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【挨拶】国際金融危機の含意:5年間を経て

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国際金融協会30周年記念年次総会における挨拶の邦訳

日本銀行総裁 白川 方明
2012年10月12日

目次

はじめに

本日、国際金融協会の30周年記念行事のハイライトである夕食会でお話しする機会をいただき光栄です。ご招待をいただいたことに対し、協会の会長ダグラス・フリント氏、および、専務理事のチャールズ・ダラーラ氏に感謝したいと思います。

本題に入る前に、国際金融協会とその会員の皆様が、国際金融界を取りまとめることを通じて、30年にわたって貴重な役割を果たしてこられたことに対して、心からお悦びを申し上げたいと思います。ご存じの通り、国際金融協会は、1980年代初頭のラテン・アメリカの金融危機を背景に誕生しました。その当時、その後の30年間にこれほど多くの国際金融危機を経験するなどということを誰が想像し得たでしょうか。1980年代は比較的問題の少ない時期でしたが、1994年にはメキシコが再び危機に見舞われました。その後、わずか3年でアジア通貨危機が発生し、ロシア、トルコ、そして2000年代に入ってからアルゼンチンと危機が続きました。2007年に発生した国際金融危機は、とくに欧州大陸を中心に、依然として終息していません。

危機が発生するたび、国際金融協会はその解決に向け大きな役割を果たしてきました。国際金融協会は、民間金融機関を代表した意見を述べる機関であるという評価を確立しました。もちろん、政策当局との関係が常に順風満帆であった訳ではありません。たとえば、1989年に発表されたブレイディ・プランについて、協会は当初かなり批判的なスタンスをとっていました。当時の国際金融協会の報告書をみると、このプランは国際金融システムにおける規律を失わせるものであると主張されています。そうした厳しいご意見であっても、国際金融協会によって提供される業界の集約された意見は、政策決定を行ううえで常に重要な情報でした。

業界の意見を代表する機関として、国際金融協会は活動の場を広げています。たとえば、国際金融協会は、国際金融システムにおけるさまざまなルールや慣行を形成する過程に積極的に参画しています。最近では、バーゼル規制の改訂にあたり、国際金融協会と政策当局は良い協働関係を築いてきています。もちろん、政策当局は国際金融協会の主張にすべて賛同できるとは限りませんが、協会から示される意見に真剣に耳を傾けていることは確かです。本日、私としては、国際金融協会が手掛けてきた数々の成果のごく一部にしか言及することはできませんが、それは協会が行ってきたことの価値を決して減じるものではありません。

金融危機発生から5年間を経て

本日の主題である国際金融危機とその含意に話を移します。

BNPパリバの傘下にあった3つのヘッジ・ファンドの償還停止という、今回の世界的な金融危機の起点となった出来事が発生したのは2007年8月9日のことでした。それから5年以上が経過しました。官民を挙げた対応にもかかわらず、世界経済の成長ははかばかしくない状況が続いていますが、より幅広い観点からこの5年間を評価するとどうなるでしょうか。危機管理、危機後の経済の回復、そして危機の再発防止策という3つの評価軸を設定したうえで、私なりの評価を述べたいと思います。

第1の評価軸は危機管理です。この点では、1930年代のような大恐慌の再来を回避することには成功しました。その背景として、危機直後の先進各国の積極的かつ協調的な政策の発動も大きく寄与したものと考えています。中央銀行の政策に即して申し上げると、まず、非常に積極的な金融緩和が行われました。そして、より重要だったのは、いわゆる最後の貸し手として中央銀行が積極的に流動性を提供したことで、これは事態が手に負えない状況に陥ることを防ぐ点で大きな役割を果たしました。それと同時に、過去20年近くにわたり当局も交えて粘り強く推進されてきた、さまざまな金融インフラ改善の効果を過小評価してはなりません。たとえば、証券と資金の同時決済化、中央銀行の口座を使った即時グロス決済化、外貨決済の時差リスク、いわゆるヘルシュタット・リスクの解消を目的としたCLS(Continuous Linked Settlement)といった取り組みです。

第2の評価軸は危機が収束した後の経済の回復です。さきほど申し上げたように、世界経済は力強い成長軌道に復帰したとはいえません。実際、過去5年の間に、先行きに対するかすかな期待が台頭した時期が何度かありましたが、私自身の日本のバブル崩壊後の経験に照らせば、そうしたものは「偽りの夜明け」ではないかと当初より懸念していました。先進国のGDPは、現在、リーマン・ショックの前年の水準をかろうじて上回る程度に過ぎません。債務が大きく積み上がった経済では、債務の返済資金を確保しなければならない経済主体が支出を抑制することにより、経済活動が停滞することになります。

やや脇道に逸れますが、こうした状況を形容するためしばしば使われる、「失われた10年」という言葉は、ややミスリーディングではないかと思います。この表現には絶対的に失われたというニュアンスが含まれていますが、「失われた10年」の前に「肥大した10年」があったことを忘れてはなりません。いずれにせよ、過剰債務の調整がおわるまでは、本格回復は始まらないという事実を社会として冷静に認識することが重要です。そうでないと、人々の間に不満が高まり、そのことが経済政策のタイミングや内容を不適切なものとするおそれがあるほか、世界経済全体の効率性を低下させたり、安定を脅かしたりすることで、経済の回復をさらに遅らせかねません。その意味で、危機が収束した後の局面においては、目先の状況にとらわれて二次被害をもたらさないようにすることがきわめて重要だと思います。

第3の評価軸は、危機の再発防止に向けた取り組みです。この点に簡単に触れておくと、2009年秋のピッツバーグのG20サミットで採択された声明に沿って、銀行の資本規制が強化され、OTCデリバティブ市場改革が行われたほか、金融システム上重要な金融機関の責任が強化されるなど、重要な前進がみられます。しかし、こうした努力を単純に延長した先に、危機のない楽園(nirvana)が待っていると考えるのは楽観的に過ぎます。

金融危機の重要な教訓の1つは、個々の金融機関に対する規制・監督を十分に行い、金融機関がしっかりと経営されるだけでは、金融システムの安定性が実現するとは限らないということです。そのために必要な政策対応を表現する言葉として、「マクロ・プルーデンス」という言葉が使われるようになっています。この概念自体は新しいものではなく、危機の前からその重要性が徐々に認識されてきていました。危機によってその重要性が広く認識されるようになった今日、各国の政策当局は、こうした政策を具体的に推進していかなければなりません。

この点に関連して、今回の危機を境に強く意識されるようになったのは、金融の安定性を確保するにあたって、国が果たす役割の重要性です。2008年に経験したように、金融システムが崩壊の危機に瀕している状況のもとでは、国だけがそれを食い止めることができます。したがって、国が支援する能力が疑われるような場合には、金融システムの安定性と財政の持続性に対する信認の間で悪循環が生じます。この問題は、グローバル化が深化するもとで金融システムの安定性を維持する負担がますます大きくなり、民主的な国家の負担能力を超えかねなくなっている中、ますます先鋭化しています。「納税者の負担による金融機関の救済拒否」という考え方は、国際的に活動する金融機関の破たん処理にかかる費用を、国家の徴税能力ではまかないきれないのではないかとの疑問に基づくものと思われます。この点について妥当な解決を阻んでいるのは、金融機関に対する信認がなかなか回復しないことです。市場の信認が得られない金融機関はごくわずかなショックでも経営危機に直面し、国の支援を必要とする可能性が高まるため、国が戦略的に安全網を提供することをより難しくするからです。本日、ここにお集まりの皆様には、この問題について、これからも考えていただきたいと思います。

日本の経験を振り返って

以上みてきたように、危機発生後の世界経済は多くの課題に直面していますが、希望はあります。私としては、世界経済が持続的な成長軌道に戻ることは可能であり、それには政策も貢献できると考えています。残された時間の中で、先ほどの第2の評価軸の箇所で触れた二次被害の問題も意識しながら、持続的な成長軌道への復帰にかかる課題について述べてみたいと思います。この点でも、日本の経験はいくつかの貴重な手掛かりを提供しています。

日本経済は、バブル崩壊の兆しが見え始めてから10年以上を経た2003年ごろから回復軌道に復帰し、その後、期間としては戦後最長となる景気拡大を経験しました。これを可能にした条件は3つありました。第1は、過剰債務がようやく解消されたことでした。GDP対比でみた銀行貸出残高は、1990年代の初頭にピークを付けましたが、2003年ごろまでには1980年代半ばの水準に戻りました。第2は、世界経済の高い成長が長期にわたって続いたことでした。2004年からリーマン・ショック前までの世界経済の平均成長率は実に+5.0%程度と、1990年代の平均成長率+3.0%程度をはっきりと上回るものでした。今から振り返ってみると、この時期の世界の高い成長率の少なからぬ部分は未曾有の信用バブルに支えられていました。第3は、その期間中、為替が円安方向に振れていたことです。実質実効為替相場は、2003年末にかけてやや円高に振れた後、2007年半ばにかけて長期の下落トレンドに入り、下落幅は3割ほどになりました。一般的なイメージとは異なり、日本銀行が量的緩和を拡大した時期に概して円高傾向で推移したのに対し、2006年3月に量的緩和を解除してから2007年にかけて円安傾向が加速しました。この円安の進行は、高い成長率を背景に海外の金利水準が引き上げられる中で、日本ではきわめて低い金利水準が続いたこともあって、いわゆる円キャリー・トレードが活発に行われたことなどを反映しています。

こうした日本の経験を聞くと、皆さんの気が重くなるかもしれません。世界経済が抱える過剰債務の解消に日本と同じくらいの時間がかかるとすれば、まだ道半ばということになります。また、世界経済で大きなシェアを占める先進国全体が低成長を続けていることから、世界全体の成長も低位にとどまらざるを得ず、「外需」に大きな期待をおくことはできません。すべての通貨を同時に減価させることはできません。こうした状況のもとで、新興国経済が世界経済のけん引力になるとの議論が多く聞かれています。理屈の上では、新興国経済が世界経済に占めるウェイトがますます大きくなる中、新興国が先進国を停滞から抜け出させることは可能かもしれませんが、本当にそのように考えてよいのでしょうか。これを考える際には、世界経済の成長力という視点が重要になります。

ここでも日本の経験が手掛かりとなります。前回、東京でIMF・世銀総会が開かれたのは48年前の1964年ですが、日本はこの年の4月にIMF協定上の8条国に移行し、同月末にはOECDへの加盟を果たしました。また、総会が閉幕した直後の10月には世銀の借款も受けた新幹線が東京・大阪間で開通しました。当時の日本はまさに「新興国」であり、総会の出席者は高度成長を目の当たりにすることができました。1956年から1964年までの平均成長率は9.4%、その後の5年間も平均10.2%という高度成長で、1968年には資本主義国の中で世界第2位の経済大国になりました。

今日では、中国が当時の日本と同じような高成長を続けています。1992年から2011年までの20年間にわたる平均成長率は10.5%で、高度成長期の日本と同じくらいです。問題は、このような高成長があとどれくらい続くかです。単純な比較は適当ではないかもしれませんが、中国の生活水準を1人当たりGDPの購買力平価ベースでみると、現在の水準は日本の1964年ごろの水準に相当します。市場価格ベースでみると、中国は、1999年に日本の1964年の水準を上回りました。

日本の場合、2桁の成長率は1956年から1970年までの15年程度続きました。その後、1971年の不況を経て成長率は次第に低下しました。振り返ってみれば、こうした状況は避けられなかったものと思われます。人口や労働力の面からみると、日本の場合、農村部から都市部への労働力の移動によって賃金上昇が抑制される状況は1960年代前半には終了したとされています。また、日本の総人口に占める生産年齢人口の割合は1969年にピークに達し、1996年からは絶対数でも減少に転じました。こうした人口や労働力の面からの2つの成長ボーナスが徐々に消滅したことは、成長率が傾向的に低下した大きな要因といえます。

どの国もそうですが、経済は一直線に変化する訳ではありません。結果的に、10年間の平均成長率が2桁となるにしても、その間、何年か毎に景気が減速しても不思議はありません。このため、このような潜在成長率の低下をリアルタイムで認識することは容易ではありません。しかし、そうした判断が難しいとしても、潜在成長率の低下に即応してマクロ経済政策を運営しなければ、問題が生じます。日本の場合、1970年代から80年代にかけては、経済の状況は、他の先進国と比べれば、総じて良好でした。しかし、この20年間において、日本は、1970年代前半には高い物価上昇を長期間にわたり経験し、また、1980年代後半にはバブルを経験しました。これらの原因は複雑ですが、潜在成長率の低下を十分に意識しない中で、マクロ経済政策が行われたことや、企業や金融機関の経営者がそれ以前の高い成長率に基づいた積極的な経営を行ったことが原因の1つと思われます。たとえ困難であったとしても、政策当局者は、高度成長から安定成長への円滑な移行を図ることによって、経済が被るコストを最小化していくことが求められます。

国際的な視野からの政策運営の重要性

それでは、世界経済における先行き数年間の政策課題は何でしょうか。抽象的にいえば、各国の政策当局者が、世界経済全体の安定ということを意識しながら、それぞれの国の政策運営を行うことではないかと考えています。先進国では短期金利は事実上ゼロ%となっているほか、長期金利も歴史的な低水準になっています。中央銀行のバランスシートは、危機前には考えられなかったほど著しく拡大しています。金融政策の伝統的な効果波及メカニズムの出発点は金利低下ですが、金利低下の余地は小さくなってきています。しかも、多くの先進国経済は財政状況が悪化するもとで、財政政策もかなり制約されています。このように国内的なルートを通じる景気刺激策が限られている状況のもとでは、為替レートや新興国・資源国からの需要に期待する議論が多くなることも理解はできます。

こうした政策対応は、新興国・資源国の立場を難しいものにします。これらの多くの国では、固定的な為替レート制度を採用していることもあり、先進国の金融緩和が直接的に国内の金融緩和をもたらします。先進国にしても新興国にしても、それぞれの行動自体は理解できるのですが、世界全体としての効果や、各国の政策の他国への波及といった観点からみると、緩和方向へのバイアスがあるかもしれません。こうした意図せざる帰結は、2000年代半ばの未曾有の世界的な信用バブルが発生したときの環境と似た側面を持ってくるのかもしれません。

現在、中央銀行の積極的な金融政策によってグローバルな規模でインフレや信用バブルがすぐにでも発生しかねないと申し上げるつもりはありません。これは誤解していただきたくない点です。しかし、政策の射程を狭くとらえ過ぎることにより、本日お話ししたような二次被害が発生する可能性はあります。グローバル化の深化を踏まえると、責任ある政策当局者として、自国の政策の他国への波及と、その自国への跳ね返りを無視することはできなくなっていると感じます。各国の中央銀行が現在行っているのは「時間を買う」政策です。中央銀行は、過剰債務の調整の痛みを和らげるなど、金融緩和から得られる便益がそのコストを上回っていると判断して、こうした政策を採用しています。同時にこうした金融政策は、過剰債務の調整をはじめ、政府による構造改革を代替するものではないことも認識する必要があります。買った時間はうまく使われなければなりません。

おわりに

1980年代を振り返ると、危機を解決しようとする際には、皆さんを文字通り「煙草の煙がたちこめる部屋」に集め、うまい解決策が得られるまでは部屋から出てはいけないといって合意を迫ることができましたが、現在はそのような方法をとることはできなくなっています。そもそも室内で煙草を吸うことができなくなるなど、時代の変化もあります。しかしながら、より本質的には、銀行融資から債券発行への転換やそれに伴う参加者の多様化といった国際金融資本市場の構造変化が、さまざまな問題についての合意形成を難しくしています。

本日お話しした政策対応における国際的な視点は、こうした構造変化を背景に、その必要性が高まっていると同時にその採用が難しくなっています。こうした視点を実現していくにあたっては、中央銀行は長期的な観点から物事を捉えなければなりません。少なくとも景気循環全体への影響を意識しなければならず、さらにはそれよりも長期間にわたる金融システムへの影響を考慮することも重要です。市場というものは往々にして近視眼的になりますが、経済を金融で支えていくということは、昔も、今もそして将来も長い目で捉えるべきものです。金融機関において、こうした考え方を受け入れていただけるのであれば、今後とも共に歩んでいくことができると思います。これまでの30年間と同じように、国際金融協会が国際金融界に貢献し続けるために絶えず進化していくことを期待しています。

最後になりましたが、国際金融協会が30年にわたって続けてきた、国際金融界に対する貢献に改めて感謝の意を表したいと思います。

本日は、ご清聴ありがとうございました。