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【講演】「失われた20年」が示す将来への指針

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2014年IADI・APRC国際コンファレンスにおける講演の邦訳

日本銀行副総裁 中曽 宏
2014年4月23日

目次

  1. 1.はじめに
  2. 2.デフレ克服
  3. 3.金融危機の拡大を防ぐ仕組み
  4. 4.中央銀行のLLR
  5. 5.おわりに

1.はじめに

本日は、歴史ある京都での国際預金保険協会アジア太平洋地域委員会主催の国際コンファレンスにお招きいただき、誠に有難うございます。

私からは、日本のいわゆる、「失われた20年」から学べることは何かを見出すため、少し歴史を振り返りたいと思います。

1990年代初頭のバブル崩壊後の日本経済の経験は、当初、日本特有なものであり他の諸国へのインプリケーションは乏しいとされておりました。しかし、それ以降の世界の経済金融の展開は、日本の経験が決して特有のものではなかったことを示しております。「失われた20年」の間に、日本銀行が金融システムの安定とデフレ克服を実現するために直面した数々の課題は、幾つかの貴重な教訓を残しました。こうした教訓の中には、未来への道しるべとなるものもあります。今日は、この間に得た知見のうち、特に今日的な意義を有し、かつ本コンファレンスの参加者の皆様方にも関係すると思われる問題を3つ取り上げたいと思います。

具体的には、デフレ克服という使命、金融危機の拡大を封じ込める仕組み、そして、中央銀行の「最後の貸し手」としての役割です。

2.デフレ克服

名目ゼロ金利制約とデフレ均衡

1990年代の金融危機以降、日本経済は物価がじわじわと下落を続ける「デフレ均衡」に陥ったとされています。本日は、デフレ克服の使命との関係で、まずこのデフレ均衡についてお話しさせていただければと思います。

物価下落が続いたのは、第一義的には、日本経済に金融危機という大きなショックが加わり、需給ギャップが拡大したためです。今日では、金融危機が、経済の最も大切な基盤のひとつである金融仲介機能を毀損させ、実体経済に如何に大きなダメージを与えるかの説明は不要かと思いますが、当時はこのメカニズムは過小評価されていたと思います。2000年代に入り、労働人口減少という新たなショックが加わり、日本経済を下押し続けました。

しかし、こうした大きなショックに対して、中央銀行が十分に金利を引き下げることができれば、デフレが続くなどということはなかったはずです。この点、名目金利をゼロ以下に引き下げることができないことが決定的に重要です。図表1は、このことを大胆にデフォルメした形で説明したイメージ図で、出典はセントルイス連銀のBullard総裁の論文です1。この図では、名目金利、実質金利、インフレ率の関係を表わしたフィッシャー式と中央銀行の政策反応関数の交点として、均衡状態の名目金利とインフレ率が求まります。中央銀行は、インフレ率が低下すると金利を引き下げますので、政策反応関数は右上がりの線になりますが、名目金利をゼロより下げることができないため、図のように名目金利がゼロのところで水平になります。こうなると、2つの線が交わる点は2つ生じ、右側が「インフレ均衡」、左側が「デフレ均衡」となります。当初インフレ均衡にあった経済に大きな下押し圧力が加わると、インフレ均衡からデフレ均衡に陥りかねません。図表2で実際に日米欧のデータをプロットしてみますと、日本経済がデフレ均衡の周辺で推移していたことがわかります。

こうした名目ゼロ金利制約やデフレ均衡の話は、当初、日本の特殊事例として、一部の経済学者の知的好奇心の対象でしかありませんでした。しかし、リーマン・ショック以降、先進主要国の中央銀行が同じような問題に直面するに至り、各国政策担当者にとって大きな教訓となっています。

  1.   1  Bullard, J. (2010): "Seven Faces of 'The Peril'," Federal Reserve Bank of St. Louis Review, September/October, pp.339-352.

デフレ均衡からの脱出

もうひとつの教訓は、経済がひとたびデフレ均衡に陥ると、そこから脱出することが如何に難しいかということです。デフレ均衡から抜け出すためには経済に十分な初速を与えなければなりません。その際、極めて重要なことは、持てる力を総動員することです。金融政策については、昨年4月に「量的・質的金融緩和」という思い切った措置を導入しました。と同時に、財政政策についても、長期の財政維持可能性に配意しながらですが、補正予算等で拡張的な施策が導入されました。デフレ均衡からの脱出にあたっては、インフレ均衡にあっては独立的に運営される金融・財政政策を異なるアプローチで運営する必要があると思います。昨年1月に導入しました日銀・政府の共同宣言は、こうした金融・財政政策の協業を可能にするコーディネーション・ディバイスとして重要な役割を果たしていると思います。これらの措置が奏功し、図表2で直近の実績をみると、わが国経済がデフレ均衡から着実に脱出しつつあるようにみえます。

脱出しつつあるとはいっても、2%のインフレ均衡に到達するにはなお道半ばのところにあります。こうした観点からは、この4月からの消費税率引上げの影響が注目されているところです。自動車のように、1997年の税率引上げ時よりも大きな駆け込みが起こっているようにみえる財も一部にみられますが、個人消費全体としてどうかとなると、なおデータの蓄積を待ちたいところです(図表3)。私自身は、日本経済は全体として消費税率引上げの影響を吸収していく頑健性を備えていると判断しています。その要因としては、雇用・所得環境が改善を続けていることに加え、前回1997年の税率引上げ時に存在していた問題が今回はないことが大きいとみています。特に、当時は金融危機により、経済を支える金融仲介機能が壊れていたのに対し、今回は金融システムの健全性が維持されていることが決定的に異なると思っています。これは見方を変えると、その当時の過剰債務、過剰設備、過剰雇用といった問題が、その後の企業努力もあって、解消に至っていることと対応しています(図表4)。

私ども日本銀行は、デフレ克服を確固としたものにするため、「量的・質的金融緩和」を着実に遂行していきます。その際、何らかのリスク要因によって見通しに変化が生じれば、2%の「物価安定目標」を実現するために必要な調整を行うことは、これまで繰り返し述べてきたとおりです。

デフレの克服は私たちの明白な使命ですが、日本経済が持続的に成長していくためには、民間経済主体の前向きな動きを引き出し、日本経済の成長力を強化していくことが重要です。政府による成長力強化のための施策が着実に実行されていくことを強く期待しています。

次に、金融危機の拡大を防ぐ仕組みについてお話しさせていただきたいと思います。

3.金融危機の拡大を防ぐ仕組み

金融システムの安定と中央銀行の役割

一国の経済が、物価安定のもとでの持続的成長を達成するには、安定した金融システムのもとで円滑な金融仲介機能が発揮されることが前提です。金融システムの安定は、金融政策の有効性を確保するためにも必要です。これは、金融政策が公開市場操作など金融機関を相手方とする手段によって実施される点で、金融システムが政策効果の主要な伝搬チャネルとなっているためです。

日本銀行法では、金融システムの安定に貢献することは、物価の安定と並ぶ日本銀行の目的と定められています。こうしたもとで、日本銀行は、考査やモニタリングを通じ、金融機関の経営実態の把握に努めています。加えて、その過程で得られた個別金融機関の情報も活かしつつ、マクロ・プルーデンスの視点から、信用量やレバレッジの過度の増大、資産価格の過度の上昇といった金融不均衡が広範に蓄積されていないか、金融システム全体の情勢も点検しています2 。金融不均衡の点検は、現在のわが国の金融政策の枠組みのもとで、重要なポイントのひとつとなっています。

  1.   2  例えば、日本銀行は、わが国金融システムの安定性について包括的な分析・評価を示し、金融システムの安定性確保に向けて関係者とのコミュニケーションを深めることを目的に「金融システムレポート」を年2回作成・公表している。

日本の経験を振り返って

今述べたミクロ、マクロの視点からの金融システム安定確保のための取り組みは、危機の火種を早期に察知し、その顕在化を未然に防ごうとするものです。しかし、そうした努力にもかかわらず、危機の発生確率をゼロにすることはできません。このため、危機が現実化した場合に備え、被害の拡大を可能な限り食い止める、実効性ある仕組みが不可欠です。この点に関し、1990年代以降の日本の経験は示唆に富みます。不幸にして不良債権問題が、約180の預金取扱金融機関の破綻を伴う大規模な金融危機へと拡大することを回避できなかった事例だからです。後知恵となってしまう点は否めませんが、当時、迅速な対応を妨げた主な要因は、次の3点だと思います。これらは、今後、各国が金融危機の発生・拡大を抑える仕組みを構築していく上で、有益な視座を提供するものと考えています。

(1)金融当局による事態の認識の遅れ

第一に、私たちも含め金融当局による事態の認識が遅れた点です。1992年、政府が公表した不良債権の規模は主要行21行合計で8兆円でした。当時、金融システムへの影響については深刻なものとして捉えられていなかった形跡があります。例えば、1992年版の経済白書では、「銀行全体の資産と比較すると、延滞債権は貸出総額351兆円の一部であり、銀行資産に占める割合は小さいこと、さらに、有価証券の含み益は17兆円程度に達することなどから、不良債権の問題が銀行経営にとって危機的な問題ではないことがわかる」とされています。その後10年以上にわたる銀行部門の損失が累計で約100兆円と、対GDP比で20%程度に及んだ現実との間に、大きな乖離が生じる結果となったのです(図表5)。もっとも、こうした例は日本に限りません。先般の金融危機の端緒となった、米国のサブプライム住宅ローン問題に伴う損失について、米国当局は当初500〜1,000億ドル程度としていましたが、数千億ドルに膨らむ結果となりました。危機の渦中では、当局は希望的観測に陥りがちですが、最悪を想定し最善を尽くすべき、という点を改めて肝に銘じる必要があると思います。

認識が遅れた点は、不良債権がマクロ経済に及ぼす影響の深刻さについても当てはまります。バブル崩壊後、不動産価格の下落が個別金融機関の経営に与える影響の大きさについては認識されていましたが、そのことが持つマクロ経済的な意味、すなわち、金融仲介機能が棄損する結果、金融環境がタイト化し、実体経済に対する下押し圧力が働く作用―現在使われている表現を用いれば、「金融システムと実体経済の間の負の相乗作用」―が如何に強力であるか、という点については、認識が不足していたと言わざるを得ません。

(2)システミック・リスクの本質に関する認識不足

第二に、システミック・リスクの本質に関する認識が不足していたという点です。1990年代の日本の金融危機は、1994年12月、東京都に所在した2つの信用組合の破綻処理で本格化しました。当時、幅広い金融機関が不良債権問題を抱えていたため、規模が小さいとはいえ、「あの信用組合がダメなら他の金融機関も危ない」と、連想が連想を呼ぶ形で金融システム全体が混乱に陥るおそれがあったのです。また、1997年11月―僅か1か月で大手を含む4つの銀行・証券が破綻したため、「魔の11月」と呼んでいますが―には、中堅証券会社の一角、三洋証券が破綻しました。その際、同社はインターバンク市場の中核であるコール市場で返済不能になりました。非預金取扱金融機関のこの証券会社が支払い不能になった金額は僅か約83億円と市場規模に比べれば僅少でしたが、コール市場で初のデフォルトとなったため、これが市場参加者に与えた衝撃は大きく、市場参加者の誰もが「お金を貸した相手がいつ破綻するかわからない」と疑心暗鬼に陥りました。この結果、コール市場は急速に収縮し、市場仲介機能が失われることになったのです。

このように、当時認識不足であった点は、金融システム全体の脆弱性が増しているときには、小さな金融機関や非預金取扱金融機関の破綻であっても、伝染的に動揺を引き起こすメカニズムの恐ろしさではなかったかと思います。

(3)有効なセーフティー・ネットの未整備

三点目は、有効なセーフティー・ネットが未整備であったという点です。金融機関の円滑な破綻処理には、本来であれば、モラルハザードの抑制とシステミック・リスクの回避を両立し得る、バランスのとれた、実効性ある枠組みを平時から備えておくことが望ましかったのですが、現実には、こうした枠組み作りは危機の後追いとなり、問題金融機関の処理の遅れや危機拡大を助長する悪循環を招く結果となりました。

1990年代の日本の金融危機では、預金の取り付けを防ぐ観点から、預金者の損失回避を前提とした政策対応が採られましたが、その際、破綻金融機関の自己資本で不足する部分は、当初、預金保険機構の資金援助で穴埋めする扱いでした。ただし、その金額は、預金保険の保護範囲に限られたため、これを上回るケースでは、民間金融機関からの資金協力を仰ぐ、後に「奉加帳」と呼ばれる方法に頼らざるを得ませんでした。しかし、この奉加帳方式も、破綻処理額の拡大に伴い、限界を迎えます。これを受けて、法改正により同機構の資金援助の上限が撤廃されましたが、その原資は預金保険料であり、民間負担という点で奉加帳方式と変わりませんでした。金融システムが脆弱なもとでは、民間負担にも自ずと限界があったということです。換言すれば、公的資金投入が不可避なところまで事態は深刻化していたのにもかかわらず、政治的な難しさがそれを阻んでいたのです。実際、公的資金投入を巡る議論の封印3が解かれることになったのは、1997年の「魔の11月」を迎え、誰の目にも危機の存在が明らかになってからでした4。しかし、危機の進行・拡大と並行してセーフティー・ネットの構築を余儀なくされたことは、苦難に満ちたものとならざるを得ませんでした。危機が去りつつあることを実感できたのは、「魔の11月」から、実に6年にわたる歳月が流れていた2003年5月以降5のことでした。

  1.   3  金融機関に対する公的資金投入を巡る日本における議論は、1995年に金融機関の住宅金融専門子会社の処理に税金(6,850億円)が投入された問題―いわゆる住専問題―を機に、政治的に封印された経緯がある。
  2.   4  当時の公的資金投入の代表的な例としては、1998年3月に旧金融安定化法に基づき大手行21行に対して1.8兆円が投入されたものと、1999年3月に早期健全化法に基づき大手行15行に対して7.5兆円が投入されたものがあげられる。
  3.   5  2003年5月、改正預金保険法102条に基づき、りそな銀行に公的資金が注入され、これを契機に、長期低迷を続けていた株価が徐々に上昇に転じていった。

危機への対処の中で進化した日本のセーフティー・ネット

当時、政策当局者として危機の最前線に身を置いた者としては、公的資金投入がもう少し早く行われていたら、どれだけ違う展開になっていただろうか、と思いを巡らすことがあります。しかし、同時に、わが国金融システムのセーフティー・ネットは、現実の危機への対処の中で累次の進化を遂げてきた結果、盤石なものになったとも評価できると思います。

すなわち、現在の日本のセーフティー・ネットは、業態ごとに、預金保険制度などの投資家保護の仕組みが整備されているほか、預金取扱金融機関については、システミック・リスクへの対応として、一時国有化を含む資本増強が可能となっています。また、昨年の法改正によって、預金取扱金融機関に加え、証券会社や保険会社などを起点とする、市場伝播型のシステミック・リスクに対応する枠組みも整備されました。このように、日本のセーフティー・ネットは、幅広い金融機関を対象にした包括的なものとなっており、これまでの金融危機対応策の集大成と言えると思います。その意味で、諸外国にとっても参考になる点が多いと思います。もちろん、日本の制度が、そのまま、どの国にも当てはまるわけではありません。普遍的な要素は活かしつつ、金融制度、法体系など、各国の実情に適合したものとすることが望ましいことは言うまでもありません。

4.中央銀行のLLR

LLRの守備範囲とセーフティー・ネット

金融危機への対処においては、中央銀行の「最後の貸し手」(「Lender of Last Resort」)機能―システミック・リスクの顕在化を回避するため、中央銀行が、一時的に資金が不足した金融機関に資金供給を行う―も重要な役割を果たしました。日本銀行は、この機能、いわゆる「特融」を実施するにあたり、満たされるべき4原則を有しています。具体的には、第一にシステミック・リスクのおそれがあること、第二に日本銀行の資金供与が不可欠なこと、第三にモラルハザードを抑制する観点から関係者が責任をとること、第四に日本銀行の財務の健全性が損なわれないこと、です。

このうち、第四の原則は特に難しい問題を孕んでいます。三洋証券などの破綻事例でみられたように、金融危機では多くの場合、流動性不足という形で問題が表面化していますが、その背後には資本不足、すなわち、ソルベンシーの問題が存在するのが一般的です。悩ましいのは、危機の初期段階では、流動性とソルベンシーの問題を峻別することが極めて困難だということです。伝統的には、「最後の貸し手」機能は、支払い能力はあるが一時的な流動性不足に直面した銀行に限って発揮されるべきとされてきましたが、実際には容易なことではありません。「最後の貸し手」としての中央銀行に損失が生じるリスクがあるのは、このためです。万が一、回収不能となれば、中央銀行の財務基盤が劣化し、これにより信認が損なわれる結果、政策の有効性に対する疑念が生じる可能性があります。中央銀行の損失は、国庫納付金の減少という形で納税者負担に繋がる可能性も生じます。

今述べた点は、公的資金投入の枠組みなど、セーフティー・ネットが未整備なもとでは、より深刻な問題を惹起します。中央銀行にとって、損失可能性があるにもかかわらず、危機回避のために、敢えてリスクを取って「最後の貸し手」機能を発揮すべきか、という決断を迫られるためです。実際、わが国の1990年代の金融危機では、証券会社発のシステミック・リスクに対応する仕組みや預金取扱金融機関の資本不足に対応する枠組みが存在しない状況のもとで、日本銀行が金融システムの安定を図るために実施した特融に関して、2,000億円を超える損失が生じるという大きな痛みを伴う結果となりました。

現在は、先に述べたとおり、包括的なセーフティー・ネットのもとで、預金保険機構による資金供与という公的資金投入の枠組みが大幅に強化されています。これに伴い、日本銀行の役割も、預金保険機構向けバックファイナンスなど、1990年代と比べ大きく縮小しています。今後は、新たな枠組みのもとで、危機発生時に迅速な対応が図られるよう、関係者間の連携強化が重要であると考えています。

LLRの新たな側面

(1)最後のマーケット・メーカー:Market Maker of Last Resort

中央銀行の「最後の貸し手」機能は、新たな局面を迎えていると思います。すなわち、先般のグローバルな金融危機では、金融資本市場の深化を背景に、システミック・リスクが資金流動性と市場流動性の相乗的収縮によって拡大することが明らかとなりました。2007年夏の金融市場の混乱以降、市場参加者の間でカウンターパーティ・リスクへの懸念が高まり、これを背景に市場機能が低下しました。これへの対応として、中央銀行は、公開市場操作により市場全体に資金を供給することで、機能回復に乗り出しました。特に、2008年9月のリーマンブラザーズ社の破綻後において、FRBはCPの発行体やABS保有者への資金の貸出を行いました。日本銀行も危機の直撃を受けた大企業の資金調達手段であるCPや社債の市場流動性の急激な低下に対処するためにCPやABCP、社債の買入れを行うなど、踏み込んだ措置を講じました。近年では、欧州債務問題を背景にユーロエリアにおいて深刻化した金融市場の分断に対し、ECBは市場機能の修復を企図して3年物LTROs(Longer-term Refinancing Operations)による無制限の資金供給を実施しました。これらは、市場の仲介機能を代替するものであるため、中央銀行の「最後の貸し手」機能は、「最後のマーケット・メーカー:Market Maker of Last Resort」の機能を包摂する姿に発展していったと言えます。

(2)最後のグローバルな貸し手:Global Lender of Last Resort

先般のグローバルな金融危機では、システミック・リスクが危機の発生した一国の市場を超えて国際的な拡がりを持つことも明らかとなりました。経済のグローバル化が進む中、金融機関の資金仲介業務が外貨建てにも拡大してきたことは、金融機関が外貨の流動性不足に直面した場合、母国の中央銀行単独では、流動性危機を防ぐことが難しくなることを意味します。また、母国の中央銀行による外貨の流動性の供給自体、規模や時差、その他の実務面の制約から、円滑に行われるとは限りません。先般の金融危機では、ドル資金の仲介業務を積極化させていた欧州系金融機関を中心に、ドル資金の流動性不足が深刻化したため、2007年末、ECBとスイス国民銀行は、FRBとドル資金に関するスワップ契約を結び、管下の金融機関にドル資金を供給することとしました。リーマンブラザーズ社の破綻後には、邦銀など他の主要国の大手銀行もドル資金の仲介業務を拡大させていたことを踏まえ、このスワップ契約に日本銀行、イングランド銀行およびカナダ銀行が加わりました。さらに、欧州ソブリン問題を契機にこのスワップ契約は、2011年、円を含めたドル以外の主要通貨も対象にした多角的スワップ網に強化されました6(図表6)。本措置は、現在恒久化されるに至っています。こうした中央銀行間の協力による外貨資金の供給は、「最後のグローバルな貸し手:Global Lender of Last Resort」機能と呼ぶことができます。

以上のように、中央銀行の「最後の貸し手」機能の本質的な部分は、今も昔も変わりませんが、具体的な発動のあり様は、新たな側面も加わり、変容してきています。中央銀行は、国境を超えて緊密な連携を図りつつ、危機への耐性を不断に強化していく努力が求められていると言えます。

  1.   6  日本銀行のほか、FRB、ECB、イングランド銀行、カナダ銀行、スイス国民銀行の6行が参加。なお、これまでのところ、ドル以外の通貨供給にかかるスワップの利用実績はない。

5.おわりに

日本の経験は、金融システムの安定が一旦損なわれると、実体経済との間で負の相乗作用が作動を始めること、そしてそれがゆえに、金融危機の予防および金融危機の管理のための手段を予め整備しておく必要がある、という教訓を残しました。本日、私は主として金融危機の管理についてお話ししましたが、金融規制やマクロ・プルーデンス政策といった金融危機の予防のための手段も同様に重要であるということも強調しておきたいと思います。また、近年の金融危機への対応を通じて、私たちは、中央銀行の「最後の貸し手」機能が、グローバル化に潜む種々の課題に対応していくため、常に洗練し続けなければならない重要なツールであることも認識しました。

20年という年月は、1000年以上の歴史があり、無数の歴史的イベントの舞台となった京都のような都市にとってみればほんの一瞬なのかもしれません。しかし、波乱に富んだこの20年間は、金融経済史に長く記憶されることになると思います。この間、私たちは、様々なことを学び、少しは賢くなったのかもしれませんが、まだまだ探求を深めるべき課題も多く残されています。

私たちは、過ぎたこの20年を取り戻すことはできません。しかし、私たちは、この間に得た知見を、日本経済の持続的成長経路への回帰という自らの使命や、日本および他国における金融システムの安定を支える実効的なセーフティー・ネットの構築に活かしていくことはできます。そうすることによって、私たちは、ようやく「失われた20年」の呪縛から解放され、全てを失ったわけではなかった、と少しばかりの安堵を交えて言えるのかもしれません。