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【挨拶】わが国の経済・物価情勢と金融政策神奈川県金融経済懇談会における挨拶要旨

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日本銀行政策委員会審議委員 高田 創
2023年3月2日

1.はじめに

日本銀行の高田でございます。横浜市出身の私にとりましては、本日、このように神奈川県の行政、財界、金融界を代表する皆様と懇談させて頂く貴重な機会を賜りましたこと、大変光栄に思っております。あわせて、皆様には、日頃から日本銀行横浜支店の業務運営に対し、ご支援、ご協力を頂いておりますことを、この場をお借りして改めて厚く御礼申し上げます。

本日は、わが国の経済・物価情勢と日本銀行の金融政策運営につきまして、私の考えを交えつつお話しします。その後、皆様から、神奈川県経済の動向や日本銀行の業務・政策運営に対する率直なご意見をお聞かせ頂ければと存じます。

2.経済・物価情勢

(1)経済・物価の現状

最初に、経済・物価の現状です。海外経済は、回復ペースが鈍化しています。図表1はIMFが本年1月に改定した世界経済見通しです。これを主要国・地域別に敷衍しますと、米国経済は、個人消費に底堅さもみられますが、物価上昇や利上げの継続を受け、減速傾向が続いています。米国の中央銀行であるFRBは、1980年代初頭以来の物価上昇に対応すべく、昨年来、利上げを続けてきました。このところ利上げ幅を徐々に縮小していますが、先行きは、大幅な利上げの累積的効果が時間をかけて生じると考えられ、さらに減速が続くと見込まれます。

欧州経済は、ウクライナ情勢の影響が続くもとで、物価上昇が個人消費を下押しするなど、減速の動きがみられています。先行きは、利上げの影響を受け、減速していくとみられます。欧州の中央銀行であるECBも、1999年の通貨ユーロの誕生後初めての水準となる物価上昇に対して積極的な金融引き締め姿勢をみせています。

中国経済は、不動産市場の調整が続くなか、感染症の影響を受けて減速しています。昨年12月にゼロコロナ政策を転換した後、感染が急拡大しました。足もとでは、経済活動の正常化に向けた動きもみられていますが、雇用・所得面への影響や不動産市場の調整圧力の残存もあって、先行きの回復ペースは緩やかになると見込まれます。ただし、感染症の影響が収束し、経済活動の正常化が早期に進展する場合などには、景気が上振れる可能性もあり、上下双方向に不確実性が高いと考えられます。中国以外の新興国・資源国経済は、一部に弱さがみられますが、総じてみれば持ち直しています。

わが国経済は、資源高の影響を受けつつも、感染症抑制と経済活動の両立が進むもとで、持ち直しています。図表2では、実質GDP成長率と、GDPを構成する民間最終需要、公的需要や外需(純輸出)などの寄与度を示していますが、これをご覧頂くと、設備投資や個人消費といった民間最終需要が緩やかに増加するもとで、直近10から12月期は、年率+0.6%の成長となっています。もっとも、図表3のとおり、わが国の実質GDPは、コロナ禍直前である2019年10から12月期の水準を漸く上回った程度であり、米欧と比べてコロナ禍での落ち込みからの回復ペースは緩やかなものとなっています。

わが国の物価面をみると、消費者物価(除く生鮮食品)前年比は、エネルギーや食料品、耐久財などの価格上昇により、4%台前半となっています。わが国の物価上昇率を米欧と比較すると、図表4のとおり、物価上昇率が相対的に低いことに加え、サービス価格が物価上昇率の押し上げに相応に寄与する米欧と異なり、輸入物価の上昇を起点としたコストプッシュ要因による財価格の上昇が中心であることが特徴です。

(2)経済・物価の先行き

ここで、わが国の経済・物価の先行きに対する日本銀行政策委員の中心的な見方をご説明します。わが国経済は、見通し期間の中盤にかけ、資源高や海外経済減速による下押し圧力を受けるものの、感染症や供給制約の影響が和らぐもと、緩和的な金融環境や政府の経済対策の効果にも支えられ、回復していくと予想されます。その後、所得から支出への前向きの循環メカニズムが徐々に強まるなか、潜在成長率を上回る成長を続けると考えられます。図表5は、本年1月に公表した展望レポートにおける経済・物価見通しですが、実質GDP成長率は、政策委員見通しの中央値で2022年度+1.9%、2023年度+1.7%、2024年度+1.1%と予想しています。昨年10月時点の見通しと比べますと、2023年度と2024年度が幾分下振れています。2023年度は、政府の経済対策が押し上げ方向に寄与するものの、海外経済の下振れなどを受け、また2024年度は、経済対策の効果の反動を踏まえたものです。

消費者物価(除く生鮮食品)前年比は、先行き、輸入物価の上昇を起点とする価格転嫁の影響が減衰していくことに加え、政府の経済対策によるエネルギー価格の押し下げ効果もあって、2023年度半ばにかけてプラス幅を縮小していくと予想しています。その後は、マクロ的な需給ギャップが改善し、中長期的な予想物価上昇率や賃金上昇率も高まっていくもとで、経済対策によるエネルギー価格の押し下げ効果の反動もあり、再びプラス幅を緩やかに拡大していくとみています。政策委員見通しの中央値では、2022年度+3.0%、2023年度+1.6%、2024年度+1.8%と予想しています。昨年10月時点の見通しと比べ、2023年度は政府の経済対策がエネルギー価格を押し下げる一方、輸入物価の上昇を起点とする価格転嫁の影響などもあって概ね不変、2024年度は、経済対策による押し下げの反動から幾分上振れています。

(3)先行きのリスク要因

以上、経済・物価の先行きについて政策委員の中心的な見方をご説明しました。続いて、私が注目する先行きのリスク要因を幾つかお話ししたいと思います。

1つ目は、海外の経済・物価情勢です。金融政策面の対応の違いもあり、足もと、内外の景気サイクルは大きく異なります。1970年代の変動相場制への移行後、先進国の金融政策スタンスとそれに対応する景気サイクルは、概ね連動していました。もっとも、米欧を中心に、2022年以降、インフレ高進への対応のため大幅な金融引き締めを余儀なくされました。この点、わが国は、物価上昇率が米欧対比で相対的に低いうえ、最近の上昇は輸入物価の上昇を起点とするコストプッシュ要因による面が大きいこともあって、米欧のように金融政策スタンスの転換を必要とする状況にはありません。このため、先ほど申し上げたとおり、わが国経済は、大規模な金融緩和の効果もあり、先行きも比較的緩やかな回復を続けていくとみられますが、海外経済の減速度合いが強まる場合、わが国経済や物価を下押しする力が強まるリスクがあります。

2つ目は、賃金設定行動を巡る不確実性です。企業収益の改善を起点とした経済と物価の前向きな循環が実現するうえで、賃上げは重要な要素ですが、海外経済に不確実性があるなか、今春の賃金交渉の動向も見通しにくくなっています。賃金体系の引き上げであるベアは、退職金や年金も含めた企業の負担増に繋がるだけに、企業の慎重な姿勢が続く可能性もあります。図表6のとおり、賃上げ率は過去20年以上にわたり、定期昇給を含めても2%程度で推移しています。企業の慎重な姿勢が続けば、先行きの賃上げ率が、十分に高まらず、持続的な物価上昇が実現しないリスクがあります。他方、労働需給が引き締まるなか、物価上昇を踏まえた賃上げに前向きな姿勢など、社会や企業のなかで近年になくベアへの意識が高まるなか、連合は、定期昇給を含めて5%の賃上げ目標を掲げており、今春以降の賃上げ率を底上げする可能性もあります。私は1990年代初に、当時勤務していた銀行の従業員組合を取りまとめ経営側にベアを要求する立場にありました。当時の経験では、組合は、生活水準を維持するという「生活給」の考え方に基づき、前年の物価上昇による実質所得の低下分を翌年のベアとして要求することが一般的でした。バブル崩壊以降、「生活給」の考え方は殆どなくなりましたが、足もと、物価上昇に配慮した賃上げの動きが戻りつつあり、注目しています。

3つ目は、各国のマクロ経済政策の影響、特に米国や欧州をはじめとしたグローバルな金融引き締めが資産市場に及ぼす影響です。米国の利上げは、国際金融市場の資本フローを通じ、コロナ禍からの回復途上にある新興国市場にも影響を及ぼします。ドル高の進行で新興国のドル建て債務の負担が増加することにも留意が必要です。また、伝統的な金融機関以外の「ノンバンク金融仲介機関」と呼ばれるセクターに隠れたリスクが蓄積されていないかという点も注目されます。

このほか、内外における感染症の動向が個人消費や企業の輸出・生産活動に及ぼす影響や、昨年来のウクライナ情勢などの地政学的リスクが資源・穀物価格、世界経済や国際金融市場に及ぼす影響についても注視が必要です。コロナショックやウクライナ情勢など「100年に1度」とされるようなリスクイベントが毎年のように繰り返し発生しているだけに、テールイベントへの備えが必要です。

3.金融政策運営

以上の経済・物価見通しを踏まえつつ、金融政策運営に対する考えをお話ししたいと思います。

(1)最近の政策運営

現在、日本銀行は、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」という枠組みで、2%の「物価安定の目標」の達成に向けて金融政策を運営しています。私は以下の2点から、現行の大規模な金融緩和を続ける必要があると考えています。

1つ目は、足もと、物価上昇率は日本銀行が「物価安定の目標」として掲げている2%を上回っているものの、先述の展望レポートでは、見通し期間中に、2%の「物価安定の目標」を安定的に実現する姿にはなっていないということです。このところ、資源・原材料価格の高騰を受けて企業の価格転嫁の動きが強まっていますが、現時点では、賃金上昇を伴う持続的な物価上昇には至っていないと考えています。わが国では、バブル崩壊後の長年に亘るデフレの経験が強く意識された結果、賃金や物価は上がらないものと考える規範(ノルム)が形成され、根強く定着しているため、それが転換するには時間をかけた対応が必要になります。今日のわが国経済の課題は、賃金や物価は上がらないものと考えるノルムが転換し、物価上昇に対応した持続的な賃金上昇により企業収益の改善を起点とする好循環を実現することにあります。

2つ目は、先行きの海外経済の減速です。先ほど申し上げたとおり、米欧での利上げにより、海外経済が大幅に減速し、わが国経済への下押し圧力が強まるリスクがあります。

以上を踏まえると、時間をかけて粘り強く金融緩和を続け、需給ギャップに働きかけていく必要があります。図表7のとおり、需給ギャップは、コロナ禍で大きくマイナス方向に拡大したあと、足もと、ゼロ近傍まで改善してきました。この先、本年度中には再びプラス圏に戻り、その後もプラス幅の緩やかな拡大が続くと見込まれます。また、低金利環境が維持されるなか、図表8のとおり、予想物価上昇率が上昇していることから、実質金利は低下を続け、金融緩和の度合いは強まっていると考えられます。こうした状況は、これまで変わりにくいと考えられてきたノルムの転換に繋がる可能性があるとみています。現在は、経済と物価の持続的な好循環が実現できるかを見極める段階にあり、大規模緩和の市場機能への影響を踏まえつつも、粘り強く金融緩和を続ける局面と言えます。

なお、日本銀行は、市場機能への影響に関し、現行の枠組みによる大規模な金融緩和の持続性を高めるため、図表9のとおり、昨年12月、実質金利低下の効果を長期金利と短期金利の調節により追求する「長短金利操作」の運用を一部見直しました。昨年の春先以降、海外の金融資本市場のボラティリティが高まるなかで、わが国の債券市場では、各年限間の相対関係や現物と先物の裁定などの面で、市場機能が低下していたことが理由です。この点、実質金利は歴史的にみて極めて低く、強力な金融緩和が続いている点は、先ほど申し上げたとおりです。引き続き、市場機能に十分に留意して金融政策運営を行うとともに、債券市場の安定性確保のため、モニタリング等を通じて市場の状況をきめ細かく把握して参ります。

わが国はバブル崩壊後、経済成長率と物価上昇率の低迷が長期に亘って続く「長期停滞の罠」から完全には抜け出せていないだけに、金融面での粘り強いサポートが必要です。

(2)歴史的視点からの考察

以上、最近の政策運営と、その背景にある考えをご説明しました。以下では、わが国はなぜバブル崩壊後に「長期停滞の罠」に陥ってしまったのか、そして、そこから抜け出すことはできるのかについて、歴史的視点から私見を述べたいと思います。

なぜバブル崩壊後に「長期停滞の罠」に陥ってしまったのか

図表10は、1980年代以降のわが国の経済成長率の推移を示しています。1980年代までは、わが国は高度経済成長の残り火もあり高成長が続きましたが、1990年代以降、バブル崩壊とともに一転して低成長の局面が続きました。2000年代は、国内での金融危機やグローバル金融危機が深刻化した影響もあって、成長率は一段と落ち込みました。2010年代以降は水準をやや回復しましたが、依然、過去の成長率とは差があります。

1980年代を振り返れば、わが国は世界から「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と注目されました。図表11は、1980年代以降の株式市場の時価総額の推移を示しています。1980年代、ピーク時には世界の時価総額の半分近くをわが国が占めましたが、1990年代以降、海外は米国をはじめ右肩上がりの拡大が続くなか、日本は長年の間、世界の成長とは隔絶された停滞が続き、「失われた10年・20年」と評されました。その停滞の出発点は、図表11で示した株式や、不動産を中心とした資産価格の下落であり、バブル崩壊後に企業や家計が縮小均衡に陥ったことです。バブル崩壊後にわが国が直面した危機の本質は、一般物価の下落を指す「デフレ」として説明されることが多いですが、より本質的なのは資産価格の下落(資産デフレ)でした。日本の地価は、大都市ではピークから約7から8割程度下落し、金融システムに深刻なダメージを与えました。

1990年代以降の大幅な資産デフレ環境のなか、企業の間では、バランスシート上の資産圧縮と投資抑制による「持たない経営」が広がり、有利子負債削減が進みました。その結果、図表12のとおり、本邦企業の自己資本比率は上昇を続けました。加えて、本邦企業は、予備的動機により現預金を蓄積する傾向が強まったことも指摘できます。

時を同じくして、ベルリンの壁崩壊以降、世界経済のグローバル化が進行しました。1980年代までのわが国の経済的な存在感拡大への脅威論から、米国との間を中心に通商摩擦が高まるとともに、為替市場では急速な円高が進行しました(図表13)。こうした環境下、本邦企業は、海外への生産拠点のシフトを進めました。また、海外市場における国際競争力を維持するため、国内では従業員の賃金を上げない「リストラ経営」が求められ、それが企業経営のノルムとして定着しました。実際、図表14のとおり、バブル崩壊後間もない1990年代半ばまでは物価上昇率を上回る給与の増加が続いていましたが、1990年代後半以降、長年にわたり給与の増加が物価上昇率並みで推移してきました。企業としては、賃上げや販売価格への転嫁を行えば競争力を失うとの意識のもと、賃上げや値上げを抑制していたのではないかと考えられます。販売価格や賃金を据え置くという行動原理が当然であると受け止められるようになると、企業は、たとえ原材料価格が上昇しても販売価格にコストを転嫁せず、コスト削減によって吸収するようになりました。こうした行動原理は、新たな資本投資の抑制につながり、人的投資の抑制も相まって、わが国の潜在成長率を低下させた可能性があります(図表15)。バランスシート上の「持たない経営」と損益計算書上の「リストラ経営」は、いずれも、個々の企業の立場からみれば環境変化を踏まえた合理的な対応であったかもしれませんが、結果としてマクロ的には縮小均衡に陥ることになりました。この間、家計では、デフレ環境のもとで、資産を現預金で保有することが合理的である状況が続きました。家計がポートフォリオ選択で現預金に対する選好を強め、リスク資産の保有を回避するようになったことも、資産デフレを通じ、マクロでは縮小均衡につながる影響をもたらしました。

大きなショックが経済に与える影響は、経済学では「傷跡効果」(scarring effect)と呼ばれており、元の状況に戻るには通常をはるかに上回る時間を要すると言われています1。実際、企業や家計にとって、バブル崩壊後の縮小均衡は大きな痛みを伴ったトラウマのような経験であり、その後、四半世紀近くにわたって賃金・物価は上がらないものというノルムが定着してきました。わが国の企業や家計の物価上昇率に関する予想形成は、過去の経緯に影響を受ける「適合的」な側面が強いことが実証研究で示されていますが、バブル崩壊後の縮小均衡の経験が大きく影響していると考えられます。わが国経済は、バブル崩壊後、持続的回復に向かうと期待される局面が何度かありましたが、実際には回復は実現せず、「偽りの夜明け」になってしまいました2。今後の課題は、いかに過去の縮小均衡の経験を乗り越えて、賃金や物価に関するノルムが転換していくか、という点にあると考えられます。

  1. 1例えば、Aikman, David, Mathias Drehmann, Mikael Juselius, and Xiaochuan Xing (2022), "The scarring effects of deep contractions," BIS Working Papers No.1043.
  2. 2白川方明(2009)、「経済・金融危機からの脱却:教訓と政策対応――ジャパン・ソサエティNYにおける講演の邦訳――」。
    https://www2.boj.or.jp/archive/announcements/press/koen_2009/ko0904c.htm

「長期停滞の罠」から抜け出すことはできるのか

バブル崩壊後の企業行動の背景にあった要因は、すでに大きく転換しています。まず、「持たない経営」に繋がった資産デフレは、この10年間で大きく改善しています。先の図表11のとおり、2010年代入り後、株式や不動産市場を中心に、資産価格は安定的に上昇しています。「リストラ経営」に繋がった海外との競合環境も、日米の通商摩擦は過去のものとなりましたし、「六重苦」と言われた環境も変わりました3。しかし、この間、ノルムが大きく転換するには至っていません。日本銀行が長年に亘って粘り強い緩和姿勢を続けてきたのは、ノルムの転換に時間を要していることも一因です。

「偽りの夜明け」が繰り返されたのも、ノルムの転換が起きなかったことが一因と考えられます。2010年代入り後、バブル崩壊後の縮小均衡を招いた環境が改善し、わが国経済が本格的に回復する期待が持たれた局面もありました。当時、日本銀行の副総裁であった中曽宏氏は、2017年の講演で、何度かの「偽りの夜明け」のあとに「真の夜明け」を期待するメッセージを万葉集の柿本人麻呂の歌に託しました4。しかし、その後は感染症の広がりなどもあって回復は持続せず、「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現には至っていません。今回の回復局面の先行きを巡る不確実性は高い状況ですが、今後を展望するうえで、3つの環境変化の兆しを指摘したいと思います。

1つ目は、10年にわたって資産デフレや海外との競争環境の改善が続くなかで、バブル崩壊後の縮小均衡を経験していない若い世代が増えてきています。このことは、10年という長い期間を経て、過去のトラウマに囚われない新たな行動様式や考え方をもつ世代が徐々にわが国の経済活動において存在感を高めてきたことを意味します。

2つ目は、海外発のコストプッシュとはいえ、40年ぶりと言われる大きな物価上昇ショックが「ビッグ・プッシュ」となり、ノルムに変化が生じる可能性です。「ビッグ・プッシュ」とは、開発経済学において、大きなショックが生じることにより、ある均衡から別の均衡に移行することを指します。こうした議論を今日のわが国の環境に援用しますと、価格転嫁や賃上げが抑制された状態から、賃上げを伴いながら物価が上昇していく状態に移行することにつながるか、といったことです5。最近は、付加価値の向上による価格引き上げを実現する事例も増えているほか、新たなビジネスモデルを模索するなどの前向きな動きも生じています。企業や家計の行動を大きく左右する予想形成は適合的な側面が強いだけに、こうした環境変化は、経済主体の行動変化に影響する可能性があります。また、過去の歴史を振り返れば、1970年代には、大幅な物価上昇の後、数年にわたって物価上昇が続きました6

3つ目は、社会の構造変化の兆しです。DX化に向けた動きや脱炭素に向けた世界的な取り組みなど、新たな社会への転換に向けた投資意欲が高まっており、こうした企業活動を10年近い大規模緩和が下支えしています。図表16の金融機関の貸出態度判断DIや資金繰り判断DIをみると、歴史的な緩和度合いの強さにあり、企業活動に前向きな力を与えています。また、労働市場にも新たな働き方の導入を含めた様々な動きが生じています。これらは資本蓄積、労働市場の流動化や生産性の向上などを通じて、わが国の潜在成長率を引き上げる可能性があります。

「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現に向けて、企業を起点とした好循環を象徴する今春の賃上げは重要な試金石となります。また、十分な賃上げが来年以降も持続するかにも注目されます。今後、時間はかかるかもしれませんが、日本経済が、物価安定のもとでの持続的な成長を実現する「真の夜明け」を迎えられることを期待したいと思います。

  1. 3東日本大震災後から2012年頃まで、企業が直面した「六重苦」として、円高、経済連携協定の遅れ、法人税率の高さ、労働市場の硬直性、環境規制、電力コスト高が指摘されてきましたが、そうした状況は全体として改善していると評価されています。こうした変化は、わが国の立地競争力の向上に資すると考えられています。詳細は、「令和3年度 年次経済財政報告―レジリエントな日本経済へ:強さと柔軟性を持つ経済社会に向けた変革の加速―」や「平成29年度 年次経済財政報告―技術革新と働き方改革がもたらす新たな成長―」を参照。
  2. 4中曽宏(2017)、「日本経済の底力と構造改革――ジャパン・ソサエティおよびシティ・オブ・ロンドン・コーポレーションの共催講演会における講演の邦訳」。
    https://www.boj.or.jp/about/press/koen_2017/ko171005a.htm
  3. 52022年5月に日本銀行で開催された「コロナ禍における物価動向を巡る諸問題」に関するワークショップ第2回「わが国のフィリップス曲線とコスト転嫁」では、コストプッシュが急速に高まる局面では、価格に転嫁する度合いが高まるとの実証研究結果が示されています。詳細は下記を参照。
    https://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2022/ron220831a.htm
  4. 6立正大学教授の北村行伸氏は、日本経済新聞の「経済教室」(2023年1月16日)において、今次局面でも同様のことが生じる可能性を示唆しています。

4.神奈川県経済について

最後に、神奈川県経済についてお話しさせて頂きます。足もとの神奈川県経済は、感染症の影響と供給制約の影響がいずれも和らぐもとで、持ち直しています。先行きも、海外経済の減速やコスト高の影響を受けつつも、回復を続けるとみています。

ただし、少し長い視点からみますと、これまで人口動態の面で恵まれた立ち位置にあった神奈川県も、2021年からは人口減少に転じており、今後、少子高齢化に伴い成長力が鈍化する懸念があります。今回、特に人口減少が顕著な県西地域も訪れ、地元財界の方々から直接お話を伺う機会を持たせて頂きましたが、強い危機感が感じられたところです。その際には、地域の特性を活かして地元経済の活力を高める取り組みについても伺い、心強く思いました。同時に、横浜や川崎といった、人口が集中しているばかりでなく、東京にも近く、空と海の玄関口にも隣接していて、相対的に成長のポテンシャルの高い地域の成長力を確りと高め、その果実を県全域に波及させていくことも、重要な課題であろうと感じました。そうした観点から、足もとでみられる特徴的な動きを2つ取り上げたいと思います。

1つ目は、脱炭素社会の実現や健康寿命の延伸など、わが国全体としての課題を踏まえつつ、先端的な産業を育成する取り組みが、川崎市において進展していることです。足もとでは、川崎市の扇島地区に、高炉が休止する跡地を活用する形で、水素の輸入・国内供給拠点や水素発電所等を整備する検討が進んでいます。また、国家戦略特区「殿町国際戦略特区キングスカイフロント」でも、ライフサイエンスや環境分野で、産官学が連携する研究開発拠点が開設されるなど、学術・研究開発機関の集積も進んでいます。今後は、こうした神奈川県における先端的な取り組みが、わが国の技術革新の牽引役となっていくことが期待されます。

2つ目は、観光スポットとしての横浜の魅力を高める開発が進んでいることです。みなとみらい21地区では、30年に及んだ開発事業がいよいよ大詰めを迎え、世界最大規模の音楽アリーナなどエンターテイメント施設と高級ホテルの集積が進んでいます。また、横浜市の内陸部に位置する旧上瀬谷通信施設地区では、2027年の国際園芸博覧会の開催に向けた準備と並行して、博覧会後の跡地の利活用の検討が進められています。今後は、山下埠頭の再開発の検討などと合わせ、臨海部と内陸部における開発プロジェクトを有機的に結び付け、インバウンド需要の取り込みを含めて、さらなる地域活性化に繋げていくことが期待されています。

神奈川県は、164年前の横浜港開港以来、国内外から優れた技術・文化・人材を取り込み、時代の変化に果敢に挑戦し、今日の発展を遂げてきた歴史があります。「3代続けば江戸っ子、3日住めばハマっ子」という言葉にも、その歴史の中で培われた進取の気性や柔軟性、適応力が感じられます。先行きを見通し難い経済環境にはありますが、当地の皆さまがそうした持ち前の力を発揮されることにより、神奈川県経済がさらなる成長に向けて力強く歩んでゆかれることを、心より期待しております。ご清聴ありがとうございました。