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【挨拶】最近の金融経済情勢と金融政策運営岡山県金融経済懇談会における挨拶

日本銀行副総裁 若田部 昌澄
2022年6月1日

1.はじめに

皆様、おはようございます。日本銀行の若田部です。本日は、岡山県で金融経済懇談会を開催できることを誠に嬉しく感じております。今回は、私にとっては2年4か月ぶりの対面での金融経済懇談会開催になります。また、今年は日本銀行岡山支店開設から100周年の記念すべき年でもあります。こうした大きな節目の年に、皆様との会合の機会を頂けたのは誠に光栄です。この100年の間、皆様から賜りました多大なご支援に深く感謝申し上げますとともに、次の100年も変わらぬお力添えをどうぞ宜しくお願い致します。

この挨拶では、まず世界とわが国経済の現状について述べたのち、金融政策運営についてお話しします。特に、最近話題になっているインフレについて、過去の大インフレと比較して、今日への教訓を導きます。そして最後に岡山県経済の現状と展望について論じます。

2.経済の現状と展望

(1)世界経済の現状と見通し

最初に、世界経済です。世界経済の成長率をみますと、感染症が拡大した2020年はマイナス3.1%と大きなマイナスに陥りましたが、2021年は、ワクチンの普及などを背景に、+6.1%と高い伸びとなりました(図表1)。IMFの見通しによれば、2022年と2023年の成長率は、2021年から減速しますが、ともに+3.6%と、過去の長期平均並みの伸びを維持すると見込まれています。ただし、こうした見通しを巡っては不確実性が大きく、特に以下の三つの要素には注意が必要です。

第一は、ロシアによるウクライナ侵攻を契機とした地政学的リスクの高まりです(図表2)。世界経済全体のGDPに占めるロシアとウクライナのシェアは、合計で2%程度に過ぎないため、両国経済の落ち込みが世界経済に与える直接的なインパクトは限定的です。もっとも、資源の輸出シェアでみますと、ロシアの原油と天然ガスは、それぞれ12%、19%を占めます。さらに、ロシアとウクライナを合わせた小麦の輸出シェアは、25%程度にも達します。このため、ロシアに対する経済制裁などが、これら資源や穀物の供給減少につながるとの見方から、国際商品市況は、このところ大幅に上昇しています。ただし、その経済への影響は、資源の輸出国と輸入国で、大きく異なる点に注意が必要です。すなわち、国際的な資源価格の上昇は、日本や欧州のような資源輸入国にとっては、貿易収支の悪化という形で、資源輸出国への所得流出につながります(図表3)。このことは、資源輸入国では、家計の実質所得や企業収益の悪化を通じて、内需の下押し要因となります。一方で、シェール革命を経て世界首位の産油国となった米国は、かつてと異なり、資源価格の上昇がマイナスに作用する訳ではありません。

第二は、感染症の影響です。米欧では、ウィズコロナのもとで、経済活動の正常化が進んでいますが、厳格な行動制限を課している国々では、引き続き、感染症による下押し圧力が相応の規模で続いています。特に、いわゆる「ゼロコロナ政策」を採り続ける中国は、感染力の強い変異株の流行を受けて、上海などの大都市でロックダウンに踏み切りました。これにより、中国経済が下押しされるだけでなく、物流網の混乱やサプライチェーンの障害を通じて、わが国も含め世界の貿易・生産活動にもマイナスの影響が波及しています。

第三は、インフレの高進が続く先進国における金融緩和の縮小が、国際金融資本市場や世界経済に与える影響です。特に、米国FRBは、3月に0.25%、5月には0.5%の利上げを実施し、先行きもインフレ抑制に向けて継続的な利上げが必要との情報発信を行っているうえ、バランスシートの縮小も開始しています1。こうしたもとで、グローバルな株価の調整や、新興国からの資本流出などを通じて、国際金融資本市場が不安定化し、世界経済が下振れるリスクには注意が必要と考えています。

  1. 1米国における景気後退の可能性を指摘する意見としては、以下の論文を参照してください。Domash, A., and L. H. Summers, 2022, "How Tight Are U.S. Labor Markets?" NBER Working Paper No. 29739.
    米国の金融政策との関連では、本年4月初に、10年物国債利回りが2年物国債利回りを下回る、いわゆる「逆イールド」が観察されました。「逆イールド」の後には景気後退が起きやすいとの経験則を踏まえ、米国は、急速な金融緩和の縮小によって、景気後退局面に入る可能性が高まっているとの指摘が、市場の一部で聞かれました。これに対し、FRBのエコノミストは、こうした長短金利差は景気後退確率を捉える指標としてはノイズが大きいとしたうえで、よりノイズの小さい代替指標の動きなども踏まえると、景気後退の可能性は必ずしも高くないと主張しています。この点については、以下の研究ノートを参照してください。
    Engstrom, E. C., and S. A. Sharpe, 2022, "(Don't Fear) The Yield Curve, Reprise," FEDS Notes, March 25.
    https://www.federalreserve.gov/econres/notes/feds-notes/dont-fear-the-yield-curve-reprise-20220325.htm.

(2)日本経済の現状と見通し

次に、日本経済です。わが国の景気は、感染症や資源価格上昇の影響などから一部に弱い動きもみられますが、基調としては持ち直しています。1から3月の実質GDPは、半導体不足などの供給制約の影響により、設備投資や耐久財消費が抑制されたことに加え、オミクロン株の流行を受けて外食や旅行などのサービス消費への下押し圧力が強まったことから、前期比マイナス0.2%と、2四半期ぶりのマイナス成長となりました(図表4)。その後は、中国のロックダウンの影響もあって、自動車関連を中心に供給制約の影響は長引いていますが、個人消費は、行動制限による対面型サービスへの下押し圧力が和らぐもとで、再び持ち直しつつあります。

先行きのわが国経済は、当面、資源価格上昇による下押し圧力を受けるものの、感染症や供給制約の影響が和らぐもとで、緩和的な金融環境と政府の経済対策の効果にも支えられて、回復基調を辿る、とみています。政策委員の成長率の見通しでみると、2022年度に+2.9%と高めの伸びとなったあと、2023年度は+1.9%、2024年度は+1.1%と減速していきますが、見通し期間を通じて、潜在成長率を上回る成長が続く姿を見込んでいます。

先ほど申し上げたとおり、わが国のような資源輸入国にとっての資源価格の上昇ショックは、エネルギーや食料品の価格上昇を通じて、家計の実質所得や企業収益といった所得を下押しするため、通常は、支出を抑制する方向に作用します(図表5)。もっとも、今次局面では、所得から支出へのマイナスの循環には陥らず、わが国経済は、負の所得ショックに対する抵抗力を示すのではないか、と考えています。まず、ガソリン補助金や低所得世帯への給付金などの政府の経済対策が、所得への悪影響を緩和するとみられます。さらに、コロナ禍で蓄積した家計や企業の多額の「待機資金」の存在が、ペントアップ需要の顕在化の動きを後押ししていきます2。このように、感染症や供給制約の影響の緩和に伴う支出面へのプラス効果が、資源価格上昇による所得面へのマイナスの影響を上回り、景気の回復は続く、というのがメイン・シナリオです。見通し期間の中盤以降は、資源高のマイナスの影響が徐々に減衰し、所得から支出への好循環が徐々に強まっていくため、潜在成長率を上回る成長を続け、賃金や物価の基調的な上昇圧力も強まっていく、と考えています。

ただし、こうした見通しの前提は、感染症や供給制約の影響が和らぐもとで、企業や家計の期待成長率が緩やかに上昇するとともに、中長期の予想インフレ率も高まっていくことです。逆に言えば、感染症や供給制約の影響が想定以上に長期化し、期待成長率と予想インフレ率が下振れした場合、「待機資金」が将来の不確実性に備えるための予備的貯蓄に変質してしまい、支出活動が活発化しないリスクがあります。

  1. 2「待機資金」については、私の過去の講演でも言及しています。詳しくは、以下をご参照ください。若田部昌澄(2021)「最近の金融経済情勢と金融政策運営――広島県金融経済懇談会における挨拶――」2021年9月1日。https://www.boj.or.jp/announcements/press/koen_2021/ko210901a.htm/.
    また、待機資金のうち、家計の強制貯蓄については、昨年末時点で50兆円程度と、GDP比で9%程度に及ぶと試算されます。具体的な強制貯蓄の試算方法については、2021年4月の『経済・物価情勢の展望』のBOX3を参照してください。

(3)物価動向

続いて、物価動向です。生鮮食品を除く消費者物価の前年比は、3月の+0.8%から、4月には+2.1%へと上昇しました(図表6)。消費者物価の上昇率は、表面的には2%に達した訳ですが、これは、あくまでもエネルギー価格の上昇を主因としたものであり、日本銀行が目指している持続的・安定的な形での「物価安定の目標」の実現に至ったとは考えていません。先行きの消費者物価の前年比の見通しをみても、2022年度は+1.9%となりますが、その後は、エネルギー価格の押し上げ寄与の減衰に伴って上昇率は低下し、2023年度と2024年度は、ともに+1.1%となる見通しです。

こうした見通しの背景を理解するうえでは、「個別価格」と「一般物価」の区別が決定的に重要です。統計上の物価指数は、個別価格の変化率をウエイト付けして加重平均する形で作成されるため、エネルギーなどの個別価格が大幅に上昇すれば、計算上は2%に達することはあります。しかし、そうした個別価格に牽引された物価上昇は、持続力に欠けます。2%の物価目標を安定的に実現するためには、需給ギャップの改善や予想インフレ率の上昇に後押しされて、幅広い品目が上昇する、つまり「一般物価」が上昇する必要があります。

こうした観点では、現実に観測される物価指数の動きから、様々な一時的な変動要因の影響を取り除いた物価の「基調」を、的確に見極める作業が必要になります。この点、日本銀行では、様々なコア物価指標を作成・点検していますが、その手法は大きく二つに分けられます。第一は、変動の大きな品目を予め特定し、そうした特定の品目を除いたコア指標を点検することです。日本銀行では、従来から、天候要因による変動の大きい生鮮食品を除いた消費者物価指数を重視してきました。最近では、ウクライナ情勢もあって、原油価格の変動が大きくなっているため、その影響を直接受けやすいエネルギーも除いた「除く生鮮食品・エネルギー」についても、4月の『経済・物価情勢の展望』(いわゆる『展望レポート』)から、見通しを公表することにしました。この除く生鮮食品・エネルギーで足もとの前年比をみると、1%程度に止まっており、除く生鮮食品でみた上昇率をはっきりと下回っています。ただし、先行きについては、先ほど説明した好循環が働くもとで、需給ギャップが改善し、中長期的な予想インフレ率や賃金上昇率も高まっていくことから、除く生鮮食品・エネルギーの前年比は、2022年度が+0.9%、2023年度が+1.2%、2024年度が+1.5%と、緩やかにプラス幅を拡大していくと予想しています。

第二の方法は、予め特定の品目を控除するのではなく、消費者物価を構成する個別品目の価格変動率の分布をモニターしたり、その分布から異常値などの影響を機械的に取り除いた指標を作成・点検することです。この点、品目別の価格変動率分布をコロナ前と足もとで比較すると、米欧は、分布自体が上昇方向にシフトしており、物価上昇の裾野が幅広い品目に拡がっていることがわかります(図表7)。一方、わが国では、足もとでも0%近辺に多くの品目が集中している姿に大きな変化はなく、上昇はエネルギーなど一部の品目に偏っています。こうした米欧とわが国の分布の違いは、主として中長期のインフレ予想の違いを反映していると考えています(図表8)。すなわち、わが国では、エネルギー価格の上昇を反映して、短期のインフレ予想は上昇していますが、米欧と比べると、中長期のインフレ予想はなお低めの状態です。この点は、価格変動率分布から計算した各種のコア指標でも確認できます。「刈込平均値」は、足もとで1%台前半まで上昇率が高まってはいますが、「最頻値」や「加重中央値」は小幅のプラスにとどまっています3。先行きは、中長期の予想インフレ率が高まっていくもとで、品目別価格変動率分布が上昇方向にシフトし、そこから計算した各種のコア指標も上昇率を高めていくかどうかに注目しています。

  1. 3(1)刈込平均値とは、大きな相対価格変動を除去するために、品目別価格変動率分布の両端の一定割合(上下各10%)を機械的に控除した値、(2)最頻値とは、品目別価格変動率分布において最も頻度の高い価格変化率、(3)加重中央値とは、価格上昇率の高い順にウエイトを累積して50%近傍にある値です。

3.インフレの時代は再来するか?

(1)大インフレの教訓

久しぶりのインフレの到来で、世界は1970年代のような大インフレ時代に戻るのではないか、という懸念が聞かれます。結論から言えば、私は大インフレ時代が再来することには懐疑的です。少なくとも現時点では、私は他の国についてはともかく、日本については、依然として「日本化」と呼ばれる低成長、低金利、低インフレが続く懸念のほうが大きいと考えています4

ここで、少し歴史を振り返って、大インフレを検討してみましょう。現在では、大インフレについて、次のような学界のコンセンサスがあります5。第一に、大インフレといえば1970年代と考えられがちですが、国際比較をしてみると、大インフレは国によって発生時期が異なります。1960年代からの米国、英国、西ドイツ、そして日本の物価動向をみると、各国のインフレ率には大まかな相関がありますが、詳しくみると各国ごとに相違もみられます(図表9)。米国の場合、1965年頃からインフレ率の加速がみられましたが、日本でインフレ率が加速するのは1970年代からです。また、多くの国が二桁台のインフレを経験する中、当時の西ドイツでは、ピーク時でもインフレ率は8%に達しておりません。さらに、日本は1970年代前半の1974年には23%までインフレ率が上がりピークを迎えますが、米国はインフレ率のピークを1980年に経験しています。

第二に、第一点とも関わりますが、大インフレの主たる原因は石油ショックではありませんでした。わが国では、二度にわたる石油ショックが大インフレの原因となったという理解が根強くありますし、確かに石油ショックがインフレ率を加速した側面はありますが、むしろ、大インフレの主たる原因は、金融緩和の行き過ぎにあったということが学界のコンセンサスになっております。日本においては、第一次石油ショックの起きる1973年10月以前に、1970年末から73年にかけて年率で25~30%も貨幣供給(マネー・サプライ)を増やしたことがインフレ率加速の主たる原因であるとされます6。実際、米国でも日本でも、サービス価格を含め、エネルギー以外の物価上昇率が大きく高まっており、物価上昇の主因はエネルギー価格の上昇ではないことが分かります(図表10)。一般通念とは異なり、コスト・プッシュよりもディマンド・プルの要因が大きかったというのが、大インフレの実態です。日本で大インフレが起きた1970年代の前半には、名目賃金は物価上昇率以上に大きく上昇し、予想インフレ率も上昇しています7(図表11)。

第三に、その金融緩和の行き過ぎの原因については、リアルタイムでの需給ギャップの計測の誤り、政策担当者間の意見の相違、政治的思惑など、様々な仮説が提唱されておりますが8、有力なのは、インフレ予想についての理論的合意がない、あるいはインフレ予想の形成における金融政策の役割が十分に認識されていなかったというものです。当時の中央銀行は、金融緩和と、そのもとでのインフレ予想の上昇こそがインフレの主因であるという考え方を共有していませんでした9

現在の中央銀行の対応は、この時代の教訓に基づいています。すなわち、物価の安定には金融政策が重要であること、金融政策は中央銀行が責任を有すること、そしてインフレが持続する場合には、インフレについての予想、期待が大きな役割を果たしていることです。この教訓から、中央銀行は予想、期待に働きかけ、それを安定させるように政策運営を心掛けることになりました。中央銀行が「物価安定の目標」を掲げて金融政策を運営するインフレ目標は、この大インフレの経験から生まれたと言っても過言ではありません。

  1. 4日本化については、以前の講演で論じました。若田部昌澄(2020)「最近の金融経済情勢と金融政策運営――愛媛県金融経済懇談会における挨拶――」2020年2月5日。https://www.boj.or.jp/announcements/press/koen_2020/ko200205a.htm/.
  2. 5大インフレについては、以下の文献を参照してください。若田部昌澄(2009)『危機の経済政策:なぜ起きたのか、何を学ぶのか』日本評論社、73-126頁;Bordo, M. D., and A. Orphanides, eds., 2013, The Great Inflation: The Rebirth of Modern Central Banking, Chicago: The University of Chicago Press; Walsh, C. E., 2022, "Inflation Surges and Monetary Policy," keynote speech at the 2022 BOJ-IMES Conference on New Dimensions and Frontiers in Central Banking (https://www.boj.or.jp/announcements/release_2022/rel220525b.htm/). 日本については、小宮隆太郎の古典的論文(「昭和四十八、九年インフレーションの原因」『経済学論集』42巻1号、1976年、2-40頁。『現代日本経済:マクロ的展開と国際経済関係』東京大学出版会、1988年、1-61頁に所収)の他に、以下の文献があります。Wakatabe, M., and G. Kataoka, 2011, "The Great Inflation in Japan: How Economic Thought Interacted with Economic Policy," TCER Working Paper, https://www.tcer.or.jp/wp/pdf/e36.pdf. ; Ito, T., 2013, "Great Inflation and Central Bank Independence in Japan," in The Great Inflation: The Rebirth of Modern Central Banking, eds. Bordo, M. D., and A. Orphanides, Chicago: The University of Chicago Press, pp. 357-387.また、日本の事例は次の講演でも論じられています。黒田東彦(2022)「日本における物価変動と金融政策の役割――米国・コロンビア大学における講演の邦訳――」2022年4月22日。https://www.boj.or.jp/announcements/press/koen_2022/ko220423a.htm/.
  3. 6そうした過剰な貨幣供給の背景としては、当時の政策当局者が円高と円高不況を恐れたことが指摘されています(小宮(1988)、35頁)。
  4. 7日本の予想インフレ率については、当時は信頼性の高い指標が存在しませんので、カールソン・パーキン法を用いた以下の論文の推計値を利用しています。島田晴雄・細川豊秋・清家篤(1982)「賃金および雇用調整過程の分析」経済企画庁経済研究所編『経済分析』第84号。
  5. 8Meltzer, A. H., 2009, A History of the Federal Reserve, Volume 2, Book 2, 1970-1986, Chicago: The University of Chicago Press, pp. 843-1007.
  6. 9この点に関するわが国の研究としては、小宮隆太郎(1988)「ハイパワード・マネーと金融政策」『現代日本経済:マクロ的展開と国際経済関係』東京大学出版会、107-153頁を参照してください。

(2)持続的・安定的な物価上昇と賃金との関係

以上の教訓も踏まえて、日本銀行の金融政策は、2%の「物価安定の目標」の達成を目的としております。ここで重要なのは、物価上昇の持続性と安定性です。すでに述べたように、持続的・安定的に達成するためには、物価の基調をどのようにみるかが、きわめて重要です。そのうえで、物価の背後にある経済の動向を注意深く分析していく必要があります。

そうした物価の基調に大いに影響を及ぼすものとして、賃金上昇率とインフレ予想が挙げられます。物価が持続的・安定的に上昇するためには賃金とインフレ予想が上昇する必要があります。

物価と賃金の関係について、国際比較と歴史を踏まえてみてみますと、日本でも米国でも、物価と賃金の間には相互に影響を及ぼす関係がみられます(図表12)。しかし、こうした関係は、近年の日本では変化しているようです。具体的には、物価から賃金への関係は残っているものの、賃金から物価への関係はほぼ消失しているとみられます10。長きにわたったデフレの爪痕がまだ残っていると言えます。

もっとも、物価と賃金の関係については、その先行関係や因果関係の解明に力点が置かれがちですが、重要なのは物価と賃金がともに上がる環境を作り出すことです。ベースアップを含む賃金引き上げに慎重な企業には業績不振、一度賃上げをしてしまうと将来の業績不振時に賃下げができないことへの懸念、そしてまだ先行きの経済情勢について好転することへの確信が持てない、など様々な理由があるように思われます。どれも賃上げを実現するには経済が持続的に成長していく必要があることを示唆しています11

もう一つのインフレ予想については、短期、中長期ともに上がっております。ただし、すでにみたように中長期のインフレ予想の上昇は緩やかであり、まだ2%に達しておりません。

  1. 10この点については、日本銀行企画局(2022)「『コロナ禍における物価動向を巡る諸問題』に関するワークショップ第1回『わが国の物価変動の特徴点』の模様」日本銀行調査論文、2022年5月(https://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2022/ron220523a.htm/)の2.(1)を参照してください。
  2. 11岩田規久男前日本銀行副総裁は、正規社員のベースアップを実現するには最低限4%の成長が必要であるが、バブル崩壊とデフレの発生でそうした成長が望めなくなったためベアがなくなったとする、ある経営者の述懐を引用しています(岩田規久男(2018)『日銀日記:五年間のデフレとの闘い』筑摩書房、369頁)。終身雇用・年功賃金制のもとでは日本型企業が成長を強く志向することについては、岩井克人(1988)「従業員管理企業としての日本企業」岩田規久男・石川経夫編『日本経済研究』東京大学出版会、295-310頁を参照してください。

(3)今後の金融政策運営

現在は、大部分の価格は依然としてあまり上昇しておらず、一部のエネルギー、食品価格が大きく上昇しているという状況です。エネルギー、食品価格の上昇が今後物価全般を押し上げていく可能性は相応にありますが、現状は低インフレと一部価格の上昇が同居している状況です12。政策においては、一般的に複数の政策目標が存在する場合、それと同数の政策手段を割り当てるのが望ましいとされています。この考え方に基づくと、前者の低インフレについては引き続き、金融緩和の粘り強い継続によって着実に経済の好循環を支え、賃金が上がっていく環境を維持することが必要になります。そして、経済への下振れリスクが顕在化すれば、躊躇なく必要な追加的措置を講じることも排除すべきではありません。

一方、後者のエネルギー、食品といった個別価格の上昇は主として海外からのコスト・プッシュ要因で起きていますから、総需要管理である金融政策以外の政策手段で対応するのが望ましいことになります。具体的には、財政政策、石油、天然ガスへの依存を減らすエネルギー政策などが考えられます。低インフレと一部価格の上昇に対処するためには、このような政策の適切な分業が求められます。

最後に、金融政策運営上の留意点として、世界の中央銀行共通の課題である以下の点を指摘しておきます。まさに大インフレの経験が教えるように、リアルタイムで需給ギャップの動向を把握し、物価の基調を見極めるのは簡単ではありません。また、賃金と予想インフレ率とのスパイラル的な上昇により物価上昇率が「物価安定の目標」を大きく上回ってしまうならば、望ましくないインフレが持続してしまいます。さらには、大インフレは既存の理論の見直しにもつながりました。現在起きていることが現在の金融政策の理論で説明・分析できるかについては、虚心坦懐に不断の点検を行うことが必要と考えます。

  1. 12渡辺努東京大学教授は、ほぼ同じことを「慢性デフレ」と「急性インフレ」の共存と呼んでいます(日本銀行企画局(2022)4-1(2))。ただし、現状は「物価が持続的に下落する」という意味でのデフレではない状況にありますので、慢性デフレというよりは低インフレと呼ぶほうが相応しいかもしれません。

4.岡山県経済の現状と展望

次に、岡山県経済についてお話しします。岡山県は製造業のウエイトが大きいという特徴がありますが、足もとの景気は、先ほど申し上げた日本経済と概ね同様の動きとなっています。すなわち、感染症によるサービス消費への下押し圧力や半導体不足などの供給制約の影響は引き続きみられていますが、社会経済活動が継続されるもとで個人消費や生産は持ち直し基調にあります。

中長期的には、他の地方経済と同様、人口減少や少子高齢化への対応が大きな課題となっています。ただし、私はかねてより、経済論議においてこれらの負の影響が過大評価されていると申し上げています。岡山県でも一人当たり県内総生産は増加基調にあります(図表13)13。そして、少子高齢化のもとで経済成長を享受するための起点となるのは、住みやすさ、暮らしやすさといった地域の魅力の向上だと考えています。そうした観点から、岡山県の強みや今後の期待について、三点申し上げます。

一点めは、文化的価値がもたらす豊かさです。倉敷美観地区には古くから大原美術館があり、文化施設が集積する岡山市中心部のカルチャーゾーンでは、今年は岡山芸術交流が開催され、来年には新たな芸術劇場が加わると伺っています。一方、自然豊かな県北部の蒜山高原にはCLT(Cross Laminated Timber)パビリオンが誕生し、南部に広がる瀬戸内海の多島美では、現代アートの常設に加え、今年は瀬戸内国際芸術祭が開催されています。また、昔から交通の要衝であった岡山県では、勝山、矢掛、吹屋、津山など各地で古い町並みが地域住民の生活エリアの一部として保存されています。身近な文化的価値は、居住者や移住希望者が暮らしの豊かさを実感することにつながり、観光資源としての競争力を高めれば、交流人口を増やす効果も期待されます。

二点めは、教育や医療の充実です。岡山県は、人口当たりの大学・短大数や大病院数が全国トップクラスであるなど充実した教育・医療環境を有しています。少子高齢化社会では、経済の面でも、産学連携の強化や医療ネットワークの活用を通じて強みを発揮し、地域での企業人材の育成・確保や健康寿命の延伸に結び付けていくことが期待されます。また、医療分野では、吉備中央町が「デジタル田園健康特区」に指定されましたが、デジタルの活用によって地域における健康・医療の課題解決を図るモデルケースとなっていく可能性を秘めています。

三点めは、地域の持続可能性を高める取り組みです。持続可能な社会は、住みやすさの大前提です。経済の面では、水島臨海工業地帯を抱える岡山県は、製造業が牽引役である一方、脱炭素社会への移行過程では産業の競争力に影響が及びます。経済成長の制約ではなく、イノベーションや新たな事業創出の機会と捉えることが重要です。地域脱炭素創生・岡山コンソーシアムでは、産学官金の連携で地域の取り組みを支援していく方針と伺っており、岡山県経済の活性化につながることを期待しております。

冒頭でお話ししたとおり、日本銀行岡山支店は、4月に開設100周年を迎えました。引き続き地域の第一線で中央銀行業務を遂行するとともに、関係の皆様との意見交換等を通じて岡山県経済の発展に貢献できるよう努めてまいります。

  1. 13人口減少・高齢化と経済成長の関係については、若田部前掲講演(2020)でも論じています。

5.おわりに

現状は、低インフレと一部価格の上昇が共存している状況です。この低インフレが低賃金上昇率と結び付いていますので、日本銀行は、所得の増大が支出の増大につながる経済の好循環を実現するためにも、引き続き金融緩和を行い経済を温めていく必要があります。また、物価上昇の持続性、安定性を見極めることが大変重要です。消費者物価指数でみた上昇率は、4月には2%に達しましたが、それが半年から1年程度しか続かないのであれば、2%の「物価安定の目標」が持続的・安定的に達成されたとは言えません。物価の分布、刈込平均値、最頻値などによって「物価の基調」を注意深く点検しつつ、物価の基調に影響を及ぼす需給ギャップ、賃金上昇率、および中長期のインフレ予想の動向にも細心の注意を払わなければなりません。以上に加えて、幅広い国民の皆様の金融政策へのご理解の一助として、この5月から、『展望レポート』の概要をよりわかりやすい形でお示しすることにしました(図表14)。これは、欧州中央銀行やイングランド銀行がすでに導入している試みに続くものですが、日本の経済・物価や金融政策への理解・関心を高めるきっかけになることを期待しております。