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【講演】経済統合が進むアジアにおける日本経済と金融政策

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ペナン経済コンファレンス(マレーシア)における講演の邦訳

日本銀行政策委員会審議委員 白井 さゆり
2013年6月29日

目次

1.はじめに

皆様、おはようございます。日本銀行の政策委員会審議委員をしております白井さゆりと申します。どうぞよろしくお願いいたします。本日は、ペナン経済コンファレンスにご招待いただき、「経済統合が進むアジアにおける日本経済と金融政策」というテーマで講演をする機会を頂きまして大変光栄に存じます。さて、ご存じの方もおられるかと思いますが、日本銀行は本年4月4日に「量的・質的金融緩和(以下、量的・質的緩和)」と名付けた新しい金融政策を導入致しましたので、本日の講演ではまずこの政策について簡単にご説明したいと思います。そのうえで、アジアとの金融・貿易関係について現状をお話しし、量的・質的緩和が及ぼす影響について私の考えをお話しいたします。

2.「量的・質的緩和」政策と波及経路

まず初めに、わが国は1990年代後半以降から現在までの大半の時期において、マイナスの需給ギャップ(需要不足)と緩やかなデフレに直面してきました。このようなお話しをいたしますと、多くの新興諸国では何故インフレを実現するのがそれほど難しいのか理解に苦しむかと思います。しかし、わが国は一連の金融緩和政策を実施しても今日までデフレを克服できずに来ました。そうした事情を背景にして、日本銀行は本年4月に量的・質的緩和を導入しましたが、その目的は、2013年1月に導入した2%の物価安定目標を、2年程度の期間を念頭において、できるだけ早期に実現することにあります。むろん、それは一時的に2%を達成すれば良いということではなく、我が国経済が持続的な成長経路を辿る中で実現することを想定しています。こうしたことから、量的・質的緩和の導入にあたっては、「2%の物価安定目標の実現を目指し、これを安定的に持続するために必要な時点まで量的・質的緩和を継続する」というコミットメント(2%の安定的な実現を目指すコミットメント)も示しています。以下では、量的・質的緩和について、三つの特徴に整理してその本質と波及経路をご説明いたします。

量的・質的緩和の三つの特徴

第一に、金融緩和の重要な政策手段として国債買入れを位置づけ、40年債まで全ての年限を対象としました。イールドカーブ全体に対する下押し圧力を高めることが目的です。そして、平均買入年限を従来の3年弱から「7年程度」(6〜8年)へと長期化しています。保有残高が年間約50兆円に相当するペースで増加するよう買入れを行い、2012年末から2014年末までの2年間(以下同じ)に保有残高を2倍にまで拡大します(図表1)。

第二に、リスクプレミアムの低下余地があり、経済効果も高いと思われる指数連動型上場投資信託(ETF)と不動産投資信託(J-REIT)も増額しています。市場規模や日本銀行のリスク量を勘案して毎年各々約1兆円と約300億円に相当するペースで買入れることにしています。ETFについては2年間で保有残高が約2倍にまで拡大します。

第三に、中長期のインフレ期待への働きかけを重視しています。インフレ期待が重要なのは、企業・家計の間で中長期的にはインフレ率が上昇するであろうという予想が高まれば、現時点で設定する販売価格や賃金などに影響を及ぼしうるからです。また、インフレ期待の上昇ペースが名目長期金利の上昇ペースを上回る限り、実質長期金利が低下する(またはその予想が形成される)ので、緩和的な金融環境を整えることが可能となります。こうした観点から、金融政策の操作目標として、政策姿勢を市場や国民に分かりやすく伝えることができるマネタリーベースを採用することにしました。そのうえでこのマネタリーベースを毎年約60〜70兆円のペースで増加させ、2年間でその残高を倍増する目標を示すことにしました。

金融緩和の波及経路

量的・質的緩和の実体経済への波及経路については、第一に、(名目)長期金利や資産価格のリスクプレミアムへの働きかけを通じた経路で、企業・家計の資金調達コストの低下、企業・金融機関の財務基盤の改善、家計の資産効果を通じて、企業・家計の投資・消費活動の活性化を狙うものです。第二は、投資家や金融機関に対して高い収益が得られる資産への投資を促す「ポートフォリオ・リバランス」を通じた経路で、新興・成長企業へのリスクマネーの供給やリスク資産への投資を増やし、経済の成長力を高める効果を見込んでいます。第三に、中長期のインフレ期待への働きかけを通じた経路で、インフレ期待が高まることや実質長期金利の低下により、企業の設備投資や家計の耐久財消費、住宅投資などを刺激する効果を想定しています。こうした三つの経路を通じて、総需要の拡大、GDPギャップの改善、インフレ期待の上昇などが生じることで、物価の上昇傾向が高まっていくと考えています。

私自身はこれらの中で、とくに第二の経路により、わが国経済の活性化に必要なある程度のリスクをとる行為が生じることを期待しています。デフレマインドが蔓延している状況では、貨幣を保有していても機会費用が低いため、リスクマネーがなかなか生まれません。そうなりますと、これから若者・高齢者問わず様々な方々が新たに起業し、あるいは潜在的な技術力を持つ企業が成長していけばそれがわが国経済の強みとなっていく可能性があるのに、そうした企業・個人にお金が回らない可能性があるわけです。だからこそ、約15年間のデフレのなかで染みついた消極的なマインド、あるいはデフレに慣れた資産運用方針や企業の価格設定から徐々に脱却していこうという思いで量的・質的緩和を導入したわけです。同時に、実体経済への影響を考える上で実質金利の低下が重要だと考えています。データの取り方にもよりますが、足元では実際、実質金利は低下している可能性が高いとみています(図表2)。

3.量的・質的緩和のわが国の金融資本市場及びアジアへの影響

量的・質的緩和の導入以降、わが国の金融資本市場では、国債市場を中心にやや変動が大きい局面もみられています。足元、国債市場では幾分落ち着きがみられますが、ここでは国債市場を中心にこうした動向やアジアとの関係についての私の見解を申し上げます。

わが国の金融資本為替市場の動向

まず、長期金利は、概念的には(1)リスクプレミアムと(2)予想短期金利(将来の短期金利の予想経路)によって構成されると考えられます。日本銀行の国債買入れは、主としてリスクプレミアムを、次いで予想短期金利を下押しする効果が期待されます。さらに2%物価目標の安定的な実現を目指すコミットメントが、これらの効果を強めています。その一方で、景気回復期待とインフレ期待の高まりや海外の長期金利の上昇は、予想短期金利の押し上げにつながると考えられます。

量的・質的緩和の導入後の長期金利の動向をみますと、以上のような引下げ・引上げ双方の圧力が加わりながら推移しています(図表3)。この状況を私なりに整理しますと、3つの要因が影響を及ぼしているように思います。1つは、米国が今年に入って財政引き締めを開始していますが、それでも住宅市場では回復傾向が鮮明となっており比較的緩やかな経済成長と雇用の増加を続けており、経済のファンダメンタルが強くなってきています。そういう状況の中で、米国連邦制度準備理事会(FRB)の幹部を中心に年内に資産買入額の縮小を示唆する表現がなされ、米国で長く続いた金融緩和が、そろそろ出口に向かう方向に動き出すと意識する市場参加者が増えているとの指摘もあります。しかし、発表される経済指標が強い景気回復を裏付けるものばかりではないこともあって、資産買入金額の縮小時期について様々な見方があるようです。こうしたことを背景として米国の金利・株価・ドル相場が変動を高めており、わが国や他国の国債・株式・為替市場にも影響を及ぼしています(図表4、図表5)。

第二の要因は、市場環境に変化が生じつつあることにあります。つまり、以前の市場環境では、長期金利が低位で推移し、ボラティリティも低い状況が続いていましたが、量的・質的緩和の導入後は、将来のインフレを意識した行動をする市場参加者もいれば、様子見の参加者もいる状況へと変化し、そうした行動の違いが金利の変動に反映されている可能性があります。この間、国債市場の取引高に関しては4月初めを除けば減ってはおらず、ビッド・アスク・スプレッドも、過去の歴史的なデータからみて非常に高いというわけではないようです。しかし、大量に国債を売買する場合にこれまでの価格では希望する金額全てを取引するのが難しく、その分だけ取引コストが高くなっています。また、市場流動性——流動性を日中の値幅を出来高で割った比率と定義するのであれば——もやや高めの水準で推移しています(図表6)。

第三の要因は、第二の要因にも関係しますが、量的・質的緩和が長期金利に及ぼす影響について市場参加者の見方が大きく異なっていることも関係しているように思います。金利が非常に早く上がっていくという見方や緩やかに上がるという見方など色々あり、それが市場に反映されているのではないかと見ています。これに関しては、日本銀行では2年を念頭に早急に2%の物価安定目標を実現するように努めるという思いは変わりません。現在のところ、本年4月26日の展望レポートでは、2015年度に委員見通しの中央値として1.9%のインフレ率を見込んでいます。さらにいえば、私自身は2%の安定的な実現を目指すコミットメントを重視しており、このコミットメントの着実な達成を目指してゆくことが極めて重要と考えています。

今後の長期金利の動向については、上昇圧力が強まる局面であっても、日本銀行の量的・質的緩和によって金利低下圧力が継続的にかかり続けること(特にリスクプレミアムの低下圧力は国債買入れの継続による累積効果から強まる可能性もあります)、並びに2%の安定的な実現を目指すコミットメントを通じて、(中長期のインフレ期待も先行き緩やかに上昇していく中で)最終的に2%の物価安定目標と整合的な水準へ向けて安定していくことが見込まれます。日本銀行としては、今後も債券を含めた金融市場の動きを丹念に点検しつつ、市場参加者との意見交換等を通じた柔軟なオペ運営を実施しながら、長短金利ともに全体として安定的な経路に沿って推移することを期待しています。

わが国のその他の市場や貸出残高の動向

以上のように国債・株式市場では変動が高まる局面もみられていますが、現時点では、企業のCP・社債発行環境に変調はみられていません。4月以降もCP発行レートも全体としては低水準かつ横ばいで推移していますし、一部の企業で上昇していた発行レートもこのところ低下しています。また、社債発行は順調に伸びていますし、社債流通スプレッドも総じて低水準かつ横ばいで推移しています。金融機関による貸出残高も緩やかに伸びており、銀行合計では4月と5月は各々前年比2.1%増を記録しています。住宅ローンの長期固定金利や長期プライムレートが幾分上昇していますが、住宅ローン向け融資は増えていますし、企業融資も増加傾向にありますので、今のところ実体経済にはさほど影響がないようです。

アジアの金融資本市場への影響

次に、米国やわが国の金融緩和が、アジアなどの資金流出入や通貨を不安定化させるとの懸念があることはよく耳にします。とくに、アジアでは金融資本市場の規模が相対的に小さく、これから発展していく段階にある国も多く、大量な資金が海外から一斉に流入すると、それらを消化しきれず、資産・信用バブルが発生する恐れが指摘されています。とりわけ流入する資金が逃げ足の速い短期資金が中心ですと、何かのショックが発生しますと資金が逆回転して突然引揚げられ、その結果、バブルがはじけて金融危機につながるリスクも指摘されています。足元のアジア金融資本市場では、一部の諸国でドル建てのハイイールド債や低格付け債を含む社債の発行が増えており、また不動産価格が上昇している国もあることから、過熱感を指摘する声もあるようです。

しかし、日本銀行の量的・質的緩和については、今のところアジアの経済や金融資本市場に及ぼす影響は限定的なように思われます。邦銀については、2010年頃からアジアへの投融資が増えており、現在も増加を続けています。しかし、ユーロ圏からの投融資の減少分を補っている面があり、しかも香港やシンガポールなどわが国を除くアジア域内を拠点とする金融機関の投融資がより大きく増えていることから、邦銀の海外活動が過熱感をもたらしているとは言えないようです(図表7)。また邦銀の融資の大半はドル建てで実施されており、今後はアジアでのさらなるビジネス展開を目指して現地通貨建て資金調達の多様化を行いながら、現地通貨建て融資業務を拡大していく計画の金融機関もあるようです。

わが国の海外との証券投資収支については、現時点では純流入となっています。この内、「対外証券投資」を見てみますと、年初来、流入超(処分超)の状態が続いています(図表8)。もともとわが国の対外証券投資は、欧米への債券投資が多く、アジア向けの投資額はごく僅かです(図表9)。それが足元では債券投資が取得超から大幅な処分超に転じており、株式についても幾分処分超となっています。これは、(1)円安によって対外資産の円ベースの評価額が増えたため対外投資額を一定の割合に維持する運用方針をもつ投資家によるポジションの縮小が見られること、(2)欧米債券の(為替ヘッジ後の)収益率が国内資産と比べて必ずしも高くないこと(図表10)、(3)円キャリートレードの収益が過去と比べてさほど高くはないこと、といった見解が指摘されています。その一方で、投資信託を通して個人投資家の資金が北米や一部のアジア諸国の証券に投資されているようです。

むしろ、現状では、アジアを含む海外からわが国に向けた「対内証券投資」が流入超になっています(図表11)。とくに、わが国への積極的な株式投資が見られます。5月下旬には株価の下落もあって処分超に転じていますが、足もとでは幾分戻ったり、処分超に転じたりと変動がみられています。海外投資家の多くは株式の個別銘柄だけでなく、政府の成長戦略やその実行力を投資の判断材料として注目しているようです。

以上から、現時点では対外投資の積極化が見られるわけではありませんが、わが国の金融政策が他国の資金フローに及ぼす影響については今後も注意深く見守っていきます。ただし、個人的には、投資の多様性の一環として国内にある潤沢な資金の一部が成長力の高いアジアの発展に向けて活用され、アジア域内で金融資本市場がさらに発展していくことが望ましいと思っています。また、アジアでは国内のインフラが未整備な所も多く、そうしたところでは長期資金が必要ですので、アジア域内で幅広いセクターに資金が回るようになれば、わが国を含めてアジア全体でウインウインの状況をもたらすことができるのではないかと思っています。

資本フローに関連するアジアの域内経済協力

アジアを含む新興諸国への資本流入が拡大する背景には、プル要因(成長率や金利の高さなど)とプッシュ要因(先進諸国の低金利や低成長、投資家による高い収益の追及など)の両方があります。このうち、プッシュ要因を意識して、現時点では、新興諸国向けの資本フローの急激な流入・流出について各国ごとにプルーデンス規制など様々な対策が取られていますが、万国共通の処方箋やコンセンサスは存在していません。しかし、長い目で見れば、アジアにとって国内の(自国通貨建て)金融市場、特に長期の資本調達市場を育成することが重要だと思います。その意味では、アジアの現地通貨建て債券市場育成を目的とした政府・中央銀行のイニシアチブ(ABMI、ABF)は大変有意義だと思います。アジアの現地通貨建て債券市場を見ると、発行残高は10年前の6倍以上にまで拡大し7兆ドル以上に達しており、現在では公的部門だけでなく民間企業にとっても重要な資金調達源となっています。こうした動向は望ましいと判断しています。今後は、各国市場の透明性の向上など質的な面での改善や国内の機関投資家の育成も進められていくことを望んでいます。アジア諸国の多くは、経常収支の黒字を計上しているだけに、国内の貯蓄を自国で活用することは意味があると思います。

また、資本フローのモニタリングと金融危機予防・管理の観点で、チェンマイイニシアチブ(CMI)の重要性についても強調しておきたいと思います。CMIは、2000年に創設されたASEAN+3諸国の金融危機予防・管理の枠組みですが、本年5月上旬に開催されたASEAN+3財務相・中銀総裁会議では、同CMIの中でサーベイランス機能を果たすAMRO(ASEAN+3 Macroeconomic Research Office)の国際機関化が合意されています。AMROは、アジア地域の金融経済に不均衡が蓄積していないかといったモニタリングを実施するものであり、国際機関への格上げは、その独立性を担保するうえで重要な出来事です。CMIは、2012年5月のASEAN+3財務相・中銀総裁会議の合意に基づき、本年5月には、金額の(1200億ドルから2400億ドルへの)倍増、IMFリンク部分の(80%から70%へ、2014年に60%までへ)縮小、危機予防ファシリティの導入などを盛り込む形での協定の改正が合意されたところです。こうした地域協力の枠組みが、金融危機を予防し、発生時には効果的に管理することに繋がることを期待しています。

アジアとの貿易関係への影響

最後に、量的・質的緩和がアジアとの貿易関係に及ぼす影響について一言触れておきたいと思います。わが国経済が回復していければ、アジア域内からの輸入を促進し、同地域の需要の拡大に貢献するというプラスの側面があると思います。その一方で、円安が進む場合に日本企業との競合が発生するというマイナスの側面を指摘する見方もありますが、円安が進む場合でも、アジア地域において日本から輸入する中間財の価格が低下すれば、アジア諸国の競争力強化に貢献することもあり得るので、アジアとの貿易関係への影響は単純ではないように思います。

この背景には、アジア地域とわが国の間には、サプライチェーンの生産ネットワークが形成されており、クロスボーダーでの貿易の結び付きが発達していることが指摘できます。それは、わが国企業の海外生産比率が上昇傾向にあり、その結果、海外現地法人の売上高がわが国の輸出額を上回っていることからも明らかです(図表12、図表13)。そうした中でのわが国経済の回復は、基本的に、アジア地域にとってプラスに働くと考えられます。

4.最後に

日本銀行は長く続いたデフレから脱却するために金融緩和を実施しています。政府の側でも経済対策を実施し、成長戦略も打ち出しています。わが国はアジア地域の一員として、さらなる金融および貿易面での貢献ができると思います。また、世界でもいち早く進行する高齢化社会を迎えており、その経験はアジア諸国でもお役にたてると思います。そのためにもまずは経済を活性化し持続的な成長を実現するために最大限の努力をして参りますので、日本銀行の政策についてご理解頂ければ幸いです。

ご清聴頂き、有難うございました。