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「日銀探訪」特別インタビュー:中曽副総裁

中央銀行の神髄は現場にある=特別編・中曽副総裁(1)〔日銀探訪〕(2017年4月17日掲載)

中曽副総裁の写真

時事通信社は、2012年7月から約4年半にわたり、日銀内の40の課・センターを取材し、「日銀探訪」シリーズとして記事を配信してきた。一連のインタビューで明確になったように、日銀の業務範囲は金融政策運営にとどまらず、日銀券の発行・流通・管理、国庫・国債業務、決済システムの維持、金融システムの安定確保、国際金融業務など多岐にわたり、それらが相互に連関しつつ、わが国経済の安定的発展を下支えしている。企画の締めくくりとして、中曽宏副総裁に話を聞いた。中曽副総裁は、インタビューの冒頭で各職場を支える職員に代わって話をする立場だと指摘しつつ、中央銀行の業務遂行に当たり1)現場を大切にする2)強い使命感を持つ3)調査・分析に基づき政策を遂行する―の3点を重視していると述べた。その上で「日銀は政策を企画立案する機能と銀行業務の現場の両方を有しているが、中央銀行の神髄は現場にある」と指摘した。インタビューを3部構成で配信する。

「本日は、日銀の各職場を支える職員に代わって話をしたい」

「これまで主に三つの心構えで、中央銀行の業務に携わってきた。一つ目は、現場を大事にするということ。日銀は発券や決済システムの安定運行などの銀行業務を担っているが、一国の経済にとっての血液である資金が当たり前のように循環していることが、日本国民の中央銀行に対する信用の礎となる。これらの業務は現場にいる多くの日銀職員によって支えられており、中央銀行の神髄は現場にある」

「二つ目は強い使命感を持ち、その遂行のために折れない心を持つこと。原体験は1990年代の日本の金融危機にある。危機のクライマックスとなった97年11月には、四つの金融機関が連続破綻した。明日はどうなってしまうのかという絶望的な気持ちになることもあったが、日本の金融機能を守る、日本発の金融恐慌は起こさないというのが、危機対応の現場にいた日銀や大蔵省(当時)の職員の間で共有されていた合言葉だった。この合言葉で自らを奮い立たせた。セーフティーネットがまだ不十分な中、知力と体力の限りを尽くし、金融システムのメルトダウンをかろうじて回避できた。日銀特融が毀損(きそん)し、世論の厳しい批判も浴びたが、それを真摯(しんし)に受け止めながらも、なお金融システム維持やその後のセーフティーネットの再構築にわれわれを駆り立てたのは、思い起こせば使命感だった」

「三つ目は、調査と分析を大事にすること。日銀は国内最大級のシンクタンクであり、その大きな特徴は調査・分析が政策に直結しているところだ。最新の理論、分析手法を駆使して、いろいろな角度から金融・経済の動向を分析する必要がある。その典型例が16年9月に発表した『総括的な検証』で、いろいろな分析がイールドカーブコントロールという政策に結び付いた。私は学生時代のリクルート活動中に、当時は日銀の若手研究員だった白川方明・前日銀総裁の話を聞き、日銀入行を決断した。白川氏のように理論経済学を学び、エコノミストになりたいと考えた。実際はそうならなかったが、それでも調査・分析が大事だという気持ちは変わっていない。金融機関の破綻処理にしても、綿密な事前調査、情勢分析が必要だった」 「日銀に入って気が付いたのは、ミクロ経済の調査・分析がとても大事ということだ。私は若いころに福岡支店に勤務し、産業調査を任せられた。あるとき、公表数字だけを見てリポートを書いて係長に提出したら、数字だけで経済を判断するなと厳しく叱責された。そこで中小企業の経営者に話を伺いに行ったが、それぞれが自らの哲学を持って経営されていることを知り、日本の経済はこういう人たちに支えられていると実感した。日銀の景気判断に関して『短観の中小企業までしか見ていないのではないか』という批判をときどき受けるが、そんなことは全然ない。日銀の各支店の職員は、さまざまな規模、業種の企業を訪ね、仕事の現場で話を聞いている」

危機対応、早めのシミュレーションが重要=特別編・中曽副総裁(2)〔日銀探訪〕(2017年4月17日掲載)

1990年代の日本の金融危機、2008年9月のリーマン・ショック、2011年3月の東日本大震災といった危機に直面するたびに、日銀は現場力を発揮してそれらを乗り越えてきた。「日銀職員としての人生の大半を危機対応に費やしてきた」と話す中曽宏副総裁は「どんな危機が発生する可能性があり、それにどう対応したらいいのか、早い段階から頭の体操をしておくことが、いざというときに役に立つ」と指摘。その上で国際的な業務については、日銀の職員に対して「なるべく若いうちから、国際決済銀行(BIS)などで他国の担当者と一緒に仕事をし、人的ネットワークを広げ、それを維持していってほしい」と呼び掛けた。

「日銀が取り組んだ危機対応の例として、リーマン・ショックと地震を挙げたい。まずリーマン・ショックだが、各国の中央銀行は市場機能の低下が著しかったインターバンクの流動性を回復させるために、いろいろな措置を講じた。日本では、金融市場局市場調節課が市場動向を見ながら円滑な資金供給を行った。中央銀行間で行っていたことを話すと、例えばニューヨーク連邦準備銀行から米国市場の状況が日銀に伝えられ、それを踏まえて日本の市場で必要な資金供給を実施。その上で、今度は日本市場の動向を欧州中央銀行(ECB)やスイス国立銀行、イングランド銀行に情報伝達し、彼らは自国の市場の状況をニューヨークに伝える。こういう情報交換の輪がうまく構築できていた。当時、日銀はいろいろなオペを打ったが『きょうのオペはどういう意味があるのか』というような質問が欧州からくるなど、密接に意見交換・情報交換をしていた」

「私は当時、日銀の金融市場局長だったが、BISの市場委員会の議長も務めていた。同委は各国の金融市場調節担当者で構成されており、非常に有効に機能した。2カ月に1度、BISで会って議論を続けてきたことで、お互いの信頼関係が構築されていた。特に言及したいのは、中央銀行間のドルのスワップラインの創設だ。リーマン・ショックの際には為替スワップ市場が機能を失ってしまい、ドル不足を解消するには、中銀間のスワップラインに依存せざるを得なかった。スワップライン構築に当たっては、実務的に詰めなければならないことがたくさんあったが、担当者が旧知の間柄で、信頼関係があったため、リーマン破綻後、短期間で準備が整い、仕組みを動かすことができた。若手の日銀職員はなるべく早いうちからBISなどで各国中銀の職員と一緒に仕事をし、人的ネットワークを広げて維持していってほしいと、自らの経験を踏まえて強く願う」

「もう一つの地震対応も、日銀の力が発揮された例だ。東日本大震災では、地震発生からわずか15分後に日銀総裁を本部長とする災害対策本部が設置され、発生から45分後には1)日銀の本支店は営業を継続している2)金融市場の安定および資金決済の円滑を確保するため流動性供給を含め万全を期す―などのメッセージを公表した。計画停電や一部金融機関のシステム障害などの突発事項にも現場がしっかり対応し、金融機関への現金供給、損傷した現金の引き換え、市場への流動性供給、為替介入などに、実務部隊が総力を挙げて取り組んだ。16年の熊本地震の際にも、地域の金融インフラの維持に必要な業務を継続した。印象深かったのは、4月14日の前震では発生から30分以内に支店幹部が営業所に駆け付け、同16日の本震では、深夜だったにもかかわらず1時間足らずで支店の初動態勢を整えたことだ。東日本大震災、さらにさかのぼれば阪神・淡路大震災の教訓も十分に生かされたと思う」 「このような危機対応については、地政学リスクも含め、どのようなことが起こる可能性があり、それにどう対処したら良いのか、かなり早い段階から頭の体操をするようにしている。過去においても、そういった頭の体操が役に立ったことが何回もある」

伝統守りつつ進化し続ける=特別編・中曽副総裁(3)〔日銀探訪〕(2017年4月17日掲載)

インタビューの締めくくりとして、日銀の業務の今後の方向性について話を聞いた。中曽宏副総裁は、恩師である小宮隆太郎・元東大教授の言葉を引用しつつ「中央銀行は、かなり長いタイムスパンで経済・金融がどうなっていくかを考え、政策の在り方を決めていくわけだが、問題をさまざまな角度から、誠実に考えていく必要がある」と指摘。経済、金融が変化を続ける中、「中央銀行も、伝統を守る一方で、自らも変わる勇気を持って進化し続ける姿勢を貫くことが重要だ」と強調した。

「先ほど述べた1)現場を大切にする2)強い使命感を持つ3)調査・分析に基づき政策を遂行する―という3点は、現場の職員が日々の業務を遂行していく中で、先輩から後輩に受け継がれていくべきことだ。この三つの心構えは日銀の文化、伝統、DNAであり、変えてはいけない」

「1982年の日銀創業100周年の際に、その年に入行した新人がおそろいのトレーナーを作った。その胸に『中央銀行魂』という意味の英語が印刷されていた。私も1着購入したが、この言葉の意味を自分なりに理解できるようになったのはかなり後になってからだ。経済、金融といった中央銀行を取り巻く環境が変化する中、変わるという勇気を持ち、創造性を持つことも中央銀行魂ではないかと思う。伝統を守りながら、自らも進化を続けていこうという姿勢を貫くことが中央銀行魂を発揮することになる」

「恩師の小宮隆太郎・元東大教授が、私が大学を卒業する直前のゼミで『これから人生でさまざまな問題に直面するだろうが、誠実にさまざまな角度から、かつ総合的に考えなさい』と話された。仕事をするようになってから、この言葉を折に触れて反すうしている。中央銀行は、かなり長いタイムスパンで金融、経済を考え、政策の在り方を決めていく組織だ。問題はいろいろな角度から一生懸命、誠実に考えなければならないと思う」

「日銀業務の変化という点で二つの例を挙げたい。まず国庫事務について。日銀は全国の金融機関を通じて、税金や社会保険料の受け入れ、年金の支払いなど国の資金の受け払いを行っている。こうした国庫事務について以前から電子化やペーパーレス化を進めており、口座振替やインターネットバンキングを通じた税金の納付が幅広く行われるようになっているが、紙の納付書で納められるケースも残っていて、非常に手間がかかる。そこで、官公庁や金融機関と協力しながら、一層の効率化に向けた環境整備に取り組んでいる」

「二つ目は中央銀行の最後の貸し手機能(LLR)だ。90年代の日本の金融危機では、中央銀行が国内の金融機関に対し、主として相対で国内通貨で与信するという形で対応した。しかし、リーマン・ショック以降のグローバル危機では、資金繰りに窮した銀行が国境をまたいで活動し、取り扱っている通貨も複数に上るなど、各国中銀は全く新しい課題に直面した。ここで発生した課題は、主に三つに整理できる。一つ目は、国際金融機関にいかに資金を供給していくか。具体的には、対象を銀行に絞るのか、ノンバンクも含めるのか。他の国にある担保を、中銀が使えるのか。外貨の調達はどうするのか、といった問題だ。二つ目は、金融機関に流動性供給を行った場合、信用不安を防ぐ観点も含め、どのタイミングで情報開示するか。三つ目は、LLRの対象が個別の金融機関だけではなく、市場全体も含まれるようになったということだ」

「こういった問題点について、国際決済銀行(BIS)のグローバル金融システム委員会がこのほど、報告書をまとめて公表した。私がワーキング・グループの議長を務め、90年代の日本の金融危機やリーマン・ショックの際に日銀が直面した問題をほぼ網羅した。次の金融危機もグローバルなものになると予想されるので、この報告書が次世代の中銀職員の役に立ってほしいと切に願う」

「日本経済は90年代の銀行危機の時代から極めて長い試練の時代が続いているが、ネバーエンディングストーリーにしてはいけない。デフレを克服して、日本経済を持続的な成長経路に復帰させなくてはいけない。調査、研究が大事という面から指摘すると、量的・質的金融緩和の基本メカニズムは実質金利を自然利子率以下に抑えることだが、従来は自然利子率という概念は、短期の金利について論じられることが多かった。しかし現在、主要国中銀は長期金利に働き掛ける政策を推進しており、短期だけでなく長期も含め、均衡イールドカーブを分析対象とすることの重要性が増している。まだ発展途上の研究対象であり、調査・分析の現場に今後の活躍を期待している」 「日銀は、2006年春に量的緩和からの出口を経験した。現在の長短金利操作付き量的・質的金融緩和の出口に同じ手段が使えるとは思っていないが、今回は米国が同様の状況で先行しており、彼らの経験がわれわれにも大変有益だ。実務の現場は、米国と意見交換を密にしてほしいと思う。また、量的緩和の出口の経験についても、出口に至ったときの市場のセンチメント、それを踏まえた対話のポイントは似たようなものがあると考えられ、今後役に立つのではないか。日銀は基本的にテクノクラート集団だ。前回と比べると、今回の政策の出口は難度が高いと思うが、内外に蓄積された知見、経験を生かし、使命を達成していくことができるはずである」

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