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【講演】 アジア太平洋の金融システムの進展と課題 「第18回アジア太平洋銀行監督ハイレベル会合」における基調講演の邦訳

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日本銀行総裁 植田 和男
2024年3月6日

1.はじめに

おはようございます。本日は、「第18回アジア太平洋銀行監督ハイレベル会合」にご出席いただき、ありがとうございます。2019年以来5年ぶりとなる対面会合を、日本銀行で開催できることを光栄に存じます。

この間、感染症拡大による経済活動の停滞とその後の回復、地政学的リスクの高まり、急激な物価上昇と、経済・金融環境を巡る状況は目まぐるしく変化してきました。そうした中においても、アジア太平洋(以下「APAC」)では、金融システムへの影響は比較的抑制されていました。さらに遡ってみても、2000年から現在までの約四半世紀の間、グローバル金融危機や欧州債務危機が生じた中においても、APACの金融システムは総じて安定していたと言えます。そうしたもとで、同地域の経済は著しい成長を遂げてきました。

本講演では、初めに、過去約四半世紀のAPACにおける金融システムの安定の背景とその特徴に触れたいと思います。そのうえで、本会合のアジェンダも踏まえ、今後の金融システムの安定に向けて重要となる環境変化と我々が直面する課題について述べます。

2.アジア通貨危機の経験とその後の対応

過去約四半世紀のAPACの金融システムの安定にとって重要な出来事は、その直前に、アジア通貨危機を経験したことではないでしょうか。アジア通貨危機が生じた法域では、これを契機に、経常収支の改善、外貨準備の積み増し、対外純資産の増加、より柔軟な為替制度への移行など、対外債務と資本フローを意識した構造改革が進みました。また、これらの学びや教訓は、アジア通貨危機を直接経験しなかった法域においても広く共有されました。そうしたもとで、APACの各法域において、金融制度の整備、金融監督の強化、金融機関の大規模な再編が進みました。

さらに、APAC域内の金融連携・協力の枠組みも顕著に進展しました。域内の為替・金融市場の安定確保を目的として、チェンマイ・イニシアティブと呼ばれる、域内を広くカバーする通貨スワップ取引ネットワークが構築されました。また、域内における効率的かつ流動性の高い債券市場の育成を企図して、アジア債券市場育成イニシアティブ(ABMI)やアジア・ボンド・ファンドが創設されました。

これらの一連の取り組みが、2000年以降のAPACの金融安定の下地を形成してきたと考えられます。その結果、グローバル金融危機や欧州債務危機、最近では昨年3月の銀行部門の混乱の際にも、APACでは、一時的な市場のボラティリティの高まりはみられたものの、金融システムは頑健性を維持してきました。

3.環境変化のもとでのAPACの金融システム

もっとも、過去において安定性を維持してきたことが、将来も安定が続くことを保証するものではありません。金融システムを巡る外的環境は常に変化しており、変化への適応が不可欠です。ここでは、金融システムの安定に向けて、近年の大きな環境変化として、(1)グローバルな高金利環境へのシフト、(2)金融のデジタル化の進展、(3)金融面での気候変動問題への対応ニーズの高まり、の3つを指摘したいと思います。

(1)グローバルな高金利環境へのシフト

第1の変化は、グローバルな高金利環境へのシフトです。この2年ほどで、感染症後の経済活動回復と供給制約、さらには地政学的な要因に伴って、グローバルにインフレが急激に進み、米欧で金利が急速に引き上げられました。各国・地域のインフレ率や金利の水準は、それぞれの経済情勢を映じて様々ではあるものの、APACでも金利を引き上げる法域が多くみられました。グローバル金融危機後のいわゆる「ニュー・ノーマル」とされてきた低金利環境の継続が、短期間の間に高金利環境にシフトし、不確実性を伴いながらも、その長期化が意識されています。

金利は、金融機関の収益源であるとともに、将来のキャッシュフローを現在価値として計る物差しでもあります。金利上昇は、各種利回りの上昇を通じて金融機関収益を改善させる面もありますが、借り手の利払い負担を増加させるほか、短期的には保有有価証券の公正価値を下落させます。こうした金利環境の変化は、改めて金融機関における金利・信用リスク管理の重要性を喚起しています。

APACでは、これまでのところ、金利上昇局面にあっても目立った混乱はみられていません。その理由の一つには、APAC域内の銀行の多くが、アジア通貨危機以降、リテール向けビジネスに注力してきたことが指摘できそうです。特に、APAC新興国の銀行は、高い経済成長率と厚めの若年層を背景に、住宅ローンや自動車ローン、割賦ローンといった消費者向けローンの需要増加を取り込んできました。こうして獲得したリテール預金の多くは、小口かつ粘着的であると考えられます。

他方、昨年3月の銀行部門の混乱は、新旧の課題を浮き彫りにしました。破綻した銀行については、基本的なリスク管理やガバナンスの不備、特殊なビジネス・モデルなどの経営上の問題があったことが指摘されています。加えて、SNSやオンラインバンキングの普及によって、預金流出のスピードが格段に速まり得ることが明らかになりました。金融当局がこうした問題を如何に特定し、如何に迅速に対応できるのかは、実務上の重要な課題です。

また、今回の経験は、グローバルなシステム上重要な銀行(G-SIBs)の破綻処理についての課題を示すものとなりました。特に、APACは、米欧に先んじて市場が開く地域であり、週末に発生した金融システム面の混乱に真っ先に対応する必要があるため、他地域も含めた金融当局間の緊密なコミュニケーションが極めて重要です。

こうした実務上の課題について、各法域の対応や試行錯誤から学び合えることが、本会合の大きな意義だと考えます。

(2)金融のデジタル化の進展

第2の変化は、金融のデジタル化の進展です。APACでは、特に新興国において、デジタル金融サービスの普及が飛躍的に進んでいます。スマートフォン一つで、身近な生活に関連するあらゆる支払いから、投資・借入までが行えるようになりつつあります。また、日本や米欧と同様に、いくつかの新興国においても中央銀行デジタル通貨(CBDC)に関する実証実験が進められています。なぜ、新興国を中心に、このような飛躍的な進展がみられているのでしょうか。

一つの大きな背景は、「蛙飛び」、すなわち、まだ多くの人が対面での金融サービスにアクセスできていない段階でスマートフォンが急速に普及したことから、これをプラットフォームとして提供されるデジタル金融サービスが、対面での金融サービスを飛び越えて普及したことにあると考えられます。こうした動きは、既存のシステムからの切り替えコストを気にせずに金融イノベーションの果実をいち早く取り込めるという利点があっただけでなく、金融包摂の観点からも重要な意義を持っています。また、デジタル技術の進展は既存の銀行に限られず、ノンバンク金融仲介機関においても、デジタル技術を駆使して、クロスボーダー送金など新たなサービスを提供する動きが広がっています。

一方で、金融のデジタル化は、金融システム安定上の新たなリスクの源泉にもなり得る点に留意が必要です。こうした観点から、サイバー・リスク、サードパーティ・リスクの管理などオペレーション頑健性の確保やマネー・ローンダリングおよびテロ資金供与対策(AML/CFT)は、一段と重要性を増しています。また、暗号資産やトークン化、AIなどの新しい技術は、金融システムに機会だけでなくリスクももたらす可能性があります。

金融当局としては、金融のデジタル化がもたらす恩恵を最大限活かしつつ、如何に金融安定上のリスクを統制するかは極めて重要な課題です。特に金融サービスの内容や提供者が多様化する中で、「同じ活動・同じリスクには同じ規制を適用する」との原則の重要性は高まっていますが、何を同じ活動とみなし、何を同じリスクとみなすかは実務上の論点です。

このようにデジタル化が進展を遂げているAPACにおいて、金融当局者が協働し幅広く議論する意義は大きいでしょう。

(3)金融面での気候変動問題への対応ニーズの高まり

第3の変化は、金融面での気候変動問題への対応ニーズの高まりです。APACは、世界の二酸化炭素排出量に占める割合が大きいほか、近年は、大規模な水害が増加するなど気候変動の悪影響を受けやすい地域でもあり、金融当局の関心も非常に高いものがあります。

気候変動問題は、グローバルな課題であり、社会・経済を構成している各主体による積極的な取り組みが求められます。こうした中、金融面のアプローチとしては、大別して2つの観点を軸に取り組みが進められています。

一つは、個別金融機関による気候関連金融リスクへの対応です。物理的リスクと移行リスクをシナリオ分析などを通じて適切に評価し管理していくことがより重要な課題となりつつあります。金融機関は、リスクと機会の双方を適切に把握するとともに、それらを踏まえた経営やリスク管理が必要となります。

もう一つは、気候変動を巡る金融仲介活動と資本市場の発展です。脱炭素化を社会厚生を損なうことなく現実的に進めていくためには、移行に伴う新たな投資とその資金が不可欠であり、企業部門に大きな潜在的資金ニーズがあると考えられます。こうした資金ニーズが効率的に満たされるためには、金融機関や投資家が、気候変動対応への成果も含めて、リスクとリターンを適切に判断できなければなりません。このための基盤として、情報開示の取り組みを進めていくことが大変重要です。こうした点も含め、本会合での議論が、気候変動対応の金融実務面における実効性向上に貢献していくことを期待しています。

4.おわりに

最後になりましたが、本会合が、これまで申し上げたようなAPACの金融システムが直面する課題に対する理解を大いに深めることができるように、活発な議論と学びの場となるであろうと確信しています。歴史を振り返ると、世界では繰り返し金融危機が発生してきました。足もとのAPACにおける金融システムの安定は、これまでの金融危機の教訓や経験を踏まえて、関係者の不断の努力によって達成されてきたものです。そうした貴重な教訓や経験を、現在から未来の世代へとつないでいくことが、我々の重要な使命であると言えます。

今後も、APACの金融システムは、高い成長ポテンシャルを持つ同地域の経済を支えていくでしょう。日本銀行としても、皆様と連携をより深めながら、将来の金融システムの安定と頑健性をより確かなものにしていくために、ともに取り組んでまいりたいと思います。

ご清聴ありがとうございました。