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【挨拶】日本銀行金融研究所主催2021年国際コンファランスにおける開会挨拶の邦訳

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日本銀行総裁 黒田 東彦
2021年5月24日

1.はじめに

本日は、日本銀行金融研究所の国際コンファランスに、各国・地域から識者の皆さまをお迎えすることができ、大変光栄です。1983年に始めて今年で26回目となるこのコンファランスは、今回が初めてのオンライン開催となります。コンファランスの主催者を代表して、ご参加頂きました皆さまに心から感謝申し上げます。

今年のコンファランスのテーマは、「ニューノーマルへの適応:COVID-19後の展望と政策課題」です。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界的に流行し始めてから1年以上が経過しました。その間、感染症は、世界中の人々に甚大な喪失と損失をもたらしました。最近になって、ワクチンの接種が進むなど、長く暗かったトンネルの先に光がみえつつあります。こうしたなか、その光の先にある「ニューノーマル」とはどのような姿なのか、我々はそれに向けてどのように適応していくのか、これらの問いがコンファランスのテーマに込められた大きな問題意識です。

以下では、このコンファランスの出発点として、議論の共通の土台を提供することを意図して、今後の経済の展望、政策課題、感染症後のニューノーマルについて概観したいと思います。

2.経済の展望

(1)景気後退と回復の不均一性

今後の経済を展望するにあたり、最初に、COVID-19によって引き起こされた景気後退とその後の回復の特徴について触れたいと思います。今回の景気後退と回復の最も大きな特徴は、不均一性です。景気後退はいずれもそれぞれに異なるものですが、今回はとりわけ、産業、業態、職種等の落ち込みの違いが鮮明であるのが特徴です。感染症対策や人々の行動変化を背景として、対面の接触を必要とする産業等が生み出す財・サービスへの需要が急減し、回復もより鈍くなっています。

景気後退と回復の不均一性は、2000年代後半の世界金融危機前後から続く3つのトレンドをさらに深める可能性があります。第1に、貯蓄の高まりです。感染症と景気回復の過程をめぐる不確実性を背景として、貯蓄は大きく高まっています。第2に、経済的な不平等の拡大です。感染症は、低所得者や若年労働者などに、より大きな負の影響をもたらすなど、その影響は不均一かつ逆進的であることが指摘されています。そのため、所得や富の不平等拡大を懸念する声もあります。第3に、債務の拡大です。借入れは、公的なものであれ民間のものであれ、感染症による負の影響を緩和し、経済活動を平準化するために必須なものです。必要な対応の結果として、債務の急増が多くの国でみられています。

貯蓄、不平等、債務の3つの高まりは、実際には相互に関連していると考えられるほか、理論的には自然利子率を低下させる可能性もあります。学界では、すでにこの3つの高まりに関する様々な研究が行われていますが、感染症危機からの回復を踏まえた新たな経済のあり方に関する我々の理解を、より一層深めるためにも、さらなる研究と議論が期待されるところです。

(2)構造変化

経済を展望するにあたっては、今述べた3つのトレンド深化とは異なる動きとして、家計・企業の行動様式の変化をはじめ、技術や産業といった経済構造の変化が起こりつつあることが指摘できます。そのなかでも特に、感染症危機のもとでデジタル化が急速に拡大したことは、重要な変化であると考えられます。経済の様々な分野で、対面からオンライン活動へのシフトが生じました。人の移動とりわけ国境を越えた移動はほぼ完全に止まりましたが、デジタル技術によって地理的な制約が取り除かれ、感染症による経済の落ち込みが和らげられました。デジタル技術を用いた新しいビジネスも、幅広い分野で台頭しています。

今後重要な点は、こうした構造変化が経済全体の生産性上昇につながり、成長の果実が社会に広く還元されるのかということです。例えば、デジタル化の進展は、イノベーションや効率的な資源活用などを通じて、生産性を押し上げ、広い経済主体に恩恵をもたらすと期待されます。一方で、仮に成長の果実が一部に集中し不平等が拡大すると、包摂的な経済成長を実現することが難しくなるといった可能性があることには、注意が必要です。

3.政策課題

次に、中央銀行が直面する政策課題について概観したいと思います。今回の感染症危機下での政策対応の特徴は2点あります。第1の特徴は、政策対応の速さです。中央銀行は、国内外の金融市場の不安定化に対して、即座に大量の流動性供給を行い、実体経済と金融の負の相乗作用の顕在化を回避しました。我々は、世界金融危機での経験を十分に活かしたと言えます。第2の特徴は、財政政策と金融政策の連携です。中央銀行が流動性という救命索を提供するなか、政府は所得補償や雇用維持といったセーフティーネットを強化しました。こうした政策の分業によって、相乗効果が発揮され、経済の急降下を回避することに大きく貢献しました。

先行きをみると、政策当局の直面する課題は、流動性支援から、債務返済能力や企業の存続可能性、そして経済構造の変化に対応した資源の再配分へと移行していくと考えられます。さらに、こうした課題に、今回の危機でより明白となった経済的な不平等や、このところ世界的に議論の高まりがみられている気候変動への対応も加わることになります。対応する政策についても、一時的な応急措置から中長期的な構造政策へと、政策の重心が移行していくでしょう。一連の課題は、程度の差はあれ、物価、実体経済、金融システムの安定とも関連しています。このような意味において、中央銀行が考慮すべき問題の範囲に広がりがみられています。

4.ニューノーマルへの適応

これまで経済の展望と政策課題を概観してきましたが、その先に感染症後の「ニューノーマル」があります。明確な姿はまだみえていませんが、1つ確かに言えることは、我々の住む世界が、感染症前の状態に完全に戻ることはないであろうということです。

1年以上にもわたる感染症下での経験は、社会のあり方に大きな変化をもたらしました。なかでも、先ほども述べたデジタル技術の利用拡大とその経験は、社会に対して想像以上に大きな変容をもたらしました。在宅勤務、オンライン・ショッピング、遠隔教育、遠隔医療など、労働、ビジネス、教育、医療をはじめあらゆる面で対面からオンラインへのシフトが起こりました。私自身、この1年余りの間に数多くのオンラインでの国際会議に参加しましたが、デジタル技術によって、空間を超えて世界中の異なる場所にいる人々と同じ時間を共有し、議論できることの恩恵を強く感じます。実際、今回のコンファランスについても、オンライン会議だからこそ、これだけのメンバーを一斉にお迎えできたというのも事実だと思います。

もちろん、新たな技術には正と負の二面性があり、対面交流でしか得られないコミュニケーションがあることも無視できません。その点ではアンビバレンスを感じます。しかし、感染症を乗り越えた後も、おそらくすべてが元通りになることはないでしょう。感染症下の適応として生じたデジタル化の拡がりと加速は、社会に不可逆な変化をもたらしてきました。我々は、感染症危機下での発見と学習を活かして、新たな社会と経済、すなわち「ニューノーマル」を追求し形作っていく必要があります。

5.結び

この15年ほどの間に、我々は、世界金融危機と感染症危機という2つのグローバルな危機を経験してきました。両危機への対応を通じて、中央銀行、国際機関、学界の連携はより深まり、政策の理論と実践も発展してきました。今回の危機では、疫学と経済学を跨ぐ学際的な知見の導入やデジタル技術を背景としたモビリティ・データの利用等によって、タイムリーに政策的示唆を導くなど、経済学を含む学界が大いに活躍しました。

感染症の収束に光はみえていますが、その先にある社会や経済の姿はまだ霧に包まれています。したがって、本コンファランスが掲げる「COVID-19後の展望と政策課題」というテーマも、いつになく広範な論点に及びます。もちろん、直面する不確実性の大きさを踏まえれば、それらの論点の相対的な重要性や、各論点に関するあるべき方向性について、各々の見解が異なるのは、ごく自然なことです。今大事なのは、意見を収束させることよりも、中央銀行、国際機関、学界が各々知恵を出し合って、様々な見解を提示していくことでしょう。本日と明日、数時間という限られた時間ではありますが、各機関および学界を代表する皆さまにご参加頂き、議論できることをとても心強く思います。このコンファランスを通じて、感染症後の経済や政策に関する多くの知見が示されることを期待します。

ご清聴ありがとうございました。