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【講演】日本経済とイノベーション

日本記者クラブにおける講演

日本銀行総裁 白川 方明
2010年5月31日

目次

1. はじめに

日本銀行の白川でございます。本日は、伝統ある日本記者クラブでお話する機会を賜り、誠に光栄に存じます。

前回この席にお招き頂いたのは、私が日本銀行総裁に就任した直後の2008年5月でした。その後の世界経済の展開を振り返ると、正に激動に見舞われた2年間と言っても過言ではないと思います。米国住宅市場の落ち込みから始まったサブプライム・ローン問題、その後のリーマン・ショックと続き、最近では、ギリシャなど一部欧州諸国の財政状況を巡る動きが、国際金融市場に大きな影を投げかけています。ただ、そうはいっても、世界経済は昨年春頃には極端な落ち込みに歯止めがかかり、その後は、回復基調を辿ってきていることも事実です。先行きについては、只今触れた欧州の問題も含め、なお注意を要する要素を抱えていますが、新興国や資源国の力強い成長を主因に、本年の世界経済は4%程度の比較的高い成長率が見込まれています。

このような世界経済の展開を背景に、わが国の経済も、現在回復傾向を辿っています。日本銀行では、先月末に恒例の展望レポートを公表し、景気や物価に関する先行き2年程度の見通しを示しました 1 。そこでは、中心的な見通しとして、2011年度にかけて成長率が徐々に高まり、現在は前年比でマイナスとなっている消費者物価も、2011年度中にプラスの領域に入る可能性を示しました。ところで、こうした見通しはその通り実現すると、それはそれで明るい話である筈ですが、同時に、それだけでは気分が晴れないというのが、多くの企業経営者や国民の実感であるように思います。問題は、現在の景気回復局面を経て、今後復帰していくと考えられる成長軌道そのものの姿です。仮にこれが低下してきているのであれば、気分が晴れないのは当然です。その意味で、日本銀行として先行き2年程度の見通しを客観的に示すだけでなく、わが国経済が直面している根源的な課題は何か、その課題を解決するためには、どのような取り組みが必要かといった点についても、中央銀行の立場から考えを述べる責務があると思っています。結論を先取りして申し上げますと、この課題を解決していくうえで、重要な鍵を握っているのが、経済活動におけるイノベーションです。そこで、本日は、当面の経済・物価情勢に加え、イノベーションという概念をひとつのキーワードとして、わが国経済が直面している根源的な課題と必要とされる対応についてもお話したいと思います。

  • 1 日本銀行「経済・物価情勢の展望(2010年4月)」(2010年5月1日)参照。

2. わが国の経済・物価情勢

景気・物価の中心的な見通し

それでは先ず、わが国の経済・物価情勢から話を始めます。

わが国の景気は、海外経済の改善を起点として、緩やかに回復しつつあります。その主たる背景は、新興国や資源国の力強い経済成長です。これらの国々は、現在、国際機関や民間の予測を上回る成長を遂げており、最近では、予測自体の上方修正も続いています。こうした中、わが国の景気も、輸出が高めの伸びを続けるなど、本年初までの見通しに比べ、上振れ気味で推移しています。加えて、最近では、少しずつではありますが、国内民間需要の自律的回復に向けた動きがみられ始めています。すなわち、輸出や生産が増加を続けるもとで、設備投資が持ち直しに転じつつあります。個人消費については、政策効果に支えられた家電や自動車の持ち直しに加え、百貨店売上高も昨年までの減少傾向に歯止めがかかっています。雇用面でも、所定外労働時間が増加を続けているほか、有効求人倍率も上昇傾向にあるなど、このところ、厳しさが幾分和らいでいます。もっとも、雇用・所得環境が全体としてなお厳しい状況にあることに変わりはなく、引き続き注意を払ってみていく必要があると考えています。

先行きについては、中心的な見通しとして、わが国の景気は回復傾向を辿ると判断しています。エコポイント制度やエコカー補助は、本年度には完了すると見込まれ、その需要刺激効果は次第に薄れていきます。しかし一方で、輸出や生産は新興国や資源国の力強い成長を背景に増加を続け、設備投資も持ち直しを続ける可能性が高いと考えています。また、企業活動が活発化するにつれ、雇用・所得環境も次第に回復し、個人消費や住宅投資の伸び率は高まっていくと予想されます。これらを踏まえると、わが国の成長率は、昨年度には−1.9%と落ち込んだあと、2010年度と2011年度には、2%程度の伸びを達成できるものとみています。

次に、物価面についてお話します。消費者物価は前年比でみると引き続きマイナスですが、その幅は昨年8月の−2.4%をピークに縮小傾向を続けており、直近4月は、高校授業料の影響を除くと−1.0%となっています。また、最近では、消費者物価指数を構成する品目のうち、値下がり品目の増加に歯止めがかかってきているほか、消費者を対象にしたアンケート調査をみても、1年後の物価を「上昇する」と予想する割合が着実に増加してきており、逆に「下落する」と予想する割合が減少しています。過去の経験では、物価の変動は、マクロ的な需給バランスの変動に対して、約1年程度遅れて現れる傾向があります。この点、わが国の需給バランスは昨年春頃から改善し始めましたが、この影響がタイムラグを経て、そろそろ物価に及び始めているとみています。冒頭で申し上げたように、日本銀行では、消費者物価の先行きについて、前年比で2010年度はなおマイナスが残るものの、2011年度にはプラスの領域に入るとみています。

リスク要因

このように、現在、わが国の経済は、海外経済の改善を起点として、物価安定のもとでの持続的成長経路への復帰に向け、着実に歩を進めています。ただし、このような景気の先行きについては、上下両方向に不確実性があることは十分意識しています。先ず、新興国や資源国の経済が、今後一段と強まった場合には、輸出の増加が波及するかたちで、国内民間需要も予想以上のペースで回復する可能性があります。他方、ギリシャなどの財政状況を巡る動きが、今後、国際金融の緊張を一段と高めたり、世界経済を下押したりする場合には、わが国経済も下振れる可能性があります。米欧諸国におけるバランスシート調整の帰趨にも、引き続き十分な注意が必要です。日本銀行としては、こうした様々なリスク要因についても、予断を持つことなく、丹念に点検を続けていく方針です。

3. わが国経済の直面する根源的な問題

ここまで、先行き2年程度を展望した日本経済の見通しについてお話してきましたが、こうした短期的な見通しと並んで重要なことは日本経済の中長期的な成長経路です。現在、日本経済の将来に対し悲観的な見方がしばしば聞かれますが、これは多くの人が、わが国の中長期的な成長力に自信をもてないと感じていることに相当程度帰着するように思います。実際、日本経済の成長率は趨勢的に低下傾向にあります。私は現在、日本経済が直面している最大の課題は、潜在成長率の低下やその背後にある人口減少や生産性の低迷であると思っています。わが国のデフレも、成長期待の低下という日本経済が抱える根源的な問題が、集約的に現れた現象ということができます。そこで次に、日本経済の成長力というテーマに話を移したいと思います。

成長率の上昇と低下

最初に、わが国の高度成長期の経験を改めて振り返ってみます。1955年から1973年にかけての平均的な経済成長率は、9.3%でした。こうした高い成長が可能であった第1の理由は、設備投資や個人消費といった内需が旺盛であったことです。この時期の成長率に占める内需の寄与度は9.5%、輸出から輸入を差し引いたネット外需の寄与度は−0.3%でした。ネット外需の寄与度はマイナスですが、このことは勿論、外需、ひいては世界経済がわが国の成長に貢献しなかったということを意味するものではありません。外需が小幅のマイナス寄与となっているのは輸出だけでなく、内需の拡大を背景に、輸入も大幅に増えたためです。言い換えますと、貿易や直接投資などを通じて世界の市場にアクセスできたからこそ、日本経済は高い成長を実現できたと言えます。これが高度成長を可能にした第2の理由です。

このように、わが国は1950年代半ばから1970年代初頭にかけて高度成長を遂げた後、成長率は徐々に低下しましたが、それでも1980年代までは、他の先進国を上回っていました。しかしながら、バブル経済崩壊後の90年代に入り、わが国経済の成長率は大きく低下し、その後も、G7諸国の中では下位グループに属する状況が続いています(図表参照)。

こうした成長率低下の背景としては、2つの大きな要因が挙げられます。第1は、少子高齢化が進行する中で、労働力人口の伸びが低下していることです。わが国の場合、1980年代における労働力人口の増加率は約1%でしたが、90年代には、ほぼゼロ%となり、2000年以降は−0.6%まで落ち込みました。これは、80年代以降、一貫して1%以上の伸び率を維持している米国とは対照的です。

成長率低下の第2の要因は、経済全体の生産性の伸びが低下していることです。実際に就業している人口1人当たりのGDPの伸び率をみると、80年代には、わが国は3.2%とG7諸国の中でも最も高い状況でしたが、90年代には、0.9%と一気に伸び率が低下しました。この時期、世界では、情報通信技術の飛躍的な発展とグローバル競争の激化という、大きな変化が生じていましたが、日本経済は、バブル期に積み上がった設備や債務などの「過剰」の解消に追われ、前向きの挑戦ができませんでした。もう少し正確に言うと、生産性の低下傾向はバブル期以前から始まっていたと考えられますが、バブルの好景気の下での一時的な需要増加がその動きを覆い隠していました。いずれにせよ、個々の企業において、世界経済の変化に対応する前向きな経済活動が行われにくくなり、新たな課題への取り組みが遅れました。それと同時に、この時期における「過剰」の調整が必ずしもスムーズには進まず、結果として、わが国経済の非効率な部分が温存された面もあったように思います。こうした中、生産性の高い企業の経営努力や将来性のある新規企業の参入努力が十分には報われにくい環境が続き、これが経済全体の生産性低下をもたらした可能性があります。

もっとも、以上の説明では労働力人口と生産性を、それぞれ独立の要因としてお話しましたが、両者は無関係ではありません。少子高齢化が進行し、現役世代が扶養する人口の比率が高まると、財政負担の増加などを通じて現役世代の労働インセンティブに影響を与えることもあります。このように、一国の人口動態と社会全体が持っている活力やエネルギー、あるいは経済全体の生産性は、切り離して考えることができない、複雑に絡み合った問題だと思っています。

成長力向上に向けた取り組み

今後、わが国の成長期待を高めていくためには、只今申し上げた成長率低下の要因に働きかけ、人々が、将来の成長を実感できる経済にしていく必要があります。

先ず、第1の要因、すなわち、労働力人口の伸び率低下に対する取り組みですが、少なくとも、女性や高齢者の労働参加率を引上げるための努力を粘り強く続けることは不可欠です。次に、成長力低下の第2の要因、すなわち、生産性の伸び率低下に対する取り組みですが、この点については、先ず、個々の企業が、いかにして新たな需要を開拓していくのかがポイントとなります。生産性の向上と言うと、既存の商品をより低いコストで生産することという響きがあります。勿論、こうした側面も大事ですが、顧客のニーズがダイナミックに変化する中にあっては、生産性の向上とは、新たな需要を掘り起こし、これにマッチした供給体制を整えることによって、売上を伸ばしていくことにほかなりません。経済のグローバル化に伴い、わが国の企業にとっても、潜在的な顧客の裾野は一気に拡がっています。パソコンとインターネットの爆発的な普及は、企業と顧客の距離を急速に縮めるとともに、この面での大企業と中小企業の格差を縮小しました。先進国における少子高齢化の進展や、低炭素社会への移行といった社会構造の大きな変化の中にも、新たな顧客のニーズが潜んでいます。はっきりとは見えない需要を見つけ出すのは大変ですが、これを現実の需要に転換し、生産性の向上に繋げていくのが、企業のチャレンジ精神であり、後ほど詳しくご説明する、イノベーションへの取り組みだと思います。

日本経済の強み

残念ながら、イノベーションがどのようなメカニズムで起こるのか誰も自信を持って語ることはできません。ただ、現在のわが国のように、将来に対する悲観的な見方が少なくない時には、それを跳ね返すだけのエネルギーがないと、イノベーションは起こりにくいように思います。確かに、現実に成長率が低迷し、その背景には只今ご説明した生産性の低下がある以上、悲観論が生まれることに根拠が全くない訳ではありません。しかし、一方で、日本経済の強さを過小評価し、必要以上に悲観的になっている面もあると感じています。根拠ある悲観に対しては、問題の本質を正確に認識し、その解決に向けて正面から取り組む必要があります。同時に、根拠のない悲観に浸る贅沢は許されません。わが国の相対的な強みを冷静に認識し、これを最大限に活用していくことが重要です。

先ほど私は、90年代以降の成長力低下の要因として、労働力人口の伸び率と生産性の伸び率が、いずれも、それ以前と比べて低下していることを指摘しました。そのこと自体は事実です。しかし、やや詳しく申し上げると、労働力人口の伸び率は、この20年間、一貫して低下し続けていますが、生産性の伸び率については、90年代に一旦大きく低下した後、2000年以降は幾分回復しています。この時期の就業者1人当たりのGDPの伸び率をみると、日本は1.6%となっており、欧州諸国を再び逆転し、1.8%の米国に次いで第2位まで上昇してきました。これが、日本経済の第1の強みです。生産性向上に向けた弛まぬ努力は、これからもわが国の成長の原動力になるはずです。

日本経済の第2の強みは、全体として高い技術水準を有していることです。例えば、国際特許出願件数をみると、わが国は、米国に次ぐ世界第2位の地位を維持しており、その数も着実に増加しています。また、総務省の調査によると、人口対比でみた研究者数は、先進国中、第1位です。わが国にとって重要なことは、どのようにして、こうした基礎的な力を有効に活用し、新たな需要の開拓に結び付けていくか、ということだと思います。

第3の強みは、金融システムが、米欧に比べ、はるかに安定していることです。CP・社債市場は、昨年秋頃までに良好な発行環境を取り戻しました。企業からみた金融機関の貸出態度も、積極化しています。バランスシート調整という構造的な問題を抱え、金融機関の厳しい与信スタンスが問題となっている米欧諸国に比べ、日本経済は優位な立場にあると言えます。

日本経済の第4の強みは、現在、世界で最も拡大している東アジア諸国と経済的・歴史的な繋がりが強く、地理的にも近いということです。今や中国が、単なる生産拠点ではなく、多種多様な商品とサービスを求める、世界でも有数の消費市場に発展したことは、誰もが認めるところです。既に、自動車の販売台数やインターネットの利用人口において、中国は世界一となり、今後も、道路や通信回線といった社会インフラの整備が進むにつれて、更なる市場の拡大が見込まれます。わが国としても、こうしたアジアの発展を、イノベーションを発揮し得る絶好のチャンスとして捉えることが必要です。

4. 成長とイノベーション

イノベーションとは

ここまで、イノベーションという言葉を、詳しくご説明することなく話を進めてきました。わが国において、イノベーションという言葉は「技術革新」という言葉で置き換えられることが多かったように思いますが、この言葉を経済学の世界で最初に使ったシュンペーターは、これを、もっと広い意味で捉えていました。シュンペーターは、経済発展の原動力として、イノベーションの役割を特に重視し、これを、5つのタイプに分類しました。すなわち、企業における「新しい商品の創出」、「新しい生産方法の導入」、「新しい市場の開拓」、「新しい資源の獲得」、「新しい組織の実現」という5つの取り組みです。このように、イノベーションとは、企業が、新たな需要を掴み取るために行う様々な新しい取り組みであり、技術という要素に限定されない、非常に広い概念です。

わが国の現状を踏まえると、こうしたイノベーションの本来的な意味を改めて意識する必要があるように思います。製造業については、近年、他のアジア諸国との技術力の差が急速に縮小し、日本が得意としてきた生産プロセスに関するイノベーションの分野でも、その優位性が薄れてきたと指摘されています。こうした状況の下、企業——あるいは、企業家——には、新たなチャレンジが求められています。実際、最近では、多くの日本の企業が、新興国のインフラ需要や富裕層・中間所得層の消費需要を取り込むため、現地に生産拠点を配置したり、新たな販売網を構築するといった戦略を進めています。また、顧客の需要動向に迅速に対応するため、国境を跨いだサプライチェーン・マネジメントを推進するなど、従来の系列や企業グループという枠組みにとらわれない、企業間の新たな提携関係や組織形態を模索する動きも活発化しています。非製造業や小規模な企業についても、同様です。新たな販路の開拓や、仕入れ先や加工方法の見直し、経営組織の再編といった経営努力は常に行われていますが、潜在的な需要を掘り起こすという新たな挑戦が加わることにより、こうした取り組みが、イノベーションに発展していく可能性があると考えています。

金融機関の役割

イノベーションや生産性の向上に関し、ここでもうひとつ強調したいことは、金融機関の果たす役割が大きいということです。シュンペーターは、企業家に資金を提供し、イノベーションへの取り組みを支える経済主体として、「銀行家」の役割を強調しました。わが国でも、戦後長らく、企業に対して長期のリスクマネーを提供し、多くの成長企業を育ててきたのは、主として、銀行を中心とする金融機関でした。最近では、銀行がこうした業務をより戦略的に位置付け、独自の技術開発や海外展開に取り組む企業、あるいは、成長分野として期待される環境・エネルギー、医療・介護事業などに対する融資や経営支援を積極的に行う動きもみられています。

勿論、企業にリスクマネーを提供していくためには、多様な金融市場と投資家が存在することが重要です。しかしながら、わが国では、資本市場のウエイトが相対的に小さいほか、ベンチャー企業の育成という点でも、米国などに比べて見劣りするのが実情です。現在、こうした分野でも関係者による様々な努力が続けられていますが、わが国の場合、イノベーションの推進役として、金融機関が中心的な役割を果たしていくという姿は、当面、変わらないと思います。

経済は、生産性の伸びが異なる様々な企業や産業によって構成されています。こうした中にあって、金融機関は、融資対象の将来の収益性や成長力を見極めながら、融資の可否や条件を決めていくという、極めて重要な役割を担っています。各金融機関には、企業の成長可能性に対する目利きの力を磨き、わが国の経済成長に貢献していくことが強く期待されています。それと同時に、金融機関がそうした貢献を行っていけるためには、金融の果たす役割が、わが国においても、正当に評価されることが重要です。

公的当局の役割

次に、イノベーションに果たす公的当局の役割についてお話します。イノベーションの担い手はあくまで民間の経済主体ですが、公的当局も、イノベーションを発揮しやすい環境を作るという点で、次のような重要な役割を担っています。

第1に、企業経営の前提となる制度を整備することです。イノベーションに向けた企業の取り組みを阻害せず、その果実を企業収益として実現しやすいよう、規制や税制などは、状況に応じて常に見直していかなければなりません。この点では、わが国の企業がグローバルな競争に晒されているのと同じように、わが国の制度も、国際的な競争の中にあることを意識する必要があります。

第2に、各種の生産資源、すなわち、労働と資本設備がニーズの低い分野から高い分野に円滑に流れるよう、経済構造の柔軟性を高めていくことです。この面では何よりも競争メカニズムの活用を阻害しないような政策運営が重要です。

第3に、各種のセーフティ・ネットを整備していくことです。イノベーションはいつも成功する訳ではなく、常に失敗するリスクに晒されています。また、経済の新陳代謝は、一部のセクターにとっては、必然的に痛みを伴うプロセスです。このため、企業や個人の痛みを和らげ、安心して新たな事業に再チャレンジできるような、社会的なセーフティ・ネットを構築しておくことが不可欠です。

第4に、財政・金融政策を適切に実施し、経済や物価の振幅を小さくすることです。経済や物価上昇率の先行きに関する不確実性が低下すれば、その分、企業は安心してイノベーションに取り組むことができます。

ただし、セーフティ・ネットの整備やマクロ的な景気安定化策は、経済に一時的に大きなショックが加わった場合には、望ましい有効な施策ですが、行き過ぎると、経済の新陳代謝を阻害し、却って生産性を低下させる危険性もあります。それだけに、公的当局には難しいバランスをとって政策を行うことが求められます。

この点で、欧州における今回の出来事を巡って様々な議論が行われています。リーマン・ショック以降、多くの国が行った積極的な財政政策は経済の急激な落ち込みを防ぐ上で大きな効果を発揮しました。しかし、同時に、財政政策は決して打ち出の小槌ではなく、その原資である国債は、最終的には一国の経済活動の中から生まれる付加価値によって返済しなければならないものです。このため、財政の維持可能性に対する信認は非常に重要であり、これが崩れてしまうと、金融市場の急速な変化を通じて経済活動に大きな打撃を与える惧れがあります。このことを念頭に置きながら、公的当局は、市場から十分な信頼を得られるよう、適切な政策運営に取り組んでいく必要があります。その意味で、今回の出来事は多くの国にとって、「目覚し時計」であったと受け止められているように思います。

5. 日本銀行の政策対応

積極的な金融緩和策

最後に、以上のような経済・物価情勢を踏まえた日本銀行の政策対応について、簡単にお話します。

日本銀行は、日本経済がデフレから脱却し、物価安定のもとでの持続的成長経路に復帰することが極めて重要との認識の下、強力な金融緩和政策を継続してきています。政策金利は、実質的にゼロといえる0.1%に引き下げています。また、昨年12月には、長めの短期金利の更なる低下を促すため、固定金利で期間3か月の資金を供給するという新たなオペレーションを導入しました。これら一連の措置により、市場金利や貸出金利は現在も低下傾向が続いています。日本銀行としては、国内民間需要の自律的な回復を後押ししていくため、引き続き、極めて緩和的な金融環境を維持していく方針です。

 

また、金融市場の安定を確保することも日本銀行の重要な責務です。冒頭でも触れたように、一部欧州諸国の財政問題などを背景に、5月入り後、短期のドル資金市場で緊張が高まりました。こうした動きは、わが国を含め、各国の金融市場の流動性低下や不安定化に繋がる惧れがあります。このため、日本銀行は、主要国の中央銀行と協力して、一昨年の金融危機の局面で大きな効果を上げたドル資金供給オペレーションを再開しました。日本銀行は、これまでも、金融市場に大きな問題が生じたときには、資金供給オペレーションの面で機動的な対応を図り、金融市場の安定を確保するよう努めてきました。今回のドル資金供給オペの再開もそうした対応の一環です。今回のギリシャ問題だけでなく、国際金融面ではなお注意を要する要因が多く残っています。日本銀行としては、引き続き、海外中央銀行とも協力しつつ、金融市場の安定確保に万全を期していく方針です。

成長基盤強化を支援するための資金供給

本日ご説明してきたように、現在のわが国にとって最も重要な課題は潜在成長力の向上であり、そのためにはイノベーションの促進が不可欠です。また、その際、民間金融機関の果たす役割も重要です。これらの点を踏まえたうえで、日本銀行では、先ほど申し述べたような金融緩和政策や金融市場安定化の措置に加え、日本経済の成長基盤強化のための資金供給の仕組みを導入することを決定しました。現在、その詳細について、金融機関とも意見交換を重ねながら検討を行っていますが、基本的には、成長基盤強化に資する融資や投資を行う金融機関に対し、その実績に基づき、日本銀行が資金を供給することを考えています。その際、金融機関による取り組みを支援するために、政策金利と同水準、今であれば0.1%という低金利で、1年を超える利用が可能なかたちで、長めの資金の貸付を行うことを考えています。

勿論、成長力の強化という課題は基本的には民間の努力によって達成されるものであり、そうした民間の努力を政府が制度面でサポートするという性格のものであることは、日本銀行としても十分に認識しています。そのことを明確に認識した上で、わが国が成長期待の低下という課題に直面し、これが、現在の物価下落の問題に大きな影響を与えているという現実を踏まえ、中央銀行として有する機能を使い、日本経済の成長基盤の強化を金融面から支援していくことにも意味があると判断しました。このことは、日本銀行法に謳われた「物価安定を通じて国民経済の健全な発展に資する」という、金融政策の使命にも合致していると思っています。その際、我々としては、以下の2点に注意を払っています。第1は、この仕組みは、時限を区切って金融機関の自主的な取り組みを資金面で支援するものであって、日本銀行自身が個別産業や個別企業への資金配分に関わるものではありません。第2に、将来の金融政策運営の障害となるようなものにしないことです。中央銀行のバランスシートの健全性を維持することは当然ですし、貸付総額を設けるなど、金利政策の制約とならないように運営する方針です。

6. おわりに

そろそろ時間がなくなってきたので、本日の話を締め括ります。結論は以下の3点です。第1に、現在、わが国の経済は、物価安定のもとでの持続的成長経路への復帰に向け、着実に歩を進めています。ただし、新興国・資源国経済の強まりや国際金融面での動きといった上下両方向のリスク要因にも、引き続き十分注意する必要があります。第2に、日本経済の直面する最も重要な課題は潜在成長率の趨勢的な低下であり、この問題に正面から取り組む必要があります。いわゆるデフレの問題も、成長期待の低下というわが国経済が抱える根源的な問題の表れだと思っています。第3に、潜在成長率や生産性の低下に歯止めをかけるためには、従来にもましてイノベーションの努力が重要です。そのためには、個々の企業の取り組みに加え、資源の最適配分を実現し、経済の新陳代謝を高めていくことも重要です。

成長率の低下は長い期間のうちに徐々に進行した現象です。従って、その引上げも長い時間のかかるプロセスです。これを実行すれば直ちに問題が解決するという魔法の杖のような手段があれば、既に誰かが実行しています。経済は複雑なネットワークです。それだけに、現在の低成長の均衡から抜け出すためには、何よりも問題解決に向けた人々の意思が必要であり、それに基づいて、民間経済主体と政策当局が、それぞれの持ち場で努力を積み重ねていく以外に途はありません。日本銀行としても、今後とも、様々なご意見に耳を傾けながら、中央銀行としての貢献を粘り強く続けていく方針です。

本日は、ご清聴ありがとうございました。

以上