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【講演】カンザスシティ連邦準備銀行主催シンポジウムパネルセッション:「変曲点にあるグローバリゼーション」 における講演の抄訳(8月26日、於・米国ワイオミング州ジャクソンホール)

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日本銀行総裁 植田 和男
2023年8月28日

本日は、シンポジウムにご招待いただきありがとうございます。パネリストとして参加させていただき、誠に光栄に存じます。本パネルセッションの議題――グローバル化の流れが変容し、今後世界経済に構造的な変化をもたらすのか、またそのマクロ経済へのインプリケーションは何か――はきわめて難しい問題であり、考慮すべきことも多岐にわたります。私は貿易論の専門家ではありませんが、この重要なテーマに対して「日本から見える景色」に焦点をあてて、お話ししたいと思います。

結論を先取りいたしますと、アジアにおける貿易や直接投資の構図は、地政学的な緊張の高まりを受けて、部分的にではありますが、変わりつつあります。日本の貿易活動や直接投資をみても、生産拠点を中国からその他のアジア地域へ、さらには一部を北米や日本へと多様化する動きがみられています。こうした動きはしばらく前から進んでいるものであり、その一部は、従来からのグローバル化の取り組みが続いている結果とみなすことが適切です。もっとも、最近の生産拠点分散化の動きの中には、地政学的リスクへの対応を企図したとみられるものもあります。現時点では、こうした動きが日本経済・世界経済にどのような影響を及ぼすかきわめて不透明ですが、リスクは下方に厚いと思われます。こうした不確実性の高まりは、金融政策運営にとっても、難しい課題をもたらすと考えられます。

1990年代の日本の経験

まず、通商問題とその日本・米国・アジアの貿易構造への影響を巡る30から40年前の日本の経験――もちろん、最近の問題とは性質がかなり異なりますし、当時は今ほど世界経済が脅かされたわけではありませんが――を振り返りたいと思います。1970から80年代にかけて日本から米国への輸出が大きく増えた結果として、日米間の貿易関係はかなり悪化し、高関税や輸出自主規制といった措置が採られました。こうした貿易摩擦は、米国とアジアを含む貿易構造に永続的な変化をもたらしました。図表1に示しているように、1990年代には、日本から米国への輸出の多くの部分が、アジアを経由するようになりました。もちろん、こうした貿易構造の変化をもたらした要因としてさらに重要なのは、アジア対比でみた日本の賃金の上昇だったという点は付け加えさせていただきますが、当時の日米貿易問題が何がしか影響したということも統計的に確認しうるのではないかと思います。また、言うまでもないことですが、地域的な投資行動の変化――アジアへの直接投資の増加と国内投資の停滞――がこうした生産拠点の移転の大きな原動力になっていました。

貿易摩擦がもたらしたもう一つの帰結は、日本企業が米国に工場を立ち上げ現地生産を行うようになったことです(水平的直接投資)。Alfaro and Chor (2023)が指摘しているように、米国での日本企業の売上高は、米国の日本からの輸入額よりもかなり大きくなっています。

アジア地域における貿易・直接投資動向

今日のパネルの主題である「地政学的な問題を受けた世界経済の分断化リスク」に話を戻します。この点について、押さえておくべき文献の一つとして、IMFが4月に公表した「世界経済見通し」の、とくに第4章の分析が挙げられます(IMF (2023))。そこでは、仮に、米国圏と中国圏の間での永続的な直接投資規制が発動された場合、世界GDPが大きく減少するという重要な分析結果が提示されています。中でも、東南アジアへの負の影響は、中国との経済的距離の近さや直接投資への依存度の高さから、かなり深刻なものになるとの結果が示されています1

こうした構図は、最近のアジア地域の貿易・直接投資の動きとどの程度整合的なのでしょうか。図表3は、日本の輸出の動きを示しています。左図をみますと、日本の中国向け輸出シェアは、コロナ感染症拡大後にいったん高まったあと、幾分減っていますが、その間、米国やその他アジア向けは持ちこたえています。個別国についてみますと、右図のように、ベトナム向け輸出が趨勢的に増加していることや、インド向け輸出が近年急拡大している点が目立ちます2

図表4で、日本の対外直接投資をみますと、中国向けがこのところ停滞していること、北米向けが2019年頃から持ち直していること、それから、その他アジア向けが、ベトナムやインド向けが増加するなど、しっかりとしていることが分かります。

図表5は、日本政策投資銀行(DBJ)が実施した日本の大企業の2023年以降の海外投資計画に関するアンケート結果です。日本企業が重視している国・地域としては、北米が際立っており、その次に中国、そして、その他のアジアの中では、ベトナム、タイ、インド、インドネシアの4か国が重視されています。

これらの図表や、日本銀行のヒアリング先から聞かれた話に基づきますと、日本企業の行動は、現状、以下のようにまとめうると思います。まず、生産拠点を、中国からASEAN、インド、そして北米へと多様化する動きが生じています。ASEANやインドへの投資は、地政学的な考慮だけでなく、現地需要の増加も背景としています。米国への投資も現地需要の獲得を狙ったものですが、米国におけるインフレ抑制法(IRA)や半導体生産のためのインセンティブ法(CHIPS)などの産業政策の影響を受けている面もあるかもしれません3

次に、日本への生産回帰の動きに関して図表6をみますと、今後、国内の生産能力を増強する計画を持つ日本企業が増えていることが示されています。ただし、これは必ずしも海外生産能力を犠牲にした増強ではありません。自動車や一般機械、化学といった業種では、引き続き、アジアでの生産能力の増強が計画されています。一方、半導体やその関連産業では、政府からの支援策もあって、国内の生産能力を増強する動きがより明確です。

  1. なお、中国への対内直接投資データ(国際収支統計ベース)をみますと、最近になって急速に減少しています(図表2)。もっとも、こうした動きは、日本や米国側の統計からは捕捉できておらず、さらなる分析が必要と考えられます。
  2. 8/17日に公表された7月の名目輸出データによると、欧州や米国向けは強く伸びた一方、アジア向けはインドやインドネシア向けを除き減少しています。
  3. 韓台のハイテク財輸出は、グローバルなハイテク産業の動向をみるうえで有用な指標とされています。これらをみると、2022年頃から、中国向けが減少している一方で、米国向けは底堅く推移しています。ただし、これが地政学的な要因によるものなのか、それとも米国・中国それぞれのマクロ経済環境の違いに起因するものなのかについて、現時点で判断することは難しい状況です。

分断化リスクとグローバル化の先行き

こうした現状は、先ほど紹介したIMFによるシミュレーション分析から得られる印象とは、やや異なるように思われます。仮にアジア新興国が分断化によって負の影響を受けるならば、企業はできるだけ同地域から脱出しようとするはずです。それにもかかわらず、アジア地域は、中国を含め、日本からの直接投資の対象となり続けています。実際、IMFの分析で示されている、戦略的産業分野での世界の直接投資の動向をみても(IMF(2023),Figure 4.4)、2019年以降、中国向けは減少しているものの、中国を除くアジア向けはしっかりとしています。

アジアに生産拠点を置く動きが根強いことの背景は、はっきりとはわかりません。おそらく、多くの企業は「分断化リスクは、少数の特定産業に限られる」と想定しているのかもしれません。または、地政学的な景色がより明確になるまでは、行動を変えないというだけかもしれません。一方、別の可能性としては、本パネルセッションのタイトルにありますように、我々は、多くのことが劇的に変わってしまう「変曲点」に、徐々に近づいていることも考えられます。少なくとも半導体産業では、友好国や国内への生産拠点の移転が、無視できない規模で生じつつあるようにもみえます。

アジア新興国における地域経済統合は、深化してきました。図表7は、アジア新興国の域内取引シェアが高まっており――貿易全体や直接投資額だけでなく、中間財やIT関連財の取引についても上昇――域内の垂直統合が深化していることを示しています。こうした域内取引シェアの高まりは、もちろん、部分的には、Alfaro and Chor (2023)が指摘しているように、中国がその他アジア地域を経由した生産を試みていることも反映していると思われますし、これは40年前に日本とアジアで起こったこととも似ています。当時の日本のケースのように、中国における賃金上昇も、地政学的な影響に加えて、生産移管の主要な要因になっていると考えられます。いずれにしても、アジアではグローバル化を進める力はなくなっていません。こうした地域経済統合の動きが逆流した場合には、世界経済は自由貿易の利益を失うだけでなく、アジアでの製造業集積がもたらす効率性向上に伴う利得(マーシャルの外部性)も失うことになるでしょう。

この地域において、非線形的な変化をもたらしうるもう一つの話は、支払い手段としての通貨です。中国による生産移管や新たな貿易関係の構築の試みは、アジアに限らず、南米・アフリカといった地域まで拡大しています。こうした貿易面の取り組みとともに、中国は、貿易金融における人民元の利用を戦略的に進めています。世界における媒介通貨としての米ドルの役割と比べれば未だ限定的ですが、例えばSWIFTが公表しているデータによると一部の分野では役割が増しています(図表8)。決済手段としてどの通貨を用いるかの選択は、本質的には複数均衡の話になります。一時的でも貿易構造が変化すると、そのことが貿易決済に用いる通貨の選択を持続的に変化させてしまう可能性もあります。

日本経済への影響と金融政策への含意

次に、こうした変化が、日本経済の先行きにどのような影響を与えるかという問いに移りたいと思います。本年の日本経済は、第1四半期の実質GDP成長率が、個人消費と設備投資にけん引され、前期比年率でみて3.7%増加する形で始まりました。こうした経済の強さには、海外旅行客によるインバウンド需要の復活を含め、感染症関連の制約の緩和が、相応に影響しています。第2四半期も6%成長と高めの成長となりましたが、これには旅行需要の強さが続いたことに加えて、輸入の減少が大きく寄与しています。個人消費は、悪天候の影響もあって第2四半期はやや弱めでしたが――第3四半期のデータを確認する必要はありますが――内需の基調は、しっかりしているとみています。設備投資は、歴史的にみて高水準の企業収益に加え、人手不足対応やデジタル化、気候変動関連、そして海外対比で国内の生産能力を拡大する傾向の強まりといった構造的な要因に支えられています。

物価面では、2021年から2022年にかけて輸入物価の上昇が、国内物価に波及しました。消費者物価(総合除く生鮮食品)の前年比は7月には3.1%になりましたが、年末頃にかけて低下していくとみています。物価の基調をみると、なお2%の「物価安定の目標」に達していないと考えており、こうしたもとで、日本銀行は、従来からの金融緩和の枠組みを維持しています。

先ほども指摘したように、製造業の国内生産強化の動きは、経済にとってプラスの面があります。半導体産業における国内投資の増強は、関連産業の売上増加や雇用の増加にも波及し、地域の経済を刺激しています。

こうした影響を相殺しているのが、海外経済の一部でみられる減速です。とくに、中国経済の景気の持ち直しペースは落胆させるものでした。小売販売額や設備投資、生産などに関する7月のデータは弱めとなりました。その底流には、不動産部門の調整が続き、その影響が他の部門へ波及していることがあるようです。なお、現時点では、地政学的な要因が経済の減速にどの程度影響しているのか見極めることは、きわめて難しいと思われます。日本経済にとっては、米国経済の相対的な堅調さは、中国経済の弱さを幾分緩和しています。

より長い目でみた地政学的な要因の日本経済への影響は、当然ながら、きわめて不確実です。ここまで指摘してきた諸要因に加えて、主要先進国と中国との間で、半導体分野を中心に、対抗策の応酬が激化するリスクもあります。また、政府の補助金にも支えられた重要分野における国内生産強化の熱意は、それが産業クラスターの形成や人的資本の蓄積などにつながることで、潜在成長率を高めることが期待されます。一方で、進められているプロジェクトを支えるにはインフラ等が不十分かもしれませんし、トップ企業を引き付ける世界的な競争に負けることも考えられます。グローバルに各国が産業政策を積極化することは、結局は、生産拠点立地を非効率なものとするだけかもしれません。

中央銀行は、今後、政策決定に際し、これら諸要因の影響を織り込んでいくという難問に直面していくことになります。前述のように、地政学的リスクや脱グローバル化の動きがもたらしうる様々な影響は――その多くが、経済の供給面と需要面の双方に影響を及ぼすと考えられることもあって――、経済見通しを不透明なものにしています。これらが、どの程度長い期間、経済に影響を及ぼすのか見極めるのにも時間を要するでしょう。生産拠点の移管が進むもとで、諸変数間の安定的な統計的関係を確認することが難しくなるかもしれません。

こうした状況は、中央銀行の過去数年の経験と似ている面があります。感染症関連の供給ショックが相次ぎましたが、その時点では、それらのショックがどの程度持続するものなのか、きわめて不確実でした。また、こうしたショックの一部は、経済の需要面にも影響を与えました。 こうした状況に適切に対応できるように、我々の知見が深まっていくことを期待しています。

参考文献

  • Alfaro, Laura, and Davin Chor. 2023. "Global Supply Chains: The Looming 'Great Reallocation,'" paper presented in this symposium.
  • International Monetary Fund. 2023. World Economic Outlook, April.