在的な能力が高まるスピード、すなわち潜在成長率に規定されます。現在の日本経済の問題は、この潜在成長率が徐々に低下していることです。その大きな要因は、いまだかつて経験した国がないほどのスピードで進んでいる高齢化です。一国の経済成長率は就業者数の伸びと、就業者一人一人が生み出す付加価値——付加価値生産性——の増加率によって決まってきます。現在の男女別、年齢別の労働参加率を前提とすると、2010年代のわが国の就業者数は、平均して、毎年0.6%ずつ減っていく計算になります。言い換えると、就業者数の伸びの面からみると、実質GDPは年率0.6%で減少することを意味します。大変な逆風です。付加価値生産性の増加率は、G7諸国の過去20年間の平均でみると、年率1.3%です。日本についてみると、2000年から2008年という比較的良好な時期をとると、年率1.5%です。只今申し上げた数字から、潜在成長率は計算できますが、1%以下となります。

ここで私が申し上げたいことは、今後は低成長が不可避であるということではありません。もちろん、人口動態そのものはすぐに変えられるものではありませんが、意思をもって変えようとすれば変わるものも沢山あり、成長力を高めていく余地はあります。まず、就業者数については、女性や高齢者の労働参加率を引き上げることによって、これを増やすことは可能です。因みに、仮に、2030年までに、女性の労働参加率が概ねスウェーデン並みの水準まで上昇するとともに、60〜64歳の方の労働参加率が55〜59歳と同じ水準まで上昇し、65歳以上についてもそれに見合って上昇すれば、2010年代の労働力人口は、先ほど申し上げた年率0.6%の減少ではなく、年率0.2%の増加となります。他方、付加価値生産性の増加率を高めるには、内外市場でニーズの高い商品やサービスを開発し、これを新たなビジネスとして成功させることが必要となります。例えば、内需開拓という点では、高齢化に伴って新たに生まれる潜在需要に対して、十分なサービスをタイムリーに供給する努力が重要です。また、そうした企業の挑戦を引き出すためには、規制緩和などの環境整備を積極的に進めなければなりません。こうした取り組みにより成長力が高まっていけば、実際に景気が良くなり、現実の物価上昇率も高まっていくと考えられます。

3.デフレからの早期脱却と物価安定のもとでの持続的成長の実現

以上、中央銀行の役割を説明してきましたが、次に、中央銀行の挑戦という話に移りたいと思います。様々な挑戦課題に直面していますが、現在、何と言ってもわが国にとって、また、日本銀行にとって最大の課題は、デフレからの早期脱却と物価安定のもとでの持続的成長経路への復帰です。日本銀行はこの課題達成は極めて重要であると認識しており、そうした認識のもと、強力な金融緩和を行ってきています。

日本銀行が今週初の金融政策決定会合で行った決定のポイントは以下の2つです。

「物価安定の目標」と「期限を定めない資産買入れ方式」

第1は、2%の「物価安定の目標」を導入したことです。日本銀行は、今後、日本経済の競争力と成長力の強化に向けた幅広い主体の取り組みの進展に伴い、持続可能な物価の安定と整合的な物価上昇率が高まっていくと認識しています。この認識に立って、日本銀行は、物価安定の目標を消費者物価の前年比上昇率で2%とすることにしました。その上で、日本銀行は、上記の物価安定の目標のもと、金融緩和を推進し、これをできるだけ早期に実現することを目指します。その際、日本銀行は、金融政策の効果波及には相応の時間を要することを踏まえ、金融面での不均衡の蓄積を含めたリスク要因を点検し、経済の持続的な成長を確保する観点から、問題が生じていないかどうかを確認していくことにしています。

第2は、「期限を定めない資産買入れ方式」を導入したことです。日本銀行は、上記の物価安定の目標の実現を目指し、実質的なゼロ金利政策と金融資産の買入れ等の措置を、それぞれ必要と判断される時点まで継続することを通じて、強力に金融緩和を推進します。既に発表しているように、今年も資産買入等の基金の残高は40兆円近く増加します。さらに、今年初からは金融機関が貸出を増やした場合は、その全額までファイナンスするという仕組みを導入し、これにより来年春までには新たに15兆円を上回る資金を供給することとしています。また、資産買入等の基金の運営について、現行方式での買入れが完了した後、2014年初から、期限を定めず毎月一定額の金融資産を買い入れる方式を導入しました。今回、日本銀行が発表した消費者物価の2014年度の見通しは0.9%(消費税率引き上げの影響を除く)ですが、2014年初から当分の間、毎月、長期国債2兆円程度を含む13兆円程度の金融資産の買入れを行います。これにより、資産買入等の基金の残高だけでも2014年中に10兆円程度増加し、それ以降残高は維持されると見込まれます。このように、日本銀行としては、切れ目なく強力な金融緩和を推進していくこととしています。

目標の達成に向けて

先程、日本銀行は、今後、日本経済の競争力と成長力の強化に向けた幅広い主体の取り組みの進展に伴い、持続可能な物価の安定と整合的な物価上昇率が高まっていくと認識し、この認識に立って、物価安定の目標を消費者物価の前年比上昇率で2%とすることにしたと述べました。過去の物価上昇率を振り返ってみると、バブル期の1980年代後半でも消費者物価指数の前年比は平均で1.3%でした。1985年から2011年までの平均で0.5%です。物価安定のもとでの持続的な成長の実現には、様々な主体の相当の努力を要すると思っています。先程、急速な高齢化の進展の問題を取り上げましたが、そこでも述べたように、成長力の引上げについて悲観論に陥ることは不適当です。リーマン・ショック前と現在の実質GDPに関する比較が良く行われますが、確かに、日本は多くの欧州諸国と同様、現在も2007年の実質GDP水準を下回っています。しかし、一人当たり実質GDPでみると、米国を含め、主要国はリーマン・ショック前の2007年の水準を下回っていますが、落ち込み幅は日本が相対的に小さくなっています。そして、生産年齢人口一人当たりでは、米欧が危機前の水準を下回っているのに対し、日本は危機前の水準を上回っています。言い換えると、日本は生産年齢人口自体が減少しているため、一国としての成長率は低くなりがちですが、働く日本人の一人一人は、米欧を上回るペースで、付加価値の増加に貢献しています。このことは我々が過度の悲観論に陥るべきではないことはもとより、むしろこうしたことについて、我々はもっと自信を持っていくべきではないかということを意味していると思います。この点、今回、政府と日本銀行が発表した政策連携強化の共同声明では、日本銀行は強力な金融緩和を行い、政府は競争力と成長力の強化に向けた取り組みを進めるという形で、それぞれお互いの役割を明確に認識した上で、デフレからの早期脱却と物価安定のもとでの持続的成長の実現に向けて一体となって取り組むことを明らかにしており、その意義は大きいと思っています。

柔軟な金融政策運営の重要性

今回、日本銀行が「物価安定の目標」について決めたことは、「目標」であることと、柔軟な物価目標政策であるということなので、この後者の点についてもお話ししたいと思います。言うまでもなく、金融政策の効果は、経済活動に波及し、それがさらに物価に波及するまでに、長期かつ可変のタイムラグが存在します。金融政策は、物価安定のもとでの持続的成長を実現する観点から、経済・物価の現状と見通しに加え、金融面での不均衡を含めた様々なリスクも点検しながら、柔軟に運営していく必要があります。こうした考え方は、各国で広く共有されており、とくに、世界的な金融危機以降、海外主要国では、金融システムの安定へ配慮することの重要性を対外的に明確にするなど、金融政策運営の柔軟性という視点が強く意識されるようになってきています。わが国でも、この1年間で、こうした考え方に対する理解が着実に拡がってきています。こうした状況を前提とすると、「目標」と表現することが、日本銀行の考え方を伝えるうえで、わかりやすく適当であると判断した次第です。

日本銀行の行う金融政策の目的、理念については、日本銀行法に「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とする」ことが明確に定められています。従って、当然のことながら、日本銀行としては、この理念とこの理念のもとで設定された新たな物価安定の目標のもとで、金融政策を運営していくことになります。物価安定のもとでの持続的成長を実現する観点から、経済・物価の現状と見通しや、金融面での不均衡を含めた様々なリスクを点検します。こうした金融政策の枠組みは、現在、多くの中央銀行が導入しているものと同じものです。従って、これを柔軟な物価目標政策——フレキシブル・インフレーション・ターゲティング——と呼ぶのであれば、日本銀行の枠組みもそのように理解することができます。

海外中央銀行では、インフレーション・ターゲティングを採用するかどうかにかかわらず、物価安定の達成の時期について明確には定めていません。日本銀行の物価安定も、「持続可能」な物価安定を目指すという点で、海外の中央銀行と同様の考え方に立っています。

日本銀行は先程述べた金融緩和政策を実行しており、目標をできるだけ早期に実現することを目指しています。こうした金融緩和の効果は、緩和的な金融環境を企業等が積極的に活用すればするほど、大きくかつ早期に顕現していきますが、その程度やタイミングを現時点で正確に見通すことは難しいと言わざるを得ません。また、日本では長期にわたって低い物価上昇率が続いてきたことを考えると、消費者物価の前年比上昇率が高まっていく局面で、家計や企業の行動にどのような変化が生じるか、現時点では見通せない要素も多くあります。さらに、わが国の財政が極めて厳しい状況にあるだけに、内外の金融市場がどのように反応するかについて不透明な面が少なくありません。日本銀行としては、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資する」という日本銀行法に定められた目的に沿って、この目標ができるだけ早期に実現することを目指して、最大限の努力を行っていく方針です。こうした日本銀行の政策運営方針は、多くの国民の考え方と整合的だと思っています。因みに、日本銀行が四半期毎に実施している「生活意識に関するアンケート調査」からも窺えるように、性別、年齢、職業を問わず、多くの国民が望んでいる「物価の安定」とは、雇用の増加と賃金の上昇、企業収益の増加などを伴いながら経済がバランスよく持続的に改善し、その結果として物価の緩やかな上昇が実現する状態です。つまり、わが国が、物価安定のもとでの持続的成長経路に復帰しなければならないということです。

4.結びに代えて—中央銀行という組織

以上、中央銀行の役割と今般の決定について説明してきましたが、最後に、中央銀行がその使命を適切に果たしていくことを可能にする条件について、通常はあまり意識されていない点を含めて、話をしてみたいと思います。私が最も強調したいのは、中央銀行の組織についてです。どの企業、どの組織でもそうだと思いますが、仕事をするのは働いている個々の人間であり、伝統やお互いに刺激を与え合う中で形成される暗黙知を含め、組織文化は非常に重要です。私は特に以下の4点を強調したいと思っています。

第1は、中央銀行は銀行であり、その故に、日々行っている銀行業務、銀行実務が大変重要であるということです。金融政策は、先程述べた基金による資産買入れひとつをとっても、決済や担保の掛け目評価をはじめ、様々な銀行実務を伴います。そうした銀行実務は決して単純で機械的なものではありません。しばしば「本質は細部に宿る」と言われますが、そうした銀行実務に関する知識や感覚は金融の微妙な動きを理解する上で重要であり、特に危機時においては、大きな意味を持ってきます。

第2は、今の銀行業務の重要性とも関連しますが、金融政策であれ、金融システムの安定の政策であれ、政策運営に当たっては、中央銀行の幅広い分野の仕事で得られる情報や感覚を総動員することが重要です。もっとも、中央銀行のこうした多様な仕事の重要性は一般にはあまり知られていません。実際、日本銀行に関するメディアの報道は金融政策に集中しています。もちろん、金融政策は重要ですが、経済・金融の安定を実現していく上で、金融政策は中央銀行が担っている多くの仕事のひとつです。実際、総裁としての私自身の日々の時間の配分から言っても、また、職員の配置状況から言っても、中央銀行の多様な仕事が全体として、日本の経済の安定や発展を支えていると思っています。グローバル金融危機発生後、マクロ・プルーデンスという視点が重視され、多くの国で中央銀行がマクロ・プルーデンス政策を単独で担ったり、その重要な一角を担うようになっているのは、中央銀行がマクロ経済、金融市場、金融機関、決済インフラという様々な金融にかかる営みと接点を持っているだけでなく、そうした幅広い接点から得られる情報に対する感覚を常に研ぎ澄ましていることと関係しています。

第3は、中央銀行は広い意味での学習を不断に継続する組織でなければならないということです。過去四半世紀の間に起きたことは、バブルにしてもバブルの崩壊と金融危機、デフレ、急速な高齢化にしても、各国とも当初はその持つ意味を正確に理解していた訳ではありませんでした。しかし、時が経つにつれ、そうした環境の変化がその後の経済に大きな影響を与えます。その意味で、経済や金融市場の変化に常に敏感であり、また、立場や意見の異なる様々な人の意見に耳を傾ける謙虚さが必要です。中央銀行は不確実性に満ちた現実の経済の中で、多くの人の生活に影響を与える決定をしないといけないだけに、謙虚さの重要性を感じます。

第4は、グローバルな視点の重要性です。経済・金融のグローバル化を考えると、当然過ぎると思われるかもしれませんが、改めて強調したいと思います。その場合、海外の動きがわが国に影響するという関係だけでなく、わが国が海外に影響を与えるという関係も重要です。振り返ってみると、わが国は、バブル崩壊や金融危機、その後の低成長、急速な高齢化をはじめ、他の先進国に先行して問題を経験してきました。日本銀行は自らの経験やそこから得た教訓を海外に伝える努力を続けてきましたが、欧米でバブルが崩壊するまでは、なかなか説得力をもって理解はされませんでしたし、現在でも十分には伝えられていないように感じています。わが国としても日本銀行としても、グローバルな知的交流という面でも、もっと努力する必要があると感じています。

日本銀行は昨年創立130周年を迎えました。長い歴史の中で、日本銀行の業務の内容は時代とともに変化しており、現在も大きな挑戦を行っていますが、これからも物価の安定と金融システムの安定を確保することを通じて、わが国経済の安定的かつ持続的な発展に貢献していきたいと思っています。

本日はご清聴ありがとうございました。