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【講演】イールドカーブ・コントロールの歴史と理論「金融市場パネル40回記念コンファレンス」における講演

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日本銀行理事 雨宮 正佳
2017年1月11日

目次

1. はじめに

日本銀行の雨宮でございます。新年明けましておめでとうございます。

本日は「金融市場パネル」の40回記念コンファレンスに際してお話しする機会をいただき、大変光栄に存じます。本パネルの初回会合が開催されたのは2009年3月でした。当時は、グローバル金融危機を受けて、各国の中央銀行が相次いで非伝統的金融政策を導入し、その評価を巡って議論が開始された時期でした。同時に、2000年代における金融面での行き過ぎの意味合いが明らかになってきました。こうしたもとで、それまで当然視されていた様々な金融政策や金融規制のパラダイムが見直されていく重要な時期の入り口でした。以来8年近くにわたり、本パネルが危機後における金融市場や金融政策をめぐる論点について充実した議論を重ねてきたことに心から敬意を表したいと思います。

さて、私が前回この場でお話しさせていただいたのが、2012年2月の20回記念コンファレンスでしたから、もう5年ほど前のことになります。この間、日本銀行は、2%の「物価安定目標」を達成すべく、2013年4月に「量的・質的金融緩和」、2016年1月に「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」を導入するなど、大規模な金融緩和を推進してきました。さらに、昨年9月の金融政策決定会合では、それまでの政策効果に関する「総括的な検証」を行い、その内容を踏まえて、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」、いわゆるイールドカーブ・コントロールという新しい枠組みを導入しました。

一般に、中央銀行による金利操作については、「短期金利の操作はできるが、長期金利の操作はできないし、すべきではない」とされてきました。このため、イールドカーブ・コントロールはこのような伝統的考え方と対立するのではないかとの受け止め方もありました。しかし、歴史を紐解きますと、こうした「伝統」が明確に定着したのは、実は、最近20年ほどの短い期間に過ぎないということがわかります。実際、中央銀行が長期金利に直接働きかけることを通じて政策効果を得ようとする考え方は、過去、繰り返し台頭してきました。そこで、本日は、イールドカーブ・コントロール、とりわけ長期金利操作の歴史と理論について、議論の中心地であった米国を中心に振り返ったうえで、最後に、いくつかの論点を提示したいと思います。

2. 長期金利操作の歴史と理論

大恐慌時におけるケインズの考え方

まず、マクロ経済学の創始者であるケインズから話を始めることとします。ケインズといえば、長期金利が一定水準まで低下すると、それ以下には下がらず、流動性需要が無限大になるといういわゆる「流動性のわな」の概念を示したことで知られています。しかし、ケインズは、大恐慌時における米国はまだ「流動性のわな」には至っておらず、FRB(連邦準備制度)が積極的に国債市場に介入して長期金利を低下させる余地があると考えていました。例えば、1933年にルーズベルト大統領宛てに送られた公開書簡において、ケインズは「FRBが長期債を購入して短期債を売却するだけで、長期国債の金利は、2.5%かそれ以下に低下し、かつそれが債券市場に好ましい効果を及ぼすのであるから、私にはあなたがそれを行わない理由が分からない」と述べています(図表1)1。さらに、ケインズはこの政策の有効性について「この政策は一、二か月もあれば効果が現れると期待できるので、私はその重要性をとくに力説したい」とまで強調しています。このようにケインズは、少なくとも大恐慌のような危機時においては、中央銀行が積極的に長期金利に働きかけるべきであると考えていました。

しかし、当時のFRBは長期金利の形成を市場に委ねる方針を維持し、ケインズの提言したような大規模な市場介入は実施されませんでした。

  1. ジョン・メイナード・ケインズ著、松川周二編訳(2013)『デフレ不況をいかに克服するか ケインズ1930年代評論集』、文藝春秋等を参照。

第2次世界大戦への参戦を契機とした金利上限政策

このような状況が一変したのが1941年の第2次世界大戦への参戦です。国債市場では、財政赤字の拡大とインフレ亢進に対する懸念が高まり、長期金利は上昇圧力を強めました。財務省とFRBは、国債市場を安定化させ、戦費調達コストを低位に保つために、長短金利に上限を設定する枠組みを設けました(図表2)。すなわち、長期金利については、財務省が2.5%の金利上限で国債を発行し、FRBが国債買入れなど市場操作によりこの長期金利上限を維持することとなりました。また、短期金利については、FRBは3か月物TBを0.375%の指値で買い入れることとしました。こうした政策のもとで、FRBによる国債保有は急激に増加しましたが、金利上限に対する信認は、戦時中を通じて崩れませんでした。

大戦の終結後、物価統制令の解除とともに消費者物価上昇率が+20%近くまで高騰するようになると、さすがに戦時のイールドカーブは維持できませんでした。3か月物TBの買入れ金利は1948年にかけて引き上げられていき、短期金利に関する上限は事実上撤廃されました。他方で、長期金利に関する上限は、東西冷戦のもとで1950年代に入ってからも維持されることとなりました。当時、トルーマン大統領はマッケイブFRB議長に対して、国債価格が暴落することは「スターリンが望んでいることにほかならない」という手紙を書いていたほどです。

英国における国債価格支持政策

こうした国債価格支持政策を採ったのは米国だけではありません。英国においても、大戦後、イングランド銀行は、国債価格支持を目的とした国債買入れを実施しました。すなわち、終戦直後から1947 年まで、長期国債の金利水準に対して2.5%という明確なターゲットを設定して、徹底した買支えを実施しました(図表3)。その後、公定歩合操作による金融政策運営への移行に伴って明示的なターゲットこそなくなりましたが、国債金利の上昇ペースを抑制するための買入れ自体は、1971 年まで20年以上も断続的に行われました。この結果、イングランド銀行による国債保有は、増加の一途を辿りました。

このような米英における国債価格支持政策はどのように評価できるでしょうか。まず、中央銀行がオペレーションにより長期金利を抑制することは、よほどのインフレが起きない限り可能であったということは言えます。ただし、急いで付け加えておきたいのは、これらは国債管理のために金融を抑圧する政策であり、物価安定を達成するために能動的に長短金利を操作する私どもの「イールドカーブ・コントロール」とは異なるものであるということです。中央銀行が大量に長期国債を買入れた結果、長期金利は、名目成長率よりも低い水準で推移し、いわゆるドーマーの条件が成り立つこととなりました。この点は、債務残高の発散を防ぐ方向に作用したと言えましょう。しかしその一方で、金融政策は、国債買入れという国債管理政策に制約され、十分な役割を発揮できませんでした。国や局面によって程度の違いはありますが、インフレが許容されやすい状況が続くことになってしまったのです。

「アコード」の成立とビルズ・オンリー政策

そこで米国に話を戻しましょう。1950年代に入ると朝鮮戦争の激化とともにインフレ圧力が高まりました。そうした中で、1951年には、FRBと財務省は、長期金利上限政策の終了を決定する共同声明の公表に至ります。これがいわゆる「アコード」です(図表4)。

「アコード」の成立は、マクロ経済政策運営における非常時レジームの終了と能動的な金融政策の復活を意味します。国債価格支持という国債管理政策上の制約が外れることによって、FRBによるインフレ対策が可能となったのです。

さらにFRBは、1953年には、金融政策の目標が物価安定であることを明確に標榜するとともに、市場操作対象をTBに限定するビルズ・オンリー政策を採用しました。ただし、このビルズ・オンリー政策は、現代の短期金利操作とは異なるもので、長短金利ともに、金利体系の決定は市場に委ねることが望ましいとの考え方に基づいています。すなわち、公開市場操作の対象証券を市場における残高が巨額でかつ取引高の多いTBに限定することによって、金利体系に対するオペレーションの直接的な影響を抑えつつ、もっぱら商業銀行の準備量の増減に影響を与えようとしたのです。

オペレーション・ツイスト論争

1960年代に入りますと、ビルズ・オンリー政策には大きな修正が迫られます。当時、米ドル不安を背景に、金価格の暴騰と大規模な金および短期資金の海外流出が発生し、ドル防衛が喫緊の課題となりました。他方で、米国経済は深刻な景気後退局面に陥っていました。その頃就任したばかりのケネディ大統領にとっては、国際収支の改善と国内景気の浮揚の両立という難題への対応が経済政策の中心課題となったのです。こうした状況を受けて、FRBは、短期金利を高く維持して資本流出を抑制すると同時に、長期金利を引き下げて国内景気を刺激することを狙い、短期債を売却する一方で中長期債を買い入れる金融市場調節を1961年に開始しました。いわゆるオペレーション・ツイストです(図表5)。

しかし、大恐慌時や大戦直後と比べて発展した国債市場において、こうした政策が本当に有効かどうかについては、見方が分かれました。オペレーション・ツイストのような市場操作に効果が期待できるのは、トービンやモジリアーニなどケインジアンが強調するように、短期債と長期債の市場が分断されていて、両者が不完全代替であるとする市場分断仮説あるいは特定期間選好仮説が成立するケースです。他方、金利の期間構造理論として当時主流になりつつあった期待仮説の立場に立てば、短期債と長期債は高い代替性を有するため、政策の効果はあまり期待できないこととなります。両者の見解の違いは、実務家や経済学者を巻き込んでオペレーション・ツイスト論争と呼ばれる論争に発展しました。

この論争の中で様々な実証分析が行われましたが、当時は、結果的にはオペレーション・ツイストが利回りに与えた影響はきわめて小さいという見方が支配的となりました。とくに特定期間選好仮説の提唱者であるモジリアーニ自身が、オペレーション・ツイストの効果が統計的に有意でなかったとの分析を示したことが決定的となったようです2

この論争が後代に与えた影響は大きく、「中央銀行は短期金利の操作はできるが、長期金利の操作はできない」という見方は、この論争以降定着していったように見受けられます。

  1. 2Franco Modigliani and Richard Sutch (1966), “Innovations in Interest Rate Policy,” American Economic Review, Vol. 56, No. 1/2, pp. 178-197を参照。

マネーの時代

さて、1960年代後半には、それまで学界で主流派であったケインズ経済学は、インフレ圧力の持続的な昂進に対する有効な処方箋を描くことができなかったこともあり退潮期を迎えました。これと入れ替わるように、1970年代から1980年代にかけてマネタリズムが影響力を強めました。1967年にマネタリズムの総帥であったフリードマンが、「金融政策の役割」と題して行った米国経済学会会長講演が時代の変遷を象徴しています 3

金融政策運営面でも、マネーストックを中間目標として位置付けるマネタリー・ターゲティングの考え方が台頭しました(図表6)。FRBは、1970 年に、マネーストックや銀行信用を重視する方針を明らかにしました。1975 年には、向こう1年間のマネーストックのレンジを対外公表し始めました。さらに、1978 年に成立したハンフリー・ホーキンス法(1978 年完全雇用・均衡成長法)では、年2回、マネーストックの伸び率の目標値と経済見通しの関係について、議会報告書の中で説明することとなりました。さらに、1979 年には、ボルカー議長のもとで、非借入準備の操作を通じてM1の伸び率のコントロールを目指す市場調節方式を採用しました。

こうしたマネタリー・ターゲティングの考え方は、濃淡の差はありますが、1970 年代から1980 年代にかけてインフレの沈静化を目指す他の主要中央銀行においても採用されました。例えば、当時の西ドイツのブンデスバンクでは、1974 年にマネタリー・ターゲティングを行うことを公表し、中央銀行通貨量に目標値を設定しました。イングランド銀行も、1976 年にマネタリー・ターゲティングを導入しました。日本銀行は、厳格なマネタリー・ターゲティングは採用しませんでしたが、1975年にマネーストックの情報変数としての有用性を表明し、1978年からはマネーストックの伸び率見通しを公表するようになりました。

マネタリー・ターゲティングのもとでは、金利形成は市場に委ねられることとなります。マネーをコントロールしようとして短期金利が大幅に変動する中で、長期金利のボラティリティも高まりました。この点、マネタリズム的な考え方においては、金利が金融政策の波及経路として必ずしも重要視されていなかった点を付言しておきたいと思います。例えば、典型的なマネタリズムの計量モデルとして有名なセントルイス連銀モデルには、そもそも長短金利ともに変数として含まれていませんでした。

  1. 3Milton Friedman (1968), “The Role of Monetary Policy,” American Economic Review, Vol. 58, No. 1, pp. 1-17を参照。

短期金利コントロールへの移行

ところでマネタリー・ターゲティングの考え方をとる場合、マネーストックと実質GDPや金融政策の最終目標である物価などとの関係が安定的、あるいは予測可能であることが前提条件となります。ところが、1980年代に入ると、金融自由化や金融分野での技術革新の進展に伴って、この関係が不安定化し始めました。

こうなると、マネーストックを中間目標として設定しても、政策運営の透明性やアカウンタビリティの向上を通じて金融政策に対する信認が高まることにはなりません。FRBはマネタリー・ターゲティングから金利コントロールへ徐々に移行していくこととなりました。すなわち、1982年には非借入準備を操作目標から外してFF金利の変動を抑制する姿勢を見せ、1987年にはM1の目標値の設定を中止するなど、政策運営上のマネーストックの位置付けを徐々に後退させていきました。さらに、1990年代に入りますと、当時のグリーンスパン議長は、1993 年の議会証言において、「マネーと所得、マネーと物価との間の歴史的な関係は大きく崩れており、政策運営の指針としての有効性を喪失している」ことを表明します。そして1995年には、操作目標であるFF金利の誘導値の公表を開始して、短期金利コントロールへの移行が完了しました。

マネタリー・ターゲティングから短期金利コントロールへの移行は他の主要中央銀行においても進みました。イングランド銀行は、1990年のERM参加を契機にマネタリー・ターゲティングを放棄し、為替レート安定を重視した総合判断に基づき政策金利である公定歩合を操作する政策運営方式を採用しました。さらに、ERMを脱退した1992年にはインフレーション・ターゲティングへと移行し、1997年には政策金利としてレポ・オペ金利を採用しています。また、1998年に発足した欧州中央銀行でも、ブンデスバンクが維持していたマネタリー・ターゲティングは採用されず、物価を巡るリスクを経済分析と金融分析の二つの柱(Two Pillars)に基づき総合判断し、短期金利を調整していくアプローチが採られたのです。この間、日本銀行は、1994年の金利自由化完了を受けて、1995年には、公定歩合操作に替わって、オーバーナイト物のコールレートを誘導目標とする金融市場調節の枠組みを導入しました。その後2006年には、マネーストックの見通しの公表を中止しています。

このように中央銀行が、短期金利のコントロールを起点として物価安定を目指していく枠組みに移行していく中で、学界においては、マネタリストの影響力が弱まり、代わってニュー・ケインジアンが台頭しました。FRBが政策運営の指針としてのマネーの有用性を否定した1993年に、スタンフォード大学のジョン・テイラーが「テイラー・ルール」を提唱したことが、象徴的な出来事です4。その後のニュー・ケインジアンによる短期金利ルールを前提とした政策分析の蓄積は、当時の中央銀行にとって、新たな金融政策運営の枠組みの理論的基礎付けを与えたと言えましょう。

こうした短期金利のコントロールを起点とする金融政策の枠組みは、確立してからわずか20年程度しか経過していないにもかかわらず、伝統的金融政策と呼ばれるようになりました。その中で、長期金利は、金融政策の波及経路として意識されていましたが、その価格形成はあくまで市場に委ねられるものであるとの考え方が支配的でした。

  1. 4John B. Taylor (1993), “Discretion versus Policy Rules in Practice,” Carnegie-Rochester Conference Series on Public Policy, Vol. 39, pp. 195-214を参照。

3. グローバル金融危機後の新たなチャレンジ:非伝統的金融政策

さて、こうした伝統的金融政策においては、政策金利である短期金利がマイナスにならないことが前提とされています。ところが、日本の場合には1990年代後半からのデフレとの戦いの中で、また米欧の場合には2008年のグローバル金融危機への対応の中で、ゼロ金利制約に直面してしまいました。これ以上短期金利を引き下げることができなくなってしまったのです。そこで日本銀行を筆頭にさまざまな中央銀行が開発してきたのが非伝統的金融政策です(図表7)。

この間、非伝統的金融政策とは何かということが、学界や中央銀行など政策担当者の間でも盛んに議論されてきましたが、必ずしもコンセンサスが形成されているとは言えません。ただ金融政策の操作目標とその波及ルートという観点から簡単化すれば、「短期金利の下げ余地がなくなった段階で、金融政策が働きかける対象を、他の金融変数、つまりより長めの金利や資産のプレミアムに広げた方法である」と整理できます5。例えば、長期国債買入れは、大量の資金を供給するために大量の国債を買うことによって、より長めの金利、つまり、まだゼロ金利制約に直面していない金利を低下させようとする政策です。また、米国において信用緩和、日本銀行が質的緩和と呼んでいる政策は、例えば社債や株式などの資産のリスク・プレミアムに働きかける方法です。長期金利は理論的には、将来の短期金利のパスの平均値にターム・プレミアムを乗せたものですから、将来の短期金利のパスを約束することによって、長期金利に影響を与えるフォワード・ガイダンスという手法も用いられています。さらに、短期金利のゼロ制約そのものを取り払ってしまおうとするのがマイナス金利政策です。このように非伝統的金融政策とは、短期金利のゼロ制約を乗り越えようとする試みに他なりません。

それでは現代の高度に発達した金融市場において、中央銀行は実際に長期金利を操作できるのでしょうか。この点は約半世紀前のオペレーション・ツイスト論争においても議論となったところです。最近の実証分析によれば、中央銀行による長期国債買入れは長期金利を有意に押し下げるとの見方が支配的になっています(図表8)6。その背景については、国債は流動性が高い安全資産であり金融取引における担保需要が根強いことや保険会社や年金がとくに長期債での運用を選好することなど、市場分断仮説や特定期間選好仮説がリバイバルしてきています。さらに、市場における情報が不完全なもとで、中央銀行による資産買い入れが何らかのシグナリング機能を有しているとの指摘もあります。

かつてのオペレーション・ツイストの効果は確認できないとするモジリアーニらによる評価に対しても、最近は強力な反論が出てきています(図表9)。例えば、サンフランシスコ連銀のエコノミストであったスワンソンは、当時のイベント・スタディを高頻度データで行い、オペレーション・ツイストの効果は統計的に有意であったと報告しています7

さらに、「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」導入以降の日本の経験は、中央銀行当座預金の一部へのマイナス金利の適用と長期国債買入れを組み合わせることにより、長期金利により強い下押し圧力を加えることができることを示しています。日本銀行がイールドカーブ・コントロールを採用した背景には、こうした過去の経験やそこから得られた知見の集積があると言うことができます。

  1. 5雨宮正佳(2016)「マイナス金利政策について」、日本経済研究センター編『激論マイナス金利政策』、日本経済新聞出版社、第1章を参照。
  2. 6例えば、Joseph E. Gagnon (2016), “Quantitative Easing: An Underappreciated Success,” Policy Brief, PB16-4, Peterson Institute for International Economicsを参照。
  3. 7Eric T. Swanson (2011), “Let’s Twist Again: A High-Frequency Event-Study Analysis of Operation Twist and Its Implications for QE2,” Brookings Papers on Economic Activity, Spring, pp. 151-188を参照。

4. いくつかの論点

さて、これまでイールドカーブ・コントロール、とりわけ長期金利操作の歴史と理論について駆け足で振り返ってまいりました。最後に、以上を踏まえて、関連する論点を四点ほど提示して、今後の議論のご参考に供したいと思います(図表10)。

まず、長期金利操作については、それが「出来るか出来ないか」というフィージビリティの議論と、「すべきかすべきでないか」という規範的な議論とを分ける必要があります。そのうえで、第一に、「出来るか出来ないか」という点について言えば、これまで縷々述べてきたように、中央銀行は長期金利に相当程度影響を及ぼし得るというのが、この間の様々な経験や実証分析から得られた知見です。ただし、コントロールできる範囲や、ショックへの対応余地についてはまだ未知数の面もありますので、我々も市場もこれからさらに経験知を蓄積していく必要があるでしょう。

第二に、「すべきかすべきでないか」という規範的な論点です。平時においては短期金利のみを操作して、長期金利の決定は価格発見機能を重視して金融市場に委ねるべきである。しかし、何らかの危機時、あるいは日本のように長年続いたデフレからの脱却といった局面では、中央銀行が平時とは異なる政策を採用する。このような、いわば平時と非常時の二分法は、検討の出発点となりうる十分妥当な考え方と言えます。

しかし、グローバル金融危機後における主要中央銀行の経験は、高度に発達した金融市場のもとでも、中央銀行が長期金利に相当程度影響を及ぼし得ることを示しています。こうした事実についての理論的な基礎付けはまだ道半ばですが、今申し上げた平時における考え方に対しても再考を迫るものかもしれません。実際、欧米の学者の中には、中央銀行はバランスシートの拡大により新しい金融政策手段を獲得したので、無理に元に戻す、つまり正常化する必要はないと主張する向きも現れています。いずれ、中央銀行はかつてのような伝統的金融政策の世界に戻るのか、あるいはこの間の金融政策運営から得られた知見を踏まえて、新たな世界に移行するのかどうか、今後の検討に委ねられている大事な検討課題です。

第三に、より当面の課題として、イールドカーブをコントロールする前提として、望ましいイールドカーブの姿をどう判断するかという問題があります。伝統的金融政策においては、望ましい短期金利水準を判定する上で、様々なベンチマークが考案されてきました。例えば、先ほども触れたテイラー・ルール、MCI(Monetary Conditions Index)、あるいは自然利子率を用いたヴィクセル的な方法などです。我々は、こうした方法を、単一の短期金利からイールドカーブ全体に拡張して、新たな判断基準を構築しなければなりません。日本銀行は「均衡イールドカーブの概念と計測」というかたちで、すでに一昨年からこうした方面での理論的・実証的な取り組みを始め、成果を公表していますが、なお研究途上の課題です8。しかも、イールドカーブのうちより長めの金利ほど、経済や物価への直接的な影響よりも、保険や年金といった金融の社会インフラの機能と強い関連を持っています。こうした要素も取り込んで判断する必要がありますから、たいへん複雑で、総合的な判断が求められます。日本銀行が、新しい枠組みのもとで政策の調整を行う上で、「経済・物価・金融情勢を踏まえ」と、三つの分野を並列しているのも、こうした認識に基づくものです。

最後に、第四の論点として、政府の財政運営との関係を挙げておきたいと思います。先ほど申し述べたように、日本銀行のイールドカーブ・コントロールは、かつて英米で実施されたような、財政コストを小さくするための国債価格支持政策ではありません。その目的はあくまでデフレ脱却であり、物価安定目標の達成です。しかし、長期金利を直接の操作対象とする以上、財政運営と関係の深い領域が拡大することは事実です。それだけに、この政策については、財政ファイナンスあるいはマネタイゼーションではないかとか、財政運営との関係上、将来の出口が難しくなるのではないかといった懸念や批判が多く聞かれることは事実です。日本銀行としては、こうした声があることも念頭において、金融政策運営の狙いや考え方を従来以上に丁寧に発信し、市場や国民の理解を得ていく必要があると考えています。

  1. 8今久保圭、小島治樹、中島上智(2015)「均衡イールドカーブの概念と計測」、日本銀行ワーキングペーパー・シリーズ、No.15-J-4を参照。

5. おわりに

最後になりますが、日本銀行が、総括的検証とともに新しい金融政策運営の枠組みを導入してから3か月余りが経過しました。これまでのところ、市場はこの枠組みを円滑に消化しているように見受けられます。また、おりしも、グローバルな金融資本市場がポジティブな方向に変化してきたこともあって、マイナス金利を含むイールドカーブ・コントロールは大きな効果を発揮し始めています。しかし、この政策は、本日述べたように、これまでの金融政策運営から得られる知見を引き継いでいる面がある一方で、ここまで明示的に長短金利全体をコントロールしようとしている点では、内外に前例のない革新的な方法でもあります。理論、実践の両面で、検討を深めていくべき課題は少なくありません。今後とも、当「金融市場パネル」の活動がこうした検討に大いに貢献されることを期待して、私のお話を終えることとします。

ご清聴ありがとうございました。