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【講演】デフレーション、労働市場、量的・質的金融緩和

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カンザスシティ連邦準備銀行主催シンポジウム(米国ワイオミング州ジャクソンホール)における講演の抄訳

日本銀行総裁 黒田 東彦
2014年8月23日

目次

はじめに

本日は、伝統あるカンザスシティ連銀主催のシンポジウムにご招待いただき、誠に光栄に存じます。

今回のシンポジウムの重要なテーマのひとつは、リーマン・ショックやそこからの回復過程において、各国の労働市場が、循環的に、また構造的にどのような影響を受けたかということだったと思います。このテーマに関して日本の経験をお話する場合、リーマン・ショックよりはるか以前までさかのぼる必要があります。日本は、四半世紀前の90年代初に資産バブルの崩壊を経験し、企業と金融機関の大規模なバランスシート調整を余儀なくされました。さらに、90年代後半からは15年にわたってデフレに苦しみました。しかも、その間、世界に先駆けて急速な少子高齢化がトレンドとして進行していました。これらが日本の労働市場にどのような影響を与えたか、そして、日本はそこからどうやって脱却しつつあり、どのような方向に進もうとしているのか、お話したいと思います。

1.デフレ下の労働市場

現在、日本の完全失業率は3.7%で、3%台半ばと推計されている構造的失業率とほぼ同じ水準にあります(図表1)。また、「隠れた失業者」とも呼ぶべき求職意欲喪失者(discouraged worker)も減少しています。日本銀行による企業サーベイでは、雇用者数の不足を訴える企業の数が過剰に悩む企業の数を上回っており(図表2)、一部の業種では労働者不足が事業展開の制約要因になっています。失業が解決すべき課題である欧米とは大きく異なる状況です。

しかし私は、わが国の労働市場には憂慮すべき問題がないと申し上げられるほど楽観的ではありません。日本の労働市場は、先に述べたバランスシート調整と長期にわたるデフレがもたらした影響から脱する途上にあり、今なお解決すべき重要な課題が残存しています。以下では、まず、長引くデフレがもたらした労働市場の変質とマクロ経済的帰結について、日本の経験をお話したいと思います。

2000年代、デフレ圧力が強まる中、企業の販売価格が低迷しました。売り上げが伸びない以上、収益を確保するための主たる手段は、人件費をはじめとする経費の削減になりました。人件費の抑制は、まず、雇用の非正規化という形で行われました。雇用者に占めるパート労働者の比率は、90年代初の資産バブルの崩壊以来一貫して上昇してきましたが、2000年以降もその上昇ペースは衰えませんでした(図表3)。また、人件費の抑制は、賃金の抑制という形でも行われました。非正規雇用の賃金は、スポット的に決まる面が大きく、需給を反映して上下してきました。対照的に、正規雇用の賃金は、長期的な暗黙の契約に基づいて決まる面が大きく、デフレの長期化や厳しい雇用環境が、労働者を益々不利な立場に追い込んでいきました。経営者側からの賃下げ要請に対し、労働者側は、現在の仕事を失うよりは賃下げを受け入れるという状況が続きました。要すれば、日本では、欧米のように失業率が大きく高まることはありませんでしたが、その分、賃金が大きく低下しました。90年代の終わり頃までは、時間当たり給与が消費者物価の伸び率を上回っていましたが、その後は、物価上昇率と同じか、むしろそれを下回って推移しています(図表4)。マクロ的にみると、わが国の労働分配率は、2000年代に低下し、リーマン・ショック前後に上下に変動していますが、平均的にみれば90年代の水準を下回っています(図表5)。

さらに、デフレは企業の投資行動にも大きな影響を及ぼしました。デフレ見通しは、投資収益の割引現在価値を引き下げ、企業の投資意欲を低下させました。また、将来の損失に備えてキャッシュを積み上げるという企業行動を助長しました。これらの結果、本来投資主体であるはずの企業を貯蓄主体に変質させ、現在もその状態が続いています(図表6)。わが国の企業は、資産バブルの崩壊後、過剰債務を削減すべく、貯蓄を推進してきましたが、過剰債務が解消した2000年代以降も、こうした動きが続いています。とりわけ近年は、企業の貯蓄超幅が家計の貯蓄超幅を超えるまでに拡大しています。

こうした企業の貯蓄主体への変質は、「節約のパラドックス」を通じて、経済を縮小均衡に陥らせます。企業が、賃金抑制によって得た利潤を内部資金として蓄積し、投資に回さなければ、総需要は縮小します。総需要の減少は、企業収益を圧縮するため、企業は再び賃金を抑制する必要に迫られます。これは典型的な「合成の誤謬」です。こうした賃金の低下と総需要の減少の悪循環という現象は、当初は資産バブル崩壊に伴うバランスシート調整が引き起こしたものでしたが、デフレマインドの蔓延によって長期間固定してしまいました。

2.「量的・質的金融緩和」と労働市場

次に、日本がこの状態からどうやって抜け出しつつあるのかについて、お話します。経済の不確実性と将来に対する不安が、賃金を抑制してきた原因であるならば、賃金の引き上げを実現するためには、将来に対する明るい展望を経営者と労働者が共有することが必要です。したがって、処方箋の第1は、デフレの下で停滞を続けていた日本経済を、緩やかなインフレの下で持続的な成長が実現する経済へと変貌させることです。この点、昨年のこのシンポジウムで詳しく説明した日本銀行の「量的・質的金融緩和」は、その後も、所期の効果を発揮しています。その結果、労働市場にも、明るい日が差しつつあることは先に申し上げた通りです。

しかし、その内容を仔細にみると、デフレ下で変質した労働市場からなお脱し切れたとはいえません。例えば、パート依存への傾向は変わっていません。実際、近年の労働者数の増加は、主としてパート労働者の増加によるものです(図表7)。一般に、景気回復の初期には、パート労働などの限界的な労働力に対する需要が増加する傾向があります。また、今回の景気回復局面が、もともと製造業に比べてパート比率が高い非製造業中心であることや、経済のサービス化の流れが進んでいることが、パートに対する労働需要を増加させる要因になっています。もっとも、ごく最近の動きではありますが、フルタイムの労働者の増加率が上昇しているのは良い兆候です。パート労働者という流動的な労働力の需要が増加する局面を超えて、固定的な労働力に対する需要が増加し始めたことは、企業の成長見通しが改善し始めたことを示唆しています。今後そうした期待を裏付けるべく経済成長が持続すれば、フルタイムの労働者の増加も本格化していくと期待されます。

より厄介な問題は、デフレが長引く下で賃金決定の慣行が変質したことです。もともと終身雇用の割合が高く、労働移動が少ない日本では、労働需給がすぐには正規の労働者の賃金に反映されにくい傾向があります。こうしたもとで賃金を引き上げるには、何らかの仕組み、つまり「見える手」のサポートが必要です。この点、デフレ期以前には、春に主要な企業が一斉に労使交渉を行う「春闘」が、賃上げのフレームワークとしての役割を果たしてきました。しかし、デフレが長期化する中で、そうしたメカニズムが機能しにくくなりました。すなわち、企業にとっては販売価格が伸びない中でのコスト削減のために賃金の引き下げが必要でしたし、また、労働者にとっては、雇用の保障と引き換えに、それを受け入れることに一定の合理性があったためです。ここ10年ほどの間、春闘によってベースとなる賃金水準を引き上げるという慣行(ベースアップと呼ばれています)は、ほとんど実践されませんでした。

今年の春、政府からの賃上げ要請もあって、久しぶりのベースアップや賞与の引き上げが、大企業のみならず中小企業においても実現しました。今後とも賃金が適正なペースで上昇していくためには、賃金を引き上げるための協調メカニズムを構築することが必要です。日本銀行の物価安定の目標は、そうしたメカニズムの中で、企業が賃金を決定する際のメルクマールとなり得るものです。日本銀行が予想物価上昇率をしっかりと2%にアンカーすることによって、労使がそのことを前提に交渉を行うことが可能になり、また、それによって、企業や家計は、2%の予想物価上昇率を前提として、しっかりと行動計画を立てることができるようになります。このように、適切な賃金決定メカニズムを構築することは、予想物価上昇率を2%にアンカーするためにも必要です。

おわりに

以上、日本の労働市場に関してバランスシート調整とデフレの影響についてお話しましたが、まだお話していないテーマがひとつ残っています。少子高齢化という労働供給面の問題です。日本の労働力率は、少子高齢化を反映して趨勢的に低下しており、今後、深刻な労働力不足が発生することが予測されます。この問題は、人口構成という最も予測しやすい要因に起因するものであり、早くから認識されていました。しかし、労働需要が低迷し、人手不足という形で顕在化していなかったため、本格的な対応が採られぬまま今日を迎えてしまいました。幸い、今回の景気回復局面では、女性・高齢者を中心に労働力率が上昇しています(図表8)。これを循環的な現象にとどめず、女性や高齢者が働きやすい環境を整え、長期的に労働力不足を補っていくことが是非とも必要です。また、外国人材の活用についても検討する価値は大きいと思います。さらに、省労働力的な設備投資やそのための研究開発に力を入れることも、将来の労働力不足を軽減することにつながります。これらの点は、いずれも政府の成長戦略で意識されています。遅ればせながら、これが着実に実行されれば、日本経済は、本来の活力を取り戻し、持続的な成長を達成することができると考えています。

以上、日本の労働市場について、バランスシート調整、デフレーション、少子高齢化の影響を中心にお話しました。日本特有の問題もありますが、各国が現在取り組んでいる、あるいは将来取り組むかもしれない課題に対して、何らかのインプリケーションを持ち得るようにも思います。日本の経験が、皆さんの参考になれば、幸いです。

ご清聴ありがとうございました。