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【挨拶】わが国の経済・物価情勢と金融政策佐賀県金融経済懇談会における挨拶要旨

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日本銀行政策委員会審議委員 野口 旭
2024年4月18日

1.はじめに

日本銀行の野口です。本日は、県各界を代表する皆さまとの懇談の機会を賜り誠に有り難く存じます。皆さまには、日本銀行佐賀事務所および福岡支店の業務運営に日頃より多大なご協力をいただいており、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

本日は、まず私の方から、国内外の経済動向と日本銀行の政策運営についてお話しした後、日本銀行が実現を目指してきた「賃金と物価の好循環」に向けての展望を、私見を交えてお話しさせて頂きます。その後は皆さまから、当地の経済状況についてのお話、さらには私どもの政策・業務運営に対する忌憚のないご意見を承りたく存じます。

2.経済・物価情勢

(1)内外経済情勢

わが国経済においては、1990年代のいわゆるバブル崩壊以降、物価も賃金もともに上昇しない状況が永らく続いてきました。しかし、2021年春頃から始まった世界的なインフレを契機として、わが国でも2022年春以降は、生鮮食品を除く消費者物価の前年比が2%を超える状況が続いています。また、昨年の春季労使交渉では30年ぶりの賃上げが実現され、本年もそれをさらに上回る蓋然性が強まりつつあるなど、バブル期以前のような「名目賃金が毎年着実に上がっていく」経済への復帰が現実化し始めています。そうした中で、30年以上もの間500兆円台半ば以下で増減を繰り返していた名目GDPも600兆円台に到達しつつあります(図表1)。つまり、日本経済は今、バブル崩壊以降永らく続いてきた「名目成長なきデフレ型経済」からようやく離脱しつつあるといえます。

海外の多くの国・地域においては、経済の脱コロナ禍に伴って生じていた高インフレが収束しつつある中で、経済成長の維持に重点を移す動きが徐々に強まりつつあります。米欧の主要中央銀行は2022年春以降、高インフレの抑制のために政策金利を急速に引き上げてきましたが、その局面も昨年夏にはほぼ終了し、現在は“Higher for Longer”すなわち「高い金利を長く維持する」局面が続いています(図表2)。各中央銀行はしかし、おそらくはインフレ抑制の見通しが確実になった時点で、高金利による経済のオーバーキルを避けるために、政策金利を徐々に引き下げていく局面に入っていくものと思われます。

こうした世界経済全体の方向性は明確ではあるものの、国・地域ごとの景況のばらつきもまた顕著です。とりわけ、「低い失業率と高い成長率を維持しながらのインフレ抑制」を実現しつつある米国経済の相対的な堅調さは際だっており、一頃喧伝されていたハードランディング懸念はほぼ完全に払拭されています。それに対して欧州経済は、雇用は底堅いものの成長率は低迷しており、一部ではリセッション的状況にあるようにさえ見えます。中国経済は、政策的な支えもあって足もとでは小康状態が続いていますが、不動産不況によるデフレ傾向はまだ十分に払拭されてはいません。総じていえば、世界経済は当面、全体としては緩やかな経済減速が続くものの、来年以降はインフレ率と金利が低下するもとで、潜在的な成長経路に徐々に復帰していくと思われます(図表3)。

わが国経済をみると、緩やかな回復傾向にはありますが、GDPは年率換算で2023年7-9月期が前期比マイナス3.2%減、同10-12月期には+0.4%増になるなど、足踏みが続いています(図表4)。そこで目を引くのは個人消費の弱さですが、これは、コロナ禍後のペントアップ需要が一巡する中で、インフレによる実質賃金の低下が実質消費の押し下げ要因として働いてきたためと考えられます(図表5)。この傾向が払拭されるには、実質賃金が上昇へと転じていくことが必要ですが、そのためには、消費者物価上昇率が2%近傍で安定していく一方で、名目賃金上昇率が2%を超えて高まっていくことが重要です。

(2)物価情勢

次に国内の物価情勢です。生鮮食品を除く消費者物価の前年比は、2022年4月に2%を超え、同年末には4%に達しましたが、政府の支援策によるエネルギー価格低下もあって2%まで低下した後、足もとでは2%台後半となっています。とはいえ、依然として高い食料工業製品価格の物価上昇寄与度が示すように、輸入価格上昇の影響を受けた物価上昇圧力は根強く残っています(図表6)。他方で、物価上昇寄与度を財価格とサービス価格に分けて比較してみると、財価格上昇率がピークアウトする一方でサービス価格上昇率は高水準を維持しています(図表7)。これは、輸入物価上昇の価格転嫁という物価上昇の「第一の力」が、賃金上昇を背景とした物価上昇という「第二の力」に徐々に置き換わりつつあることを示唆している可能性があります1

後述のように、2%の「物価安定の目標」が持続的・安定的に実現されるためには、2%を明確に上回る名目賃金上昇がトレンドとして定着する中で、サービス価格が上昇し続けることが必要です。それは、名目賃金上昇が生じた時に、それを価格転嫁する動きが最も強く現れるのが、コストに占める賃金の比重が高いサービス分野だからです。しかしながら現状では、サービス価格の上昇とはいっても、食材価格上昇を背景とした外食価格の上昇などが大半であり、賃金上昇による部分はまだ中心的とはいえません。その意味では、「第二の力」はまだ緒に就いたばかりといえそうです。

  1. この物価上昇における「第一の力」と「第二の力」については、植田和男「最近の金融経済情勢と金融政策運営――大阪経済4団体共催懇談会における挨拶――」2023年9月25日、を参照してください。

3.金融政策

(1)大規模金融緩和の政策手段とその転換

次に金融政策についてご説明します。日本銀行は、2%の「物価安定の目標」実現のため、2013年4月に「量的・質的金融緩和」を導入しました。その後は、経済・物価情勢に応じた金融緩和強化のために、2016年1月に「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」を導入しました。さらに同年9月には、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」を導入しました。このいわゆるイールドカーブ・コントロールでは、10年国債金利の目標値をゼロ%程度としていましたが、その具体的な運用については、効果と副作用のバランスを勘案して、随時見直しを行ってきました。

大規模金融緩和の手段として2013年以降に導入されたこれらの政策は、わが国が永く苦しんできたデフレ的経済状況からの脱却を目的としたものです。したがって当然ながら、賃金と物価の好循環が進捗し、2%の「物価安定の目標」が見通せる段階となれば、縮小ないしは解除されていくことになります。私自身はそのすべてに賛成したわけではありませんが、前回の3月政策決定会合では、先行きでの目標達成の確度が十分に高まったという判断に基づいて、長短金利操作の撤廃、マイナス金利の解除、マネタリーベースの拡大に関するオーバーシュート型コミットメントの撤廃、資産買入方針の変更等々が行われました(図表8)。今後は、政策金利の段階的な引き上げ、国債購入額の調整を通じたバランスシート調整などが、情勢を慎重に見極めつつ行われることになると考えられます。以下では、この金融緩和からの出口問題についての私なりの把握を示した上で、前回会合での決定の位置付けと今後の政策的方向性を考察します。

(2)「非伝統的金融政策からの出口」の意味

日本銀行が2013年以降に導入した上述の政策手段は、政策金利としての短期市場金利の操作を基本的な手段とする伝統的金融政策と対比する意味で、非伝統的政策と呼ばれています。その最初の実例は、日本銀行が当時のわが国で深刻化しつつあったデフレの克服のために2001年3月から2006年3月まで実施していた量的緩和政策です。その後は、2008年秋に生じた世界金融危機、さらには2020年春に生じたコロナ危機を契機として、主要中央銀行のほとんどが伝統的政策から非伝統的政策へと移行していくことになります。

非伝統的政策として最も一般的なのは、通常は量的緩和と呼ばれる、中央銀行による大規模な資産購入です。主要中央銀行の多くがそれを行ったのは、世界金融危機やコロナ危機によって短期金利の急激な引き下げを強いられ、結果として短期金利の引き下げ余地をほとんど失うに至ったためです。こうして行われた資産購入政策への移行によって、主要中央銀行のバランスシートは非連続的な拡大を示すことになりました(図表9)。

この量的緩和の第一義的な目的は、資産購入の拡大等を通じて実質長期金利を含む金融環境全体に緩和効果を及ぼそうとするところにありました。日本銀行を含む一部の中央銀行は、その後さらに、中央銀行当座預金金利をマイナスにするマイナス金利政策、短期金利のみならず長めの金利もコントロールする長短金利操作を導入しますが、それらは同様に、金融環境全体への緩和強化を目的とした政策といえます。非伝統的政策はその点で、もっぱら短期市場金利から他の金融市場への波及を通じた効果を重視していた伝統的政策とは異なります。

これら非伝統的政策は、とりわけ長期金利のタームプレミアム引き下げを通じて、緩和的な金融環境の維持に効果を及ぼしてきました2。各国はコロナ禍後に急速な経済回復を実現しましたが、そこには、各国政府による財政的支援策とともに、各中央銀行によるこれら非伝統的政策の強化があったと考えられます。

各中央銀行は他方で、とりわけ2022年以降は、あまりにも急速な経済回復の副作用ともいえる高インフレへの対処のために、それまでの量的緩和政策を停止あるいは巻き戻すだけではなく、政策金利である短期市場金利の引き上げを実行することになります(前掲図表2)。これは、各中央銀行が、それまでに行われた量的緩和の結果として生み出された潤沢な準備預金を維持しつつも、政策手段としては伝統的枠組みへと復帰したことを意味しています。

  1. 2ベン・バーナンキ元FRB議長は、量的緩和と低金利維持のフォワード・ガイダンスを組み合わせた効果は最大で政策金利の約3%分に相当することを指摘しています。Bernanke, Ben, 21st Century Monetary Policy: The Federal Reserve from the Great Inflation to COVID-19, W. W. Norton (2022), p.316. 日本に関しては、とりわけ量的質的緩和期以降にタームプレミアムの押し下げ幅が拡大したことが指摘されています。Nao Sudo and Masaki Tanaka "Quantifying Stock and Flow Effects of QE," Journal of Money, Credit and Banking, 53(7), 2021.

(3)3月会合における「金融政策の枠組みの見直し」の位置付け

以上のように、非伝統的金融政策からの出口とは、一般には、金融政策の焦点を「緩和的な金融環境を企図した量的調整」から、政策金利としての短期市場金利の調整に戻すことを意味します。しかしながら、日本銀行はこれまで、長期金利の変動抑制をより強力に行うために、量的質的緩和の導入以降に、マイナス金利政策、さらには長短金利操作を導入していました。したがって、出口に向けては、それらの政策の縮小ないしは解除を検討することも必要でした。

3月会合では、新たな金融市場調節方針として、マイナス金利政策を解除した上で、無担保コールレート(オーバーナイト物)を政策金利として、それを0から0.1%程度で推移するように促すことを決定しました。また、10年国債金利に目標値や上限等を設けてきた長短金利操作を廃止する一方で、これまでと概ね等しい月間6兆円程度の長期国債買入れの継続を決定しました。私はこれについては、「ゼロ近傍の政策金利の下での国債買入れ継続」という枠組みにとりあえずは移行したことを意味すると捉えています。

ちなみに私個人は、3月会合での決定に関して、長短金利操作の廃止と長期国債買入れの継続には賛成した一方で、現段階では「マイナス金利の下での国債買入れ継続」の方がより適切と考えたため、マイナス金利政策の解除には反対しました。それは私が、後述のように、賃金と物価の好循環の強まりについての実態確認にはサービス価格の上昇や中小企業における価格転嫁の進展をより慎重に見極める必要があると考えたこと、さらには、長短金利操作とマイナス金利の撤廃を同時に行うことは長期金利を含む金融環境に対して非連続的な変化をもたらすリスクがあると考えたことによります。私はつまり、現状では長期金利を国債買入れによって間接的にせよ抑制する必要があるため、その抑制効果を相応に持つマイナス金利は残しておく方が望ましい、と考えたわけです。

(4)政策金利の段階的引き上げとバランスシート調整

今後は、「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現という観点から、経済・物価・金融情勢に応じて短期金利の操作を行うような「潤沢な準備預金を伴った政策金利調整」の枠組みに本格的に移行することになります。そこでの焦点は、政策金利の調整をどの程度のペースで行い、それを最終的にはどの程度の水準で安定させるのかです。

まず政策金利調整のペースに関しては、他の主要中央銀行の最近の例とは比較にならないほどゆっくりとしたものになることが予想されます。それは何よりも、後述する物価・賃金のゼロノルムが緩みつつあるとはいえ未だに根強いことから、物価が基調的に2%近傍で上昇し続けるという状況に至るまでには相応の時間を要すると思われるからです。

また、政策金利の最終到着点である長期中立金利に関しても、他国対比では高くなるよりも低くなる可能性が高いと思われます。この長期中立金利は一般に、自然利子率やr*(rスター)と呼ばれることが多い長期均衡実質利子率と目標物価上昇率との合計として導き出されます。そのため、「物価目標が2%であれば長期中立金利も当然2%を上回る」と想定されがちです。しかしながら、数十年にわたって経常収支の黒字が続く恒常的な貯蓄過剰国である日本の場合には、長期均衡実質利子率がマイナスである可能性も十分にあります。いずれにせよ、長期中立金利には様々な要因が影響するため、相当に幅を持ってみるべきものであり、実際的には手探りで確認していくしかないということに十分留意すべきです。

この政策金利調整と並行して行われることになると思われるのが、一般にはテーパリングや量的引き締めと呼ばれる量的緩和の巻き戻しによるバランスシート調整です。ここで重要なのは、伝統的枠組みへの復帰とはいっても、短期市場金利がもっぱら金融調節運営を通じて誘導・維持されていた世界金融危機以前の「希少な準備預金」の時代とは異なり、現在は政策金利が主に中央銀行当座預金への付利を通じて設定・誘導されているという点です。これは、量的緩和以降の「潤沢な準備預金」を前提とした現在の政策レジームでは、短期金利操作とバランスシート調整は完全に切り離されており、中央銀行はバランスシートを縮小させることなく政策金利の引き上げを遂行可能であることを意味します。

仮にそうであっても、とりわけ市場機能の改善のためには、将来のある段階でバランスシートの縮小に着手していくことが望ましいと思われます。3月会合において、ETFおよびJ-REITの新規買入れを終了したこと、CP等や社債等の買入れ額の段階的な減額を決定したこと、さらにはマネタリーベース拡大に関するオーバーシュート型コミットメントを撤廃したこと等は、いわばそのための一段階として位置付けることができます。

4.賃金上昇を伴う「物価安定の目標」実現への展望

(1)「物価安定の目標」実現の必要条件としての賃金上昇

日本銀行はこれまで、2%の「物価安定の目標」が持続的・安定的に達成されるためには、その物価上昇が賃金上昇を伴う必要があることを指摘し続けてきました。それは、あらゆる財貨サービスにとっての本源的生産要素である労働の価格すなわち賃金がトレンドとして上昇し続けていかない限り、物価が安定的に上昇し続ける状況は成り立ちにくいからです。実際、物価上昇率と賃金上昇率との間には、多くの場合において強い相関が確認できます(図表10)。

現在の多くの中央銀行は、それぞれの労働市場状況にとりわけ強い注意を向け続けていますが、それは、賃金と物価との間のこうした強い結びつきのためです。一般に物価安定が実現している状況では、金融政策を通じた総需要の調整によって需要と供給のバランスが適切に保たれる中、予想物価上昇率が目標物価上昇率にアンカーされているはずですが、そこでの名目賃金上昇率は、目標物価上昇率に労働生産性上昇率を加えた値で安定的に推移すると考えられます。

この点、米欧の中央銀行はこれまで厳しい金融引き締めを続けてきましたが、それは、コロナ禍後の供給制約や労働需給逼迫によって物価上昇率および名目賃金上昇率が上振れるもとで、とりわけ名目賃金上昇率が「目標とする物価上昇率と整合的な水準」を明らかに上回り続けていたからです(図表11)。同様に、日本銀行が現在も金融緩和を継続しているのは、名目賃金上昇率がようやく高まりつつあるとはいえ、賃金から物価への波及という「第二の力」の強さはまだ十分なものではなく、したがって基調的な物価上昇率もまだ2%に達してはいないと判断しているためです。

(2)賃金と物価の上昇を阻んできたゼロノルム

以上のように、金融政策は通常、総需要への働きかけを通じて労働需給に影響を及ぼし、それを通じて賃金と物価に影響を及ぼします。経済理論的にも、労働需要としての求人が労働供給としての求職に対して拡大し、両者の比率である求人倍率が上昇すれば、名目賃金は上昇する傾向を持つはずです。しかしながら、米国では確かに求人倍率と名目賃金上昇率との間に明確な相関関係が見出せるのに対して、日本ではデフレが定着して以降、こうした関係が必ずしも成り立っていませんでした(図表12)。例えば、日本銀行が大規模金融緩和を開始してからも、有効求人倍率はコロナ禍直前までほぼ一方的に上昇し続けたにもかかわらず、名目賃金の上昇はきわめて限定的でした。その一因は、日本ではデフレ期以降は多くの企業で賃上げを極力避けようとする傾向が強まり、その力がごく最近まで根強く残っていたことにあります。「物価安定の目標」が労働需給の改善にもかかわらず実現されなかったのは、おそらくそのためです。

日本では、バブル崩壊以前までは名目賃金上昇が物価上昇を上回り、実質賃金が着実に上昇していましたが、バブル崩壊以降は名目賃金と物価の上昇率がともに低下し始めました。さらに、物価が下落し始めた1990年代末以降は、名目賃金が物価以上に低下し、実質賃金が低下する状況が続くようになりました(図表13)。これは、経済停滞によって値上げが困難となり、場合によっては売上げ維持のために値下げを強いられるようになった企業の多くが、もっぱら賃金マークダウンすなわち賃金コスト抑制によってその販売価格の低下に対応したことを示唆しています。こうした賃金抑制の背後にはおそらく、賃金以上に雇用の維持を重視するという日本的な労使慣行が存在していたと考えられます。

上述のように、大規模金融緩和が実行された2013年以降は、労働需給が急速に改善したために、名目賃金は少なくとも低下はしなくなりましたが、さりとて目に見えて上昇はしませんでした。それは、企業の予想物価上昇率がきわめて低いような低インフレ環境下では、企業はコスト上昇分の価格転嫁を可能な限り避けようとする傾向を持つからです3。これは、企業にとって価格転嫁がしにくく価格が固定化しやすい低インフレ下では、企業は賃上げを可能な限り避けようとすることを意味します。こうした状況が続いた結果として企業や家計に根付いたのが、物価・賃金のゼロノルム、すなわち「物価も賃金も上がることはないという通念」であったと考えられます。

このゼロノルム現象の強まりを最も典型的に示しているのは、デフレ期以降のサービス価格の動向です。サービス分野は一般にコストに占める賃金の比重が大きく、また技術が定型化され生産性上昇の余地が小さいことから、名目賃金がトレンドとして上昇し続けるような経済ではサービス価格もまたトレンドとして上昇し続ける傾向を持ちます(図表14)。しかしながら、1990年代後半以降の日本では、サービス分野における価格据え置き割合が異常に高まり、価格改定頻度は異常に低下していました(図表15)。そうした状況がようやく払拭され始めたのは、脱コロナ禍局面以降のことです。これは、近年まで物価・賃金のゼロノルム現象がきわめて根強く存在していたこと、そしてそれが今ようやく変わりつつあることを示唆しています。

  1. 3政策金利に関する「テイラー・ルール」で知られるジョン・テイラー元米財務次官は、「多くの国で生じている低インフレ環境は、企業の価格転嫁や価格支配力の低下をもたらしている」ことを、理論的および実証的に指摘しています。John B. Taylor, "Low Inflation, Pass-Through, and the Pricing Power of Firms," European Economic Review 44 (2000).

(3)「賃金と物価の好循環」確認のための二つの注目点

現時点の日本経済で最も重要なのは、いうまでもなく、物価・賃金のゼロノルムを払拭し、「賃金と物価の好循環」を可能な限り早く実現することです。そのためには、少なくとも以下の二点の確認が必要です。第一は、サービス価格が着実に上昇し続ける状態が復活することです。第二は、製造業でもとりわけ中小企業において、賃上げの販売価格への転嫁がスムーズに進展していくことです。

上述のように、サービスは一般に労働集約性が高く、また生産性の上昇が緩やかなため、労働集約性が相対的に低いうえ生産性上昇によるコスト上昇の吸収が生じやすい財と比較すると、賃金上昇の価格転嫁がより強く現れます。実際、一般的な成長経済では、サービス価格は財価格以上に上昇する傾向にあります(前掲図表14)。ところが、1990年代後半以降の日本では、賃金が上昇しなかったことから、通常は上がるはずのサービス価格がほとんど上がらない状況が生じていました。日本経済において今後、賃金上昇を背景とした物価上昇という「第二の力」が強まっていけば、それは何よりもサービス価格の上昇という形で現れるはずです。最近の企業向けサービス価格の動向には、そうした傾向が明確に見て取れます(図表16)。

それに対して、財は全体としてはサービスと比較すると生産性上昇が生じやすいために、その価格は相対的には低下する傾向を持っています。とはいえ、一言で財といっても、その生産上の特質はさまざまです。例えば、もっぱら中小企業が生産しているような定型化された部品や中間財は、労働集約性が高く、生産性改善の余地も相対的に少ないものが多いかもしれません。したがってこうした業種では、仮に購入先が賃金上昇分の価格転嫁を認めないということになると、賃上げはきわめて困難となります。

日本の製造業ではしばしば、大企業が部品購入元である中小企業に対して定期的に「価格引き下げ」を求めたり、原材料価格上昇による値上げは認めるものの「賃上げを理由とした値上げ」は生産性改善で吸収することを求めて受け入れなかったりという慣行の存在が指摘されてきました。こうした購入価格の引き下げや固定化が行われれば、中小企業労働者の名目賃金は最大でも生産性上昇分までしか上がらないことになりますので、これらはまさしく物価・賃金のゼロノルムが大企業と中小企業間の取引慣行として結晶化していたことを意味します。逆に言えば、中小企業において賃上げの価格転嫁が今後着実に進んでいくとすれば、それはまさにこのゼロノルムが払拭されつつあることを意味します。

(4)今後も重要な緩和的金融政策の継続

日本ではこれまで、デフレ期以降に定着した「物価も賃金も上がらない」というゼロノルムが企業や家計に根強く残っていたこともあって、大規模金融緩和を通じた労働需給の大幅な改善にもかかわらず名目賃金は十分に上昇せず、そのため物価上昇率が2%近傍で安定することもありませんでした。しかしながら、昨年の春季労使交渉を契機として、足もとではかつてない賃上げの波が生じ始めています。それは、半ば岩盤化していた物価と賃金のゼロノルムがようやく崩れ去りつつあることを示唆しています。

このゼロノルム払拭の契機となったのは明らかに、「第一の力」すなわちコロナ禍後の世界的インフレという外的ショックでした。しかし、それが「第二の力」すなわち広範な賃上げの波として引き継がれてきた背後には、これまでの粘り強い大規模金融緩和を通じた労働需給の改善という「下地」があったということを忘れてはなりません。それは、各種調査において、賃上げの理由として多くの企業が第一に掲げるのが「人材の確保」であるという点からも明らかです。その意味では、日本銀行が今後も緩和的な金融政策を継続することを通じて労働需給の適切なバランスを保ち続けることこそが、2%の「物価安定の目標」の達成のための必須の要件であると考えます。

5.おわりに ―― 佐賀県経済について ――

最後に、佐賀県の経済について、日本銀行佐賀事務所や福岡支店からの報告も踏まえてお話しいたします。

当地経済もコロナ禍からの正常化の道を辿っています。九州佐賀国際空港の国際便が再開したほか、有田陶器市、バルーンフェスタ、ユネスコ無形文化遺産の唐津くんちといった大規模イベントも通常開催となり、本来の賑わいを取り戻しています。西九州新幹線や、九州最大規模の多目的施設であるSAGAアリーナの開業効果も後押しする形で、インバウンド客を含め、宿泊・観光需要も回復してきています。

そうしたもとで、佐賀県の景気は、ペントアップ需要などによる個人消費の回復のほか、企業業績の改善等を背景とした設備投資の増加や雇用・所得環境の改善により、緩やかながら回復基調にありますが、足もと物価上昇から節約志向が広がる中で回復テンポに若干の足踏み感もみられています。ただし、長い目でみると、設備投資の増加や雇用・所得の改善が続いていけば、明るい動きが出てくるものとみています。

佐賀県では、人口減少や高齢化などの課題を踏まえ、持続可能な発展に向けて、当地の強みを活かしつつ、様々な取り組みが進められています。北は玄界灘、南は有明海に囲まれる佐賀県は、温暖な気候、肥沃な大地に恵まれ農林水産業が盛んであるほか、日本磁器発祥の地で焼き物の産地でもありますが、県産品のブランド化の推進、輸出を含めた販路拡大が積極的に進められています。例えば、知名度の高い「佐賀牛」や「佐賀海苔」のほか、県内で開発された新品種のいちご「いちごさん」、みかん「にじゅうまる」などの県産品の販売促進が図られています。また、佐賀県は米どころで日本酒造りが盛んですが、海外で日本酒人気が高まる中で、高品質な日本酒の輸出も積極化しています。他方、佐賀県は、2018年に「佐賀県産業スマート化センター」を開設し、IT系企業のノウハウを活用した県内企業のDX推進を図っているほか、スタートアップの発掘・育成、IT関連企業の誘致も積極的に行うなど、デジタル化を通じた産業振興にも力を入れています。

こうした中で、九州で半導体産業の集積が再び進んでいることは佐賀県にとっても追い風です。半導体関連企業の能力増強投資がみられるほか、南北と東西の高速道路と鉄道がそれぞれ交差し、九州の陸上交通の要衝と言われる鳥栖市周辺では、物流拠点や工場の建設計画も進められています。

本年秋には、当地において、国民体育大会からの名称変更後初となる国民スポーツ大会・全国障害者スポーツ大会が開催されます。様々な取り組みが結実し、佐賀県経済が一層の発展を遂げられること期待しています。ご清聴、ありがとうございました。